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2010-03-31

梶井厚志、一条真也、クリエイティブ・スイート、池上彰


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折22『戦略的思考の技術 ゲーム理論を実践する』梶井厚志(中公新書、2002年)/どうも、文章が鼻について仕方がない。時折挿入されるユーモアもひねりが効いていない。人生の営みをも「戦略」で捉えているところに原因があるのかもしれない。3分の2で挫ける。


 46冊目『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』一条真也監修、クリエイティブ・スイート編(PHP文庫、2008年)/クリシュナムルティの記事があったので読んでみた。該当箇所はわずか2ページのため問題外。軽い内容で暇つぶしには最適。この手の本は必ずと言っていいほど、ところどころに危うい記述がある。知らない人物の方が多かった。


 47冊目『そうだったのか! 現代史池上彰(ホーム社、2000年/集英社文庫、2007年)/4月の課題図書。知っているようで知らないのが現代史である。学校で習わないからね。よく目が届いていて勉強になった。イスラエルの件(くだり)は少々物足りないが、それ以外は面白かった。エピソードもふんだんに盛り込まれていて、まるで現代史の織物だ。池上彰は非常にバランス感覚の優れた人物であることが窺える。オイルショックからアフガン紛争〜イラク戦争に至る経緯を初めて知った。また、世界が暴力とマネーで動いていることもよく理解できる。

ドラッカー、ナチスへの入党を断る


 このフランクフルト時代、ドラッカーは、のちにナチスの幹部となった同僚記者にナチス入党を勧められて断っている。すでにドラッカーは、パスポートをもつ外国人の身でありながら、ドイツ保守党の教宣活動にかなり身を入れていた。当然、ナチスが政権掌握直後に提供してきた新聞社における編集長兼党細胞の仕事も断っていた。


【『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生〈うえだ・あつお〉(ダイヤモンド社、2006年)】

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて

2010-03-30

「THE WAY HOPE GOES」Tha Blue Herb


 Tha Blue Herbにはまっている。病みつき。削ぎ落とされたサウンドが呪文の領域にまで達している。クールを通り越してコールドって感じだな(笑)。それでいいんだ。札幌なんだから。


D

THE WAY HOPE GOES

英国がイスラエル外交官を国外追放、ハマス幹部暗殺事件で


 ホロコーストの反動によって作られた人工国家イスラエルは、過去の恨みを晴らすためにナチス化せざるを得ない。


 アラブ首長国連邦(UAE)ドバイのホテルでパレスチナのイスラム原理主義組織ハマス幹部が暗殺された事件で、ミリバンド英外相は23日、容疑者グループが所持していた英国パスポートの偽造に関与したとして、イスラエル外交官1人の国外追放を発表した。

 外相は議会で、イスラエルが関与したと考えざるを得ない「有力な理由」があるとし、イスラエル側に再発防止を保証するよう求めたと述べた。

 ドバイ当局は、事件がイスラエルの情報機関モサドの諜報員による犯行とみており、これまでに容疑者27人の氏名を公表。容疑者らは、英国のほか、アイルランド、フランス、ドイツ、オーストラリアの偽造パスポートを使ってドバイに入国していたという。

 今回の国外追放を受けて、イスラエルのリーバーマン外相は、声明で「事件へのイスラエルの関与を示す証拠は何も受け取っていない」などとコメント。同国はこれまで、事件への関与について否定も肯定もしていない。


ロイター 2010-03-23

「謀叛論」徳冨蘆花/『日本の名随筆 別巻91 裁判』佐木隆三


 2週間ほど前になるが、次々とリンクを辿っていたところ山口二郎のブログに辿りついた。何の気なしに「プロフィール」のページを開くと、そこに座右の銘が記されていた。「新しいものはつねに謀反である(徳富蘆花)」と。


 山口二郎といえば東大法学部の俊逸にして、その後首都東京に背を向け、北海道札幌の地から政治的メッセージを発信し続けている人物である。私は不明にして徳冨蘆花の言葉を知らなかった。


「謀叛論(草稿)」は幸徳秋水大逆事件に関する所感を述べたものである。24人に死刑判決が下され、12人に執行、5人が獄死という無残なものであった。その後の調査によって大半の人物が冤罪であったことが判明している。


「謀叛論」は1911年(明治44年)2月1日に旧制第一高等学校で行われた講演の草稿である。大正デモクラシーの真っ只中である。それは第一次世界大戦の前夜でもあった。民主と自由の風は暴力のマントを翻(ひるがえ)した。幸徳事件もその一つであった。


 国家が戦争に向かって進むと、高まる緊張感は厳しい取り締まりとなって現れる。そして戦争に至るまでには必ず国民の合意が形成されており、多くの人々の主張は右側に傾斜する。勇ましくて威勢のいい言論が人々に好まれるようになる。リベラルな連中は腰抜け扱いされる。


 幸徳秋水らが自由に酔い痴れいていたかどうかは私にはわからない。だが、脇の甘さがあったことは確かだろう。


 徳冨蘆花は実兄の蘇峰(そほう)を通じて桂太郎首相へ嘆願しようとするが間に合わなかった。その直後に一高からの講演依頼があった。蘆花は悲憤慷慨(ひふんこうがい)の胸の内を吐露し、次のように結んだ──


 諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と看做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂(たましい)を殺す能わざる者を恐るるなかれ」。肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸(ぬす)んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我らは生きねばならぬ。生きるために謀叛しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものではも脱(ぬ)ぎ棄てなければならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳らは政治上に謀叛して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓に縋(すが)りついてはならない。「もし爾(なんじ)の右目爾を礙(つまず)かさば抽出(ぬきだ)してこれをすてよ」。愛別、離苦、打克たねばならぬ。我らは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰(い)う。諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。


【「謀叛論(草稿)」徳冨蘆花〈とくとみ・ろか〉/『日本の名随筆 別巻91 裁判』佐木隆三〈さき・りゅうぞう〉編(作品社、1998年)】


 烈々たる叫びである。100年前に放たれた言葉が轟くような反響とともに、現在に至るまで深い余韻を残している。そしてクリシュナムルティの反逆の精神と完全に一致している。真の英知は時代の束縛を軽々と超越する。


 古いやり方を踏襲(とうしゅう)しているだけでは新しい時代を開くことはできない。国家や社会を牛耳っているのはいつの時代も老人達だ。彼等は「決して悪いようにはしない」と言いながら、自分達の利益しか考えていない。


 謀叛とは反逆であり裏切りである。では何を裏切るのか? 「古い常識」を裏切るのだ。「あり得ない」「考えられない」「やってはいけない」ことを為すことでしか、時代を変えることはできないのだ。


 漫然と過去の哲学、古い教義に縛られた人々は、必ず落伍してゆくことだろう。


 万人が異議申し立てをし、心の奥底で思っていることを披歴(ひれき)すれば、それだけで社会が一変することだろう。若者よ、社会の奴隷となることなかれ。

裁判 (日本の名随筆)

正しい多数決原理とは


 多数決原理は、通常理解されるごとく、「多数と少数の関係」を規律する慣行であるというよりも、むしろ「多数と全体との関係」を調整補完する機能を有していると考えてよかろう。(中略)万人がなっとくできる正確な理論と根拠が今日存在しない以上、国民意思の最大公約数を発見するには、どうしても、多数と少数との交流が不可欠の条件となる。「議席の多数」と「国民の総意」との間に生まれる空白地帯を埋める働きこそ、正しい多数決原理の解釈に俟(ま)たねばならぬのである。


【『政治を考える指標』辻清明(岩波新書、1960年)以下同】


 たとえ自党の多数派が、衆をたのんで強行しようする法案であろうとも、それが少数意思を無視する悪法ならば、これに盲従しないのみか、かえって野党議員とともに、これを葬り去るだけの知性と勇気を議員が備えていることを前提とした上で、はじめて多数決原理は成り立つのである。もしこのような前提を欠いた議会で、多数決原理を用いるならば、それは「多数の暴政」を招きやすいのみならず、代表の原理を正当化することすら困難となる。

