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2009-12-31

あなたは人類全体に対して責任がある/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ


 世界各地を飛び回るクリシュナムルティが、インド・アメリカ・イギリスの各学校に宛てて書いたメッセージが収められている。1978年9月から1980年3月分。いずれも簡にして要を得た文章で、クリシュナムルティの思想を理解しやすいものにしている。いつもの挑発的でトリッキーな言葉も少ない。


 偉大なる人々は皆「人類の教師」であろう。それはただ単に知識を教え授けるものではなく、人類を自由の方向へと指し導く人間性に裏打ちされている。言葉だけでは足りない。言葉に吹き込まれた何か、そして言葉にはならない何かがシンボルとしての言葉に仮託されて、人々の心を揺さぶるのだ。


 クリシュナムルティは学校関係者に対して「責任」の意味を問い掛ける――


〈責任〉という言葉は、その言葉のすべての意味において、理解されなければなりません。〈責任 responsibirity〉という言葉は、〈応答する respond〉から来ていますが、〈応答〉というのは部分的な応答ではなく、全体的な応答です。その言葉はまた、その背後への注目、つまりあなたのバックグラウンドに対する応答を含んでいます。それはあなたの条件づけにまで戻って注意を向けることです。

 次第に理解されると思いますが、〈責任〉は人間の条件づけに対する行為です。それが自国のものであろうと外国のものであろうと、人間の文化、および人間がそこで生活する社会は、自然に精神を条件づけます。このバックグラウンドから、人は応答します。そしてこの応答は、私たちの責任を限定します。

 もしその人がインドやヨーロッパやアメリカで、あるいはその他の場所で生まれたのであれば、彼の応答は宗教的迷信――どんな宗教も迷信的な構造をしています――、ナショナリズム、科学的理論などに従ったものになるでしょう。それらは人の応答を条件づけます。応答はいつも限定され、限界をもっています。したがって、いつも矛盾や葛藤や混乱があるのです。これは避けられないことであり、人類のあいだに分裂をもたらします。どんなかたちであっても、分裂は葛藤と暴力ばかりでなく、最後には戦争をもたらすに違いありません。

〈責任がある〉という言葉の実際の意味と、世界で今日起こっていることを理解すれば、「〈責任〉は〈無責任〉になってしまった」ということが分かるでしょう。「なにが無責任であるか」を理解することで、私たちは「なにが責任であるか」を把握し始めるでしょう。責任は、その言葉が意味するように〈全体に対する責任〉であり、自分自身、自分の家族、いくつかの概念、あるいは信念に対する責任なのではありません。〈人類全体に対する責任〉です。

(15th November 1978)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)以下同】


 条件づけは、責任を限りなく義務に近づけようとする。周囲から責任を問われる時、責任は既に義務と化している。「責任を果たせ」という言葉は「義務の履行」と何ら変わりがない。古代ギリシアのポリスにおいて、シチズン(市民)とは政治参加の投票する権利と、共同体に対する防衛の義務を負っていた。義務は責任であり、責任は義務である。


 責任は「責めを任(まか)す」ことであるから、何らかの関係性の中で発生するものだ。家族やクラスメート、会社や国家など、何らかの集団・組織・民族性が関係性である。しかし実は、その関係性とは「私を巡る関係性」にしか過ぎない。つまり我々が口にする責任とは、常に部分的責任であることを免れない。だから、「〈責任〉は〈無責任〉になってしまった」のだ。


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 続いてクリシュナムルティは真の責任を説く――


 私たちのさまざまな文化は、個人主義と呼ばれる個人の分離性を強調してきました。個人主義は、それぞれの人が自分の欲するように振る舞う結果になっています。また、彼の才能が社会にとってどれほど有益で役立つものであるにしても、その人自身の特定の小さな才能に縛られる結果になっています。このことは、全体主義者たちが人々に信じさせたがっていること、つまり、「ただ国家と国家を代表する権威者だけが重要であり、人類は重要ではないのだ」というようなことを、意味しているわけではありません。国家というのは概念です。しかし国家のなかに住んでいる人間は、概念ではありません。恐怖は現実であり、概念ではありません。

 ひとりの人間は、心理的には〈人類全体〉です。彼は人類全体を代表しているばかりではなく、ヒトという種の全体なのです。彼は本質的に、人類の全精神です。この現実に対して、さまざまな文化は、「人間はそれぞれ別々である」という迷妄を押しつけてきました。人類は何世紀ものあいだこの迷妄にとらわれて、ついにこの迷妄が事実になってしまいました。もし人が、自分の心理的構造の全体を綿密に観察するならば、「自分が苦しむときには、全人類もさまざまな程度に苦しむのだ」ということが分かるでしょう。もしあなたが孤独であるなら、全人類はその孤独を知っています。苦悶、嫉妬、羨望、恐怖などは、みんなにも分かっています。ですから心理的、内面的には、人間は他の人間と同じなのです。

 肉体的、生物学的な違いはあるでしょう。ある人は背が高く、ある人は背が低いなどということはあるでしょう。ですが基本的にひとりの人間は、全人類の代表です。したがって心理的には、「あなたは世界」なのです。あなたは全人類に対して責任があるのであって、〈ひとりの分離した人間としてのあなた自身〉に対してではありません。分離した人間というのは、心理的な迷妄です。ヒトという種全体の代表として、あなたの応答は全体であり、部分的ではありません。

 それゆえ責任は、まったく異なった意味をもっているのです。人間は、この責任の〈術〉(アート)を学ばなければなりません。「心理的には、人は世界である」ということの完全な意義をつかむならば、責任は〈抗しがたい愛〉になります。そうすれば人は、単に幼少期の子どもを世話するばかりでなく、「その子は彼の一生を通じて、責任の意義を理解するのだ」ということが分かるでしょう。この術には行動、その人の考え方、正しい行為の重要性が含まれています。私たちの学校では、地球や自然やお互いに対する責任ということも、教育の本質的部分です。学問的な教科は必要ではありますが、単にそれらを強調するだけではありません。


 世界はあなたであり、あなたは世界であった。そしてあなたは私であり、私はあなたであった。マジっすか? 大マジだ。だからこそ我々はコミュニケーションが可能となるのだ。完全に分離していれば、水と油のように交わることはできない。


「でも、どうしても好きになれない人っているじゃないッスか?」

 確かに。

「どうすりゃ、いいんですかね?」

 ウーム、困ったものだ。

「あなたにだって嫌いな人はいるでしょ?」

 大半の人間は嫌いだよ。

「でも、クリシュナムルティの旦那は笹川良一みたいなことを言ってますぜ」

 いや、笹川よりも過激だよな。

「何だか頭が痛くなってきました……」

 我々にはどうして嫌いな人がいるのだろう?

「そりゃあ簡単なこって。人の道に外れてやがるからでさあ」

 では、人の道とは何を意味しているのだろう?

「ま、人様に迷惑を掛けないってことでしょうな」

 人様にはお前さんも含まれているのかえ?

「そいつあ、もちろんでさあ」

 でも、実は人様を語りながら、そこには自分しかいなかったりするもんだよな?

「そう言われると……」

 つまり、お前さんが気に入らないだけかも知れないよな?

「……」

 で、よくよく考えると、人の道ってやつも、せいぜい親や近所の連中から教えられたことに過ぎないんじゃないのか?

「そう言われちまうと、言葉もござんせん」

 結局、人の道とはお前さんが育ってきた狭い世界の論理に過ぎないってこったよ。

「はあ……」

 だから、お前さんやあたしが人を嫌うのは、あたし達の条件づけの為せるわざってことになるわな。


 私が誰かを嫌い、憎む時、私は世界を分断する。世界を分け隔てているのは、私の反応なのだ。私は私が教わってきたものしか認めることができない。私は私を際立たせることでしか、個性を確立できない。そして私の個性は差異を殊更強調し、調和を否定する。


「自分が苦しむときには、全人類もさまざまな程度に苦しむのだ」――そんな簡単にわかってたまるもんか、ってえんだ。そう私が言う時に世界は断絶の度合いを深めているのだ。私の苦悩は、表情や声色、目の色や態度によって必ず外に向かって現われる。その瞬間、目の前にいる友人には伝わらなくとも、道往く人の誰かが私を理解するのだ。苦しみも悲しみも伝播(でんぱ)する。そして、受け取られた苦しみや悲しみは更に広がってゆく。


 とてもじゃないがにわかには信じ難い話だ。それでも信じるしか道は残されていない。クリシュナムルティの言葉は、私を殴りつけ打擲(ちょうちゃく)してやまない。


「あなたは世界であり、世界はあなたである」――クリシュナムルティのメッセージは、十不二門(じっぷにもん)が“目指すべき境地”などではなく、“知覚すべき現実”であることを教えてくれる。

学校への手紙


D

『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿訳(みすず書房、2009年)


 恋愛モノの自己啓発本を書いている人物と同姓同名のため注意を要する。


わらの犬――地球に君臨する人間


 古代中国の祭祀では、わらの犬を捧げ物にし、祭りが済んで用がなくなると、踏みつけられて捨てられた。「天地自然は非情であって、あらゆるものをわらの犬のようにあつかう」(老子)。人間も、地球の平穏を乱せば容赦なく捨てられるだろう。地球にとって疫病になりはてた人類が滅びれば、この惑星はふたたび生き返る。


 科学技術の進歩によって、人間の不死が実現するという信仰は、先進資本主義国で生き延びた。人間が「進歩」信仰に取りつかれるようになって久しい。しかも「ヒューマニズム」という人間中心の考え方や、「道徳」という人間に特有の価値を、私たちはもやは疑うこともない。

 ジョン・グレイは、現代文明がキリスト教と科学技術の発展とを両輪にして疾駆してきた筋道を、糸をほぐすようにたどる。一神教が誕生して「進歩」や「歴史」の観念が生まれる前は、「時間」の感覚がどのように違ったか。もし私たちが暗に了解する終末論から解放されたら、どんな世界が見えてくるか。

 挑戦的な内容は、刊行と同時に論争を巻き起こし、「賛否を問わず避けて通れない」と評され、『タイムズ』ほか11紙が「今年の一冊」にあげた。未来への方策を真摯に探る衝撃の書である。

2009年に読んだ本ランキング


 昨年に引き続き、2009年に読んだ本ランキングをお届けする。読むに値せぬものは掲載せず。読了したものは140冊で挫折が100冊だから、打率は5割3分3厘となる。昨年1位レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』と、今年巡り会ったクリシュナムルティが私を劇変させた。6歳から本を読み始めたので、まさに「四十にして惑わず」といったところだ。既に天命も知った気分である(笑)。

順位書籍
1位生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ
2位生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
3位あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
4位生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
5位子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
6位学校への手紙』J・クリシュナムルティ
7位私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
8位気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ
9位クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
10位キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン
11位クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス
12位黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
13位物語の哲学野家啓一
14位鳥 デュ・モーリア傑作集ダフネ・デュ・モーリア
15位ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー
16位アラブ、祈りとしての文学』岡真理
17位服従の心理スタンレー・ミルグラム
18位一九八四年ジョージ・オーウェル
19位石原吉郎詩文集石原吉郎
20位汝ふたたび故郷へ帰れず飯嶋和一
21位嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪
22位レイチェル・ウォレスを捜せロバート・B・パーカー(再読)
23位パレスチナ 新版広河隆一
24不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
25位戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
26位人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン
27位エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」河邑厚徳、グループ現代
28位アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出
29位人生の短さについて』セネカ
30位伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』カーティス・フェイス
31位スリーピング・ドールジェフリー・ディーヴァー
32位こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち渡辺一史
33位テロル』ヤスミナ・カドラ
34位喪失』カーリン・アルヴテーゲン
35位山びこ学校無着成恭編(再読)
36位洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて苫米地英人
37位不可触民 もうひとつのインド山際素男
38位マスードの戦い長倉洋海
39位異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ
40位君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
41位あなたに不利な証拠としてローリー・リン・ドラモンド
42位悲鳴をあげる身体鷲田清一(再読)
43位人生論ノート三木清(再読)
44位時宗高橋克彦
45位蹴る群れ木村元彦
46位裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子
47位「パレスチナが見たい」』森沢典子
48位「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー
49位エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル
50位死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
51位脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三
52位無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略岡本浩一
53位ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス
54位マーケットの魔術師 米トップトレーダーが語る成功の秘訣ジャック・D・シュワッガー
55位反転 闇社会の守護神と呼ばれて田中森一
56位くらやみの速さはどれくらいエリザベス・ムーン
57位人間臨終図巻山田風太郎
58位生き方の研究森本哲郎
59位「勝負強い人間」になる52ヶ条 20年間勝ち続けた雀鬼がつかんだ、勝つための哲学桜井章一
60位内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史多田茂治
61位運に選ばれる人 選ばれない人桜井章一
62位実践 生き残りのディーリング 変わりゆく市場に適応するための100のアプローチ矢口新
63位インテリジェンス人生相談 個人編佐藤優
64位インテリジェンス人生相談 社会編佐藤優
65位紙屋克子 看護の心 そして技術/課外授業 ようこそ先輩・別冊』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編
66位イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド小田嶋隆
67位真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋”と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯団鬼六
68位ドンと来い! 大恐慌藤井厳喜
69位アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三
70位おテレビ様と日本人』林秀彦
71位鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基
72位新訂 孫子』金谷治訳注
73位蓮と法華経 その精神と形成史を語る』松山俊太郎
74位国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ廣宮孝信
75位戦争と罪責野田正彰
76位最澄と空海 日本仏教思想の誕生立川武蔵
77位神は銃弾』ボストン・テラン
78位本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
79位J・S・バッハ』礒山雅
80位オシムの言葉』木村元彦
81位折伏 創価学会の思想と行動鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
82位ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生
83位チェ・ゲバラ伝』三好徹
84位聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
85位ワイルダーのアダムセオリー 未来の値動きがわかる究極の再帰理論』J・ウエルズ・ワイルダー・ジュニア
86位日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』石井紘基
87位脳と仮想茂木健一郎
88位100万回生きたねこ佐野洋子
89位夏の庭 The Friends湯本香樹実
90位ケアを問いなおす 「深層の時間」と高齢化社会広井良典
91位ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・W・ホーキング
92位プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか(はじめて読むドラッカー 自己実現編)』P・F・ドラッカー
93位地球のハローワーク』フェルディナンド・プロッツマン
94位脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?池谷裕二
95位ジャーナリズム崩壊上杉隆
96位藤巻健史の実践・金融マーケット集中講義藤巻健史
97位貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵北村慶
98位エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン
99位無法バブルマネー終わりの始まり 「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学松藤民輔
100位無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
101位投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』山崎和邦(再読)
102位恍惚の人有吉佐和子
103位呉子』尾崎秀樹訳
104位ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン
105位リハビリテーション 新しい生き方を創る医学上田敏
106位新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス
107位プーチニズム 報道されないロシアの現実アンナ・ポリトコフスカヤ
108位裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず井上薫
109位ゾマーさんのことパトリック・ジュースキント
110位相談しがいのある人になる 1時間で相手を勇気づける方法下園壮太
111位名残り火 てのひらの闇II藤原伊織
112位雍正帝(ようせいてい) 中国の独裁君主宮崎市定
113位イエスの失われた十七年』エリザベス・クレア・プロフェット
114位服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
115位ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ
116位シャヒード、100の命 パレスチナで生きて死ぬこと』アーディラ・ラーイディ
117位はじめてのインド哲学立川武蔵
118位ゲーテ格言集ゲーテ
119位荒野の庭丸山健二

2009-12-30

めくるめく“物語の万華鏡”/『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア


 これは凄い。“物語の万華鏡”に陶酔させられることを請け合おう。一篇一篇が珠玉そのもの。いやあ溜め息しか出ない(笑)。とにかく楽しんでくれ、としか言いようがないね。


 8篇で537ページから成っている。もうね、一人の作家が書いたとは思えないほどバラエティに富んでいる。それでいて、全作品に漂うサスペンスが堪(たま)らん。まるで禁断の美酒を味わうような至福に包まれる。


「恋人」


 男は映画館の案内嬢に恋をした。うぶで生真面目な男とつかみどころのない女。男は女の帰りを待ち伏せて、一緒にバスに乗って彼女を送り届ける。甘酸っぱい感情が一気に漂う。バスを降り、女が「ここでいい」と言ったのは墓場だった。男は愛を告白し、明くる日にプレゼントを用意する。足早に映画館へと向かうが彼女はいなかった。そして彼が知った事実とは……。


「鳥」


 アルフレッド・ヒッチコック監督が映画化したことで知られる作品。主人公は不条理。文章の切れが素晴らしい。愚かな妻が不条理を盛り立てている。


 ナットは小鳥たちを、そして、海鳥たちを見つめた。彼らは眼下の入り江で、潮流の変化を待っている。海鳥たちは他の連中よりも忍耐強い。水際に見られるミヤコドリやアカアシシギやミビシギ、そして、ダイシャクシギ。寄せては返すゆったりした波が、海草を残し、小石を洗っていく浜を、海鳥たちは駆けめぐる。やがて彼らもあの飛翔への衝動に捉えられ、叫び、鳴き、わめきながら、静かな海をかすめて、海岸をあとにする。急げ、もっと速く、さあ、行け――でもどこへ? なんのために? 秋の狂おしい欲求、満たされることのない悲しい欲求が、彼らに魔法をかけたのだ。彼らは群れを成し、旋回し、叫ばねばならない。冬が来る前に、いらだちを振り払うために。


【『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子〈むたい・なつこ〉訳(創元推理文庫、2000年)以下同】


「写真家」


 実はこの作品で完全にはまった。物憂い日常にうんざりしきっている侯爵夫人が、足に障害のある写真家をもてあそぶ。濡れ場はないのだが、完全なサディスティック・ポルノ小説。侯爵夫人の残酷ぶりが憎いほど巧みに描かれている。いつしか海辺で逢瀬(おうせ)を繰り返すようになる二人。写真家の愛が昂(たか)ぶった時、意外な展開が待ち受ける。


 時間はたっぷりある。いや、それどころか、目の前には、長く気だるい一日がだらだらと果てしなく伸びている。


「モンテ・ヴェリタ」


「解説」で千街晶之が「神品」と絶賛している。確かに。主要人物は一組の夫婦と夫の友人の3名。テーマは夫婦の愛情、友情、山登り、そして宗教。SF的な色彩が強いが、結末を冒頭に書くという構成が圧巻。つまり、読者は山頂から下ってゆくという仕掛け。これはもう、デュ・モーリアが手にしたペンが勝手に描いたとしか思えないような絶品だ。しかも、世俗にまみれた「写真家」の後に、かような聖なる物語を配することで趣向の落差にたじろがされる。


 後(のち)に彼らは、なにも見つからなかったとわたしに語った。生きた人間にせよ、死体にせよ、人の痕跡はまるでなかった、と。怒りと、そしておそらく恐怖によって無我夢中となった彼らは、ついに、大昔から恐れられ、避けられてきた禁断の壁を打ち破って侵入し――その結果、静寂に迎えられたのだった。いらだち、とまどい、恐れおののき、空っぽになった部屋部屋とがらんとした中庭を見て怒りに駆られ、谷間の人々は野蛮な手段に訴えた。何世紀にもわたり、無知な農民たちの用いてきた手――放火と破壊とに。


D


「林檎の木」


 妻が死んだ。夫はやっと自由を手に入れた。ところが庭にある林檎の木が妻そっくりの雰囲気をかもし出した。夫は林檎の木が気になって仕方がない。意を決して伐採することにするのだが……。日常で積み重なった憎悪が心で反響する時、人は精神の均衡を失う。


 記憶にあるかぎり生まれて初めて、彼は窓にカーテンを引き、月の光を閉め出した。


D

「番」(つがい)


 最初から最後まで爺さんの独り言。これがまた落語のような味わいのある語り口で絶妙。最後のオチも効いている。のろまな子供が虐待される話。


「裂けた時間」


 女が家に戻ると見知らぬ連中に占拠されていた。直ちに警察を呼んだが、そこは女の家ではないと言われる。一体何がどうなったのか?


