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2009-12-02

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

 クリシュナムルティのメッセージは「一切の条件づけに反逆せよ。そのために、ただひたすら心を探り、心を見つめよ」ということに尽きる。「条件づけ」とは、歴史・文化・社会・時代・地域・学校・家族などから、無意識のうちに与えられた価値観を指す。なぜ無意識なのか? それは生まれた直後から思考を鋳型にはめ込む作業が始まるためだ。両親は「既に条件づけられた“善”」を幼児に押し付ける。するべきことと、やってはいけないことを強制的に叩き込むことを、日本では「躾」(しつけ)と称して励行されている。「身が美しく」(=躾)なるという意味は、飽くまでも「その社会」にとってというレベルの話である。


 我々は生まれながらにして、社会は善であり、多数の人が考えることは正しいと信じ込んでいる。そうやって何度も戦争をしたり、朝鮮人が井戸に毒を投げ入れたという噂を鵜呑みにしたり、向こうの部落へ行ってはいけないといったことを正しいと信じてきたのだ。


 人間ってのは、魚の群れのようなものなのか? あるいは蟻の行列、はたまた群生する藻のような存在なのか? 多分そうなのだろう。地域やコミュニティという言葉が何だかツルツルしていて捉えどころがなく、妙に胡散臭いのは、「コミュニティ=善」という前提がチラついているためだ。


 では、鋳型や金型で整形――あるいは変形――された人々の姿はどんなものになっているのだろう? そんなのは決まりきっている。兵隊か労働者だよ。


 精巧かつ巧妙な鋳型は「理想」という材料でつくられている――


質問者●理想は教育において居場所があるでしょうか?


クリシュナムルティ●明らかに否です。教育における理想と理想主義者は、現在を理解することを妨げるのです。これは一大問題なので、5分か10分ほどかけて取り組んでみましょう。それは、われわれの全構造の存立にかかわる問題です。われわれは理想を抱き、そしてそれらに従って教育します。さて、教育にとって理想は必要でしょうか? 理想は実際には正しい教育、つまり生徒のあるべき姿ではなく彼のあるがままを理解することを妨げるのではないでしょうか? もし私がある生徒を理解しようと欲するなら、彼がどうあるべきかという理想を持ってはならないのです。彼を理解するためには、私は彼をそのあるがままに調べてみなければなりません。しかし生徒を理想の枠組みにはめこむことは、彼を一定のパターンに――彼がそれに合おうが合うまいが――従うよう強いることに他ならず、その結果は彼が常に理想に反するか、さもなければ見事に理想に合致する結果、人間ではなくなって、英知を持たない単なる自動人形と化さしめることに至るのです。ですから、理想は子供の理解にとって実際には妨げになるのではないでしょうか? もしあなたが良心として本当に自分の子供を理解したいなら、あなたは彼を理想のスクリーンを通して見るでしょうか? それともあなたは、心に愛を持っているがゆえに、ただ彼を調べてみるでしょうか? あなたはお子さんを観察し、彼の気分、性癖を見守ります。愛があるので、お子さんを調べてみるのです。あなたが理想を持つのは、自分に何の愛もないときだけです。自分自身を見守ってみれば、このことに気づくでしょう。何の愛もないとき、あなたは大きな規範や理想を持ち、お子さんがそれらに倣い、適合するように強いるのです。しかしもし愛を持っていれば、あなたは彼を調べ、観察し、そして彼が彼自身でいられる自由を与えるのです。あなたはお子さんを、理想にでも、一定の行動様式に従ってでもなく、彼がありのままの彼でいられるように、彼を導き助けるのです。