政治を考える指標

2010-03-29

コペルニクスが引っ繰り返したもの

 ルネッサンスの時代までには、プトレマイオス的世界観が西欧文化全体に普及し、絵画や文学や音楽、航海術はもちろん、医学、そして当時は本物の科学と見なされた占星術にも浸透していた。この世界観は美的感覚を満足させる構成で、その時代に浸透していたキリスト教神学にうまく調和していた。地上のあらゆるもの――月より下にあるもの――は原罪に染まっており、いっぽう月より上の天の周転円は汚れなき聖なるもので、神聖な“天上の音楽”に満たされていると考えられた。英国のジョン・ダンのような宮廷詩人たちの流行になったのが、女主人を“月以上”だと褒めそやし、“さえない地上の恋人たちの愛”を下等で劣ったものとして退けることだった。そして、社会階級制度をなんとしてでも維持するための、手ごろな理論的根拠を与えることになった。「天の星々も、惑星も、この宇宙の中心である地球も/序列、階級、地位をまもっているのです」。シェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』のなかで、ユリシーズはこうご高説をたれる。いわゆる“存在の大きな連鎖”の序列をひっくり返せば、あとに待つのは枷を外された“混沌”というわけだ。


【『黒体と量子猫』ジェニファー・ウーレット/尾之上俊彦、飯泉恵美子、福田実訳(ハヤカワ文庫、2007年)】

黒体と量子猫〈1〉ワンダフルな物理史 古典篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ) 黒体と量子猫〈2〉ワンダフルな物理史 現代篇 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

2010-03-28

J・クリシュナムルティ


 1冊読了。


 45冊目『未来の生』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1989年)/クリシュナムルティ26冊目の読了。『英知の教育』と同じく、インドのクリシュナムルティスクールの生徒に向けた講話と質疑応答が収められている。実にわかりやすい内容だ。日本人が読むと難解に感じるのは、日常生活における宗教的土壌を欠いているためであろう。だが、世界に目を転じれば明らかに宗教が紛争の原因となっていることに気づく。世界を変革しようと思えば組織的宗教と瞑想というテーマを避けて通ることはできない。そうすると今度はクリシュナムルティの言葉に捉われてしまい、知識として受け止めてしまう。彼と似たような言葉を駆使し言い回しを身につけて安堵するのだ。クリシュナムルティは人間が進むべき道を指し示した。その指をじっと見ているだけなのか、歩いてゆくのかは我々に委ねられている。

米でセクハラを訴える男性が増加 雇用情勢悪化受け


 景気が後退し始めてから、セクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)を受けたとして訴える男性が米国で増えている。米雇用機会均等委員会(EEOC)によると、男性による訴えは、2006年度の1869件(全体の15.4%)に対し、09年は2094件(同16.4%)だった。


ウォール・ストリート・ジャーナル 2010-03-23

エド・ロング


(エド・)ロングは、世界的に知られるアメリカ・マサチューセッツ州ボストンの「自立生活センター」で障害者のサポートにあたるカウンセラーだった。自らも筋ジストロフィーのため、車いすで生活する重度の身体障害者である。


【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)以下同】


「アメリカでは、障害者でも仕事に就けるんですか?」

「もちろん簡単なことではない。でも、アメリカでは『何ができないか』ということよりも、『何ができるか』が問題なのだ。だから、『できる』と主張する人には、どんな援助をしてもそうさせるだろう」

「主張すれば与えられる。主張しなければ与えられないということですか」

「その通りだ。だからこそ、主張することを恐れてはいけない。階段を昇れないなら、デスクを1階に置いてくれと頼めばいい。また、エレベーターをつけろと主張すればいい。『できない』ということに、必要以上に目を奪われてはいけない」

「エドさんにとって、自立とはどういうことなんですか」

「自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で決めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。だから、人に何か頼むことを躊躇(ちゅうちょ)しないでほしい。健康な人だって、いろんな人と助け合いながら暮らしている。一番だいじなことは、精神的に自立することなんだ」

こんな夜更けにバナナかよ

2010-03-27

「ILL-BEATNIK」featuring BOSS THE MC


 彼は詩人なのか、アジテーターなのか、あるいはグル(導師)なのか? 叩きつけるような歌詞に託されたのは呪文の力だ。言葉に耳を傾けていると、意味なんてどうでもよくなる瞬間が時々現れてくる。


D

我

ガンジーはヒンズー教徒としてカースト制度を肯定


 不可触性の不当、不正義、不平等、非合理を真に憎んだガンジーは、一方であくまで敬虔無比なヒンズー教徒であり、カースト制を否定しなかった。いやむしろ、その存在をインド社会の中心的柱として肯定(こうてい)した。しかも彼は聖者として崇(あが)められ、近代独立国インドの生みの親といわれている。

 ガンジーと近代の相克(そうこく)はまた、インドの矛盾、不可解さを解く鍵であるかもしれない。

 インドにみなぎるアンビバレンツの世界、そこから発生しているにちがいない深い生命の躍動――ステージやスタジアムで演出される種類のものとは異質な――感は、インドの絶望的深みにまで達している様々の矛盾を同時に表現しているように思う。


【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】

不可触民 もうひとつのインド 不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

擬音語・擬態語 英語は350種類、日本語は1200種類/『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美


 私は犬を見かけると、ほぼ必ず「バウワウ!」と吠えるようにしている。本当の話だ。何を伝えようとしているのかというと、「俺は外国の犬だぞ!」というメッセージである。もちろん、わかってもらえることは滅多にない。


 果たして日本の犬が「ワンワン」と鳴き、アメリカの犬が「バウワウ」と吠えているのだろうか? 多分それはない。人間が勝手に犬の鳴き声を表現しているだけの話だ。


 耳は奥深い世界である。胎内にいる時から機能し始め、死の直前に視覚は失われるが音は聴こえているいるという。眼は閉じることができるが、耳を閉じることはできない。その意味で耳は常に世界に対して開かれている器官なのだ。


 音は空気の震動である。それは絶えず風や波のように揺れ動く。私の声帯の振動が、あなたの鼓膜を振動させる。そしてこの世界を支える原子や分子も震動している。


 擬音語・擬態語は音や動作を言葉に翻訳したものである。当然そこには文化が反映される。欧米人には虫の声を楽しむ文化がないとも聞く。


 乾亮一さんの調査(『市川三喜博士還暦祝賀論文集』研究者)によりますと、英語では擬音語・擬態語が350種類しかないのに、日本語ではなんと1200種類に及ぶ。3倍以上ですよね。小島義郎さんは、『広辞苑』の収録語彙をもとに同じような調査(『英語辞書学入門』三省堂)をしていますが、彼によると、日本語の擬音語・擬態語の分量は英語の5倍にもなります。擬音語・擬態語は、まさに日本語の特色なのです。


【『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美〈やまぐち・なかみ〉(光文社新書、2002年)以下同】


 そうすると日本人は「耳がいい」のかもしれない。これは「耳を澄ます」といった次元ではない。錯視同様、錯聴というものも存在する。

 つまり聴こえている聴こえてないではなく捨象されているのだ。斬り捨て御免。


 例えばこんな話もある──


 ある夏の日に、フランス人の女性と和室で会食したときのことです。その部屋には風鈴がかけられ、涼しげな音を奏(かな)でていました。ここで私はそのフランス人の女性に尋ねました。

「あなたはこの装置(風鈴のこと)の存在に、あるいはこの装置が発する音に気付いていましたか?」

 案の定、その人はまったく気付いていませんでした。

「これはいったい何ですか?」

「これは言ってみれば『メンタル・エアー・コンディショナー』です。涼しげな音を出すことで、気持ちから涼しくする装置です」

 そう説明してからは彼女は珍しそうに見入るようになりましたし、音にも注意を払って聞いていました。

 でも、実際には説明する前から風鈴は彼女の視界にあったはずですし、音だって物理的信号としてはちゃんと彼女の鼓膜を振動させていたはずです。にもかかわらず、彼女は風鈴の存在にも音にも気付かなかった。それは彼女が「風鈴」というものを知らなかったからです。人は知らないものは認識できないのです。逆に言えば、認識できる範囲だけがその人にとっての世界ということになります。


【『夢をかなえる洗脳力苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(アスコム、2007年)】


 つまり世界は最初から存在しているわけではなくて、実は「認識すること」によって形成されるということだ。ということは、世界が外に広がっているわけではなくて、脳の中で展開されていることになる。


 擬音語・擬態語は期せずして世界観の違いをも示している。では、昔の犬はどう鳴いていたか?


