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2010-01-31

メールマガジン


 本日、「片言自在」の第100号を発行した。33部と部数は少ないが、何とか続けてゆきたい。

覚者は一法を悟る/『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ


 収められているのは1927〜1930年に行われたインタビューと講話である。星の教会を解散したのが1929年だから、神秘宗教の匂いが強い。読むのであれば、後回しにするべきだ。つまらぬ先入観を持ってしまえば、クリシュナムルティをスピリチュアル系の枠組みでしか捉えられなくなる可能性があるからだ。現に訳者の大野純一がそんな方向に進んでしまっている。


 クリシュナムルティを襲ったプロセス体験は、確かに奇妙な出来事だ。不思議といえばこれに勝る不思議もない。だが、クリシュナムルティは万人がプロセスを経験せよとは言っていないのだ。彼の思想をつかめないあまりに、プロセス体験を持ち出して特別視することは、クリシュナムルティからかえって遠ざかることになるだろう。


 尚、3分の1ほどが『生と覚醒のコメンタリー』からの箴言集となっている。クリシュナムルティの古い言葉と新しい言葉を対比することを大野は意図したようだが、杜撰な構成の言いわけにしか聞こえない。


 30代のクリシュナムルティは、自分が覚知した世界を伝える言葉を持っていたとは決して言い難い。しかしながら、口を突いて出る言葉の奔流を抑えることができない。明らかに思想の原型を見て取れるのだが、星の教団の信者に理解されているとは思えない。超然とした彼の姿は、孤独な情熱と静かな怒りに包まれていた。


「覚り」とは言葉で伝えることのできない世界なのだ。ここに覚者の苦悩があった。言葉で説明されたものは知識となってしまい、思考の範疇(はんちゅう)に収まる。「覚り」とは、他人から教えてもらうべき性質のものではなく、自分で経験する世界なのだ。


 クリシュナムルティはインタビューに答える。「覚者は一法を悟る」と――


 世界のすべての〈教師〉は、生の成就であるあの〈生〉に到達したのだと私は思います。ゆえに、すべての生の極致であるその〈生〉に入る者は誰であれ、【その事実によって】、仏陀、キリスト、ロード・マイトレーヤになるのです。なぜなら、そこにはもはや区別がないからです。ですから、それはそうした存在者たち以上だと私が言う時、それは、普通の個人の観点から見て「それ以上」なのです。(1928年、ロンドンでのインタビュー)


【『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2003年)】


 ロード・マイトレーヤとは弥勒菩薩(みろくぼさつ)の生まれ変わりのこと。これは、クリシュナムルティによる「仏の宣言」と考えていいだろう。


 では彼等が覚ったものは何であったのか? それは「生の全体性」である。クリシュナムルティがプロセスで知覚したのは、無限にして広大な生の領域であった。我(が)という鎧(よろい)を打破した瞬間、諸法は無我となり、あらゆるものが渾然一体となった縁起の世界が立ち現われる。


 クリシュナムルティが「過去に対して死ななくてはならない」と説く意味もここにある。我々の人生というのは、橋の上から下流を眺めているような代物である。流れ去った過去に囚(とら)われ、脈々と流れ通う生を実感することができないのだ。「私」を形成しているのは過去の記憶である。未来に希望を持ったとしても、それは過去の反転に過ぎない。


 そして自我はまた、他人との差異によってしか支えることができない。「私」が「私だ」と言う時、それは「他の誰か」であってはならないのだ。だから人は常に「かけがえのなさ」を欲する。だからこそ自分が軽く扱われると自我が傷つくのだ。自我は拡大化の一途を目指してやむことがない。自我の葛藤こそ暴力の原因である。仏教で説かれる「世間」には差別の義がある。僧のことを出世間(しゅっせけん)と名づけるのは、差別の世界から離れる意味が込められているのだろう。


 クリシュナムルティが説いた瞑想は、心の内なる領域をただ観察することであった。天台は止観(しかん)と説き、日蓮は勧心(かんじん)と顕した。この三者が同じ世界を覚ったとすれば、それはまさしく諸法実相ということになる。時間は諸行無常を奏で、空間は諸法無我と広がり、存在と現象は諸法実相と開かれる。


 花はいつか枯れる(諸行無常)。花は香る(諸法無我)。そして花は在るのだ(諸法実相)。


白い炎―クリシュナムルティ初期トーク集

「帰らざる日のために」いずみたくシンガーズ


 中村雅俊主演『われら青春!』のテーマソング。「俺たちの朝」にも書いた通り、当時の歌の特徴は女性コーラスにあった。極めつけがこの曲で、女性コーラスがリードを担っている。スタッカート気味のコーラスが軽快な切れ味となっており、今聴いても古めかしさを感じさせない。昭和50年前後は、まだ青春そのものに価値がある時代だった。「青春」とは中国古代の五行説によるもので、春を表す色が青とされている。その他は、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)と名づける。


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青春ドラマシリーズ・ソングブック 俺たちの旅

元祖どっきりカメラ 暴力学園 ガッツ石松(35)


「元祖どっきりカメラ」という醜悪な番組があった。それからというもの、騙(だま)される人を観て視聴者が笑うという文化が形成されてしまった。これは、ガッツ石松が35歳の時に撮影されたもののようだ。一人では何もできない若者達が、集団となるや否や暴力性を発揮する。暴徒の群れを押しとどめるのは、それを上回る暴力性か、あるいは慈悲しかない。ガッツ石松が立派だと思ったのは、拳で殴らなかったことだ。ビンタを張ったのは、やはり彼が正真正銘のボクサーである証拠といえよう。その後バブル景気を経て、テレビは「やらせ」や「インチキ」を平然と行うようになる。大掛かりな仕掛けの詐欺といってよかろう。


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納税は国民の義務?


 日本の憲法には「納税は国民の義務」という条文がありまして、例によってお上に従うのが大好きな日本人は、これをありがたく遵守しています。一方、アメリカ合衆国憲法には「議会は税を課し徴収することができる」としかありません。

 欧米諸国において憲法とは、国民の権利と国家の義務を規定したものなのです。日本はまるっきり逆。国民に納税しろと命じるずうずうしい憲法は世界的に見てもまれな例です。

 スペインの憲法には「納税の義務」が記されていますが、税は平等であるべしとか、財産を没収するようなものであってはならぬなど、国家に対する義務も併記されています。日本では納税しないと憲法違反となじられますが、役人が税金を湯水のごとくムダ遣いしても憲法違反にはならず、はなはだ不公平です。

 一方的に国民に納税を要求する取り立て屋のような憲法があるのは、日本・韓国・中国くらいものですから、こんな恥ずかしい憲法はもう、即刻改正しなければいけません。


【『反社会学講座パオロ・マッツァリーノイースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)】

反社会学講座反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-30

銀行員だった父・義平の遺書


 人間が人間として生きなかったということぐらい、恥ずかしいことはありますまい。松の木は松の木としてのびていきます。ライオンは一生ライオンの声を失いません。しかるに人間が人間らしく生きなかったということは、金銭登録器のような生活しかしなかったということは、人間としてこれ以上の恥辱はないと思います。


【『真実一路』山本有三著(新潮社、1936年/新潮文庫、1950年)】


真実一路 (新潮文庫)

「俺たちの朝」松崎しげる


 いやあ懐かしい……。女性コーラスがこの時代の特徴だった。作詞・谷川俊太郎、作曲・小室等


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青春ドラマシリーズ・ソングブック 俺たちの旅

2010-01-29

浪曲忠臣蔵「義士の本懐」/三波春夫、村田英雄


 二人とも浪曲出身である。浪曲の「浪」(なみ)が理解できるような気になってくる。この二人は陰と陽、白と黒、竜と虎、光と影、明と暗、裏と表、マイナスとプラスを現している。


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三波春夫スーパーベストアルバム

生のレッスン


 殺人者たちは、家から出て行きました。

 私たちは、また息をすることが出来ました。

 でも、彼らは3カ月のあいだに、何度も何度もやってきたのです。

 私は、神様に助けられたと信じています。

 そして、そのクローゼットの大きさほどしかないトイレの中で7人の女性たちとともに恐怖に耐えながら過ごした91日のあいだに学んだのです。

 生かされたということは、ただ助けられたのとはまったく違う意味を持っているのだと。

 このレッスンは、私の人生を永久に変えました。


【『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン/堤江実訳(PHP研究所、2006年)】

生かされて。 生かされて。 (PHP文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-01-28

グレッグ・イーガン、デイヴィッド・T・コートライト、宮元啓一、J・クリシュナムルティ


 3冊挫折、1冊読了。10年ぶりくらいで風邪をひいてしまった。午前中は鼻水が止まらなくなった。まだ頭がボーッとしている。


 挫折7『順列都市(上)』グレッグ・イーガン/山岸真訳(ハヤカワ文庫、1999年)/テーマは好みなんだが、如何せんこの人の筋運びがどうも私の性に合わない。多分馴れていないためだろう。


 挫折8『ドラッグは世界をいかに変えたか 依存性物質の社会史』デイヴィッド・T・コートライト/小川昭子〈おがわ・あきこ〉訳(春秋社、2003年)/文章はこなれていて素晴らしいのだがヤマがない。歴史の小ネタも多いだけに残念。


 挫折9『日本奇僧伝』宮元啓一(東京書籍、1985年/ちくま学芸文庫、1998年)/読み物としては全く面白くなかった。半分ほど読んで、後は飛ばし読み。あとがきは振るっているのだが内容が伴っていない。読むだけ時間のムダ。


 14冊目『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)/クリシュナムルティ本16冊目を読了。昨年10月から何かに取り憑かれたように読み漁っている。コメンタリーはこれで完結。前の3冊と比べるとやや長めのテキストが多い。3人の相談者とのやり取りが書かれた「どうしたらいいのでしょうか?」が実に素晴らしい。座談の妙が遺憾なく発揮されている。また、風景描写の中に盛り込まれる空観がとにかく凄い。後半は静謐のオンパレード。

『第9地区』ニール・ブロムカンプ監督


 南アフリカ出身のニール・ブロムカンプの監督&脚本による長編デヴュー作。ブロムカンプ監督はまだ20代というのだから驚き。日本ではGWに公開予定。


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騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル


 坂根厳夫訳(創元社、2008年)。「だまし絵」は「トリックアート」ともいう。騙(だま)されていることがわかっているにも関わらず、妙な快感を覚える。騙されても何の被害もないことにもよるが、それ以上に人間が「不思議という意外性」を求めているためだろう。起承転結の「転」も似たところがある。物語に逆転は不可欠だ。絶体絶命の窮地から抜け出す力と技と知恵を持つのがヒーローなのだ。幸運というスパイスを効かせながら。


 錯視というのは目の錯覚のこと。基本的な図形は以下――

 一つ一つの画像をクリックして、拡大図形をよくご覧いただきたい。例えば「フレイザー図形」はどこをどう見ても渦巻模様にしか見えないが、実は同心円である。試しに輪の部分をポインターでなぞってみるといい。内側に全く進まないから(笑)。


 本書に収録されえているのは世界を代表する20人のアーティストだ。いくつかの画像が以下のページにアップされている――

 図1は、髪の生え際を「耳」と見るか「目」と見るかで、後ろ向きの若い女性と俯(うつむ)く老婆に変化する。


 つまり視覚という感覚は「目が見ている」わけではなく、「脳が読み解いている」のだ。それが証拠に、生まれつき目の不自由な人が治療によって見えるようになると、「見た」だけではそれが何であるのかを理解することができない。このため必ず対象物を触ってから視覚で再度確認する。


 また、「見る」ことは「見えない」ことでもある。我々は目に映る物の後ろ側を見ることはできないのだ。そして、自分の背後に広がる世界も同時に見ることは不可能だ。


 せっかくの機会なので全員紹介してしまおう。骨の折れる作業だが(笑)。


ジュゼッペ・アルチンボルド/Giuseppe Arcimboldo


 花や果物、野菜や動物を合成させた肖像画が有名。

サルバドール・ダリSalvador Dali

サンドロ・デル=プレーテ/Sandro Del-Prete


 スイスのアーティスト。

ヨース・ド・メイ/Jos De Mey

M.C.エッシャー/M.C.Escher


 だまし絵といえばこの人。ミスター・トリックアートといってよい。美術界からは亜流扱いされ、いまだに正当な評価がされていない。私が好きなのは「描く手」。

福田繁雄/Shigeo Fukuda


 名前を知らない人は多いことと思うが、この作品は見たことがあるだろう――


f:id:hanakoblog:20090217051637j:image

(「hanakoblog」)

ロブ・ゴンサルヴェス/Rob Gonsalves

マチュー・ハマーケルス/Mathieu Hamaekers

スコット・キム/Scott Kim


 アンビグラムという手法。アイザック・アシモフが「アルファベットのエッシャー」と称賛した。

北岡明佳/Akiyoshi Kitaoka


 名前を知らなくても、大概の人は北岡の作品を見たことがあるはずだ。脳がトリップ状態となる。

ケン・ノールトン/Ken Knowlton


 この人の作品には驚かされた。例えばアーロン・フォイエルスタイン(織物メーカー社長)にプレゼントした肖像画である。これが何と、糸巻きだけで作られているのだ。そして、アインシュタインは999個のサイコロ(加工してない)で描かれている(しかも6の目を使用していない)。

ギド・モレッティ/Guido Moretti

ヴィック・ムニーズ/Vik Muniz


 本書で最も堪能したのはケン・ノールトンとこの人。砂糖(黒い紙の上に砂糖をまぶしているだけ)やチョコレートシロップ、土やおもちゃまで使っている。表紙もビック・ムニーズの作品である。

オクタビオ・オカンポ/Octavio Ocampo

イシュトバン・オロス/Istvan Orosz

ジョン・ピュー/John Pugh

オスカー・ロイテルスバルド/Oscar Reutersvard

ロジャー・シェパード/Roger Shepard

ディック・タームズ/Dick Termes

レックス・ホイスラー/Rex Whistler

 以上20名。ハアー疲れた。男女を問わず、ブラウザに向かって感謝の投げキッスを送ること。


 錯視が明らかにしているのは「視覚の危うさ」である。我々は「見たまま」「聞いたまま」を事実と捉える習慣が身についているが、決してそうではないことを教えてくれる。


 感覚器官ですらそうなのだから、思考や概念・価値観にはもっとたくさんの誤謬(ごびゅう)が含まれているに違いない。ものの見方や考え方には、とかく今までの慣性が働きやすい。錯覚や先入観を自覚する人は少ない。皆が皆、自分の判断は正しいものと思い込んでいる。詐欺被害に遭った人々ですらそうだろう。高額な布団や貴金属を買わされた人に至っては、「騙された事実」を認めようとしないタイプも多い。


 科学の世界では「人間に自由意思はない」とされている。

 選択を決定づけているのは「脳内のゆらぎ」とされている。で、判断をした後で様々な理由付けや正当化を行っているのである。都合の悪い情報は意図的に無視され、都合のよい情報はデフォルメして取り込む。このようにして我々の脳は「正しい物語」を作り上げるのだ。


 目に映る世界が絶対ではない。情報量が圧倒的に多いため、我々は視覚情報に翻弄されているのだ。もしも目が見えなければ、美人の定義は「声の美しさ」になることだろう。そして耳も聴こえなければ、「匂い」や「肌触り」となる。では、五感の全てが失われたら、一体どうなるのだろうか? そこには隠しようのない「無意識の世界」が出現することだろう。


 仏像が半眼になっているのは、あの世とこの世を見つめているためとされる。それは意識と無意識といってもよかろう。つまり、生と死を仏は同時に見つめているのだ。


 人は感覚によってしか世界を捉えることができないが、感覚だけを信じても失敗することを錯視は証明している。見る姿勢も色々だ。観察、賢察、考察、視察、熟察、巡察、省察、診察、推察、精察、偵察、洞察など。


 結局、「何をどう見るか」にその人の世界観が現れる。

錯視芸術の巨匠たち―世界のだまし絵作家20人の傑作集

イエス・キリストの言葉は存在しない


 そもそも今の世の中に、神が霊感によって与えた無謬なる御言葉の現物はただのひとつも存在しない。あるのはただ、神の御言葉を書き写した、いわば複製だけなのだ――その複製は正しい部分もあるが、間違っている部分も(数限りなく!)ある。そんな状況で、その原文(すなわちオリジナル)は霊感によって書かれたものだなんていう主張にどれほどの意味がある? オリジナルなんてどこを探しても【ないんだ】! あるのはただエラー満載の複製ばかりで、その圧倒的大多数はオリジナルの何世紀も後に造られたものだ。当然ながら、ありとあらゆる点でオリジナルとは別物だ。


【『捏造された聖書』バート・D・アーマン/松田和也訳(柏書房、2006年)】

捏造された聖書

2010-01-27

「無法松の一生」村田英雄


 村田英雄のデビュー曲。普段演歌は殆ど聴かないが、この喉の唸(うな)りは凄い。

(決定盤)村田英雄大全集

アル・セッケル


 1冊読了。


 13冊目『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル/坂根巌夫訳(創元社、2008年)/何と日本人が二人取り上げられている。福田繁雄北岡明佳。日本での知名度も高いが、よもや世界の巨匠とは知らなかった。ネット上の画像をあちこち探し回ったので、書評にて紹介する予定。圧巻は、ケン・ノールトンのモザイク画と、ビック・ムニーズの小物マジック。まあ凄いよ。「騙される快感」に打ち震えること間違いなし。

岩上安身のつぶやき


 はっきり言えば、今、すっとぼけたふりをしながら、検察批判はスルーして、検察の思惑どおりに小沢叩きをしている大手マスコミの現場トップは、この事件の筋が悪いことくらい、よくわかっています。僕も話を聞いていますから。わかっていて、書き立てているのです。よけいに悪質です。


 ある大手マスコミの中堅は、僕にこう言った。「検察が小沢をやる、と言ってるんだから、そうなるんでしょ。起訴さえすれば、何年か先に無罪になっても、小沢の政治生命は終わってるし、検察は責任を問われない」と。


 続き。その中堅幹部は、「小沢ですら、血祭りになるなら、この先、検察権力に歯向かうものは出てこない。形式犯だろうが、無理筋の汚職ストーリーだろうが、かまわないんですよ」。何もかもわかっていて、そのメディアは、連日、検察ベッタリ、小沢有罪の「報道」を続けている。

アダムとイブの原罪


佐藤●さて、善悪の知識の木の実を食べたふたりは、自分たちが裸だということに気付いて、イチジクの葉をつづりあわせて腰を覆います。その日、エデンの園に神様がやってきました。足音を聞いたふたりは隠れます。神様は「あんたら何してるんだ。あれを食べたのか?」と。男の方は「女に言われて食った」と女のせいにするわけです。女は「蛇がだましたので、食べました」と。