「動機」


 妻が拳銃で自殺した。夫婦関係には全く問題がなかった。依頼を受けた私立探偵が調査を開始する。妻には隠された過去があった。これまた構成にとんでもない仕掛けがあって、探偵が黒子となっているのだ。全く個性が感じられない。そうでありながら、探偵に情報提供する人々はいずれも個性を発揮している。探偵は名を「ブラック」という。なるどね。リボルバーの引き金をひいたのは「信じられないような偶然」であった。このまま映画化できそうな作品。

鳥―デュ・モーリア傑作集 (創元推理文庫)

ダフネ・デュ・モーリア


 1冊読了。


 140冊目『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子〈むたい・なつこ〉訳(創元推理文庫、2000年)/いやはや、デュ・モーリアがこれほど面白かったとは。まさに一生の不覚といってよい。8篇収められているが、一流作家8人を集めて書いても、これほどの完成度は望めないことだろう。原作は1952年発行だから、デュ・モーリア45歳の作品になる。「物語の万華鏡」と言う他ない。紛(まが)うことなき傑作だ。

2009-12-29

成功回避型傾向


 人間は、失敗するのが怖いのと同時に成功することも恐れているのです。

「物事がうまくいくこと」「成功すること」を怖がる人たちがいます。

 これを「成功回避型傾向」といいますが、成功に伴って、厄介なことが発生してくる可能性がある場合に、成功を自分から抑制してしまう傾向です。


【『1年で10億つくる! 不動産投資の破壊的成功法』金森重樹(ダイヤモンド社、2005年)】

改訂版 不動産投資の破壊的成功法

2009-12-28

「強い本」と「弱い本」


 本にも、やはり「強い本」と「弱い本」の二通りがあり、それは、良い本と悪い本とか、面白い本と面白くない本という分類よりも、より根源的なのだ。

 たとえば、村上春樹はそこそこに面白いが、弱い。彼の本は、こっちが風邪をひいて弱っているときでも読めてしまう。このあたりに、すでに弱さが露呈していると思う。

 強い本の場合は、そうはいかない。こっちが、気力体力ともに充実した状態で取り組まないと、本そのものが持っている強さに負けてしまう。私の経験では、翻訳ものは、概して強い。中でも中南米原産のものやユダヤ出身の本は、ほとんどの場合、大変に強い。ガルシア・マルケスあたりになると「六番小田嶋っ、マルケス一本行きます!」ぐらいの気合いがないと読みこなせない。

 こういう、ゴリゴリの本を読むためには、ふだんから地道なトレーニングをして、基礎体力を養っておく必要がある。また、若い頃多少鳴らしたからといって、準備運動なしにいきなりかかると肉離れを起こす。やはり、1月から自主トレにはいって、2月にキャンプ、3月からオープン戦といった具合に、段階を踏んで調整したいところだ。


【『安全太郎の夜』小田嶋隆河出書房新社、1991年)】

安全太郎の夜

2009-12-27

メアリー・ルティエンス


 1冊読了。


 139冊目『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)/メアリー・ルティエンスによる伝記三部作の第一作。翻訳は『クリシュナムルティ・実践の時代』(めるくまーる、1987年)が先だった模様。本書はいわば「星の教団編」である。クリシュナムルティが生まれてから、星の教団を解散する1929年までが描かれている。神智学協会のアニー・ベサント夫人が世界教師の器であるクリシュナムルティ少年のために用意したのが星の教団(当初は「東方の星教団」)であった。はっきり書いておくが読み物としても面白くないし、思想的には完全なスピリチュアル系でトンデモ本のレベルだ。ところが巻半ばから、クリシュナムルティのプロセス体験が始まり、妙に昂奮させられるのは確かである。そして白眉は解散を宣言するスピーチだ。その後のクリシュナムルティ思想の原型が示されている。ここだけでも読む価値あり。菩提樹の下で覚知したブッダを彷彿(ほうふつ)とさせる。34歳の青年が一切の神秘主義を斥(しりぞ)けて、組織という形態まで否定したのは世界大恐慌の年(昭和4年)であった。

DVDブック『英和対訳 変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』J・クリシュナムルティ/柳川晃緒訳


 DVDは2時間半で、日本語と英語の字幕つき。


英和対訳 変化への挑戦―クリシュナムルティの生涯と教え


 暴力へと条件づけられた人類の意識の変容を促すべく、イギリス、スイス、インド、アメリカをまわり、講演・討論を行ない、個人的面談に応じ続けた“世界教師”クリシュナムルティ。その90年にわたる生涯のあらましを貴重な映像によって辿る。

新訳『隷属への道 ハイエク全集 I 別巻』F・A・ハイエク/西山千明訳


隷属への道 ハイエク全集 I-別巻 【新装版】


 読まずに批判、中傷、誹謗されつづけたハイエクの主著。新自由主義の古典。第二次戦時下のイギリスでケインズ政策がナチズム、スターリニズム、社会主義と同様なべてファシズム(全体主義)にいたる道だと喝破し、大論争を巻きおこした問題作。自由を、市場を、擁護するその思想は、時代を超えて読み継がれ、サッチャーレーガン、そして小泉構造改革にまで影響を与えていると言われています。新装版にあたって、フリードマンによる序文を付す。

『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット/神吉敬三(ちくま学芸文庫、1995年)、寺田和夫(中公クラシックス、2002年)、桑名一博(白水uブックス、2009年)訳


大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)


 1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。


大衆の反逆 (中公クラシックス)


 20世紀が生んだ「慢心した坊ちゃん」大衆と大衆社会の病理を説く。


大衆の反逆 (白水uブックス)


 オルテガはスペインを代表する哲学者。早くから現代が歴史上の一大転換期であることを見抜き、そこに含まれる危機の克服をめざして警鐘を鳴らし続けてきた。本書は彼の代表作。現代の危機的状況を大衆の反逆という現象を通して指摘している。大衆の反逆とは、「大衆が完全に社会的権力の座に上がったこと」であり、現代の特徴は、「凡俗な人間が、自分が凡俗であることを知りながら、敢然と凡俗であることの権利を主張し、それをあらゆる所で押し通そうとするところにあり、その責任は、すぐれた少数者の指導やリーダーシップの欠如にあり、彼らが大衆に生のプログラムを与えなかったことに由来する」と説いている。現代を大衆の時代と断定し、20世紀の本質を衝いた不朽の名著。

個人と世界との断絶/『テロル』ヤスミナ・カドラ


 水晶の如く硬質で透明な文体、時折奏でられる叙情、そして一筋縄ではゆかないストーリーを揺るがぬ構成が支える。これがヤスミナ・カドラの世界だ。アルジェリア軍の元将校が描く物語は、ピアノソロのように流麗で、控え目に弦楽器が配されている。あるいは、「砂漠の中に突如現れた氷像」さながらだ。


 主人公のアミーンはイスラエルに帰化したアラブ人医師だ。最愛の妻が死んだ。しかも自爆テロを行ったという。原理主義者でなかった妻がなぜ? 昨日までの幸福な世界は消え去った。それどころか、アミーンまでもが共謀者として疑われた。やっとの思いで容疑は晴れたものの、街角にいたイスラエルの群衆はアミーンを袋叩きにし、家をも破壊しようとした。


 アミーンは自爆テロの真相を調べるべく、一人立ち上がった。イスラエルからもパレスチナからも裏切り者扱いされながら。


 主人公の微妙な立場が、イスラエルとパレスチナの憎悪を巧みに炙(あぶ)り出している。不信が渦巻く中でアミーンはひたすら妻を信じ続けた。痛々しい姿ではあったものの、彼は怒りに衝き動かされていた。それは、何の断りもなく一瞬にして人生を滅茶苦茶にした不条理に対するものであった。


 街のはずれに入ったところで、ちょうど日が落ちた。道沿いで目に入った最初のホテルの前で車を停めた。家に戻り、偽りとともに暮らしていくなどできなかった。車での移動のあいだ、世界と自分自身を罵り、アクセルペダルを目一杯踏みつけていた。凄まじい振動とともにタイヤがきしみ、その音がヒュドラの断末魔のように私のなかで響きわたった。まるで音速の壁を越えようと必死になり、帰還不能地点を越え、自尊心の崩壊のうちにおのれを打ち砕こうとしているようだ。私をどこかに引きとめ、明日の世界と和解させることができるものなど、何ひとつ存在しない。そもそも、どのような明日が待っているというのだ。偽りののちに命があるというのか、辱めののちに復活があるというのか。自分がくだらない人間に思えた。あまりにも自分が滑稽で、自分の運命に同情しようなどと考えれば、その場で絶命してしまいそうな気がした。


【『テロル』ヤスミナ・カドラ/藤本優子訳(早川書房、2007年)】


 イスラエルとパレスチナという断絶した世界を往来しながら、アミーンは真相に迫る。妻のことを誰よりも知っていたのは自分であった。そして、理解していないのも自分であった。断絶は民族と民族との間に、そして夫と妻との間にも存在した。


 人間の生に新しい息吹を与えるはずの思想が、思想のもとに党派性をつくり出す。その時、思想・宗教は単なるレッテルと化す。レッテルは差異を強調してやまない。敵味方を峻別する道具となり下がる。


 ガッサーン・カナファーニーユースフ・イドリースは確かにパレスチナの現実を描いているのだろう。彼等が紡ぎ出す圧倒的な暴力は、読む者をして報復へと駆り立てる。弱き者への共感が正義という名の力を渇望させる。このようにして暴力の連鎖はとどまることを知らない。


 ヤスミナ・カドラは抑制された視点で、双方の欺瞞を見つめている。しかも、もう一つの罠が仕掛けられていて、アミーンが医師である以上、社会的弱者を象徴する人物とはなり得ない。多くの貧しいアラブ人であれば、泣き寝入りするしかなかったことだろう。


 この物語が描き出しているのは「個人」と「世界」との断絶である。そして、神はどこにも存在しなかった。

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)

2009-12-26

新訳『木曜日だった男 一つの悪夢』チェスタトン/南條竹則訳vs『木曜の男』G・K・チェスタトン/吉田健一訳


木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)


 この世の終わりが来たようなある奇妙な夕焼けの晩、19世紀ロンドンの一画サフラン・パークに、一人の詩人が姿をあらわした。それは、幾重にも張りめぐらされた陰謀、壮大な冒険活劇の始まりだった。日曜日から土曜日まで、七曜を名乗る男たちが巣くう秘密結社とは。


木曜の男 (創元推理文庫 101-6)


 無政府主義者の秘密結社を支配している、委員長〈日曜日〉の峻烈きわまりない意志。次々と暴露される〈月曜〉、〈火曜〉……の各委員の正体。前半の奇怪しごくな神秘的雰囲気と、後半の異様なスピードが巧みにマッチして、謎をいっそう奥深い謎へとみちびく、諷刺と逆説と、無気味な迫力に満ちた逸品として、一世を驚倒させた著者の代表作。

ダフネ・デュ・モーリア


 Dame Daphne du Maurier/1907年5月3日-1989年4月19日


 ロンドン生まれ。祖父はフランスから移り住んだ人気画家、父は『ピーター・パン』の作者、J・M・バリーとも親交のあった有名俳優という芸術家一族に育つ。自立のために小説家を目指し、20代のころ後の映画監督キャロル・リードと恋愛関係になるが、結局、イギリス軍人のブラウニングと結婚、1男2女をもうける。『レベッカ』は、1938年の刊行直後に英米でベストセラーになり、1940年にヒッチコックによってハリウッドで映画化され、アカデミー賞を受賞。「20世紀のゴシックロマン」「ミステリーの金字塔」と賞され、1978年にアメリカ探偵作家クラブ(MWA)賞グランドマスター賞を受賞している。清楚な美人だが、社交嫌いで静かな生活や散歩を好み、このあたりの性格は『レベッカ』の主人公に投影されている。主な著書に『鳥』『レイチェル』『破局』など。(新潮社サイトより)

レベッカ〈上〉 (新潮文庫) レベッカ〈下〉 (新潮文庫) レベッカ


破局 (異色作家短篇集) レイチェル (創元推理文庫) 鳥―デュ・モーリア傑作集 (創元推理文庫)


レベッカ (上巻) (新潮文庫) レベッカ(下巻)

思考の終焉/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 蓄積は不自由であり、知識・経験は過去の亡霊である。経験は「私」によって構成された物語である。美しい黄昏(たそがれ)に心を奪われる時、人は忘我の境地となる。発見・感動は「我を忘れさせる」。そこに過去は介在していない。圧倒的な現在が刻々と流れ通う。そして、対象と自分とが完全に一体化する。


「私」という意識は思考する。思考することで「私」にしがみつき、「私」を強化する。「私」は「思考」である。


「では何が知恵なのですか?」

 知識がないときに知恵がある。知識は連続性を持っている。連続性なしには、知識はない。連続性を持つものは、決して自由ではありえず、新たなものではありえない。終りを持つものにのみ自由がある。知識は、決して新たではありえない。それは、常に古いものになっていく。古いものは、常に新たなるものを吸収し、そしてそれによって力を得ていく。新たなるものがあるためには、古いものがやまねばならないのである。

「言い換えれば、あなたは、知恵があるためには思考が終らねばならない、とおっしゃっているわけですね。しかし、いかにして思考を終らせたらよいのですか?」

 いかなる種類の規律、訓練、強制によっても、思考の終焉はない。思考者は思考であり、そして彼は、彼自身に作用を及ぼすことはできない。作用するとしたら、それは単なる自己欺瞞にすぎない。彼は【即】思考であり、彼は思考と別個のものではない。彼は、彼が異なっていると思いこみ、似ていないふりをするかもしれないが、しかしそれは、それ自身に永続性を与えようとする思考の狡猾さにすぎないのだ。思考が思考を終らせようと試みるとき、それは単にそれ自身を強めるにすぎない。どうあがこうと、思考はそれ自身を終わらせることはできない。このことの真理が悟られるときにのみ、思考は終わる。あるがままの真理を見ることの中にのみ自由があり、そして知恵は、その真理の知覚である。あるがままは決して静止的でなく、そしてそれを受動的に注視するためには、あらゆる蓄積物からの自由がなければならない。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


 凄い……。「知識の否定」は「連続性の否定」であった。連続性とは運動である。以前、「24時間戦えますか?」とサラリーマンに問い掛けたコマーシャルがあったが、24時間は可能であっても240時間は無理だ。我々は睡眠を取らないと生きてゆけない。つまり、永久機関は存在しないということだ。水飲み鳥もいつかは止まる。物質の世界には必ず摩擦が生じる。運動は減退せざるを得ない。


 古代ヒンドゥー教(バラモン教)では、自我の深層を司る真我(しんが/アートマン)は宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であると説いた(梵我一如)。ここにおいて「我」(が)=「私」は限りない連続性を伴って肥大し続ける。すなわち、永遠性ってやつだよ。


 これをブッダは完膚なきまでに否定した。「諸法無我」と。つまり、「私」という存在は錯覚なのだ。意識と思考とが捏造(ねつぞう)した影に過ぎない。そして我々は思考という連続性でもって影の実体化に余念がないというわけだ。


 日蓮は不変真如(ふへんしんにょ)の理を迹門(しゃくもん/影の意)と位置づけ、随縁真如(ずいえんしんにょ)の智を本門とした。理は知識であり、智は智慧である。不変真如の理には「焼」の義が、随縁真如の智には「照」の義があり、「煩悩(ぼんのう)の薪(たきぎ)を焼いて菩提(ぼだい/覚り)という智慧の火が現れる」と教えている(「御義口伝」〈おんぎくでん〉)。


「私」に終止符が打たれた刹那(せつな)に智慧は発動する。だが、それは無意識から湧いてくるものではない。なぜなら、無意識(阿頼耶識〈あらやしき〉)とは意識の表層に上らない条件づけであるからだ。歴史や社会を始めとする外界から働きかけるありとあらゆる条件づけは、緩やかなプレッシャーとなって人々の意識を加工する。意識は常に条件づけという重力に支配されているのだ。


 クリシュナムルティの思想は完全にブッダと一致している。つまり、「生きる」とは「死ぬ」ことなのだ。連続性の否定とは、過去を死なせることである。なぜなら、過去が生きている間は現在が死んでしまうからだ。ここに知識と智慧の決定的な違いがある。


 生死不二(しょうじふに)――。生は死であり、死は生である。死は恐れるべきものではなく、生は執着すべきものではない。永遠は彼岸には存在しない。それは現在という瞬間に存在するのだ。クリシュナムルティが説いているのは「一念三千の法理」(一瞬の生命に三千の諸法が具わっているとする法理)であった。

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より


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2009-12-25

意識は過去の過程である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

「経験なしに、いかにして知恵がありうるでしょうか?」

 知恵は知恵であり、知識は別物である。知識は、経験の蓄積である。それは、経験の継続であり、すなわち記憶である。記憶は養われ、強められ、形作られ、条件づけられる。しかし、知恵は記憶の延長だろうか? 知恵は、連続性を持つところのものだろうか? われわれは、知識を、長い間の蓄積を持っている。然るにわれわれは、なぜ賢明で、幸福で、創造的ではないのだろうか? 知識は至福に資するだろうか? 知ること、すなわち経験の蓄積は、刻々の体験ではない。知ることは刻々の体験を妨げる。経験の蓄積は連続的過程であり、そして各々の経験はこの過程を強める。各々の経験は記憶を強化し、それに活力を与える。この不断の記憶の反応なしには、記憶はすぐに消え去るだろう。思考は記憶であり、言葉であり、経験の蓄積である。記憶は過去のものである、意識がそうであるように。この、過去の重荷全体が、精神であり、思考である。思考は被蓄積物なのだ。そしていかにして思考が、新たなるものを発見すべく自由でありうるだろうか? 新たなるものがあるためには、それは終らねばならない。

「私は、ある点まではこのことを理解できます。しかし、思考なしに、いかにして理解がありうるでしょうか?」

 理解は過去の過程だろうか、あるいはそれは、常に現在にあるのだろうか? 理解は、現在における行為を意味する。あなたは、理解は刹那においてあること、それは時間のものではないことに気づかなかっただろうか? あなたは徐々に理解するのだろうか? 理解は常に、即座、今、なのではあるまいか? 思考は過去の結果である。それは過去にもとづいている、それは過去の反応である。過去は被蓄積物であり、そして思考は蓄積物の反応である。いかにしてそれでは、果たして思考が理解できようか? 理解は意識の過程だろうか? あなたは、意識的に理解に着手するのだろうか? あなたは、黄昏の美を享受することを選ぶのだろうか?

「しかし、理解は意識的な努力ではないでしょうか?」

 われわれは、意識によって何を意味しているのだろうか? いつあなたは意識するのだろうか? 意識は、愉快または苦痛な問いかけ、刺激への反応ではないだろうか? 問いかけへのこの反応が経験である。経験は名づけること、命名、連想である。命名なしには、経験はないのではあるまいか? この、問いかけ、反応、命名、経験の全過程が意識ではないだろうか? 意識は常に、過去の過程である。意識的努力、理解し、蓄積しようとする意志、あろうとする意志は過去の継続である。おそらくは修正された、がしかし依然として過去のものである。われわれが、何かであろう、または何かになろうと努力するとき、その何かはわれわれ自身の投影物なのである。われわれが意識的努力をするとき、われわれはわれわれ自身の蓄積物の騒音を聞いているのだ。理解を妨げるのはこの騒音なのである。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


 クリシュナムルティの基本的な考えが述べられているのだが、少々わかりにくいことと思う。前回の部分で、「蓄積は自由を損なう。それゆえ、あらゆる蓄積は束縛であり知識も同様である」と語った。それに対して質問者は「では経験はどうなんだ?」と疑問を呈している。


 わかりやすい例を示そう。例えば職人である。職人気質(かたぎ)といえば、黙々と丁寧な仕事をする頑固親父といった印象を抱く。なぜ頑固なのか? それは過去の経験からどうすればいい仕事ができるかを知悉(ちしつ)しているからだ。ここに何らかの部分的な真理があるとする見方もできるが、実は落とし穴がある。これは飽くまでも「技術」に関することなのだ。


 そして、技術が秀(ひい)でれば秀でるほど、自分の技術に固執するようになる。だから、人の話にも耳を貸さなくなる。仮に一流であったとしても、それは職業という限定された世界の話である。人生の部分的な幸福を勝ち取ることはできるかもしれないが、技術への過信や執着から独善的かつ傲慢(ごうまん)な人物となることも決して珍しくはない。


 仏教において最も忌み嫌われたのは二乗(にじょう)の面々であった。二乗とは声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんかくじょう)のことで、手っ取り早くいえば前者は学者で、後者は芸術家やスポーツ選手となる。声聞は知識から、縁覚は経験から真理の一分を悟るとされる。ブッダはこれらの人々に対して「断じて仏になることはできない」と斥(しりぞ)けた。小さな悟りに執着する心を徹底的に弾呵(だんか)した。その殆どがバラモン階級出身者であったことも見逃せない。


 ここで「理解」というキーワードが提示される。理解とは洞察である。「あ、わかった!」という経験は誰しもあることだろう。この「あ」と言う瞬間に理解がある。理解とは、何かと何かが、あるいは何かと自分がつながる瞬間でもある。


 ところが、理解するという行為を阻むものがある。それが知識であり経験であるとクリシュナムルティは指摘する。意識の正体は過去の知識と経験であり、自分固有の反応を司(つかさど)っている過ぎない。「私」を構成しているのは記憶である。つまり「私」を自覚した途端、人は過去に連れ去られてしまうのだ。


 年齢を重ねると感動が少なくなる。それは、新しい知識や経験を過去の知識や経験に組み込んでしまうためだ。であるがゆえに、本当は全く新しい発見であるにもかかわらず、過去の類似したものへと(おとし)めてしまうのだ。ここに「刻々と流れ通う生」を我々が知覚できない致命的な原因がある。


 理解とは気づきであり、直感的な叡智(えいち)である。それは稲光のように突然現れる。「あ」と言った瞬間が現在である。そこに過去は介在していない。いかなる理解であれ、何らかの目覚めがある。


 それでも我々は思考せざるを得ない。では、どうすれば知恵を開いてゆくことができるのか? このあと答えが示される。続きは明日――。


→「思考の終焉」に続く

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より

増刷『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック/森英明訳(草思社、1996年)


平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学


 自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

チャーリー


 チャーリーは生まれながらの外交官だ。戦いよりも話し合いを好むが、それも当然で、喧嘩はえらく苦手なのだ。この10年で彼は一度だけ揉め事に巻き込まれたのだが、それは話し合いを拒む犬に出会った時だ。


【『チャーリーとの旅』ジョン・スタインベック竹内真訳(ポプラ社、2007年/大前正臣訳、弘文堂、1964年)】

チャーリーとの旅

2009-12-24

「一体化」という翻訳への疑問


 この翻訳で採用された「一体化」という訳語はあまり原文の意味を伝えているとはいえません。新装版になったのですが、旧版の翻訳はもとのままです(直すのかなと期待したのですが)。

 identification は一般的には「同一化」「自己同一化」というように訳されることが多いです。自己の注意が何ものかに無意識的に吸い込まれてしまっている状態のことです。それに反して「一体化」という日本語が意味することは unification が意味することに近いです。


エヴァンジル

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 長いテキストなので3回に分けて書くことにする。『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー』はクリシュナムルティがノートに記したもので、登場する人物はいずれもクリシュナムルティのもとを訪れて相談した人々だと思われる。仮に創作部分が盛り込まれていたとしても、それはドラマチックな演出を狙ったものではなく、普遍性に配慮したものであろうと個人的に考えている。また、胡散臭いタイトルとなっているが、内容は「生死(しょうじ)論」であり「生命論」である。


 クリシュナムルティが投げ掛ける質問はいつだってトリッキーだ。我々の中にある理想、信念、常識をやすやすと引っ繰り返してみせる。ブッダが行った動執生疑(どうしゅうしょうぎ/相手の執着を動ぜしめて疑いを生じさせる)と全く同じアプローチだ。揺さぶられるのは自分の中に根を下ろしている「条件づけ」の数々である。


 彼は言った、自分はギリシア語が楽に読め、そしてサンスクリットには半可通だ、と。彼は年を取りつつあり、そしてしきりに知恵を集めたがっていた。

 知恵を集めることができるだろうか?