 私が、一番最初にひっかかったのは、平安時代の『大鏡』(おおかがみ)に出てくる犬の声です。「ひよ」って書いてある。頭注にも、「犬の声か」と記してあるだけなんです。私たちは、犬の声は「わん」だとばかり思っていますから、「ひよ」と書かれていても、にわかには信じられない。なまじ意味なんか分かると思い込んでいる言葉だけに、余計に信じられない。雛じゃあるまいし、「ひよ」なんて犬が鳴くかって思う。でも、気になる。これが、私が擬音語・擬態語に興味をもったきっかけでした。


 古語には濁点がないので、「びよ」と鳴いていたらしい。バ行の音は唇を使うので、いくら何でもそりゃ無理だろう──という問題ではない。「びよ」という音が当時の人々が慣れ親しむ何らかの背景があったのだろう。今だって、ものが伸びる様を「ビヨーン」と形容するではないか。


 鶏の声は、現在は「こけこっこー」ですね。でも、昔の文献を丹念にたどって行きますと、江戸時代は「東天紅(とうてんこう)」と聞いていたことが明らかになってくる。「とっけいこう」「とってこう」なんていう鶏の声もある。


 これは「ブッポウソウ」に近い音となっている。それにしても漢字で洒落(しゃ)てみせるという日本の文化が面白い。私は粋(いき)や風流にとんと関心がないが、こういうのは味わいがあってよろしいですな。


D


「いがいが」は、当時の赤ん坊の泣き声。現在から見ると、にわかに信じがたいかもしれませんが、「いがーいがー」としてみると、今の「おぎゃーおぎゃー」に似ていて納得できます。赤ん坊の泣き声「いがいが」に「五十日五十日(いかいか)」の意味を掛けているんですね。


 言葉の歴史が持つダイナミズム。イガラシ(小学生時代からの友人)よ、お前のことは今度から「おぎゃーらし」と呼ばせてもらおう。


 伸び伸びとした著者の姿勢は素晴らしいのだが、惜しむらくは構成が単調になっていて抑揚に欠けている。腕のいい編集者がつけば、いくらでも面白い内容になることだろう。

犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い (光文社新書)

キリスト紀元の誕生は525年


 こうしたなかで、525年にキリスト紀元が発生してくる。6世紀初めになってキリスト紀元が生み出された原因は、カトリック教会の教会行事上の問題、具体的にはキリスト教世界では最も主要な祝祭日の一つ、復活祭の日を決定するという問題からであった。


【『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉(講談社現代新書、1996年)以下同】


 キリスト紀元が考案されたのが525年であるから、随分ゆっくりとした歩みであった。だがこうして、ほぼ10世紀末までには西ヨーロッパにキリスト紀元が定着したといえよう。

聖書vs.世界史―キリスト教的歴史観とは何か (講談社現代新書)

2010-03-26

宇宙はひもが奏でる交響楽


 ひも理論は見方を根本的に変えてしまう。あらゆる物質と力の「素材」は同じだと主張するのだ。素粒子はそれぞれ一本のひもでできている。つまり、素粒子はそれぞれ一本のひもである。そして、ひもはすべて完全に同一である。素粒子の間のちがいは、それぞれの素粒子のひもが異なる共振振動パターンをとるために生じる。異なる素粒子と見えるのは、実は、基本的なひもが奏でる「音」なのだ。宇宙――膨大な数の振動するひもからなる宇宙――は交響楽に似ている。


【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン/林一、林大訳(草思社、2001年)】

エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する

2010-03-25

子供


子供


 子供。

 お前はいまちいさいのではない、

 私から遠い距離にある

 ということなのだ。


 目に近いお前の存在、

 けれど何というはるかな姿だろう。


 視野というものを

 もっと違った形で信じることが出来たならば

 ちいさくうつるお前の姿から

 私たちはもっとたくさんなことを

 読みとるに違いない。


【『石垣りん詩集』(ハルキ文庫、1998年)】

石垣りん詩集 (ハルキ文庫)

2010-03-24

中村哲、小野田寛郎


 2冊読了。


 43冊目『医者、用水路を拓く アフガンの大地から世界の虚構に挑む』中村哲〈なかむら・てつ〉(石風社、2007年)/凄い人物がいたものである。中村哲はアフガニスタンで現地の人々のために医療活動を続けている。米軍との戦闘が激しさを増す中で、中村は衛生面の向上と飢餓を克服するために井戸を掘り、遂には灌漑(かんがい)水利に着手する。タイトルは用水路となっているが、実際は大規模な工事だ。これをペシャワール会というNGOの支援だけで成し遂げたのだ。同会のメンバーであった伊藤和也青年が殺害されたことは、まだ記憶に新しい。事件のあった前年までの労作業が綴られている。中村は実務家である。伊勢崎賢治と同じ匂いがする。戦禍にまみれた砂漠を緑の大地に変えた男の見事な記録だ。


 44冊目『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(講談社、1974年/日本図書センター、1999年)/帰国後に発表された記録。『たった一人の30年戦争』と重複した内容が目立つので、こちらを先に読んだ方がいい。小野田さんの30年間は、陸軍中野学校の勝利と敗北そのものであった。それにしても、戦闘状態の緊張感を30年間も維持し続けた精神力に驚嘆させられる。写真の姿はいずれも実に姿勢が正しい。投降後の所作も軍人としての様式に貫かれており、最初から最後までルールに則った行動であった。

札幌農学校


 町村金弥の孫が、自民党の町村信孝である。


 理想の星をかかげた旗は、あっけなく下ろされてしまったが、このみじかい年月に、開拓使がこの町に残していったいちばん大きなものは、ひろい道路でもなく、大きな官営工場でもなかった。

 札幌農学校である。

 開拓の中心は、学問である、この考えが開拓使の方針をはっきりとつらぬいていた。

 その学問と技術の底に、〈精神〉をたたきこんだのが、初代教頭クラークであった。

 クラークは、明治10年4月、ようやく雪のとけようというころ、札幌を去ってアメリカに帰った。札幌からおよそ25キロの島松まで、学生たちは馬に乗って、見送っていた。

 いよいよ別れるとき、クラークは、学生たちに手をふって、いった。

 Boys(ボーイズ)

 Be Ambitius!(ビ アンビシャス)

(諸君、

 理想をつらぬこう)

 このみじかい一言は、学生たちの心に火矢となってつきささった。クラークの点じたその火は、燃えて、生涯消えることはなかったのである。

 その一期生に、佐藤昌介(しょうすけ)、大島正健(まさたけ)ら、二期生に内村鑑三新渡戸稲造、宮部金吾、町村金弥らがいた。

(昭和39年2月)


【『一戔五厘の旗』花森安治〈はなもり・やすじ〉(暮しの手帖社、1971年)】

一戔五厘の旗

現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』岸田秀

 岸田の理論は高い視点から文明や歴史を分析している。このため、臨床心理学とは異なる次元になっていて、「デタラメな絵を描いているだけじゃないのか?」という思いがよぎる。しかしそうではない。なぜなら、心理学自体が「絵を描く」ことに過ぎないからだ。カウンセリングとは、本人が思ってもいない角度から因果関係を構成し直す作業といえる。