 神様はびっくりしました。「食ったか?」と聞かれたら、「食べました」「食べてません」と答えればいい。なのにこいつら平気で嘘をついたり、話をねじまげたりすると。自分に似せてつくったはずなのに、とんでもないものをつくってしまったと。責任を取ろうとしない、人に言われた話を勝手に膨らます、この構造の中に「原罪」を見るわけです。いわば、嘘つき物語の始まりなんですね。「原罪」とは何か。ひとことで言うと、人間は「嘘をつく性向がもともとある」「嘘つき動物」だということになるでしょう。


【『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優魚住昭朝日新聞社、2006年)】

ナショナリズムという迷宮―ラスプーチンかく語りき ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

石川知裕議員を脅した検察


 以下、高野孟(たかの・はじめ)のtwitterより引用――


【ニュース】TBSラジオに出演した上杉隆さんによると、石川議員は検察から任意聴取にされる前に、育児中の秘書を(聴取に)呼ぶぞ、小さい赤ちゃんがいるから困るだろ、と言われたそうです。


【さっきの続き】石川議員は、託児所のない議員会館でも秘書が安心して仕事ができるよう、自分の部屋にベビーベッドを設置していました。衆参の議員会館でベビーベッドがあるのは石川議員だけだそうです。取材に訪れたときもありました。


 で、その番組が以下――

2010-01-26

メンデ・ナーゼル


 1冊読了。


 12冊目『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス/真喜志順子〈まきし・よりこ〉訳(ソニー・マガジンズ、2004年/ヴィレッジブックス、2006年)/スーダンの村がアラブ民兵に襲撃される。民兵は家に火を放ち、大人達の喉をナイフで切り裂き、子供達を連れ去った。この時、メンデは12歳だった。女の子は全員がレイプされた。8歳の少女までもが。その後、彼女達は奴隷として売り飛ばされた。動物以下の仕打ちに遭い、日常的に虐待される日々。家から出ることが許されたのは2年後のことだった。読みながら私の心に沸いてくるのは怒りではなかった。明白な殺意だ。同じイスラム教を信じる者が殺戮に手を染め、奴隷商売で一儲けしているのだ。メンデが脱出に成功したのは2000年のことだった。この時のメンデの主はイギリスのスーダン大使館広報官だった。アフリカが置かれた悲惨な現状を知るには、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』と本書は必読である。メンデの健気(けなげ)な生きざまに、息苦しくなるほどの感動を覚える。

自殺、12年連続3万人超 09年、過去5番目の多さ


 2009年の自殺者は全国で3万2753人(暫定値)と前年より504人(1.6%)増え、統計を取り始めた1978年以降で5番目に多かったことが26日、警察庁の集計で分かった。3万人を超えたのは12年連続で、政府などによる総合的な自殺対策が急務となっている。

 警察庁によると、月別の自殺者はリーマン・ショック直後の08年秋以降急増。09年に入っても前年同月を上回り続け、3〜5月には連続して3000人を超えた。9月以降は前年同月を下回っているものの、2460人だった12月以外はいずれも2500人を超えている。

 都道府県別で前年より大きく増えたのは埼玉(143人増)、千葉(122人増)、沖縄(69人増)など。大阪(146人減)、北海道(127人減)、鹿児島(64人減)などは大きく減った。


日経ネット 2010-01-26

レーガン大統領暗殺未遂事件


 レーガン政権の船出は暗殺未遂事件に見舞われるという衝撃的なものだった。

 大統領に就任して69日後の1981年3月30日、講演先のワシントンD.C.のヒルトンホテルを裏口から退出した際に、レーガンはジョン・ヒンクリーによって狙撃される。3秒間で6発の弾丸が発射され、レーガンの脇にいた大統領報道官のジェームズ・ブレイディ、シークレットサービスのティモシー・マッカーシー、ワシントン市警警官のトーマス・デラハンティーの三人が被弾してその場に倒れた。

 レーガンは別のシークレットサービスのジェリー・パーによって大統領専用車に押し込まれたが、そのとき胸に痛みが走った。しかし出血が認められなかったので、車に押し込まれたときの勢いでどこか痛めたのだろうと思ったという。ところがその後パーと話をしているうちに咳き込み、泡立った鮮血を吐いた。これを見たパーは、大統領は被弾しており、しかも銃弾は肺に穴を開けているととっさに判断、運転手に最寄りの病院へ大至急直行するよう指示した。実際に弾丸は大統領の心臓をかすめて肺の奥深くで止まり、かなりの内出血を起していた。救急病棟に到着したころには呼吸も困難な状態で、この直後にレーガンは倒れ伏せてしまう。まさにパーの機転がなければ命に関わる重傷だった。

 それでもレーガンの意識はしっかりしており、周囲の心配をよそに弾丸摘出の緊急手術の前には医師たちに向かって「あなた方がみな共和党員だといいんだがねえ」と軽口を叩くほどだった。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と返答してレーガンを喜ばせている。手術は全身麻酔を必要とする大掛りなものだったが、レーガンは70歳の高齢者としては驚異的なスピードで回復、2〜3週間後には退院して執務に戻っている。

 レーガンは入院中にも妻のナンシーに「ぼくはしゃがみ忘れたんだよ (Honey, I forgot to duck.)」と軽口をたたくなど陽気な一面を見せ続けた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」を引用したもの。その後も、演説中に会場の飾りつけ風船が破裂し、場内が一時騒然となったとき「奴は、またしくじった」と一言述べ、会場を爆笑と大拍手に包んだ。

 大統領選挙戦の頃から見せていたレーガンのこうした機智や茶目っ気は全米を魅了して、史上最大の地滑り的勝利をレーガンにもたらすことに貢献したが、これはこの後8年間の政権を通じて変わることがなかった。政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、レーガンの比較的高い支持率は決して急落することがなかったのも、こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかったのである。

 なおこの事件を受けて制定されたのが、民間人の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」(重症を負った報道官に由来)である。


Wikipedia

精神科医がたじろぐ「心の闇」/『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック


 日常に潜む邪悪を暴(あば)いた傑作。長らく品切れであったが、やっと増刷された。前半ではカウンセリングで知り得た邪悪な人々を描き、後半ではベトナム戦争ソンミ村虐殺事件を通して「邪悪に加担するメカニズム」を検証している。


 本書は2月度の課題図書。原書は1983年刊。アメリカ経済が底冷えし、多くの人々が不安に駆られていた頃だ。その後、プラザ合意(1985年)を経て日本はバブル経済が崩壊(1990年)した。レーガノミックスを引き継いだクリントン大統領が情報スーパーハイウェイ構想という花火を打ち上げ、日本の金融資産はアメリカに吸い取られた。これがグローバル経済の始まりである。こうした背景を踏まえると、時代の変化に先駆けた一書といっていいだろう。人の心と経済とは密接に結びついている。景気の「気」を支えているのは「人の気力」であるからだ。


 バブル崩壊後に日本語版が出て、たちまちベストセラーになった事実が興味深い。しかしながら、殆どの読者はなにがしかの被害者意識を正当化する程度の読み方で終わってしまっているような気がする。


 まず、宗教心や宗教的概念の薄い我々日本人は「悪」に対する身構えすらない。では、簡単な質問をさせてもらおう。悪の反対は何だろうか?


 答えは「善」である。肝心なのは「正義」ではないということ。なぜなら、窃盗団の一員にとっては「物を盗む」ことが正義であるからだ。このように正義という価値観はコロコロと変わる。イラクの正義がアメリカの正義と一致することはない。


 では、善とは何か? こう尋ねられると我々はたちどころに口ごもってしまう。


 善にせよ、悪にせよ、いずれにしても価値というものは「関係性」の中で生じる。M・スコット・ペックは邪悪の顕著な傾向として「嘘」を挙げている。しかも彼が問題視しているのは些細な嘘であり、微妙な嘘である。虚偽に対して鈍感な人は本書の意味が理解しにくいことだろう。「嘘は暴力に至る控え室である」とパトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)は語っている。


 小さな嘘、自覚のない嘘が関係性を破壊する。嘘は癌細胞のようなものだ。増殖に増殖を重ねて肉体を蝕む。メディアから垂れ流される嘘が、どれほど人心を荒廃させていることか。


 R夫妻の私とのやりとりを注意深く読んだ読者には、彼らが数多くのうそをついていることがわかるはずである。ここにもまた、驚くべき定常性が見られる。これは、彼らが一つか二つのうそをついていたという問題ではない。ロージャーの両親は、くりかえし、また、常習的にうそをついている。彼らは「虚偽の人々」である。そのうそは、いたるところに見られるのである。そもそも、彼らが私に会いにきたことが、ひとつのうそだったのである。


【『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』M・スコット・ペック/森英明訳(草思社、1996年)以下同】


 M・スコット・ペックは本書で紹介する人々をソシオパスではないとしているが、期せずしてソシオパスとサイコパスの相違を浮かび上がらせている。


 これは厳密に考えると、発達障害にも関わり、軽度の自閉傾向とどのように線引きするかが難しい。社会への不適応が何に由来するのかが見分けにくいためだ。


 サイコパスは簡単にいうと、「善悪の概念を欠いた人物」である。一般的には孤独な変質者と思っている向きが多いだろうが実は違う。どちらかというと、魅力的でチヤホヤされる人間の中にいるのだ。そしてサイコパスは、他人を意のままに操ろうとする特徴がある。


 私は芸能人の殆どはサイコパスだろうと考えている。正真正銘の本気でそう思っている。プロダクションに支配され、枕営業をこなし、番組ディレクターの指示通りに動く彼等は、サイコパス原理の奴隷であろう。だからタレントとして成功を収めると彼等はサイコパスへと変貌してゆくに違いない。若手のお笑い芸人を見よ。やつらはテレビに出るためとあらば、どんなことでもやってのけるだろう。


 本書は前半と後半の構成が絶妙である。個別の邪悪性を暴いてみせた上で、今度は集団や組織で作用する邪悪のメカニズムに切り込んでいる。


 集団のなかの個人の役割が専門化しているときには、つねに、個人の道徳責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また、転嫁されがちである。そうしたかたちで個人が自分の良心を捨て去るだけでなく、集団全体の良心が分散、希釈化(きしゃくか)され、良心が存在しないも同然の状態となる。いかなる集団といえども、不可避的に、良心を欠いた邪悪なものになる可能性を持っているものであり、結局は、個々の人間が、それぞれ自分の属している集団――組織――全体の行動に直接責任を持つ時代が来るのを待つ以外に道はない。われわれはまだ、そうした段階に到達する道を歩みはじめてすらいない。


 企業の業績は社長、部長、課長、係長に分散され、子供の責任は父親と母親とに分散される。集団のヒエラルキーは責任感を薄める。弱められた責任感は傍観者的態度を促す。なぜなら、責任がないからだ。そして集団には常に同調圧力が働いている。組織に逆らう異分子は速やかに排除される。これが組織を構成する原動力である。


 組織は一旦つくられると、その目的は「組織の維持・拡大」となる。これが組織の辿る運命なのだ。いかなる組織といえども避けようがない。そして、いつしか組織の伝統や文化や不文律が人々を束縛するようになると、組織は「悪の温床」と化す。その最高のモデルが官僚組織である。


 組織は必ず腐敗する。国家も、企業も、学校も、家族も腐敗する。


 邪悪を打破するために必要なのは自由だ。つまり、何らかの集団や組織に参加し、不自由を感じている人々は、既に悪に加担している可能性が高い。

文庫 平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 (草思社文庫)

競馬場で自殺する人などいない


 損失がどれほど大きくても、真のギャンブラーは生き残るものなのだ。俗に言われるように「競馬場で自殺する人などいない」。次のレースを逃すかもしれないからだ。


【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン/櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】

ギャンブルトレーダー――ポーカーで分かる相場と金融の心理学 (ウィザードブックシリーズ)

2010-01-25

大乗仏教は一切の二元対立を否定


 とすれば、如来の無上正等覚において見られる(証される)世界は言語を離れた世界であり、あえて言語でもって表現すれば、一切の二元対立の否定という形になることが『法華経』という、大乗仏教の最も代表的な経典に確認されたであろう。それこそが大乗仏教の根本にあり、大乗仏教はひとえにこれをめぐっての物語なのである。


【『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男(大東出版社、1997年)】

仏教は本当に意味があるのか

2010-01-24

宗教は人間のためにあるのであって、人間が宗教のためにあるのではない


「私はきっぱりとヒンズー教と縁を切る決心をした。(中略)

 宗教は人間のためにあるのであって、人間が宗教のためにあるのではないのだ。諸君を人間として認めず、飲水もあたえず、寺にも入れてくれない宗教は、宗教という名に値しない」


【『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール山際素男訳(三一書房、1983年/光文社新書、2005年)】

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

頼住光子、村田喜代子


 2冊挫折。


 挫折5『道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか』頼住光子〈よりずみ・みつこ〉(NHK出版、2005年)/道元の文章がどうも肌に合わない。20ページほどで挫ける。


 挫折6『あなたと共に逝きましょう』村田喜代子(朝日新聞出版、2009年)/活字が太くて読みにくい。村田喜代子を初めて読んだが、文章に独特の臭味がある。「夜、風呂上がりの義雄が私のところへやってきた」――この書き出しが最悪。義雄と語り手の関係性が書かれていないため、「私のところ」が住まいを指すのか、位置を意味するのかがわからない。夫婦が温泉旅行に行く件(くだり)で筋運びがもたついている。面倒になって読むのをやめた。これまた20ページほど。

説得5時間、「ごめんなさい」と男性投身自殺


 19日午後3時5分頃、静岡県西伊豆町安良里の黄金崎公園展望台近くで、海に面した斜面の手すりの外側に60〜70歳くらいとみられる男性がしゃがみ込んでいるのを観光客が見つけた。

 通報で駆けつけた松崎署員や町役場職員らに対し、男性は「がんの痛みが続いて耐えられない。死にたい」などと自殺をほのめかしたため、同署員ら約30人がかりで説得。

「生きていればいいことがある」などと言葉をかけ続けたが、男性は午後8時10分頃、「ごめんなさい」と言い残して約30メートル下のがけ下に身を投げた。

 漁船が出て、約1時間半後に岩場で倒れていた男性を収容したが、全身を強く打ってすでに死亡していた。

 男性は、身長約1メートル70。中肉で、黒色のナップサックを持っていた。同署で身元を調べている。


読売新聞 2010-01-20

日垣隆が文雅新泉堂をこき下ろしていた


 作家の日垣隆が文雅新泉堂を貶(けな)している記事を数日前に見つけた――

 日垣は何の根拠も示さずに「99.9%」の客は支払うはずだ、としている。この前提で相談者に対して「0.1%のために99.9%に不利益を転じる愚は何としても避けていただきたい」と助言している。


 日垣は、万引きの多発によって潰れる書店があることを知らないのだろうか? 少数の悪質な客への対応策を取ることで、多数の客に不利益を与えてはならないという主張は全く馬鹿げたものだ。


 この後で、日垣が文雅新泉堂から本を購入したところ、メールマガジンが配信されるようになった。で、文雅新泉堂のサイトを見たところ、「悪質な代金不払い者」の個人情報がアップされていた。ここから文雅新泉堂への攻撃はトーンが激越な調子となる。


 何らかの事実に対して意見を述べるのは自由だ。それを否定するつもりはない。私もその件については知っている。しかし日垣は意図的な印象操作を加え、情緒的な文言を羅列する――


「『駈け出しネット古書店日記』(晶文社)というイライラする本」、「行動半径がすこぶる狭い人」、「このたぐいの自己チュー男」、「彼にはそのような柔軟性や堪え性(こらえしょう)が微塵もない」、「やはり責任を相手に押しつけたいだけ」、「この自己中心的ネット古書店主」


 このように悪し様の罵った挙げ句、見知らぬ人物に対して「お前」呼ばわりをしている。しかも、ご丁寧に文雅新泉堂の師匠に当たる北尾トロの著作まで引用して攻撃を加える。


 これらの根拠となっているのは、自分(日垣)のサイトの集金だけである。そして、記事の一部は雑誌に掲載したもののようだ。


 どんな商売であれ、それなりの苦労があるものだ。オンライン古書店の多くが電話注文を受けないのは、あまりにもわけのわからない電話が多いためだ。しかも、ただ本を探しているだけで、購入に結びつかないケースも多い。単なる言い間違え、聞き間違えというレベルではなく、発送した後で送り返されることもある。相手にしていると、結局こちらが検索までして別の古書店を紹介する羽目となる。こうしたことは、レアケースではないのだ。


 目に余る文章から、日垣の性根を垣間見ることができよう。日垣は中学3年の時に弟を殺されている。犯人が弟と同じ13歳ということで事故扱いされたようだ。つまり、彼の著作の多くは意趣返しなのではないだろうか? 精神障害者による犯行や少年犯罪を執拗(しつよう)に追い掛けているのは、そうでもしないと自我を保つことができないからではないのか?


