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2009-12-19

ロバート・キヨサキ、イサク・ディーネセン、ヘニング・マンケル、イドリース


 4冊挫折。以下、いずれも20ページ前後で何となく挫ける。


 挫折95『金持ち父さんの金持ちがますます金持ちになる理由ロバート・キヨサキ井上純子訳(筑摩書房、2008年)

 挫折96『バベットの晩餐会』イサク・ディーネセン/桝田啓介訳(筑摩書房、1989年/ちくま文庫、1992年)

 挫折97『笑う男』ヘニング・マンケル/柳沢由美子訳(創元推理文庫、2005年)

 挫折98『ハラーム〔禁忌〕』イドリース/奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(第三書館、1984年)

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五陰仮和合(ごおんけわごう)がよく理解できる。


〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。


 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。


 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。


 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。


【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】


 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。


 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。


 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。


 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。


 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。


 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。


 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)


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アフガン軍事請負企業に資金不正疑惑 米議会が調査へ


 米政府と契約しアフガニスタンで操業している民間の軍事請負企業が、巨額の公的資金を不正使用している疑惑が浮上し、米議会が調査に乗り出す予定だ。中でも輸送業務契約に絡む22億ドル(約2000億円)近くが、部族勢力やイスラム強硬派タリバーンに流れた疑いが問題視されている。


CNN.co.jp 2009-12-18

空気で走る究極のエコカー


「酸化窒素も排出しなければ、ほんの少しの塵さえも排出しない。わずかな二酸化炭素(CO2)の排出だけで、800キロメートルもの走行距離を可能にした」

創造的少数者=アウトサイダー

『反逆的文学論』(現文社、1967年)の著者吉村貞司氏はこう述べている。


 トインビーが「創造的少数者」と呼んだのが、アウトサイダーにほかならない。文化は彼ら少数者によっておしすすめられた。少数者はいつも社会の秩序の外、社会の常識の外にある。秩序の内部にいたら、あたえられた文化をくいつぶして行くだけだが、彼ら少数者はありきたりの社会、ありきたりの文化に満足することができない。だからこそ、社会に反抗し、戦いをいどむ。その戦いの中から、新しい価値が生み出されてくる。古い文化に頭をなでられて、いい子になるような根性のものには、なにひとつ創造することができない。どんなに大学教授の肩書きをもち、マスコミの波にのっかっていたからといっても、なにひとつじぶんのものを生み出すことができない。創造的少数者は、古いものの害毒にむかって戦いながら、新しい価値をつくり出す。しかしそれはけっしてなまやさしい道ではない。彼らがかならず社会の外にのがれるのもそのためだ。仏陀も、聖パウロも、マホメットも、ダンテも、カントも一度は社会からのがれた。ドストエフスキイもニイチェもやはりそうだ。彼らは社会から退却して、町を遠く離れた荒野の中に、あるいは見しらぬ地方に姿をかくしてしまう。じぶんひとりで問題にとりくむためだ。彼はその孤立の中で、活力と洞察力とを増し、問題のはっきりした解答を得たうえで、ふたたび社会の前に立ちあらわれてくる。その時には、社会に挑戦してうちから、彼の真理、彼の新しい解答で、勝利を得るだけの力をもつようになっている。


 これはクリシュナムルティにもすこぶるよく当てはまる。


【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】


 とすれば、インサイダーは腐敗的多数者か。ありとあらゆる所属や帰属はインサイダーであることの表明である。アウトサイダーとは反逆者であり反骨の人であり真の革命家を意味する。

クリシュナムルティの教育・人生論―心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性


反逆的文学論 サルトル・ミラー・イオネスコ・禅/グロリア・ブックス 3