 つまり、「物語」に脚色を施し、効果音を挿入し、BGMを流し、ナレーションによって意味を変質させているわけだ。効果があれば、悲劇は喜劇へと転じる。


 アリストテレスが「人はポリス的な動物である」と定義しているが、ポリスとは社会的、政治的、共同体的という意味合いである。ま、「群れ」といってもよい。人はたむろし、群れる。


 社会といっても政治といっても、結局のところ役割分担と上下関係で構成される。そして差別化が自我を強化する。自我とは、分断され孤立化した「私」のことだ。社会がサッカーチームの如く完全に一体化していれば、そこに自我が生まれる余地はない。存在するのはボールを追う一つのチームだけと化す。


 我々が「物語」を必要とするのは、差別化を解消するためである。今置かれた自分の位置で成功物語を綴らなければ、生きている価値がない。何らかの成功を手に入れられないと、自分という存在は重みを失い、更には透明化してしまう。自己実現こそ至上命題である。


「物語」の主人公は自分であるがゆえに、この「自分」が他の誰かから必要にされなくてはならない。リストラが心理的ダメージを与えるのは、自分が「いてもいなくてもいい存在」になってしまうためだ。それは、社会から不要とされたことを意味する。本当はそうじゃないんだが、そういう物語をつくってしまうところに「社会的動物」の所以(ゆえん)がある。で、首を切られた男に帰る場所はない。家族からはとっくの昔に見捨てられているからだ(笑)。


 価値観というのは人の数だけある。仮に同じ思想や宗教を信じていたとしても、完全に一致することはあり得ない。人それぞれに微妙に異なるものだ。もっと根本的なことを言えば、「言葉の意味」すら一致することはない。言葉は最大公約数であり、妥協案であり、折衷(せっちゅう)主義である。


 ここに勘違いが生まれ、行き違いが生じ、齟齬(そご)をきたす原因がある。そして人間関係というのは力関係が基軸になっているため、力の加減によっては相手に極度のストレスを与えてしまう。


 例えば核家族化が進み、子供が親の管理下に置かれ、塾や習い事漬けにされた昭和40年前後の世代は、突如として校内暴力、家庭内暴力の牙を剥(む)いた。私の世代である。北海道の中学で一番最初に新聞紙面を飾った校内暴力は、私の友達が起こしたものだった。


 幼い頃から教育、しつけという名の「柔らかな暴力」にさらされると、その反動は必ず明快な暴力となって現れる。比較的最近の「キレる子供達」というのも同様であろう。


 現代心理学の思想はいろいろなところに害毒を流しているようであるが、現代の母親たちも、知らず知らずのうちにその害毒に冒されてしまっているようである。

 現代心理学の思想とは、一言にして言えば、人間を、ある刺激を与えればある反応をする一つの条件反応体と見る思想である。もちろん、この思想は、心理学に特有のものではなく、大きな思想的流れの一支流が心理学にも姿を見せているというのに過ぎないが、心理学はそれを「科学的に」証明しようとしているだけに、いいかえれば、心理学は一般に「科学」と見なされているだけに、その悪影響は恐ろしい。


【『続 ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析』青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析』青土社、1980年で構成)以下同】


 岸田は「パブロフの犬」以降、こうした傾向が顕著になったと指摘している。条件づけ、刷り込み、マインドコントロールなどに共通するのは、「人間を操る」という発想である。実は、ここに権力というメカニズムの本質もある。権力者が求めているのは、奴隷あるいはロボットとしての大衆だ。


 我が子のためによかれと思ってやっていることが、実は虐待だったりすることもある。子供の意志が無視されれば、そこに抑圧が生まれる。「抑圧された」ということは、「暴力を振るわれた」ことに等しい。子供は抑圧されるほど攻撃性が高まる。


 そもそも心理学を鵜呑みにした時点で、親は心理学にコントロールされていることになるのだ。コントロールの連鎖が生まれるのは必定である。


 更に岸田は重大な指摘を加える──


 親の意識的な意図より無意識的な態度に子どもは敏感である。親の人格の意識的部分と無意識的部分に対立と分裂がある場合、往々にして子どもがその皺寄せを受ける。たとえば、まじめで小心で善良な両親に非行少年の息子がいたりするが、こういう場合、息子は親の無意識的期待に沿っているのかもしれないのである。この親は、内心では世間に不当に虐待されていると感じていて恨みを懐いており、復讐したいのだが、それでは社会的に不適応になるので、そうした傾向を深く無意識へと抑圧し、意識的には卑屈と言えるほど小心な生活を送っている。この親は、息子に対して、口ではまじめに生きてゆかねばならないと説教し、息子の不行跡を叱るが、息子が世間に迷惑をかけることを仕出かしたときにふと見せる歓びの表情を息子は見逃さず、非行を重ねているうちは親の愛情を失うことはないことを知るのである。こういう人格分裂を抱えた親が意識的にどれほど子どもを「清く正しく」育てようとしても、だめなのだ。どれほど子どもの非行をきつく叱り、折檻しても、だめなのだ。子どもにとっては、親の口先だけの叱責や折檻よりも、親の本当の是認と愛情を失う方がはるかに恐いのである。


 これは何となくわかる。例えば、いじめっ子の親が我が子の問題を話す時、ほぼ100%の親が笑顔で語る。一方、いじめ被害に遭っている児童の親が笑顔で打ち明けることはない。


 大体、子供の問題というのは、芽が小さいうちにきちんと対処しておけば解決できるものが多く、親による放置、不作為が問題を大きくしている側面がある。例えば私に子供がいて、強姦事件を起こしたとしよう。私は躊躇(ちゅうちょ)することなく息子を撲殺する。その程度の覚悟が親になければ、子供を育てることはできないだろう。


 人は嘘をつける動物であり、嘘をつけない動物でもある。幼い生命は大人の嘘と真実からこの世のルールを学んでゆくしかない。言いわけは後の祭りだ。子供に向って「俺を見ろ!」と言い切れるかどうかである。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

毎度バカバカしい日本のメディア


 最近の政治報道は「世論」の動向ばかりを喧伝している。おそらくメディアが散々利用された小泉政治のマインドコントロールから抜けられずにいるからだろう。小泉純一郎氏はなる筈のない総理になったため、自民党内に全く権力の足場がなかった。そこでメディアを利用して「世論誘導」を行い、自民党の外に足場を作った。「世論」だけが頼りの政治が始まり、政治の本道が見失われた。すると生活にひずみが出始め、そこで国民は気付いたのである。昔からの熱心な支持者ほど自民党から離れた。昨年の総選挙で自民党が野党に転落したのはそのためである。


田中良紹

国家的危機の本質は誤った教育にあり


 全面的に落ちこみに歯止めをかけようと、ありとあらゆる領域で、ありとあらゆる議論がなされて、多種多様の改革がなされてきたが、ほとんどが対症療法にとどまっているため、成果を上げずにいる。経済と教育と社会が密接につながっているように、この国の当面するあらゆる困難は互いに関連し、絡み合った糸玉のようになっていて、誰もほぐせないでいる。部分的にほぐしても全体には何の影響も与えない。

 我が国の直面する危機状況は、足が痛い手が痛い頭が痛いという局所的なものではなく、全身症状である。すなわち体質がひどく劣化したということである。国家の体質は国民一人一人の体質の集積であり、一人一人の体質は教育により形造られる。すなわち、この国家的危機の本質は誤った教育にあるということになる。


【『祖国とは国語』藤原正彦(講談社、2003年/新潮文庫、2005年)】

祖国とは国語 (新潮文庫)

2010-03-23

唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀

 人を司る脳はネットワーク化して概念を形成する。言葉に意味を付与し、言葉と言葉に関連性を加え、因果関係を築き、物語化を図る。こうして人生はドラマと化す。自我を拠(よ)り所としながら。


