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2010-02-28

宮元啓一、後藤正治、クリシュナムーティ


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折15『インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』』宮元啓一(春秋社、2008年)/「クリシュナムルティは決して新しいことを語っているわけではなく、サーンキヤのパクリに過ぎない」といった趣旨のことを和尚ことバグワン・シュリ・ラジニーシが書いているそうだ(『瞑想 祝祭の芸術』めるくまーる、1981年)。で、確認しようと思ったのだが、ダメだった。どうにもこうにも退屈だ。昔話としか思えない。わかっている。私に堪え性がないだけの話だ。


 31冊目『遠いリング』後藤正治〈ごとう・まさはる〉(講談社、1989年/岩波現代文庫、2002年)/渋好みのノンフィクション。グリーンツダジムのボクサーの群像を描いている。私が名を知っていたのは井岡弘樹と伝説の名トレーナー、エディ・タウンゼントの二人のみ。後は殆ど無名のボクサーだ。後藤が描いているのはボクシングジムに手繰り寄せられ、去って行った青春の数々である。まるでパンチとパンチが交差するように勝者と敗者が行き交い、ある者は光を浴び、ある者は故郷に帰ってゆく。遊びたい盛りの10代の少年達が、なぜストイックな世界に魅了されるのか? 激しい練習を経て、苛酷な減量に耐え、生活の不如意を忍びながらも彼等は拳を突き上げる。その手に握られたものと、拳の向こうにあるものがほんの少しだけ垣間見える。


 32冊目『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ/十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳(霞ケ関書房、1970年)/クリシュナムルティ23冊目の読了。訳文が硬い。目立っておかしなところはないのだが、クリシュナムルティの人柄が全く浮かんでこない。まるで教科書みたいな文体だ。時々既に読んだことのあるような箇所が出てくるのだが、文体が異なっていることもあって思い出せなかった。それはそれで新鮮だ。後半になるほど凄まじい深みをまさぐっている。『既知からの自由』大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年)の旧訳。

第一回 朝までダダ漏れ討論会


 試みとしては面白いのだが、制作側に緊張感がないため、視聴にはかなりの忍耐力を要する。また意見を戦わせる場面が殆ど見られず、結果的にメインカルチャーを批判するサブカルチャー的次元に終わってしまっているように感じた。全体的には出演者の殆どが「相手に届く声」を発しておらず、まるで独り言みたいな話し方をしているのも気になった。さながらツイッターの如し。

神は神経経路から現れる/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 キリスト教の啓示に代表される劇的な宗教体験は、非現実的というよりも超現実的な神秘性を帯びている。当人は雷に打たれたかの如く激しいショックを受けるのだが、果たしてそれがどこで起こっているのか? 第三者が確認できない以上、科学的検証は無理──これだと議論が進まない。本書では信仰者の主観世界が脳内で展開していることを解き明かしている。


アップルパイのリアリティー、神のリアリティー


 まずは、想像してみてほしい。あなたは今、大好物のアップルパイを食べている。あなたの複数の感覚器官に入ったアップルパイの情報は、神経インパルスに変換され、それぞれが脳の特定の領域で処理されて知覚が成立する。視覚中枢は金色がかった茶色をしたパイの像を、嗅覚中枢は食欲をそそるリンゴとシナモンの香りを、触覚中枢はパイの表面のサクサクした歯ごたえと中身のトロリとした舌触りとの複雑なハーモニーを、味覚領域は甘くて濃厚な味をそれぞれ知覚し、これらが統合されたときに、「アップルパイを食べる」というあなたの経験が生じてくる。

 ここで、あなたの脳で起きている神経活動を、SPECTスキャンで測定してみよう。コンピュータ・スクリーン上に表示された明るい色の斑点は、パイを食べるという経験が、文字通りあなたの「心の中にある」ことを示唆している。けれども、だからといって、パイが現実には存在しないとか、パイのおいしさがリアルではないという意味にはならないことは、皆さんもすぐに同意してくださるだろう。同じように、瞑想中の仏教徒や祈りをささげる尼僧たちの宗教的な神秘体験が、観察可能な神経活動と関連づけられることが分かったからといって、その体験がリアルでないことの証拠にはならないのだ。神はたしかに、概念としてもリアリティーとしても、脳の情報処理能力と心の認知能力を通じて経験され、心の中以外の場所に存在することはできない。けれども、アップルパイを食べるような日常的、形而下的な体験についても、それは同じなのだ。

 逆に、皿の上のアップルパイのように、神が実在し、あなたの前に顕現した場合にも、あなたは、「神経活動が作り出したリアリティーの解釈」以外のかたちで神を経験することはできない。神の顔を見るためには視覚情報処理が必要だし、恍惚状態になったり、畏怖の念に満たされたりするためには情動中枢のはたらきが必要だ。神の声を聞くためには聴覚情報処理が必要だし、メッセージを理解するためには認知情報処理が必要だ。神からのメッセージが、言葉ではなく、何らかの神秘的な方法で伝わってきたとしても、その内容を理解するためにはやはり認知情報処理が必要だ。ゆえに、神経学の立場からは、「神があなたを訪れるとき、その通り道は、あなたの神経経路以外にはあり得ない」と断言できる。


【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】


 アップルパイよりは幻肢痛(げんしつう)の方がわかりやすいだろう。手足を切断した患者が「既にない部分」の痛みを訴える症状だ(V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』が詳しい)。


 我々は普段は意識していないが、五官から入力された情報を知覚しているのは脳である。例えば私があな足の裏をくすぐったとしよう。この場合、足の裏が感じているわけではなく、神経経路を介してきた情報を脳が感じているのである。


 一つテストをしてみよう。今まで食べた梅干しの中で最もしょっぱかったものを思い出してみてほしい。そう。300年経っても腐らないほど塩まみれになったやつだ。どうですか? 口の中に唾(つば)が溜まってきたでしょう(笑)。これ自体、現実にあなたの脳が「しょっぱい」と感じた証拠である。


 更に決定的な証拠を挙げよう。我々は眠っている間に夢を見る。目をつぶっているにもかかわらず。世界の七不思議よりも不思議な話だ。つまり、目で見ていると思いきや実は脳の視覚野が知覚しているのだ。極端な話、生まれつき目が不自由であったとしても、聴覚や触覚で視覚野を働かせることができれば、その人は「見えている」といっていい。


 脳内には松果体(しょうかたい)という内分泌器官があるが、これは「第三の眼」と考えられている。ヒンドゥー教の神シヴァ神には第三の眼が額に描かれている。


 また連合型視覚失認という症状があると、視覚は正常に機能しているが意味を読み取ることができなくなる。生まれつき目の不自由な人が、手術などによって見えるようになると同様の症状が起こることがわかっている。このため手で触って確認した上で見直す作業を繰り返す。


 もう一つ付け加えておくと、あなたが見ている赤と私が見ている赤は多分微妙に異なっている。


 つまり、「見る」という行為は網膜に映った光の点に意味を付与し、物語化することで成り立っているわけだ。


 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。


【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線池谷裕二朝日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】


 当然、目が不自由であれば音の世界や匂いの世界がある。つまり、我々の知覚が世界を形成しているのである。で、繰り返しになるが知覚を司っているのは脳だ。ということは、世界は脳だと言い換えることができる。


 眠っている間にあなたの脳味噌をそっくり取り出したと仮定する。脳は生きたまま培養液に浸(ひた)され、無数の電極を付けてコンピュータから様々な情報を入力できるようにしておく。起床時間になり、あなたは目覚め周囲を見渡す。いつもと変わらぬ自分の寝室だ。だが実はコンピュータによって視覚野に刺激を加えているだけだった。「そんなことはあり得ない」と思った人はいささか考えが浅い。これは「水槽の脳」という奥深いテーマなのだ。映画『マトリックス』のモチーフにもなっている。


 話を本に戻そう。神を見る人がいる一方で、幽霊を見る人もいる。後者の方が多そうですな(笑)。はたまたせん妄や幻覚という症状もある。いずれにせよ、「見えている」のだから脳が知覚していることは事実であろう。

 では何が違うのか? それは「見えた後の行動」であろう。啓示を受けた人は崇高になり、幽霊を見た人は臆病になる。そんな単純な結果論でいいのか? 別に構いやしないさ。要は「世界が変わった」という事実が重要なのだ。


 我々は「高さ」に憧れる。アメリカの大統領選挙の殆どは背の高い候補が勝利を収めている。また、高い山を登ると高山病になるため、古(いにしえ)の人々は「神が住んでいて人間を近寄らせない」ものと考えていた。西洋文明は高さを支配する競争でもあった。飛行船、飛行機、ロケットと天にまします神に近づいた国家が世界を支配してきた。不況下にあっても尚、高層マンションが飛ぶように売れているのも同じ理由からだろう。我々は見下ろす──あるいは見下す──ことが好きなのだ。きっと本能が空なる世界を求めてやまないのだろう。


 中には守護霊やオーラが見える人もいる。あれはどうなんだろう? チト眉唾物だね。


 まとまらなくなってきたので結論を述べる。「脳は知覚からの刺激によってシステムが変わる」ことがある、という話だ。「見ることで変わる」と言ってもよい。天に瞬く星々や美しい夕焼けを見た瞬間、言葉にならない何かが胸の中を去来することがある。好意を寄せていれば、あばたもエクボに見えるのだ。


 そのように考えると、「何をどう見るか」でその人の世界は決まるといえよう。人は闇の中で光を見出すことも可能なのだ。

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス

形容詞


 彼は、格好の形容詞を捜しては、きれいに舐めて、貼りつける。


【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ/青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】

蝿の苦しみ 断想

2010-02-27

東証、上海に抜かれる=売買代金で「アジア首位」陥落


 東京証券取引所の株式売買代金が昨年、中国の上海証券取引所に抜かれ、アジア1位の座を明け渡したことが13日までに分かった。売買代金は、取引がいかに活発に行われているかを示す指標で、中国経済の急成長に伴う株式投資熱の高まりが改めて裏付けられた。

 国際取引所連合(WFE)の調査で明らかになったもので、東証は前年比28.6%減ながら世界全体では4位にとどまる一方、上海証取は95.7%増で昨年の7位から3位に急浮上。外国人投資家の資金が、成長性で見劣りする日本から中国など新興国に向かったことが一因とみられる。

 首位は米ナスダック市場、2位はニューヨーク証券取引所。ただ、いずれも2けた減となり、米国で急成長する新興の取引所にシェアを奪われたもようだ。 


【時事通信 2010-01-14】

追悼、ミッキー安川


 ミッキー安川が先月亡くなった。押しの強さは、留学先のアメリカで喧嘩に明け暮れた青春時代に培われたのだろう。サラ金業者の社長にインタビューする姿が見物(みもの)である。(※やらせだったようだ→Wikipedia


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ふうらい坊留学記―50年代アメリカ、破天荒な青春 (中公文庫)

責任感の消失/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 組織や他人に服従することは、自分を差し出し、委(ゆだ)ねる行為に他ならず、自分の輪郭が曖昧に溶けてしまう。権威−服従という構造は「役割を与える−役割を与えられる」関係性になっている。つまり、服従とは機能なのである。指示、命令に従い、与えられた目標に向かって突き進むことが求められる。


 ありとあらゆる団体や組織が服従を強いる。国家とて例外ではない。何も考えることなく法律を順守し、文句一つ言わずに税金を収める人々は国家に服従しているのだ。


 そして、組織はマフィアのように忠誠心を求める。組織内を支配しているのは掟(おきて)や不文律や社内文化だ。暗黙の了解。付和雷同。沈黙の掟。裏切り者には死を。


 忠誠を誓う人々は組織の手足となる。そこに自分はない。だから当然の如く「内なる良心の声」は黙殺される。


 服従的な被験者でいちばん多い調整は、自分が自分の行動に責任がないと考えることだ。あらゆる主導権を、正当な権威である実験者に委ねることで、自分は責任から逃れられる。自分自身を、道徳的に責任のある形で動いている人物としてではなく、外部の権威の代理人として動いている存在として見るようになる。実験後のインタビューで、なぜ電撃を続けたかと尋ねられた被験者の典型的な答えは「自発的にはそんなことはしなかっただろう。単に言われた通りにやっただけだ」というものだった。実験者の権威にあらがえなかったかれらは、すべての責任を実験者に負わせる。ニュルンベルク裁判の弁護発言として何度も何度もきかれた「自分の義務を果たしていただけ」という昔ながらの話だ。だがこれは、その場しのぎの薄っぺらい言い逃れだと思ってはいけない。むしろこれは、権威構造の中で従属的な立場に固定された大多数にとって、根本的な思考様式なのだ。責任感の消失は、権威への従属にともなう最も重要な帰結である。


【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム山形浩生訳(河出書房新社、2008年/同社岸田秀訳、1975年)】


「責任感の消失」というよりは、むしろ「責任感の変質」といった方が適切だろう。責任は外側=対社会ではなく、組織の内側に向かって働く。大体、「手足」となっているわけだから責任など感じるわけがないのだ。しかも収入が絡んでいる。国の法律は守っても1円の稼ぎにもならない。だが、上司の命令はボーナスに結びつく可能性がある。それがたとえ違法性の高い命令であったとしてもだ。法令遵守(じゅんしゅ)よりも命令遵守。


 服従関係にあって責任とは、役割を果たすことを意味する。妻は夫に従い、社員は会社に従い、生徒は教師に従う。子分は親分に従い、国民は国家に従い、兵士は上官に従う。殺せと言われれば銃弾を撃ちつくすまで引き金に指をかけ、犯せと言われればレイプに手を染め、火を放てと言われれば生きている人が何人いようと焼き討ちをするのだ。


 こんな世界で服従を拒否することは可能だろうか? 服従の拒否は閉ざされた組織あるいはコミュニティを拒否することでもある。とすると、コミュニティから受けてきた恩恵をも拒否することになる。こうした損得勘定を天秤(てんびん)にかけながら、人は服従したりしなかったりしているのだろう。寄らば大樹の陰、長い物には巻かれろ。


 官僚や大企業がおしなべて信じ難い無責任を発揮しているのは、服従がシステマティックになっているためと考えられる。個人の責任などあろうはずがない。なぜなら彼等は無謬(むびゅう)なのだから。「つまづいたって、いいじゃないか 人間だもの」という相田みつをの論理は通用しない。つまり、あいつらは人間ではないのだ。神か人間の仮面をかぶった畜生なのだろう。万が一つまづいたとしても奴等は「蹴飛ばした」と言い張るのだ。


 人間の欲望は突き詰めると、「服従させたい」「服従したい」という地点に行き着く。我々にはどちらの欲望も確かに存在する。サラリーマンであれば誰もが「素晴らしい上司に恵まれたい」と思っていることだろう。これ自体、服従したがっている証拠である。


 儒教において女性は三従の道に生きるとされた。幼い時は父に従い、嫁(か)しては夫に従い、老いては子に従うと。困難な時代を生き抜くための智慧だったのか、あるいは社会の要請だったのかはわからない。そして今、我々男性陣は女性から手痛いしっぺ返しを食らっているわけだ。


 果たして我々人類は服従以外の関係性を築くことが可能であろうか? 国家と企業が人々を支配している間は不可能なことだろう。とすると国家と企業を解体し、緩やかな枠組みのコミュニティの形成と、自由かつ必要最小限の労働の仕組みが不可欠となる。


 ご存じのようにデフレとは生産過剰を意味する経済用語である。過剰な生産が環境に負荷を与える。例えば気の合った友人100人を集めて村をつくったとしよう。食糧は自給自足。医療、教育、家事の類いは分業制で行う。この村では絶対に8時間も働く必要はないことだろう。更に不透明な税金もなくなる。


 結局服従する人々は、自分から何を奪われているかも気づかなくなっているのだ。

服従の心理 (河出文庫)

人間は「エス」によって生かされている


 人間は、自分の知らないものに動かされているというのがぼくの意見です。人間のなかには「エス」という何やら驚くべき力があって、それが、人間のすること、人間に起こることのすべてを支配しています。「わたしは生きている」という言は、条件つきでしか正しくありません。それは、根本真理の小さな皮相な現象しか言い表していません。人間は、エスによって生かされているのです。これが根本真理です。


【『エスの本 無意識の探究』ゲオルク・グロデック/岸田秀、山下公子訳(誠信書房、1991年)】

エスの本―無意識の探究

2010-02-26

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール


 ボードリヤールはまるで昆虫のようだ。鋭敏な触覚で時代の動向を察知し、強迫神経症的なレトリックを並べ立てる。その姿は驚くほど色彩鮮やかで、胸の悪くなるような形状をしている。あるいはフグか。毒性をもって舌をピリピリと刺激し、油断をすると死に至ることもある。