 日垣隆が行っていることは暴力である。彼の著作には厖大なデータから取捨選択された情報が盛り込まれているが、彼が振るう暴力のための武器と化している。日垣は「自分が正しい」と思い込んでやまない。そしてその正義に溺れた時、日垣の暴力性はわかりやすい形となって、チンピラまがいの言葉を放つのだ。


 作家が、しがないオンライン古書店を雑誌で攻撃する。日垣は自分の力を理解した上でハンマーを振るっている。ここにおいて日垣の心理は、弟を殺害した犯人と同一化している。


 日垣隆が自分の暴力性を自覚し、そこから脱却できない限り、弟さんが浮かばれることはないだろう。

D

2010-01-23

激写! 議員が国会中にアノ女優と“密会”約束メール

 他人の携帯を覗き込む「薄汚い視線」は全く自覚してないようだ。犯罪性の高いイエロージャーナリズムを憂慮する。読者は覗きに加担することなかれ。

「観察」のヒント/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

    • 「観察」のヒント

 原書は3冊でそれぞれ1956年、1959年、1961年に刊行されている(日本語版は全4冊)。オルダス・ハクスレーが「なぜあなたは何か書こうとしないのですか?」とクリシュナムルティに言ったのが1942年のこと(メアリー・ルティエンス著『クリシュナムルティ・実践の時代』)。つまり、執筆は第二次世界大戦中に開始されたのだ。


 事実に基づいて書かれており、創作箇所はないようだ。相談者との対話がコンパクトに描かれている。冒頭に配された風景描写が詩的で神々しい。それに対して風景の中以外で描かれる人物には冷徹な眼差しが注がれている。双方が絶妙なアクセントとなって対話に彩りを添えている。


 紹介するのは珍しい描写で、多分講話に向かう途上で擦れ違った人々だと思われる。風景描写で描かれる人物の多くは点景といった感じが多いのだが、距離が近いせいか妙に生々しく描かれている――


 婦人が二人、頭に薪を乗せてその小道を下りてきた。一方は年をとっていたが、他方はごく若かった。そしてかれらが運んでいる荷物は、かなり重そうだった。どちらも、一枚の布で保護された頭の上で、緑色の蔓でくくられた、乾いた枝の長い束の釣り合いを保たせるように、片手できちんと押えていた。かれらの体は、軽い、流れるような足取りで丘を下りながら、自在に揺れた。道はでこぼこしていたが、二人は足に何も着けていなかった。足はそれら自体の道を見出しているようだった。なぜなら二人とも決して下を見ずにいたからである。かれらの頭は垂直に保たれ、目は充血し、そしてよそよそしかった。かれらはとてもやせており、あばら骨が浮き出ていた。そして年とった婦人の方は髪の毛がもじゃもじゃで、洗っていなかった。少女の髪は、かつては櫛ですかれ、油を塗られていたに違いない。なぜならまだきれいな、きらめく房があったからである。しかし彼女もまた疲れきり、疲労感が漂っていた。さほど遠からぬ昔、彼女は他の子供たちと一緒に歌い、遊んでいたに違いないが、しかしそれはすべて終わった。今は、このあたりの丘に入って薪を集めることが彼女の人生だった。そして死ぬまでそうであることだろう。時々子供が生まれることで一休みはするだろうが。


【『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


 女性二人を「かれら」と翻訳しているのが気になる。クリシュナムルティが描く光景は時間の経過を感じさせない。本当に絵画さながらの静謐(せいひつ)を湛(たた)えている。切り取られた瞬間は、刻々の生=現在を生きている証拠なのだろう。


 見るからに貧しい二人は健康を維持することもかなわず、清潔さを保つこともできなかった。人は運命に支配される。人は社会の枠組みに従う。そして人は生の片隅しか生きられずに死んでゆく。六道輪廻(ろくどうりんね)。


 女性二人の話し声が聞こえるほど近づく。クリシュナムルティの瞳は、常々彼が説く「観察」を示す。世界の内外が瞬時に入れ替わる――


 その小道をわれわれは皆下りていった。小さないなか町は数マイル先だった。そしてそこで二人は、その重荷をはした金で売り、明日また初めから繰り返すことだろう。かれらは、長い沈黙の間を入れながら、おしゃべりしていた。突然、若い方が、母親に、おなかがすいたと言った。すると母親は答えた。自分たちは飢えとともに生まれ、飢えとともに生き、そして飢えとともに死ぬのだ、と。それがかれらの宿命だった。それは、一個の事実の表明だった。彼女の声には、何の非難も、何の怒りも、何の希望も込められていなかった。われわれは、その石の多い小道を下り続けた。かれらの後で聞き、同情し、そして歩いている観察者はいなかった。彼は、愛と同情からかれらの一部だったのではなかった。彼は【即】かれらだった。彼はやみ、そしてかれらだけがいた。かれらは、丘で出会った見知らぬ他人ではなく、かれらは彼のものだった。束を押えていたのは彼の手だった。そして、汗、疲労困憊、におい、飢えは、分かたれ、そして気の毒に思われるべきかれらのものではなかった。時間と空間はやんだ。われわれの頭の中には何の思考も湧かなかった。疲れきって考えられなかった。そしてもしわれわれに考えることがあるとしたら、それは薪を売り、食べ、休息し、そしてまた始めることだけだった。石の多い小道の上の足は、決して痛まなかった。頭上の太陽もまた苦痛ではなかった。その通い慣れた小道を下り、いつものようにわれわれが水を飲む井戸を通り過ぎ、そして以前あった流れの乾いた床の上を渡っていたのは、われわれのうちの二人だけだった。


「観察者」「彼」とはクリシュナムルティ自身のことである。相手の刻々と流れ通う生を観察した途端、観察者と観察されるものの分離は消え去る。クリシュナムルティは観察することで、彼女達と完全に同化したのだ。


 これをスピリチュアル・パワーと受け止めるべきではない。生命の広がりが他者を包み込む要素をスケッチしているのだ。仏教では「感応」(かんのう)とも「同苦」(どうく)とも表現している。


 観る者は観られる対象である。これまた仏教の「境智冥合」(きょうちみょうごう)と全く同じ思想である。境智の二法とは、境は対境で世界を、智は自分の智慧を意味する。境智が冥合するところに妙なる法が貫く寂滅の世界が出現する。広がった生命は包み込み、溶け合う。「我」(が)の大地は叩き破られ、生の流れが噴出する。これこそ諸法無我の境地であろう。


 ここでクリシュナムルティは「私」が「あなた」であることを教えている。世界は「私」と「あなた」の関係性の中にしか存在しないからだ。これまた、完全に縁起の思想となっている。世界の実相は「縁(よ)りて起こる」ところにあるのだ。


 そして「観察」とは、日蓮が説いた「観心」(かんじん)である。


 涅槃経(ねはんぎょう)に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉(ことごと)く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし(「諌暁八幡抄」)


 覚者(かくしゃ)とは一切衆生の苦しみを引き受ける人物であった。そして覚者は終生にわたって対話に徹した人でもあった。悟りに安住する者が真の覚者であった例(ためし)はない。

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より

機動隊員が自殺未遂=上司が暴行、パワハラも−九州管区


 九州管区機動隊の福岡県内にある二つの小隊で昨年、上司の小隊長が隊員に暴行するなどのトラブルがあり、1人が自殺を図っていたことが23日、捜査関係者の話で分かった。同県警は傷害事件やパワーハラスメント(職権を背景とした嫌がらせ)に当たる疑いもあるとみて調べるとともに、関係者の処分を検討している。

 関係者によると、早良小隊の男性隊員は昨年10月、寮の自室で手首を切って倒れているところを発見され、病院で治療を受けた。その前に小隊長から顔を殴られるなどの暴行を受けていたという。

 小倉南小隊でも昨年、別の小隊長が隊員2人を強く叱責(しっせき)するなどし、1人は精神状態が不安定になって通院したという。


時事ドットコム 2010-01-23

ニューエイジ


 ニューエイジ思想というのは「つまみ食い」である。

人間の表出と表現の積畳が歴史


 結局、人間ひとりひとりが生きていくなかでの表出と表現の積畳が歴史です。表出というのは自覚されないまま外側へ出ていくものです。じつはこの部分の方が大きいのです。それから意識的に表現する部分があり、この二つの蓄積が現在の文化的な状況、すなわち歴史をつくっています。

 その人間の表出と表現を生み出すのは、――ここが一番大事なところですが――、人間の意識下の意識、つまり無意識、自覚されない意識です。表現といえども無意識が原動力になっています。怖いのは何かぽろっと漏らした言葉にじつは本心があったり、あるいは自分が自覚しないでついつい反復して使っている言葉にスタイルが宿ることです。頑張って意識的に小説を書いたとか詩を書いたとか、そういうところよりも、むしろ普段何気なくしゃべっているときに、いつもあの人はこういう言葉を使うとか、あるいはこういうふるまいをするというところに本心があって、そういう自分自身すら気づいていないような本心の積み重なりが歴史をつくっています。


【『漢字がつくった東アジア』石川九楊(筑摩書房、2007年)】

漢字がつくった東アジア

2010-01-22

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 11冊目『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2003年)/クリシュナムルティ15冊目の読了。神智学協会時代の講話が収録されている。付録の箴言集は『生と覚醒のコメンタリー』からの抄録。大野純一は比較を意図したようだが、どう考えても一石二鳥を狙ったようにしか見えない。「白い炎」というタイトルが見事。講話からは、若きクリシュナムルティの孤独と怒りが伝わってくる。思想の原型(モデル)が明らかに見て取れる。これ以降は、内なる広大な世界を探りつつ、表現力に磨きをかけたことだろう。講話録としては最も古い作品と思われる。巻末にクリシュナムルティ関連文献が収録されている。

村上専精と宇井伯寿


 そのくらい厳しい先生でしたが、この先生にして、そのさらに前の先生に叱られたことがあるのです。村上専精(せんしょう)先生といって、「大乗非仏説」などを提唱された方で、その他の面でも当時としては斬新な考え方の学者で、博学な先生でした。その村上先生に宇井(伯寿)先生が会われた時に、村上先生はこういわれた、「えっ。君は本を読むのに火鉢を置くのか」。つまり、本を読むというのは修行なのです。それを横に火鉢を置くなんて、そんなだらけたことはけしからんというのですね。今はもう、どこに行っても全館冷暖房でしょう。村上先生に言わせたら堕落の極地です。


【『ブッダ入門』中村元(春秋社、1991年)】

ブッダ入門 (仏教 入門シリーズ)

2010-01-21

バート・D・アーマン、ジャレド・ダイアモンド


 2冊挫折。


 挫折3『捏造された聖書』バート・D・アーマン/松田和也訳(柏書房、2006年)/90ページで挫ける。「はじめに」が20ページもあって辟易させられる。誠実で良心的な分だけ面白くない。聖書の捏造過程を明らかにした内容だが、そもそもイエスという人物が実在したかどうかが不明なのだ。記録は一切ない。


 挫折4『銃・病原菌・鉄 1万3000年にわたる人類史の謎(上)ジャレド・ダイアモンド/倉骨彰〈くらほね・あきら〉(草思社、2000年)/80ページまで。別の機会に再読しようと思う。クリシュナムルティを読んでいると、他の本に食指が動かなくなる。というわけで後回し。

ヒュンダイCM/Pilobolus


 Pilobolus(ピロボラス)というダンスカンパニーを起用したヒュンダイのCM。ため息が出るほど神秘的なパフォーマンスだ。


D

プラハで学んだ少女達の30年後の真実/『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里

 米原万里は9歳から14歳にかけて、プラハのソビエト学校に通った。1960年代のことである。人種が入り乱れるクラスで、最も仲のよかったリッツァ(ギリシア人)、アーニャ(ルーマニア人)、ヤスミンカ(ユーゴスラビア人)との思い出と30年後の再会が描かれている。ま、著者が通訳という仕事をしていなかったら、とてもじゃないが再会は難しかったことだろう。


 ソビエトが崩壊し、衛星国であった東欧は激しく揺れる。政治体制の変化は大地震のように国民を翻弄した。再会した友は、国家に振り回されながらも逞しく生き抜いていた。


 少女時代の思い出がとにかく面白い。スケールが違う。世界各国からやって来た少年少女達は国の威信をも背負っていた。しかし中にはこんな悲しい出来事もあった――


 内戦が続く南米ベネズエラから来た少年ホセの言葉は、今も忘れられない。

「帰国したら、父ともども僕らは殺されるかもしれない。それでも帰りたい」

 それから一月もしないうちにホセの一家はプラハを引き上(ママ)げていった。密入国した両親、姉とともにホセが処刑されたというニュースが届いたのは、さらにその3か月後だった。


【『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里〈よねはら・まり〉(角川書店、2001年/角川文庫、2004年)以下同】


 ホセ少年は殺される瞬間に何を思っただろうか? 自分の血が祖国の大地に染み込むことをよしとしたのか? それとも、祖国愛を植えつけた親を恨んだのだろうか? 親にはよんどころない事情があったのだろう。そして、いつも犠牲になるのは子供達であった。


 再会したリッツァが自分の父親についてこう語っている――


「そう。頑固だしね。プラハの春前後、編集局で毎日のように夜遅くまで会議があってね。父があちこちでワルシャワ条約機構軍のチェコ侵入に反対している発言が問題になって、自己批判を迫られたんだけれど、結局自分を押し通した。それで、西ドイツに入国したとたんに、いろんな機関が父に接触してきたのよ。まず、反共を旗印にする有名な研究所が雇うと言ってきた。月8万マルク払うって。1970年当時、労働者の平均月収が700マルクだった頃だから、法外な金額だよね。それから、亡命ロシア人の放送局も出演依頼してきた。一回のギャラが5000マルク。ハンブルグ大学も教授の椅子を用意してくれた。なのに、父ときたら、全部断っちゃうんだよ。『私は、軍のチェコ侵入に反対しただけなんだ。それで、共産党から除名されたが、私の魂は共産主義者なんだ。自分自身の魂を裏切るわけにはいかんだろう』とか言っちゃってさ。それで、仕方ないから母が料理屋始めたのよ。でも、それも一年しないうちに駄目になって。父が見つけた仕事が、シャトル稼業よ」


 シャトル稼業というのは運び屋のこと。この話は信念の美徳が表現されているように感じる。だが一方では、同じ信念がホセ少年を殺したのだ。そして、異なる信念がぶつかるところに絶え間なく争いが起こる。信念は必ず正義と結びつく。正義は力を求める。かくして正義は悪に鉄槌(てっつい)を下すというわけだ。


 世界中の子供達を一つの教室で学ばせることができれば、戦争が起こることはなくなるに違いない。大人達が子供に憎悪の種を植えつけているのだ。


 最終章で描かれるヤスミンカの少女時代は、小説さながらの面白さ。超然とした態度のヤスミンカに魅了される。彼女の父親が語るエピソードも味わい深い。このお父さん、何とその後ボスニアヘルツェゴビナ共和国の大統領になっている。


 米原はメッセージを書くことを意図的に回避しているように見受けた。複雑怪奇な政治メカニズムを解説し、こっちが善であっちが悪だと指摘したところで、世界が変わるわけではないことを誰よりも知悉していたのだろう。抑制された分だけ、静かな怒りが伝わってくる。

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ) 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

『獄中19年 韓国政治犯のたたかい』徐勝


獄中19年 韓国政治犯のたたかい


 1971年、祖国に留学していた在日韓国人の著者は、「北のスパイ」として突然逮捕される。執拗に続けられる拷問、屈するよりは死を願い負った火傷、そして死刑判決……。新書『徐兄弟 獄中からの手紙 徐勝、徐俊植の10年』で知られる著者が、監獄という社会を克明に描きつつ、独裁政権への痛烈な批判、そして分断下にある民衆への深い愛情を文字に刻む。

2010-01-20

twitter開始


 個人情報保護法案以降、閉塞しつつあるネット状況を打開するため、本日twitterデビュー。

J・クリシュナムルティ、グレッグ・イーガン


 2冊読了。


 9冊目『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)/日本語版は全4冊となっているが、原書は3冊で1956年、1959年、1961年に刊行されている。とても半世紀前の本とは思えない。相談者とのやり取りも古めかしさを感じるところがない。つまり、真の対話は人間の本質を見据えているということなのだろう。それにしても、このシリーズはクリシュナムルティが描く風景が秀逸で中毒性を覚えるほど。そして洞察のヒントが隠されている。風景描写によって読者はクリシュナムルティの「眼」を体験できるのだ。クリシュナムルティ関連はこれで14冊目の読了。いくら読んでも学び尽くすことはないだろう。


 10冊目『ひとりっ子』グレッグ・イーガン/山岸真編・訳(ハヤカワ文庫、2006年)/久々の本格SF。文章がいい。短篇集なので、イーガンのSF的概念をつかむのに手間取る。7篇のうち半分ほどが数学SFといった趣向。ラストの「ひとりっ子」はストーリーがもたついているが、他は面白かった。なかんずく「決断者」が凄い。ダニエル・C・デネット著『解明される意識』と、マーヴィン・ミンスキー著『心の社会』からヒントを得た作品である旨が付記されている。着用することで「空観」状態が現れるという代物が登場する。グレッグ・イーガンならクリシュナムルティの世界を描けそうな予感がした。

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コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 原書は1954年に発行されている。ってことは昭和29年だ。「もはや戦後ではない」と経済白書の結びに書かれたのが1956年のこと。朝鮮特需が1950-1953年だから、日本では少し明るい兆しが出始めた頃であろう。


 神秘時代を除けば、本書がクリシュナムルティにとって2冊目の著作となる。1冊目は『道徳教育を越えて 教育と人生の意味』(霞ケ関書房)で原書は1953年刊。つまり講話録としては1冊目と考えていいだろう。系統立てられた構成となっていて、クリシュナムルティ思想の全体性をつかみやすい。原書タイトルは「The First and Last Freedom」(最初と最後の自由)となっており、オルダス・ハックスレーが長い序文を寄せている(『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』に収録)。


 戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

『実践の時代』には次のように書かれている――「戦時中の沈黙の数年は何をもたらしたのだろうか? 明らかにKは瞑想時には自分自身の中に深く入りこんでいた。なぜなら1944、45、46年の講話は、主に自己を知ることに関連しているからである」。とすると本書は、戦後の講話を編んだものと考えて構わないだろう。クリシュナムルティは40代から50代を迎えていた。


 彼は一貫して戦争に反対した。戦争は人々の日常に起因しており、「戦争は、われわれの日常行為の劇的な評価なのです」と書いている(エミリー夫人宛ての手紙、1941年4月14日)。つまり葛藤によって分裂している自我が、そのまま世界の分断として現れているのだ。戦争は誤った指導者が引き起こしたものではなく、人間という人間の葛藤が噴出した結果であった。それは戦い合う国家の国民だけではない。戦争を傍観する人々や、戦争を知らない人々までが含まれる。


 戦時中、クリシュナムルティの話に本気で耳を傾ける人は少なかった。政府のプロパガンダに汚染されていた人々の心は、「正しい言葉」を「正しく受け止める」ことができなくなっていた。クリシュナムルティは戦時中の沈黙の季節を深い瞑想の中で過ごした。深海の底を辿るように彼は静謐(せいひつ)の中に沈潜した。


 講話に参集したのは戦争を支持した人々であり、あるいはそれすら忘れている人々であった。分裂した心に向かって、クリシュナムルティは慎重に言葉を紡ぎ出した――


 私たちがお互いに考えていることを相手に伝達することは、相手のことを非常に良く知っている場合でも、きわめて難しいことです。同じ言葉でも、「私」と「あなた」は違った意味で使っているかもしれません。理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます。しかもそれは人と人との間に、夫と妻の間に、また親しい友人同士の間に真の愛情があるときにしか生まれません。これが真の人間的共感――親交です。このように即時(そくじ)の理解――直覚は、私たちが、【同時に】、【同じレベルで】出会うときに初めて生じるものなのです。


【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ/根木宏、山口圭三郎訳(篠崎書林、1980年)以下同】


 言葉はシンボルであり記号である。私が「犬」と言った時、あなたの描くイメージが私と一致することは、まずない。また、あなたが「犬を欲しい」と思っているのであれば、私からプレゼントしよう。「犬」――はい、持って行っていいよ。ささ、遠慮せずに。ま、こんな具合だ。言葉に実体はない。


 他人と何か交換することをコミュニケーションと考えれば、その最たるものは「言葉」と「お金」であろう。しかし我々は、それらを量でしか考えていない。質や意味、機能、働き、作用、目的と現状については一顧だにしない。「あるから使ってんだよ」というレベルに堕している。


「俺の言葉が信用できないのか?」――ウン。お前は前にも嘘をついたことがあるからな。時にコミュニケーションは成立したり、不成立に終わったりする。これをクリシュナムルティは「【同時に】、【同じレベルで】出会うときに」理解が生まれ、コミュニケーションが成り立つと言っているのだ。完全な一致。同じ周波数。