「なぜできないでしょうか? 人間を賢くさせるのは経験です。そして知識は、知恵にとって不可欠です」

 蓄積した人間が、賢明でありうるだろうか?

「生は蓄積の過程であり、性格の漸次的築き上げ、徐々の展開です。経験は、結局のところ知識の蓄積です。知識は、あらゆる理解に不可欠です」

 理解は、知識、経験によって生まれるだろうか? 知識は経験の残滓であり、過去の集積である。知識、意識は、常に過去のものである。そして過去は、果たして理解できるだろうか? 理解は、思考が静まっている、そういう合間に生ずるのではないだろうか? そして、これらの沈黙の空白を延ばしたり、あるいは蓄積しようとする努力は、理解をもたらすことができるだろうか?

「蓄積なしには、われわれは何物(ママ)でもなくなることでしょう。思考の、行為の連続がなくなることでしょう。蓄積は性格であり、蓄積は美徳です。われわれは、蓄積なしには存在できないのです。もしも私がそのモーターの構造を知らなかったら、私はそれを理解できないでしょう。もしも私が音楽の構造を知らなかったら、私はそれを深く観賞することはできないでしょう。浅薄な者だけが、音楽を【楽しむ】のです。音楽を鑑賞するためには、あなたは、それがどのように作られているか、組み立てられているか、知っておかねばならないのです。知識は蓄積です。事実を知ることなしには、鑑賞はありません。ある種の蓄積は、理解、つまり知恵にとって必要なのです」

 発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか? 蓄積する人間は、それが金銭であれ、あるいは知識であれ、決して自由ではありえない。あなたは、物欲からは自由であるかもしれないが、しかし知識への貪欲は依然として束縛であり、それはあなたを抑えつけている。何らかの種類の獲得に縛りつけられた精神が、遠くまで乗り出し、そして発見できるだろうか? 美徳は、何かになることからの自由ではないだろうか? 性格もまた、束縛かもしれないのだ。廉潔は決して束縛ではありえないが、しかしあらゆる蓄積は束縛である。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


「蓄積」とは「所有」である。

 資本主義経済は資本の蓄積=所有を競う構造を意味している。ゲームの点数と一緒だ。「より多く」持っている者が勝者となる。で、奪い合いだから「奪われた」人々が存在する。サラリーマンという労働形態は、賃金を受け取る前に徴税されており、「奪われた」事実に気づかせないために施された国家の配慮である。それゆえ、税金がどのように使われているか誰も関心を抱いていない。自分達のお金であるにもかかわらず。


 ま、有り体にいえば、物の蓄積が不平等を生み、貧富の拡大に手を貸していることは理解できる。だがクリシュナムルティは「知識の蓄積」をも否定する。それだけにとどまらない。意識を否定し、経験を否定し、過去をも否定しているのだ。これが「クリシュナムルティ・トリック」である。否定の重層構造。まるで、質問者が全力で投げたボールを軽々と受け取る千手観音さながら。そしてどの腕が返球してくるのか想像もできない。


 強いて要点を挙げるとすれば、それは「時間」であろう。なぜなら、人生というものは時間に支配されているからだ。人は限りある生を永遠たらしめようとして、名を残すことを切望し、地位にこだわり、子孫に遺産をのこそうと奮闘する。限界性の突破をシンボリックな形にしたものが墓石であろう。私が死んだとしても、墓石が滅びるまで私の名前は残るってわけだよ。


 仏教に身口意(しんくい)の三業(さんごう)という考え方がある。過去に自分自身が身で行ったこと(身業)、言葉にしたこと(口業)、意(こころ)で思ったことの集積が現在の自分を形成しているとするものだ。つまり、自分特有の反応が記憶されることで、より「自分らしさ」が強化されるわけだ。そして今度は、「自分らしさ」を発揮しようとして意図的に「過去と同じ反応」を繰り返すのである。わかるだろうか? 完全な条件づけによって過去の奴隷と化す人がそこにいる。


 我々は現在を自覚できない。脈々と流れ通う生を実感できない。なぜなら、過去に生きているからだ。我々が見つめる未来は、「過去を反転させたもの」に過ぎない。そして現在は、常に過去から未来へと向かう中間地点に貶(おとし)められている。実際に存在するのは「今この瞬間」であるにもかかわらず、だ。


 クリシュナムルティが説く瞑想は、己心の静謐(せいひつ)なる宇宙を見つめることで、現在という瞬間に永遠を見出す作業なのだ。


→「意識は過去の過程である」に続く

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より


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新聞記者は戦争を始めることができる


「言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。私は記者を観察している。このメディアは正しい質問をしているのか。ジェフを応援しているのか。そうでないのか。新聞記者は戦争を始めることができる。意図を持てば世の中を危険な方向に導けるのだから。ユーゴの戦争だってそこから始まった部分がある」


【『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社インターナショナル、2005年/集英社文庫、2008年)】

オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える オシムの言葉 (集英社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-12-23

ジョルジュ・バタイユ、藤巻一保


 2冊挫折。


 挫折99『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ/湯浅博雄訳(人文書院、1985年/ちくま学芸文庫、2002年)/出だしはよかったのだが、直ぐに行き詰まる。30ページで挫ける。私は気が短いので、難解な言葉に遭遇すると「お前等だけで勝手にやってくれよ」と思ってしまう。難しい話は人に伝えることができない。それゆえ、人口に膾炙(かいしゃ)することなく本の中で突っ立っているだけのものとなる。西洋哲学は形而上に傾くきらいがあり、問いかけの連鎖が限りなく空転した挙げ句、神の肯定か否定という両極端な場所に着地する。だから、考えれば考えるほど分断を助長する方向へ行ってしまうのだ。バタイユさんよ、あんたと俺には縁がなかったよーだな。


 挫折100『真言立川流 謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』藤巻一保〈ふじまき・かずほ〉(学研、1999年)/男女交合による即身成仏、ドクロ本尊と聞いただけでワクワクしてくるが(笑)、エロエロ教団・真言立川流の実態と系譜が対話形式で綴られている。極めて真摯な読み物。私が期待していたのは密教に関する記述であったため、完全な肩透かしを食らった。120ページを超えたあたりでやめる。尚、稲荷(信仰)に関する詳しい解説があり、これは望外の収穫であった。

転落を演出する芸能リポーター〜みといせい子の場合


 思えば、20世紀の芸能界には、この種の、転落そのものが芸風であるみたいなタレントさんがもっとたくさん活動していた。彼らは、不倫、失言、三角関係、ドタキャンぐらいの軽微な逸脱行動を端緒に芸能人としての活動を展開しはじめ、じきに、当て逃げ、踏み倒し、プロダクション独立騒動みたいな中規模スキャンダルを引き起こす。で、最終的にはクスリ、恐喝、詐欺、傷害あたりで警察マターの三面記事人脈の仲間入りを果たす、と、そういう決まりになっていた。

 だから、「信じられません」「なんということでしょう」と、二言目にはびっくりしてみせていた昭和の時代の芸能リポーターは、その実、予想通りの展開に小躍りしながら仕事をしていた。

「華やかなスポットを浴びていた朋ちゃんがこんなことになるとは、あの当時、誰が想像できたでしょう」と、今回、みといせい子がしきりに嘆いてみせているのも、もちろん、華原朋美のタレント性を惜しんでいるからではない。転落の落差をデカく見せるためには、過去の栄光を強調するのが得策だと、そう考えているからに過ぎない。


【『テレビ救急箱』小田嶋隆中公新書ラクレ、2008年)】

テレビ救急箱 (中公新書ラクレ)

2009-12-22

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 138冊目『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)/クリシュナムルティ10冊目。世界各地を飛び回るクリシュナムルティがインド、イギリス、アメリカの各学校に送ったメッセージが収録されている。1978年9月から1980年3月まで。古庄の訳は大野純一よりこなれている印象を受けた。教職員と生徒に宛てたものであるため、実に簡潔でわかりやすい内容となっている。執着を動ぜしめて疑いを起こさせるトリッキーな言葉が少ないためか。最初に読むなら本書がいいだろう。

クリシュナムルティの伝記〜メアリー・ルティエンス


ジドゥ・クリシュナムルティ/Jiddu Krishnamurti 著作リスト」に漏れがあったので補完しておく。ついでなんで、メアリー・ルティエンス女史が書いたものをまとめて紹介しよう。


クリシュナムルティ伝記三部作


クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)


クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)


クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1996年)


総集編


クリシュナムルティの生と死』メアリー・ルティエンス/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2007年)

電通を批判できない日本のマスコミ、東京五輪招致の税金浪費問題でも


 石原慎太郎都知事が18日の記者会見で、2016年東京五輪招致の最終プレゼンテーションの10分間の映像製作費として、電通から5億円を請求されていることに関し、請求額の根拠を都議会で説明するよう電通側に求めたことを明らかにした。五輪招致での都から電通への委託契約費は約53憶円にのぼり、中には4000円のアルバイト費などが含まれていた。


 共産党の曽根はじめ都議の調査によると、都が06年度から08年度にかけ外部に発注したこの委託契約費30億1059万円のうち、86.5%が電通へのものだった。都は電通競争入札なしで特定の企業の指定を行う「特命随意契約」で行い、さらに、他企業に発注できるはずの都バス車体広告や招致機運を盛り上げるTOKYO体操の企画まで電通に委託していた。


 こうした都と電通の不可解な結びつきに対して、ライブドアの「五輪『10分5億円映像』電通の参考人招致は必要?」というネット世論調査では、「電通の接待がどれだけ豪勢だったか知りたい」「電通参考人招致と共に、石原も呼べよ。まずは招致失敗の責任を石原に取ってもらわないと、石原自身の公約違反だろ?」など都と電通に対する批判が相次いだ。


 電通と五輪の不透明な結びつきは『黒い輪 権力・金・クスリ オリンピックの内幕』という著書にも示されているように、こと有名だ。アディダスと電通が共同出資して1982年に設立したマーケティング会社の「International Sports Culture & Leisure Marketing A.G.(ISL)」は国際オリンピック委員会(IOC)や国際サッカー連盟(FIFA)などに深く食い込み、五輪やサッカーW杯関連のマーケティング業務をほぼ一手に引き受けた。だが、そのISLは常にIOC委員などのスポーツ貴族への贈賄疑惑などを引き起こし、2001年に経営破綻した。


 こうした電通と五輪の不透明な結びつきについて、日本のマスコミ、特に共同通信と時事通信、そして地方紙は取り上げることは滅多にない。なぜなら、共同と時事はもともと電通と同一の会社、戦前の国策通信社「同盟通信」だったし、地方紙は電通の広告営業力に頼りっぱなしという金銭面での利害関係があるためだ。汐留にある共同通信本社ビルや銀座にある時事通信本社ビルは電通が株式公開の際に両社が電通株を市場に放出して得た利益で建てたことはマスコミ界では有名な話だ。また、朝日、読売、毎日とて電通との結びつきは強いし、さらに民放テレビ局に至っては広告・営業面で電通に頼りっきりの体質がある。


 ジャーナリズムを実践しているとされる新聞社やテレビ局は電通にのど元を押さえられているのが現実で、歯向かうことすらできない状況なのだ。さらに状況を悪化させているのが、いわゆる「スポーツばか」や「おふざけ女子アナ」の新聞社・テレビ局の運動記者の存在だろう。カネに関する取材はスポーツ選手の契約金交渉くらいなもので、五輪など大規模スポーツイベントの経済的な運営面に目を向けるものはほとんどいない。その象徴が、運動部上がりの共同通信・石川聡社長だろう。日本のジャーナリズムは電通を批判する勇気もないし、その能力もないのだ。


 ならば、都民国民の税金をむさぼる電通の不透明な取引について、政治家や市民が監視する以外方法はない。まずは都に対して五輪招致活動の内情について詳細な調査を徹底させ、必要とあらば政治主導で電通関連の「事業仕分け」を行うのが、税金無駄遣いの防止になるのではないか。


PJニュース 2009-12-22

主人公は傷ついたホームレス女性/『喪失』カーリン・アルヴテーゲン

    • 主人公は傷ついたホームレス女性

 今、北欧ミステリが熱い。世界中で翻訳されているようだ。カーリン・アルヴテーゲンはスウェーデンの作家で1965年生まれ。アストリッド・リンドグレーンが大叔母に当たるそうだ。なるほど、と頷けるところが大。ストーリーテラーとしての腕前もさることながら、独特の薫りが漂う文章に魅了される。


 主人公はシビラという32歳のホームレス女性である。人生の疲労を隠し切れないものの、彼女はまだ美しい顔立ちを保っていた。ホテルのラウンジでそれとなく金持ちの男を物色し、相手が食事に誘うよう演出を施し、「財布がなくなった」と言って相手にホテル代を立て替えさせる。そんな手口で彼女は生活していた。ホテル代を払ってくれた男が何者かに惨殺される。警察の姿を見るや否やシビラは逃げ出す。寸借詐欺紛いの行為が露見したと錯覚したのだ。新聞はシビラを容疑者として報道し続けた。


 あの味が口中に広がった。それは彼女の頭が拒絶したものを受け入れてきた腹の一部から、じわっと滲み出てくる、馴染みの味だった。

 人々が彼女を支配しようとしている。

 またもや。

 過去に味わったことのある、恐ろしい息詰まるような感じがよみがえってくる。それはどこかの隅に隠れてじっと待機していたのだ。それがいままた暴れ出そうとしている。すべてが戻ってくる。彼女が必死で忘れようとしてきたことが。彼女が忘れることに成功したと思っていたすべてのことが。


【『喪失』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由美子訳(小学館文庫、2005年)】


 で、シビラがホームレスという立場で犯罪解決に挑むというのが大筋。そして彼女がホームレスとなるまでの人生がカットバックで挿入されている。シビラは資産家の娘で、幼い頃から心理的虐待を受けていた。


 原題には「失踪」という意味もあるようだが、訳者の柳沢はアルヴテーゲンに取材をした上で邦題を「喪失」にしたという。確かにこの方がいい。シビラは容疑者となることで真実を喪失し、虐待されたことで幼少期を喪失し、ホームレスとなることで自分自身を喪失していた。


 真犯人を見つけ出すことは、シビラにとって過去の自分を取り戻す行為でもあった。彼女は一人の少年と出会う。この少年がたった一人の味方となる。やや都合のいい展開とはなっているが、それでも最後のどんでん返しは手に汗握る。


 家族と社会の残酷さを炙(あぶ)り出した会心作だ。


喪失 (小学館文庫)

聴覚を失ったベートーヴェンに何が聴こえていたのか

小林●それはべつの話になります。音楽は単に音の組合せではないからね。音楽の持っている意味を感ずるという事とは別です。つんぼ(ママ)になったベートーヴェンに何が聴こえていたか。これは怖ろしいような事だが、しかし、何も格別な病的現象とは言えないからね。彼が耳が聞こえてた頃から、音楽を精神で聴いていなかったら、つんぼになって音楽が彼の内部で鳴ったわけがないでしょう。(※五味康祐との対談)


【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』(新潮社、2004年)】

小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること

2009-12-21

進化過程では平均が有利


 たとえば、鳥の翼は、空にうまく舞い上がれるだけの長さがなければならず、鳥がコントロールを保てるほど短くなければならない。大嵐のあとで死んだ鳥の翼の長さを測ってみると、並外れて長いか、並外れて短い鳥が期待値よりも多かった。生き残った鳥は、中間の(より最適に近い)長さの翼をもつ鳥に偏っていたのである。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解

2009-12-20

文庫化『カラシニコフ』松本仁一(朝日文庫、2008年)


カラシニコフ I (朝日文庫) カラシニコフ II (朝日文庫)


 内戦やクーデターが起きるたびに登場する銃、カラシニコフ。開発者カラシニコフやシエラレオネの少女兵、ソマリアのガードマン、作家フォーサイスなどへの取材を通し、銃に翻弄される国家やひとびとを描く。朝日新聞特派員として数々の紛争取材に携わった著者による迫真のルポルタージュ。

藤原不比等


 藤原不比等(ふひと)、私は、この人こそ、正に日本の国家というものをつくり出した、隠れたる大政治家だと思う。この隠れた大政治家は、日本の国家の基礎をつくり出すことにおいて、天才的であったが、また、自己の事蹟のあとかたを隠すことにおいても天才的であった。

 日本を支配したさまざまな氏族がいる。蘇我氏、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏、徳川氏など、そのうち平氏、源氏の支配期間は、ほんのわずか、比較的支配期間の長い足利氏や徳川氏ですら、支配した期間は300年に足らない。しかるに、藤原氏は、鎌足(かまたり)以来、鎌倉幕府成立までの政治の実権をにぎった。その間、約500年として、それ以後も他氏のように完全にほろびたわけではなく、尚且つ、天皇を擁して隠然たる力をもっていたのである。明治維新に到るまで、正に1200年の間、藤原氏は日本第一の、あるいは日本唯一の貴族であったのである。世界の歴史に類例のない権力者であるが、その権力の基礎は、だいたい鎌足・不比等の親子によって、つくられたのである。よほど巧みに、彼等は、権力の基礎をつくったわけであるが、従来、このような権力の秘密について、ほとんど説明らしい説明はもちろん、それにたいする深い疑問も起されなかったのである。


【『隠された十字架 法隆寺論』梅原猛(新潮社、1972年/新潮文庫、1981年)】

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

「忘れられない脳」の困惑

忘れられない脳 記憶の檻に閉じ込められた私

断片化の要因/『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ


 傑作という言葉は相応(ふさわ)しくない。人為的な作品といった次元を軽々と凌駕(りょうが)している。人類の知性が辿り着いた最高峰であり、経典に位置すべき内容だ。ただし、いきなりこの本を読んでも理解し難いことだろう。物事には順序がある。せめて以下の書物に目を通してから取り組むべきだ。

 デヴィッド・ボームアインシュタインとも共同研究をした理論物理学者で、デヴィッド・シャインバーグはアメリカの精神分析医である。つまり、科学という目に見える世界と、人間心理という目に見えぬ世界のスペシャリストが対談相手となっている。


 マイケル・クローネン著『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』によれば、ボームとの対話は常に穏やかで静かな雰囲気で行われていたようだ。精神性の深い対話は討論の形を取らないものだ。


 鼎談(ていだん)の様子を知ってもらうために、やや長めの引用をしておこう。まず、心理的葛藤が人々を断片化し、世界を分断していることが語られる。三つの英知は静謐(せいひつ)の中から世界の姿を見つめる(※K=クリシュナムルティ、B=ボーム、S=シャインバーグ)――


B――何もかもが急速に変化しているので、自分がどこにいるのかわからないほどです。それなのになぜ、問いたださずに生き続けていこうとするのでしょう?


K――なぜ問いを発しないのでしょう? 恐怖のせいです。


B――ええ、しかしその恐怖は断片化から起こるのです。


K――むろんそうです。では、それがこの断片化のはじまりなのでしょうか。断片化は、人が安定、安全を追い求めているときに起こるのでしょうか。


S――しかしなぜ……?