 面白い。しかしチンプンカンプンだ。「あのさー、どうでもいいから、もう少し普通の言葉で話してくれる?」ってな感じだ。「ハイパー」だとか「トランス」だとか言われても、こっちにゃてんでわかりやしない。私は密かに「ハイパー野郎」「トランスおじさん」という渾名(あだな)を進呈したくなった。


 ボードリヤールの触覚は細部を拡大し、デフォルメし、原色で染め上げる──


 世界と事物の現状を一言でいえば、狂宴(オージー)の後の状態だということになるだろう。狂宴、それは近代性が爆発する瞬間、あらゆる領域での解放がなされる瞬間だ。政治的解放、セックスの解放、生産力の解放、破壊的諸力の解放、女性の、子どもの、無意識の欲動の解放、芸術の解放。表象行為の全モデルと反・表象行為の全モデルは昇天した。現実的なもの、理性的なもの、性的なものの狂宴、批判的なものと反・批判的なものの狂宴、経済成長と成長の危機の狂宴、つまりあらゆる場面での狂宴が起こったのだ。われわれはモノと記号とメッセージとイデオロギーと快楽を生産(事実上は過剰生産)するあらゆる過程を駆けぬけた。今日では、すべてが解放された。ゲームは終わったのだ。いまやわれわれは、全員が最後の問いの前にいる──【狂宴の後で何をしようか】? われわれは、もはや狂宴と解放をシミュレーション化することしかできない。つまり、加速しながら全員が同一方向にむかっているふりをしているが、われわれの行き着く先は、じつは虚無でしかない。というのも、解放を正当化するあらゆる合目的性はすでにわれわれの背後に遠のき、あらゆる結果が予測されてしまったという感覚、あらゆる記号と形態、あらゆる欲望が入手可能になったという事実が、強迫観念のようにわれわれにつきまとっているのだから。これから先、いったい何をすればいいのか? この発想こそがシミュレーションの状態そのものだ。すべてのシナリオが──現実に、あるいは潜在的に──すでに過去のものとなった以上、使い古しのシナリオを再上演するほかはない状態。すべてのユートピアが実現された状態。ユートピアがあたかも実現されていないかのように装いながら生きつづけねばならない状態。だが、じっさいには、ユートピアはすでに現実のものとなり、われわれはもはやユートピアを実現する希望をもちつづけることができないので、われわれとしては、不確実なシミュレーションというかたちで、それらをハイパーリアル化するほかはない。今後は、われわれの背後にしか出現しないであろう理想や幻覚や夢の不確実な複製のなかで、われわれは生きることになる。それらを、宿命的な無関心状態において再生産することが、われわれのつとめであるような時代が始まる。


【『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール/塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)】


 資本主義が行き着いた地点、あるいは消費社会のなれの果てを描いているのだろうが、どうもピンとこない。狂宴は世界中で行われたわけではあるまい。アフリカやアジアの大半の国は水と食糧の不足に喘いでいるのだ。


 資本と人の移動が局部に集中するという意味なら、辛うじて理解可能となる。確かにバブルが弾けた後は、コンサートが終了した会場のような侘(わ)びしさが立ち込めていた。


 あるいは情報の肥大化。インターネットの登場によって、それまではマスメディアの受け手に過ぎなかった人々が自由に意見を発信できるようになった。ま、世論を動かすほどのパワーには欠けるが、バイアスが掛かったメディア情報を検証することができるようになった意味は大きい。それに伴ってデマ情報やゴミ情報も増えたわけではあるが。


 川は海へと流れるものだが、我々の欲望が辿り着くのは「虚無」であるとボードリヤールは指摘する。つまり、欲望の川は砂漠を流れていたわけだな。不毛。ペンペン草も生えていない。干上がるオアシス。息絶えた動物が見る見る白骨化する世界だ。


 虚無へと誘(いざな)うのは倦怠か、あるいは疲労か。ひょっとしたら絶望なのかもしれない。


「ハイパー」という言葉は、「超」の上を意味する。つまり、ハイパーリアルとは超超現実になる。絵画にスーパーリアリズムという手法がある。影や反射を現実よりも鮮やかに描くことで、更なる現実性を表現したもの。それを超えるリアリズムとなれば、影を実体よりもくっきりと描く必要が出てくる。


 ボードリヤールが言うようなハイパーリアルな舞台装置が求められているとすれば、それは我々が実体を失ったことを意味する。いつの間にか我々は、欲望の影みたいな存在になっていたのだ。


 一人の存在は相対化され、限りなく透明になりつつある。国民、消費者、サラリーマン、視聴者、投票率、世論調査のパーセンテージなど、私という存在は必ず何かにひっくるめられている。


 実体を失ったとすれば、我々は何なのか? ひょっとして単なる機能なのか? それじゃあまるで「お金」と変わりがない。マネーには最初っから実体がない。国家におけるただの約束事だ。そのマネーも虚像の姿を惜しげもなくさらしている。実体経済を軽々と凌駕する大量の資本が金融マーケットに流れ込んでいる。


 すると、人が多すぎるってことなのか? 人間デフレ。供給過剰。価値の下落。余剰人員の削減。


 ボードリヤールは面白い。でも、線が細い。世界を見物している観客による超一流の野次といったところだ。

透きとおった悪

室井佑月のY新聞批判


 少し経ってから画像をクリックすると拡大できる。小沢一郎に関する新聞社の偏向ぶりを暴露している。

渡り鳥


 春、鳥たちは内陸へと飛んでいく。着実に、目的を持って。彼らは自らの行き先を知っている。彼らの生(せい)のリズムと儀式は遅れを許さない。


【『鳥 デュ・モーリア傑作選』ダフネ・デュ・モーリア/務台夏子〈むたい・なつこ〉訳(創元推理文庫、2000年)】

鳥―デュ・モーリア傑作集 (創元推理文庫)

2010-02-25

ゲオルク・グロデック


 1冊挫折。


 挫折14『エスの本 無意識の探究』ゲオルク・グロデック/岸田秀、山下公子訳(誠信書房、1991年)/原書は1923年刊。エスとはフロイト理論で情動を示す用語である。きっと脳の扁桃体で形成されているのだろう。女友達への手紙といった形式でエスを解説している。「人間は自分の知らないものに動かされており、エスに支配されている」とのこと。「そう言われてもなあ……」というのが率直な感想だ。元々私はフロイトにも興味がないので、単なるこじつけのように感じた。エスという名前をつけたところで、どうせ脳内に存在するのだ。クリシュナムルティを読むようになり、以前ほど意識に対して興味を覚えなくなった。所詮、意識とは知覚の集中に過ぎない。ストレス社会が人の心を捻じ曲げるようになってから精神分析が脚光を浴びているが、私は不信感を払拭することができない。彼等がやっていることは、せいぜい「物語の再構成」と投薬だけであろう。人間心理を小分けにするよりも、精神を統合するべきではないのか?

瓜南直子


 国見さんの呟きで知った。何だか凄い絵だ。「かなん・なおこ」と読むようだ。はち切れるような生命の豊穣な力を描き出している。

ジョン・グレイのクリシュナムルティ批判/『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ


 ジョン・グレイによるクリシュナムルティ批判の全文を挙げておこう──


クリシュナムルティの重荷


 19世紀の末から20世紀のはじめにかけて世界各地で流行したニューエイジのカルト集団、神智学協会はジドゥ・クリシュナムルティをキリストや仏陀に次ぐ現代の救世主に祭り上げた。若年の折、クリシュナムルティは公然とこの役割を拒否し、もっぱら、人はそれぞれに自身の救済を模索しなくてはならないと説いた。重荷を一身に引き受けて人類を救うほどの救世主は待望できないという趣旨である。

 クリシュナムルティの教えは、自身が斥けた古来の神秘主義と共通するところが少なくない。神秘哲学は人類を苦悩から解放する悟りを約束したが、その希望はありがた迷惑な重荷だった。人間はほかの動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来の心情である。自身のうちにある獣性を脱却しえたと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。

 一般に知られているところから推して、クリシュナムルティの生涯は並はずれたエゴイズムの貫徹と言うほかはない。ご多分に漏れず、陰では淫乱この上なかったが、一介の説教師とはちがう精神的指導者という地位を利用して、寄ってくる崇拝者たちを慰みものにした。人には無私無欲を説きながら、自分は神秘的な陶酔をごくありきたりの癒やしに結びつける生き方を目論み、その矛盾、不一致には知らぬ顔だった。

 これはいささかも異にするには当たらない。獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てるだけのことである。そこはよくしたもので、大衆は聖人君子を崇める半面、同じ程度に忌み嫌う。(138-139ページ)


【『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿〈いけ・ひろあき〉訳(みすず書房、2009年)以下同】


 意図的な攻撃性が窺える文章で、この人物の性根が垣間見える。まず、この記述には事実が一つも示されていないことに気づく。では、一つ一つ検証してみよう。


 神智学協会のことを「ニューエイジのカルト集団」とレッテルを貼っているが、このような言葉を使うのは保守的な国家主義者と相場は決まっている。異質さや反社会性、あるいは非科学性を嘲笑したつもりなのだろう。馬鹿丸出しである。ジョン・グレイは科学による進歩主義を批判しながら、科学の奴隷であることをさらけ出している。大体、2000年前にはイエスだって異端視されたわけだろ? 仏法者の私からすれば、天地創造を説くキリスト教の方が立派なカルトだと思えて仕方がない。更に、ジョン・グレイが好む道教というのは、房中術を取り入れて単なるセックス教団みたいになっているのだ。


「自身が斥けた古来の神秘主義と共通するところが少なくない」、「並はずれたエゴイズムの貫徹と言うほかはない」、「ご多分に漏れず、陰では淫乱この上なかった」──根拠を一つも示さずして、悪口を並べ立てているだけだ。


 ジョン・グレイが下ネタを引っ張り出したのは、彼自身のどこかに性的なコンプレックスがあることを示唆している。これだけのデタラメをスラスラと書けるのだから、ジョン・グレイはイギリスの大衆紙「ザ・サン」でアルバイトでもすればいいのに。きっと下衆(げす)なエロ記事を好きなだけ書けることだろう。


 しかもだよ、この後でこんなことを書いているのだ──


 動物は生きる目的を必要としない。ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。人生の目的は、ただ見ることだけと考えたらいいではないか。


 完全にクリシュナムルティのパクリだ。結局この人物は、自分が好む道家の思想やガイア理論の肩を持つために、不要な批判を加えることで馬脚を露(あら)わしている。


 知識が武器と化せば、おのずから暴力性をはらむ。隠された悪意は必ず腐臭を放っている。


 ま、このおっさんは、所詮評論家のレベルであり、寄生虫みたいな存在だ。で、その巧妙な手口を知れば知るほど、MI5の手先に見えてくる。ま、学術芸者といったところだろう。


 欧米で関心を集めているのは、キリスト教批判が上手いということだけであって、思想的な豊かさや斬新さは一つもない。わかりやすく言えば、筒井康隆みたいなレベルだ。


 下劣な批判が書かれるところを見ると、やはりクリシュナムルティの教えは権力者にとって危険なものであることが理解できる。

わらの犬――地球に君臨する人間

瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ


 瞑想に関するクリシュナムルティの箴言集である。10冊ほどの著作から抜粋したもの。中川吉晴の訳はわかりやすさに重きを置いているため、文章の香りが損なわれている。だが、新訳は必ず新しい発見を与えてくれる。


 クリシュナムルティの教えを実践するには瞑想、観察が不可欠となる。「あるがままのものを、あるがままに見つめよ」というのが唯一の実践法だ。しかしながら、読めば読むほど自分が近づいているのか、遠ざかっているのかがわからなくなる。


 そこに「瞑想」という形式があるわけではない。クリシュナムルティは座禅を組めと言っているわけではないのだ。それどころか禅やヨガを明快に否定している。ということは、「修行としての瞑想」を否定していることになろう。


 クリシュナムルティによれば思考を終焉(しゅうえん)させ、時間を止(や)ませることが瞑想であるという。我々の生活は「知覚+反応」に過ぎない。つまり、外界からの情報に対する反射行動といえる。情報とは意味である。そして情報に意味を付与しているのは思考なのだ。


 犬が食べものを見つけた時、たぶん犬は何も考えていない。あいつらは時折、小首をかしげるようなポーズをすることはあるが、決して考えてやしない。だから、鼻をクンクンさせて匂いを確認する。彼等は「考えて」いるのではなく、「感じて」食べるのだろう。


 人間は考える葦(あし)である我思う、ゆえに我あり。西洋哲学はおしなべて、神と向き合う「私」に取りつかれていた。


 だが、よく考えてみよう。「私の──」と言う時、それは自分の欲望を象徴している。私の車、私の家、私の家族、私の信念、私の思い出、私の好物、私の趣味、私の理想、私の……。「私」とは私の欲望である。欲望は快・不快をもって満たされたり満たされなかったりする。そして、自分の欲望と他人の欲望とがぶつかり合うのが、我々の生きる世界ではないだろうか?


「私」は私の過去でもある。時間と思考に終焉を告げるのが瞑想であるならば、それは「私」の解体である──


 瞑想は

 生のなかで もっとも偉大な芸術のひとつです

 おそらく最高に偉大なものでしょう

 それは ほかの誰かから学べるものではありません

 それが 瞑想の美しさです

 瞑想には どんな技法もありません

 それゆえに 瞑想には権威者などいないのです

 あなたが自分自身について知るとき

 つまり あなた自身を見つめ

 どのように歩き どのように食べ

 なにを話しているかを見まもり

 おしゃべりや 憎しみや 嫉妬を見つめ

 あなた自身のなかで

 これらすべてのことに

 思考をさしはさむことなく気づいているとき

 それはすでに瞑想になっています


 だから

 バスにのっていても

 木漏れ日のさす森のなかを歩いていても

 鳥のさえずりを聴いていても

 妻や子どもの顔をながめていても

 瞑想はおこります


 いったい どうして

 瞑想が きわめて大切なものになるのでしょうか

 まったく不思議なことです

 瞑想には

 終わりがありませんし

 始まりもありません

 それは ひとつぶの雨のようなものです

 ひとつぶの雨のなかには

 小川があります

 大河があります

 海があります

 滝があります……

 それは

 大地をやしない

 ひとをやしないます

 それがなければ

 大地は 砂漠になってしまうでしょう

 瞑想がなければ

 ハートは 砂漠になり

 不毛の地になってしまいます


【『瞑想』J・クリシュナムルティ/中川吉晴訳(UNIO、1995年)】


 ブッダは欲望に対して肯定も否定もしなかった。ただ、「離れよ」と説いた。欲望を離れて見つめる人は少欲知足となった。すると今度は、少欲知足がスタイルとして確立されてしまった。本末転倒。


 偉大なる宗教者達は「教義を説いた」わけではなかった。それを後世の弟子が教義に格上げし、教条として人々を縛る道具にしてしまった。教義はラインと化して、そこからはみ出すとけたたましい音のホイッスルが鳴り響く。人々は恐怖感に支配されてコートの中でおとなしく生きてゆく。犬に誘導される羊の群れのように。


 実はクリシュナムルティが言う瞑想が、さっぱりわからない。わからなくてもいいや、とも思っている。少なくとも私にとって、クリシュナムルティの言葉に接することは瞑想を意味していない。心がざわめいて仕方がないからだ。


 人と話したり、本を読んだりしていると、時々距離感が消失することがある。特に辛い思いを抱え、苦しみに喘ぐ人を目の当たりにすると、私は他のことが全く見えなくなる。これが私にとっての瞑想だ。


 驚くべきことだが、死を自覚すると人間の感覚は現実を全く異なる世界に変える──

 これこそ真の瞑想なのだろう。生からも離れて達観する時、そこに真実の世界が立ち現れるのだ。我々は様々な条件づけによって、目を覆われ耳を塞がれてしまっている。


 例えば、親しい者同士が集まった時にでも、クリシュナムルティのように数分間を黙って過ごすのもいいだろう。クスクス笑いながらでも構わない。大事なことは言葉を超えたコミュニケーションが確かに存在するという事実なのだ。

瞑想

究極のスリル…? 仏でオーダーメード「誘拐」サービス


 究極のスリルを味わい人のために、フランスの会社が「誘拐」サービスを始めた。誘拐の筋書きを詰めた後、客は契約書と免責同意書にサインし、誘拐されるのを待つ。最大限の緊張感を得られるよう、いつ「誘拐犯」が現れるかは知らされない。