 性格的に合う合わないといったレベルの話ではない。相手の瞳に映る自分を見つめるような感覚だ。向かい合う二人が互いの目を見つめた時、合わせ鏡のように無限の瞳が続いているのだ。もちろん物理的なことを言っているのではない。心理的に相手と向き合っているかどうかである。


 私は、私たちの日常生活で使っているごく簡単な言葉で、より一層深い意味を伝えてみたいのです。しかしもしあなたが、「聞き方」を知らなければ、それはとても困難なことになります。

「聞く技術」というものがあります。本当に相手の言葉を聞くためには、あらゆる偏見や、前もって公式化されたものや、日常の生活の問題などを捨ててしまうか、脇へ片づけておかなければなりません。心が何でも受け入れられる状態にあるときには、物事はたやすく理解できるものです。あなたの本当の注意力が【何かに】向けられているとき、あなたは【聞いて】います。しかし残念なことに、たいてい私たちは抵抗というスクリーンを通して【聞いて】いるのです。つまり私たちは、宗教的なあるいは精神的な偏見や、心理学的あるいは科学的先入観のほかに、日常の心配事、欲望、恐怖というようなスクリーンに遮(さえぎ)られています。このようにいろいろなものをスクリーンにして、私たちは【聞いて】いるのです。ということは、話されていることを聞いているのではなくて、実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いていることになります。今まで受けてきた教育、偏見、性癖、抵抗などを捨て、言葉上の表現を超え、その奥底にあるものを即時に理解するように【聞くこと】は、とても困難なことです。これこそまさに、現在私たちが直面する困難な問題の一つなのです。


 傾聴とは心を開くことである。開いた心は言葉に託された何かをキャッチすることができる。

 言葉にならない思いをも汲み取ることができる。目と目が合うだけで微笑む関係性が成立する。

 スクリーンとは色眼鏡のことだ。我々は見知らぬ人に対しては、人相風体や髪型、着ている服、声の調子、腕時計や靴などを見て勝手な判断を下す(※腕時計と靴を見るのは銀座のホステス。客の懐具合がわかるらしい)。知人や友人に対しては過去のイメージをそのまま当てはめてしまう。つまり我々は「人間が変化する」ことを心のどこかで認めていないのだ。


 更に我々は自分よりも目上の人の話には耳を傾けるが、立場の低い者に対しては生返事をする。社長は社員の話に耳を貸さないし、先生は生徒の声を平気で無視する。耳は開いたり閉じたりしているのだ。


「実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いている」――何と重い言葉か。我々は自分に都合のいい言葉は受け入れるが、耳に逆らう忠言は拒否する。読むのも一緒である。自分の信条や思想のために利用できるものだけを我々は取り入れるのだ。


 つまり、こうだ。その人の一部分を都合よく利用することで、我々は世界の分断化に加担している。相互に利用し合う関係性の軸はどこにあるのか? それはエゴであろう。すなわちエゴとは自我の別名である。


 自我を終焉(しゅうえん)させるために、真の自由を獲得するためにクリシュナムルティが冒頭で説いたのは傾聴であった。

自我の終焉―絶対自由への道 自我の終焉 絶対自由への道

(※どちらも同じ作品)


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2010-01-19

芝居っ気たっぷり、名文満載の傑作/『「絶対」の探求』バルザック


 どうしてこんなに面白いんだ? 200年も前に書かれた小説なのに(原書は1834年刊)。まったくもって信じ難い話である。人間の心理ってやつは多分変わらないのだろう。芝居っ気たっぷりなのはフランスのお家芸である。それが嫌味になっていない。軽やかなステップで踊っている。瀟洒(しょうしゃ)。しかも目を瞠(みは)るような名文、美文がそこここに散りばめられている。オノレ・ド・バルザック、恐るべし。小野ザックというハンドルにしようかしらん。


 テーマは理性と感情である。夫のバルタザールはある日、化学の世界に目覚める。それ以降、彼は「絶対」を発見するため研究に没頭する。彼が欲したのは錬金術ならぬ錬ダイヤモンド術であった。バルタザールはひた走る。破滅に向かって。


 これを支えるクラース夫人は紛(まが)うことなき賢夫人。まるで女神。今となっては完全な絶滅種といったタイプ。少しばかり身体に障害があるのだが、彼女の慎ましさと奥床しさをより一層引き立てるのであった。


 真理に取り憑かれた夫と愛情豊かな賢夫人。破滅と死。そして母から娘へと手渡されるバトン。物語はここから恋愛へと傾斜する。


 バルザックの名調子は例えばこうだ――


 彼は科学に打ちまたがっていた。科学は彼をうしろに乗せ、翼を張って、物質界のはるかかなたへ連れ去るのだった。


【『「絶対」の探求』バルザック/水野亮訳(岩波文庫、1939年)以下同】


 バルタザールは昇竜さながらの勢いで「絶対」に向かって突き進んだ。狂信的でありながらも、ひたぶるな真剣さが読者の胸を打つ。彼は研究に集中した。集中とは一点を凝視することである。虫眼鏡で太陽の光を一点に集めるように。ということは集中すればするほど周囲が見えなくなる。バルタザールの視界からは妻も子も、社交も世事も消え失せてしまった。


 古来、宗教者は「絶対」の真理を発見すべく苛酷な苦行に挑んだ。身体を痛めつけることで欲望から離れようと試みた。滝に打たれ、火の中を歩き、座禅を組み続けた。ダルマに手足がないのは、達磨大師が壁に向かって9年もの間、座禅し続けたために手足が腐ってしまったという伝説に基づいている。


 求道には狂気が潜んでいる。常に何らかの逸脱がある。それがなければ遊びだ。どこかへ向かい、何かと戦う人物は誰人にも止めることができない。古(いにしえ)の修行者は僧であった。それが今、スポーツ選手や棋士、芸術家や学者などに姿を変えている。未踏の境地に辿り着いた人々はおしなべて「行(ぎょう)を修めた」人々といってよい。


 そして特筆すべきことは、そこに反社会性がなければ社会は停滞し、衰退してゆくという事実である。時代の壁を突破するのは反逆者だけなのだ。革命とは運動のことではない。従来の考え方を一変させる「宙返り」の視点に立つことなのだ。


 クラース夫人は心労のあまり黄泉路(よみじ)へ旅立つ。そこから、娘マルグリットとエマニュエル青年との恋物語が奏でられる。生死(しょうじ)の鮮やかなコントラストが冬から春の曲へと変調する。


 マルグリットはピエルカンが遠ざかってゆくのを見おくりながら、じっともの思いにふけっていた。ピエルカンの金属のように固い声や、すばしこいがしかしバネじかけのような態度や、やさしさよりも奴隷根性のほうがよけいに現われている目つきなどと、エマニュエルの感情をおおい隠している、無言のままながら美しい旋律に満ちた詩情とをくらべてみた。人がどんなことをなそうと、どんなことを言おうと、そこにはある驚くべき磁気が存在するもので、その効果は決して人の期待を裏切らない。


 この冷徹な人物描写もバルザックの大きな魅力である。人の心の黒白(こくびゃく)を鮮やかに描き分けることで、物語の色彩は深まる。それも単純ではない。時に白から黒へ、黒から白へとグラデーションが変化するのだ。


 マルグリットは、クラース夫人という花から生まれた果実であった。花の命は短いが、確かな結実をもたらした。マルグリットはしっかりした足取りで幸福の階段を昇ってゆく。だが、「絶対」に婿養子入りした父親は変わっていなかった。何ひとつ。


 圧巻のラストシーンが深く長い余韻を与える。バルタザールは果たして不幸であったのか、幸福であったのか? 読者は自分の人生をもって答えるしかない。

「絶対」の探求 (岩波文庫)


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リング上で闘う二人


 寒い夜、間もなく深夜。リング上の二人の姿を見ただけで、胸の奥がチリチリと熱くなってくる。彼らが両の拳で叙事詩をうたっていたころ、おのれはなにをしていたか──。


【『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔世界文化社、1992年)】

彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論

2010-01-18

クリシュナムルティの智慧


 書評が追いつかないので、クリシュナムルティの箴言集を作ることにした。本当は昨日立ち上げたのだが、きりのいいところで1月1日分からアップしておいた。

検察の「正義」

リクルート事件・江副浩正の真実


 リクルート事件とはなんであったのかを、主人公自らがはじめて明らかにした現代史の証言。資料なども充実。

2010-01-17

表面的な不満


 書評は追々書く予定だが、ある方にこの一文を贈る――


 君たちは寺院から寺院へ、ある夫や妻から他の人へと移るかもしれません。新しい先生や導師(グル)を見つけるかもしれません。しかし、この内的な喜びがなければ、生にはほとんど意味がありません。そして、この内的な喜びを見つけることは簡単ではないのです。なぜなら、私たちのほとんどはただ表面的にのみ不満を持っているからです。


【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ/藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

子供たちとの対話―考えてごらん (mind books)

クリシュナムルティが放つ光/『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス


 三部作評伝の第二作で、『クリシュナムルティ・目覚めの時代』に続くもの。「プロセス」という悟達(ごだつ)の境地を経て、クリシュナムルティは神秘教団(星の教団)を解散する。この前後から1980年(85歳)までが描かれている。


 傑出した人物は激動と混乱の中から登場する。歴史の歯車が軋(きし)みをあげて崩壊する直前に新しい力が生まれる。クリシュナムルティが教団の解散宣言を行ったのが1929年8月2日のこと。そしてこの年の10月24日に世界大恐慌の幕が切って落とされた。大恐慌は大不況となり、歪んだ経済によって戦争へと導かれた。

 第二次世界大戦が行われている間、クリシュナムルティは公開講話をせずに沈黙の中で過ごしている(1940年8月末〜1944年5月中旬まで)。クリシュナムルティは一貫して反戦の態度を示した。だが多くの人々はそれを理解できなかった。聴衆が去っていったこともあった。


 オルダス・ハクスレーからのアドバイスを受けてクリシュナムルティは戦時中に文章を書くようになった。これが後に『生と覚醒のコメンタリー』として出版される。ということは、40代後半であれほどの文章を書いていたことになる。彼の思想を組み立てるためには必要な時期であったように思われてならない。クリシュナムルティは混乱の嵐が通り過ぎるのを待った。沈黙の中で時が訪れるのを待ち続けた。


(ロム・)ランドー(著述家)が(ロビンソン・)ジェファーズ(詩人)に、Kの教えは大衆的になるだろうかと訊ねたところ、ジェファーズは「今は無理だ。たいていの人々は理解できないだろう」と答えている。「彼に会って何にいちばん感銘したか?」というランドーの質問に対する答えは、「彼の人柄だ」であった。「私の家内は、クリシュナムルティが入って来ると光が部屋にさしてくるように思えたとよく言ったが、私も同じ思いだった。なぜなら、彼自身が彼の率直な教えの最も確かなあかしだからだ。私にとっては、彼の話が上手だろうと下手だろうと関係はない。何も話さなくても彼の影響を常に感ずるのだ……。彼が常に話している真理や幸せを伝播してくれるのは、彼のたいへんに楽しい個性なのだ」。ジェファーズはさらに、言葉で皆に理解できるものになったとき、彼の教えは円熟期に入るだろうとも言っている。

 ランドーはその後数日間Kと二人で話をし、主として質問に答えてKが述べたことを、何ページかにわたって引用している(『God is My Adventure』〈神は私の冒険である〉という著書)。顕著な点は、真理、解放または神、どう名前をつけようと、それらは知性や体験を通して見出すことはできないということである。真理とは、記憶の重荷から心の束縛をほどくことである。真理とは、自分自身の内外でたえず生に目覚めることである。生はどの瞬間も完全に生き抜かれなければならない。真理を探究する必要はない。それは古い体験の積み重ねの下に隠されてはいても、常にその場に存在する。幸せ、真理、神は自我(エゴ)によっては発見できない。自我(エゴ)は環境の結果以外の何ものでもない。ランドーはあるところで訊ねている。「あなたはほんとうに、一度も哲学書を読んだことがないと言われるのですか?」と。Kはこう答える。「あなたこそ、本から何か学べると思うのですか? 知識を蒐集し、事実や技術を学ぶことはできるでしょう。しかし、真理や幸福やほんとうに大事なことは何も学べません。あなたが学ぶことができるのは、あなた自身の生を生き、それを承認することからだけです。他人の生からではありません」。


【『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)】


 思想は言葉に過ぎないが、悟性は必ず体現される。目の光、声の響き、そして親しみのこもった柔軟な振る舞いとなって現われる。


 前書同様、本書にはスピリチュアル系の人々が大喜びしそうな場面がたくさん描かれている。それはそれで仕方がない側面もある。なぜなら我々の興味は常に刺激を求めてやむことがないからだ。クリシュナムルティ自身が不思議な能力を知られることを嫌っていた。しかしながら、著者が取材を重ねる中で注目せざるを得なかった気持ちも何となく理解できる。ここのところを読み誤ると本書の意義は失われる。


 私は、クリシュナムルティが言葉を操って聴衆の一人ひとりとつながる世界に惹かれる――


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 この画像は写真である。しかし絵のような光景である。言葉は映っていないにもかかわらず、我々は空間に満ちている何かを受け取る。ブッダが法を説いた時、眉間から白い光を放ったと経典に書かれている(白毫相〈びゃくごうそう〉)。それは「智慧の光」であったことだろう。ブッダの言葉を聴いた人々は、自分の生きる世界が見る見る明るさを増してゆくことを実感したに違いない。クリシュナムルティも同じ光を発している。そして彼はブッダと同じように、必ず人々からの質問に耳を傾けた。


 尚、本書がamazonでは販売されていないので、メアリー・ルティエンスが総集編として編んだ『クリシュナムルティの生と死』を紹介しておく。

クリシュナムルティ・実践の時代 クリシュナムルティの生と死

2010-01-16

小沢幹事長「全面的に闘う」


 鈴木宗男の迫力が凄い。


■小沢幹事長「全面的に闘っていきたい」

 http://www.smn.co.jp/pod/100116_007.mp3


■鳩山総理「小沢幹事長を信じております」

 http://www.smn.co.jp/pod/100116_006.mp3


■鈴木新党大地代表「検察の暴走はいけない」

 http://www.smn.co.jp/pod/100116_004.mp3


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郷原信郎:民主主義国家で政治家が言いがかりのような事件で潰されることは絶対にあってはならない


 民主党の石川知裕代議士が逮捕された。佐藤優が懸念していた国策捜査が動き出してしまった。郷原信郎の主張は佐藤優と完全に一致している。立派だ。


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為替相場の見方:積極的に円買う理由見当たらない、波乱要因は中国の金融引き締め策=新生銀行・政井氏


 新生銀行 キャピタルマーケッツ部部長・政井貴子氏――10年の為替市場で注目されるのはFRB(米連邦準備制度理事会)の政策金利の引き上げをめぐる動向だ。2月、3月に発表される米雇用統計が市場予想よりも良い内容となれば、FRBによる早期利上げ期待が再び高まりドル買い・円売りが進むだろう。3月末までのドル・円のレンジは89−94円とみている。

 米国の景気は悪いながらも、日本に比べればまだ良いと考えられる。14日に発表された09年11月機械受注統計の非常に弱い数字などをみる限り、積極的に円を買う理由は見当たらない。ドルは対円で売られるよりも、景気回復が鮮明になっている豪州の豪ドルなどに対して売られやすいと考えている。

 円高要因を挙げるとすれば、年度末の3月にかけて国内企業によるリパトリ(資金の本国回帰)で円転需要が高まることだ。また、中国の金融引き締め策が波乱要因になる可能性がある。中国人民銀行は12日、預金準備率を0.5%引き上げると発表した。今後さらに預金準備率が引き上げられれば、資源価格や資源国通貨が調整し、リスク回避の動きから円が買われる可能性がある。

 もっとも、市場では菅直人財務相が就任会見で円安志向の姿勢をはっきり示したことが意識されている。海外投資家はドル・円が90円を下抜けると日本の当局が円高阻止のため何らかの措置を講じると警戒しているため、90円を下回る水準では円は買われにくいだろう。


モーニングスター 2010-01-15

組織化された宗教が「良心の自由」を封ずる


 良心の自由を叫んだことで知られる宗教団体が、個人の良心の声を抑えるために極めて厳しい制裁措置を取る。この現代において実におかしなことであると思う。


【『良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤』レイモンド・フランズ/樋口久訳(せせらぎ出版、2001年)】

良心の危機―「エホバの証人」組織中枢での葛藤

2010-01-15

J・クリシュナムーティ


 1冊読了。


 8冊目『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ/根木宏、山口圭三郎訳(篠崎書林、1980年)/クリシュナムルティ関連13冊目の読了。このペースで行くと今年中には読み終えてしまいそうだ。『あなたは世界だ』と同様、クリシュナムルティの華厳経に該当する作品。本書は『道徳教育を越えて』(霞ケ関書房)に続く2冊目の著書となる。原書は1954年刊。異様な昂奮に駆られて読み進むのだが、スルリと脱け出て捉えどころがない。全く不思議だ。彼は講話をする際、常に「それ」と共にあった。「それ」とはクリシュナムルティの空観である。彼には「空」なる世界が見えているのだ。講話の内容がそれを証明している。技巧や思考などでは到底及ばぬ言葉の奔流がある。クリシュナムルティの言葉は、「洞察の噴出」としか表現できない。多分、覚知した悟りに言葉が追いつかないためなのだろう。それが凄まじくトリッキーに感じられる。とても聴衆が理解できるとは思い難い。しかし、彼の言葉に触れると確実に真理に触れることができるのだ。

個性は「角」である


 私たちはみんな、ほかの人とは違う「角」(つの)を持って生まれてきました。「角」とは、自分が自分であることのシンボルであり、自分がうまれ持った生来の資質のことです。

 この「角」は、何しろひときわ目立ちますから、他人は真っ先にその「角」のことを話題にいてきます。動物としての習性からでしょうか、集団の中で「角」のためにつつかれたり冷やかされたりして、周囲から格好の餌食(えじき)にされてしまうこともあります。そんなことが繰り返されますと、いつの間にか「この『角』があるから生きづらいんだ」と思うようになる人も出てきます。

 自分が自分らしくあること、その大切な中心である『角』、それを自分自身で憎み、邪魔にして隠しながら生きるようになってしまうと、生きること自体が色あせ始め、無意味なものに感じられるようになってきます。生きるエネルギーは枯渇し、すべてが立ち行かなくなってしまいます。


【『「普通がいい」という病』泉谷閑示〈いずみや・かんじ〉(講談社現代新書、2006年)】

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

2010-01-14

米国の対中戦略


 米国は、輸出主導の日本モデルの中国にも、日本同様の巨大なバブルを発生させようとしています。中国の貿易収支黒字を背景に、大幅な為替調整を人為的に行おうとしています。現状でもバブルの臭いがしている中国の資産市場は、自国通貨が高くなり、過剰流動性が発生し、恐ろしく上昇すると思います。

