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2009-11-30

鷲田清一


 1冊読了。


 130冊目『悲鳴をあげる身体鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)/課題図書3冊目。限られたスペースでありながらも様々な情報を網羅しており、それが一種のスピード感とキレを生んでいる。これぞ新書の醍醐味。自傷行為や飲食、はたまたファッションや感覚器官といったテーマから切り込んでいる。鷲田は身体から「ゆるみ」と「すきま」がなくなりつつあることに警鐘を鳴らす。書誌情報も豊富で読書案内としても秀逸な作品だ。本書を読むと、仏教で説かれる「五陰」(ごおん)がよく理解できるようになる。

あなたは「過去のコピー」にすぎない/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ


 彼は一瞬私を優しく見つめ、それから言った。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです。例えば羨望や怒りなどのどんな感情も、過去の結果なのです。羨望について、それを抑圧したり、それを何かあるいは何らかの行為にしようとするなど、あなたが何をしようと、それもまた過去の結果なのです。そのように、あなたはたんに経験の輪のなかを動いているだけなのです」


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 肺の中が空っぽになるほどのため息が出たよ(ウソ)。気持ちとしては肺の粘膜も吐き出したいくらいだ。いや、いっそのこと肺を吐いても構わない。


「経験の輪のなかを動いているだけなのです」――つまり我々は「学習済みの反応」を繰り返しているだけに過ぎないという指摘だ。考えてみよう。我々は物心ついた時から、躾(しつけ)と称して「こうしなさい」「ああしなさい」と矯正されながら育てられた。続いて学校教育では学力を中心にしてランク分けされ、「あるべき姿」を叩き込まれた。そして完全に協力・協調・共同といった価値観に支配された。まるで横一列の手つなぎ鬼だ。あるいは、日本列島のはじからはじまで続く金太郎飴。


 このように歴史や社会からは目に見えない万力のような力があちこちに働いている。これをクリシュナムルティは「条件づけ」と名づけた。例えば「理想を持つことは正しい」と万人が思っている。ところがクリシュナムルティは理想を否定する。なぜなら、何かに「なろう」とすること自体が、現在の否定であり、なろうとしている「何か」は既に「条件づけ」された価値観であるからだ。そして、その「何か」が型となって再び社会の条件づけを強化する結果になる。


 このようにして我々は無意識のうちに「社会的成功」を望む生き方を強いられているのだ。地位・財産・名誉――これ以外の幸福を見出すことは難しい。我々は他人に頭を下げることの多い人生から一発逆転を狙っている。他人に頭を下げさせることこそ人生の目的なのだ。


「フン、金さえあれば幸せだと思っているのか?」などと言いながら、我々はいつでも金のためにあくせくと働いている。なぜなら、「働くことは正しい」ことだし、「労働は社会貢献」であるからだ。誰一人、疑問を持たない。不変の金科玉条だ。


 でも本当はそうじゃないかもしれない。そんなことすら、我々は確認しようともしない。確かに分業制にした方が効率はいい。だが、働いた分の対価を我々は受け取っているのだろうか? 所得税と住民税以外の税金をどれだけ支払っているか我々は知らないのだ。いくら稼いで、いくら搾取されているのかもわからないのだから、怒りようもない。


 君の人生に感動はあるか? ひょっとしてテレビの前でしか泣いたり笑ったり出来なくなってやしないか? 決まりきった日常、決まりきった人生、決まりきった自分……。これこそ「過去の経験のコピー」であろう。我々は「現在」を生きることができなくなっているのだ。クリシュナムルティは「反逆せよ!」と静かに語っている。

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

ウォルター・リップマンの策略

 その代表が、アメリカ報道界の長老で、内政と外交政策の評論家にして自由民主主義の理論家でもあった、ウォルター・リップマンである。リップマンのエッセイ集を開いてみれば、あちこちに「自由民主主義思想の進歩的理論」というような副題が見つかることだろう。

 実際、リップマンはそうした組織的宣伝を進める委員会にもかかわっており、その効果を充分に認識していた。「民主主義の革命的技法」を使えば「合意のでっちあげ」ができる、と彼は主張した。すなわち、新しい宣伝技術を駆使すれば、人びとが本来望んでいなかったことについても同意を取りつけられるというわけだ。

 彼はこれをよい考えだと思ったし、必要だとさえ思っていた。なぜならば「公益に関することが世論から抜け落ちている」ように、公益を理解して実現できるのは、それだけの知性をもった「責任感」のある「特別な人間たち」だけだと考えていたからである。

 この理論からすると、万人のためになる公益は少数のエリート、ちょうどデューイ派が言っていたような知識階層だけにしか理解できず、「一般市民にはわからない」ということになる。こうした考え方は何百年も前からあった。

 たとえば、これは典型的なレーニン主義者の見方でもあった。革命をめざす知識人が大衆の参加する革命を利用して国家権力を握り、しかるのちに愚かな大衆を、知性も力もない彼らには想像もつかない未来へ、連れていくのだとするレーニン主義者の考えと、これはそっくりではないか。自由民主主義とマルクス・レーニン主義は、そのイデオロギーの前提だけをとってみると非常に近いのだ。私の思うに、それが一つの理由で人びとは自由民主主義からレーニン主義、あるいはその逆へと、自分では転向したという意識もなしにあっさりと立場を変えてしまえるのだろう。単に、権力がどこにあるかの違いだけだからだ。


【『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー/鈴木主税〈すずき・ちから〉訳(集英社新書、2003年)】

メディア・コントロール―正義なき民主主義と国際社会 (集英社新書)