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2010-01-31

メールマガジン


 本日、「片言自在」の第100号を発行した。33部と部数は少ないが、何とか続けてゆきたい。

覚者は一法を悟る/『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ


 収められているのは1927〜1930年に行われたインタビューと講話である。星の教会を解散したのが1929年だから、神秘宗教の匂いが強い。読むのであれば、後回しにするべきだ。つまらぬ先入観を持ってしまえば、クリシュナムルティをスピリチュアル系の枠組みでしか捉えられなくなる可能性があるからだ。現に訳者の大野純一がそんな方向に進んでしまっている。


 クリシュナムルティを襲ったプロセス体験は、確かに奇妙な出来事だ。不思議といえばこれに勝る不思議もない。だが、クリシュナムルティは万人がプロセスを経験せよとは言っていないのだ。彼の思想をつかめないあまりに、プロセス体験を持ち出して特別視することは、クリシュナムルティからかえって遠ざかることになるだろう。


 尚、3分の1ほどが『生と覚醒のコメンタリー』からの箴言集となっている。クリシュナムルティの古い言葉と新しい言葉を対比することを大野は意図したようだが、杜撰な構成の言いわけにしか聞こえない。


 30代のクリシュナムルティは、自分が覚知した世界を伝える言葉を持っていたとは決して言い難い。しかしながら、口を突いて出る言葉の奔流を抑えることができない。明らかに思想の原型を見て取れるのだが、星の教団の信者に理解されているとは思えない。超然とした彼の姿は、孤独な情熱と静かな怒りに包まれていた。


「覚り」とは言葉で伝えることのできない世界なのだ。ここに覚者の苦悩があった。言葉で説明されたものは知識となってしまい、思考の範疇(はんちゅう)に収まる。「覚り」とは、他人から教えてもらうべき性質のものではなく、自分で経験する世界なのだ。


 クリシュナムルティはインタビューに答える。「覚者は一法を悟る」と――


 世界のすべての〈教師〉は、生の成就であるあの〈生〉に到達したのだと私は思います。ゆえに、すべての生の極致であるその〈生〉に入る者は誰であれ、【その事実によって】、仏陀、キリスト、ロード・マイトレーヤになるのです。なぜなら、そこにはもはや区別がないからです。ですから、それはそうした存在者たち以上だと私が言う時、それは、普通の個人の観点から見て「それ以上」なのです。(1928年、ロンドンでのインタビュー)


【『白い炎 クリシュナムルティ初期トーク集』J.クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2003年)】


 ロード・マイトレーヤとは弥勒菩薩(みろくぼさつ)の生まれ変わりのこと。これは、クリシュナムルティによる「仏の宣言」と考えていいだろう。


 では彼等が覚ったものは何であったのか? それは「生の全体性」である。クリシュナムルティがプロセスで知覚したのは、無限にして広大な生の領域であった。我(が)という鎧(よろい)を打破した瞬間、諸法は無我となり、あらゆるものが渾然一体となった縁起の世界が立ち現われる。


 クリシュナムルティが「過去に対して死ななくてはならない」と説く意味もここにある。我々の人生というのは、橋の上から下流を眺めているような代物である。流れ去った過去に囚(とら)われ、脈々と流れ通う生を実感することができないのだ。「私」を形成しているのは過去の記憶である。未来に希望を持ったとしても、それは過去の反転に過ぎない。


 そして自我はまた、他人との差異によってしか支えることができない。「私」が「私だ」と言う時、それは「他の誰か」であってはならないのだ。だから人は常に「かけがえのなさ」を欲する。だからこそ自分が軽く扱われると自我が傷つくのだ。自我は拡大化の一途を目指してやむことがない。自我の葛藤こそ暴力の原因である。仏教で説かれる「世間」には差別の義がある。僧のことを出世間(しゅっせけん)と名づけるのは、差別の世界から離れる意味が込められているのだろう。


 クリシュナムルティが説いた瞑想は、心の内なる領域をただ観察することであった。天台は止観(しかん)と説き、日蓮は勧心(かんじん)と顕した。この三者が同じ世界を覚ったとすれば、それはまさしく諸法実相ということになる。時間は諸行無常を奏で、空間は諸法無我と広がり、存在と現象は諸法実相と開かれる。


 花はいつか枯れる(諸行無常)。花は香る(諸法無我)。そして花は在るのだ(諸法実相)。


白い炎―クリシュナムルティ初期トーク集

「帰らざる日のために」いずみたくシンガーズ


 中村雅俊主演『われら青春!』のテーマソング。「俺たちの朝」にも書いた通り、当時の歌の特徴は女性コーラスにあった。極めつけがこの曲で、女性コーラスがリードを担っている。スタッカート気味のコーラスが軽快な切れ味となっており、今聴いても古めかしさを感じさせない。昭和50年前後は、まだ青春そのものに価値がある時代だった。「青春」とは中国古代の五行説によるもので、春を表す色が青とされている。その他は、朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)と名づける。


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青春ドラマシリーズ・ソングブック 俺たちの旅

元祖どっきりカメラ 暴力学園 ガッツ石松(35)


「元祖どっきりカメラ」という醜悪な番組があった。それからというもの、騙(だま)される人を観て視聴者が笑うという文化が形成されてしまった。これは、ガッツ石松が35歳の時に撮影されたもののようだ。一人では何もできない若者達が、集団となるや否や暴力性を発揮する。暴徒の群れを押しとどめるのは、それを上回る暴力性か、あるいは慈悲しかない。ガッツ石松が立派だと思ったのは、拳で殴らなかったことだ。ビンタを張ったのは、やはり彼が正真正銘のボクサーである証拠といえよう。その後バブル景気を経て、テレビは「やらせ」や「インチキ」を平然と行うようになる。大掛かりな仕掛けの詐欺といってよかろう。


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納税は国民の義務?


 日本の憲法には「納税は国民の義務」という条文がありまして、例によってお上に従うのが大好きな日本人は、これをありがたく遵守しています。一方、アメリカ合衆国憲法には「議会は税を課し徴収することができる」としかありません。

 欧米諸国において憲法とは、国民の権利と国家の義務を規定したものなのです。日本はまるっきり逆。国民に納税しろと命じるずうずうしい憲法は世界的に見てもまれな例です。

 スペインの憲法には「納税の義務」が記されていますが、税は平等であるべしとか、財産を没収するようなものであってはならぬなど、国家に対する義務も併記されています。日本では納税しないと憲法違反となじられますが、役人が税金を湯水のごとくムダ遣いしても憲法違反にはならず、はなはだ不公平です。

 一方的に国民に納税を要求する取り立て屋のような憲法があるのは、日本・韓国・中国くらいものですから、こんな恥ずかしい憲法はもう、即刻改正しなければいけません。


【『反社会学講座パオロ・マッツァリーノイースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)】

反社会学講座反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

(※左が単行本、右が文庫本)