古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

ゲオルク・グロデック


 1冊挫折。


 挫折14『エスの本 無意識の探究』ゲオルク・グロデック/岸田秀、山下公子訳(誠信書房、1991年)/原書は1923年刊。エスとはフロイト理論で情動を示す用語である。きっと脳の扁桃体で形成されているのだろう。女友達への手紙といった形式でエスを解説している。「人間は自分の知らないものに動かされており、エスに支配されている」とのこと。「そう言われてもなあ……」というのが率直な感想だ。元々私はフロイトにも興味がないので、単なるこじつけのように感じた。エスという名前をつけたところで、どうせ脳内に存在するのだ。クリシュナムルティを読むようになり、以前ほど意識に対して興味を覚えなくなった。所詮、意識とは知覚の集中に過ぎない。ストレス社会が人の心を捻じ曲げるようになってから精神分析が脚光を浴びているが、私は不信感を払拭することができない。彼等がやっていることは、せいぜい「物語の再構成」と投薬だけであろう。人間心理を小分けにするよりも、精神を統合するべきではないのか?

ジョン・グレイのクリシュナムルティ批判/『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ

 ジョン・グレイによるクリシュナムルティ批判の全文を挙げておこう──

クリシュナムルティの重荷


 19世紀の末から20世紀のはじめにかけて世界各地で流行したニューエイジのカルト集団、神智学協会はジドゥ・クリシュナムルティをキリストや仏陀に次ぐ現代の救世主に祭り上げた。若年の折、クリシュナムルティは公然とこの役割を拒否し、もっぱら、人はそれぞれに自身の救済を模索しなくてはならないと説いた。重荷を一身に引き受けて人類を救うほどの救世主は待望できないという趣旨である。
 クリシュナムルティの教えは、自身が斥けた古来の神秘主義と共通するところが少なくない。神秘哲学は人類を苦悩から解放する悟りを約束したが、その希望はありがた迷惑な重荷だった。人間はほかの動物と共有している生き方を捨てきれず、また、捨てようと努めるほど賢くもない。不安や苦悩は、静穏や歓喜と同じ人間本来の心情である。自身のうちにある獣性を脱却しえたと確信すると、そこで人間は偏執、自己欺瞞、絶えざる動揺といった固有の特質をさらけ出す。
 一般に知られているところから推して、クリシュナムルティの生涯は並はずれたエゴイズムの貫徹と言うほかはない。ご多分に漏れず、陰では淫乱この上なかったが、一介の説教師とはちがう精神的指導者という地位を利用して、寄ってくる崇拝者たちを慰みものにした。人には無私無欲を説きながら、自分は神秘的な陶酔をごくありきたりの癒やしに結びつける生き方を目論み、その矛盾、不一致には知らぬ顔だった。
 これはいささかも異にするには当たらない。獣性を排斥する者は人間をやめるわけではなく、ただ自分を人間の戯画に仕立てるだけのことである。そこはよくしたもので、大衆は聖人君子を崇める半面、同じ程度に忌み嫌う。(138-139ページ)


【『わらの犬 地球に君臨する人間』ジョン・グレイ/池央耿〈いけ・ひろあき〉訳(みすず書房、2009年)以下同】


 意図的な攻撃性が窺える文章で、この人物の性根が垣間見える。まず、この記述には事実が一つも示されていないことに気づく。では、一つ一つ検証してみよう。


 神智学協会のことを「ニューエイジのカルト集団」とレッテルを貼っているが、このような言葉を使うのは保守的な国家主義者と相場は決まっている。異質さや反社会性、あるいは非科学性を嘲笑したつもりなのだろう。馬鹿丸出しである。ジョン・グレイは科学による進歩主義を批判しながら、科学の奴隷であることをさらけ出している。大体、2000年前にはイエスだって異端視されたわけだろ? 仏法者の私からすれば、天地創造を説くキリスト教の方が立派なカルトだと思えて仕方がない。更に、ジョン・グレイが好む道教というのは、房中術を取り入れて単なるセックス教団みたいになっているのだ。


「自身が斥けた古来の神秘主義と共通するところが少なくない」、「並はずれたエゴイズムの貫徹と言うほかはない」、「ご多分に漏れず、陰では淫乱この上なかった」──根拠を一つも示さずして、悪口を並べ立てているだけだ。