 さらわれて縛られたり猿ぐつわをかませられた上で4時間監禁、という「基本パッケージ」が900ユーロ(約11万円)。このほか、追加料金で脱走やヘリコプターによる追跡などを加えることも可能。

 1月中旬のサービス開始以来、1日に2件の注文が入ることもあり、客の多くはバンジージャンプやスカイダイビングでは物足りなくなった大手企業の幹部らという。


【ロイター 2010-02-24


 これは危険だ。「誘拐ごっこ」がまかり通るのであれば、「殺人ごっこ」「テロごっこ」もそのうち通用するようになることだろう。で、最終的なサービスとしては「戦争ごっこ」があり得る。

個別性と他者との関係


 私がよく聞いていようといまいと、母の話は止まらなかった。「種は木から生まれて、やがて木になるわ。種が種であるのは一時的なことでしかないのよ。種から木へ移り変わるのだから、なぜ種であることにとらわれるのかしら? 同じように、私たち人間それぞれも個別性を持っているけれど、その個別性は一時的なものでしかないのよ。私たちの個別性は実際とは違って見かけだけかもしれないわ。坊やは、私がいなかったら存在するかしら? あなたが食べている食べ物なしに存在するかしら? 自分が座っている地面なしに存在するかしら? 私たちの個別性は実際には他者に依存しているのよ。個別性は他者とは分けられないものなの」

 母は無学だったが、ジャイナ教の文学の多くの歌や詩、韻文を諳(そら)んじていた。


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール/尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】

君あり、故に我あり―依存の宣言 (講談社学術文庫)

2010-02-24

選挙と民主主義

 代議制民主主義の定義に従えば、選挙で選ばれた者の発言力が大きければ大きいほど、その社会は民主的だということになり、選挙で選ばれてもいない者の圧力が幅を利かせるような社会は、極めて非民主的だということになる。国王であれ貴族であれ資本家であれ労働組合であれ宗教団体であれ市民団体であれ、選挙で選ばれてもいない者が、選挙で選ばれた者たち以上の発言力を持つのであれば、そもそも普通選挙で代表者を選ぶ意味など全くないのである。

 もちろん、それらの意見や立場を無視してよいというのではない。だが、選挙で選ばれた者たちが決定し、全体の奉仕者がそれを実行するという原則だけは、最大限に尊重されなければならないのである。


【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志〈やくしいん・ひとし〉(PHP研究所、2008年)】

民主主義という錯覚

矢島羊吉、ティム・ゲナール


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折13『空の論理 ニヒリズムを超えて』矢島羊吉〈やじま・ようきち〉(法蔵館、1989年)/当てが外れた。門下生が編んだ遺稿集だった。タイトルが大上段に構え過ぎ。パラパラめくっただけでやめる。


 30冊目『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール/橘明美訳(ソフトバンク クリエイティブ、2005年)/ティム・ゲナールは3歳の時、母親に捨てられた。電信柱に縛りつけて、母親は抱くこともなく立ち去った。その後、アル中となった父親と継母(ままはは)から虐待される。5歳の誕生日に父親から棍棒で滅多打ちにされて足を粉砕骨折。少年は2年間の入院を余儀なくされた。養父母がコロコロ替わり、不運が彼を少年院へ送り込む。ここではまたしても虐待がまかり通っていた。12歳で脱走。ホームレス生活をしている時に初老の男性からレイプされ、ギャングの手下となって男娼となる。足を洗ってからは17歳でフランス最年少の石工職人の資格を取得。更に同年、ボクシングの国内チャンピオンにまで上り詰めた。物語はこれで終わらない。波乱万丈というにはあまりにも惨(むご)くて辛い道のりだった。ティム・ゲナールは障害児の世話をするキリスト教の人々と巡り会って人生が一変する。ま、後は読んでのお楽しみだ。どんなに本嫌いな人でも一気読みすること間違いなし。

吐かれた唾を集めた痰壷本/『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ


 ジョン・グレイが吐いた唾(つば)で全ページがドロドロになっている。ま、言うなれば痰壷本(たんつぼぼん)だ。タイムズを始めとする各紙が2009年の一冊に選んだそうだが、所詮欧米の話。キリスト教に打撃を与えるのはまことに結構なんだが、どうもこの著者はいかがわしいところがある。


 とにかく批判、悪口のオンパレード。持ち上げているのは道家の思想とガイア理論くらいか。「んっ?」と思ったのはクリシュナムルティに関するテキスト。何ひとつ根拠を示さずに下半身ネタでまとめている。これについては後日批判する予定。


 つまり、だ。この本は「何が書かれていないか」を知らなければ、コロッと騙(だま)されてしまう危険性をはらんでいる。ジョン・グレイはイギリスの政治哲学者である。2008年に大学教授を引退。該博(がいはく)な知識が逆に「知識人のなれの果て」を教えてくれる。教育者としての素養はゼロといっていいだろう。


 本書の基調は、キリスト教をバックボーンとした進歩主義への批判である──


 ヒューマニズムは科学ではない。人間はかならずや過去に例のない輝ける世界を実現すると断じるキリスト教以降の信仰である。キリスト教以前のヨーロッパでは、未来は過去とさして変わりないと考えるのがふつうだった。知識が進んで新しいものがつくられるにしても、価値体系が大きく変わることはない。歴史は果てしない循環であって、そこに一貫した意味はない、と人は理解していたのである。

 これを異教の考えとして、キリスト教は歴史を罪と贖いの寓話と解釈した。キリスト教の救済の理念を人類解放の祈願に置き換えたのがヒューマニズムであり、進歩の概念は神慮を待望するキリスト教信仰の世俗版である。それゆえ、キリスト教以前の世界は進歩に関心がなかった。

 進歩信仰にはもうひとつ別の根拠がある。科学においては、知識は増大し、蓄積する。だが、人間の存在は全体として蓄積に向かわない。ある世代が獲得したものも、つぎの世代には失われるかもしれない。また、科学の場合、知識は純粋善だが、倫理学や政治の世界では功罪相半ばする。科学は人間の能力を増進すると同時に、人間が持って生まれた欠陥を拡大する。人間の寿命を延ばし、生活水準を向上させるのも科学なら、破壊をほしいままにさせるのもまた科学である。現在、人類はかつてない規模で傷つけ合い、殺し合い、地球を破壊している。


【『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿〈いけ・ひろあき〉訳(みすず書房、2009年)以下同】


 ヒューマニズムという言葉には魂がない。その意味がやっとわかったよ。キリスト教的差別観が巣食っていたってわけだ。でもさ、それよりも神が全知全能であることの方が問題だと思うけどね。


 キリスト教世界において人は神になることはできない。そして、神の似姿(姿煮じゃないよ)として造られた人間は動物世界では最上位に位置する。だから動物は殺しても一向に構わないし、自然は征服すべき対象と化す。そして恐るべきことだが、彼等(=白人クリスチャン)は有色人種を動物と考えている節(ふし)が窺える──

 神は愛を体現しているが、結構怒りっぽい──

 これほど人間の出来が悪いのは、神の責任ではないのか? 神様をPL法製造物責任法)で裁くべきではないのか? 大体、世界で最も殺戮(さつりく)に手を染めてきたのは間違いなくキリスト教信者であった。そもそも、ユダヤ教徒のイエスという人物が処刑された出来事からスタートしているから、どう転んでも血塗られた歴史とならざるを得ない。


 私個人としてはイエスは存在しなかったと考えている。だって、当時の記録が何ひとつないんだからね。きっとペテロかパウロがでっち上げた宗教なのだろう。

 キリスト教が虚構だとすれば、これほど壮大な陰謀もない。歴史の捏造(ねつぞう)もお手の物。ご存じのようにスポーツの審判や裁判というのは神を象徴している。誤審、冤罪(えんざい)の類いは決して珍しいことではない。


 古代中国では、わらの犬を祭祀の捧げものにした。祭りのあいだ、わらの犬はていねいにあつかわれたが、祭りがすんで用がなくなると踏みつけにされ、惜しみなく棄てられた。「天地自然は非情であって、あらゆるものをわらの犬のようにあつかう」。人間とても、地球の平穏を乱せばたちまち踏みつけにされ、情け容赦なく棄てられる。ガイア説の批判者は非科学的であるという理由でこの考え方を忌避するが、実を言えば、人間はわらの犬でしかないことを認める勇気がないばかりにそっぽを向いているのである。


 その「わらの犬」の筆頭がジョン・グレイである。彼は意図的に摩擦を起こしているのだろう。それが、MI5からの依頼であったとしても私は驚かない。二重三重に知的な罠が仕掛けられており、老獪(ろうかい)極まりない。


 紙質が悪いのに4000円近い値段となっている。みすず書房は、はなっから売れないものと決め込んでいたのだろうか? 原書と同じ表紙デザインも実に悪趣味だ。裸にされた二人はまだ少女ではないのか?

わらの犬――地球に君臨する人間

2010-02-23

クリシュナムーティ


 1冊読了。


 29冊目『道徳教育を超えて 教育と人生の意味』クリシュナムーティ/菊川忠夫、杉山秋雄訳(霞ケ関書房、1977年)/『自由への道 空かける鳳のように』よりは読みやすかった。これでクリシュナムルティ本の読了は22冊目。子供を一切の束縛から解き放ち、何としても自由にしようという意気込みが凄まじい。我々は果たして子供達に何を求めているだろうか? それこそが人類の未来を決定しているのだ。

超えられない医師と患者の立場/『痴呆を生きるということ』小澤勲


 決して悪い本ではない。文章もこなれている上、著者自身が癌を宣告され余命いくばくもない中で執筆されているため独特な透明感がある。


 老い呆けし母を叱りて涙落つ 無明無限にわれも棲みゐて(斎藤史〈さいとう・ふみ〉)


【『痴呆を生きるということ』小澤勲(岩波新書、2003年)以下同】


 冒頭で紹介されている歌の一つ。親と子の「あるべき関係」が崩壊した時、自我の大地が激しく揺さぶられる。特に社会との同調性が高い日本人であれば尚のこと落伍感が激しい。自分の親がオムツをした姿を想像してみるといい。「ゲッ」となる人が殆どであろう。


 認知症という病気が我々に教えているのは、不変と思われている自我が実は記憶に支えられている事実である。つまり自我とは記憶のことなのだ。するってえと、あれか。「私」というのは記憶媒体に過ぎないってことなのか? 御意。容量の乏しいハードディスクみたいなものだよ。情報が増えるにつれて作動が緩慢となり、次第次第に固まることが多くなってゆくのだ。時々あるだろ? 「あれ、今何をしようとしていたんだっけ?」ということが。実は脳がクラッシュしているのだ。日々の睡眠が Ctrl+Alt+Delete の役目を果たしている。


 認知症とは、ファイルが失われてゆくことだ。そして挙げ句の果てには「システムのプロパティ」も表示しなくなった瞬間に「私」が「私」ではなくなる。


 痴呆を生きる者も、その家族も、逃れることのできない現在と、時間の彼方に霞んで見える過去とを、いつも往還している。今を過去が照らし、過去を今が彩(いろど)る。


 家族が認知症になった場合、一方通行の関係性となることを覚悟する必要がある。もちろんコミュニケーションは可能なのだが、介護する側の覚悟として相手に見返りを求めるべきではない。「育ててもらった恩を返す」といった発想も不要だと私は思う。恩返しの根っこにあるのは経済性である。もっと淡々と寄り添うことが望ましい。「ま、病気だから、しようがねーわな」というくらいの積極的な諦観、能動的な肯定から介護に臨みたい。


 もの盗られ妄想は、争えば必敗の形勢を察知した者の、つまりは弱者からの訴えあるいは反撃であった、とみることができる。


 認知症患者の奇異な行動が、実は文化的な影響に支配されており、日本人の場合「もの盗られ妄想」は女性に多いそうだ。「ヘルパーが家の物を持ち去った」という話は私も実際に聞いたことがある。


 ただ、これを過去の関係性に原因があるとするのは甚だ疑問だ。そうしたケースもある、という程度にとどめておくべきだろう。「寄り添う」ことと「肩を持つ」こととは意味が異なる。小澤は自分が話を聴いてあげたことで、患者の病状が落ち着きを取り戻したことを過大評価しているように感じた。心療における因果関係は特定することが難しい。まず、眉に唾してみるのが当然である。


 一方、男性の場合、激しい嫉妬感情が目立つという。妻を所有物と考える男性の思考が垣間見える。


 また、「病気とはいえ、嫉妬するということはご主人があなたを女としてみているということでしょう」といってみたが、「私は結婚して以来、女として扱われたことがない」とすげなかった。


 小澤のアドバイスは致命的だ。ここに超えられない医師と患者の立場が露呈している。


 私が本書を読んで違和感を覚えてならなかったのは、小澤の立ち位置である。書いてあることは理路整然としていて極めてまともである。では何が書かれていないのか。著者は自分よりも立場が下の人、例えば患者やナースや事務員や患者の家族から何かを学んだ形跡が全く窺えないのだ。その隠された傲慢の臭いが、ページのあちこちから漂ってくる。


 医師としてはきっと真面目な人物だったのだろう。しかし人間として見た時に、私はさほど魅力を感じなかった。


 最後に認知症患者と接する際に私が気をつけていることを箇条書きにしておく──

  • 話し掛ける際は、必ず名前を呼ぶ。
  • 相手の話に大きく相槌を打ち、必ず同意する。
  • 敬語を使う。認知症患者は自分に敬意が払われているかいないかに敏感である。
  • 大きく頷く。ボディランゲージとして。
  • ジャンケンができるかどうか確認する。チョキができれば指の運動機能は侵されていない。
  • 身体に触れる。手を握る、背中を軽く叩くのが効果的。
  • 重度の症状となる「痛い」「熱い」を連発するが、これを否定しない。
  • 相手が怒り出したら、ひたすら謝る。
  • 否定的な言葉を使わない。
  • 話をしてくれたら、「教えてくれてありがとうございます」と伝える。
  • 別れる際は握手してから、手を振る。

 尚、認知症というのは最初に家族の前だけで現れることが判明している。ここで外に出すことを恐れて家に閉じ込めておくと症状が一気に悪化する。初期症状の場合、お客さんを招くとよい。家ではおかしなことばっかり言ってるのに、デイサービスに行くと普通になる人も珍しくない。生活範囲を狭めると、あっという間に寝たきりとなる。

痴呆を生きるということ (岩波新書)

ソロス氏:ギリシャ危機で欧州通貨統合の欠点浮き彫り−FTに寄稿


 米投資家ジョージ・ソロス氏は、ユーロは政治統合ではなく通貨統合を意図したものだったが、ギリシャ危機でその欠点が浮き彫りになったと指摘した。

 ソロス氏は英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)への寄稿で、欧州連合(EU)加盟国が政治統合に向け次の一歩を踏み出さなければ、統一通貨が崩壊する恐れがあるとの認識を示した。

 さらに、直近の欧州財務相会合はユーロ圏全体の金融的安定を維持するための決意を表明したものの、それに向けた制度が構築されていないと指摘。

 同氏は、ギリシャ債借り換えに対する最良の解決策は、EU加盟国が償還債務の75%程度に相当するユーロ債を発行し、残りをギリシャが自らで調達することだと記した。

 ただ、ソロス氏は現時点では政治的に実現する可能性はないとし、その理由としてドイツが財政面であまり慎重でない加盟国の救済に消極的なことなどを挙げた。

 同氏は、将来の危機対策として「より踏み込んだ監視と制度的取り決め」が必要だと結論付けた。


ブルームバーグ 2010-02-22

「大恐慌」は富に関する考察抜きには理解できない


 その際、私の意見では、資本の蓄積ではなく、さらにつっ込んで「富の蓄積」を分析しなければならないと思う。これまでの大恐慌原因説は、この点を無視ないし軽視したため、問題の本質に迫れなかったと思う。しかしそれは、個々の経済学者の問題というより、現在の経済学そのものの欠陥ではないだろうか。アダム・スミス以来、経済学は蓄積された価値、つまり富の問題をほとんど無視してきた。しかし、「大恐慌」は、富に関する考察抜きには理解できないだろう。


【『「1929年大恐慌」の謎 経済学の大家たちは、なぜ解明できなかったのか』関岡正弘(PHP研究所、2009年/ダイヤモンド社、1989年『大恐慌の謎の経済学 カジノ社会が崩壊する日』改題)】

「1929年大恐慌」の謎

2010-02-22

「花」岸部眞明


 こんな凄いギタリストがいたとは。あまりの優しい音色に胸が締め付けられるほど。



CDの販売は公式サイトにて。2nd Album『GROWING UP』に収録】

死者の存在性格


 死者の“顔”は誰かの“顔”である。しかし死者の存在性格は“顔”をもち得ず、誰でもあり得ない。死者の存在性格と私がいう場合の死者は、前景に立つ“顔”の主ではなく、その背景として無限に広がっている匿名の死者たちである。