K――生物的ならびに心理的に。まず何よりも心理的に、しかるのちに生物的に、あるいは物質的に。


B――しかし、物質的安定を求める傾向は有機体に組みこまれているのではないでしょうか。


K――ええ、そのとおりです。人は衣食住を確保しなければなりません。それは絶対に必要です。


S――そうです。


K――そこでそれが脅かされるとき――もし私がソ連で暮らしながら、共産主義体制を全面的に批判したら、私は人非人扱いされるでしょう。


S――しかし、ここは少々ゆっくりと進めていただきたいのですが、生物的に安定を求めていくことで、人は何らかの断片化に陥らざるをえない、とあなたは示唆していらっしゃる。


K――いや、そうではなく、生物的レベルで断片化、不安定が起こるのは、人が心理的レベルで安定を欲するときです。


S――それならわかります。


K――私の言うことがおわかりですか。ちょっと待ってください。それはつまりこういうことです。もし人が心理的に何らかの集団に属さなければ、そのときはその集団からはみ出してしまいます。


S――すると不安定になる。


K――不安定です。そしてその集団が私に安定、物質的安定を与えてくれるので、私は、それが与えてくれるものを何もかも受け容れてしまうのです。


S――ええ。


K――しかし人は、心理的に、社会、コミュニケーションの構造に異議を申し立てるやいなや、途方に暮れてしまうでしょう。これはあきらかな事実です。


S――たしかに。


B――そうですね。


S――ではあなたは、われわれの生活環境にある不安定の原因は、条件づけられることにあり、それに対応して――それへの答えとして――条件づけられた断片化だ、とおっしゃりたいのですか。


K――部分的には。


S――そして断片化の運動の中身は条件づけだということですか。


K――博士、こういうことなのです。もし歴史的、地理的、国家的に何の断片化もなければ、われわれはこのうえなく安全に暮らせることでしょう。われわれの全員が保護され、全員が衣食住にありつけることでしょう。戦争もなく、われわれはひとつであることでしょう。彼は私の兄弟であり、私は彼の兄弟である。彼と私はひとつであることでしょう。しかしこの断片化が、その妨げになっているのです。


【『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ/大野純一、聖真一郎〈ひじり・しんいちろう〉訳(平河出版社、1986年)以下同】


 私を巡って家族という円がある。友人という円がある。仕事という円がある。地域という円がある。私を取り巻く円は複層構造となっているが、社会・伝統・時代・国家といった「大きな円」の中に取り込まれている。


 翻って私の立場を考えてみよう。私は男である。古本屋であり、コンサルタントであり、東京都民であり、日本国民でもある。そして私は夫であり、子供であり、長男であり、伯父さんであり、隣人でもある。性格は直情径行で、スポーツはほぼ万能、かに座AB型、愛煙家であり読書家でもある。直感的に人を見抜くことが得意で、言いたいことをはっきりと述べるタイプだ。声も大きい。我が辞書に遠慮という文字はない。


 おわかりになっただろうか? 「私は――である」と規定することは「私は――でない」という反対の命題をもはらんでいる。そこに分裂が生じるのだ。「私は私である」と言った瞬間に、「私」と「あなた」が切り離されるのだ。つまり、世界は人の数だけ分裂しているのだ。


 心理的葛藤は人と人との間に存在する。安定を求めるから多くの人々と一緒に歩もうとする。集団、組織、コミュニティ、国家は一定の安定を与えてくれる。ここから脱落しそうになると人は恐怖を覚える。多分、生存リスクが高くなることを本能的に察知しているのだろう。


 そうであればこそ、生まれた時から社会に順応するように育てられる。反社会性はコミュニティを危険にさらす可能性があるから徹底的に排除される。このようにして、人々は小学校を卒業する頃までには完全に「漂白」された状態となっている。小さなシミが残っていれば、「変わった奴だ」とレッテルを貼られる。そして学校という戦場では精神性は完全に無視され、ひたすら記憶力を競う様相を呈している。物覚えの悪い者はダメだ。なぜなら、大人の言いなりにならないからだ。


 こうした条件づけは、私立の小中学校や偏差値の高い高校を経て一流大学へと進む中で、最大限に純粋培養される傾向がある。掟には従え。ルールを守れない者はドロップアウトせざるを得ない。ヒエラルキーとは断片化された階層のことである。学歴、収入、性別、年齢、地域格差など、もはや幸不幸は周囲の人との差でしか感じられなくなっている。実存性までもが相対的に判断されている。そして多くの人々はドングリの背比べに余念がない。


S――たしかに。さらにあなたは、もっとそれ以上のこと、つまりそうなればわれわれは、お互いに助け合うことだろう、ということを示唆していらっしゃるように思うのですが。


K――助け合い――むろんそうです。


B――われわれは堂々廻(めぐ)りをしているようですね。なぜなら……


K――そのとおりです。そこで私はもとに戻ってみたいのです。それはこういうことです。もし国籍や、イデオロギー集団などがなければ、われわれは必要なものをすべて確保することでしょうが、私がヒンドゥー教徒であり、あなたがアラブ人であり、彼がロシア人であるがゆえに、それが妨げられているのです。違いますか。われわれはそこで、なぜこのような断片化が起こるのだろう、と問うているわけです。何がその根源なのでしょう? 知識でしょうか。


S――知識だとおっしゃりたいのですね。


K――知識でしょうか。私はたしかにそうだと思うのですが、しかしそれを質問として提出しているのです。


S――たしかにそうだと思われますが。


K――いやいや、踏みこんでごらんなさい。見出してみましょう。


S――あなたは、知識によって何を意味しておられるのですか、何を言おうとしていらっしゃるのですか。


K――「知る」という言葉。私はあなたを知っているでしょうか。あるいは、知っていたでしょうか。私は、自分はあなたを知っている、とは実際上けっして言えません。「私はあなたを知っている」「私はあなたを知っていた」などと言うのは、はなはだいまわしいことです。私がそう言っているあいだにも、あなたは変化している――あなたのなかでは、大きな運動が進行しているのです。私はあなたを知っている、と言うことは、あなたのなかで進行中の運動を私がよく知っていること、それを熟知していることを意味します。ですから、私はあなたを知っているなどと言うのは、あなたに対する私の側の厚かましさというものです。


S――たしかに。


K――ですから知ること、知識は、過去のものです。そう思いませんか。


B――そう、われわれが知っていることは過去だ、と私も思います。


K――知識は過去なのです。


B――なのにわれわれがそれを現在だとみなすところに危険があるのです。危険なのは、われわれが知識を現在だと思いこむことです。


K――まさにそのとおりです。


B――言い換えれば、もしわれわれが過去は過去だと言えば、それは断片化する必要がないということではないでしょうか。


K――それはどういうことですか。


B――もしわれわれがそう言えば、つまり過去は過去、過ぎ去ったことだと認識、承認し、それゆえ自分たちが知っていることは過去なのだとわきまえていれば、そのときには断片化をもちこむことはないはずです。


K――そう、もちこみません。そのとおりです。


B――しかし、もしわれわれが、自分が知っていることはいま現在なのだと言えば、そのときには断片化をもちこんでいるのです。


K――たしかに。


B――なぜならわれわれは、この部分的知識を全体の上に押しつけているからです。


K――博士、あなたは、知識が断片化の要因のひとつだと思われるのですね? それは、大きな苦い丸薬のようなものです!


B――そしてそれ以外にもじつにさまざまな要因があるのです。


K――そうかもしれません。しかし、それが唯一の要因かもしれないのです!


B――それをこんなふうに見たらどうでしょう――人々は、知識によって断片化を克服したいと願っているのだ、と。


K――もちろん。


B――すべてを総合するような知識体系をつくり上げることを願っているのです。


K――それが断片化の主因のひとつ、あるいはたぶん要因【そのもの】なのではないでしょうか。経験は私に、おまえはヒンドゥー教徒なのだ、と言いきかせます。経験は私に、自分は神とは何か心得ている、と告げるのです。


「分かる」ことは「分ける」ことである。

 しかし、人体の臓器や細胞をいくら調べたところで「人間を知る」ことはできない。全体的・統合的なアプローチが必要となる。


「知識は過去である」――蓄積された知識や理論は死んだものであり、脈々と流れ、刻々と去りゆく「現在」の意味を見失わせる。過去のイメージに束縛されている限り、生のリアリティを感得することはできない。このため我々の人生は常に「昨日の延長としての今日」となっているのだ。


 神話、昔話、先祖伝来の言い伝えに込められているのは、何らかの条件づけに他ならない。約束を守らなければ、玉手箱を開けてジジイになり、反物(たんもの)を織っていた鶴は去ってゆくのだ。人は物語に生きる動物である。物語がめでたしめでたしと完結するためには社会的成功が不可欠となる。成功は力によって獲得される。力は何らかの抑圧を生むため、その全てが暴力性をはらんでいる。一寸法師、桃太郎、金太郎が示す暴力性に注目せよ。正義の御旗(みはた)が用意された途端に暴力は正当化される。


 思考は知識であり、知識は過去である。目指すべきは思考の向こう側に広がる空(くう)なる世界である。心の奥深くに広大な宇宙が存在する。それを自覚した時、縁起の世界が開かれて万物と万物とがつながり、森羅万象を結び合わせる糸が見えるのだろう。

生の全体性

クリシュナムルティは脳の手術をした!?


 昨日、八王子の勉強会に参加したのだが、他の方々が知らなかったので紹介しておく。


 事実、クリシュナムルティは『神秘体験』中で「脳の浄化」の必要性に触れ、またある種の「手術」がおこなわれているようだとも述べています。


【「編集日記」大野純一】

2009-12-19

ロバート・キヨサキ、イサク・ディーネセン、ヘニング・マンケル、イドリース


 4冊挫折。以下、いずれも20ページ前後で何となく挫ける。


 挫折95『金持ち父さんの金持ちがますます金持ちになる理由ロバート・キヨサキ井上純子訳(筑摩書房、2008年)

 挫折96『バベットの晩餐会』イサク・ディーネセン/桝田啓介訳(筑摩書房、1989年/ちくま文庫、1992年)

 挫折97『笑う男』ヘニング・マンケル/柳沢由美子訳(創元推理文庫、2005年)

 挫折98『ハラーム〔禁忌〕』イドリース/奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(第三書館、1984年)

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五陰仮和合(ごおんけわごう)がよく理解できる。


〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。


 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。


 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。


 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。


【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】


 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。


 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。


 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。


 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。


 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。


 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。


 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)


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アフガン軍事請負企業に資金不正疑惑 米議会が調査へ


 米政府と契約しアフガニスタンで操業している民間の軍事請負企業が、巨額の公的資金を不正使用している疑惑が浮上し、米議会が調査に乗り出す予定だ。中でも輸送業務契約に絡む22億ドル(約2000億円)近くが、部族勢力やイスラム強硬派タリバーンに流れた疑いが問題視されている。


CNN.co.jp 2009-12-18

空気で走る究極のエコカー


「酸化窒素も排出しなければ、ほんの少しの塵さえも排出しない。わずかな二酸化炭素(CO2)の排出だけで、800キロメートルもの走行距離を可能にした」

創造的少数者=アウトサイダー

『反逆的文学論』(現文社、1967年)の著者吉村貞司氏はこう述べている。


 トインビーが「創造的少数者」と呼んだのが、アウトサイダーにほかならない。文化は彼ら少数者によっておしすすめられた。少数者はいつも社会の秩序の外、社会の常識の外にある。秩序の内部にいたら、あたえられた文化をくいつぶして行くだけだが、彼ら少数者はありきたりの社会、ありきたりの文化に満足することができない。だからこそ、社会に反抗し、戦いをいどむ。その戦いの中から、新しい価値が生み出されてくる。古い文化に頭をなでられて、いい子になるような根性のものには、なにひとつ創造することができない。どんなに大学教授の肩書きをもち、マスコミの波にのっかっていたからといっても、なにひとつじぶんのものを生み出すことができない。創造的少数者は、古いものの害毒にむかって戦いながら、新しい価値をつくり出す。しかしそれはけっしてなまやさしい道ではない。彼らがかならず社会の外にのがれるのもそのためだ。仏陀も、聖パウロも、マホメットも、ダンテも、カントも一度は社会からのがれた。ドストエフスキイもニイチェもやはりそうだ。彼らは社会から退却して、町を遠く離れた荒野の中に、あるいは見しらぬ地方に姿をかくしてしまう。じぶんひとりで問題にとりくむためだ。彼はその孤立の中で、活力と洞察力とを増し、問題のはっきりした解答を得たうえで、ふたたび社会の前に立ちあらわれてくる。その時には、社会に挑戦してうちから、彼の真理、彼の新しい解答で、勝利を得るだけの力をもつようになっている。


 これはクリシュナムルティにもすこぶるよく当てはまる。


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 とすれば、インサイダーは腐敗的多数者か。ありとあらゆる所属や帰属はインサイダーであることの表明である。アウトサイダーとは反逆者であり反骨の人であり真の革命家を意味する。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性


反逆的文学論 サルトル・ミラー・イオネスコ・禅/グロリア・ブックス 3

2009-12-18

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 137冊目『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)/クリシュナムルティ9冊目。1よりはるかに強烈だった。あまりにも鮮やかな風景描写が次々と出てくるため、自分が見慣れた光景も違って見えてくるほどだ。一方、人物描写は辛辣(しんらつ)で手厳しい。クリシュナムルティは手垢(てあか)にまみれた常識を突き崩す。一見すると言葉のトリックではないかと見紛(まが)うほどだ。努力を否定し、理想を否定し、秩序を否定し、思考を否定し、記憶を否定し、過去を否定し、「私」を否定している。「私」が止(や)んだ時、大いなる静謐(せいひつ)が訪れ、広大な縁起の世界がありありと展開すると教えている。鋳型(いがた)にはめ込まれ、変形してしまった自分の精神が浮かび上がってくる。

戦後教育に彗星の如く現れた生活綴方/『山びこ学校』無着成恭編

 今月の課題図書。若き無着成恭が取り組んだ生活綴方の結晶である。児童達の作文はゆったりとした方言を交えながら、生活と社会を実に鋭く見据えている。貧しい境遇に対して怨嗟(えんさ)の声を上げるどころか、その原因を調べるべく役所へ行って村の予算を調べたりしている。昭和20年代前半に書かれた作文でありながら、戦争に対する記述が殆どない。これ自体が地方――なかんずく山間部――の貧困を雄弁に物語っている。


 どの作文も面白いのだが、やはり白眉は冒頭にある江口江一(えぐち・こういち)の「母の死とその後」と題した作品だろう。後に文部大臣賞を獲得し、山びこ学校の名を全国に轟かせることになる。


 その次の日、忘れもしない11月13日の夜があけないうちです。母が入院している村の診療所から六角(地名)の叔父さんに、叔父さんのうちから僕のうちに「あぶない」というしらせが来て、みんな枕もとに集ったとき、そのことを報告したら、もうなんにもいえなくなっているお母さんが、ただ、「にこにこっ」と笑っただけでした。そのときの笑い顔は僕が一生忘れられないだろうと思っています。

 今考えてみると、お母さんは心の底から笑ったときというのは一回もなかったのではないかと思います。お母さんは、ほかの人と話をしていても、なかなか笑わなかったのですが、笑ったとしても、それは「泣くかわりに笑ったのだ。」というような気が今になってします。それが、この死ぬまぎわの笑い顔は、今までの笑い顔とちがうような気がして頭にこびりついているのです。

 ほんとうに心の底から笑ったことのない人、心の底から笑うことを知らなかった人、それは僕のお母さんです。


【『山びこ学校』無着成恭〈むちゃく・せいきょう〉編(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)】


 実は最近朗読に挑戦しており、この部分を録音したのだが胸が詰まり声が震えてしまった。逝去から三十五日を迎える前日に書かれているが、淡々と綴られており感傷的なところが全くない。貧困は母親の死を悲しむ機会すら奪っていた。


 山元村の子供達は幼い頃から重たい荷物を日常的に背負わされる。「あとがき」によれば中学生部門で江口が表彰された際、小学生部門を受賞した5年生よりも身長が5センチほど低かったという。


 山元村の子供たちは二宮金次郎の像を見て笑い飛ばしたという。「あればっかりのタキギを背負ったんじゃ、いくらでも本が読めらあ」と。少年たちは「頭を遙かに越える高さから、足のふくらはぎくらいにまで達するたきぎ」を背負うのが日常だった。


【『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年佐野眞一


 貧困は死を身近なものとして引き寄せる。生活することは文字通り「生きる」ことであった。そうでありながらも作文の大半は朗らかだ。笑い声がそこかしこにさざめいている。


 人と人とが助け合わなければ生きてはゆけなかった。そして半世紀を経た今も貧困はなくなっていない。なくなったのは「助け合う精神」と「衒(てら)いのない笑い声」だった。


 今年の春、山元中学校は閉校したそうだ(「川越だより」による)。

山びこ学校 (岩波文庫)


D

宗教は恐怖と不安を利用する


 洋の東西の宗教はいずれも、墓の向こうに何があるのかについて人間の大きな恐怖と不安を利用することによって、無数の民衆に影響と力を及ぼしてきた。聖職者たちの特技の一つは、彼らの指図に民衆が服従しないとき、だまされやすい彼らを地獄での悲惨な苦しみでもって脅すことだった。で、同じように、服従への正当な報いとして、彼らに天国での慰めを約束してきたのである。


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

2009-12-17

カルト教団のリーダーvsキネシクス/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー


 キネシクスなる言葉は知らなかった。ボディランゲージによる心理分析のこと。最初は「サイコキネシス」かと思ったよ(笑)。キャサリン・ダンスという女性捜査官が新シリーズのヒロインだ。


 相手が嘘をついているかどうかを見きわめようとするときに注目すべき要素は三つある。非言語行動(ボディランゲージ、またはキネシクス)、言語の様態(声の高さや話す速度の変化、答える前にためらうといった反応)、言語の内容(発言の中身)。先の二つは、嘘やごまかしの判断指標として、最後の一つよりはるかに信頼度が高い。“何を言うか”は思いどおりに変えることができる。しかし、“【どう】言うか”をコントロールするのは困難だ。また、その際にボディランゲージとして表れる反応も、意識的にコントロールするのは難しい。


【『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳(文藝春秋、2008年/文春文庫、2011年)】


 ジェフリー・ディーヴァーの作品は粗方(あらかた)読んでいるが、それぞれに何らかのテーマがあり、何となく高村薫と似た印象を受ける。とはいうものの、自家薬籠中の物にするのはディーヴァーの方が上手(うわて)だ。


 脱獄したカルト教団のリーダーを追うストーリーなのだが、まあいつにも増して二転三転ぶりが凄い。二十転くらいしているかもね。終盤に至っては、ややサービス過剰といったところ。才気が勝ち過ぎて胸焼けしそうなほど。


 カルトのリーダーは明らかに境界性人格障害で善悪という概念を欠いている。この男は過去に一家の惨殺に手を染めていた。その際、一人の少女が眠っていたために難を逃れた。奇蹟的に助かった少女は「スリーピング・ドール」と呼ばれた。


 しかしながら、本当の「スリーピング・ドール」は教祖に操られる女性メンバーだったってわけだよ。絶妙なタイトルセンスだ。


 540ページで上下二段という大冊だが、三日もあれば読めてしまう。

スリーピング・ドール〈上〉 (文春文庫) スリーピング・ドール〈下〉 (文春文庫)

根源的な革命、全面的な変容


 人間の意識に根源的革命を、人間の心理構造に全面的な変容をもたらすことが、絶対的かつ緊急の課題である。


 ――クリシュナムルティ


【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

腐った国家


 今、アフガニスタンは権益・公益・サービスなどに絡む政府高官の贈収賄が蔓延し、世界第2位の腐敗国とランク付けされている。第1位は内戦に明け暮れるソマリアである。第3位はミャンマー、第4位がスーダンそして第5位はイラクとなっている(腐敗や汚職の防止を目的に活動するNGO=非政府組織=であるトランスペアレンシー・インターナショナルのTransparency International's rankingによる)。

 ちなみに、最も腐敗が少ない国は、第1位ニュージーランド、第2位デンマーク、第3位シンガポール並びにスウェーデン、そして日本は第17位となっている。


【「アフガンで米国は戦争、中国は銅鉱山を取得 資源開発といつも隣り合わせの政治腐敗」谷口正次】

2009-12-16

名前すら付与されない悲劇


 キーボードを一心不乱に叩きながら彼女は語る。

「一番大きな問題は私たちのこの悲劇には名前がついていないことです。世界の注目どころか、国内でも無視され切り捨てられている」

 名前さえもついていない問題。確かにコソボ難民という言い方をすれば、ほとんどの外国人はアルバニア系住民のことを指すと思うだろう。


【『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社新書、2005年)】

終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ (集英社新書)

ヤスミナ・カドラ


 1冊読了。


 136冊目『テロル』ヤスミナ・カドラ/藤本優子訳(早川書房、2007年)/傑作。ガッサーン・カナファーニーユースフ・イドリースほどのインパクトはないが、水晶の如き文体と構成が素晴らしい。ヤスミナ・カドラはアルジェリア軍の元将校だというのだから驚き。イスラエルに帰化したアラブ人医師アーミンが主人公。最愛の妻が死んだ。妻は自爆テロを行った。衝撃の事実に打ちのめされたアーミンは憔悴の中から妻の動機を探るべくベツレヘムへと向かう。イスラエルとパレスチナの狭間(はざま)でアーミンは裏切り者扱いをされる。妻の真実を知った時、アーミンに訪れたものは何だったのか? まあね、凄いよ。アラブ文学ってえのあ、底が知れないね。ローリー・リン・ドラモンドといい勝負だ。

2009-12-15

平和賞授与でオバマ氏、アフガン「正しい戦争」


 テレビも新聞も見ないので、こんなニュースがあったことを知らなかったよ。


 オバマ米大統領に対する2009年のノーベル平和賞の授与式が10日、オスロの市庁舎で行われた。

 現職の米大統領の平和賞受賞は、1906年のセオドア・ルーズベルト、19年のウッドロー・ウィルソン両氏に続き3人目。

 授与式での演説でオバマ大統領は、「平和を維持するためには戦争という手段が演じる役割もあるのだ」と述べ、アフガニスタン戦争を「正しい戦争」と位置づけた。その上で、今月1日に発表したアフガンへの米軍追加増派に関し、「米国民が直面している脅威を座視は出来ない。交渉でアル・カーイダを武装解除することは出来ないのだ」と語って戦争遂行の必要性を強調した。受賞理由の一つとなった「核なき世界」についても、実現に向けた決意を改めて表明した。


【読売新聞 2009-12-11】


 オバマは誤っている。戦争という戦争は「全て正しい」のだ。戦争の原動力は「正義」である。自分の正義を手放さない限り、人類に平和が訪れることはないだろう。


大量破壊兵器なくても「正しい戦争」=対イラク参戦で前英首相


 ブレア前英首相は12日、BBC放送の番組に出演し、2003年のイラク攻撃への参戦決定について、当時のフセイン大統領が大量破壊兵器を持っていたかどうかとは別の次元で決断したと主張した。BBC放送(電子版)が伝えた。

 ブレア氏は「フセイン大統領の考え方そのものが中東の脅威だった。(フセイン政権による)大量破壊兵器開発はその一つにすぎなかった」と釈明した。また、当時は「脅威の性格について(現在とは)違う議論をしなければならなかった」とも訴えた。

 その上で「今でもフセイン大統領がいた方がよかったのか。フセイン大統領の2人の息子が権力を握っていた方がよかったのか。そうは思えない」と強調し、フセイン政権打倒は正しかったと主張した。