 ジョン・グレイが下ネタを引っ張り出したのは、彼自身のどこかに性的なコンプレックスがあることを示唆している。これだけのデタラメをスラスラと書けるのだから、ジョン・グレイはイギリスの大衆紙ザ・サン」でアルバイトでもすればいいのに。きっと下衆(げす)なエロ記事を好きなだけ書けることだろう。


 しかもだよ、この後でこんなことを書いているのだ──

 動物は生きる目的を必要としない。ところが、人間は一種の動物でありながら、目的なしには生きられない。人生の目的は、ただ見ることだけと考えたらいいではないか。


 完全にクリシュナムルティのパクリだ。結局この人物は、自分が好む道家の思想やガイア理論の肩を持つために、不要な批判を加えることで馬脚を露(あら)わしている。


 知識が武器と化せば、おのずから暴力性をはらむ。隠された悪意は必ず腐臭を放っている。


 ま、このおっさんは、所詮評論家のレベルであり、寄生虫みたいな存在だ。で、その巧妙な手口を知れば知るほど、MI5の手先に見えてくる。ま、学術芸者といったところだろう。


 欧米で関心を集めているのは、キリスト教批判が上手いということだけであって、思想的な豊かさや斬新さは一つもない。わかりやすく言えば、筒井康隆みたいなレベルだ。


 下劣な批判が書かれるところを見ると、やはりクリシュナムルティの教えは権力者にとって危険なものであることが理解できる。


クリシュナムルティのセックス・スキャンダルについて


瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ

 瞑想に関するクリシュナムルティ箴言集である。10冊ほどの著作から抜粋したもの。中川吉晴の訳はわかりやすさに重きを置いているため、文章の香りが損なわれている。だが、新訳は必ず新しい発見を与えてくれる。


 クリシュナムルティの教えを実践するには瞑想、観察が不可欠となる。「あるがままのものを、あるがままに見つめよ」というのが唯一の実践法だ。しかしながら、読めば読むほど自分が近づいているのか、遠ざかっているのかがわからなくなる。


 そこに「瞑想」という形式があるわけではない。クリシュナムルティは座禅を組めと言っているわけではないのだ。それどころか禅やヨガを明快に否定している。ということは、「修行としての瞑想」を否定していることになろう。


 クリシュナムルティによれば思考を終焉(しゅうえん)させ、時間を止(や)ませることが瞑想であるという。我々の生活は「知覚+反応」に過ぎない。つまり、外界からの情報に対する反射行動といえる。情報とは意味である。そして情報に意味を付与しているのは思考なのだ。


 犬が食べものを見つけた時、たぶん犬は何も考えていない。あいつらは時折、小首をかしげるようなポーズをすることはあるが、決して考えてやしない。だから、鼻をクンクンさせて匂いを確認する。彼等は「考えて」いるのではなく、「感じて」食べるのだろう。


 人間は考える葦(あし)である我思う、ゆえに我あり。西洋哲学はおしなべて、神と向き合う「私」に取りつかれていた。


 だが、よく考えてみよう。「私の──」と言う時、それは自分の欲望を象徴している。私の車、私の家、私の家族、私の信念、私の思い出、私の好物、私の趣味、私の理想、私の……。「私」とは私の欲望である。欲望は快・不快をもって満たされたり満たされなかったりする。そして、自分の欲望と他人の欲望とがぶつかり合うのが、我々の生きる世界ではないだろうか?


「私」は私の過去でもある。時間と思考に終焉を告げるのが瞑想であるならば、それは「私」の解体である──

 瞑想は
 生のなかで もっとも偉大な芸術のひとつです
 おそらく最高に偉大なものでしょう
 それは ほかの誰かから学べるものではありません
 それが 瞑想の美しさです
 瞑想には どんな技法もありません
 それゆえに 瞑想には権威者などいないのです
 あなたが自分自身について知るとき
 つまり あなた自身を見つめ
 どのように歩き どのように食べ
 なにを話しているかを見まもり
 おしゃべりや 憎しみや 嫉妬を見つめ
 あなた自身のなかで
 これらすべてのことに
 思考をさしはさむことなく気づいているとき
 それはすでに瞑想になっています