 2020年くらいまでに順次、人民元の大幅な切り上げ、それに伴う本格的なバブルの発生、そしてバブル崩壊を進行させようとしているのではないかと思います。同時に人口の高齢化に直面し、日本が経験したデフレが中国を襲う構図です。


独断と偏見の為替相場 2010-01-14

フランス革命は新聞なくしては成らなかった


 ナポレオンは、つとに若き日から、近代世界における新聞の重要性を理解していた。フランス革命は新聞なくしては成らなかったであろう。すべての政治的運命は世論の支持を必要とする。されば彼は第一流のジャーナリストの一人であり、また、その生涯の浮沈の曲線の頂点においてさえも、新聞の指導者であった。


【『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編/大塚幸男訳(岩波文庫、1983年)】

ナポレオン言行録 (岩波文庫 青 435-1)

2010-01-13

レイモンド・フランズ、米原万里


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折2『良心の危機「エホバの証人」 組織中枢での葛藤』レイモンド・フランズ/樋口久訳(せせらぎ出版、2001年)/数十ページしか読んでいないのだが、構成が悪いような気がした。この手の本はコンパクトに流れを説明するべきだ。資料的な価値を重んじると、教団関係者以外の興味を引き寄せることが難しい。著者の誠実な人柄が伝わってくるだけに惜しまれる。


 7冊目『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』米原万里〈よねはら・まり〉(角川書店、2001年/角川文庫、2004年)/プラハのソビエト学校で学んだ思い出を回顧し、30年後に友人を訪ねた際のエピソードが綴られている。様々な人種が入り乱れているので、当時の国際情勢が非常によく理解できる。著者は通訳を生業(なりわい)としているので、合間合間に盛り込まれた歴史ネタも大変勉強になった。「白い都のヤスミンカ」が秀逸。ヤスミンカとの思い出は下手な小説よりも面白い。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。米原万里は2006年に癌で逝去。まだ56歳という若さだった。

医療の機械化/『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック


 昔であれば、医師や教師、僧侶はそれなりに世間から尊敬されていたものだ。社会の中で間違いなく教育者的役割を果たしていた。だが今はどうだ。単なる職業へと成り下がってしまった。


「職業だっていいじゃないか」と相田みつをが言いそうだ。「人間だもの」とかね。しかし、我々のわがままがそれを許さない。なかんずく医師は生と死の間で働いているため、我々から見ると神に近い領域にいる。まな板の鯉さながらに手術台に横たわる時、私の命は医師に預けたも同然だ。


 医療の機械化が進展するにつれ、医師の業務内容も大きく変わった――


 医師は集団として見たとき、政治家と同じくらいとらえどころがなくなってきている。医師からじかに言を聞くのはむずかしい。機械が道具として、つまりは頭や感覚の延長として使われるのではなく、頭や感覚の代わりとして使われているからだ。患者は「検査結果がでるまで待ちましょう」と言われる。機械は「知識を通して」という意味の診断(ダイアグノーシス)という言葉を――かつては人間の体と精神のなりたちについて、医師がもつ知識を示唆していた言葉を――崩壊させた。いまや「診断」は機械の結果がでるまで待つという意味になった。私たち医師は、多くの場面で患者の満足のよりどころとなるのが、事実にもとづく知識や専門的技量ではないということを忘れてしまったようだ。


【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック/山下篤子訳(草思社、2002年)】


 機械は人間を依存させる。そして依存が人間を機械化するのだ。医師が見つめるのは患者ではなく、計測された数値である。このため、患者が痛みや違和感を訴えても、「数値に異常は見られないから大丈夫ですよ」と答える場面がしばしば見受けられるようになった。


 最先端医療、高度先進医療というのも殆どが特別な医療機器に依存している。高額な機械が高額な医療費を請求する。地獄の沙汰も金次第ってわけだ。


 仕事というのは専門性が高くなればなるほど特権階級と化す。いわゆる士業と呼ばれるものがその典型だ。この連中はおしなべて傲慢で、思い上がっていて、礼儀知らずである――


 最近、病院のチームビルドの研修依頼が増えてきています。医療事故が起きれば、医者は看護師のせいにしようとします。セクハラ、パワハラが多い病院から看護師さんが逃げて、患者も逃げていく。

 IQ(知能指数)が高い人が、人格、EQ(情動指数)も高いとは限りません。お医者さんは、「ありがとう」を言わない人が多いんですよ。


原田隆史日経ビジネス


 つまり医師は「『ありがとうございます』と言われる立場」だと誤解しているのだろう。客を散々待たせた挙げ句、金を払う客に対して頭も下げない。多分、あいつらにはサービス業であるという自覚すらないのだろう。


 機械が進化するに連れて人間が劣化してゆく。人間の役割は細分化され、居場所すら失いつつあるような気がする。そして最大の不思議は、これほど機械化が進んでいるにもかかわらず、労働時間が一向に短縮されない現実である。

共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人

「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」マイケル・ジャクソン


 アメリカ国内では放送禁止になったPVとのこと。マイケル・ジャクソンがこんなにメッセージ性の強い歌を作っているとは知らなかった。しかも政治色が濃い。暴力が支配する牢獄に囚われているのは我々である。


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マイケル・ジャクソン THIS IS IT(1枚組通常盤)

2010-01-12

相対性からの脱却/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ


比較が分断を生む」の続き――


 比較が分断を生み、分断がヒエラルキーを形成する。企業は信用力でランク付けされ、企業内では肩書きによって序列が構成される。家庭や地域においても同様である。ヒエラルキーは入れ子構造となっている。その全てが「比較」という思考に支えられている。辛うじて比較から離れているのは、気の置けない友人のみであろう。


 初めて会った人と話をする時、我々は知らず知らずのうちに相手と自分を比較し、礼儀を払うべきか払われるべきかを測定する。つまり上下関係を確認するわけだ。クリシュナムルティは比較という「相対性の業(ごう)」が言葉につきまとっていることを明らかにする――


 比較がないときに、〈清廉さ〉があります。清廉さは「あなたは、あなた自身に忠実だ」ということではありません。そうであれば、あるかたちの測定になります。しかし測定がまったくないときには、〈全体性の資質〉があります。自我の核心、つまり〈私〉は、測定です。測定があるときには、断片化があります。このことはひとつの観念としてではなく、現実として、深く理解されねばなりません。

 ここで述べたことを読むとき、あなた方はそれをひとつの観念や概念として抽象化するかもしれませんが、抽象化は別のかたちの測定です。〈ありのまま〉には、測定がありません。どうか心を用いて、このことを理解してください。もしあなた方がこのことの意味を十分に把握すれば、あなた方と生徒との関係やあなた方の家族との関係は、何かまったく違ったものになることでしょう。ですがもしあなた方が、「その〈違ったもの〉というのは〈もっとよいもの〉なのだろうか」と問うのであれば、あなた方は測定の輪の範囲に取り込まれてしまいます。それではだめなのです。あなた方が言葉を〈非−比較的に〉用いるときに、違いが分かることでしょう。私たちが用いるほとんどすべての言葉は、この測定の感じをもっていますので、言葉は私たちの反応に影響を与え、反応は比較の感覚を深めます。言葉と反応は相互に関係し合っており、〈術〉は「言葉によって条件づけられないこと」に在るのです。それは「言語が私たちを形づくらない」ということを意味しています。言葉を、言葉に対する心理的反応がないようにして、用いなさい。


 既に述べたように、私たちは「精神の堕落の本質や、私たちの生きかたについて、お互いにコミュニケーションすること」に関心をもっています。〈熱中〉は〈情熱〉ではありません。あなた方はある日何かに熱中するかもしれませんが、次の日にはさめてしまいます。あなた方はフットボールに熱中するかもしれませんが、それがあなた方を楽しませないようになると、興味を失います。しかし情熱は何かまったく異なるものです。情熱には時間によるずれがありません。


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


 難しい。クリシュナムルティ・マジックはここにおいて形而上と形而下を激しく往復する。さながら量子の如く粒と波との姿で翻弄し、捉えどころがない。あるいは一回転しても同じ形に見えず、二回転することで同じ形となる1/2スピンをもつ粒子のようだ。


 ロバート・パウエルの人物評は正確に的を射ている。ニュートンはアリストテレスを葬った。

 そして、今度はニュートンが一敗地にまみれた。アインシュタインによって「絶対時間」が否定されたのだ。時空は歪んでいたのだった。クリシュナムルティは「思考を司る意識は過去の過程」であり、我々が思考に支配されている限り「過去のコピー」に過ぎない存在であると指摘する。そして、「ありのまま」の自分を観察することで、内なる世界が広大にひろがり、圧倒的な静謐(せいひつ)に覆われる空間に出会うことができるとしている。クリシュナムルティが否定したのは、思考や意識や言葉の持つ絶対性であった。革命とは絶対性の否定である。


 しかし、「比較のない言葉」を使うことが可能だろうか? 旅先で見知らぬお年寄りと語る時それは可能になる。道端で倒れている人を見て駆け寄る時それは可能となる。外国で親切な行為に触れた時それは可能となる。あまり怖そうに見えない宇宙人とテーブルで向かい合う時それは可能となる。


 おわかりになるだろうか? 我々は何の先入観も持たない時、比較から自由になっているのだ。先入観とは過去の印象である。つまり、相対性から脱却するには、過去という呪縛から解き放たれる必要があるのだ。


 ここまで思索して、初めてクリシュナムルティの言葉が完全な円を成していることが理解できるのだ。我々が誰と出会っても、まるで初めて会ったような心持ちで振る舞うことができれば、世界は完全に平和となる。

学校への手紙

クリシュナムルティはアインシュタインに匹敵する

 邦訳未刊と思われる。


 クリシュナムーティは、生存中から伝説的人物になった数少ない人間の一人である……というのは、クリシュナムーティが、心理の領域で為し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行なった革命に匹敵すると言ってよいからである。アインシュタイン相対性理論は、光の速度は光源からの運動や光源へ向かう運動とは関係なく、すべての状況において不変である、という単純な事実を出発点にしている。一方クリシュナムーティの出発点もそれと同じような単純な観察に基づいている。それは、すべての心理的な苦悩は精神の中で始まり、またその中で終わるということである。つまり「精神は自ら作り出した牢獄である」。したがって、変革と苦悩からの解放は、絶え間ない精神の活動が終焉することによってのみ、達成することができる。


【『禅と真実在』ロバート・パウエル/J・クリシュナムーティ著『自我の終焉 絶対自由への道』(篠崎書林、1980年)の見返しより】

自我の終焉―絶対自由への道 自我の終焉 絶対自由への道

2010-01-11

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ


人間は人間を利用し食いものにしてきた」の続き――


 この手紙でクリシュナムルティは、分断された人間関係の様相を照射する――


 私たちは人間関係をバラバラに解体してしまっているので、人間関係は、ある特定の人物に対する関係、ある特定のグループに対する関係、国家に対する関係、ある概念に対する関係などになってしまっています。分断されたものは、責任の全体性を包むことはできません。私たちはいつも、小さいものによって、大きいものをつかもうとします。〈もっとよいもの〉は〈よいもの〉ではありません。ところが私たちの思考はすべて〈もっとよい〉〈もっと多く〉――もっとよい試験の成績、もっとよい仕事、もっとよい地位、もっとよい神々、もっと高尚な観念など――に基づいています。

〈もっとよい〉というのは、比較の結果です。もっとよい絵、もっとよい技術、もっと偉大な音楽家、もっと才能に恵まれている、もっと美しい、もっと知的であるなどは、この比較によるものです。私たちはまれにしか、絵そのもの、男性あるいは女性のその人自身を見ようとしません。いつも比較への、この生まれつきの資質があるのです。愛は比較でしょうか? あなたは、「自分はあちらよりもこちらの方を愛している」と言えるでしょうか? この比較があるとき、それは愛なのでしょうか? 〈もっと多く〉という感じがあるとき、それは測定であり、思考が働いています。愛は思考の働きではありません。この測定は比較です。私たちは生涯を通じて、比較するように勧められます。あなたの学校で、BをAと比較するなら、その両者をだめにしてしまいます。

 したがって、いかなる意味においても比較することなく、教育ができるでしょうか? なぜ、私たちは比較するのでしょうか? 私たちが比較をするのは、「測定が思考の方法であり、生の方法である」という単純な理由からです。私たちはこの腐敗のなかで教育されています。〈もっとよい〉はいつも〈ありのまま〉〈現実に起きていること〉よりも高尚だとされています。しかし、比較も測定もない〈ありのままの観察〉こそが、〈ありのまま〉を超えて行くのです。(15th May 1979)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


 所属は帰属意識を形成する。何かに所属した途端、何らかの忠誠心が芽生える。自我は所属する団体や組織と一体化を目指す。


 ここからクリシュナムルティは「分断されたものは、責任の全体性を包むことはできません。私たちはいつも、小さいものによって、大きいものをつかもうとします」という一行で、比較へと展開している。これがクリシュナムルティ・マジックだ。極端な省略が見て取れる。


 我々が生きる世界は、組織化という形で分断された世界なのだ。社会というものは概念であって実体はない。我々が「社会」と言う時、それは職場の同僚や家族、隣近所、友人、同じ電車に乗っている人、街で擦れ違う人、親戚、故郷にいる同級生、昔別れた彼女といった狭い範囲の人間関係を意味している。社会全体を実感できる場はどこにも存在しない。にもかかわらず、世論や投票率や地方自治体の人口の中に我々は社会を見出すのだ。


 組織や団体には必ず目的がある。目的があればこそ組織されたのだ。そして、目的のあるところには必ず競争がある。他の組織と比較し、昨年と今年を比較し、あの地域とこの地域とを比較してやまない。


「もっとよい」ものを目指すのは普通なら「欲望」であると考えられがちだが、クリシュナムルティは意図的に「測定=思考」としている。そしてこの変化球は揺れながら最後にストンと落ちるのだ。「比較のない教育は可能だろうか?」という具合に。


 生徒を比較するのは、生徒を測定することである。この時、教育は生徒を測る物差しと化す。測られる生徒は物差しに合わせた生き方を強いられる。こうして彼等が大人になれば、そこには新たな物差しが出来上がっているわけだ。計測スパイラル。


「両者をだめにする」とはどういう意味か? 優れた者は優越感を覚え、劣ったもは劣等感に苛まれる。この正負の感情によって彼等は物差しの奴隷にされてしまうのだ。絵に描いたような条件づけが施され、学校は腐敗してゆく。


 比較がプラスとマイナスを判断するのだから、比較は賞罰といえるかもしれない。賞罰を与えるのは権力者である。つまり、教師と生徒は比較する者と比較される者とに分断されてしまう。完全な分断といってよい。教師は絶対者として君臨し、生徒は罰せられるのを待つ僕(しもべ)となる。


 ここからクリシュナムルティは生徒の「ありのまま」を尊ぶ教育を主張する。


→「相対性からの脱却」に続く

学校への手紙


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架神恭介、辰巳一世


 1冊読了。


 6冊目『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)/いやあ笑った笑った。小田嶋隆が好きな人なら確実にはまることだろう。巻末には「感謝の手紙」まで挿入されている。教祖のハッピーライフを実現するための解説書という体裁をとっているが、実はかなり正確な記述が多く、実体は「世界宗教入門」といった具合だ。驚くほどわかりやすく書かれているが、中級者レベルの人が読んでも勉強になることだろう。各章の間の「コラム」も親切で目が行き届いている。その辺に転がっている宗教書よりもはるかに面白かった。これで著者が20代というのだから驚き。

2010-01-10

M・スコット・ペック


 1冊読了。


 5冊目『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学M・スコット・ペック/森英明訳(草思社、1996年)/2月の課題図書。あまりにも面白くて直ぐに読み終えてしまった。原題は「虚偽の人々」。現在、精神病質は人格障害という概念になり、アメリカではサイコパスよりもソシオパスという言葉が使用されている。だが、M・スコット・ペックは厳密な線引きをしている。悪性のナルシシズム、罪悪感の欠如などによって、日常的に嘘をつき、責任転嫁をし、話を摩り替える。そこには必ずスケープゴートされる人が出てくる。実際にこうした人物と時々出会うことがある。肥大した自我は他人の話を聞き入れることができない。ミスを犯しても謝らない。物事を主観的にしか捉えることができない。このようなタイプの人間は殆どの場合、周囲から魅力的に思われていることが多い。ま、極端な話だが芸能人の大半は人格障害であると私は考えている。テレビのように善悪の概念が薄弱な世界を私は他に知らない。ADに指図されれば何でもやってのけるような手合いばかりなのだ。終盤はベトナム戦争のソンミ村虐殺事件を通してアメリカの病理をしかと見据えている。実に骨太な心理学書である。

人間は人間を利用し食いものにしてきた/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ


 長いテキストなので3回に分けて紹介しよう。


 法華経の展開に広・略・要(こう・りゃく・よう)という三種類がある。広は広く全体に行き渡るもので、略は簡略したもの、要は肝要・エッセンスとなる。クリシュナムルティの言説には明らかに意図的な省略が窺える。このためワンセンテンスごとに落差が生じ、聴き手の思考や価値観が揺さぶられている間にも次の言葉が耳に入ってくる。完全に振り遅れているのだが我々のバットは止まらない。こちらが振り切った時にはボールが3回くらい投げ込まれているような具合だ。


 クリシュナムルティが我々に求めているのは「俊敏な気づき」である。しかも彼は完全なコミュニケーションを志向しているので、聴き手は即座に気づかなければならない。そして、動揺している自分の思考とクリシュナムルティが発する言葉とを、離れた位置から客観的に静謐(せいひつ)の中で見つめることまで彼は求めているのだ。


 つまり、こうだ。私の心は、私自身を観察し、クリシュナムルティを観察し、私とクリシュナムルティとの関係性をも観察するということである。クリシュナムルティ思想の中核をなしている「観察者は観察するものである」という知見にはこれほど高い抽象度が求められている。

 本書はクリシュナムルティ・スクールの教職員と生徒に宛てて書かれた手紙であるが、トリッキーな言葉がより一層際立っている。彼はわずか数行の文章で人類史の本質を浮かび上がらせる――


 人間が人間に対して行なったことには限度というものがありません。人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害し、可能な限りの方法で宗教的、政治的、経済的に食いものにしました。それが人間が人間に対して行なってきたことです。利口な人がぼんやりした人、無知な人を食いものにします。あらゆる哲学は知的ですが、それが故に全体ではありません。その哲学が人間を隷属させてきました。哲学は「社会がどうあるべきか」を考え出し、人間をその概念の犠牲にしました。すなわち、いわゆる思想家たちの理想が、人間を非人間化したのです。