時事ドットコム 2009-12-12】

鹿児島県阿久根市の竹原信一市長の障害者ブログ問題

阿久根市長ブログ障害者記述 「生命の尊さ軽んじている」 医療福祉4団体謝罪求める 鹿児島


 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が、自身のブログ(日記風サイト)に障害者の出生を否定するような記述をした問題で、福祉・医療従事者らでつくる県内4団体は9日、謝罪を求める声明を市長に郵送した。

 4団体は、県ソーシャルワーカー協会と県医療ソーシャルワーカー協会、県精神保健福祉士協会、県社会福祉士会。

 声明は「障害者の生きる権利や幸福を追求する権利を否定し、人間の生命の尊さをあまりにも軽んじている」と批判。障害者や家族、関係者に与えた心の傷は大きいとして謝罪を求めている。

 9日は1975年に「障害者の権利宣言」が国連総会で採択された日で「障害者週間」(12月3−9日)の最終日に当たる。県社会福祉士会は「市長の立場での発言が、障害者や関係者に、より大きなショックを与えることを認識してほしい」としている。

 竹原市長は11月8日付のブログに「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰(とうた)された機能障害を持ったのを生き残らせている」などと記述。「『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ」とも主張し、障害者団体などから批判が相次いでいる。

西日本新聞朝刊 2009-12-10


障害者ブログ問題 阿久根市長、謝罪拒む 市議会一般質問 問題提起と強弁


 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が自身のブログで障害者を差別的に記載している問題が14日の市議会一般質問で取り上げられ、市議が謝罪を求めたのに対し、竹原市長は「謝罪する気持ちはない」と突っぱねた。市民からは「謝ってほしかった。残念だ」と失望する声が上がった。

 市長は11月8日付のブログに「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰(とうた)された機能障害をもったのを生き残らせている」などと記述。障害者団体が「障害者や家族の心を土足で踏みつけにした」などと抗議文を提出したり、全国から市役所に抗議電話やメールが殺到したりしている。


西日本新聞 2009-12-14


障害者ブログ問題 傍聴者から批判続出 阿久根・竹原市長の謝罪拒否答弁 発言擁護する議員も


 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長の障害者ブログ問題は14日、市議会で謝罪を求める一般質問が相次いだが、竹原市長は「この問題は社会全体として考える必要があり、謝罪することは反対方向に進む」と答弁し、謝罪を拒否した。これに対し、市議や傍聴者の間では賛否が分かれた。


西日本新聞 2009-10-15

負け組投資家に共通する心理/『マーケットの魔術師 米トップトレーダーが語る成功の秘訣』ジャック・D・シュワッガー


 既に古典となった感のあるトレーダーの教科書。名立たるビッグプレイヤーのインタビュー集である。シュワッガーの投げ掛ける具体的な質問が、彼等の相場哲学を巧みに引き出している。読むのは二度目だが、わかりやすい言葉の奥に光を湛(たた)えた鉱物が隠されている。ヒントが答えとなり、答えがヒントに転じる。相場師が真実を語ることは少ない。そもそも魔術師に種明かしを期待する方がどうかしている。


Q●それらの要因を考慮した上で、儲けることのできないトレーダーにはどんな特徴があるのでしょう。


Dr.バン・K・タープ●儲けることのできないトレーダーは、次に述べるようないろいろな側面を持っています。非常に強い緊張を強いられておりリラックスできない、悲観的な人生観を持っていていつも最悪の事態を想定してしまう、心の中にたくさんの矛盾を持っている、物事がうまくいかなくなったときに他人のせいにするなどといったものです。そのような人は何事においても優柔油断であり、常に周りの行動に左右されてしまうのです。また、彼らは計画的ではありませんし、忍耐強くもありません。すぐに行動しようとしてしまいます。しかし、儲けることのできないトレーダーの多くが、今述べたような悪い面を全て持っているわけではありません。一部分を持っているに過ぎないのです。


【『マーケットの魔術師 米トップトレーダーが語る成功の秘訣』ジャック・D・シュワッガー/横山直樹訳(パンローリング、2001年)】


 バン・K・タープは投資家の心理マネジメントを生業(なりわい)とする人物である。マーケットは万人の欲望が剥(む)き出しになっている世界である。過酷なまでに平等な世界は厳しい損益でもって評価される。そこでは1円の誤魔化しもインチキも通用しない。リスクをコントロールできなければ、含み益はあっという間にマイナスとなり、損切り・追証という仕打ちが待っている。


 建玉・決済の判断はいつだって微妙にして繊細なものだ。一瞬の心の揺れ――そこに投資家の人生が凝縮されている。過去の僥倖(ぎょうこう)にしがみつき、心の中で「たられば」を繰り返し、自分に自分で言いわけをしながら損に損を重ねているのが一般投資家の実態であろう。これをタープは「緊張と矛盾の露呈」と指摘している。つまり、ストレスと嘘があるわけだ。


 しかしながら、タープの心理的アプローチそのものが「投影」を前提としており、科学的な根拠や因果関係を証明しているわけではない。かようなタイプが多いという程度の話だ。


 何かを鵜呑みにする人はコントロールされやすい人物である。タープの発言はひょっとするとポジショントークかもしれない(笑)。「だからあなたは、私にカウンセリングを受けるべきなのだ」と。


 情報は「使う」ものだ。情報が教条と化す時、一般投資家はマーケットから弾き飛ばされることだろう。自ら学ぶことなくして、この世界で幸福を勝ち取ることはできない。

マーケットの魔術師 − 米トップトレーダーが語る成功の秘訣

ジェフリー・ディーヴァー


 1冊読了。


 135冊目『スリーピング・ドールジェフリー・ディーヴァー/池田真紀子訳(文藝春秋、2008年)/キャサリン・ダンスという女性捜査官が主役。新シリーズのようだ。これがまた凄い。彼女は、話し方やボディランゲージから心理を読み解くキネシクス分析のスペシャリスト。カルト教団のリーダーが脱獄した。彼もまた人の心を見抜く天才だった。そして神の如く人の心を操るのだった。スピーディーな展開に磨きがかかり、まるで『24』さながら。読者を騙す仕掛けがあちこちに盛り込まれている。そんじょそこいらに転がっているミステリの5冊分に匹敵する内容だ。一つだけ瑕疵(かし)を挙げるとすれば、終盤で二転三転する展開はディーヴァーの才が勝ち過ぎて鼻につく。昨日深夜読了。540ページで上下二段組だが3日もあれば読めてしまう。

書物


「その人間が、考えていることを書物にするまでには、おそらく一生を費やしたのじゃないかな。世界を見、人を見、一生を賭けて考えぬいたあげく、書物のかたちにしているのだ」


【『華氏451度』レイ・ブラッドベリ/宇野利泰訳(早川書房、1964年/ハヤカワ文庫、1975年)】

華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

2009-12-14

アレルギーの発見


 スコットランドのセント・アンドリュース寺院の大司教ジョン・ハミルトンは、長い間激しい喘息の発作に悩まされていた。(ジロラーモ・)カルダーノは、ハミルトンの異母兄の貴族ジェームス・エールの招きによって、1552年にイタリアからスコットランドまで往診することになった。

 到着したカルダーノは、ハミルトンを数日丁寧に診察したのち、大司教が愛用していた枕を取り上げてしまった。枕には最も高価な白鳥の羽毛が入っていた。不満だった大司教は、しかし、翌日から全く喘息の発作を起こさなくなった。アレルギーという言葉さえ存在しなかった16世紀に、カルダーノは、大司教の喘息の原因がほかの家族の枕では使われていない白鳥の羽毛であることを見抜いたのである。

 エジプトのヒエログリフや、古代ユダヤのタルムード教典には、蜂に刺されて急死した人の話が現われる。何れもアレルギー機序で起こるショック死であると考えられている。しかし、事実の科学的考察というものが医学に導入されたルネサンス以後も、病い(ママ)の座としての特定の臓器を持たず、かつそれぞれの人によって異なった原因を持ち異なった現われ方をする病気、アレルギーは、近代医学の視野の中に入ってこなかった。アレルギー体質のことをアトピーというが、それはギリシャ語のATOPOS' いわば「場違いな」という言葉からきている。


【『免疫の意味論』多田富雄青土社、1993年)】

免疫の意味論

2009-12-13

ただひとりあること〜単独性と孤独性/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 全4冊。これがクリシュナムルティにとっての法華経といってよい。随所に盛り込まれた問答形式が日蓮の『立正安国論』を想起させる。いずれのテキストも3〜5ページほどでエッセイのような章立てとなっているが、内容は重量級だ。


 言葉というものは話そうと書こうと、いずれにせよ自分の内面から現れるものである。時に間違えたり、誤魔化したり、嘘をついたりすることもあるが、見る人が見ればおのずとわかるものだ。言葉とは自分そのものであり、自分という存在は言葉でしか表現することができない。


 サラリーマンをしていた頃、上司の家に招かれた折に私はじっと本棚を見つめた。元来本好きなこともあって舐(な)めるように見続けた。上司は面映(おもはゆ)げに言った。「あんまり見ないで欲しいな。何だか心の中を覗かれているような気になってくるよ」と。ご明察だ。本棚というのはその人の思考回路の本拠地みたいなものなのだから。


 クリシュナムルティが描き出す風景は絵のように美しい。そして時間の経過を感じさせない性質がある。厳密にいえば決してそうではないのだが、クリシュナムルティの深い観察と、鮮やかに切り取られた記憶の断面がそんなふうに感じさせるのだろう。


ただひとりあることと孤立


 太陽はすでに沈み、暗くなりゆく大空を背景に、木々は黒々と、そして姿よく立っていた。広く、力強い川は、そのとき、おだやかで静かだった。月が、ちょうど地平線上に現われた。彼女は、二本の大樹の間を昇っていったが、まだ影を投げてはいなかった。

 その川の急な堤を昇ってから、緑色の小麦畑のまわりをめぐっている小道を歩いた。この細道は、非常に古い道であった。幾千人もの人々によって踏みならされてきたこの道は、伝統と沈黙にあふれていた。この道は、畑や、マンゴー、タマリンドの木々、そして廃殿の間をうねり抜けていった。大きな花園が並んでおり、スイートピーの快い香りが空中をにおわせていた。鳥たちは、夜の眠りにつくために巣に帰りつつあった。そして大きな池の上には星々の姿が映りはじめた。その晩、自然は寡黙だった。木々は超然としており、それぞれの沈黙と暗闇の中に引き籠っていた。村人たちがほんの数人、自転車の上でおしゃべりをしながら通り過ぎていった。そして再び、深い沈黙と、あらゆるものがただひとりあるときに訪れる、あの平和があった。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)以下同】


 ウーーーム、実に味わい深い。これこそクリシュナムルティが「観察した世界」なのだ。生き生きと流れ通う現在を知覚した時、世界の一瞬はこれほど美しく輝いている。絶妙なイントロだ。


 この単独性(アローンネス)は、うずくような、恐ろしい孤独性(ロンリネス)ではない。それは、存在がただひとりとしてあることであって、不壊(ふえ)なるものであり、豊穣で、完全である。あのタマリンドの木は、それ自身である以外のいかなる存在も持たない。それゆえに、この単独性がある。火のように、花のように、人はただひとりある。しかし、その純粋さ、その無限の広がりは気づかれない。単独性があるときにのみ、真の共感が可能となるのである。ただひとりあることは、克己や自己閉鎖の結果ではない。ただひとりあることは、一切の動機、一切の願望の追求、一切の目的を一掃することである。ただひとりあることは、精神の最終結果ではない。ただひとりありたいと願っても、それは求めて得られるものではない。そのような願望は、共感できないことの苦痛からの逃避にすぎないのである。

 孤独は、その恐怖や葛藤とともに、孤立であり、自我の避けがたい行為である。この孤立過程は、広狭を問わず、混乱、葛藤、そして悲嘆をもたらす。孤立からは、決して単独性は生まれない。他方があるためには、一方が終わらねばならない。ただひとりあることは不可分にあることであり、孤独は分離である。ただひとりある者はしなやかであり、そしてそれゆえ不朽である。ただひとりある者だけが、原因を持たないもの、不可測のものと交わりうるのである。ただひとりある者にとって、死はない。ただひとりある者には、終りはありえない。


 クリシュナムルティの慧眼(けいがん)恐るべし。孤独は山中にあるのではなく、街の中に存在する。孤独はコミュニティや教室、そして家の中にある。孤独は群(むれ)の中で生まれる。民主主義がいつまで経っても成熟しないのは、孤独を恐れる人が多いためだろう。


 単独性とは比較を拒絶する精神であり、競争に勝つことを是(ぜ)としない価値観である。エベレストは気高く、富士山は美しい。標高は違っても完璧な単独性がある。「alone」(単独)という言葉は「all one」(全一)に由来している。


「ただひとりあること」――これに過ぎる名言はない。クリシュナムルティが説く「反逆」を実践する鍵もここにあるのだ。孟子は「自ら省みて直(なお)くんば、千万人といえども我行かん」と言った。ブッダは「犀の角の如く独り歩め」(スッタニパータ)と教えた。日蓮は「師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(「佐渡御書」)と叫んだ。先哲の言葉は完全に一致している。


 最後の「死はない」という件(くだり)がわかりにくいことと思う。クリシュナムルティは、人間の葛藤は知識によって生ずるものであとしている。そして知識を構成しているのは記憶であり、記憶は過去に束縛されている。それゆえ、過去の経験の延長線上で現在を生きているため、真の現在を知覚できないとしている。つまり、過去を死なせなければ現在に生きることはできないというのだ。仏教的な解説を加えるなら、瞬間瞬間に生死(しょうじ)が完結することで、生は如々として流れ通う(=如来)という意味になろう。これを生死の二法という。日蓮は「臨終只今にありと解(さと)りて」(「生死一大事血脈抄」)生きてゆくよう門下に促しているが全く同じ意味である。つまり、生死という目に見える現象に捉われるのではなくして、瞬間の生命の実相に生死が含まれ、生も死も本然(ほんねん)として生命に具(そな)わっているものなのだ。朝起きて夜眠るのも生死である。また、人体の細胞が生死を繰り返すことで我々の生命は維持されている。


 このテキストは次のように締め括られる――


 月はちょうど木々の頂の上に現われ、そして影は厚く、黒々としていた。小さな村を通り抜け、川沿いを歩き戻ってくると、犬が一匹吠えはじめた。川が静まりかえっていたので、星々と長い橋からの光が水中に捕まっていた。ずっと高くの堤の上では、子供たちが立って笑っており、そして赤ん坊が一人、泣いていた。漁師たちは、自分たちの網を洗い、巻き収めていた。夜鳥が一羽、静かに飛び去った。広い川の向こう岸で、誰かが歌を歌いはじめた。そして彼の歌詞は、澄んでおり、よく通っていた。そして再び、一切に浸透する生の単独性がそこにあった。


 単独性とは固有性であり独自性でもあった。これが「ただひとりあることと孤立」と題されたテキストの全文である。短篇小説、あるいは名曲を思わせるほどの絶妙な構成だ。

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より


D

順張りの哲学/『ワイルダーのアダムセオリー 未来の値動きがわかる究極の再帰理論』J・ウエルズ・ワイルダー・ジュニア


 ワイルダーはRSIやADXを開発した人物である。ま、大御所といってよい。その大先生が何と100万ドルを払って買った理論というのがアダムセオリーだ。高い本なので再度読み直した。


 導入部が実に素晴らしく、投資家が陥りやすい心理状況を辛辣(しんらつ)に戯画化している。


 彼らは相場観に基づいたトレーディングはけっして行なわない。


「マーケットで成功するには、市場に身を任せることです」


 身を任せるということは、ある意味では放棄することです。それは、マーケットに対する意見、判断、そして結論をすべて放棄することです。これは大変難しいことなのです。それは私たちが長い年月をかけて辛抱強くマーケットについて学び、有益な知識として積み上げているからです。

 つまり、私たちは知っていると勘違いしている知識をあまりにも多く持ちすぎているのです。知識を放棄することは大変難しいことなのです


【『ワイルダーのアダムセオリー 未来の値動きがわかる究極の再帰理論』J・ウエルズ・ワイルダー・ジュニア(パンローリング、2003年)】


 こうなると宗教のレベルに近い。つまり、「欲望から離れる」視点が求められているというわけだ。それを欲望まみれのマーケットで行えというのだから、やはり何らかの達観が必要となるのだろう。


「身を任せる」という言葉で想起されるのは、波乗り、ダンス、空高く舞う鳥といったところか。リズムが一致する時、身体から力が抜け、リラックスしていながらも絶妙な阿吽(あうん)の呼吸が生まれる。シンクロニシティ共時性と訳されているが、時とはリズムを意味し、刻々と一体化する様相を示している。


 で、アダムセオリーなんだが、これがまた拍子抜けするほど簡単な理論でにわかには信じ難いところがある。「でもなー、ワイルダーが100万ドルもはたいたのだから、嘘のわけもないしなー」と自分を言いくるめようと頑張るのだが中々難しい(笑)。


 多分、フィボナッチ数列フラクタルと同じ概念なのだろう。回帰理論といってよい。


 そもそもテクニカル分析は徹底して過去にこだわり、チャートの中に未来を見出す手法である。なぜなら人間は必ず同じ過ちを犯すからだ。つまり、人類に進歩なんぞあるわけがなく、グルグルと六道輪廻を繰り返すだけだ、という冷徹な現実主義がそこにはある。


 だが理論は理論に過ぎない。理論に相場をはめ込もうとした途端にチャートは反転する。市場は生き物である。予想が100%当たるようになれば、それは市場の死を意味するのだ。

ワイルダーのアダムセオリー 未来の値動きがわかる究極の再帰理論 (ウィザードブック)

邪魔とは

 これらの誘惑、不安、揺らぎなどの煩悩を悪魔の形で表わし、釈尊と悪魔(煩悩)との戦いとして伝記には書かれています。お経のなかではこの悪魔を「邪魔」と表わしています。


【『人間ブッダ』田上太秀〈たがみ・たいしゅう〉(第三文明レグルス文庫、2000年)】

人間ブッダ

2009-12-12

浄水器 C1 スタンダードタイプ CW-101:日本ガイシ


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マルシマ有機純正醤油こいくち1000ml 丸島醤油


 美味いらしいよ。


マルシマ 有機純正醤油 こいくち 1000ml


「マルシマ有機純正醤油こいくち1000ml」は、有機大豆(遺伝子組み換えでない)、有機小麦、食塩(天日塩を古式醸造法で仕込んだ濃口醤油です。杉の古桶でじっくり熟成させています。軽くて割れにくいペットボトル入り。製造元:丸島醤油/内容量:1000ml

映画『THE WAVE』


 普通の高校生が、軽い気持ちで参加した実習だった。テーマは「独裁制」。生徒から指導者に選ばれた教師が提案したのは、指導者に「様」をつけるなどのいくつかのルールだけ。戸惑っていた生徒も自分の役割に夢中になる▼心地よい集団の一体感。暴走し始めた熱狂はやがて制御不能に陥る……。ドイツで昨年240万人を集客、日本で公開中の映画「THE WAVE」は、1960年代の米国の高校で実際にあった心理実験が基にある▼映画を見て、サリン量産プラントの建設にかかわった30代のオウム真理教元幹部を思い出した。彼は同じ実験授業を題材にしたビデオを通じて、マインドコントロールの意味を理解できたと語っていた▼オウム事件を知らない若い世代が増える中、事件を象徴する元幹部にきょう最高裁で判決が言い渡される。元「諜報(ちょうほう)省」トップの井上嘉浩被告(39)。16歳で入信、「天才的修行者」と教祖に持ち上げられた若者だ▼彼のように死刑判決を受けた元幹部の多くは、「自分探し」の中で教団に出会い、汚い現世に生きる人たちを救いたいという究極の「善意」から殺人まで犯したように見える▼罪を悔い、極刑を覚悟する彼らを、私たちとは別世界の特別な人たちと言い切れるのか。「鬼畜米英」を叫ぶ国民が、日米開戦を熱烈に支持してから、まだ70年もたっていないのだ。


筆洗/東京新聞 2009-12-10

ザ・ウェーブ


D

ピタゴラスの定理

「自分だけがわかっている」ことを、どのようにして人々に伝え、理解させるか。ここに賢者の葛藤があった。悟りを開いたブッダも同様だ。梵天勧請から初転法輪へと至る物語は、ブッダ己心の葛藤を劇的に示したものだ。仏道における自行(じぎょう)と化他(けた)は、いかなる世界においても同様であり、開かれた思想はおのずと対話の地平へ進む。そして真理は対話によって普遍性と法則性を有するようになるのだろう。

 ここで重要なことを一つだけ述べておこう。この定理は今後ともピュタゴラスにちなむものとして語られるだろうが、実はピュタゴラスより1000年も前に、中国人やバビロニア人はこれを利用していたのである。しかし、この定理がすべての直角三角形で成り立つことは知られていなかった。具体的などれかの直角三角形ではたしかに成り立つのだが、すべての直角三角形で成り立つことを示す手段がなかったのだ。この定理を発見したのはピュタゴラスだと言われるのは、この定理が普遍的に成り立つことを初めて示したのが彼だったからである。


【『フェルマーの最終定理 ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで』サイモン・シン青木薫訳(新潮社、2000年/新潮文庫、2006年)】

フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-12-11

無着成恭


 1冊読了。


 134冊目『山びこ学校』無着成恭〈むちゃく・せいきょう〉編(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)/今月の課題図書。私は20代で一度読んでいる。暮らしの息づかいが伝わってくる。貧しくとも、いや貧しいからこそ、死が身近にあるからこそ、生が鮮やかな輪郭で躍動しているのだ。戦後の教育事情は決してよくなかったようだ。その中で若き無着は真の教育に挑戦し、見事に花を開かせた。勉強と生活を密接に結びつけ、地域のあり方まで考えさせ、更に子供達がメッセージを放つまでに成長している。無着が行ったのは生活綴方というものだった。子供達は書くことで生活を見つめ、書くことで社会を変革しようとした。山びこ学校のその後については、佐野眞一著『遠い「山びこ」 無着成恭と教え子たちの四十年』が詳しい。

概念と方法


 例えばピタゴラスの定理、あるいは日蓮のマンダラは「方法」を示したものと考えることができよう。「方法」とは何か? それは普遍性・法則性を伴った検証の仕方である。


 緯度と経度の概念は、すでに紀元前1世紀に存在していたが、1700年に至るまで、経度を正確に計測する方法がなかった。つまり、どれほどの距離を東あるいは西に自分たちが移動しているのか、だれ一人確証が持てなかったのだ。当時、クロウズリ・シャヴェルのようなプロの船乗りたちは、移動距離を推定するために2種類の方法を使い分けていた。一つは平均の速度を推定する方法、もう一つは物差し代わりの棒切れを船から海に投げ込み、それが船首から船尾まで到達する時間を計る、という方法だ。


【『まず、ルールを破れ すぐれたマネジャーはここが違う』マーカス・バッキンガム&カート・コフマン/宮本喜一訳(日本経済新聞社、2000年)】

まず、ルールを破れ―すぐれたマネジャーはここが違う

2009-12-10

人類は7万5000年前から言語を使用していた


 ちなみに「脳の大型化」は第2章で見るが、約240万年前以降のことだ。「複雑な言語の使用」は、化石からは読みとりにくいが、最新の証拠によると7万5000年前ごろには獲得していたらしい。


【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】


 とすると、大型化された脳は230万年以上も何をしていたのだろうか? 言葉の誕生は「思考の獲得」を意味する。そして、「自我」が形成されるのだ。

人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)

人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ


人間の問題 1」の続き――


 世界は完全に分裂しています。

 ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、クリスチャン、共産主義者というイデオロギー的な分裂、それは測りしれないほどの害を、非常な憎しみと対立をもたらしています。

 宗教的なものであろうと政治的なものであろうと、イデオロギーというのはすべて馬鹿げたものです。というのも、それは概念的な思考、概念的なことばであるからで、まったく嘆かわしいことですが、まさにそれが人びとを分断してきたからです。

 こういったイデオロギーが、戦争を引き起こしてきたのです。

 宗教的な寛容さといったものもあるかもしれませんが、それもある限度までのものでしかありません。そこを過ぎれば、破壊、狭量さ、残忍さ、暴力――宗教戦争です。

 同じように、イデオロギーによって引き起こされる国家や民族の分裂、ブラック・ナショナリズムなどさまざまな種族的あらわれがあります。

 いったい、この世界のなかで、非暴力的に、自由に、高潔に生きることは可能でしょうか?