 だから
 バスにのっていても
 木漏れ日のさす森のなかを歩いていても
 鳥のさえずりを聴いていても
 妻や子どもの顔をながめていても
 瞑想はおこります


 いったい どうして
 瞑想が きわめて大切なものになるのでしょうか
 まったく不思議なことです
 瞑想には
 終わりがありませんし
 始まりもありません
 それは ひとつぶの雨のようなものです
 ひとつぶの雨のなかには
 小川があります
 大河があります
 海があります
 滝があります……
 それは
 大地をやしない
 ひとをやしないます
 それがなければ
 大地は 砂漠になってしまうでしょう
 瞑想がなければ
 ハートは 砂漠になり
 不毛の地になってしまいます


【『瞑想』J・クリシュナムルティ/中川吉晴訳(UNIO、1995年)】


 ブッダは欲望に対して肯定も否定もしなかった。ただ、「離れよ」と説いた。欲望を離れて見つめる人は少欲知足となった。すると今度は、少欲知足がスタイルとして確立されてしまった。本末転倒。


 偉大なる宗教者達は「教義を説いた」わけではなかった。それを後世の弟子が教義に格上げし、教条として人々を縛る道具にしてしまった。教義はラインと化して、そこからはみ出すとけたたましい音のホイッスルが鳴り響く。人々は恐怖感に支配されてコートの中でおとなしく生きてゆく。犬に誘導される羊の群れのように。


 実はクリシュナムルティが言う瞑想が、さっぱりわからない。わからなくてもいいや、とも思っている。少なくとも私にとって、クリシュナムルティの言葉に接することは瞑想を意味していない。心がざわめいて仕方がないからだ。


 人と話したり、本を読んだりしていると、時々距離感が消失することがある。特に辛い思いを抱え、苦しみに喘ぐ人を目の当たりにすると、私は他のことが全く見えなくなる。これが私にとっての瞑想だ。


 驚くべきことだが、死を自覚すると人間の感覚は現実を全く異なる世界に変える──


知覚の無限
光り輝く世界/『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清


 これこそ真の瞑想なのだろう。生からも離れて達観する時、そこに真実の世界が立ち現れるのだ。我々は様々な条件づけによって、目を覆われ耳を塞がれてしまっている。


 例えば、親しい者同士が集まった時にでも、クリシュナムルティのように数分間を黙って過ごすのもいいだろう。クスクス笑いながらでも構わない。大事なことは言葉を超えたコミュニケーションが確かに存在するという事実なのだ。



瞑想
八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良
目的は手段の中にある/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

究極のスリル…? 仏でオーダーメード「誘拐」サービス

 究極のスリルを味わい人のために、フランスの会社が「誘拐」サービスを始めた。誘拐の筋書きを詰めた後、客は契約書と免責同意書にサインし、誘拐されるのを待つ。最大限の緊張感を得られるよう、いつ「誘拐犯」が現れるかは知らされない。
 さらわれて縛られたり猿ぐつわをかませられた上で4時間監禁、という「基本パッケージ」が900ユーロ(約11万円)。このほか、追加料金で脱走やヘリコプターによる追跡などを加えることも可能。
 1月中旬のサービス開始以来、1日に2件の注文が入ることもあり、客の多くはバンジージャンプやスカイダイビングでは物足りなくなった大手企業の幹部らという。


【ロイター 2010-02-24


 これは危険だ。「誘拐ごっこ」がまかり通るのであれば、「殺人ごっこ」「テロごっこ」もそのうち通用するようになることだろう。で、最終的なサービスとしては「戦争ごっこ」があり得る。

個別性と他者との関係

 私がよく聞いていようといまいと、母の話は止まらなかった。「種は木から生まれて、やがて木になるわ。種が種であるのは一時的なことでしかないのよ。種から木へ移り変わるのだから、なぜ種であることにとらわれるのかしら? 同じように、私たち人間それぞれも個別性を持っているけれど、その個別性は一時的なものでしかないのよ。私たちの個別性は実際とは違って見かけだけかもしれないわ。坊やは、私がいなかったら存在するかしら? あなたが食べている食べ物なしに存在するかしら? 自分が座っている地面なしに存在するかしら? 私たちの個別性は実際には他者に依存しているのよ。個別性は他者とは分けられないものなの」
 母は無学だったが、ジャイナ教の文学の多くの歌や詩、韻文を諳(そら)んじていた。


【『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール:尾関修、尾関沢人〈おぜき・さわと〉(講談社学術文庫、2005年)】