 男性であろうと女性であろうと、他の人を食いものにすることが、私たちの日常生活の流儀であるように思われます。私たちはお互いを利用し、お互いがそうした扱いを受け入れています。こうしたお互いに利用し合うような特別な人間関係から、〈依存〉が生じます。依存には、それ特有のあらゆる不幸と混乱と苦しみが一緒になっています。人間は内面的にも外面的にも、自分自身に対しても他の人々に対しても、頼りないものなのです。このような情況にあって、どうして愛がありうるでしょうか?(15th May 1979)


【『学校への手紙』J・クリシュナムルティ/古庄高〈ふるしょう・たかし〉訳(UNIO、1997年)】


「利口な人がぼんやりした人を食いものにする」――これこそ社会の実態であろう。国家は国民を食いものにし、企業は消費者を食いものにし、学校は生徒を食いものにし、親は子供を食いものにしている。こうした弱肉強食の論理をクリシュナムルティは「暴力である」と喝破(かっぱ)しているのだ。つまり我々は「拷問」に加担していることになるのだ。


 例えば我々は、過去に行われた戦争について「ま、結果的に起こってしまったのだから、しようがないわな」と思い、「何らかの歴史的必然や避けられない趨勢(すうせい)によって勃発した」と考えている。この手の書籍や研究も実に多い。しかし、「あの人物やこの判断がなかったら違う結果になったかもしれない」「アメリカが日本への原油輸出をストップしたのがそもそもの原因」といった論調は、スポーツ観戦と何ら変わりがない。ま、しょせん野次馬ってことだな。


 だがこの野次馬根性が軽々しく扱われることはない。国民である以上は国家の歴史を学ぶのが当然だ→国家がいかなる歴史によって成り立っているかを理解することで自分自身のアイデンティティを確認することができる→歴史を知ることで真の国益が理解できる→国際社会の中で日本が果たすべき役割が明確になる→ってなわけで、保守政党に清き一票を投じてもらいたい、という具合だ。


 真剣に考えてみよう。「君はそれでも日本人なのか?」と「お前はそれでもジャイアンツファンなのか?」という言葉にどの程度の違いがあるのだろうか? ないね。全くないよ。ちょっとでも敵を利するような発言をすれば裏切り者の烙印(らくいん)を押され、国賊扱いされるところまで一緒だ。


 前置きが長過ぎた。つまり我々は過去の戦争を論じることで、「避けることのできなかった歴史」として容認し、正当化しているのだ。戦没者の追善供養(ついぜんくよう)をする時、私の中では当時の敵国に対する怒りが沸々(ふつふつ)とわいてくる。広島・長崎で原爆の犠牲となった人々や、東京大空襲で殺戮された人々を思うと、私の心には極太マジックで書かれたような殺意が芽生える。


 実は我々は、正しい理由があれば暴力を認めている。躾(しつけ)と称しては子供を殴り、殴らない親は暴言を投げつける。兄弟や姉妹がいれば、褒美(ほうび)で差をつける。親の言いなりになることを奨励しているのだから、一種の暴力であることは疑う余地がない。組長の言いなりになる組員や、組員の言いなりになる飲み屋のオーナーと一緒であろう。


 警察や軍隊というのは国家の安寧秩序を守るための暴力装置である。ほら、我々は社会の安寧(あんねい)を守るための暴力を認めているのだ。なぜなら、安寧を乱す者は警棒で殴られてしかるべきであり、社会の枠外に拘束されるのが望ましいからだ。


 我々の間に愛は存在するのだろうか? 「アメリカが行き過ぎているのは確かだけど、イスラム原理主義の方が何となく怖いよね」とか、「振り込め詐欺に引っ掛かる年寄りは間抜けとしか言いようがない」とか、「交通事故の死亡者数が1万人を割っているのは素晴らしいことだ」などと思っている我々に愛はあるのだろうか? 金持ちを羨む視線、成功者に媚びへつらう態度、道端にゴミが落ちていても「自分が捨てたわけではないから」と拾うこともない我々に愛はあるのか?


 我々は愛を感じることもできなければ、与えることもできないレベルにまで成り下がってしまった。人々は完全に分断され、分離した卑小な存在となったのだ。社会の機能が、生(せい)そのものをシュレッダーにかけている。


 他人を食いものにすることを拒否したいのであれば、「ただひとりある」立場を貫くしかない。そして、「ひとりあろう」と努めることが反逆なのだ。


→「比較が分断を生む」に続く

学校への手紙

佐藤優が語る官僚の世界


 あからさまな脅しがまかり通っているという事実は、暴力が国家を支配していることを意味する。権力闘争とは暴力そのものである。


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2010-01-09

情報、知識、思想、哲学、宗教/『おテレビ様と日本人』林秀彦


 一見すると、林秀彦の真剣さは強迫神経症をかもし出し、真面目さは被害妄想に導いているように感じられる。それはきっと半分当たっている。もう半分は「行き過ぎた成功からの反動による行き過ぎた自省」であろう。メディアの寵児(ちょうじ)は誰よりもメディアの毒を飲んだ者でもあった。


 特に本が人間の最大で最強の武器となったのは、哲学が文字によって書かれたときだった。人間はこのとき、文字通り「百獣の王」の座を得たのだ。その座こそ「考える努力」が与えた最大の褒賞だった。だが私は太鼓判を押そう。日本の全国会議員の書庫を探しても、哲学書は10冊と発見できないだろう。

 その頃、本が“情報”だなどと考えた人間は一人もいなかった。人間にはまだ「永遠なるもの」を求める力と夢があったのだ。人間は永続するもの、普遍なるものを得ようと、日夜努力していたのだ。そのどちらの要素も情報にはない。情報はごく一時的な知識であり、かつその正誤は度外視されている。その上、新しい情報が生れれば意味を失い、真の損得には無関係である。永遠性のある情報などというものはこの世にない。誰もプラトンの与えた“情報”、カントの与えた“情報”、トインビーの与えた“情報”などとは考えない。彼らが教えたのは、情報の虚(むな)しさであった。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】


 林は自殺未遂をした挙げ句、メディアという世界から逃げ去った。そして、毒されたメディアを擁する日本という国家から脱出し、オーストラリアに避難する。失った自分を取り戻すために。林は一切の情報を遮断し、山林に隠棲する。妻も去って行った。彼は孤独へ向かい、孤独を堪能し、孤独の豊かさを味わい尽くす。独りで本を開きながら……。


 情報、知識、思想、哲学、宗教の違いは何か? 言葉が構成しているにもかかわらず、何がどう違うのであろうか? 「魂に与える衝撃の度合い」などと言ってしまえば格好がつくように思えるが、変化の持続性という意味では賞味期限と一緒だ。たぶん賞味期限なのだろう。


 ソクラテスは文字を嫌った。なぜなら、文字は死んでいるからだ。文字ではソクラテスが求める「対話」は成立しなかった。


 通信やメディアの技術革新によって高度情報化社会は到来した。情報は膨(ふく)れ上がり、その遠心力でもって解釈や解説が放射される。情報は光のように凄まじい速度で拡散する。


 宗教は裁断され、哲学は断片化し、学問は細分化された。こうして全ての言葉が「情報化」されつつある。カタカナ語が拍車をかけて、言葉から意味性を奪って印象性だけを与えようとする。フィーリングってやつだよ。重みを失った言葉は宙に浮かんで空回りし続ける。


 我々の頭の中は、粉砕された情報で埋まっている。まるでゴミだ。リサイクルすることもなければ、ディスククリーンアップもデフラグもしない。脳は宇宙塵で構成されている。無意識はダークマター暗黒物質)だ。


 だが、宇宙の摂理はバラバラになったエネルギーを再び高密度・高音へと誘(いざな)い爆発を起こす。とすれば、今足りないものは何か? それは「新しい哲学」だ。宇宙塵と化した我々一人ひとりが何かを求めて、微妙に影響を及ぼし合い、手掛かりとなるような光子(こうし)を見つけることができれば、世界は――そして我々は――再び何かを誕生させるに違いない。


 あるいは「新しい歌」か――。

おテレビ様と日本人

2010-01-08

言葉によらないコミュニケーションの存在


 しかしながら、ことばによらないコミュニケーションがあります。

 それは、あなたと私のどちらもが、同時に、同じレベルで真剣であり、熱烈であり、直接的であるときに生じるものです。

 そのとき、ことばによらない「コミュニケーション」があるのです。そのとき私たちはことばを不要にすることができます。そのとき、あなたと私は沈黙のうちに坐ることができます。

 けれどもそれは、私の沈黙とかあなたの沈黙といったものではなく、私たち両者の沈黙であるはずです。

 そのときにはおそらく、コミュニケーションがありうるでしょう。

 ですがそれは求めすぎというものです。(※ブランダイス大学での講話)


【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ/竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

あなたは世界だ

2010-01-07

ルワンダ虐殺きっかけの大統領機撃墜、国軍幹部が首謀 報告書


 1994年に起きた「ルワンダ大虐殺」のきっかけとなった同国大統領の乗った航空機が撃墜された事件について、ルワンダの調査委員会がこのほど、事件の首謀者はルワンダのフツ人(Hutu)政権内の過激派だったとする報告書をまとめたことがわかった。

 AFPが6日に入手した報告書の写しによると、事件は当時の政府と、ツチ人(Tutsi)反政府勢力「ルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Front、RPF)」との連立政権の成立を阻止するため、ルワンダ国軍(Rwandan Armed Forces、FAR)上層部がクーデターの一環として首謀したものだったという。


和平協定直後に暗殺


 フツ人とツチ人の対立が続いていたルワンダでは、1993年にジュベナール・ハビャリマナ(Juvenal Habyarimana)大統領(当時、フツ人)がタンザニアの首都ダルエスサラーム(Dar es Salaam)で、ルワンダ愛国戦線との和平協定に調印した。

 しかし翌94年4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンジのシプレン・ヌタリャミラ(Cyprien Ntaryamira)大統領を乗せた専用機が、ルワンダの首都キガリ(Kigali)の空港近くで地対空ミサイルにより撃墜され、両大統領は死亡。この事件がきっかけで、多数派のフツ人が少数派のツチ人とフツ穏健派を襲撃した、いわゆるルワンダ大虐殺が発生した。

 虐殺の被害者は80万人といわれる。ルワンダ政府は2007年4月、事件の真相を解明するため、調査委員会を発足させていた。


フランスの関与はグレーゾーン


 大統領機撃墜事件については、大虐殺に関与したとルワンダ政府が批判するフランス側も、独自の調査を行っている。

 前年11月9日には、事件に関して「テロリズムに関連した殺人に共謀」した容疑で、元ゲリラ兵で当時ルワンダのポール・カガメ(Paul Kagame)大統領の側近として儀典長を務めていたローズ・カブイエ(Rose Kabuye)容疑者をドイツで逮捕、裁判が行われるパリ(Paris)に身柄が移送された。

 今回のルワンダの報告書は、ハビャリマナ大統領暗殺へのフランスの関与は見られないとしているが、当時の軍事合意の一環でルワンダに駐在していた仏軍当局者らが墜落現場に入り、フライトレコーダーとミサイルの残がいを持ち去ったと指摘している。

 フランス政府は、大虐殺への加担を否定し続けている。

 なお、撃墜事件をめぐりフランスと断交していたルワンダ・ブルンジ両国は前年11月、国交正常化を表明。ベルナール・クシュネル(Bernard Kouchner)仏外相は6日、国交再開後初めて、キガリを訪問した。


AFP 2010-01-07

養老孟司と山本義隆


 研究室の助手をしていた頃、当時盛んだった全共闘運動の被害を受けた。研究室がゲバ棒を持ち覆面を被った学生達に押し入られ、「こんな一大事に研究なんかしている場合か」と非難されながら研究室を追い出された経験をして以来、「学問とは何か」「研究とは何か」「大学とは何か」といった問いに対して考え続けており、「私のなかで紛争は終わってない」と述べている。そのような過去の経緯もあって、かつて東大の全共闘議長であった山本義隆の『重力と磁力の発見』が大佛次郎賞を受賞した際に養老は、同賞の選考委員でありながら、著作への授賞に異存はないとしつつも、自らが全共闘運動から受けた影響(全共闘運動により研究室から暴力的に追い出されたなどを理由に「(個人的な)背景を含めた選評は拒否するしかない 」という強い調子の文章を発表して話題となった。


Wikipedia

磁力と重力の発見〈1〉古代・中世 磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス 磁力と重力の発見〈3〉近代の始まり

神は頭の中にいる

 脳がある体験をすることと、外界にその対応物が存在することは、別なことである。宗教では、ときどきこれを一緒にするから困る。科学と喧嘩になる。こう考えてみよう。数学で世界を解釈すれば、できないことはない。しかし、それでは世界の大部分はこぼれ落ちてしまう。数学に色はあるか、恋はあるか。では数学とはなにか。それは要するに脳の機能である。つまり脳内の過程である。

 では神秘的体験とはなにか。それも脳の機能である。テンカンの患者さんに、しばしば神秘的体験、法悦状態を感じる人がある。だからといって、数学者をとくに馬鹿にしないのと同様、こうした体験を馬鹿にする必要もない。それが「人間」だからである。あるものは、そこにあるものとして認めるしかない。しかし、頭の中にあるものを外にあると言い張るつもりは、私にはない。外にあるものなら自然科学で扱うことができる。頭の中はそうはいかない。こればかりは、それぞれの人に固有のものである。だから個人が生きている。それが個人の価値観である。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

パニック障害を抱えた主人公/『罪』カーリン・アルヴテーゲン

    • パニック障害を抱えた主人公

 アルヴテーゲンのデビュー作。ペーターは経理の横領によって2000万円もの負債を抱える羽目となった。そんな彼が見知らぬ女から奇妙な依頼を受ける。ある会社の社長にプレゼントを手渡して欲しいというのだ。金に切羽詰っていてペーターは断ることができなかった。社長に渡した小箱の中には人間の足の親指が入っていた。社長はそれまでにも散々嫌がらせを受けていた。仕事を失っていたペーターは探偵役を引き受ける。


 ペーターはパニック障害を抱えていた。そして執筆していた著者も同じ病状にあったという。カーリン・アルヴテーゲンは二人目の子供を妊娠している最中に兄を亡くした。生まれ来る生命と去って行った生命との狭間(はざま)で、アルヴテーゲンの精神はバランスを狂わせた。深刻なうつ状態に陥り、パニック発作に襲われるようになった。無気力になり、何も手につかなくなる中で、彼女は自分自身に向かって物語を書いた――これが本書である。


 多くの精神疾患は「真っ直ぐに育つこと」を許さない環境によってつくり出される。社会は常に適合することを求める。おかしな社会に順応できるおかしな人々であれば問題はないが、何らかの違和感を覚える人々はストレスにさらされてしまう。社会的成功が我が子の幸福と信じてやまない親は、知らず知らずのうちに社会の奴隷となることを子供に強要する。自由とはヒエラルキーの上層に存在するのであって、社会の外側にあるものではないと教育する。このようにして社会からも親(=大人)からも抑圧された子供は、ある日突然攻撃的になる。そうでない子供は精神疾患になるのだ。


 ペーターはオーロフ・ルンドベリと友情を結ぶことで少しずつ自信を取り戻してゆく。だが、事件が解決した後再び孤独感に打ちひしがれる――


 生きて何の役に立つというのか?

 これでは不公平だ。だれかが秩序をもたらすべきだ。いまのままでは、人がどのように生きようと何の意味もないではないか。大量虐殺者でも聖人でも結局最後は同じなのだ。最後の審判というものがあるなどという考えは、とっくの昔に捨てた。どっちみち、はっきりした違いはないのだ。だが、それではだめではないか。すべての人間は、よい行いをすれば死後にそれに見合った褒美が与えられると、生きているうちから認識するべきなのだ。そして、よい行いをすることを選ばなかった人間は、死後になにが待ち受けているかを知るべきなのだ。破壊がおこなわれ、取り返しがつかなくなってから、それをおこなった者を罰したところで、何の意味もないではないか。死後ただちに、その人の生きた人生は評価され、褒美を与えられ、あるいは懲罰を受けるべきなのだ。いや、それよりもいいことがある。よい行いをした人間にはもっと時間が与えられるべきだ。命の砂時計の砂が増されるべきではないか? 正しい行いがおこなわれれば、ただちに命が何時間か延びる。一方悪事をおこなう者はその悪行の度合いに応じて、3月の雪だるまのように命が縮んでしまう。

 それならば、生きていくことも、何とか我慢できるかもしれない。


【『罪』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由美子訳(小学館文庫、2005年)】


 巧い……。人生の不条理を実にわかりやすい言葉で表現している。世界は混乱している。悪が大手を振って歩き回り、善は座り込んだまま小さくなっている。資本主義は弱肉強食の原理であるがゆえに、善悪は不問に付される。どんな種類の力であろうとも、力が支配する世界は暴力的になる。力は必ず暴走する宿命を抱えているのだ。力とは暴力である。


 我々の世界では「強さ」が「自由」を表している。つまりそれは、「相手を攻撃する自由」に他ならない。アメリカが見事に体現しているではないか。「イラクが大量破壊兵器を保有している可能性がある」として戦争を行ったことはまだ記憶に新しい。アメリカが「可能性」を見出せば、いつでも他国の市民を殺害することが可能となったのだ。アメリカの力は戦争への扉を開いた。そして、その力は強迫神経症として作用していることを見逃してはならない。金持ちが泥棒の心配をするのと同じだ。


 ペーターはいつもの日常に戻った。何ひとつ変わることのない凡庸で退屈ですべてが腐敗している日常に。ところが事件は一件落着してはいなかった。ここからペーターは過去の物語と遭遇する羽目になる。それは自分の原点を回帰する心の旅でもあった。


 アルヴテーゲンはあらすじを決めることもなく執筆し、書き終えた頃に心の病を克服していた。まったく見事な蘇生のドラマである。


罪 (小学館文庫)


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2010-01-06

ギャンブルは経済思想の中核をなす


 ギャンブルは、経済思想や経済組織の中核をなす。多くの金融関係者がこの考えをどれほど不愉快に思おうと、それが事実であることに変わりはない。


【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン/櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】

ギャンブルトレーダー――ポーカーで分かる相場と金融の心理学 (ウィザードブックシリーズ)

2010-01-05

バルザック


 1冊読了。


 4冊目『「絶対」の探求』バルザック/水野亮訳(岩波文庫、1939年)/原作は1834年。ビックリするほど面白かった。どこか、小田嶋隆と似たところがある。描写の確かさ、言葉の適切さであろうか。父親は錬金術に余念がなかった。障害を抱えた貞淑な妻がこれを支える。がしかし、科学的実験には金が掛かった。穀潰(ごくつぶ)しの父親が家族を翻弄する。心労が重なった妻は遂に命果てる。賢夫人は娘に遺言を託した。そして、父が真理に没頭し母が情に流される合間を縫って、長女マルグリットとエマニュエル青年の初恋が爪弾(つまび)かれる。芝居じみたセリフが物語を大いに盛り立てる。仏典に説かれる雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)の現代版といってよい。古典恐るべし。