 自由は絶対に必要です。

 といっても、したいことをするといった、個人にとっての自由のことではありません。

 なぜなら個人というのは条件づけられているからです。

 この国で暮らしていようと、インドあるいは他のどこかで暮らしていようと。

 人はその社会や文化、その人の思考構造のすべてによって、条件づけられているのです。

 いったい、こうした条件づけから自由になることは可能なのでしょうか?

 イデオロギー的にではなく、ひとつの観念としてではなく、現実のこととして、心理的に、内的に、自由になることは?

 それが可能でないとしたら、民主主義や公正なふるまいなどがどうしてありうるのか、私にはわかりません。

 さらに、「公正なふるまい」という表現は、どちらかといえば見下されていますが、軽蔑的な意味はいっさい抜きで、それが意味するところを伝えるためにこうしたことばを使えるよう、私としては望んでいます。

 自由というのは考えではありません。

 自由について書かれた哲学は自由ではありません。

 人は自由であるか自由でないかのどちらかです。

 それがどんなに飾りたてられていようと、人は牢獄にいます。

 囚人が自由であるのは、もはや牢獄にいないときだけです。

 自由は、思考にとらわれた心の状態ではありません。

 思考は自由にはなりえません。思考というのは、記憶や知識、経験の応答です。

 それはつねに過去の産物であって、どうあっても自由をもたらすことはできません。

 自由は、生きて活動している現在のなかに、日々の生のなかにあるものだからです。

 自由は、「なにかからの自由」ではありません。

 なにかからの自由というのは、たんなる反応にすぎないのです。

 なぜ人びとは、思考というものにこれほどの重要性をもたせてきたのでしょうか?

 その人が実践しようとしているものに従って、概念を公式化するような思考に?

 イデオロギーの公式化と、そうしたイデオロギーへの意図的な順応は、世界じゅうで見られます。

 ヒトラー・ムーブメントはそれをしましたし、共産主義者たちはそれを徹底的にやっています。宗教集団、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教徒などなどは、2000年にわり、プロパガンダを通じて自分たちのイデオロギーを主張してきましたし、脅しによって、約束によって、人を追従させてきました。

 こうした現象は世界じゅうで見ることができます。

 人間はずっと、思考にこれほどの特別な意義、重要性を与えてきたのです。

 より専門化され、知的なものになればなるほど、思考はますます重大なものになります。

 そこで私たちは問いかけるのです。

 そもそも思考は、私たち人類の諸問題を解決することができるのだろうか、と。(※ブランダイス大学での講話)


【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ/竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】


 決して難しいことを言っているわけではない。そうでありながら、我々の既成概念が激しく揺さぶられる。しかし、揺さぶられるのだがまた元通りになる(笑)。案の定、変容は起こらないわけだ。つまり我々に求められているのは、振動がそのまま地殻変動を伴うような洞察なのだ。


 クリシュナムルティは問う。「人間がイデオロギーから自由になることは可能だろうか?」と。ここに一つ目のトラップがある。イデオロギーとは思想・信条のことだ。すなわち人々が最も大切にし、拠(よ)り所とし、「それなくして自分の人生は成り立たない」と思っているものである。


 我々は、「自由にものを考えることができるから、現在の思想・信条に至った」と考えている。だが、クリシュナムルティは正反対のベクトルから問いかけている。結局のところ我々は、自由を享受していると錯覚しながら、ありとあらゆる条件づけによって一つの型に誘導されているのだ。


 飛込競技の選手が自由落下の過程で次々と高度な技を発揮する。地面に束縛された我々はそこに自由を見出す。だがクリシュナムルティは、「落下しているだけであり、地球の重力に引き寄せられているだけのことだ」と喝破しているのである(※尚、飽くまでも「例え」であって飛込競技を批判する意図は全くないことを付け加えておく)。


 スポーツの世界が人々を魅了してやまないのは、身体的な自由を発見できるからであろう。しかしそれらは、いずれも重力に束縛された中での自由なのだ(=牢獄の自由)。その心理的重力をクリシュナムルティは「条件づけ」「順応」と指摘した。


 二つ目のトラップは、イデオロギーを思考に結びつけることで、今度は「思考から自由になることは可能か?」という疑問に導いている。そして、「思考は過去である」というクリシュナムルティの基本的な考えが示される。


 思考は経験に束縛されている。経験は多くの場合、周囲からの評価に基づいており、これが強力な条件づけとして機能している。脳が称賛を快感と感じてしまうので避けようがない。このようにして人間の自我は、社会からの評価によって大きくなったり小さくなったりするのだろう。


 また、思考を構成しているのは言葉であり知識である。いずれも実は情報に過ぎない。それらは一切が既成のものであり、手垢(てあか)まみれになっている。


 確かに科学の世界で新たな原理や公式が誕生することはある。だが発表されるや否や、それは過去のものとなるのだ。言葉と知識に依存する思考は、過去に支配されていることが明らかだ。


 我々の生は、過去の反応であり、過去の投影であり、過去を踏襲するだけのものとなってしまっている。だから「私」は変わらないのだ。そして「世界」も変わらない。挙げ句の果てに我々は、未来をも過去の影絵のように見つめている。


 ここでクリシュナムルティが志向しているのは、「過去からの自由」である。つまり、歴史や経験からの自由といってよい。ありとあらゆる条件づけを打ち破った向こうにあるものは何か? それは「現在」である。刻々と流れ通う清水の如き生命の奔流がそこに存在するのだ。これを知覚することで変容が訪れる。


 ブッダはこうした生命の様相を「如来」(にょらい)と説き明かした。元々は「如去」(にょこ)と称したようだ。つまり、如々として来り、如々として去るその瞬間に生の本質(諸行無常、諸法無我、諸法実相)があるのだろう。この実相に三千の諸法を羅列したのが一念三千の法理である。仏教が着目したのは死後の世界などではなく、瞬間瞬間の生命の実相であった。


あなたは世界だ

2009-12-09

人間の問題 1/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ

 クリシュナムルティ華厳経(けごんきょう)に該当する作品。四つの大学で行われた講話が収められている。やや難解となっているのは、若き知性に対して真剣勝負を挑んだためであろう。「何とか理解してもらおう」などと下手に出るようなところが全く見られない。プロ野球のピッチャーが高校球児を相手に剛速球を投げているような印象を受けた。


「あなたは世界であり、世界はあなたである」――これはクリシュナムルティがしばしば語った言葉である。私が世界であり、世界が私であるならば、戦争や貧困を初めとする諸問題の原因は、私がつくり出していることになる。


 だが、急にそんなことを言われても困る。確かに私は人一倍暴力的な傾向が強いが、人殺しをしたことはない。10代の頃から戦争には反対する立場を堅持してきたつもりだ。9.11テロイラク戦争と私は全く関係がない。


 おわかりになるだろうか? 私が「関係ない」と言った瞬間、そこに断絶が生まれるのだ。そうして断絶は分断を促し、分断された世界が戦火にまみれ、貧困を放置しているのである。関係が遮断(しゃだん)されると、人は心に痛みを感じなくなる。殺人事件、交通事故死、振り込め詐欺、医療事故、難病、自殺……全部他人事だ。


 つまり、私の世界というのは血縁、地縁、友人、仕事関係の範囲内であって、閉ざされた狭いものとなっており、その世界でしか生を感じられなくなっているのだ。バラバラに裁断された世界は、より大きなコミュニティから必ず支配される。そう、国家だ。例えば極端な話ではあるが、召集令状が来れば私はそれを拒否することができない。きっと、万歳三唱に見送られて戦地へ送り出されてしまうことだろう。


 では、世界を取り巻いているのはどのような問題なのか――


 旅をしていますと、人間の問題というのは、うわべは異なるように見えても、実際にはどこでも本質的に似通ったものだ、ということがよくわかります。

 暴力の問題と、自由の問題があります。

 自分自身の内側においてだけでなく隣人たちとも、葛藤を生じないである程度の品位を保ちつつ平和に暮らすことができる、人と人との真のよりよい関係を確立するにはどうすればよいか、という問題があります。

 そしてまた、アジア全土においてのことですが、貧困、飢餓、貧しい者たちのまったき絶望といった問題があります。

 さらに、この国や西欧においては、繁栄からくる問題があります。節度を欠いた繁栄があるところには暴力が、あらゆるかたちの非倫理的な放縦が存在します。腐敗しきった、不道徳きわまりない社会――。

 組織化された宗教の問題があります。程度の差はありますが、世界じゅうの人びとが拒絶しつつある宗教の問題です。

 そしてまた、宗教心とはなにかという問題、瞑想とはなにかという問題があります。それらは東洋だけのものではないのです。

 さらには愛と死の問題があります。

 関連する問題は数知れません。

 話し手は、インドのものにせよなんにせよ、概念的思想やイデオロギー体系を提示するということはいっさいいたしません。私たちが多くの問題を、その道の達人や専門家とともにということではなく――というのも話し手はそのどちらでもないからなのですが――一緒に話しあうことができるとしたら、私たちは正しいコミュニケーションを築くことができるでしょう。

 けれども、言い表されたものというのは、それがどんなにくわしく述べられていようと、微に入り細をうがっていようと、どんなにうまくまとめられ、すばらしいものであろうと、言い表そうとしているそのもの自体ではないのです。(※ブランダイス大学での講話)


【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ/竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】


 講話の冒頭部分である。クリシュナムルティは「一緒に話し合おう」と呼び掛けながらも、「ただし、言葉を鵜呑みにするな」と突き放している。なぜなら、言葉というものは発せられた瞬間に知識へと変貌するからだ。論理や思考は智慧ではない。「隣人を大切にすべきだ」――誰もがそう考えている。だが現実はそうなっていない。思考や論理で世界を変えることは不可能である。変容が起こるとすれば、そこには必ず智慧が発動される。そして智慧には慈悲が伴っている。


 人類の歴史には「人間を手段化する」力学が常に働いてきた。この重力はヒエラルキーとして結晶した。時々、革命と称してピラミッド構造が破壊されることもあったが、別のピラミッドが築かれただけのことであった。多くの人々を奴隷化したのが人類の歴史であった。これは現在でも変わらない。労働力としての大衆、納税者としての市民と名前が変わっただけの話だ。


 クリシュナムルティが引用するキーワードの一つに「組織化された宗教」というのがある。これまた、人間を依存させ、隷属化し、手段化することを手厳しく批判した言葉だ。信仰とは本来、個人の内面における生の充実であったはずだ。しかし歴史を振り返るとわかるように、信仰とは教会に額づき、寺の言いなりになることを意味した。聖職者は言葉巧みに天国と地獄を説いて、布施をせしめることを生業(なりわい)としてきた。


 日本の場合は天皇と幕府という二重権力(ダブルスタンダード)構造であったが、ヨーロッパは国王と教会が権力を二分してきた。歴史のタペストリーは政治という横糸と宗教という縦糸で織られているのだ。


 人類が抱える葛藤にクリシュナムルティは利剣を振るう。

あなたは世界だ

文明とは


 文明とは大勢の人々の集団的な欲望と意志です。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

BENQ JAPAN 24型LCDワイドモニタ(グロッシーブラック)G2420HD


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 24インチ16:9ワイドモニター、表示色:1677万色、解像度1920x1080(HD 1080)、応答速度:5ms(GTG 2ms)、コントラスト比1000:1、DCR 40000:1、輝度:300カンデラ、視野角:170度/160度D-sub,DVI-D、3年保証(パネル、バックライトは1年保証)、HDCP対応、HDMI、画像補正テクノロジ Senseye+photo搭載。

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 24インチワイドFull HD(1920×1080)パネルを搭載した液晶ディスプレイ。W-LEDバックライト搭載。ディスプレイ部の厚みがわずか14.5mm(※ディスプレイ最薄部)のウルトラスリムデザイン。

頭蓋骨の割れる音


 最初の部屋を見終わり、入った戸口と反対側から出た。次の部屋があり、また次があってそのまた次、次、次があった。すべて死体に埋めつくされており、さらに芝生にも死体が転がっていて、緑濃いすばらしい芝には頭蓋骨が散らばっていた。外に立っていると、パリンと割れる音が聞こえた。カナダ人の老大佐がわたしの前でよろけた。本人は気づいていなかったが、頭蓋骨につまずいて踏み割ったのだ。ニャルブイェに来てからはじめて感情が焦点を結んだ。わたしが感じたのはこの男へのひそかな、だが鋭い怒りだった。そのときまた割れる音がして、足元が揺れた。わたしも頭蓋骨を踏みつけていたのだ。


【『ジェノサイドの丘』フィリップ・ゴーレイヴィッチ柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年)】

ジェノサイドの丘〈新装版〉―ルワンダ虐殺の隠された真実

2009-12-08

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 133冊目『生の全体性』J・クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ/大野純一、聖真一郎〈ひじり・しんいちろう〉訳(平河出版社、1986年)/紛(まが)うことなき経典本。この対談がクリシュナムルティにとっての寿量品であろう。人類が到達した最高峰の一つがここにある。脳味噌が揺さぶられ、攪拌(かくはん)され、ヘトヘトになっては眠り、目覚めては手に取り、遂にはシナプスが沸騰した。空前絶後の一書といっておこう。不思議なことにクリシュナムルティの死後3日目(1986年2月20日)に発行されている。クリシュナムルティ本はこれで8冊読了。

自己神化


 主観的真実に固執するものは常に自己神化に終る。

「教会」と「党」とは常に異物を排泄して健康を維持する有機体に似ている。


【『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』堀米庸三〈ほりごめ・ようぞう〉(中公新書、1964年)】

正統と異端 ヨーロッパ精神の底流

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 買ってパソコンに挿すだけで使える、ソフト無しのシンプルモデル。


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【効率的なエアフローでHDDの安定動作を実現するヒートシンクボディ】HDDは、ディスク駆動用のモーター、制御チップ、コンデンサ類など、熱により経年劣化の進行度合いが変動する部品の集合体と言えます。このため、できる限りユニットの温度を抑えることが重要です。


【コンパクトで場所をとらないスタイリッシュデザイン】スリムで奥行きが短いので、パソコンの横や机や棚の上でも場所をとらずスマートに使えます。シンプルなデザインで、スタイリッシュなパソコンにもマッチします。さらに、電源内蔵タイプなので、ACアダプタが不要でコンセントまわりもスッキリ。

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フルHD(1920×1080)のノングレア液晶パネル 輝度300cd/m2、応答速度2ms(G to G)の高性能パネルを採用。スピーカー(2W×2)を前面からなくし、背面にする事で臨場感をもたらすだけでなく、よりスリムでシンプルなNEWデザインでの登場!


・マルチ3系統装備 HDMI端子、HDCP対応DVI-D端子、D-SUBの3系統入力を装備によりさまざまな使用環境に適しております。またHDMIケーブルを標準添付。※HDMI端子接続については全ての映像機器と動作保証しておりません。


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・昇降スタンド採用 ローテーション(90度回転)機能/スウィーベル(170度回転)機能搭載・映像に最適なカラーモードを提供する、Picture Modeモード機能を搭載。シネマ、シポーツなど表示する内容によって、最適な画質を提供!・Vista-premium (Certified for Windows Vista TM)に対応。

マイケル・グリーンが、脅しをかけ始めた


 マイケル・グリーンは、元外交問題評議会研究員であり、現在はCSIS(戦略国際問題研究所)の日本部長を務める。あの小泉純一郎のジュニア、進次郎をアメリカで教育したのは、マイケル・グリーンだ。したがって、横須賀の選挙区で、小泉進次郎を明日の選挙で当選させることは、マイケルにとっての課題だ。ここに民主党議員が誕生してしまうと、横須賀に米軍基地を抱えるアメリカとしては都合が悪い。横須賀は第7艦隊の母港だからだ。


ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報 2009-08-29

2009-12-07

時代に真っ向から反逆した日蓮/『日蓮とその弟子』宮崎英修


 一般向けの作品ではない。マニア向け。本弟子六老僧の一人である日興の筆による「御遷化記録」(ごせんげきろく)を通して日蓮の逝去前後の経緯が詳しく描かれている。日蓮は貞応元年(1222年)に生まれ、弘安5年(1282年)に死去した。立教開宗(=初めて南無妙法蓮華経と唱えた)が数えで32歳の時だから、人生の後半を革命家として過ごしたことになる。


 日蓮は決して幕府権力の転覆を意図したわけではなかった。国主を諌暁(かんぎょう)した一書「立正安国論」は主人と客による問答形式で綴られており、事実上の権力者であった北条時頼を「客」に擬することで、自らの主張を堂々と展開した。日蓮は仏教本来の対話を重んじた。つまり、「言葉の力」を信じていたといってよい。


 そうでありながらも彼は革命家であった。現代であれば、さしずめテロリストのように思われていたことだろう。日蓮は既成の常識に真っ向から挑んだ――


 すでに聖人は、仏法を習うは仏にならんがためである、仏になることはこれによって父母・師匠・国王の恩を報ぜんとするにある(報恩抄)といい、知恩報恩が仏者の最大の目的であるとする。しかも、仏道をきわめんとするには父母・師匠・国王に従ってはならない(同)、一般に、孝とは親に従うことが孝の道であると教えるが、仏になる道は親に従わぬのが孝養の根本であると断ずるのである(兄弟抄)。このような世俗倫理の否定は一見秩序の破壊に似て、実は仏になる道、成仏の直道であり、ひいては父母等を救って孝養の本義に契(かな)うのであり、世俗の倫理を仏道によって昇華させるものであった。


【『日蓮とその弟子』宮崎英修〈みやざき・えいしゅう〉(毎日新聞社、1971年/平楽寺書店、1997年)】


 鎌倉時代にあっては各宗の若者は比叡山へ遊学するのが習わしであった。比叡山は総合大学のような機能を果たしていた。とすると、教団意識は現代と比較すれば格段に緩やかだったことだろう。ひょっとすると、経済学部と法学部くらいの差しかなかったかもしれない。


 日蓮は比叡山から千葉・清澄寺に戻り、17日間の禅定に入った後、初めて南無妙法蓮華経という題目を唱えたとされている。と同時に、世に受け入れられている各宗を厳しく批判した。その舌鋒(ぜっぽう)はあまりにも鋭かった――「念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の悪法、律宗国賊の妄説」(四箇の格言)と。それを耳にした地頭・東条景信は直ちに日蓮の草庵を急襲した。


 日蓮は万巻の経典を読み抜き、ブッダの悟りが法華経(妙法蓮華経)に説かれていることを知った。鎌倉時代と侮るなかれ。日蓮は何とサンスクリット語の経典にまで目を通しているのだ。


 反逆者・日蓮は何に逆らい、何と戦ったのであろうか? 人々が時代に支配される中で、彼は「民を抑圧する一切」と戦ったのだ。そのためとあらば、彼は命を差し出す覚悟があった。実際、文永8年(1271年)には斬首される寸前に至っている(その後、佐渡流罪)。彼に続く弟子もまた、莞爾(かんじ)として迫害の中に身を置いた。


 クリシュナムルティが説く「反逆」を体現した人物が、何と700年前の日本に存在したのだ。私はクリシュナムルティを読むたびに日蓮を思い、日蓮を思ってはクリシュナムルティの思想に共感する。