【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)】

死と狂気 死者の発見 死と狂気 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-02-21

リチャード・P・ファインマン


 1冊挫折。


 挫折12『ご冗談でしょう、ファインマンさん(上)』リチャード・P・ファインマン/大貫昌子訳(岩波書店、1986年/岩波現代文庫、2000年)/100ページで挫ける。軽い内容で読みやすいのだが、どうも軽過ぎるように感じた次第。ファインマンはクリシュナムルティと何度か会っている。また、本日分の書評で紹介したマンハッタン計画にも参加している。型破りな物理学者の一人であった。

「タマクン」ロドリーゴ・イ・ガブリエーラ


 友人のブログ記事で知ったメキシコ出身のギターデュオ。Wikipediaによると、ダミアン・ライスが見出したようだ。技巧を音楽性が支えているため、妙なあざとさは全く感じられない。それにしても、目にも止まらぬ速弾きだ。曲を断ち切るようなエンディングが実にかっこいい。



激情ギターラ! 激情セッション(初回生産限定盤)(DVD付)

『NITABOH 仁太坊 津軽三味線始祖外聞』


 三味線の演奏は上妻宏光(あがつま・ひろみつ)が行っている。

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『コカイン・ナイト』J・G・バラード/山田和子訳(新潮社、2001年/新潮文庫、2005年)


コカイン・ナイト コカイン・ナイト (新潮文庫)

(※左が単行本で右が文庫本)


 地中海に面した理想の高級リゾート地でその凶悪事件は起こった。5人が殺され犯人は逮捕。だが、本当に彼の犯行なのか? 口をつぐみ、快適この上ない生活を享受する住人たち。エロスと犯罪が見え隠れするこのミステリアスなヴィラで、弟の無実を信じ、調査を始めた旅行作家が見たものとは……。現代イギリス文学界最大・最高の作家が挑む人類の未来、驚愕の結末が待つサスペンス。

核兵器開発の総本山ロスアラモス国立研究所での講話/『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス


 ロスアラモス国立研究所といえばマンハッタン計画である。核兵器の開発はアインシュタインの署名を借りたルーズベルト大統領への信書から始まった(信書を書いたのは亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラード)。アメリカの知性が結集され、1945年7月16日にトリニティ実験が成功。21日後の8月6日広島に、そして9日には長崎に投下された。


 クリシュナムルティと親交の深かったデヴィッド・ボームにも声が掛っていた(Wikipedia)。


 それにしても、人類の前に初めて姿を現した火球は、禍々(まがまが)しい何かで膨(ふく)れ上がっている。滑らかに象(かたど)られた半円が、人類を滅亡させる兵器を生み出した頭脳を象徴しているかのようだ。欲望と恐怖が渾然一体となり、政治と科学の利益が一致した瞬間、破壊の衝動が噴(ふ)き出したのだ。


 ジョージ・オーウェルディストピア(ユートピアの反対)小説の時代に選んだ1984年クリシュナムルティはロスアラモス国立研究所のシンポジウムに招かれた。そこにいる科学者は政治の奴隷であった。すなわち、完全に条件づけされた人々といってよい。きっと彼らの報酬も破格であったことだろう。


 クリシュナムルティは平生と何ら変わるところがなかった。


 Kは約700名の収容力がある満員のホールで、朝8時から1時間以上講話をした。講話は一般に公開されたが、聴衆のほとんどは科学者であった。彼の主なテーマは、知識は完全ではないからけっして創造的にはなれないというものだった。彼は訊ねた。


 われわれは人間として、われわれがつくったものとして世界を見ることができますか? いったい自分たちは別々の個人なのかどうかを、自分たち自身に問うてみたらどうかと思うのです。われわれの意識はわれわれの信念、われわれの信条、われわれのもつすべての偏見、数多の意見、恐怖、不安、苦痛、快楽、人間が何千年ものあいだ抱きつづけてきたすべての苦しみ、――そういうものがすべてみなわれわれの意識なのです。われわれの意識とはわれわれのありさまなのです。この混乱、この矛盾の中に創造性はありうるでしょうか? ……そこで、もし思考が創造の地盤でないなら、創造とは何なのでしょう? いつそれが起こるのでしょう? 間違いなく、創造は思考が沈黙しているときに起こることができます。……科学はもっと、もっと、もっとと集積してゆく知識の活動です。「もっと」とは測定であり、思考は物質的過程であるから測定可能です。知識はそれ自身の限界のある洞察、それ自身の限界のある創造をもってはいますが、そのことが紛糾をもたらします。われわれは全的な知覚について説いているので、その中に自我(エゴ)、「私」、個性はまったく入りこんでいません。そのときにだけ、創造性と呼ばれるものがあるのです。そういうことです。


【『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1990年)以下同】


「合衆国の至宝」と呼ばれる研究機関で、「あなた方は創造的ではない」と宣言している。大量破壊兵器は石やナイフの延長に過ぎず、エネルギー開発は火や太陽の光の延長線上に存在する。そこで求められているものは「効率」だ。クリシュナムルティは科学を「道具の世界」から引き上げようとしたのだろう。


 クリシュナムルティはいつものように質問に応じた──


 最後の質問は「もしあなたが国家防衛の責任がある研究所の指導者だったら、現実の事態を認識した上で、研究所の活動と調査をどのように指導してゆきますか?」というものだった。これに対するKの答の一部は――


 われわれは世界を区分してしまいました。あなたはクリスチャン、私は黒人、あなたは白人、コーカサス人、私は中国人――なんと嫌悪すべきことでしょう。われわれは区別され、時の始まりからお互いに戦ってまいりました。……みなさん、ロスアラモスのあなたがたのようなグループの人たち――が、破壊のために時間を捧げてきたのです。あなたたはためになることも大いにしていますが、他方地球上のあらゆる人間を破壊しています。なぜなら、【私の】国、【私の】責任感、【私の】防衛という認識に立っているからです。そしてロシア人たちは別の一方でまったく同じことを言っているのです。途方もなく貧しいインドも同じことを言っています。軍備を整えているのです。ですから、何が答でしょうか? もしあるグループの人々がいて、その人たちが国家主義や宗教は全部忘れよう、人間としての問題を解決しよう――破壊なしにともに生きるようにしようと言うならば、あるいはわれわれがひとつの目的のためにロスアラモスに集まって、われわれが語ってきたようなことのすべてに関心がある、絶対的に献身的な人々のグループとして、それらすべてのことに時間を割くならば、そのときにはたぶん新しい何かが起こりうるでしょう。……私はあなたがたに何かをしなさいと頼んだりはしません。私は宣伝屋ではありません。しかし世界は今見られるとおりです。誰もそのことを考えようともしません。誰もが全世界的なものの見方をしないのです――お願いですから、全人類のために――【私の】国ではなく――、全世界的な感じ方をしてください。もしあなたがたが、私と同じように、世界中を歩きまわるなら、あなたの人生の残りを泣きあかすでしょう。平和主義は軍国主義に対する反応です。それがすべてです。私は平和主義者ではありません。その代わり、これらすべてのことの原因を探りましょう――われわれが一緒になって原因を追究するなら、ことは解決するのです。しかしどの人も原因についてはちがった意見をもち、自分の意見に固執するのです。自分の以前からの方向づけに固執するのです。そうなのです。

 聴衆の会員●もしそう言ってよいなら、あなたは私たちを納得させました。

 クリシュナムルティ●私は何も納得してもらおうとは思いません。

 聴衆の会員●私が言いたいのは、ひとたびわれわれがこのことを理解して、その方向に向けて何かをしようとすると、何となく必要なエネルギーを欠いているように思われるのです。……われわれをたじろがせるのは何なのでしょう? 家が火事なのを見ることができますが、火を消すための何かをすることができないのです。

 クリシュナムルティ●家は火事です。あちらの家だと思っているのですが、ここなのです。何よりも先に、家に秩序がなくてはなりません。


ただひとりある」者として、クリシュナムルティは科学者の前に立っていた。教化(きょうけ)しようとする姿勢は微塵もない。人々の内なる善性に向かって、太陽の光の如く開花を促している。咲くも咲かぬも、こちら側の問題だ。クリシュナムルティは断固として依存を拒否する。


「家は火事です」──まるで、法華経に説かれている三車火宅の喩えそのままである。世界は核兵器の炎が燃え盛る「火宅」(かたく)といっていいのかもしれない。


 メアリー・ルティエンスによる評伝三部作は本書で幕を閉じる。読み物としては面白いものではない。クリシュナムルティの奇異な体験が際立っていて、神懸かり的な印象が残ってしまう。しかし、そうでありながらもクリシュナムルティの言葉は光を放つ。誰がどう書こうと、彼の教えが色褪せることはない。

クリシュナムルティ・開いた扉 クリシュナムルティの生と死

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2010-02-20

『極北 コルィマ物語』ヴァルラーム・シャラーモフ/高木美菜子訳(朝日新聞社、1999年)


極北 コルィマ物語


 零下50度のシベリア=コルィマの金鉱。わたしはスターリンの奴隷だった-。奇蹟的な生還の後も生前には刊行を許されず、20世紀ロシアの「地獄」を生きた詩人・作家の作品を、初めて本格的に紹介する。

『緑雨警語』斎藤緑雨、中野三敏編


緑雨警語 冨山房百科文庫 (41)


 明治の文人斎藤緑雨(1867-1904)のアフォリズム(警語)を網羅し、文意が解しやすくなるよう語釈とコメントを加えたもの。警語集「眼前口頭」(1898)所収の条々以下、世紀の替り目の作ながら、内容・表現ともに時代を超えて鮮烈、コメントも的確酒脱で、面白さは類が無い。

2010-02-19

55年体制は帝大出身の政治家を帝大出身の官僚が支え、経団連に集う帝大出身の財界人たちが政治資金を供給してきた


 私は田原総一朗の『日本の政治 田中角栄角栄以後』(講談社・02年刊)の一節をふと思い出した。それによると、72年の田中内閣の成立は日本の権力構造に革命的な変化をもたらした。

 戦後の吉田茂以来の歴代首相は、2ヵ月間だけその座にあった石橋湛山を除いて、すべて東大、京大を卒業し、高級官僚を経て政治家となったエリートばかりだった。官界や財界も旧帝国大学出身者が仕切っていたから、彼らはその学閥によって政官財界の頂点に君臨した。帝大出身の政治家を帝大出身の官僚が支え、経団連に集う帝大出身の財界人たちが政治資金を供給する。それが従来の55年体制だった。

 ところが、この体制は牛馬商の息子で高等小学校卒の田中による政権奪取でひっくり返った。田中は首相を辞めた後も、最大派閥の力で政界に君臨した。田中引退後も竹下、金丸、小沢から梶山静六野中広務に至るまで、旧帝大とは無縁の旧田中派の政治家たちが政治の主導権を握り続けた。

 しかも彼らは、小沢ら二世議員を除けば、みな地方出身のたたき上げである。極端な言い方をすれば、田中政権以来、日本の政治は平等志向を内包した非エスタブリッシュメント出身者による「土着的社会主義」の色合いを持つようになった。マスコミが強調する経世会の金権体質はその一側面にすぎない。


魚の目/特集「小沢一郎」


日本の政治―田中角栄・角栄以後

『ウッツ男爵 ある蒐集家の物語』ブルース・チャトウィン/池内紀訳


ウッツ男爵 ある蒐集家の物語


「百塔の都」プラハ、磁器の冷たい輝き、マイセン人形に魅入られた男がいた-。少し皮肉で、多少ともペダンティックで、語り口が絶妙。まさしく読みたいような小説がここにある。映画『マイセン幻影』の原作。

2010-02-18

クリシュナムーテイ


 1冊読了。


 28冊目『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)/訳文が酷い。クリシュナムルティがまるでおじいさんに見える。多分、『自我の終焉 絶対自由への道』と重複している部分があると思う。第4部の「対話篇」が実に中途半端。収録されている議論が全て尻切れトンボ。ま、これは翻訳者の責任ではないだろう。クリシュナムルティ本はこれで21冊目。

瞑想とは何か/『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ


 瞑想は冥想とも書く。「瞑」は目をつぶることで、「冥」は「くらい」と読む。冥(くら)き途(みち)と書いて冥途(めいど)と申すなり。


 ブッダは瞑想の果てに仏となった。仏とは覚者の謂いで、ブッダという呼称には「目覚めた人」という意味がある。仏教では瞑想のことを禅定(ぜんじょう)とも三昧(さんまい)とも止観(しかん)ともいう。瞑想はインド古来の文化であった──


 インドでは極めて古くから瞑想が行われていたようであり、紀元前25世紀ごろに栄えたインダス文明の遺跡であるモヘンジョ=ダロからは、座法を組み瞑想を行う人物の印章が発見されている。


瞑想:Wikipedia


 クリシュナムルティが説く瞑想は、木陰などの静かな場所で思考のありのままを観察することである。「瞑想は時と場所を選ばない」とも言っているが、具体的なアドバイスはこの通りである。目を瞑(つぶ)るとは、外界ではなく内なる世界を見つめることである。そして、冥(くら)く深い地点をまさぐる行為だ。


 我々の頭は言葉でいっぱいになっている。思考はまるで常駐ソフトのようだ。休みなく働く頭脳は次第に機械化してゆく。1+1は2だ。思考が理論を構築すると、今度は現実を理論に引きずり込もうとする。取り扱い説明書、マニュアル、公式、セオリー、常識、法律、道徳、文化、教義が人間をプレスする。規格化された人々はロボットと化す。


 自分のために考え、家族のために考え、人々のために考え、社会のために考える。どう頑張ったところで社会の奴隷とならざるを得ない。考えれば考えるほど檻(おり)の奥へと進んでゆくのだ。社会的成功を手に入れた面々は、既に鉄格子が見えなくなる位置にまで進んでいる。檻の中は奥へゆくほど広がっていて快適に作られている。


 瞑想は世俗からの逃避ではない。それは孤立的で自己閉鎖的な活動ではなく、世界とそのあり方を理解することである。社会は衣食住以外には与えるところ少なく、それが与える快楽は大きな悲嘆を伴うのが常である。

 瞑想はそのような世界を豁然(かつぜん)として離れ去ることであり、人は全的にアウトサイダーでなければならない。そのときにこの世は意味を帯び、天と地はその本来の美を不断に開示する。そのとき愛は快楽の影を宿さない。そしてこの瞑想こそは、緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追及、力への渇望などから生まれたものではない、全ての行為の源泉である。


【『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(平河出版社、1982年/サンマーク文庫、1998年)】


 瞑想とは檻の中の自分を見つめる作業である。そこから「私」の解体が可能となる。「私」を滅し、死なせることが瞑想だ。「私」は幻影に過ぎない。「私」が昇華し拡散する時、広大な世界が広がる。波紋のように関係性だけが広がってゆく世界だ。瞑想とは、過去に対して死ぬことである。


「私」という点を打ち破った地平に「線の世界」が現れる。集中ではなく、ただ気づくこと。意識を放棄して、ただ見つめること。


 高層ビルから地上を見下ろすような、飛行機から下界を眺めるような視点があれば「私」は消失する。「離れる」とは「高度」を意味している。


 争い合う人々は議論をするよりも、黙って一緒に瞑想した方がいいよ。きっと。

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

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 1800dpi高精度センサー搭載のオプティカルマウス、機能割り当て可能な8ボタンと解像度調整で自在なカスタマイズが可能、軽量で手に馴染むフォルムの快適設計。

2010-02-17

文章の職人芸/『言語表現法講義』加藤典洋


 知的興奮を掻き立てられること間違いなし。文章を書いている人も、書く予定のない人も読むべきだ。人間は表現せずにはいられない動物である。何をどう表現するかは感性によるところが大きいと思われるが、やはりそれなりの技術も必要だ。そうでないと、単なる独りよがりで終わってしまいかねない。


 明治学院大学国際学部での講義を編集し直したものだが、いやはや凄い。まるで食肉解体の現場に立ち会っているような気分になる。学生の文章に対する講評が実に鮮やか。


 加藤は講義に先立って、こう述べている──


【講義のねらい】言葉を書くというのはどういう経験だろうか。私はこれを、考えていることを上手に表現する技法の問題だとは考えていない。むしろよりよく考えるための、つまり自分と向かいあうための一つの経験の場なのだと考えている。


【『言語表現法講義』加藤典洋岩波書店、1996年)以下同】


 書くという営みはスピードは劣るものの、身体性は高い。「書く」は「掻く」に通じる。文字は引っ掻き傷のようなものだ。そして畑を耕す行為にも通じている。ご存じのようにカルチャーの語源はcultivate(耕す)である。