 初めて読んだのは10年前のこと。私は常々批判的に物事を見る訓練を自分に課してきたが、本書には歯が立たなかったことをありありと覚えている。再読してその理由がわかった。岸田は自分の頭でものを考えている。一方私は他人の言葉を受け売りしながら、安っぽい批判を企てていただけであった。


 今読んでみて、初めて見えてくるものが数多くある。あらゆる価値観、歴史、文化、そして性に至るまでを幻想とする岸田の思想は、ブッダのニヒリズムと共通する響きがある。


 唯幻論は、道教で説かれる「胡蝶の夢」を想起させる。男が蝶になった夢を見た。嬉々として自在に舞っていた。はっと目が覚めた。果たして男が蝶になった夢を見たのか、あるいは蝶が男になった夢をみているのか? ってな話である。夢とうつつを相対化することで、現実のはかさなを示している。


 唯幻論は単純でありながらも、しなやかで強靭な腰の強さを秘めている。冒頭で岸田は日本の近代史を一人の個人の歴史として説明できるとして、診断を試みている──


 日本国民の精神分裂病的素質をつくったのは、1853年のペリー来航の事件である。鎖国していた徳川時代は、個人で言えば、外的世界を知らないナルチシズムの時期に相当する。


【『ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)以下同】


 本書には書かれていないが、岸田はこれをアメリカによる「レイプ」であったと位置づけている。鎖国とは引きこもりの状態である。他国に依存していない以上、国内では完璧なヒエラルキーが構成可能となる。異国と交流していないのだから外的世界が存在しないも同然である。


 ペリー・ショックによって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現われた。開国は日本の軍事的無力の自覚、アメリカをはじめとする強大な諸外国への適応の必要性にもとづいていたが、日本人の内的自己から見れば、それは真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、この裏切りによって、日本は自己同一性の喪失の危険にさらされることになった。この危険から身を守るためには、日本をそこへ引きずりこもうとする外的自己を残余の内的自己から切り離して非自己化し、いいかえれば真の自己とは無関係なものにし、内的自己を純化して、その回りを堅固な砦でかためる必要があった。(中略)そこで、不安定な内的自己を支える砦としてもってこられたのが天皇であった。

 ペリー率いる黒船によって日本は上を下への大騒ぎとなる。「上喜選 たった四杯で 夜も寝られず」という川柳からもそれが窺える。高級茶の上喜選を「蒸気船」とかけている。


 この歴史的情況を一人の個人と想定した上で、「精神分裂症」(統合失調症)と分析するところに岸田理論の破壊力がある。


 封建国家から近代国家へと移行する揺籃(ようらん)期である。黒船がきっかけとなり、自我の芽生えが激しい浮き沈みを繰り返す。まるで中学生だ(笑)。


 皇国史観はまさしく誇大妄想体系である。分裂病者が現実の両親を自分に生命を与えた起源として認めず、神の子であるとか、皇帝の落胤であるとか称する(血統妄想)のと同じように、天皇の万世一系が信じられ、日本文化の独自性が強調され、日本文化の起源における朝鮮や中国の文化の役割は不当に過小評価された。日本の古代史は現実の歴史であってはならなかった。神話こそ真実でなければならなかった。はたからどれほどおかしな、不合理なものに見えようとも、妄想体系は維持される。内的自己の独自性を支えるために必要だからである。いっさいの世俗的欲望とは無縁で、すべてのことに責任があると同時にすべてのことに責任がなく、純粋にして金甌無欠、神聖にして不可侵、ただ無私無償の献身を捧げることのみ許されるという天皇像は、純化された内的自己の理想像である。


 これは中々書ける文章ではない。しかも学者だよ。ただ浅薄な誤解のないように注意しておくが、岸田は何も天皇批判を主張しているわけではない。批判しているとすれば、すべての価値観を批判しているのである。一切の信条、主義、思想、宗教を岸田は「幻想」と斬り捨てている。


 国家のアイデンティティとしての天皇という見立ても、皇国史観に疎(うと)い道産子の私には納得がゆく。


 日本にペリー・ショックという精神外傷を与えて日本を精神分裂病質者にしたのも、日本を発狂に追いつめたのもアメリカであった。そのアメリカへの憎悪にはすさまじいものがあった。この憎悪は、単に鬼畜米英のスローガンによって惹き起こされたのではなく、100年の歴史をもつ憎悪であった。日米戦争によって、百年来はじめてこの憎悪の自由な発現が許された。開戦は内的自己を解放した。

 軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りである。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教えこまれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではない。この戦争は国民の大半が支持した。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であった。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう。


 実に鋭い指摘だと思う。ともすれば、「戦争を主導したのは国家の指導者であって、国民はその犠牲になった」という見方もあるが、そんなものは敗戦にかこつけた欺瞞であろう。国家が戦争という行為を起こす時、そこには必ず国民の合意が形成されている。戦争に反対する暴動が各地で起こらなかったことがその証拠だ。


 ペリー・ショックというコンプレックスは今も尚、日本のアイデンティティを揺るがしている。最近でも北朝鮮による日本人拉致問題やテポドン攻撃を背景に、保守論壇が勢いを増している。


 結局、日本人が日米戦争あるいは経済成長によって解決しようとした問題、すなわち外的自己と内的自己との分裂の問題は依然として解決されずに残っている。日本人の自己同一性は依然として不安定である。外的自己と切り離されて純化された内的自己の一つの重要な形態である尊王攘夷思想は、戦後も一つの底流として流れつづけており、ときどき表面まで吹き出してきて、山口二矢の浅沼書記長暗殺や三島由紀夫の割腹自殺のような事件を惹き起こす。彼らを時代錯誤的と決めつけても問題は解決しない。彼らは時代錯誤的なのではなく、戦後抑圧されている日本人の人格の半面を純粋な形で表現したのである。


 戦後の欧米崇拝、アジア蔑視にも同じ根っこから派生したものだろう。強い者には媚びへつらい、弱い者には威張り散らすのが我が国民性だ。


 国家を牛耳る者は、近隣諸国の不穏な動きを歓迎し、テロや猟奇犯罪を喜ぶ。20年ほど前にはプライバシーの侵害だとして大問題になった監視カメラが、いつの間にか街のあちこちで見られるようになった。権力者にとっては都合のよい時代向きとなりつつある。彼等が望んでいるのは、国民が国家に依存することである。


 国家も集団も組織も幻想に過ぎない。そして自我ですら幻想なのだ。岸田はソフトウェアとしての幻想を見事に暴き出した。クリシュナムルティはそれを「条件づけ」と呼んだ。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

小野田寛郎の悟り


 小野田さんは、ジャングルの戦いを通じて不思議な能力が発揮された経験を持っています。一度は、夕暮れ時に友軍の周囲を敵軍によって完全に包囲されてしまったときでした。本当に命を賭けなければいけないと必死になったその瞬間、頭が数倍の大きさに膨らんだ感じになって悪寒に襲われて身震いし、その直後、頭が元の大きさに戻ったと感じると、あたりがパーッと明るく鮮明に見えるようになったそうです。


 小野田自然塾でも定番のキャンプファイアー。火を使うことで人間は大きな進化を遂げましたが、小野田さんの体験を聞くと、太古に培った野生的な能力が体のどこかで眠っているような気がします 「夕闇が迫っているのに、まるで昼間のような明るさになりました。そして、遠くに見える木の葉の表面に浮かぶ一つ一つの脈まではっきり認識することができました。そうなると、はるか先にいる敵兵の動きも手に取るように分かります。それこそ、相手が射撃をする直前にサッと身をかわして銃弾を避けることさえできると思いました」