 真の人間は、時空を超越してその肝胆を照らし合うのだろう。人類の教師は、死して尚沈黙のうちに多くを教えてくれる。

日蓮とその弟子

オーサ・ラーソン


 1冊挫折。


 挫折94『オーロラの向こう側』オーサ・ラーソン/松下祥子〈まつした・さちこ〉訳(ハヤカワ文庫、2008年)/これも北欧ミステリ。スウェーデン推理作家アカデミー賞受賞作品。人物造形に問題あり。これは翻訳のせいかもしれない。プロットは面白そうなんだが、誰が誰だかわからなくなってしまう。特に女性陣。決して聞き慣れない名前のせいではない。カーリン・アルヴテーゲンが面白かっただけに、どうしても評価は辛くなってしまう。本って、結構読む順番で印象が変わっちまうんだよね。

2009-12-06

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 132冊目『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)/これがクリシュナムルティ法華経に該当すると思われる。3〜5ページのテキストなのだが、読み手にはロッククライミングに匹敵する力が求められる。実に様々な光景が美しく描写され、対話調で書かれている。問答形式が日蓮の『立正安国論』を想起させる。全4冊。1と4が既に絶版となっているが、大野純一がコスモス・ライブラリーから出版してくれることを期待する。クリシュナムルティが描き出す情景は、一瞬を鮮やかに切り取ったような世界で、時間の経過を感じさせない。「現在という瞬間を生きる」意味が何となく理解できる。研ぎ澄まされた五官がどれほど豊穣な感受性に満ちたものであるかを示している。クリシュナムルティ作品の読了はこれで7冊目。

個人の尊重が江戸文化を育んだ


 初めて個人というものが尊重され、その個人の判断によって、つまりは己の好悪の好みによって決めることが出来るという自由な精神を持つことが出来た時代であった。しかも江戸開闢以来の進歩の時代に対して、普及の時代であり、急進的でなく、あくまで遠心的で、縦に伸びるよりも、横に広がったゆっくりとした時間を持った時代でもあったのである。(※江戸時代、文化文政期〈1804-1829〉)


【『大田南畝蜀山人のすべて 江戸の利巧者 昼と夜、六つの顔を持った男』渥美國泰(里文出版2004年)】

大田南畝・蜀山人のすべて―江戸の利巧者 昼と夜、六つの顔を持った男

在原業平の辞世


 在原業平は元慶(がんぎょう)4年(880年)5月28日、55歳で死んだ。何の病いで、どんな終わりかたをしたのか、くわしいことはわからない。が、その死はかなり突然におとずれたのではあるまいか。というのは、彼はつぎのような周知の辞世を残しているからである。


   病(やまい)して弱くなりにける時よめる

 つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日(きのう)今日(けふ)とは思はざりしを


 死にのぞんで、おそらく、だれもがそう思い知るにちがいない。むろん私も。死の用意というのは、人間にとってこの上なく至難なことなのである。業平のこの歌は、万人にかわって死に対する真情を吐露してくれているといってもいい。


【『生き方の研究』森本哲郎(新潮選書、1987年)】

生き方の研究

自我は秘密を求める/『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』カーティス・フェイス

 中級者向け。コモディティ相場で勇名を馳せたリチャード・デニスが考案したトレーダー養成プログラムが公開されている。元はといえば、「トレーダーを育成することは可能か不可能か?」という賭け事から始まった。リチャード・デニスは「育てられる」と豪語した。カーティス・フェイスは新聞広告に応募して集められたメンバーの一人だった。


 では、この本を読めば一攫千金が成るのかというと、そう甘くはない。大体、リチャード・デニス本人が晩年には大きく利益を減らしているのだから。育成された「タートルズ」も全員が成功を収めたわけではなかった。


 投資手法とバックテストの結果が記録されていて、大変参考になる。既に古くなってしまった手法も見受けられるが、トレードの基本的な考え方が理解できる。


 投資の鉄則は「ルールを固く守ること」である。そしてこれが最も難しいことなのだ。損切りができない、ナンピン買いを入れる、利益が乗ると直ぐ枚数を増やす、逆張りを試みる――素人が陥りやすい罠がここにある。株式だと損は知れているが、為替や先物の場合はあっという間に丸裸にされ、時には借金を抱える羽目となる。


 そして段々相場がわかったような気になってくると、投資手法をあれこれと物色するようになる。妙な有料情報に手を出すのもこの頃だ。スパムメールの大半はエロ情報かお買い得品案内か投資情報となっている。引っ掛かる人々が存在する限り、エセ情報はなくならない。


 なぜ人は情報を求めるのか――


 わたしが思うに、そういう考えに頼って複雑さをもとめてしまうのは、不安になると何か特別に感じられるような理由が欲しくなるからではないだろうか。秘密の知識を持てば、それは特別に感じられるが、単純な真実を手にしてもそうは感じない。つまり、わたしたちの自我は、自分が他者よりどこかしら優れていることを示すために、特別な知識を手にしていると信じさせたがるのだ。わたしたちの自我は、一般に知られる真実だけでは我慢できない。自我は秘密をもとめている。


【『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』カーティス・フェイス/飯尾博信、常盤洋二監修、楡井浩一訳(徳間書店、2007年)】


 これは凄いよ。知識によって複雑となった思考が、更なる複雑さを求めるというのだ。まるで、カオス理論(笑)。知ることは、わかることだ。で、わかるは「分かる」だから、知はどんどん枝分かれしてゆく。フィボナッチ係数に則って(笑)。


 我々は、「ここだけの話」に弱い。秘密や悩み事を打ち明けられると、明らかに「自我の拡大」を感じる。ちょっとした大物気分ってわけだよ。


 では、ヒエラルキーを構成する社会の仕組みを考えてみよう。先進国の定義というのは「ヨーロッパ仕様の社会と経済」という次元に過ぎない。そのヨーロッパの歴史を動かしてきたのは何か? それはキリスト教会と秘密結社であった。教会は告白を聞くことで信者のプライバシーを知り尽くし、秘密結社は内々の情報を交換し共有する場であった。ヨーロッパの秘密結社といえば、石工職人によるギルドとして出発したフリーメイソンが有名だが、現在でも様々なサロンやクラブが緻密なまでの階級社会を構成している。


 仏教には口伝(くでん)という歴史があり、秘密性の高さ=難解という括りで、より難解な教えがブッダの悟りに近いという認識がある。武術の世界にも一子相伝という文化が見られる。王位を継承するのは王子であり、社長を継ぐのは社長の倅(せがれ)だ。つまり、ヒエラルキーがピラミッドを形成している以上、上層に仲間入りできるのは一部の人間に限られているのだ。


 これで明らかになったことだろう(ならなかったら許せ)。ヒエラルキーの原動力は「情報へのアクセス権」なのだ。


 例えば建設業で談合が問題視されている。だが、本当の問題は談合にすら参加できない中小・零細企業が多いことではないのか? 企業の信用力なんて当てになるものではない。上場企業だって倒産しているのだ。結局、信用なんていうものは選ばれた一部の企業に与えられたワッペンに過ぎない。


 人間同士の力関係においては、より高度な情報を知っている者が有利となる。だから、振られそうになる男は、「お前、俺に何か隠し事をしてないか?」などと彼女に言ってしまう。「別に……」と言いながら彼女はほくそえむ。「あんたにお前呼ばわりされるのも、あとわずかよ」と。君は大丈夫か?


 そして我々が享受している文化は、「秘密に価値があること」を幼少の頃から叩き込んでいる。仮面ライダーが実は本郷猛であることや、タイガーマスク伊達直人であることを知っているのは、テレビの前に座っている我々だけだったのだ。「オヤジさん」も「ルリ子先生」も知らないことを我々は知っていた。また、3分という時間経過をウルトラマン以上に自覚していたのも我々だった。「ウルトラマン、時間がないよ!」と叫んだ記憶があなたにもあるはずだ。ひみつのアッコちゃんの秘密はコンパクトに過ぎなかったことも、サリーちゃんがこの世の人間でないことを知っていたのも我々だけなのだ。


 チト、引っ張りすぎたな(笑)。結論――物語という物語は「秘密に価値がある」ことを教えている。なぜなら、読み手の視線が「神」と同じ位置にあるためだ。

伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術

2009-12-05

ジェフリー・ディーヴァーの新作『ソウル・コレクター』&文庫化『12番目のカード』


ソウル・コレクター


 科学捜査の天才リンカーン・ライムのいとこアーサーが殺人の罪で逮捕された。自分はやっていない、とアーサーは主張するも、証拠は十分、有罪は確定的に見えた。しかしライムは不審に思う――証拠がそろいすぎている。アーサーは罠にかかったのではないか? そうにらんだライムは、刑事アメリア・サックスらとともに独自の捜査を開始、同様の事件がいくつも発生していることを知る。そう、姿の見えぬ何者かが、証拠を捏造し、己の罪を他人になすりつけ、殺人を繰り返しているのだ。犠牲者を監視し、あやつり、その人生のすべてを奪い、収集する、史上もっとも卑劣な犯罪者。神のごとき強大な力を持つ相手に、ライムと仲間たちはかつてない苦戦を強いられる……。


12番目のカード〈上〉 (文春文庫) 12番目のカード〈下〉 (文春文庫)


 ハーレムの高校に通う16歳の少女ジェニーヴァが博物館で調べものをしている最中、一人の男に襲われそうになるが、機転をきかせて難を逃れる。現場にはレイプのための道具のほかに、タロットカードが残されていた。単純な強姦未遂事件と思い捜査を始めたライムとサックスたちだったが、その後も執拗にジェニーヴァを付け狙う犯人をまえに、何か別の動機があることに気づく。それは米国憲法成立の根底を揺るがす140年前の陰謀に結びつくものだった。そこにジェニーヴァの先祖である解放奴隷チャールズ・シングルトンが関与していたのだ……。“140年もの”の証拠物件を最先端の科学捜査技術を駆使して解明することができるのか? ライムの頭脳が時空を超える。

シリーズ・13億人の深層 第1章 甦るシルクロードの大地「中国・新疆ウイグルへの夢」

  • GyaO!(1時間12分)

 確かにエネルギーが横溢(おういつ)している。資本主義経済は成長・発展をその価値とするが、一人の勝者が五人の敗者をつくり、十人の落伍者を生む側面もある。人々の間にヒエラルキー内での上昇志向がある限り、増え続ける物に囲まれた「心貧しき者」が次々と誕生することだろう。お金は人々を分断し、世界を分離させる。お金には力がある。つまりそれは暴力の象徴である。資本が創造した高層ビルは、必ず巨大な影をつくる。

異なる視線/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編


 fwikさんから薦められた一冊。面白かった。とにかく紙屋克子の人柄が素晴らしい。言葉の端々にヒューマニズムが脈打っている。多分、受信料の徴収が芳(かんば)しくないNHKが、その天下り先と目される出版社と共謀し、番組をテキスト化するという割安な手法で一石二鳥を狙ったシリーズなのだろう。それでも、いいものはいい。


 紙屋は授業に先立ち、子供達にゲームをさせる。ここに実は深慮遠謀があるわけだが、まあ見事な手腕である。ゲームはこうだ――子供達は一対一で向かい合って1分間見つめ合う。最初は「無関心」で。次に「興味深く」見つめる。


 それから「相手のことをよく知りたいなあ」と思ってよく見ると、さっきは見えなかったものが見えてきたということも起こった。無関心のときはどこに目をやったらいいいか困っていたので、その1分間がちょっと長かった。


【『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編(KTC中央出版、2001年)以下同】


 単純なゲームでありながら、「注意深く見る」ことの重要さを雄弁に物語っている。「ものが見えている」状態は二つの瞳の焦点が合っていることを意味するが、集中度によって見えてくるものが異なる。つまり、光学機器の倍率と同じなのだ。全体を俯瞰(ふかん)する時であれば望遠鏡を使うべきだ。しかし、一人の人間を見つめる場合は顕微鏡、あるいはレントゲンやMRIの視線が求められるのだ。


 自分の生活を振り返ってみよう。目には映じているが、見ていないものの何と多いことか。女性が丹念に化粧を施す時、じっと鏡に見入る。たとえ、それが無駄な抵抗であったとしてもだ。その程度(失礼)の集中力で我々は周囲の人々を見ているだろうか? 同様に、自分の人格や来し方や思想や生きざまを見つめたことがあるだろうか?


 例えば山の中で、今まで見たこともない美しい花を発見したとしよう。あなたは時が過ぎるのも忘れて、ただじっと眺めることだろう。この瞬間、「観察するもの」と「観察されるもの」との間に分離は存在しない。完全に一体化している。これが、クリシュナムルティの説く「見る」という行為である。ところが二度目に見る時は、「これをどうやって持って帰ろうか」「みんなに教えなくっちゃ」「そうだ、写真を撮ってブログにアップしよう」などと欲望が生じて、分離するのだ。「何という種類なのだろう?」「種はできるのかな?」などというのは、知識による分離といっていい。つまり、「花」に対して「私」が立ち上がった瞬間に世界は断絶するのだ。


 紙屋の深慮遠謀はこうだ――


(※「看護」の)もう一つの漢字は「護」(まもる)という字です。目でよく見て、相手のことをよく理解しようと思って見て、「大丈夫ですか」って、手を当てて護ってあげること、それが看護ということなのです。


 何て素敵なオバサンなんだろう! 私はいっぺんに紙屋が大好きになってしまった。


 紙屋は重度の意識障害患者を蘇生させた実績で一躍全国に名を馳せた。現在は筑波大学の名誉教授。医療ではなく看護という立場で病気と向き合ってきた。それまで、病気とは医師が治すものであった。紙屋は全く新しいアプローチを切り開いたといってよい。


 人と人とが出会う一瞬に現れる何かがある。そこに歓待(ホスピタリティ)の心があれば、相手は心を開くものだ。紙屋は「ナースの仕事」を深く追求しながら、「患者という人間」に出会ったのだ。きっと、紙屋の瞳が善なる放射線を反射して患者を照らしているのだろう。

紙屋克子 看護の心そして技術―課外授業 ようこそ先輩・別冊 (別冊課外授業ようこそ先輩)

動画:子供たちとの対話


 クリシュナムルティは90歳で亡くなっているが、最晩年の映像だと思われる。顔を拭う右手に震えが見られる。ガンディーと友情を結び、ネルーと語り、インディラ・ガンディーにアドバイスをし、国連から顕彰され、各大学で講演を行い、アメリカの大学でテキストに採用された思想家は、尊大ぶるところが全くなかった。妙に慈(いつく)しむような視線もない。真っ直ぐに子供達と向き合っている。『子供たちとの対話 考えてごらん』もこのような雰囲気であったのだろう。後輩に少しばかり翻訳してもらったので併せて紹介する。釈尊の対機説法もきっとこのように繰り広げられたに違いない。子供達は「竜女」(りゅうにょ)の化身か。



 さぁ、何について話したいかな?


 ―― Pride.(誇りについて)


 何だって――誇り? 君は誇りを感じているかい?


 ――時々。


 時々。なぜ? 君はどんなことに誇りをもっているんだい?


 ――Achievement.(成果、業績、功績)


 成果か。君はいままでに何を成し遂げてきたんだい?


(「……多くの人が成果をあげてきた」といった内容か?)


 君が求めているのは、成果なのかい? それが、みんなが話したいことかい? ……誇り、成果、成功、お金、地位、権力、それが君たちが欲しいものすべてかい? 恐らく、それは間違ったルールだ。愚かであってはならないよ。自分をdeceive(惑わす、だます、欺く、裏切る)してはだめだよ。(君たちは…そういう考えを…)


 ――(少年の発言)


 今、この少年はこのように言っている。「私たちは、それらのことでcontribute(貢献する、寄与する)できる」と(?)。それで、君はどうしてそれがわかるんだい? よし、こっちへおいで。


 ――(「お金があれば、やりたことがなんでもできる、だからお金をたくさん稼ぎたい」みたいなことか?)


 それで、君はなにになりたいんだい?


 ――(お金持ちになれるようなものならなんでも。そうすれば尊敬されるし。お金だけが信頼できる)


(笑える箇所なのに私には聴き取れません)


(笑)確かに君は正しいよ。それで、○○なら、それがとても快適な生活なのかい?


 ――そうです。


 それで幸せなんだね?


 ――そうです。


 それが、君の望むことかい?


 ――そうです。


 それなら、そうすればいい。(?)


 ――(簡単な方法は?)


 ……他になにか質問は?


 ――meditation(瞑想)とconcentration(集中)の違いは?


 ……本当にそれについて話し合いたいのかい?


 ……他になにか質問は?


 ――meditation(瞑想)とconcentration(集中)の違いは?


 ……本当にそれについて話し合いたいのかい? 本当に、瞑想と集中とはなにか知りたいのかい? わかったよ。もし本当にそれについて話したいのなら、これから私が言うことをしっかり注意深く聞いておくんだよ。


 ――Yes, sir.


「Yes, sir.」なんて言うんじゃないよ(笑)。もし本当にそれについて話したいのなら、それは本当に本当に重大なテーマです。集中とはどういうことだと思う?


 ――それについて、深く考えるということです。


 それで、それはどういう意味だい?


 ――考え続けたいと思う何か。


 こっちへおいで――。“考え続けたいと思う何か”―― それでいいかい?


 ――はい。


 それに挑戦したことはあるかい?


 ――……。


 君は、あの花々を見たいと思うかい? もしくは、本を? 君の先生たちが話すことを? とても注意深くそれらのことを見たことがあるかい? あれらの花々を? 先生たちが君に話されることを? 聞いているかい? そして本に集中したことがあるかい?


 ――時々。


 時々。いつ、そういうことが起きるのかね?


 ――……。


 君がそれらを好きなときかね?


 ――うん。


 それじゃ、君がなにかを好きなとき、君の注意や、考え、エネルギーを向けるんだね?


 ――うん。


 概してそれを「集中」と呼ぶんだよ。君は本に集中したり、あれらの花々に集中したり、君の友達や先生が話すことにもね。長いこと、なにかを集中して見たことがあるかい?


 ――わからないな。


 いいよ、今、それをやってみるんだ。今やってみるんだよ。誰かが君に話していることに集中したり、あれらの花々を長いこと見てみたり。他のことを考えたりせずに。それが集中するということだよ。君のすべての注意を向けて、何かを聞いたり、本を読んだり、壁を通っていく何かを注意深く見たり……。それらをやってみるかい? そして、今やってみるかい?


 ――はい。やってみます。


 そうかい。よし。【※続きはこちら→http://www.youtube.com/watch?v=W9g0J0IdkIQ

恐怖と絶望


 恐怖は人を飛ぶように走らせ、絶望は愚行と同じくらいたやすく悪知恵に結びつくものだ。


【『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド/駒月雅子訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2006年/ハヤカワ文庫、2008年)】

あなたに不利な証拠として (ハヤカワ・ポケット・ミステリ) あなたに不利な証拠として (ハヤカワ・ミステリ文庫)

(※左がポケミス、右が文庫本)

2009-12-04

格闘技番組と紅白歌合戦


 いずれにしても、格闘技は、エロと並んで、家族が打ちそろって見るのにもっともふさわしくない番組ではあるわけで、とすれば、問題は、むしろ、紅白歌合戦の視聴率が、ついに50パーセントを大きく割り込んだという事実のほうにある。紅白の視聴率は、翌日から始まる正月のあり方を決定する数字だ。言いかえれば、伝統的な血族イベントとしての紅白共同視聴を果たしたファミリーだけが、正しい日本のお正月を迎える資格を備えた、保守本流の花マル家族なのだ。

 紅白歌合戦の視聴率は、番組の出来不出来を反映しているわけではない。出演者の歌唱力の総和を意味しているのでもない。あの45.9パーセントという数字は、大晦日の夜に、家族が一斉に打ちそろってテレビの前に座る家庭が、もはや、日本には45パーセントしか残っていない、と、そういうふうに考えるべきなのである。


【『テレビ標本箱』小田嶋隆中公新書ラクレ、2006年)】

テレビ標本箱 (中公新書ラクレ (231))

無学な母親が語る偉大な哲学/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 サティシュ・クマールは自らの決意で9歳の時にジャイナ教僧侶となり、18歳でガンディーの思想と巡り会って還俗(げんぞく)した人物である。宗教性なき時代を切り開く思想を探究し、世界中を巡礼して回った。その魂の遍歴を綴った自伝である。


 思想的なインパクトはそれほどなかったが、実に様々な人物が登場し含蓄に富む言葉が散りばめられている。なかんずく、彼の母親とクリシュナムルティの二人が際立っている。


 サティシュ・クマールはジャイナ教の家庭で育った。少年時代に父親を喪っている。母親は読み書きができなかった。だが、愛情と智慧に溢れていた。折に触れて子供達にジャイナ教の思想を教えた。これがまた頗(すこぶ)る機知に富んでいて、その表現力には思わず舌を巻いてしまうほどだ――


「お母さんのお裁縫はとても綺麗だけど、一つのものを作るのに半年や一年、ときにはもっと長い時間がかかるわ。最近は同じ事をあっという間にやってしまう性能の良いミシンがあるのよ。私が探してあげようか」と姉のスラジが尋ねた。

「どうして?」と母は聞いた。

「時間の節約ができるのよ、お母さん」

「時間が足りなくなるとでもいうの? ねえお前、永遠っていう言葉を聞いたことある? 神様は時間を作るとき、たっぷりとたくさん作ったのよ。私は、時間が足りないなんていうことはないわ。私にとって、時間は使い果たしてしまうものじゃなくて、いつもやって来るものなのよ。いつだって明日があり、来週があり、来月があり、来年があり、来世さえあるのよ。なぜ急ぐのかしら」、スラジは納得しているように見えなかった。「時間を節約し、労働を節約して、それ以外の事をもっとできた方がよくないかしら?」