力士は神と化した/『雷電本紀』飯嶋和一

 立て続けの書評となるがご容赦願おう。「雷電本紀」で検索したところ、低い評価が散見された。

 取り敢えずこのページだけ紹介するにとどめる。私は驚き、愕然とし、呆れ果てた。「ものを感じる能力」が退化しているようにすら見えた。幼児が甘いものを欲するように彼等はわかりやすい物語を求めているに違いない。


 この物語の縦糸は雷電の人生ではなく、民を抑圧した時代なのだ。そして横糸は相撲ではなく、雷電と打ちひしがれた民との関係性にあるのだ。鍵屋助五郎は民の代表であり、目撃者としての役回りを担っている。


「善人ばかりが登場するので物足りなかった」――かような感覚は、何から何までお膳立てしてくれるテレビ番組を見過ぎている証拠だ。ブラウン管の向こう側に挿入された笑い声に釣られて笑うような感覚の持ち主に違いない。映像ではなくBGMによって泣かされてしまうタイプであろう。テレビは喜怒哀楽をコントロールする。


 ドブから漂ってくる腐臭、打ち毀(こわ)しに向かう百姓の怒り、相撲界を取り巻く固陋(ころう)な因襲、無気力になり果てた農民、女衒(ぜげん)に売り飛ばされた娘達、舟着き場に置かれた脛石(すねいし)、そして雷電と助五郎を罪に陥れた政治……。この至るところに悪が充満している。行間に圧縮され、紙背から悪臭が漂う。登場人物の善性は時代と人々の邪悪という黒い画面を背景にしているからこそ際立っているのだ。


 つまり本書に感動できない精神は、邪悪に対して鈍感であることを示している。我々は分断された存在なのだ。だからこそ、苦しみ喘ぐ人々に共感する心すら失ってしまったのだ。


 既に勇名を馳せていた雷電は、自ら地方へ赴き地稽古を行った。風雨にさらされて今にも崩れ落ちそうな土俵へ上がり、力足を踏んだ。集まってきた農民達は飢えによって生きる力を根こそぎ奪われていた。眼に光はなく、声すら発しない。亡霊さながらに雷電を遠巻きにし、土俵を見守った。雷電が付き従えた若い衆を何度も放り投げ、叩き伏せる。何度も何度も――


 今まで助五郎でさえもこんなものを見たことはなかった。時折地稽古という言葉は聞いたが、実際に目にしたのは初めてのことだった。相撲人はそれぞれ抱え先の藩邸や諸藩ゆかりの寺などで稽古をつみ、あるいは年寄衆の持つ部屋の稽古場で習練を積み、白日公衆の目前にそれをさらすことはない。雷電はこの若者を殺してしまうのではないかと、助五郎でさえ思いはじめていた。

 ここ数年寒い夏が続き、実りは年を追うごとに乏しかった。それにもかかわらず、容赦ない年貢の取りたてによって、人々は飢饉に追いこまれ、疫病はその衰弱しきった村々に襲いかかった。すでに気力萎え、病み疲れた人々の前で、巨人と若者が、湯気をたち上らせ、汗を飛ばして激しくぶつかりあっていた。

「立て。負けるな」

 たしかに、見物たちから聞こえた。起き上がれずはいつくばった友吉が土盛りの下までほうり投げられ、それでも這いあがろうと、ちぎれた二重土俵の外俵にのばした右手をかけた時だった。言いよどんだように、突然張りつめた声がとんだ。かん高い子どもの声だった。しかし生気のある声だった。

「負けるな」

 10歳かそこらの、まだ瘡の痕を顔にとどめ、病み上がりの大きな目をした子が立ち上がって叫んだ。続いて大人の、老人の、女たちの声が泥だらけの友吉の背にとんだ。見物たちの何人かが立ち上がった。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


 雷電が叩き伏せたのは民の「無気力」であった。何度読んでも涙が止まらない。腸(はらわた)が捩(ねじ)れるほどの感動を覚える。雷電の本当の力は相撲で連勝したところにあったわけではなかった。民に力を与えたところにその真価があった。この時、雷電は神となった。


 これが神でなくてどこに神がいるというのだ。埃(ほこり)だらけになった神棚や、じめじめした土と空気に覆われた社殿に神はいない。そんなものは神を象徴したものであって、言ってみれば神のテレビ化みたいなものだろう。安易な気持ちで神を探している人々が自己満足できる装置に過ぎないのだ。


 翌日、蘇生した農民は皆で狩猟を行い、雷電一行に食事を振る舞った。


 Wikipediaの記事を見ると、本書は史実に基づいて書かれていることがわかる。


 雷電はやむにやまれぬ思いで行動した。そこには何の意図も計算もなかったはずだ。演出された見世物は永続的な感動を与えることができない。思案したり、計画したりすることもなかったことだろう。民と同苦(どうく)した瞬間、そこには「即座の行動」が生まれるのだ。ここに雷電の生(せい)の本質があった。雷電は「ただ、そうせざるを得なかった」のだ。


 嗚呼(ああ)、雷電よ、偉大なる相撲人(すもうにん)よ。あなたはまさしく神であった。


 機会を見つけて墓参しようと思う。


雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

組織化

 彼はこの集まりは対話が目的で誰でも参加出来ること、自分は権威者でも何でもないことを強調することで話をはじめた。対話が展開していくにつれ、参加者の数は多くなり、元気な意見の交換が続いた。しかし彼は基本的な単純な質問をすることでより深い境地を探り続けた。「宗教とは何なのだろう。探究するというのはどんな意味なのだろう」などと言って質問の原点を探ることに焦点を合わせ、どの参加者もゆっくりと慎重に一緒になって進んでいこうと主張した。突然彼は、論議していることの現実性に直面するように私たちに熱心に訴えた。「どうか聴きなさい。私たちに関心があるのは生のすべてを理解することで、その小さな隅っこではない。自分たちの日常生活の中で、毎日実際に生きていく中で、何が真理なのかを自分たちでみつけなくてはならないのだ」

 私は話の進め方が理論づけたり抽象的な推論などとは程遠い、単純な速効性と実際性に充ちているのに深く打たれた。どんな答えも彼を満足させず、どんな結論も受け入れられなかった。ひとくぎりした処で、歴史を振り返ってみるまでもなく組織化された宗教が人類を分離し、口で言えないほどの混乱と苦悩の原因になった事実に聴き手の注意を向けながら、彼は話すのを途中でやめ、いたずらっぽい微笑みを顔に浮かべた。

「ひとつ冗談を言いましょうか」と彼は口をはさんだ。「この噺は聞いた人もいるかも知れないが、退屈がらないように願います。悪魔と彼の友達が地上を歩いていた。すると前方でひとりの男が屈み込んで何か光るものを地上から拾いあげた。彼は喜色に満ちてそれを眺め、ポケットに納め、意気揚々と歩き去った。友達が尋ねた。『何をあの男は拾ってあんなに様子が変ったんだね?』すると悪魔が答えた。『うん、あの男はな、真理の一片を見つけたのさ』『何だって!』と友達が叫ぶ。『あんたにとっては都合が悪いんではないかね?』『一向に』と悪魔はずるそうに答える。『組織化する手助けをしてやるからさ』」


【『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン/高橋重敏訳(コスモス・ライブラリー、1999年)】

キッチン日記―J.クリシュナムルティとの1001回のランチ

「パープル・レイン」プリンス


 我が青春の一曲。ややミーハーな曲だが、ブルージーなバラードにプリンスの気骨を見た。そして今の気分にぴったしのナンバーでもある。


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パープル・レイン

2010-01-04

「ロング・トレイン・ランニン」ドゥービー・ブラザーズ


 ギターのカッティングとコーラスが堪(たま)らん。1973年のナンバー。私が聴いていたのは高校生の時分。それにしてもベスト盤が20曲で1500円というのには驚き。


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グレイテスト・ヒッツ ドゥービー・ブラザーズ

時代の闇を放り投げた力士・雷電為右衛門/『雷電本紀』飯嶋和一

 今月の課題図書。今をさかのぼること250年前、天下無双の強豪力士がいた。その名、雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)。身長は6尺5寸(197cm)、体重46貫(172kg)と伝えられる。ペリーが黒船に乗ってやって来る半世紀ほど前のこと。長らく続いた江戸時代は腐臭を放っていた。民という民は貧困によって力を奪われていた。


 当時、相撲人(すもうにん)は藩に召し抱えられていた。相撲籤(くじ)があり、庶民にとっては博奕(ばくち)の対象でしかなかった。拵(こしら)え相撲(=八百長)が横行し、土俵上でぶつかり合っているのは諸藩の小さな面目でしかなかった。


 そこに化け物が登場した。もはや今までの相撲ではなかった。力任せに投げ飛ばされた力士は負傷した挙げ句土俵に上がれなくなった。腐り切った談合社会が揺れた。加減を知らぬ若造を戒める必要があった。「大人のルール」ってやつだ――


「……この鰍沢の後は、皆、大坂へ上らねばならぬ。お前が巡業に加わってからというもの、柏戸までが妙な具合になって、気を入れすぎる。東方の他の相撲人も、こんな調子では、とても土俵に上がれんと言っておる。何も『拵え相撲』を取れと言っておるのではない。お互い生身の身であるのだから、江戸、大坂の大相撲とはまた別の、技量をお互い磨き合うための稽古相撲にとどめてはくれぬか。このままでは、相手方が嫌がり、これから先々お前は相撲をとれなくなる恐れもある」

「それならそれで仕方ございません」

 目を伏せて聞いていた雷電がまっすぐに黒目がちの細い目を上げ、落ち着いた声できっぱりと言い放った。

「あえて申し上げますが、相撲は手に何ももたず、何も身につけず、生まれたばかりの赤子同然で取るものでございます。世人が身に帯びたありとあらゆるもので渡りをなすのと異なり、相撲人はそれらの一切をはぎとり、残ったこの身だけで勝ち負けを競うものであります。身分も家の財も、生まれ育ち、学才や素養、ありとあらゆる世俗の衣を脱ぎ捨て、最後に残った己が身での勝ち負けでございます。他に何らの助け太刀も望めず、相手もわが身も生まれたばかりの赤子同然、素手で立ち向かわざるをえません。相撲場の外とは異なり、何もごまかしようがないのでございます。己れと己れ、むき出しの戦(いくさ)かと存じております。そのため、日夜、己れを虚しくして身を鍛え、心を砕き、修羅さえ燃やして精進しておるのでございます。

 わたくしの在所には父と母、生まれたばかりの妹がおるだけでございます。本来なれば、この地で相撲を取っていること自体、不可思議なことで、在所で田畑を耕すのが生業(なりわい)。何の縁(えにし)か、父と母を、田畑を、過ごすべき家を捨て、この身一つ、わずか径十三尺の土俵にのみ生きる場を許されておるだけでございます。これは、いわば天命。おそらくは何人たりとも奪うことは出来ますまい。

 相手方の相撲人もおそらくは同じことでございましょう。たとえ花を得るための課役(かやく)相撲、稽古相撲の類ではあっても、三都の大相撲の土俵であってもその大きさが変るものではありません。手心を加え、猿芝居もどきを演ずるために、土俵へ上がることは、相手方に対しても無礼。何の恨みも相手方には抱いておりませんが、相撲(すも)うた結果、どのような事態に至りましても、双方その覚悟にてまみえ、相搏(あいう)つのが本願。生半可に手心を加え、それがゆえに傷を負い、再び土俵にあがれぬ、あるいは死に至るようなことが起こりましたならばうしろめたさばかりが残りますが、双方身一つ、素手で渡り合い、死力を尽して攻防を繰り出した結果であれば、どのような結果が訪れようと、己れ自身にもまた相手方の相撲人に対しても、何人に対しても、悔いはあっても、うしろめたさはございません。

 申し上げることは、それだけでございます。どうかお引きとり下さい」

 一瞬、その米問屋方では誰もいないかのように虫の声ばかりが響いていた。襖を隔てた隣室から、柏戸が「お見事」のかすれ声とともに手をたたくまでの間。


【『雷電本紀』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)】


 若き雷電は八百長を言下に拒んだ。所詮、「戦っているもの」が違った。多くの力士が政治に屈する中で、雷電は相撲に魂を吹き込んだ。一人の青年が真剣に立ち上がった時、並居る力士の姿勢が変わった。相撲は生死を懸けた真剣勝負となった。


 飯嶋が描く世界には必ず二人の主役がいる。そして二つの人生が山河を越えて交錯する様を劇的に捉える。人と人との出会い、そして人から人へと流れ通う魂を炙(あぶ)り出す。本書は長篇ではあるが、まるで短篇の連続技のようにも読める。それほどまでに圧縮された濃厚な味わいがある。


 描かれているのは相撲だけではない。農民による打ち毀しに始まり、芸妓の世界、そして終盤は一気に政治・経済へと筋運びは傾く。


 雄勁(ゆうけい)な文章が胸を打ってやまない。「心の深さ」にたじろぎを覚えるほどだ。浅間山の噴火を鎮(しず)めた神の如き力士の晩年は不遇であった。だが決して不幸ではなかったはずだ。雷電は死ぬまで雷電であった。彼が投げ飛ばしたのは「時代の闇」であった。

雷電本紀 雷電本紀 (小学館文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)


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光の速度


 まるで煩悩の数を示唆しているようだ(笑)。


 時代とともに精密になっている測定装置による正確な測定で、過去80年の間にこの種の実験がいろいろおこなわれ、動いている星から届く光の速さは静止している星からくる光の速さと同じ、時速10億8000万キロメートルだと証明されている。


【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン/林一、林大訳(草思社、2001年)】

エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する

2010-01-03

星の教団解散宣言〜「真理は途なき大地である」/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス


 神智学協会から「世界教師」と目された青年は、真の世界教師として羽ばたこうとしていた。それは神秘教団に育てられた男が、神秘を粉砕する瞬間でもあった。クリシュナムルティは星の教団の解散を宣言した――


 1929年のオーメン・キャンプは、8月2日、緊張と期待の空気の中で開かれた。そこにいるほとんどの人は、これから何が起こるかを察知していた。翌朝、ベサント夫人と3000人以上の星の教団員を前にして、また、ラジオに耳を傾ける何千というオランダ人たちに向かって、Kは星の教団の解散演説をした。


 今朝、私達は星の教団の解散について話し合おうとしています。喜ばれる方もいるでしょうし、またむしろ悲しまれる方もいるでしょう。しかしこれは、喜ぶとか悲しむとかいう問題ではありません。なぜなら、これは避けられないことだからです。私はそれをこれから説明するつもりです。

 ……〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです。それが私の見解であり、私はこの見解を絶対的に、かつ無条件に固守します。無限で、いかなる条件づけも受けず、どんな途によっても接近することのできない〈真理〉は、組織化しえないものであり、また、特定の途をたどるように人々を導いたり、強制したりするようなどんな組織体も形成されてはならないのです。もしあなたがたが最初にこのことを理解されるなら、ひとつの信念を組織化することがいかに不可能であるかがおわかりになるでしょう。信念というものは純粋に個人的なことがらであって、組織化することはできず、また、してはならないものなのです。もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。それは、他人に押しつけずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。

 これこそ、世界中の誰もがしようと試みていることなのです。〈真理〉は狭められ、おとしめられて、無力な者たち、かりそめにも不満を感じる者たちの慰みものにされています。〈真理〉を引き下ろすことはできません。むしろ、ひとりひとりがそこへ上る努力をしなければならないのです。あなたがたは、山頂を谷底へ運ぶことはできないのです。(中略)

 これは何もだいそれた行為ではありません。なぜなら、私は信奉者を欲してはいないからです。本気でそう言っているのです。誰かにつき従ったとたん、あなたがたは〈真理〉に従うことをやめてしまうのです。私は、私の言うことにあなたがたが注意を払うか否かということには関心がありません。私はこの世界であることをやりたいと思っており、一心不乱にそれをするつもりです。私は、ただひとつの、根本的なことにのみ関心があります。それは人を自由にすることです。私は人を、あらゆる獄舎、あらゆる恐怖から解き放ちたいと願っています。宗教や新たな宗派を創始したくもなければ、新たな理論や新たな哲学を確立したくもありません。(中略)

 ……私は自由であり、どんな条件にも影響を受けず、全体であり、部分的でも相対的なものでもない、永遠である〈真理〉全体なので、私を理解してくれ、自由で、私に追随することなく、私を使って宗教や宗派となる獄舎を創り出すことのないような、そのような人々を求めます。(中略)

 ……誰も外側から自由にはしてくれません。組織的な礼拝も、大義のために自身を犠牲にすることも、あなたがたを自由にすることはできません。組織の一員になっても、仕事に身を投じても、あなたがたは自由にはなれないのです。あなたがたは文字を打つためにタイプライターを使いますが、それを祭壇に置いてあがめたりはしません。しかし、組織が主要な関心事となったときにあなたがたがやっているのはそういうことなのです。「メンバーの数はどれくらいですか?」というのが、私がどの新聞記者からも訊ねられる最初の質問です。「信者は何人ですか? その数によって、あなたの言われることが真実か虚偽かを判断しましょう」。何人いるのか、私は知りません。そんなことには関心がないのです。自由になった人がひとりでもいさえすれば、それで充分です。(中略)

 私は2年間、このことをゆっくり、注意深く、忍耐強く考えつづけてきました。そして今私は、たまたま自分がその教団長なので、この「教団」を解散いたします。別の団体を創り、誰か他の人に期待することは可能です。私はそれと関係したくありませんし、新しい獄舎を創り、その獄舎を新しく飾りたてることにも関心がありません。私の関心事はただひとつ、人間を絶対的に、無条件に解放するということです。


【『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)】


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【解散宣言をするクリシュナムルティ


 34歳のクリシュナムルティは、救世主にひれ伏そうとする人々を突き放した。神に寄り掛かり、依存しようとする連中を、神が殴りつけたも同然だった。


「〈真理〉は途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくことのできないものなのです」――あまりにも有名なこの発言がその後のクリシュナムルティの運命を象徴していた。


 1929年(昭和4年)といえば、まだまだ人権意識は乏しく、日本の貧家に生まれた女性が遊郭に売り飛ばされていた時代である。曽根富美子著『親なるもの 断崖』に描かれているのがまさにその昭和初期なのだ。口減らしのために工場に送られたり、間引きされる赤ん坊もいたような時代だ。

 クリシュナムルティの進取性はどれほど評価したとしても、評価され過ぎることはない。第一次世界大戦は1918年に終わっていたが、第二次世界大戦が勃発するのは1939年のことだった。国家が国民の殺人装置として機能していた時に、静かな口調で断固として「自由」を説いた青年がいたのだ。これ自体が奇蹟であり祝福であろう。