 書かれた文字は自分の内側から出てきたものだが、時として手が勝手に動く場合がある。書く妙味といっては大袈裟になるが、身体的な直観のようなものは話す時よりも書く時の方が発揮されるように思う。


 なぜ書くのか。書く白い紙。その向うに、誰かがいるからじゃないんでしょうか。紙というのは透き通っていない。それはお風呂屋さんの男湯と女湯の間のガラスが曇っているように、不透明です。この不透明、これが大事なんですね。お風呂場の場合と同じくらい大事です。その向こうに誰かがいる、と思わなくて、またそう思えなくて、誰がそのガラスを指で濡らそうとするでしょうか。


 ため息が出るような絶妙な例え。参りました。降参。白旗。山田君、座布団10枚。


 私は誰に対して書いているのだろう? 全く考えたことがない。時折、感想メールが寄せられるが、「あ、読んでくれる人がいるんだ」とかえってこちらが驚いてしまう。なぜ書くのか? 書かずにはいられない心の振幅があるからだ、と言う他ない。


 皆さんの文章、いつも、終わり近くになると改行になるんです。気がついているかどうか、原稿が規定の枚数に近づくと、終了モードに入る。そして、最後、だいたい、「こういう世の中は、早く変えられないといけないと思う」か、「明るい明日を信じて、なんとかやっていきたいものだ」か、「そんなことを思って暮らしている今日この頃である」かで終わる。

 そして、この「まとめ」が、たとえそれまで個人の声を伝えようとしていても、それを台無しにしてしまう。

 いいですか。ここで言うことは大学では学べないことですから、よく聞いて下さい。このまとめの気分こそ、皆さんが大学で無意識に学んでいることです。でも、それがすべてをダメにする。このまとめの気分、終わりの美辞麗句、それがすべてをダメにする。学問をすら、ダメにします。

 皆さんは、小川です。誰もが小川です。小川は小川のせせらぎの声で何かを考えようとし、その頼りない自分だけの流れ、自分だけの呼吸で何かを語ろうとするんです。

 それが、なぜ、最後に大河の、大ざっぱな現代社会批判に流れ込むのか。Aのせせらぎが、なぜ最後にBの声に自分から呑み込まれるのか。

 たとえば、流れが大河に入ってむなしさを感じたら、そのむなしさで終わってもいいんです。まだしも、そのほうが、いい。


 これは頭が痛い(笑)。加藤が言っているのは「自分の感動を手放すな」ということである。自分の言葉を見失って社会に迎合してしまえば、自分の感動すら雲散霧消してしまう。心で感じたことを表現する努力を放棄すれば、心はどんどん鈍感になってゆく。関係性とは、感じて応じることだ。借り物の言葉、他人からの受け売り、剽窃(ひょうせつ)、口真似は心を死なせている証拠といえる。


 本書を読んでからというもの、文章を書くことが躊躇(ためら)われて仕方がない。

言語表現法講義 (岩波テキストブックス)

ファイル保存およびバックアップ


 既に書いた通り、パソコンが壊れてしまった。まるで、去年死んだ親父みたいにあっという間の出来事だった。老衰の時期があれば心の準備もできるが、壊れてしまえば後の祭り。テキストデータはDropboxに保存していたので、太郎先輩のパソコンでもアクセス可能だ。で、今後のバックアップはSkyDriveに保存することにした。油断しているとデータは消え失せる。諸行無常。

ノートパソコンが4万円台/Lenovo G550シリーズ 15.6インチワイド液晶 ノートブック 2958-5QJ


Lenovo G550シリーズ 15.6インチワイド液晶 ノートブック 2958-5QJ


スマート&シンプル。使いやすいレノボのベーシックノートパソコンに新OS、Windows7を搭載

メーカー型番 : 2958-5QJ

OS : Windows7 Home Premium

搭載CPU : Intel Celeron 900(2.2GHz)

液晶パネル : 15.6インチ WXGA LED 1366x768


【これまで以上に使いやすくなった設計】G550シリーズは、新たに設計された筐体デザインを採用。充実した使いやすい機能を満載させ、天盤にはテクスチャーが施された特製カバーデザイン、前モデルより薄くなった本体、新しいフルサイズキーボードには、エクセル編集をずっと楽にしてくれる数字入力に便利なテンキー・パッドも搭載。

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ジャン・ボードリヤール


 先週読了。書くのを忘れていた。


 27冊目『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール/塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)/難解だが面白い。唾棄というよりも、痰棄ってな感じ(笑)。粘っこい痰(たん)を次々と吐きまくっている。きっと、誰よりも「現代」という名の毒を飲んでしまったのだろう。ジョン・グレイよりは、ボードリヤールの方が私の好みに合う。それにしても、学者特有の小難しい言い回しは何を意図しているのであろうか? 本当にこうした言葉でなければ自分の考えを表現することが不可能なのか? 目の前でこんな言葉づかいをされたなら、「あのさー、何言ってんのか全然わからないよ」と突っ込まれてしまうことだろう。「わかる言葉」に翻訳する人が必要だ。 

2010-02-16

大野純一


 1冊読了。


 26冊目『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2004年)/大野純一による販促本。見下げ果てた代物。取り上げられている著作の大半が自ら翻訳した作品か、大野が一人で切り盛りするコスモス・ライブラリーの作品となっている。更に大野は、あろうことかグルジェフケン・ウィルバーという雑音を盛り込んでいる。大野自身がトランスパーソナルに傾いているため、クリシュナムルティの教えを言葉の上っ面でしか理解していない証拠と私は見る。とはいうものの、内容は決して悪くない(笑)。クリシュナムルティは訳者に恵まれていない。それでも菊川忠夫、藤仲孝司に比べると、まだ大野訳はましだ。仏教が発展したのは鳩摩羅什 (くまらじゅう)によるところが大きい。翻訳にも傑出した思想が求められる所以(ゆえん)である。明日はクリシュナムルティの命日。

2010-02-14

異空間の俳句たち編集委員会、G・K・チェスタトン、J・クリシュナムルティ


 3冊読了。パソコンが壊れた。今(16日)は、太郎先輩から借用したノートパソコンでネットに接続している。


 23冊目『異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩』異空間の俳句たち編集委員会(海曜社、1999年)/読んだのは二度目。序文を寄せた鶴見俊輔が「人間の存在に 頭をたれる」と書いている。犯罪者は人間であった。我々は無意識のうちに犯罪者は、量刑を科せられる「モノ」と認識している節がある。そうでもなければ、「死刑」になどできない。巻末に付された座談会が余計だ。関西弁をそのまま活字にする神経が信じ難い。中途半端な人権意識がせっかくの作品を台無しにしている。


 24冊目『木曜の男』G・K・チェスタトン/吉田健一訳(創元推理文庫、1960年)/原書は1906年に刊行されている。南條竹則による新訳が2008に出ている。小さなフォントに辟易させられたが、読み出すと気にならなくなる。ミステリ作品には風俗が色濃く描かれるものだが、この作品は傑出している。一種の二重スパイものと読んでしまうのは間違いである。本書で描かれているのは、キリスト教社会における「結社の文化」であり、カトリックにおける強迫神経症的な「罪の意識」であろう。木曜の男となったサイムはまるでCIAやMI5みたいだ。そして「日曜」こそは「神」であった。


 25冊目『瞑想』J・クリシュナムルティ/中川吉晴訳(UNIO、1995年)/クリシュナムルティ19冊目の読了。10冊の本からの抄録。瞑想に関する箴言集で、句読点がないので詩文さながら。悪い狙いではないのだが、やはりスカスカの余白が気になる。さほど文体に個性がないので意図が裏目に出ている。個人的には横書きというのも好みに合わない。尚、『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』によれば、クリシュナムルティは晩年になって瞑想という言葉を使わないことを明言しているとのこと。多分、仏教という権威ある知識に取り込まれることを嫌ったのであろう。

2010-02-13

ジョージ・バーナード・ショーもクリシュナムルティを称賛


 1934年3月28日付ニュージーランド・ヘラルド紙上に、バーナード・ショウ(ママ)は次の一文を寄せ、ニュージーランド当局によるクリシュナムルティのラジオ講話放送禁止措置を批判した。

「氏は最も崇高なる宗教的教師であり、すべての教会や宗派のメンバーにとって、氏の講話はきわめて有益であり、かつ賛同に値するものである。それゆえ今回の放送禁止措置は、愚挙ともいうべき、はなはだ遺憾な出来事である。当局は明らかに氏の何たるか、とりわけ驚くほど普遍的(カトリック)な教えについて無知であり、氏をインド人の異教徒とみなしているありさまである」


【『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(平河出版社、1982年/サンマーク文庫、1998年)】

クリシュナムルティの瞑想録―自由への飛翔 (mind books)

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 22冊目『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(平河出版社、1982年/サンマーク文庫、1998年)/クリシュナムルティ18冊目の読了。原題は「The Only Revolution」。1970年刊。クレジットにメアリー・ルティエンスの名がある。構成が『生と覚醒のコメンタリー』と同様で、個人面談の様子が描かれている。ただ、書き出しの殆どが「瞑想は――」となっており、各章のページも短い。で、本書を読めば瞑想がわかるかといえば、それがそうでもないんだよな(笑)。大野純一がまたぞろ余計なことを紹介しているが、私はクリシュナムルティが説く瞑想と禅は異なると考えている。瞑想という形に囚われると、クリシュナムルティの真意を見失うことだろう。彼は禅もマントラも祈りも否定しているのだから。

『われら』ザミャーチン/川端香男里訳(講談社、1970年/岩波文庫、1992年)


われら (岩波文庫)


 20世紀ソヴィエト文学の「異端者」ザミャーチンの代表作。ロシアの政治体制がこのまま進行し、西欧の科学技術がこれに加わったらどうなるか、という未来図絵を描いてみせたディストピア小説。1920年代初期の作だが、最も悪質な反ソ宣伝の書として長く文学史から抹殺され、ペレストロイカ後に初めて本国でも公刊された。


 尚、『ロシア 3/集英社ギャラリー「世界の文学」15』(集英社、1990年)にも収録されている。

リスクテイカーになる意味


 問題はこの前提が真実よりも深いレベルで受け止められていない点だ。もちろん、だれもがトレードを仕掛けるときにリスクを取っている。しかしだからといって、リスクを受け入れたわけではないのだ。すべてのトレードにリスクがある。なぜなら可能性に賭けているのであり、結果は保証されたものではないからだ。しかしトレードを仕掛けるとき、自分がリスクを取っていると本当に分かっているだろうか。トレードが何の保証もない可能性に賭けているものであると、本当に受け止めているだろうか。そして可能性の結果を十分に受け入れているだろうか。

 答えは明らかに「ノー」だ。大半のトレーダーは、成功者のようなリスクの考え方(リスクテイカーになる意味)をまったく分かっていない。最高のトレーダーはリスクを取るだけではない。リスクを許容する方法を習得しているのだ。トレードを仕掛けたからリスクテイカーになったという前提と、各トレードに内在するリスクをはっきりと許容する考え方には、心理的に大きなギャップがある。リスクを十分に許容して初めて、その成果が自分の運用成績に大きく表れるのだ。

 最上級者は何のためらいも葛藤もなくトレードを仕掛ける。そしてトレードが機能しなくても、同じくらい何のためらいも葛藤もなく、容易にその事実を認める。たとえ含み損で手仕舞っても、不愉快な感情は微塵も見せない。つまりトレードに内在するリスクで、自分の規律、集中力、自信を失うことはないのである。裏を返せば、不愉快な気持ち(特に恐怖心)でトレードしているのであれば、トレードに内在するリスクを受け入れる方法を学んでいないことになる。これは大きな問題だ。なぜならリスクが許容できない度合いとリスクを避けようとする度合いは比例するからだ。そして避け難いものを避けようとする試みは、トレードを成功させる能力に壊滅的な打撃をもたらすのだ。


【『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス/世良敬明(せら・たかあき)訳(パンローリング、2002年)】

ゾーン ― 相場心理学入門

2010-02-12

死生観の構築


 考えてみれば、戦後の日本社会ほど、すべてが「世俗化」され、現世的なこと以外を考えるのはおかしなことだ、とされた社会は世界的に見ても珍しいと言えるのではないだろうか。ある意味では経済成長、または物質的な富の拡大ということ自体が、戦後の日本人にとってひとつの強力な「宗教」として機能した、と言えるのかもしれない。しかし時代はもはやそうした浮揚力をもつ時代ではなく、また生における物質的な富の拡大が、死をも背景に退けさせられるほどの輝きをもって受け止められている、といった状況ではなくなっている。まさに死生観の構築ということが強く求められているのである。


【『死生観を問いなおす』広井良典(ちくま新書、2001年)】

死生観を問いなおす (ちくま新書)

2010-02-11

鈴木宗男、佐藤優


 1冊読了。


 21冊目『北方領土 特命交渉』鈴木宗男、佐藤優(講談社、2006年/講談社+α文庫、2007年)/ムネオバッシングで叩かれ、葬られた二人が日ソ外交の舞台裏を明かしている。二人によって「問題あり」とされた官僚・関係者の顔写真が掲載されている。鈴木宗男は裁判で一言も触れなかったが、実は小渕首相(当時)からの「特命」を帯びて、日ソ交渉に当たっていたとのこと。口の堅い男は信用できる。結局のところ、自分達の面子を重んじた外務官僚による嫉妬が最大の原因なのだろう。「北方領土ビジネス」というのがあるようで、この連中は北方領土が戻ってくると稼げなくなるとのこと。その筆頭として青山学院大学の袴田茂樹(はかまだ・しげき)教授の名前が挙げられている。官僚による不作為、そしてリーク情報でコントロールする彼等の手口がよく理解できる。

感覚麻痺


 感覚麻痺とは「世界を感じ取れなくなること」である。

 感覚には視角(目)、聴覚(耳)、味覚(舌)、嗅覚(きゅうかく/鼻)、触覚(皮膚)などがある。運動麻痺と同様に、感覚麻痺もまた神経損傷によって発生する。


【『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(講談社現代新書、2008年)】

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929) (講談社現代新書)

2010-02-10

光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清


 ベストセラーには食指が動かない。所詮、出版社のマーケティングやプロパガンダに乗せられた人々が買ったというだけの話であろう。そんな私が30年前のミリオンセラーを開いたのには理由がある。田坂広志の講演(なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか)で本書が紹介されており、どうしてもその部分を確認したかった。


 2005年に新版が出ていた。夫人の原稿が加えられている。癌のため31歳で絶命した医師が、我が子に宛てて書いた手記である。


 読み物としてどうこうというよりも、一人の青年の死にゆく姿が圧倒的な重量で胸に迫ってくる。井村は元々命のきれいな人物だったようだ。淡々と清水のように綴られた文章から、人柄が浮かび上がってくる。


 様々な患者との出会いがスケッチされていて、人生の深い余韻がこちらにまで伝わってくる――


「ズキン、ズキンとするのは痛いけれど、私にはそれが、建築現場の槌音(つちおと)のように感じるのです。ズキン、ズキンとくるたびに、私の壊(こわ)れた体が健康な体へと生まれかえさせて頂(いただ)いている。そう思うと、勿体(もったい)なくて、手をあわせているのです。ですから、少しも苦しいと思わないのです」

 おだやかに話されるお婆さんの目は優しく、まるで観音(かんのん)さまのようでした。そのお婆さん、今はすっかり元気になられ、またあちこちを飛びまわっておられます。


【『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清(祥伝社ノンブック、1981年/〈新版〉祥伝社、2005年)以下同】


 病(やまい)によって人生の意味を見つめ直す人は多い。限りある生の現実を思い知らされた時、人は謙虚にならざるを得ない。病気の前では地位も名誉も通用しない。強靭な肉体を誇るプロスポーツ選手ですら病気にはかなわない。病は万人に生が平等であることを教える。


 お婆さんの言葉が胸を打つ。何らかの真理を悟った者に特有の「高貴な香り」が漂う。「少しも苦しいと思わない」という言葉は決して強がりではなかったことだろう。苦(く)から離れ、達観しているのだ。


 病に臥(ふ)すと、どうしようもない孤独感が忍び寄ってくる。何となく、置いてきぼりを食ったような感覚に捉われ、家族や社会の足を引っ張っている事実に苦しむ。「病は気から」なんて言うが、身体が病んでしまえば自動的に気も病んでしまう。病院へ入院すれば、そこは病気であることが普通の場所である。深夜にもなれば廊下をひたひたと音も立てずに死の影がうろついている。