「あなたは無限なるものを節約して、限りあるものを費やそうとしているのよ。ミシンは金属から作られていて、世界には限られた量の金属しかないわ。それに、金属を得るためには掘り出さなければならない。機械を作るためには工場が必要で、工場を作るには、もっと多くの有限な材料が必要なのよ。掘るということは暴力だし、工場も暴力に満ちているわ! どれだけ多くの生物が殺され、金属を掘るため地下深く潜るような仕事でどれだけ多くの人が苦しまなければならないでしょう! 彼らの苦しみの話を聞いたことがあるわ。なぜ自分の便利さのために、彼らを苦しめなければならないの?」。スラジは理解したように見えた。

 スラジがうなずくのに勢いづいて母は続けた。「私の体力が足りないっていうことはないから、いつだってエネルギーがあるわ。それに私は仕事が楽しいのよ。私にとって仕事は瞑想(めいそう)なの。瞑想は、ただマントラを唱えたり、静かに座禅を組んだり、呼吸を数えたりすることだけじゃないのよ。裁縫も、料理も、洗濯も、掃除も、神聖な心持ちでなされるすべてのことが瞑想なの。あなたは、私の瞑想を取り上げようというのかしら? 針仕事で忙しいとき、私は平和な気持ちになるの。すべてが静かで、穏やかだわ。ミシンは大きな音を立てて私の邪魔をする。ミシンがガタガタいっているときに瞑想するなんて想像もできないわ」

「それに、ミシンが仕事を減らすというのは、単なる錯覚に過ぎないかもしれない。年に一つか二つのショールを作る代わりに、年に10ものショールを作る羽目になって、材料をもっとたくさん使うことになるかもしれない。時間を節約したとしても、余った時間で何をするというの? 仕事の喜びは私の宝物みたいなものなのよ」

 これはまさに真実だった。刺繍をしているとき、母はほんとうに幸せそうだった。母が作るものに同じものは二つとなかった。母は新しいパターンやデザインを作り出すことに喜びを見出していた。もちろん母は、どんなパターンを作るか前もって考えたりはしなかった。母は作りながら即興的にデザインしていった。母の針仕事の最も驚くべき点は、母がそれから多大な喜びと幸せを引き出していたことだった。


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】


 インドの底力を見る思いがする。市井(しせい)の母親がこれほどの思想を持っているのだから。日本の政治家や宗教家は足下にも及ばないだろう。しかも独善的なところが全くない。誰もが納得できる普遍性をはらんでいる。


 日常の何気ない一言が子供を大きく伸ばすこともあれば、心ない一言が人間不信の種を植えつけることもある。親として大人として、我々はどれほどの「語るべき言葉」を持っているであろうか。線からはみ出すたびにピーピー笛を吹きまくる親は多い。だが、「生の歓び」を語る大人は少ない。


 そして何にも増して、環境破壊を暴力と捉える思想が素晴らしい。環境破壊は損得ではなくして善悪の次元にまで高められている。


 これだけの哲学を抱く母親であったが、サティシュ・クマールが還俗した時は大いに取り乱した。親のエゴがむき出しとなった。それでも、この母親なくしてサティシュ・クマールの存在はあり得なかっただろう。


 クリシュナムルティ以外にも、バートランド・ラッセルマーチン・ルーサー・キングなどが登場する。

君あり、故に我あり―依存の宣言 (講談社学術文庫)

2009-12-03

マリオ・ジャコメッリ


 ジャコメッリは西暦2000年に75歳で死んだ。デジタルカメラが登場し、モノクロームフィルムがカメラ屋の店頭からほとんど姿を消し、世界が色で溢れかえる時代までかれは生きたが、しかし最後まで色をつかうことはなかった。実験的に試みたことすらあったかどうか。かくも色の氾濫する時代にあって、かれは頑固なまでにモノクロームにこだわり、白と黒の世界に「時間と死」を閉じこめつづけ、そうすることで「時間と死」を想像し思弁する自由をたもちつづけた。「時間と死」はジャコメッリにより息づいたのである。


【『私とマリオ・ジャコメッリ 〈生〉と〈死〉のあわいを見つめて』辺見庸〈へんみ・よう〉(NHK出版、2009年)】

私とマリオ・ジャコメッリ―「生」と「死」のあわいを見つめて

カーリン・アルヴテーゲン


 1冊読了。


 131冊目『喪失』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由美子訳(小学館文庫、2004年)/北欧ミステリが熱いというので読んでみた。ドンピシャリの傑作。平日に読むのは避けるべき不眠本だ。主人公は32歳のホームレス女性である。元々は裕福な家庭で育ったのだが、母親から心理的虐待を受けて育った。この回想がストーリーと交互にカットバックで挿入されている。アルヴテーゲンは1965年スウェーデン生まれというから、あと20年くらいは書いてくれそうだ。私にとってはジェフリー・ディーヴァー以来のヒット。

クリシュナムルティとデヴィッド・ボームの対話


 クリシュナムルティデヴィッド・ボームとの対談は以下の3冊がある。


真理の種子 クリシュナムルティ対話集』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(めるくまーる、1984年)


生の全体性』J. クリシュナムルティ、デヴィッド・ボーム、デヴィッド・シャインバーグ/大野純一、聖真一郎訳(平河出版、1986年)


『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』J・クリシュナムルティ、デビッド・ボーム/渡辺充訳(JCA出版、1993年)

2009-12-02

グレアム・グリーン


 1冊挫折。


 挫折93『二十一の短編』グレアム・グリーン/高橋和久・他訳(ハヤカワ文庫、2005年)/実はグレアム・グリーンとは相性が悪い。何冊か挑戦したものの読み終えたことが一度もない。で、案の定「廃物破壊者たち」という冒頭の作品を読んで挫けた。確かに面白いのだが、やり切れない思いになる。多分、文体で勝負している作家なのだろうが、同じタイプのユースフ・イドリースと比較すると、足下にも及ばないと思う。

今度は自分が靴投げられる ブッシュ氏攻撃のイラク記者


 イラクの首都バグダッドで昨年12月、ブッシュ米大統領(当時)に靴を投げたイラクのテレビ記者ムンタゼル・ザイディ氏が1日、パリで記者会見中、別のイラク人から靴を投げられる騒ぎがあった。英BBC放送などが伝えた。

 靴はザイディ氏がかわしたため当たらなかった。フランスメディアによると、投げたのは米国のイラク政策を支持している記者で、ザイディ氏を非難していた。一方ザイディ氏は騒ぎの後「彼はわたしのテクニックを盗んだ」と皮肉った。

 AP通信によると、靴を投げた男が部屋を出るところをザイディ氏の親族が追いかけ、靴で攻撃し返した。同氏はイラク戦争の犠牲者について会見中だった。


共同通信 2009-12-02

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

 クリシュナムルティのメッセージは「一切の条件づけに反逆せよ。そのために、ただひたすら心を探り、心を見つめよ」ということに尽きる。「条件づけ」とは、歴史・文化・社会・時代・地域・学校・家族などから、無意識のうちに与えられた価値観を指す。なぜ無意識なのか? それは生まれた直後から思考を鋳型にはめ込む作業が始まるためだ。両親は「既に条件づけられた“善”」を幼児に押し付ける。するべきことと、やってはいけないことを強制的に叩き込むことを、日本では「躾」(しつけ)と称して励行されている。「身が美しく」(=躾)なるという意味は、飽くまでも「その社会」にとってというレベルの話である。


 我々は生まれながらにして、社会は善であり、多数の人が考えることは正しいと信じ込んでいる。そうやって何度も戦争をしたり、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れたという噂を鵜呑みにしたり、向こうの部落へ行ってはいけないといったことを正しいと信じてきたのだ。


 人間ってのは、魚の群れのようなものなのか? あるいは蟻の行列、はたまた群生する藻のような存在なのか? 多分そうなのだろう。地域やコミュニティという言葉が何だかツルツルしていて捉えどころがなく、妙に胡散臭いのは、「コミュニティ=善」という前提がチラついているためだ。


 では、鋳型や金型で整形――あるいは変形――された人々の姿はどんなものになっているのだろう? そんなのは決まりきっている。兵隊か労働者だよ。


 精巧かつ巧妙な鋳型は「理想」という材料でつくられている――


質問者●理想は教育において居場所があるでしょうか?


クリシュナムルティ●明らかに否です。教育における理想と理想主義者は、現在を理解することを妨げるのです。これは一大問題なので、5分か10分ほどかけて取り組んでみましょう。それは、われわれの全構造の存立にかかわる問題です。われわれは理想を抱き、そしてそれらに従って教育します。さて、教育にとって理想は必要でしょうか? 理想は実際には正しい教育、つまり生徒のあるべき姿ではなく彼のあるがままを理解することを妨げるのではないでしょうか? もし私がある生徒を理解しようと欲するなら、彼がどうあるべきかという理想を持ってはならないのです。彼を理解するためには、私は彼をそのあるがままに調べてみなければなりません。しかし生徒を理想の枠組みにはめこむことは、彼を一定のパターンに――彼がそれに合おうが合うまいが――従うよう強いることに他ならず、その結果は彼が常に理想に反するか、さもなければ見事に理想に合致する結果、人間ではなくなって、英知を持たない単なる自動人形と化さしめることに至るのです。ですから、理想は子供の理解にとって実際には妨げになるのではないでしょうか? もしあなたが良心として本当に自分の子供を理解したいなら、あなたは彼を理想のスクリーンを通して見るでしょうか? それともあなたは、心に愛を持っているがゆえに、ただ彼を調べてみるでしょうか? あなたはお子さんを観察し、彼の気分、性癖を見守ります。愛があるので、お子さんを調べてみるのです。あなたが理想を持つのは、自分に何の愛もないときだけです。自分自身を見守ってみれば、このことに気づくでしょう。何の愛もないとき、あなたは大きな規範や理想を持ち、お子さんがそれらに倣い、適合するように強いるのです。しかしもし愛を持っていれば、あなたは彼を調べ、観察し、そして彼が彼自身でいられる自由を与えるのです。あなたはお子さんを、理想にでも、一定の行動様式に従ってでもなく、彼がありのままの彼でいられるように、彼を導き助けるのです。

 この質問に関連して、いわゆる不良少年の問題が起ります。彼を不良でなくするためには、明らかに理想を持ってはなりません。もし彼が嘘(うそ)つきなら、あなたは彼に正直の理想を与えてはなりません。あなたは、なぜ彼がうそ(ママ)をついているかを調べてみます。さまざまな理由があるかもしれません――多分おびえているか、あるいは何かを避けているのです。うそをつくさまざまな理由を調べる必要はありません。しかし明らかに、子供がうそをつくときに、彼をあなたの理想である正直のパターンに適合させることは、彼がうその原因から自分自身を自由にさせるうえで、彼の助けにはなりません。彼を調べ、彼を観察しなければなりませんが、そうするためには長い時間がかかります。それには忍耐と思いやりと愛が必要です。しかしあなたにはそれがないので、あなたのいわゆる理想という一定の行動様式への(ママ)お子さんを無理に押し込めるのです。明らかに、理想は非常に安易な避難場なのです。理想を持っている学校、あるいは理想に従う教師は、明らかに子供に対処することはできないのです。

 結局、教育とは人生に聡明に、全的に――部分的にではなく、技師あるいは理想主義者としてではなしに――対処することができる、統合した個人を生み出すことなのです。しかしもし個人が単に知ろう主義的な行動パターンを追求していれば、彼が統合した人間になれないことは明らかです。理想主義者となって、一定の行動パターン、いわゆる理想を追求している教師は、まったくもって無用なのです。もし観察してみれば、彼らが無情で、冷たい心の持ち主であり、愛することができないことに気づくでしょう。児童を調べ、観察するためには、彼を強いて理想主義的な行動パターンを辿らせるよりもはるかに広い観察、大きな愛情が必要なのです。そして私の思うに、別種の理想である模範を立てることもまた、英知の妨げになるのです。

 多分私が言っていることは、皆さんが信じていることとまったく相容れないでしょう。どうか熟考していただきたい。なぜならこれは、拒絶や認容の問題ではないからです。理想が何を含意しているかは明白です。教師が理想を追求しているとき、彼は生徒を理解することができません。なぜならそのときには、未来――理想――のほうが生徒――現在――よりもはるかに重要になるからです。彼は正しいと思われる一定の目的を心に期し、そして子供をその理想に強いて適合させようとします。疑いなく、これは教育ではありません。それは自動車を生産するようなものです。パターンを持ち、そして生徒を鋳型にはめれば、その結果生れてくるのは単なる技師、他人と何の関係も持たず、ただただ自分のため、政治的、社会的に、あるいは家庭で、自分の利益のことばかり考えている人間だけです。明らかに、児童ひいては人類を観察し、思いやり、そして彼らへの愛を喚起するよりは、理想に従うほうがはるかに容易なのです。いわゆる理想、所期の目的――極左翼のイデオロギーであれ、極右翼のイデオロギーであれ――が行動パターンになり、それがこの現在の世界的破局を引き起こしたのです。これこそは現代の教育の惨禍のひとつなのです。(1984年の講話)


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 理想という花はいつだって善の匂いを放っている。その上、蜜だってたっぷりあるのだ。誰しもが「社会から認められること」を願っている。では、そこで評価されるものは一体何だろう?


 例えば政治家が「この国を改革する」という理想を持っていたとしよう。実際、掃いて捨てるほどいるよね。ここでいう改革とは、厳密にいえば「よりよく改革」するという意味である。つまり、「条件づけされた社会で許容できる範囲内での改革」と翻訳することができる。ということは、現在の日本における二極化、政治主導の教育制度、児童が晒(さら)される受験競争、いつまで経ってもなくならない交通事故、貸し渋り貸しはがしで中小企業をいじめる銀行、仕事を丸投げするだけで巨利を得る大企業、その他もろもろの不正や不平等を容認することになるのだ。


 我々は何をやっても充たされることがない。心のどこかに不安を抱えている。それは、「自分である」ことを見失ってしまったせいなのだろう。我々の生は「記憶に支配された反応」に過ぎない。


 世の中が少しずつよくなる――実はこんなことはあり得ないのだ。だから、人間の精神が少しずつ成長することもあり得ない。もし変わるとすれば、劇的に変化しなければならない。


 革命は「自分自身への反逆」から始まるのだ。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

2009-12-01

非暴力の欺瞞/『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ


 クリシュナムルティガンディーとも親交があった。しかし徹底してガンディーの非暴力を批判した。「非暴力を説く前に、暴力という現実を見つめるべきだ」というのがクリシュナムルティの主張であった。


 この思想をススナガ・ウェーラペルマが咀嚼(そしゃく)している――


 もし人が内面的に暴力から自由でなければ、外面的(すなわち政治的、社会的)な非暴力を説いて何になるだろう?

 正真正銘平和的な人は、けっして非暴力になるべく努力する必要はない。なぜなら彼はすでにあの祝福の状態に生きているからである。そのような人にとって非暴力の理想は、人生にはまったく無関係の、無意味な抽象である。非暴力の理想は、暴力的な精神によってでっちあげられたのだ。その理想はたんに偽りであるだけでなく、不純でもある。なぜならそれは、暴力という不純な土壌で芽生えたからである。憎悪に満ちた精神は、真に非暴力的な状態の最高の顕現である慈悲心を知ることはできない。暴力的な精神は、「想像された」非暴力の状態を憶測し、理論づけることができる。それゆえ、暴力的な精神によって発明された理想は、表向きはいかに気高く見えようと、必然的に架空のものである。そのうえ、怒った人が非暴力の理想に固執するとき、彼の怒りは本当に消えるのだろうか、あるいは衰えることなく持続するのだろうか? 起こることはむしろ、「理想」が彼の怒りという事実を隠蔽するのを助けてしまうということである。ある場合には、怒りは聖人のような装いのもとに隠蔽される。もし暴力が私の真の本性なら、そのときにはそれが「あるがままの状態」であり、だからそれに充分に直面するほうがはるかに賢明なのではないだろうか? 非暴力という「あるべき」状態の概念は、すでに説明したように事実無根である。なぜならそれは、精神によって投影されたものだからである。もし私が、この特定の理想だけではなく、理想という理想をすべて追求することのまったくの虚偽と不毛を見抜くことができさえすれば、そのときには突然、私は全注意を傾けて「あるがままの状態」を観察することができるようになる。精神が理想を脱ぎ捨て、気を散らさなくなるとき、それはついに内なる暴力を正直に知覚する。精神がもはや逃避せず、暴力の存在を認め、そしてその状態を完全に理解するとき、暴力はひとりでに消え去ってゆくのではないだろうか?


【『気づきの探究 クリシュナムルティとともに考える』ススナガ・ウェーラペルマ/大野純一訳(めるくまーる、1993年)】


 クリシュナムルティはある雑誌のインタビューで、ガンディーの非暴力運動が「実際には一種の暴力」であるとまで言い切っている。なぜなら、非暴力運動は暴力に依存しているからだ。ここに非暴力と暴力を取り巻く関係性の本質があるのだ。そしてそのまま「理想」と「現実」にも敷衍(ふえん)される。クリシュナムルティが「理想」をも否定する理由がここにある。

 運動という運動がバラバラになった力を集めるものである以上、おのずと暴力性をはらんでいる。力というものは何らかの圧力を与えるものだ。「バランス・オブ・パワー」という言葉が暴力を正当化し、世界基準に格上げしたのである。


 ガンディーによって大英帝国から独立を果たしたインドは、1974年5月18日に核実験を行った。実験のコードネームは「微笑むブッダ」であった。これが、非暴力の成れの果てだ。

気づきの探究―クリシュナムルティとともに考える

本当のスピードは見えない/『「勝負強い人間」になる52ヶ条 20年間勝ち続けた雀鬼がつかんだ、勝つための哲学』桜井章一


 桜井章一は感性の人だ。ただし並みの感性ではない。麻雀の世界で20年間という長きに渡って敗れたことのない感性なのだ。これだけの期間において桜井の感性は磨き続けられてきたはずだ。そして、「勝つことに飽きた」桜井は第一線を退いた。


 真理というものが存在するなら、どんな世界にだってそれはあるに違いない。真理と真実とは異なる。真理は「理」であるがゆえに普遍性がある。何らかの勝負を迫られる世界であれば尚更だ。


 雀鬼・桜井は麻雀のプレイにおいてスピードを追求する。「躊躇(ちゅうちょ)するな、逡巡するな、考えるな、感じろ」と門下生に説く。「考えると迷いが生じる」というのだ。


 本当の「ゆっくり」というのは、スピードを出してスピードが消えた状態のことだ。ただノロノロしているのとは違う。

 スピードを出して、そのスピードが見えているうちはまだダメだ。本当のスピードとは、見えないものなのだ。たとえば、光は1秒間に地球を7周り半するというが、光のスピードは見えない。光というのは、まるで止まっているか、ゆっくりしているように見える。

 これが本当のスピードだ。


【『「勝負強い人間」になる52ヶ条 20年間勝ち続けた雀鬼がつかんだ、勝つための哲学』桜井章一〈さくらい・しょういち〉(三笠書房、2004年『20年間無敗の雀鬼が明かす「勝負哲学」』改題/知的生きかた文庫、2006年)】


 川上哲治はその絶頂期に「ボールが止まって見えた」と語った。「止まっていたら、ベースにまで来ねーだろーよ」なんて屁理屈を言ってはいけない。神は細部に宿り、永遠は瞬間に凝縮されているのだ。


 確かに空を飛んでいる飛行機はスピードを感じさせない。もっとわかりやすいのはコマだ。フル回転をしているにも関わらず整然と直立しているようにしか見えない。


 アインシュタイン相対性理論によれば、光のスピードで走る乗り物に乗っている人は止まって見えるという。その上、彼の周囲にある物は小さくなっている。スピードは時空を変質させる。ただし、これは例えであって実際は見えないことだろう。だって、光の速度で動いている以上、観測者が色や形を判別することは不可能だろう。視覚情報はその全てが「光の反射」なのだ。

 光は年をとらない。「新しい光」はあっても、「古い光」は存在しないのだ。我々が光を心地よく感じる理由もこのあたりにあるのかもしれない。


 天台智ギは観念観法(瞑想)を「止観」(しかん)と説いた。心を静め、精神の深層を探り、意識が漂う様を「止」と表現したように思う。「一」に「止(とど)まる」と書いて「正」と言うが如し。


 長生きすることが永遠に近づくわけではない。たとえ短くとも、光のスピードで生きたかどうかが問われるのだ。真の永遠は万、億、兆……の彼方にあるものではなく、1と0の間に存在するのだろう。

「勝負強い人間」になる52ヶ条―20年間勝ち続けた雀鬼がつかんだ、勝つための哲学 (知的生きかた文庫)


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2009年11月のアクセスランキング


 あまり代わり栄えしないので20位まで紹介する。


順位記事タイトル
1位日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信
2位アインシュタインを超える天才ラマヌジャン/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
3位ジニ係数から見えてくる日本社会の格差/『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵』北村慶
4位エレクトーン奏者maruさん情報
5位山崎豊子の盗作疑惑
6位その男、本村洋/『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫
7位少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした/『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
8位ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ
9位そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ウィリアム・ノースダーフ
10位経頭蓋磁気刺激法(TMS)/『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著
11位巧みな介護の技/『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』岡田慎一郎
12位キティ・ジェノヴェーゼ事件〜傍観者効果/『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
13位獄中の極意/『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三
14位昭和の脱獄王・白鳥由栄/『破獄』吉村昭
15位自覚のない障害者差別/『怒りの川田さん 全盲だから見えた日本のリアル』川田隆一
16位クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
17位童神(わらびがみ)古謝美佐子
18位輪廻転生からの解脱/『100万回生きたねこ佐野洋子
19位寿命は違っても心臓の鼓動数は同じ/『ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学』本川達雄
20位精神障害者による犯罪の実態/『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