 プロセスに目を奪われると、もっと大切なことを見失ってしまう。そしてクリシュナムルティを仰げば仰ぐほど、我々とクリシュナムルティとの関係性は断絶してしまうのだ。プロセスという幽体離脱紛(まが)いの怪奇現象よりも、「生の全体性」を観察することをクリシュナムルティは教えているのだから。


 彼は「組織化された信念」「組織化された宗教」を一貫して否定した。鉄槌を加えたといっても過言ではない。つまり、「組織の信念化」「組織の宗教化」がどれほど難しいかを示しているとも考えられる。


 高度情報化社会にあって組織化は避けて通れない。人間が社会的動物アリストテレス)である以上、3人集まればそれは組織といってよい。家族といっても組織であろう。


 例えばクリシュナムルティの思想を世界に広めようと考えれば、やはり組織をつくって啓蒙に励んだ方が手っ取り早いに決まっている。情報伝達のネットワークがあれば、効果的な宣伝活動も可能だ。


 にもかかわらず、クリシュナムルティは組織を否定した。組織どころか弟子や信奉者も認めなかった。つまり、一切の上下関係を拒絶したのだ。彼が終生にわたって追求し続けたのは「自由」であった。だから、人間を隷属させるありとあらゆる関係性を拒んだのだ。


 ここまで考えて初めて、「〈真理〉は途なき大地である」という言葉の重みが理解できるのだ。我々は誰かの後に続くことを願う。いつだって先導者を求めている。信仰者は偉大なグル(導師)を求め、サラリーマンは優秀な上司を望んでいる。そして国民は世を一新する政治家の登場を待ち望んでやまない。


 クリシュナムルティはヒーローとなることを拒絶し、ヒーローを望むべきではないと宣言したのだ。結局、道は自分でつくるしかない。我々は独りで歩んでゆくしかないのだ。ただ、私が進む道は決して暗くはない。クリシュナムルティが照らしてくれているからだ。

クリシュナムルティ・目覚めの時代 クリシュナムルティの生と死


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【1930年の映像】

狐信仰


「古墳には稲荷の眷属(けんぞく)のが棲(す)んでいたからよ。には古墳だの墓地の穴だのに潜りこんで暮らす習性がある。その穴から出たり入ったりするは、古墳や墓に鎮(しず)まる死霊(しりょう)や祖霊(それい)の化身(けしん)と考えられていたんだ」


【『真言立川流 謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝』藤巻一保〈ふじまき・かずほ〉(学研、1999年)】

真言立川流―謎の邪教と鬼神ダキニ崇拝 (Esoterica selection)

メアリー・ルティエンス


 1冊読了。


 3冊目『クリシュナムルティ・実践の時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)/伝記三部作の第二作で、星の教団解散前後から1980年までが描かれている。やはり、プロセスにまつわる記述が目立つ。率直に書かれているのだろうが、スピリチュアル組に担ぎ上げられることを私は懸念する。盟友であったラージャゴパルが財団の権力を手中にし、遂にクリシュナムルティと決裂する。それでも尚、クリシュナムルティの精神は自由であった。これが映画化できると凄いだろうね。ファンタジックなSF作品になること必至(笑)。

2010-01-02


 この世から「私」という言葉を消し去ることができれば、世界はかなり平和になるだろう。「あなた」「彼」「彼女」も奪ってしまえば、世界は完全な平和を手中するに違いない。

カーリン・アルヴテーゲン


 1965年スウェーデン生まれ。作家、テレビの脚本家。98年、『罪』でデビュー。2000年『喪失』で北欧5ヶ国の推理小説家が対象の名誉あるベスト北欧推理小説賞を受賞した。


影 (小学館文庫) 恥辱 (小学館文庫)


裏切り (小学館文庫) 喪失 (小学館文庫) 罪 (小学館文庫)

カーリン・アルヴテーゲン


 1冊読了。


 2冊目『』カーリン・アルヴテーゲン/柳沢由美子訳(小学館文庫、2005年)/アルヴテーゲンのデビュー作だ。彼女は二人目の子供を身ごもっている時に実兄を亡くしたという。生まれ来る新たな命と失ってしまった命の板挟みに遭遇し、アルヴテーゲンは精神状態に変調を来した。苦悩を打ち破るために彼女はペンを執った。そしてこの作品が完成した。主人公のペーターも著者同様、パニック発作に悩まされている。これは蘇生の物語だ。そして、アルヴテーゲンは書くたびに新たな精神の扉を開くことだろう。軽々しくミステリという枠にはめ込むことが不可能な作家だ。

思想とは壁の中にセメントで塗り込められた煉瓦である


 ある思想の基礎的な土台は他者の思想なのであって、思想とは壁の中にセメントで塗り込められた煉瓦なのである。もし思索をめぐらす存在が自己自身を振り返ってみるときに、一つの自由な煉瓦を見るだけで、この自由という外見を手にするためにその煉瓦がどれほど高い代価を支払っているかを見ないとすれば、それは思想にはよく似てはいるがその模像にしか過ぎないのである。なぜなら彼は手を加えられぬまま放置されている空地とか、残骸や破片の山積みを見ようとしないのだから。しかし実は彼は、臆病な虚栄心のせいで、その自分の煉瓦を後生大事に手にしたまま、そのような空地や残骸の山に遺棄されているのである。


【『宗教の理論』ジョルジュ・バタイユ湯浅博雄訳(人文書院、1985年/ちくま学芸文庫、2002年)】

宗教の理論 (ちくま学芸文庫)

2010-01-01

飯嶋和一、泉谷閑示


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折1『「普通がいい」という病』泉谷閑示〈いずみや・かんじ〉(講談社現代新書、2006年)/著者はきっと頭のいい人なんだろう。それが裏目に出てしまっている。わかりやすい文章、有用かつ適切な引用文献の数々、そして明るい表情の近影……。その全てがあざとく感じられた。「病気や苦しみとは、天からのギフトのようなもので、その中にとても大切なメッセージが入っている。だが、それは〈不幸印(じるし)〉のラッピングペーパーに包まれているので、たいては嫌がって受け取られない。しかし、それは受け取らない限り何度でも再配達されてきてしまう。思い切って受け取ってその忌々(いまいま)しい包みをほどいてみると、そこには、自分が自分らしく生きていくための大切なメッセージが見つかる」(35-36ページ)――胸の悪くなるような文章だ。悪人だとは思わないが、私と趣味や嗜好が異なる人物に違いない。しかも、そこに計算が見て取れる。ブルブルッと震えて本を閉じた。


 1冊目『雷電本紀飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1994年/河出文庫、1996年/小学館文庫、2005年)/今月の課題図書。長篇ではあるが、短篇の連続技として読むべきだろう。巻半ばで私は数ページごとに涙を落とした。一度読んでいるにもかかわらずだ。相撲人(すもうにん)・雷電為右衛門(らいでん・ためえもん)は紛(まが)うことなき神であった。文句なしの傑作。本書を読まずして読書通を騙(かた)ることなかれ。

『夢やぶれて』スーザン・ボイル


夢やぶれて


 教会のボランティアを務める48歳。2009年4月11日、ポール・ポッツを輩出したことで一躍有名になったイギリスの人気オーディション番組 「ブリテンズ・ゴット・タレント」予選に出場。ミュージカル「レ・ミゼラブル」の挿入歌「夢やぶれて(I Dreamed A Dream)」を歌い、その澄んだ歌声、歌唱力で会場を圧倒。番組終了後に動画配信サイトYoutubeにアップされたその映像の総アクセス数は、なんと2億5000万にも到達。一夜にして名声を手にいれた、2009年最も注目を浴びるシンデレラ・ガールとなった。


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クリシュナムルティの人間宣言/『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス


クリシュナムルティをニューエイジに貶めるべきではない


 クリシュナムルティの伝記三部作の第一作。翻訳は二作目の『クリシュナムルティ・革命の時代』(高橋重敏訳/めるくまーる、1988年)が先だったようだ。本書は「星の教団編」ともいうべき内容で神秘主義的色彩が濃厚だ。


 星の教団は、神智学協会が「世界教師」であるクリシュナムルティのために用意した教団であった。神智学協会は、ま、そうだな、「お告げ宗教」だ。青森のイタコ、沖縄のユタ卑弥呼エクソシストといった類いのシャーマニズムと変わらない。小学生の時分、コックリさんが流行(はや)ったが、身体が大きかった私は力任せに10円玉を動かしたものだ。


 いつの時代も神秘に憧れを抱く人々が存在する。彼等は幸福の青い鳥を探しているのだろう。では私が現実逃避のカラクリをご説明しよう。


 人間は心が大切だ→心は目に見えない→大事なものは見えない→見えないものが見える場合がある→人間は単なる物質ではない→つまり霊的存在なのだ→心が純粋であれば霊的交信は可能になる


 以上、七手詰めだ。ここに見られるのは、「死ねば終わり」という事実(多分)を拒み、回避しようとする企てである。ムダな抵抗だよ。アンタも私も結局は死ぬんだから。


 私は霊的な存在を一切認めない。もし存在するのであれば、どうして昆虫の霊がいないのか? エ、おかしいだろ? 夏の盛りにあれだけ鳴いていたセミどもは、どうして化けて出てこないんだ? 魚や野菜の幽霊も聞いたことがない。それとも何かい、幽霊ってえのあ、人間や猫に限ったもんなのかい?


 本当のことを書いておくと、個人的には霊にいて欲しいと思っている。何の罪もないのに殺されていった多くの人々が悪党を祟(たた)ってくれたら、世の中は格段によくなることだろう。


 悪しきスピリチュアルに陥る人々には共通点がある。それは、「不思議」と「神秘」を混同していることだ。正真正銘の不思議ってのは、もっと身近にあるものだ。私が幼い頃から今日に至るまで最も不思議だと思うのは「目が見える」ことだ。こんな不思議はないだろう。しかも、目をつぶっていても夢という映像を見ることができるのだ。第2位は、ウンコが出ること。そこ、笑わないよーに。正確に言い直そう。ウンコが出るのはさほど不思議ではないのだが、なぜ、ケツからウンコを入れて口から牛丼を出すことが出来ないのだろう? エネルギーの摂取は一方向に定まっている。私の飲食がどれほど環境に負荷を与えていることか。


 このように考えると、幽霊なんか不思議の内に入らないよ。冬に花開くロウバイが放つ香りの方がはるかに不思議だ。


 ついでに言っておくと、私はニューエイジなるものも好きじゃない。新しくなった三善英史(みよし・えいじ)を連想してしまう。こんなものは一種のオリエンタルブームの延長線上にある文化みたいな代物だろう。ラブ&ピース。私の父はショートピースを嗜(たしな)んでいた。


 この本は読み物としては三流以下だ。しかし、クリシュナムルティの覚醒の意味合いを理解するには欠かすことのできない変化を記録している。ブッダが菩提樹の下で目覚めた瞬間を思わずにはいられなかった。


 ざっと倍速でクリシュナムルティの成長を振り返ってみよう。彼は1895年5月11日にインドで誕生した。少年時代はいつもボーッとしており、勉強もできなかった。このため、廊下に立たされたり、鞭を振るわれた。クリシュナムルティ少年は泣き虫だった。そして彼には妖精が見えた。亡くなった母親を見ることもできた。神智学協会に見出されたクリシュナムルティはイギリスで英才教育を受けたものの、大学受験に失敗した。というよりも、大学側が救世主の入学を拒んだ。霊的能力は神仏との交信をも可能にした。やがて身体的苦痛を伴う「プロセス」が訪れ、クリシュナムルティはブッダと交信する。この件(くだり)は冷静に読むと、明らかに「空観」を悟った様子が理解できる。


 クリシュナムルティは変容を遂げた。彼は神から人間になった。現れたのは、人間の生を誰よりも知る人間であった。生は豊かで限りがなかった。海の水を飲み干すように、クリシュナムルティは生を味わい、堪能した。


 星の教団を解散する時が刻々と迫りつつあった――


 キャンプ中の集会のひとつで、彼はこう述べた。「あなたがたがもはや自分自身をどんなものにも従属させてはならない時が訪れました。……あなたがたが誰の言うことも傾聴せず、自分自身の直観、自分自身の理解にだけ耳を傾け、そしてあなたがたの解釈者になろうとする人々を公然と拒否するようになって欲しいと思います」。解釈者というのは、もちろん神智学協会の指導者たちのことである。彼は聴衆に、彼らが土台から揺さぶられることになる、と警告したのだ。


【『クリシュナムルティ・目覚めの時代』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1988年)以下同】


 信徒達を襲ったのは「否定の衝撃」であった。新しい思想は必ず「時代への反逆」という構図を描く。ブッダも日蓮も同様であった。それまでの常識を覆(くつがえ)そうとする時、恐るべき反発に遭遇する。これを避けることはできない。そして、ここにのみ思想の試金石が存在するのだ。クリシュナムルティは「内なる声に耳を傾けよ」と宣言した。つまり、教祖自らが教祖を否定したことになる。この時34歳。やむにやまれぬ大感情が、恐怖を斥(しりぞ)けた瞬間であった。


 以下は、この講話で信者から発せられた質疑に答えた内容の抄録である――


 もう一度、私は信徒をもたないと言いましょう。もし〈真理〉を理解して、特定の個人に従わないとするなら、あなたがたは皆〈真理〉の信徒なのです。……〈真理〉を獲得する唯一の方法は、媒介者なしに、〈真理〉そのものの信徒となることです。……〈真理〉は希望を与えません。それは理解を与えるのです。……誰かの個性を崇拝しても理解は得られません。……私は、精神的成長にはどんな儀式も不必要であるとの意見を今も保持しています。……もしあなたがたが〈真理〉を求めるのなら、あなたがたは外に出て、人間の思考と心の限界から遠く離れたところで発見しなくてはならないのです――そしてその〈真理〉は、あなたがたご自身の内にあるのです。指導者であり、マスターであり、神である〈生〉そのものを目標にする方が、媒介者や導師をもって結局は間違いなく〈真理〉を格下げし、裏切ることになるよりも、ずっと簡明だとは思いませんか? ……解放は理解する人によって進化のどの段階ででも達成されうるのであって、あなたがたがしているように各段階を尊重するのは本質的なことではない、と私は言います。……後になってから、私の言葉を権威として引用しないでください。あなたがたの松葉杖になりたくはありません。あなたがたの礼拝のために、檻の中へ入れられるつもりはありません。山の新鮮な空気をもってきて小さな部屋に入れると、その空気の新鮮さは消え、よどみとなってしまいます。……私は自由なので、私はこの〈真理〉を見出したので――それは無限で、初めも終わりもないものです――あなたがたに条件づけられたくはありません。……私は一度も、神がいないとは言いませんでした。私は、あなたの中に現われる神のみがあると言ったのです……が、私は〈神〉(ゴッド)という言葉を用いるつもりはありません。……私はそれを〈生〉と呼ぶ方を選びます。……もちろん、善も悪もありません。善とはあなたがたが恐れないもののことであり、悪というのはあなたがたが恐れるもののことです。ですから、もしあなたがたが恐怖を破壊すれば、あなたがたは精神的に成就されるのです。……あなたがたが生を愛し、その愛をあらゆるものの前に据え、あなたがたの恐怖によってではなく、その愛によって判断すれば、あなたがたが道徳と呼ぶこのよどみは消え失せるでしょう。……私は、集団や宗教や教義(ドグマ)ではなく、生に関心があります。私が〈生〉なのですから。……友人たちよ、私が誰であるかということを気にかけないでください。あなたがたにはけっしてわからないでしょう。……もし私が、私はキリストであると言えば、あなたがたは別の権威を創り出すことになります。もし私がそうではないと言っても、あなたがたはやはり別の権威を創り出すのです。あなたがたが私を誰であるかと考えることに、〈真理〉がかかわっているとお思いですか? あなたがたは〈真理〉に関心をもってはおらず、〈真理〉が入っている器に関心があるのです。あなたがたはその水を飲みたがってはおらず、水の入っている器を誰がつくったかを知りたがっているのです。……もしその水が澄んでいるなら、それを飲みなさい。私はあなたがたに、私はその澄んだ水をもっていると言います。清め、大いに癒すあの香油を、私はもっているのです。それなのにあなたがたは私に訊ねます。あなたは誰なのか、と。私は〈生〉であり、それゆえあらゆるものなのです。


 世界大恐慌があった1929年のことである。昭和4年だ。国連が世界人権宣言を採択するのは20年後のことである。そんな時代にあって、34歳の青年がこれほどの高みに登りつめていたのだ。クリシュナムルティは時代の束縛からも完全に解き放たれている。普遍性は、人間を深い次元で見つめるところから生まれる。彼は厚い大地を突き破って、灼熱のマグマをすくい取ったのだろう。生の歓喜に打ち震えた時、新しい言葉が誕生するのだ。


 クリシュナムルティは教団を否定しただけではなかった。一切の集団・組織をも否定したのだ。彼が否定したのは、集団が人間を隷属させてきた人類の歴史であり、隷属を好む人類の業(ごう)であった。


 訳者の「解説」によると、クリシュナムルティは病気を治癒する力を持っていたようだ。だが彼はこうした力について「奇蹟は魅力的な子供の演技です」と答えている。そして、「心を全体化」し、「心を治すこと」の方がはるかに大切なことだ、と。(『クリシュナムルティ・革命の時代』)


「人間の生」――これに優る不思議はないことを彼は人類に教え残した。


 メアリー・ルティエンスは三部作を執筆した後に、総集編として『クリシュナムルティの生と死』(大野純一訳/コスモス・ライブラリー、2007年)を著している。

クリシュナムルティ・目覚めの時代 クリシュナムルティの生と死


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出版取次


 日本の取次会社数は100社あまりと推定されているが、業界団体である日本出版取次協会の加盟会社数は2004年現在33社である。 このうち2社でシェアの70%以上を占めるといわれるトーハンと日販が二大取次と呼ばれる。また、神田に中小取次が集中しているが、これを通称神田村という。


Wikipedia

賢者は恐れず

 賢者は恐る恐る歩くことも、用心深く歩くことも必要としない。なぜなら、賢者の自己に対する信頼は大きいので、運命に逆らって進むことを躊躇(ちゅうちょ)することもないし、いついかなる場合にも運命に屈服することはないからである。賢者はまた、運命を恐れる理由ももっていない。なぜというに、賢者は自分の奴隷や財産や地位のみならず、自分の体や眼や手や、およそ人間に生活を愛着させるものはなんでも、いや、自分自身をも、すべては許されて仮に与えられたもののうちに数えているからであり、自分は自分に貸し与えられたものであり、返してくれと求められれば、嘆き悲しむことなくお返しする、というように生活しているからである。


【『人生の短さについて』セネカ/茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)】

人生の短さについて 他二篇 (ワイド版 岩波文庫) 生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

(※左が茂手木元蔵訳、右が大西英文訳)

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