 そんな孤独や申しわけなさを乗り越えると、自分自身と向き合わざるを得なくなる。「生きる自分」と「死ぬ自分」が見えてくるのだ。お婆さんの言葉には生きることへの感謝が溢れている。それこそが死を受け容れた証拠であろう。生に対する執着心が、人を不幸のどん底に追いやることは決して珍しいことではない。


 だが、井村は若かった。そして幼い娘がいた。癌が発病し、片足を切断した。しかし、無情にも肺に転移していた――


 その夕刻、自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊(とうと)くみえたのでした。


 講演で引用されたのはこの箇所だ。死を自覚した時、世界は光り輝いていた。日常の風景が荘厳な世界に変わった。死のショックが視覚野か側頭葉を刺激したのだろうか? 私はそうは思わない。それまでは見えなかったものが、見えるようになったのだ。自分が生の当体であり、死の当体であると悟った瞬間に世界は劇的に変化したのだ。井村が見た光景はこの世の現実であり、真実であった。クリシュナムルティが言う「生の全体性」の一部を彼は覚知したのだ。


 私は既に井村よりも15年長く生きている。だが、井村が見た世界を私は知らない。井村は二人目の娘の顔をみることなく逝ってしまった。それでも、彼が生きて生きて生き抜いたことは確かだ。二人の子は井村を上回る年齢になった。亡き父は、沈黙の中から多くのことを娘達に教えているに違いない。

飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 未来を拓く君たちへ (PHP文庫)

ベトナム兵に寄せた大統領メッセージ


 訓戒


 ベトナムにいる兵士たちへ


 壁にかける野蛮人(クーン)の皮膚を持って帰還せよ。

 ――リンドン・B・ジョンソン

   合衆国大統領


 おれは腕や足が吹っ飛ぶところを見るのが大好きなんだ。

 ――大佐ジョージ・S・パットン

   第11機甲騎兵連隊長


【『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン/鈴木主税〈すずき・ちから〉訳(合同出版、1971年)】

人間の崩壊 ベトナム米兵の証言

2010-02-09

『生きるための死に方』マーティン・シェパード/森英明訳


生きるための死に方


 よく生き、よく死ぬ――そのためにはすべきことがあるはず。ガンを宣告されたら、残される人に迷惑をかけたくなかったら、まだ死にたくなかったら、伴侶が死の淵にあったら……。今わの際は人それぞれ。あなたはどんな死を選択しますか? 老練な医師が説く、自分も周りも幸せにする「死に方」処方箋。

『ジャスミンを銃口に 重信房子歌集』重信房子(幻冬舎、2005年)


ジャスミンを銃口に―重信房子歌集


 軍服で地面を蹴って民族の踊りにあふれるこれも戦場

 撃ち尽くし挟撃されて戦士らがジェラシの土地を血に染めし夏


 闘争、恋愛、家族、祖国への思い……。独房で詠んだ、決意の美しさが胸にしみいる作品集。

『反米の世界史』内藤陽介(講談社現代新書、2005年)


反米の世界史 (講談社現代新書)


 ハワイ革命からソヴィエト、キューバ、ベトナム、イラン、イラク、安保闘争まで、アメリカの大義の裏側に切り込み、激しく敵対してきた過去を持つ国や地域の視点から、アメリカが世界の覇者となっていく過程を振り返る。

ミルトン・フリードマンによるクリシュナムルティの記事


 かつてはフォード大統領の特別補佐官であり、ホワイト・ハウスのスピーチ原稿を作成する仕事に携わってもいたミルトン・フリードマンを通して、今年はKがニューヨークの代わりにワシントンで講話をするように手配したのは私であった。彼の主題は「われわれはほんとうに平和を望むのか?」であった。フリードマンはその前年オハイでKに会っていたが、その後彼について長い論説を書き、「ワシントンはクリシュナムルティを迎える用意があるか?」というタイトルで1984年7〜8月号の『ニュー・リアリティーズ』に発表していた。「クリシュナムルティがワシントンにやって来る見込みがあると知ったら、アルバート・アインシュタインはさぞかし喜んだであろうに」とフリードマンは書いていた。「核戦争のような問題は、このような事態が進展してきたのと同じレベルの理解では解決しえないだろう、より高い気づきのレベルが不可欠なのだ、とアインシュタインは主張している」。


 クリシュナムルティはワシントンに何か素晴らしいものを提供しようという望みはもっていない。……ケネディ・センターでの、花で飾りたてたプージャもないだろう。廊下に香(こう)の匂いが漂うこともないだろう。歌声もないし、オルガンやシタールの響きもない。コンサート・ホールの広い演壇の上で、ただひとり、クリシュナムルティが背もたれのまっすぐな椅子に生まじめにきちんと坐っているだけなのだ。

 クリシュナムルティは導師の役割を放棄する。クリシュナムルティがワシントンにやって来るのは、たんに人間存在の旧概念が――それらを未だ擁護している人にとってさえ――もはや信じられないことが明らかになってきているときに、来て欲しいと頼まれたからだけなのである。……クリシュナムルティは最近こう洩らしている。「たとえ仏陀やキリストやローマ法王レーガン氏が私にすべきことを告げたとしても、……私はしないだろう。というのも、たったひとりで立っていることがどうしても可能でなくてはならないからだ。そしてそうしようと思う人は誰もいない」。……彼は、自己正当性をもって他人を変えようとする人々を嫌悪するのである。彼の信条は、自分自身を変えよ、である。……あなたが世界なのだ。……彼は終始一貫して「選択なき気づき」に言及する。選択は方向、エゴイズムを巻きこんだ意志の行為を意味する。クリシュナムルティの見解によれば、それは自分の中に起こったあらゆるものを瞬間から瞬間へと、方向づけをするとか変えようとかという努力はいっさいなしに気づくこと……純粋な観察、知覚、無努力の変化をもたらすことがなのである。

 ワシントンでは、誰がクリシュナムルティの哲理に心を開くのであろうか? 保守的な教理にとらわれきっている人々では断じてない。……クリシュナムルティは自分は権威ではないと力説する。彼はある発見をした。彼はその発見したものを、彼に耳を傾けるすべての人たちにわからせるための最善をつくしているのだ。教理の母体や静かな心を得るための方法など何も提供してはいないのである。

 彼は新体系の宗教的信念をつくることには一向に関心がない。クリシュナムルティが注意を呼びかけているものを自分自身で見つけ出すことができるかどうかを探り、そこから自分自身の新発見に進んでゆくのは、むしろ各人次第なのである。


【『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1990年)】

クリシュナムルティ・開いた扉

だまし絵画像集



  • 騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

水田邦雄保険局長の欺瞞


「効果のはっきりしないリハビリが長期にわたって漫然と行われている」という専門家の指摘が、今度の診療報酬改定の最大の理由として、何度となく繰り返されてきた。「高齢者リハビリテーション研究会」の専門家からの指摘であると繰り返し主張された。

 ところが、(2006年)11月28日の衆議院厚生労働委員会で、社民党福島みずほ党首の質問で、大変なことが明るみに出された。高齢者リハビリ研究会の議事録をどんなに詳細に読んでみても、そのような指摘は一度もなされていない。こんな大事な発言が議事録に載っていないのだ。その上180日の上限日数など、議論された形跡はない。

 政府参考人の水田邦雄保険局長は、「議事録には載っておりませんけれども、一般論として申し上げまして、委員が共通認識として持っていることであれば、それは最終報告書の段階で意見集約、調整の段階でそれが報告書に盛り込まれるということはそれはあり得ることであろうし……」と歯切れの悪い答弁をしている。


【『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』多田富雄青土社、2007年)】

わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか

2010-02-08

「冬の色」山口百恵


 当時、桜田淳子のファンだったが実はレコードを持っていた。まだ小学生の頃だ。何となく桜田淳子を裏切ったような思いがしたものだ。私はレコードプレーヤーの前で、この曲の暗いトーンから大人の響きを感じ取っていた。当時は「口紅の匂い」が何を意味しているかも知らなかった。


D


GOLDEN☆BEST 山口百恵 コンプリート・シングルコレクション

内面的な腐敗と堕落/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

    • 内面的な腐敗と堕落

 本書が最終巻である。原書は全3巻で、執筆されたのは第二次世界大戦中のことであった。ということは、40代のクリシュナムルティの言葉が描かれていると考えていいだろう。昭和10年代でこれほど高い見識を持っていた事実は驚嘆に値する。我が国では日中戦争(1937年/昭和12年)が起こり、国家総動員法(1938年/昭和13年)や改正治安維持法(1941年/昭和16年)が公布された頃である。


 現代人であれば得心がゆくものの、当時の人々の常識や既成概念からすれば明らかに理解することは困難を極めたことだろう。その上、クリシュナムルティは組織を拒絶していた。なぜなら真理は組織化することができないからだ。彼は講話と面談を通して、一人ひとりの心に火を灯し続けた。


「人は、責任ある地位を占め、刻苦勉励して頂上に登るかもしれませんが、しかし内面的には人は死んでいるのです。もしあなたが、われわれの間のいわゆる偉人――その言動や演説についての報道を載せた新聞に、毎日名前の出る人物――たちに、かれらは本質的に鈍感で愚劣だと告げたら、かれらはぎょっとすることでしょう。しかしわれわれ他の人間と同様、かれらもまた萎れ、内面的に堕落していくのです。なぜでしょうか? われわれは道徳的で、大層立派な生活を送るのですが、しかし目の奥には何の炎もありません。われわれの中には、何一つ自分自身のために得ようとしていない人間もいます――少なくとも私は、彼らはそうしていないと思うのです――が、にもかかわらず、われわれの内面生活は、潮が引くように衰弱しています。知る知らぬにかかわらず、また大臣専用室にいようが、献身的奉仕家のがらんとした部屋にいようが、精神的(スピリチュアリー)には、われわれは、片足を墓場に入れているのです。なぜなのでしょうか?」

 それは、われわれがうぬぼれによって、成功と達成のプライドによって、精神にとって大きな価値を持っているものごとによって詰まっているからではないだろうか? 精神が、それが蓄積したものによって押しひしがれているとき、心は衰弱する。誰もかれもが成功と認知の梯子を登ろうとしているというのは、非常に不思議ではないだろうか?

「われわれは、その上で育て上げられるのです。そして思うに、人が梯子を登ったり、その頂上に坐っているかぎり、挫折は避けがたいのです。しかしいかにして人は、この挫折感に打ち勝ったらよいのですか?」

 しごく単純に、登らぬことによって。もしあなたが梯子を見、そしてそれがいずこに行き着くかを知れば、もしあなたがそのより深い意義を理解して、その最初の【こ】にすら足をかけなければ、あなたは決して挫折に陥りえない。


【『生と覚醒のコメンタリー 4 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)以下同】


【こ】は格(こ)で、梯子(はしご)の横木のこと。中年となって自分の中に腐敗の臭いを見出した相談者が、腐敗の原因を質(ただ)している。社会に出てからというもの、年齢を重ねるごとに妥協を余儀なくされる場面が増え続ける。多数派によって形成される社会は、常に折り合いを求める。足を引っ張られることも珍しくない。時に肘鉄(ひじてつ)を食らい、煮え湯を飲まされ、下げる必要のない頭まで下げさせられる。利益を追求しているうちに、いつしか長い物に巻かれ、大樹の陰に寄り添うようになる。こうして自分の立場や報酬のためとあらば、どんなことも辞さないような男ができあがるのだ。


 我々は「社会的成功」を条件づけられている。幸福とは社会的成功である。社会で失敗する者は落伍者なのだ。ここにおいて我々は既に「社会の奴隷」と化している。さしたる考えもなく「競争」に参加しているのだ。準備運動は義務教育から行われ、社会に有為なロボットとしてスタートを切る。


 では、社会的成功を収めた人々を見てみよう。政治家は政党の奴隷である。官僚は省庁の奴隷で、大企業の部課長は上司の奴隷となっている。芸能人はプロダクションやテレビの奴隷であり、弁護士・公認会計士は試験の奴隷である。医師は親の奴隷で、公務員は国家および地方自治体の奴隷である。おわかりになっただろうか? 成功を収めている人ほど奴隷性が強いのだ。奴隷の中の奴隷といってよい。


 彼等に充実や満足があるだろうか? きっと他人の視線にさらされる中でしか幸福を感じていないことだろう。「自分さえよければ」と人々を蹴落としてきた成功者が、世の中の混乱を生んではいないだろうか? 人は成功するたびに欲望の炎が大きくなるものだ。その炎が社会を焼き尽くそうとしている。


 クリシュナムルティは腐敗の原因が蓄積にあるとしている。ぎゅうぎゅうに詰められた冷蔵庫を想像するとわかりやすいだろう。冷気が循環しなくなれば、食べ物は腐り始める。荷物を背負えば背負うほど体力は消耗する。風景を楽しむ余裕などなくなる。それでも我々は荷物の量を増やそうと頑張っているわけだ。


 そして条件づけから自由になるために、「梯子に登るな」とアドバイスしている。


「しかし私は、ただじっと坐ったまま、腐っていくわけにはいきません!」

 あなたは今、あなたの休みない活動の只中で腐敗しつつある。そしてもしも、自己修養に余念のない隠者のように、あなたがただじっと坐りながら、内面的には欲望で、あるいは野心と羨望のあらゆる恐怖で燃えていれば、あなたは衰弱し続けることだろう。腐敗は体面とともに生まれる、というのが真相なのではあるまいか? これは、人は評判が悪くならねばならないということを意味するわけではない。しかしあなたは、非常に高潔であられるのではないだろうか?

「そうあろうと努めています」

 社会の美徳は死に行き着く。自分の美徳を意識することは、体面で固まって死ぬことである。外面的および内面的に、あなたは社会道徳の規則に適合しておられるのではないだろうか?

「われわれの大部分がそうしなければ、社会の全構造が土台からくずれてしまうことでしょう。あなたは、道徳的無秩序(アナーキー)を説いておられるのですか?」

 そうだろうか? 社会道徳は、単なる体面にすぎない。野心、貪欲、達成とその認知のうぬぼれ、権勢と地位の無慈悲、イデオロギーや国家の名における殺人――これが社会の道徳である。


 競争が生命を磨(す)り減らしている。「休みない活動」は社会の歯車の運動である。歯車は壊れるまで回り続けることを運命づけられている。このようにして社会の中で、人間が機械化され、断片化が進んでゆく。「せめて油を差してくれ!」という叫び声も届かない。ボロボロになるまで走り続けるしかない。


 勤勉や真面目という美徳で得をするのは誰か? 雇用主と税金を集める連中に決まっている。「一生懸命働くこと」を善とする我々の価値観は決して揺らぐことがない。まるで、洗脳済みの小作人だ。


 辛辣(しんらつ)極まりない言葉が、条件づけされた脳味噌を激しく揺さぶる。考えれば考えるほど船酔い状態を起こしそうになる。確かに我々は善良な仮面をつけて良き国民を演じる。そして国家は戦争に加担し、エネルギーと食糧を奪い合っているのだ。


 世界を混乱させているのは国家であり国家主義である。ここにおいて、我々自身が世界の混乱を生んでいる張本人であることに気づくのだ。


生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より

片目の中の闇


 特異な描写によって、仏像が半眼である意味を理解できる。光と闇(生と死、此岸と彼岸)とを同時に見つめるには、やはり半眼でなくてはならない。


 彼は長い間ある訓練を続けている。彼以外の誰も知ることのない孤独な訓練だ。彼が編み出し、彼だけが行い、彼の死とともに失われる、そんな訓練だ。

 それはまず固く眼をつぶるところから始まる。眼をつぶると、当然暗闇に包まれる。右でも左でもかまわないが、とにかくそこから片目だけを開ける。すると、片眼を開けただけなのになぜか完全に暗闇は消え去ってしまう。部屋にいれば部屋が見え、公園にいれば公園が見え、海にいれば海が見え、それがすべてだと思う。だが、それは眼くらましに過ぎない。閉じられた片眼はなおも暗闇を見つめている。開かれた片眼だけが見ている現実の世界が意識を覆(おお)い尽くしてしまうから、暗闇が消えたと錯覚してしまうのだ。その証拠に、閉じた眼に辛抱強く意識を集中させていけば、じわじわと暗闇が甦ってくる。現実を映すセルロイドのフィルムが焼け爛(ただ)れていくように暗闇がざわざわと明るい世界の上に滲(にじ)んでくるのだ。