 命を賭ける場面が、命を賭けなくても大丈夫だという自信に変わった小野田さんは、難なくこのピンチを切り抜けることができました。


 もう一度は、日本に帰還して検査のために入院していたときに分かったことでした。たとえ寝ていても、病室にやってくる人の気配を感じることができたのです。


「毎晩3回、巡寮の看護婦さんが部屋に入る前から気配を察し眼を覚ましていました。これは、島の生活を送るなかで知らぬ間に身についていた能力でした。初めての場所を偵察中、道の脇とは知らず仮眠をしてしまい、人の気配で眼を覚まし、別の場所に変えて、敵や住民をかわしたことが何度もありました。寝ていても警戒心は働いていたのです」


 力を合わせてテントを設営する子どもたち。自然のなかでいろいろな体験をすることによって、生きるための知恵や判断力が養われていきます こうした経験から、人間には普段使われていない潜在的な能力がたくさんあるはずだと、小野田さんは考えています。


「特殊な能力は、本当に必死になったときでなければ表に出てきませんから、普通の生活を送るうえで必要はありません。しかし、少なくとも危険から身を守る能力や知恵、判断力は、子どものときに体験するさまざまな動作や遊びのなかで身についていくものだと思います。


ブルーシー・アンド・グリーンランド財団

NHKの障害者差別


 今、NHKの番組制作の現場に、全盲の職員は一人もいません。ラジオ第2放送の「視覚障害者の皆さんへ」という番組ですら、関わっている視覚障害者は全て外部の人たちです。

 障害者の番組があるのだから障害者を採用すべきだ、などと言うつもりは毛頭ありません。けれど、公共放送を名乗るなら、少なくとも視覚障害者にも健常者と同様に受験のチャンスくらいは与えるべきです。それすらもできないのなら、「進まない障害者雇用」などという番組でNHKが他の会社を“生贄(いけにえ)”にすることは絶対に許されません。


 NHKの人事担当者には社会性というものがないと思うのです。仮にしばらくの間、視覚障害者を採用できそうもないとしても、「記入は、本人直筆に限ります」などと堂々と記した受験資料を作ってはいけないと思います。この受験資料を“雇用差別”として問題視するのは、僕一人ではないはずです。

「こんな書類を作ったら、どのような社会的批判がありうるか」

 それすら予測できない組織に、その程度の組織防衛もできない集団に、僕たちは何故に多額の財源を与えて番組を作ってもらわなければならないのでしょうか。


【『怒りの川田さん 全盲だから見えた日本のリアル』川田隆一〈かわだ・りゅういち〉(オクムラ書店、2006年)】

怒りの川田さん―全盲だから見えた日本のリアル

2010-03-22

認知症の生々しい描写/『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人


 昔から記憶喪失や認知症に興味を覚えてならなかった。「自分」という存在の危うさや儚(はかな)さを表出しているように思えた。「私」を形成しているのは、「私」の過去であり、それは記憶である。つまり記憶が失われてしまえば、「私」は「私」でなくなるのだ。「私」の姿形をした別人がそこに現れる。


 動物には「自我」がないとされている。知能が発達しており、政治性の強いチンパンジーやボノボにも、多分自我は存在しないことだろう。なぜなら、言葉がないからだ。「私」という言葉がない以上、自我の概念が形成されることは考えにくい。


 日本の認知症患者数は1990年に100万人を突破している。アルツハイマーだけでも60万人という数になっている。記憶障害だけでも家族にとってはショック極まりないことだが、その上徘徊(はいかい)をするようになると付きっきりで見守る人が必要となる。強烈なボディブローを何発も食らったような情況は避けようがない。


 この短篇小説は私小説なので事実が元になっていると思われる。50年間連れ添った妻が認知症となる。奇妙な行動が徐々に、だが確実にエスカレートしてゆく。まさしく、「壊れてゆく」有り様が静かな筆致で綴られる──


 落ちた家内は、私に背を向けているから、顔の表情はわからない。急いでシャツとズボンに着替え、両脇に手を入れ、起こしにかかった。重くて、抱き上げられない。起きる気持がないのだ。

 二、三度こころみたあと、どうしたらよいか寝間着の裾の方をぼんやり見ていると、静かに流れ出、畳を這い、溜りを作った。

 呆然と見ていたが、これも50年、ひたすら私のため働いた結果だ。そう思うと、小水が清い小川のように映った。

「起きなさい。いま体を拭いてあげるからね」

 気力を奮い立たせ、抱き上げようとしたら、すっぽり抜け、私の脚もとにうずくまった。私の首筋は棒のようで、右にも左にも動かない。肩は石のようになって、力が入らない。起こすのをあきらめ、台所にゆき、湯沸器に点火し、沸くと、ポリ容器に移した。それから家内の体を避け、雑巾で、小水の溜りを拭き出した。すると家内は起上り、ベッドの縁に腰掛けた。

「しめた」と思い、容器の湯を取りかえ、手拭をしぼり、家内の腰から脚の爪先まで拭きはじめた。家内はその私を見ていたが、

「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と呟いた。

 私はハッとした。(「どんなご縁で」)


【『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人〈こう・はると〉(講談社学芸文庫、1991年)以下同】


 この時、妻はまだ夫を認識していた。それにしても、妻の言葉が肺腑(はいふ)を衝く。かすかに残る記憶を手繰り寄せた瞬間、天啓のような一言がこぼれた。


 残された夫の記憶と失われてゆく妻の記憶とが交錯する。だが、それすらも木端微塵となる──


 家内はニコニコし、なにか喋っている。入れ歯がないせいもあって、なにを言っているのかわからない。このことは信夫も言っていたし、Yさんも言っていた。

 私は家内の手を握っていたが、冷い。やはり涙はとまらない。鼻みずを拭くため、細長いテーブルにのっていたティッシュペーパーを、箱から引張り出そうとしたら、残り少くなったせいだろう、うまく出てこない。家内がふところに手を入れ、紙をさがしている様子だ。ご婦人が気付いて、立ち上り、家内の袂から、鼻紙を出された。

 そのとき私は引張り出したティッシュペーパーで鼻みずを拭いていたが──。

 このあいだにご婦人が何度か「この人は誰ですか」とか、「このかたがご主人ですよ」

 などと言われたが、返事をしなかった。

 何度目かに「ご主人ですよ」と言われたとき、「そうかもしれない」と低いが、はっきりした声でいった。

 私は打たれたように黙った。(「そうかもしれない」)


 夫婦である記憶が抜け落ちた瞬間に関係性は消失する。後は一方的な働きかけしか残されていない。


 介護を必要とする人がいて、介護をする人がいる。認知症は進行を遅らせることはできても、よくなることは決してない病気だ。それでも、人は何かをしてあげれば「見返り」を求めずにはいられない。感謝の言葉もなく、挙げ句の果てには罵倒されることも珍しくない。そんな情況において「家族だから」という理由だけで、介護を続けられるものではあるまい。


 何にも増して、家族だけでカバーすることは時間的にも不可能だ。当然、ヘルパーや施設の手を借りることとなる。「老いる」とはそういうことなのだ。


 誰もが有終の美を飾ることを望み、豊かな老後に憧れる。夕日が荘厳に沈みゆくような晩年でありたいと希望する。


 そんな幻想を粉砕する力がこの小説にはある。誰が認知症になるのか、それはわからない。親か、妻か、あるいは私か──。こうした覚悟を読者に迫る作品だ。

一条の光・天井から降る哀しい音 (講談社文芸文庫)

キリスト教的世界観に自由意志は存在しない


 伝統的なユダヤ・キリスト的世界観では、自由意志はありません。神が世界のすべてを支配しているからです。

 交通事故に子どもが遭うと「それは神が決めたことだから、神の計画だから」ということになります。そうして慰められるわけです。

 子どもを轢(ひ)いた運転手が角を右に曲がるか左に曲がるか、どちらかを選んだかさえも、神が宇宙のはじまりに決めていたということになります。

 神の支配は、物理空間だけのものではありません。精神空間をも支配しています。だからこそ神なのです。

 ということは、交通事故に遭って死んだのも神の思し召しだけれども、今「こうしよう」と思ったのも神の思し召しなのです。

 喫茶店に行って「コーヒーにしようかな? 紅茶にしようかな?……」と迷う。それで「紅茶!」と決めたとしたら、それは神が世界を創造したときに「あなたは今紅茶を選びます」と決めた結果だというわけです。