 この質問に関連して、いわゆる不良少年の問題が起ります。彼を不良でなくするためには、明らかに理想を持ってはなりません。もし彼が嘘(うそ)つきなら、あなたは彼に正直の理想を与えてはなりません。あなたは、なぜ彼がうそ(ママ)をついているかを調べてみます。さまざまな理由があるかもしれません――多分おびえているか、あるいは何かを避けているのです。うそをつくさまざまな理由を調べる必要はありません。しかし明らかに、子供がうそをつくときに、彼をあなたの理想である正直のパターンに適合させることは、彼がうその原因から自分自身を自由にさせるうえで、彼の助けにはなりません。彼を調べ、彼を観察しなければなりませんが、そうするためには長い時間がかかります。それには忍耐と思いやりと愛が必要です。しかしあなたにはそれがないので、あなたのいわゆる理想という一定の行動様式への(ママ)お子さんを無理に押し込めるのです。明らかに、理想は非常に安易な避難場なのです。理想を持っている学校、あるいは理想に従う教師は、明らかに子供に対処することはできないのです。

 結局、教育とは人生に聡明に、全的に――部分的にではなく、技師あるいは理想主義者としてではなしに――対処することができる、統合した個人を生み出すことなのです。しかしもし個人が単に知ろう主義的な行動パターンを追求していれば、彼が統合した人間になれないことは明らかです。理想主義者となって、一定の行動パターン、いわゆる理想を追求している教師は、まったくもって無用なのです。もし観察してみれば、彼らが無情で、冷たい心の持ち主であり、愛することができないことに気づくでしょう。児童を調べ、観察するためには、彼を強いて理想主義的な行動パターンを辿らせるよりもはるかに広い観察、大きな愛情が必要なのです。そして私の思うに、別種の理想である模範を立てることもまた、英知の妨げになるのです。

 多分私が言っていることは、皆さんが信じていることとまったく相容れないでしょう。どうか熟考していただきたい。なぜならこれは、拒絶や認容の問題ではないからです。理想が何を含意しているかは明白です。教師が理想を追求しているとき、彼は生徒を理解することができません。なぜならそのときには、未来――理想――のほうが生徒――現在――よりもはるかに重要になるからです。彼は正しいと思われる一定の目的を心に期し、そして子供をその理想に強いて適合させようとします。疑いなく、これは教育ではありません。それは自動車を生産するようなものです。パターンを持ち、そして生徒を鋳型にはめれば、その結果生れてくるのは単なる技師、他人と何の関係も持たず、ただただ自分のため、政治的、社会的に、あるいは家庭で、自分の利益のことばかり考えている人間だけです。明らかに、児童ひいては人類を観察し、思いやり、そして彼らへの愛を喚起するよりは、理想に従うほうがはるかに容易なのです。いわゆる理想、所期の目的――極左翼のイデオロギーであれ、極右翼のイデオロギーであれ――が行動パターンになり、それがこの現在の世界的破局を引き起こしたのです。これこそは現代の教育の惨禍のひとつなのです。(1984年の講話)


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 理想という花はいつだって善の匂いを放っている。その上、蜜だってたっぷりあるのだ。誰しもが「社会から認められること」を願っている。では、そこで評価されるものは一体何だろう?


 例えば政治家が「この国を改革する」という理想を持っていたとしよう。実際、掃いて捨てるほどいるよね。ここでいう改革とは、厳密にいえば「よりよく改革」するという意味である。つまり、「条件づけされた社会で許容できる範囲内での改革」と翻訳することができる。ということは、現在の日本における二極化、政治主導の教育制度、児童が晒(さら)される受験競争、いつまで経ってもなくならない交通事故、貸し渋り貸しはがしで中小企業をいじめる銀行、仕事を丸投げするだけで巨利を得る大企業、その他もろもろの不正や不平等を容認することになるのだ。


 我々は何をやっても充たされることがない。心のどこかに不安を抱えている。それは、「自分である」ことを見失ってしまったせいなのだろう。我々の生は「記憶に支配された反応」に過ぎない。


 世の中が少しずつよくなる――実はこんなことはあり得ないのだ。だから、人間の精神が少しずつ成長することもあり得ない。もし変わるとすれば、劇的に変化しなければならない。


 革命は「自分自身への反逆」から始まるのだ。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性

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