【『増大派に告ぐ』小田雅久仁〈おだ・まさくに〉(2009年)】

増大派に告ぐ

松田光世


 松田光世のツイッターが凄い。上杉隆よりも強烈。早速フォローする。

2010-02-07

小澤勲


 1冊読了。


 20冊目『痴呆を生きるということ』小澤勲(岩波新書、2003年)/決して悪い本ではない。それは明言しておこう。タイトルが気負い過ぎている。痴呆に寄り添うといった程度の内容だ。詳細については書評に記すが、私はどうしても著者が好きになれない。偽善の臭いがそこここにプンプンしている。明らかに認知症患者への偏りが見て取れる。それは、精神科医の冷酷と傲慢を裏返したものであると感じた次第である。この著者は間違いなく「現場の人間」ではない。

21世紀になっても存在する奴隷/『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス

 強い者が弱い者を襲い、殴り、強姦し、喉を掻き切り、火を放ち、奴隷にしている――これが我々の棲む世界の現実であった。アフリカ大陸最大の国スーダンでは21世紀になっても尚、奴隷にされている人々が存在する。2006年の主要援助国は米、英、ノルウェー、オランダ、カナダとなっており、日本も有償・無償の資金協力は1000億円の実績がある(2006年現在)。つまり我々はスーダンと関わりがあるのだ。


 メンデ・ナーゼルが住んでいたヌバ族の村が民兵に襲撃され、彼女は12歳で奴隷にさせられた。まだ初潮も訪れていない少女が当たり前のように強姦される。メンデよりも幼い子供達も犯された。何をされたのかすら理解できていない少女達の股間は血にまみれていた。陰部をナイフで切り裂いてから挿入された少女もいた。


 意外と知られていないが北アフリカはイスラム圏である。同じアッラーの神を信じていながら、相手が黒人という理由だけでアラブ系の連中は平然とナイフで喉笛を切り裂いているのだ。私でなくても、アッラーの無力さを呪いたくなることだろう。


 汚(けが)れを知らないメンデの心が、無惨な情況と鮮やかなコントラストを描いて悲惨の度合いを深める。以下は村が襲撃された直後に、メンデ達がトラックで首都ハルツームに向かっている時の様子である――


 数時間ほど眠っただろうか。車体の大きな揺れで飛び起きると、あたりは薄暗くなっていた。目の覚めるような美しい夜景が見えた。はるか前方に、色とりどりの無数の光がきらめいている。うごめいている光もあれば、またたいている光もある。こんな夜景を見るのは初めてだった。

「ほら! 見て!」わたしはほかの4人を揺り起こした。「月も出ていないのに、どうしてあんなにきらきら光っているのかしら」

 ヌバ山地には電気がなかったので、太陽か月か炎が発する光しか見たことがなかったのだ。


【『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス/真喜志順子〈まきし・よりこ〉訳(ソニー・マガジンズ、2004年/ヴィレッジブックス、2006年)以下同】


「この町は、人間が住むところなのかしら、それとも車が住むところ?」アシュクアナがつぶやいた。あまりにも車が多いので、だれもその問いに答えられなかった。

「車はどこに住んでるの?」わたしは答えた。「車を入れなきゃならないから、あんなに大きいんだわ、きっと」

「小さな車は、大きな車から生まれるんじゃないかしら。だから、車がこんなにたくさんあるのよ」アシュクアナが言った。

 そのとき、若者が乗ったバイクが車列のあいだをすり抜けていった。

「見て! 見て!」わたしはバイクを指差して叫んだ。「あの車は小さいから、きっと今日生まれたばかりよ」

 生まれてからずっとヌバ山地で暮してきたわたしたちにとって、ハルツームはまさに別世界だった。


 奴隷にされつつある中での微笑ましいやり取り。何の罪もない健気(けなげ)少女達が、健気に生きることも許されない世界。アラブ系の金持ちが家事や育児を押しつける目的で、親と離れ離れになることを余儀なくされた子供達は、まだ自分達の運命を知る由もなかった。


 アフリカの豊かな精神性を思う。人類発祥の大地アフリカは、人間が最も長く生きてきた場所である。アフリカの人々が好戦的であったならば、人類はとっくに滅んでいたことだろう。悠久の歴史を支えているのは友好関係に他ならない。そのアフリカを侵略したのは欧米諸国であった。古来、キリスト教世界における人間とは、神を信じる理性を持つ者に限られた。つまり、自分達の神を信じない人々は人間ではないことを意味している。だからヨーロッパの連中は平然と侵略する。神の僕(しもべ)として「神の怒り」を体現するのだ。


 世界を混乱の極みに追い立てているのは、間違いなくユダヤ教から派生したキリスト教とイスラム教である。なかんずくキリスト教の罪は重い。世界に対して物申す識者は、キリスト教を徹底的に批判するべきだ。短気な神に率いられた欧米が、世界を蹂躙(じゅうりん)し続けてきた事実から目を逸(そ)らしてはいけない。


「なかに入りなさい、イエビト」ラハブ(女主人)が言った。“イエビト”というのは、アラビア語で「名前をつける価値もない少女」という意味だ。わたしはショックだった。こんなふうに呼ばれるのは生まれて初めてだった。


 奴隷となったメンデは子供達からも動物扱いされるようになる。そして女主人の暴力はエスカレートしていった――


(※客の子供に縄跳びのロープで転ばされ、ポットのお茶を全身に浴びる。子供達は嘲り笑った)

「おまえの顔には目がついてないの、イエビト! 目がついてないのかって聞いてるの!」なわとびのロープをつかんで、わたしをひっぱたいた。最初のひと振りが頭を直撃し、わたしは両手で顔を覆い隠した。

「ごめんなさい、ごめんなさい」わたしは声を振り絞った。

 一瞬、ラハブが呼吸を整えるために手を休めると、女の客が叫んだ。

「もっとつづけて! 打って打って、打ちまくりなさいよ! この子を懲(こ)らしめるにはそれしかないんだから。痛い目に遭えば、二度とやらないようになるわ」

 わたしは背中を丸めて縮こまった。ラハブはわたしの背後にまわり、さらに力を込めてロープを打ち下ろした。わたしが叩かれるたびに、女の客の歓声に混じって、男たちの笑い声が聞こえた。


 メンデは親からも殴られたことがなかった。怒りのあまり、キーを打つ私の指が止まる。この女主人と客は何度死刑になったとしても罪を償うことはできない。火あぶりにしたところで、こいつらの性根が改まることはないだろう。


 10年後、メンデは女主人の姉の家へ行くよう命じられる。そこはイギリスだった。亭主(マフムード・アル・コロンキ)は何と大使館で働く人物だった。つまり、スーダンにおける奴隷の存在は国家公認も同然ということだ。待遇は格段によくなったものの、奴隷であることには変わりがなかった。


 メンデは意を決して脱出する。様々な人々の応援もあって、遂にメンデ自由を獲得したのは2000年9月11日のことであった。マスコミも援護射撃を惜しまなかった。見知らぬ人が養子を申し入れた。ヨーロッパ各地から激励と称賛の手紙が寄せられた。スペイン人種差別反対連合(CECRA)は国際人権賞を授与した。最後の最後でやっと重い腰を上げたのはイギリス政府だった。


 だが、失った時間は二度と戻らない。そして今も尚、奴隷にされている子供達が存在するのだ。我々の世界は何と無惨なのだろう。いっそのこと人類はさっさと滅んだ方がいいのかもしれない。

メンデ―奴隷にされた少女 (ヴィレッジブックス N ナ 1-1)


D

ヤーヴェ=エホバ


 約束してくれたとしても、ユダヤ人は、“約束の地”を結局は力で奪い取らざるをえなかった。パレスチナ人は、ヤーヴェなんか信じていなかったから……。

(ユダヤ人は自らの行為を正当化するために、自分たちをヤーヴェによって「選ばれた民」と規定した。)


 ヤーヴェは、のちにエホバと改名したが、だからといって、パレスチナ人が彼を信じるようにはならなかった。


【『新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス/山崎カヲル訳(第三書館、2001年/旧版、1983年)】

新版 リウスのパレスチナ問題入門

2010-02-06

ジョン・グレイ、石弘之、安田喜憲、湯浅赳男


 2冊読了。創造と破壊の両極を堪能する。


 18冊目『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿〈いけ・ひろあき〉訳(みすず書房、2009年)/こちらが破壊。3780円という値段も破壊的だ。大量の唾(つばき)で構成された「唾棄本」(笑)。キリスト教を始めとする宗教、哲学、進歩主義、道徳、スピリチュアリズムに至るまでを徹底的にこき下ろしている。何と俎上(そじょう)にはクリシュナムルティまで載せられている。これについては追々私が批判をする予定。「書かれていない」ことがわかれば簡単に見抜くことができる。ただし、この思想史家は実に老獪(ろうかい)だ。キリスト文明から目を覚まさせる意図は評価できるが、悪口に傾き過ぎているため、不幸この上なく見えてしまう。きっと今頃、吐いた唾の半分くらいが自分の身に降りかかっていることだろう。諧謔(かいぎゃく)に富んだ短文でぐいぐい読ませる。持ち上げられているのは道家の思想のみ。ジョン・グレイが示す未来像は、その名の如く灰色だ。ま、程度を高くした斎藤美奈子って感じですな。


 19冊目『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男(洋泉社新書y、2001年)/こちらが創造。環境と文明の相関関係を探る学問が環境史。初めて知った。これは昂奮した。鼎談(ていだん)なので読みやすい。今まで、農耕民族と騎馬民族という対立軸で何となく洋の東西を比較してきたが、本書で提示された動物文明(家畜文化&麦作)と植物文明(稲作&漁業)が歴史的事実に即していることを知った。で、家畜文明は奴隷を必要とするに至り、徹底して環境を破壊し、遂には未知の伝染病から鉄槌を下される。これがヨーロッパの歴史のようだ。併せて水問題も取り上げている。環境史というのは歴史の様相を一変させるだけの力がある。森と水と食糧が人類史を左右していることがよくわかった。

一部のジャーナリズムが最高実質権力者の擁護に狂奔


 デモクラシー国家におけるジャーナリズムの役目は、天下の木鐸などという生易しいものではなく、天下の護民官でなけれぱならない。権力の作動を市民の名において拒否する力をジャーナリズムが失ったら最後、デモクラシーの息の根が止まる。ところが「権力の監視」しているはずの日本のジャーナリズムの一部が、最高実質権力者の擁護に狂奔しているのは私にとって異様にしか見えない。


Ddogのプログレッシブな日々:小沢一郎不起訴に思う

「人類は全員」米国債の空売りを−ブラック・スワン著者


 2007年に出版されベストセラーとなった経済書「ブラック・スワン」の著者、ナシーム・タレブ氏は、「人類は全員」米国債を空売りすべきだと発言した。米連邦準備制度理事会(FRB)とオバマ政権の政策が理由。

 同氏はモスクワでの会議で、米国債の空売りに「深い思考はいらない。人類は全員、この取引をすべきだ」と語った。バーナンキFRB議長とサマーズ米国家経済会議(NEC)委員長が同職にある限り、投資家は年限が長めの米国債の利回り上昇(価格は下落)に賭けるべきだと述べた。具体的な政策には言及しなかった。

 タレブ氏はブルームバーグテレビジョンのインタビューに応じ、「赤字というのは子供の手に持たせたダイナマイトのようなものだ。あっという間に手に負えなくなる」と指摘。「米国の問題は、依然として非常に高水準の負債が政府債務に転換され続けていることだ」と解説した。「今年は昨年よりさらに悪い状況になった。米国でも欧州でも、雇用者数は減少し債務は増えている」と語った。

 金融危機を受けた質への逃避で米国債相場は2008年に14%上昇。バンク・オブ・アメリカ(BOA)メリルリンチによれば、昨年は3.7%下落し、今年これまでは1.17%高。4日はギリシャやポルトガル、スペインなど欧州の財政赤字への懸念を背景に、米国債相場は値上がりした。

 タレブ氏は「民主主義の下で財政規律を順守するのは難しいものだ」と論評。「われわれは深刻な問題に直面することになるだろう」と付け加えた。


ブルームバーグ 2010-02-04

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質 ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質

2010-02-05

「さよならの向う側」山口百恵


 今聴いても名曲だ。阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲。山口百恵の全盛期はこの夫婦が曲を提供していた。これが事実上のラストソングとなった。中3トリオの中にあって、あまりにも泣かないため「可愛げがない」とされた百恵が、最後のステージでこんなに泣いている。そして彼女は白いマイクをステージに置いて、我々の前から去って行った。




伝説から神話へ 日本武道館さよならコンサート・ライブ-完全オリジナル版- [DVD] 2000 BEST 山口百恵 ベスト・コレクション

(※左がDVD、右がCD)

カロリースリム・マーブル IH対応 フライパン


 私が愛用しているのは26cmのもの。スーパーで売っている丸い冷凍ピザがちょうど納まる大きさだ。材質は「本体/アルミニウム合金2.4mm、内面/フッ素樹脂加工(マーブル4層コート)、外面/焼付塗装(マーブル2層コート)」となっている。マーブルコートの注意点としては、高温にしない、入れっ放しにしない、直ぐ洗い水を切る、といったところ。


 既に数ヶ月使用しているが全く問題ない。それどころか、私は新妻になったような気分を味わっている。それほどいい。全く焦げ付かない上に洗いやすいのだ。多分、表面のコーティングは恒久的なものではないだろうから、大切に使いたい。で、ダメになったら、また同じものを買うつもりだ。


 宿六亭主を殴るには、もってこいの握りも嬉しい。


カロリースリム・マーブル IH対応 フライパン 20cm SMR-3000カロリースリム・マーブル IH対応 ディープパン 24cm SMR-3003カロリースリム・マーブル IH対応 フライパン 26cm SMR-3001
20cm
24cm
26cm

カロリースリム・マーブル IH対応 フライパン 28cm SMR-3002カロリースリム・マーブル IH対応 いため鍋 28cm SMR-3004
28cm
いため鍋28cm

忘れる


 その時、悲しみに沈んでいる僕の耳に、「さあさあ、ご覧よご覧よ」という声が聞こえた。振り返ると、そこにはのぞきからくりがあって、何十人もの子供が集まっていた。そしてのぞきからくりのめがねの前には、見物人の列ができていた。男が芝居気たっぷりに、連続する絵の説明をした。「ほらそこに勇ましい騎士がいるだろう。そして輝くばかりに美しいお姫様」。涙はすっかり乾き、僕は一心にそのからくりの箱を見つめた。手品師のこともお皿のことも、もう完全に忘れていた。僕はその魅力に抗することができずに、1キルシュ払ってめがねの前に立った。隣のめがねの前には、女の子が立っていた。目の前に、心ときめく物語の絵が次々に展開していった。元の世界に戻った時、僕は1キルシュとお皿を失(な)くしていた。手品師は影も形もなかった。僕は失くした物のことを忘れた。騎士の活躍と恋と戦いの絵が、僕を飲みこんだ。空腹も忘れ、家で僕を待っている恐怖さえ忘れていた。


【「手品師が皿を奪(と)った」ナギーブ・マハフーズ、1969年、高野晶弘訳/『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』朝鮮短編集、魯迅、巴金、茅盾、クッツェー、ナーラーヤン、イドリース、マハフーズ(集英社、1991年)】

中国・アジア・アフリカ/集英社ギャラリー「世界の文学」〈20〉

2010-02-04

増刷『石原吉郎詩文集』石原吉郎(講談社文芸文庫、2005年)


石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)


 詩とは「書くまい」とする衝動であり、詩の言葉は、沈黙を語るための言葉、沈黙するための言葉である――。敗戦後、8年におよぶ苛酷な労働と飢餓のソ連徒刑体験は、被害者意識や告発をも超克した「沈黙の詩学」をもたらし、失語の一歩手前で踏みとどまろうとする意志は、思索的で静謐な詩の世界に強度を与えた。この単独者の稀有なる魂の軌跡を、詩、批評、ノートの三部構成でたどる。

藤井直敬、加藤典洋


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折11『つながる脳』藤井直敬〈ふじい・なおたか〉(NTT出版、2009年)/毎日出版文化賞受賞作品。誠実さが強過ぎて、まだるっこくなってしまっている。文章の話だ。「僕」という一人称も鼻につく。不思議なほどわかりにくい文章である。40ページほどで挫ける。


 17冊目『言語表現法講義加藤典洋岩波書店、1996年)/これは勉強になった。明治学院大学国際学部での講義を編集し直したものだが、いやはや凄い。テクニカルな視点で表現の豊かさを追求している。加藤の比喩が絶妙。言われなければ気づかないことが満載。ブロガーは必読のこと。数多くのテキストが引用されており、読書案内としても秀逸。傑出したプレゼンテーション能力にたじろぐがいい。