 そういう世界観のもとでは、人類に自由意志はないのです。人類はサーモスタットなのです。

 ですから、二つ目の自由意志による発想とは、この神の創造した世界から飛びだす、ということなのです。

不完全性定理”というものがあります。ゲーデルという人が証明したものです。

 どういうものかといえば、「ある理論体系は、自分自身に矛盾がないことを、その理論体系のなかでは証明できない」というものです。つまり、この世界の正しさは、この世界のなかから証明できない、ということです。


【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション 心の操縦術 (PHP文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-03-21

耕治人、ロバート・カーソン、J・クリシュナムルティ


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折21『一条の光・天井から降る哀しい音』耕治人〈こう・はると〉(講談社学芸文庫、1991年)/小澤勲著『痴呆を生きるということ』で紹介されていた短篇集。冒頭の「詩人に死が訪れるとき」があまりにも退屈すぎる。私小説というのは、どうでもいい日常を取り澄ました顔で書いている印象あり。「天井から降る悲しい音」「どんなご縁で」「そうかもしれない」の認知症三部作で構成して、値段を抑えればもっと売れることだろう。有吉佐和子著『恍惚の人』とは桁違いの迫力に満ちている。著者の実体験を元にして描かれていて、「そうかもしれない」が絶筆となった。


 41冊目『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン/池村千秋訳(NTT出版、2009年)/傑作評伝。460ページあるが読みやすい。昨夜から朝方まで読み耽り、本日読了。いやはやこれは凄い。私は視覚に関する本を10冊以上は読んできているが、本書がベストと断言できる。マイク・メイは3歳で失明した。だが彼はおとなしい障害者ではなかった。子供の時分から走り回り、自転車に乗り、50メートル以上の無線塔に上り、スキーまでしている。更には、CIAに勤務し、その後何度も起業をするなど、とにかくチャレンジ精神の塊みたいな人物だ。その彼が46歳の時に再び光を取り戻す。人間が全く新しい世界に踏み込んだ時、どのような変化が起こるか。そして、「見る」という行為がどれほど能動的でダイナミックな脳機能であるかが理解できる。読みながら私は悟りを得た思いに駆られた。「錯覚」こそが視覚を解く鍵だったのだ。脳科学の確かな情報もしっかりと書かれていて、評伝としては100点満点。


 42冊目『英知の教育』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1988年)/クリシュナムルティ25冊目の読了。『子供たちとの対話 考えてごらん』と似た構成。前半は生徒への講話と質疑応答で、後半は教員とのやり取り。時々クリシュナムルティの言葉がわかりにくくなる原因がやっとわかった。それは、言葉で表現できない世界を何とか言葉にしようと努めたためであった。言葉はシンボルである。彼の内なる世界を伝えるには言葉では不十分であった。「苛立ち」と感じる部分は、多分「厳しさ」なのだろう。一切の組織・教団・信徒を否定したクリシュナムルティが、教育に力を傾注した事実はあまりにも重い。

芸術は思想である


 実際、こういう宇宙的規模のコンセプトというものを描かせた法皇庁の力や、ミケランジェロの気迫といったものは、いまではもうどこでもだれによっても再現できないようなものです。なぜならば、もうそのような芸術を生み出していた社会的、文化的構造は消滅してしまったからです。古代ローマの栄光を受けつぎ、西欧文明の復興者になろうとしていたルネサンス人文主義は消え、古代文明とキリスト教文明の偉大な統治を意図していた法皇たちの野心も消えたのです。ただ、残っているのは芸術です。

 この芸術のなかには、キリスト教がかかえている長大な時間や思想がつまっています。芸術を理解するには、その芸術が生み出された思想や時代を理解しなければならない。これはとてもはっきりしたことなのですが、忘れられがちです。芸術は感覚でつくられ、感覚で理解される感性の文化だと思う誤解がゆきわたっているからです。

 たしかにわれわれは一目でこの芸術に圧倒され、戦慄(せんりつ)さえ覚えるのですが、その理由を知るには知性を働かせなければならない。芸術にいちばん似ているのは人間です。人間を一目見ただけでその威厳や美しさに戦慄することはよくあることです。でもわれわれが戦慄したのは、その人間の目の光や、身振りや、いったことばやしたことのせいなのです。人間は外観であると同時に複雑な意味の発信体なのです。

 したがって、この芸術の常ならぬ偉大さは、その伝えている意味の偉大さに由来する部分がすくなくありません。ですから、ほんとうに芸術をわかるためには、その意味についても知らなければならないということになります。異なった文化を享受(きょうじゅ)するためには、異なった文化を理解しなければなりません。芸術とは、はっきりいいますが、つくるにせよ、享受するにせよ、きわめて思想的なことなのです。(「ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画について」)


【『イメージを読む 美術史入門』若桑みどり(筑摩書房、1993年/ちくま学芸文庫、2005年)】

イメージを読む―美術史入門 (ちくまプリマーブックス) イメージを読む (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

投資家とは失望した投機家のことだ/『投機学入門 不滅の相場常勝哲学』山崎和邦


「投資は投機に非ず」──こんな言葉を聞いたり見たりすることは多い。株式投資であれば「長期間にわたってその企業を支え、育てるのが投資である」なんて話だ。


 馬鹿も休み休みに言いやがれって話だわな。そもそも企業を支える義務が一般投資家にあるわけがない。株式を発行する意味は資金調達に他ならない。「銀行の金利は高いんで、あんた貸して(=出資して)くれない?」というだけのことだ。


 例えば私があなたに「100万円貸してくれよ。1年後には50万円にして返すからさ」と言ったら、果たして貸そうとするだろうか? 貸すわけがない。


 本質的には投資も投機も同じ行為であり、リスクをとってリターンを得ようとする営みだ。生命保険を考えるとわかりやすい。生命保険は、65歳までに「自分が病気になる」あるいは「自分が死ぬ」ことに賭けているのだ。


 また、自動車を運転することだってリスクは伴う。交通事故というリスクをとって、短時間で到着するというリターンを得ているのだ。車の場合は高リスクのため、保険加入が義務づけられている。保険料を考えると二重のリスクをとっているといってよい。


 こうした経済概念は結構大切で、実際に投資をしてみると損得は別にしても、明らかにリスクマネジメント思考が身につく。


「投機」という言葉はもともと禅語からきたもので、文字どおり「機」に投ずるということだ。機とは勝機、商機、妙機などというときの、あるチャンスのことで、投ずるとは情熱的・意欲的な能動的行動である。これに対して「投資」とはすなわち資金を投入するということであり、当然、投機と同じくチャンスを見るわけだから、両者に本質的な違いはない。


【『投機学入門 不滅の相場常勝哲学』山崎和邦(『投機学入門 市場経済の「偶然」と「必然」を計算する』ダイヤモンド社、2000年/講談社+α文庫、2007年)以下同】


 山崎はやや強引な表現をしているが、「機」とは機会であり時機のことである。仏教用語の場合は「機根」(きこん)のことで、教えを受け容れる素養を意味する。


 もっとも、こういうケースがよくある。投機のつもりで資金投入したが、チャンスを誤ったので、投じたお金はそのままにしておいて次のチャンスを待ち伏せするため結果的に長期にわたる、というような場合である。この場合、投機家変じて投資家となったわけだ。だから私は「投資家とは失望した投機家のことだ」と言っている。


