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2009-12-24

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 長いテキストなので3回に分けて書くことにする。『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー』はクリシュナムルティがノートに記したもので、登場する人物はいずれもクリシュナムルティのもとを訪れて相談した人々だと思われる。仮に創作部分が盛り込まれていたとしても、それはドラマチックな演出を狙ったものではなく、普遍性に配慮したものであろうと個人的に考えている。また、胡散臭いタイトルとなっているが、内容は「生死(しょうじ)論」であり「生命論」である。


 クリシュナムルティが投げ掛ける質問はいつだってトリッキーだ。我々の中にある理想、信念、常識をやすやすと引っ繰り返してみせる。ブッダが行った動執生疑(どうしゅうしょうぎ/相手の執着を動ぜしめて疑いを生じさせる)と全く同じアプローチだ。揺さぶられるのは自分の中に根を下ろしている「条件づけ」の数々である。


 彼は言った、自分はギリシア語が楽に読め、そしてサンスクリットには半可通だ、と。彼は年を取りつつあり、そしてしきりに知恵を集めたがっていた。

 知恵を集めることができるだろうか?

「なぜできないでしょうか? 人間を賢くさせるのは経験です。そして知識は、知恵にとって不可欠です」

 蓄積した人間が、賢明でありうるだろうか?

「生は蓄積の過程であり、性格の漸次的築き上げ、徐々の展開です。経験は、結局のところ知識の蓄積です。知識は、あらゆる理解に不可欠です」

 理解は、知識、経験によって生まれるだろうか? 知識は経験の残滓であり、過去の集積である。知識、意識は、常に過去のものである。そして過去は、果たして理解できるだろうか? 理解は、思考が静まっている、そういう合間に生ずるのではないだろうか? そして、これらの沈黙の空白を延ばしたり、あるいは蓄積しようとする努力は、理解をもたらすことができるだろうか?

「蓄積なしには、われわれは何物(ママ)でもなくなることでしょう。思考の、行為の連続がなくなることでしょう。蓄積は性格であり、蓄積は美徳です。われわれは、蓄積なしには存在できないのです。もしも私がそのモーターの構造を知らなかったら、私はそれを理解できないでしょう。もしも私が音楽の構造を知らなかったら、私はそれを深く観賞することはできないでしょう。浅薄な者だけが、音楽を【楽しむ】のです。音楽を鑑賞するためには、あなたは、それがどのように作られているか、組み立てられているか、知っておかねばならないのです。知識は蓄積です。事実を知ることなしには、鑑賞はありません。ある種の蓄積は、理解、つまり知恵にとって必要なのです」

 発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか? 蓄積する人間は、それが金銭であれ、あるいは知識であれ、決して自由ではありえない。あなたは、物欲からは自由であるかもしれないが、しかし知識への貪欲は依然として束縛であり、それはあなたを抑えつけている。何らかの種類の獲得に縛りつけられた精神が、遠くまで乗り出し、そして発見できるだろうか? 美徳は、何かになることからの自由ではないだろうか? 性格もまた、束縛かもしれないのだ。廉潔は決して束縛ではありえないが、しかしあらゆる蓄積は束縛である。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


「蓄積」とは「所有」である。

 資本主義経済は資本の蓄積=所有を競う構造を意味している。ゲームの点数と一緒だ。「より多く」持っている者が勝者となる。で、奪い合いだから「奪われた」人々が存在する。サラリーマンという労働形態は、賃金を受け取る前に徴税されており、「奪われた」事実に気づかせないために施された国家の配慮である。それゆえ、税金がどのように使われているか誰も関心を抱いていない。自分達のお金であるにもかかわらず。


 ま、有り体にいえば、物の蓄積が不平等を生み、貧富の拡大に手を貸していることは理解できる。だがクリシュナムルティは「知識の蓄積」をも否定する。それだけにとどまらない。意識を否定し、経験を否定し、過去をも否定しているのだ。これが「クリシュナムルティ・トリック」である。否定の重層構造。まるで、質問者が全力で投げたボールを軽々と受け取る千手観音さながら。そしてどの腕が返球してくるのか想像もできない。


 強いて要点を挙げるとすれば、それは「時間」であろう。なぜなら、人生というものは時間に支配されているからだ。人は限りある生を永遠たらしめようとして、名を残すことを切望し、地位にこだわり、子孫に遺産をのこそうと奮闘する。限界性の突破をシンボリックな形にしたものが墓石であろう。私が死んだとしても、墓石が滅びるまで私の名前は残るってわけだよ。


 仏教に身口意(しんくい)の三業(さんごう)という考え方がある。過去に自分自身が身で行ったこと(身業)、言葉にしたこと(口業)、意(こころ)で思ったことの集積が現在の自分を形成しているとするものだ。つまり、自分特有の反応が記憶されることで、より「自分らしさ」が強化されるわけだ。そして今度は、「自分らしさ」を発揮しようとして意図的に「過去と同じ反応」を繰り返すのである。わかるだろうか? 完全な条件づけによって過去の奴隷と化す人がそこにいる。


 我々は現在を自覚できない。脈々と流れ通う生を実感できない。なぜなら、過去に生きているからだ。我々が見つめる未来は、「過去を反転させたもの」に過ぎない。そして現在は、常に過去から未来へと向かう中間地点に貶(おとし)められている。実際に存在するのは「今この瞬間」であるにもかかわらず、だ。


 クリシュナムルティが説く瞑想は、己心の静謐(せいひつ)なる宇宙を見つめることで、現在という瞬間に永遠を見出す作業なのだ。


→「意識は過去の過程である」に続く

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より


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