「ホームにて」中島みゆき


 北国から上京した者は一様に東京の寒い冬にたじろぐ。そして満員電車の中の孤独を知る。故郷(ふるさと)は地図の上から心の中へ移動する。帰省は乗り物による移動ではなく、変わらぬ過去を確認する作業となる。私のニヒリズムでさえ、郷愁にはかなわない。この曲にじっと耳を傾けながら、私は俯(うつむ)き加減で奥歯を噛みしめる。


D

Singles

植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達


 5年前に植物状態と診断された男性が、質問に対する脳の反応によって「イエス」や「ノー」などの意思疎通ができるとする研究結果が、3日の医学誌「ニューイングランド医学ジャーナル(New England Journal of Medicine)」に発表された。

 この男性は現在29歳で、2003年に交通事故で脳に深刻な外傷を負った。身体的な反応はなく、植物状態と診断されていた。

 英ケンブリッジ(Cambridge)にあるウルフソン脳イメージングセンター(Wolfson Brain Imaging Centre)のエードリアン・オーウェン(Adrian Owen)博士率いる英・ベルギーの研究チームは、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使い、男性に「イエス」「ノー」で答えられる質問をしたときの脳の動きを撮影した。その結果、男性の脳が正しく反応していることが確認できたという。

 この技術は、健常者に対しては100%正確に脳の反応を復号化することができるが、話したり動いたりできない植物状態の患者に対して試されたのは今回が初めて。過去3年で植物状態の患者23人に対して実験を行い、4人から反応が確認されたが、「イエス」「ノー」のコミュニケーションができたのはこの男性1人だけだった。

 ベルギー側の代表、リエージュ大学(University of Liege)のスティーブン・ローレイズ(Steven Laureys)博士は、「この技術はまだ始まったばかりだが、将来的には患者が感情や思考を表現することで、自ら環境をコントロールして生活の質を高められるようにしたい」と抱負を語っている。


AFP 2010-02-04

金光教と天理教


 幕末維新の頃に現われた二代宗教である金光(こんこう)教と天理教は、修験道の世界との濃密な接触の中から生まれている。


【『日本奇僧伝』宮元啓一(東京書籍、1985年/ちくま学芸文庫、1998年)】

日本奇僧伝 (ちくま学芸文庫)

2010-02-03

東京の投資顧問会社を捜索へ(増田俊男)


 東京の投資顧問会社が、カナダのIT関連企業の未公開株について、「上場すれば40倍になる」とうたって無登録のまま投資を募っていた疑いが強まりました。警視庁は、この会社を近く金融商品取引法違反の疑いで捜索するとともに、株のほかコーヒー栽培などへの投資も募り、少なくとも50億円を集めていたとみて、捜査を進める方針です。

 この会社は東京・中央区に本社がある投資顧問会社、「サンラ・ワールド」です。警視庁の調べによりますと、「サンラ・ワールド」は「上場すれば40倍に値上がりする」などとうたって、国に無登録のまま、カナダのIT関連企業の未公開株への投資を募ったとして、金融商品取引法違反の疑いが持たれています。「サンラ・ワールド」は、時事評論家の増田俊男氏の知人の女性が社長を務め、増田氏が自分の著書の読者などを対象に講演会を開いて投資を募っていました。しかし、関係者によりますとカナダの企業の株は上場が何度も延期され、現在も上場されていないということです。また、「サンラ・ワールド」は、ハワイでのコーヒー栽培やパラオの銀行などへの投資も募っていましたが、中には配当が得られず、出資した金の返金に応じてもらえないとして訴訟を起こした投資家もいるということです。警視庁は、さまざまな名目で少なくとも50億円を集めていたとみて、捜査を進める方針です。


NHKニュース 2010-02-03

目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

 サブカル手法でアプローチする世界宗教入門、といった内容。記述が正確で、大変勉強になった。「教祖を目指す」というネタで、実は「教団の力学」を明らかにしているところがお見事。冷徹な眼差しから繰り出されるユーモアといった味つけだ。


 本書の教えを遵守すれば、きっと明るい教祖ライフが開けるでしょう。教祖にさえなれば人生バラ色です!


【『完全教祖マニュアル』架神恭介〈かがみ・きょうすけ〉、辰巳一世〈たつみ・いっせい〉(ちくま新書、2009年)以下同】


 この一言で教祖を目指す人はまずいない。が、しかし、信仰の動機が欲望に支えられていることを巧みに表現している。「幸せになりたい」という願望は、現在が不幸である証なのだ。他人の不幸に付け込むのが、宗教という宗教の常套手段である。言わば「不安産業」。


 では果たして、教祖の機能とは何か?


 では、最初にもっともシンプルな教祖の姿を提示します。教祖の成立要件は以下の二要素です。つまり、「なにか言う人」「それを信じる人」。そう、たったふたつだけなのです。この時、「なにか言う人」が教祖となり、「それを信じる人」が信者となるわけです。


 シンプルにして明快。一瞬、「エ?」と思わされるが、よくよく考えてみると確かにこの通りだ。教義の高低・浅深は関係ない。教祖と信者の関係性は、こうして生まれここに極まるのだ。


 ヒトという動物の特徴は色々あるが、何と言っても際立っているのは「コントロールするのが好き」という点であろう。スポーツは身体のコントロールである。車や機械の運転は、延長された身体性と考えられる。そして極めつけは「他人をコントロールすること」だ。


 小犬を見ては「お手」を無理強いし、子供が生まれると躾(しつけ)や教育と称して、家のしきたりや社会通念を叩き込む。長ずるに連れ、よりよい学歴を目指すことを強制し、社会に出るや否や地位獲得に余念がない。地位とは、「多くの人々をコントロールできる立場」のことである。


 脳や身体がネットワークを形成している以上、社会がネットワーク化(ヒエラルキー化)することは避けられないのだ。そしてコントロールの最終形が宗教と拳銃であると私は考える。生殺与奪を握っているという点において、この両者は顔の異なる双子なのだ。


 ゲラゲラ笑いながら読んでいると見落としがちであるが、そこここに慧眼(けいがん)が窺える――


 さて、ここからは具体的な教義作成について考えていきますが、最初にはっきりと述べておきたいことがあります。皆さんの中に、宗教に関して次のような持論をお持ちの方はいませんか。すなわち、「宗教は社会の安寧秩序を保ち、人々の道徳心を向上させるものであり、社会を乱すものであってはならない」と。残念ながら、これはとんだ見当外れなので直ちに忘れて下さい。宗教の本質というのは、むしろ反社会性にあるのです。特に新興宗教においては、どれだけ社会を混乱させるかが肝(きも)だということを胸に刻んでおいて下さい。

 現に大ブレイクした宗教を見てみると、どれもこれも反社会的な宗教ばかりです。イスラム教しかり、儒教しかり、仏教しかり。どれも最初はやべえカルト宗教でした。しかし、その中でも最もヤバいカルトはキリスト教でしょう。イエスの反社会性は只事ではありません。罪びとである徴税人と平気でメシを食い、売春婦を祝福し、労働を禁じられた安息日に病人を癒し、神聖な神殿で暴れまわったのです。当時の感覚で言えばとんでもないアウトローで、もちろん社会の敵なので捕らえられて死刑にされます。同胞のユダヤ人からも、「強盗殺人犯は許せてもイエスだけは許せねえ」と言われる程の嫌われっぷりでした。しかし、イエスはこれほど反社会的だったからこそ、今の彼の名声があるとも言えるのです。


 これはまさしく、クリシュナムルティが説いている「反逆」である。普通に生きている人々は、普通の状態において既に「社会の奴隷」となっている。つまり、形成された社会を容認してしまえば、信者は二重の意味で奴隷となるのだ。とすると、社会にプロテスト(異議申し立て)することで何らかの自由を目指す必然性が生じる。このようにして社会の奴隷は、奴隷である自分の立場に気づき、自由を求めて今度は教祖の奴隷となるのだ。ま、早い話が「ご主人様」を取り替えただけのことだ。


 人間の価値観というものは、その殆どが作られた幻想に過ぎないが、最も奥深い部分に埋め込まれたソフトウエアが宗教である。本来であれば人間を解放するための宗教が、教義によって人間を束縛するというジレンマを抱え込む。自由になるためには犠牲が伴うのだ。


 だが、真の宗教、あるいは思想、または普遍的な物語はそうではあるまい。既成の価値観に反逆しながらも、教祖や教義、そして自分自身からも自由になる方途があると私は信ずる。なぜなら、それがなければ世界の平和は成立しないことになるからだ。


 今、世界平和を妨げているものは国家、民族、そして宗教である。いっそのこと全部なくすか、新しくするべきだ。

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

NTTの番号案内


 第一、電話番号という、言ってみれば自分の会社の事業内容の案内でカネを取るという神経がわからない。

 たとえば、デパートのねえちゃんが売場案内でカネを取るだろうか?

「あ、メニューお願いね」

「料理案内は1件80円ですが」

 なんていうレストランがあったとして、そんな商売が通用するものであろうか?


【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】

かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003

2010-02-02

小田雅久仁


 1冊挫折。


 挫折10『増大派に告ぐ』小田雅久仁〈おだ・まさくに〉(新潮社、2009年)/第21回ファンタジーノベル賞受賞作品。時を同じくして前原政之さんと、橋本大也さんが褒めていたので読んでみた。前原さんが書いているように、比喩・置き換えは確かに素晴らしい。お見事である。しかしながらテンポが悪い。あらすじの行方がわからなくなっている。積み上げられた細部、といった印象。それと舜也の視線が完全に大人のものとなっているところがおかしい。三人称と一人称が入り混じっているのも違和感を覚えた。わかっている。私に堪え性がないだけの話だ。54ページで挫ける。でも、次の作品は必ず読もうと思う。


 世界が原子で構成されているなら、「私」という存在は原子と原子の間で揺れる波のようなものだろう。飛沫は失った何かである。そして私は瞬間瞬間の変化を拒絶しながら、昨日までの自分の形状にこだわっているのだ。私は寄せるだけで、返す波は別人である。今、「私」という現象があるだけに過ぎない。

文庫化『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ(PHP文庫、2009年)


生かされて。 (PHP文庫)


 1994年、「永遠の春」と呼ばれたルワンダで大量虐殺が起こった。人口比9割のフツ族が突如ツチ族に襲いかかり、100日間で100万人の人々を殺したのだ。牧師の家の狭いトイレに7人の女性と身を隠した著者は、迫り来る恐怖と空腹に負けず、奇跡的に生き延びた。祈りの力によって、希望の光を灯したその後の彼女は、虐殺者たちをも許す境地に達する……。心揺さぶる感動の書、待望の文庫化。

「これが青春だ」布施明


 絵に描いたような美しい青春。どこにもないユートピアを歌ってのけるところが素晴らしい(笑)。青春とは開き直りの異名でもある。昭和42年(1967年)のヒット曲。


D


 で、こっちが原盤――


D


決定版 布施明

資本主義は大脳辺縁系へ方向転換した


 ドラッグ商業とその影響は成熟した資本主義が大脳辺縁系へ方向転換した証拠で、消費者の物質的な欲求とは対照的に、ますます多くの関心が娯楽や感情的な満足に向かっていることを示す。人類学者ロバート・アードリーの言葉を借りるなら、ドラッグ商業は飢えた胃袋が飢えた精神に置き換わる世界で花開いたのである。


【『ドラッグは世界をいかに変えたか 依存性物質の社会史』デイヴィッド・T・コートライト/小川昭子〈おがわ・あきこ〉訳(春秋社、2003年)】

ドラッグは世界をいかに変えたか―依存性物質の社会史

2010-02-01

2010年1月のアクセスランキング


順位記事タイトル
1位日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信
2位そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ウィリアム・ノースダーフ
3位アインシュタインを超える天才ラマヌジャン/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
4位郷原信郎:民主主義国家で政治家が言いがかりのような事件で潰されることは絶対にあってはならない
5位クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
6位少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした/『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
7位ジニ係数から見えてくる日本社会の格差/『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵』北村慶
8位ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ
9位その男、本村洋/『裁判官が見た光市母子殺害事件 天網恢恢 疎にして逃さず』井上薫
10位『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』その後
11位獄中の極意/『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三
12位ミッキー安川のずばり勝負/宮崎正弘、佐藤優
13位信用創造のカラクリ
14位巧みな介護の技/『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』岡田慎一郎
15位輪廻転生からの解脱/『100万回生きたねこ佐野洋子
16位エレクトーン奏者maruさん情報
17位2009年に読んだ本ランキング
18位経頭蓋磁気刺激法(TMS)/『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著
19位日垣隆が文雅新泉堂をこき下ろしていた
20位精神障害者による犯罪の実態/『偽善系II 正義の味方に御用心!』日垣隆

小沢問題で検察リークに踊らされるメディアへの危惧


 既にメディアから干されつつあると、上杉本人がラジオで語っている。


 昨年3月、西松建設事件の発端となる大久保秘書の逮捕された直後、筆者はフジテレビの報道番組『新報道2001』に出演した。

 当日のゲストは、宗像紀夫・元東京地検特捜部検事と、笹川尭自民党総務会長(当時)、小池晃共産党政審会長などであった。

 大久保秘書の逮捕について発言を求められた筆者はこう語った。

「私自身、議員秘書経験がありますが、その立場からしても、政治資金収支報告書の記載漏れでいきなり身柄を取るのはあまりに乱暴すぎるように思う。少なくとも逮捕の翌日から、小沢一郎代表(当時)はフルオープンの記者会見で説明を果たそうとしているのだから、同じ権力である検察庁も国民に向けて逮捕用件を説明すべきだ。とくに記者クラブにリークを繰り返している樋渡検事総長と佐久間特捜部長は堂々と記者会見で名前を出して話したらどうか」

 筆者は、当然のことを言ったつもりでいた。ところが、番組放送終了後、笹川総務会長が烈火のごとく怒っていた。私に対してではない。番組の幹部に対してである。

「あんなやつを使うな! あんなのとは一緒に出ない」

 昼過ぎ、スタジオを出た筆者の元に検察庁担当の社会部記者から電話が入った。

「お前まずいぞ、(検察側の)実名を出しただろう。『調子に乗りやがって』と、検察は怒っていたぞ。心配して言ってんだ。本当に、気をつけた方がいいぞ」

 彼の話によると、本気でやろうと思えば、痴漢だろうが、交通違反だろうが、あらゆる手段を使ってでも、狙われたら最後、捕ってくるというのだ。たとえば道を歩いていて、他人の敷地に間違えて足を踏み入れただけで不法侵入の疑いで持っていかれるかもしれないということだった。


週刊 上杉隆/2010-01-21

メアリー・ルティエンス、井村和清


 2冊読了。


 15冊目『クリシュナムルティ・開いた扉』メアリー・ルティエンス/高橋重敏訳(めるくまーる、1990年)/伝記三部作の最終章。1980年から亡くなるまでの6年間が綴られている。読み物としては少しも面白くない。多分、資料が多過ぎたせいだろう。内容が散漫な上、人物像の全体性が浮かんでこない。だがこれは、メアリー・ルティエンスだけの責任とは言えない。クリシュナムルティは組織を作らなかったために、思想の広まる様子がつかみにくいことを見逃すわけにはいかないだろう。ロスアラモスの国立研究調査センター(原子爆弾の開発を目的として創設されたアメリカの国立研究機関)での講話は真剣勝負そのもので、微塵の妥協も許さぬ内容であった。いずれにせよ、この三部作はスピリチュアル色が強いので、しっかりとクリシュナムルティの思想を学んでから読むことを勧める。



 16冊目『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清(祥伝社ノンブック、1980年/祥伝社、2005年)/30年前のミリオンセラー。田坂広志の講演“なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか”で紹介された件(くだり)を確認するために読んだ。31歳で死んでゆかねばならなかった医師が、2歳の娘と身ごもった子へのメッセージを綴った遺稿集。元々は私家版だったとのこと。井村和清は最後の最後まできれいな生き方を貫いた。私は彼よりも15年多く生きているが、そのこと自体が恥ずかしく思えた。長女も既に彼より長生きしているのだ。10代、20代の若者に読んでもらいたい作品である。

喜べることは常にある


「あのね、ナンシー、あたしはいま知らないうちにやってたのよ──やっていることに気がつかずにね。ときどきそういうことがあるのよ。なれてくるとね──なにかしら喜ぶことを自分のまわりから見つけるようにするのよ。だれでも本気になってさがせばきっと自分のまわりに、喜べることがあるものよ」


【『少女パレアナ』エレナ・ポーター村岡花子訳(角川文庫、1962年)】

少女パレアナ (角川文庫クラシックス)