 これは名言だ。損をしこたま抱えて、切るに切れなくなってしまった一般投資家を見事に嘲(あざけ)り笑っている。


 本書は投資手法については何ひとつ書かれていないが、マーケットの概念をわかりやすく教えている。


 ケインズというイギリス人については、ほとんどの人が大経済学者としてだけのイメージを持っているであろうが、彼は母校ケンブリッジ大学の資金運用を担当していて、株式投機でそのお金を11倍に増やした。しかも世界恐慌の長期低迷相場のなかにおいてだ。そう、彼は株式投機で大もうけしようとして、あの壮大な経済学の体系を構築したのである。またおそらく経済学者としてしか知られていないリカードも株式市場で大成功した。


 これは日本の学者やアナリストを挑発した件(くだり)である。実践の伴わない理論にはキャラメルほどの価値もない。


 投機で儲ける人は、ひと口に言って本当の意味での教養人である。ここで言う教養とは日常生活や人生のあり方に対する真摯な態度であり、ある目的のために必要ならば禁欲もし、怠惰や放漫を抑え、自分を律して行動を効率化していく生活態度だ。


 教養人とは、「感情をコントロールできる人物」という意味合いであろう。儲けては胸を反(そ)らせ、損をするたびに肩を落としているような人は、マーケットから弾き飛ばされてしまう。大体、勝ち続けている人は5%と言われる世界なのだ。


 もちろん、「投資をしない」という選択肢もある。ただ、この場合は金融機関に預金として貯えることで、「投資する機会」を銀行に譲っていることになる。つまり車を自分で運転するか、タクシーやバスのように他人に運転してもらうかという違いでしかない。


 いずれにせよ、マネーは動いている。じっとしていることがない。高いところから低いところへ、そしてある時は逆流し、ある時は鉄砲水のように荒れ狂う。こうしたマネーの流れを実感するだけでも、政治や経済に対する視点がガラリと変わる。


 まったくの素人であれば、ETF(上場投資信託)から勉強するのがいいだろう。固い手法としては日経平均などのインデックスを定期的に買い続けるのが好ましい。世界の資本主義経済が破綻しない限り、一定期間を経れば必ず利益が出る。ま、「資本主義経済に賭ける」ような手法だ。

投機学入門―市場経済の「偶然」と「必然」を計算する 投機学入門――不滅の相場常勝哲学 (講談社プラスアルファ文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

歴史文化に不可欠なものは暦と文字

 ただし口頭伝承だけでは歴史は成立しない。暦と文字の両方があって、初めて歴史という文化が可能になる。


【『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘(ちくまライブラリー、1992年/ちくま文庫、1998年)】

世界史の誕生 (ちくま文庫)

2010-03-20

がん治療費、年平均133万円…7割が負担感


 がん患者が1年間に治療のために支払う費用は平均約133万円で、7割が経済的な負担を感じていることが、NPO法人「日本医療政策機構」の調査で分かった。

 昨年11月中旬〜12月末、患者団体を通じて患者や家族などに郵送やインターネットでアンケートを行い、1618人から回答を得た。

 保険診療や健康食品などに使った総額は平均で年132万9000円。患者世帯の年収は200万〜300万円が16%と最も多く、「とても負担が大きい」「やや負担が大きい」が合わせて71%に上った。経済的理由で治療を断念したり、別の治療に変えたりした患者も7%いた。

 医療機関の診断や治療方針を決めるまでの過程、受けた治療について満足度を尋ねたところ、「不満足」「どちらかといえば不満足」が合わせて20〜29%だった。「情報が少ない」「精神面のサポートが不十分」などの理由が多かった。


YOMIURI ONLINE 2010-03-20

資産を得る方法


 資産を得るには三つしかない。

 他人の資産の略奪、親からの相続、自分で稼ぐ、この三つだ。


【『無法バブルマネー終わりの始まり 「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学』松藤民輔〈まつふじ・たみすけ〉(講談社、2008年)】

無法バブルマネー終わりの始まり──「金融大転換」時代を生き抜く実践経済学

暴力的反逆と精神的反逆/『道徳教育を超えて 教育と人生の意味』クリシュナムーティ


 国家、社会、組織、集団は個々人に帰属意識を求める。このため上層部にいる者ほど集団の利益を強調し、「それこそが正しい」と人々に呼び掛ける。閣僚は国益を叫び、保守系評論家は「日本人の誇り」を訴え、部課長は売り上げ目標達成を命ずる。


 組織や集団には必ず目的がある。というよりも、目的のために人々が組織されるのだ。この目的が変わることはあり得ない。企業がサークルになることはないし、政治結社になることもなければ宗教法人になることもない。


 つまり目的が「原理」と化しているのだ。原理は人間を縛る。そして原理は功罪を決める。手法に異を唱える者はいても、目的を批判する者はまずいない。なぜなら、目的を批判してしまえばそこに自分が存在する理由が失われてしまうからだ。集団内には改革はあっても革命はない。集団が分裂する場合においてすら改革にとどまっているのが実状だ。


 社会にはルールがあり、家にはしきたりがあり、企業には内規があり、国家には法律があり、教団には教義がある。緩やかなつながりよりも、強い関係性の方が功罪の度合いが深まる。反逆する様は集団に応じて次のように形容される──エキセントリック、天(あま)の邪鬼(じゃく)、変わり者、不良、改革派、反主流、外様、変質者、無法者、棄教者、裏切り者、悪魔。


 自分よりも権力のある人物と闘う場合には何らかの力を発揮しなければ勝ち目がない。一番わかりやすい力は暴力である。子供が父親をこてんぱんにしてしまえば、家庭内は子供の天下となる。引きこもりだって、考えようによっては「柔らかな暴力」である。家族全員をシカトしているわけだから。


 力というものは、どのような種類の力であってもそこには暴力性が潜んでいる。力の本質は暴力なのだ。


 そして暴力を正当化すると、その延長線上にテロ行為が浮かび上がってくる。しかし、テロですら革命たり得ない。テロが為し得るのは部分的な破壊であり、全体を木端微塵にすることは不可能である。要人の暗殺、ビルの爆破、サリンガスの噴霧で国家が転覆することはあり得ない。


 ここまで考えると、革命の意味を我々がはき違えていることに気づく。歴史上に輝かしく記されている革命は本当の革命だったのだろうか? 一体全体、何が「革(あらた)まった」というのか? その実体は統治者の変更に過ぎないのではないだろうか?


 クリシュナムルティは反逆には二種類あると説く──


 安楽の問題を追及して、私たちは葛藤が少い静かな片隅を見出す。そしてこの一角から飛び出ることを恐れるようになる。人生を恐れ斗いを恐れ、新しい経験を恐れて、冒険的精神を失うのである。私たちの社会で行われている躾けとか教育というものは、私たちが隣人と違っていることを恐れさせ、社会のしきたりに反逆して考えぬくことを恐れさせ、間違った権威と伝統を尊敬させるという役割を果たしている。

 幸いにも、人間の問題を何の偏見も持たずに検討してみようと構えている人たちも少数ながら存在している。しかし圧倒的に多数を占める人たちは、義憤や反逆の精神をもたない。いいかげんな態度で世のなりゆきにまかせてしまうと、反逆的精神などというものは死にたえ、生活することがまず第一の必要とあって、批判的精神に完全に終止符が打たれる。

 反逆といっても実は二種類ある。まず暴力的な反逆ということ──これは何もわからずに現存の秩序に対してただ反抗するだけのものである。次に、知性の根源における精神的反逆というものがある。(この二つは区別しないといけない) 既成の権威に反抗しても、それが新しい権威になり、幻想とかくれた自己満足だけのものになってしまっている大勢の人々を、私たちは見かけている。つまり通例起こることは、私たちがある集団や理念と手を切っても、今度は別の集団と理念につながっていくということなのである。こういう仕方は、ちょっとした新しい思想形態をつくり出すだけで、やがてこの新しいものに対しても反逆することが始まるということである。たんなる反動は反対を生み、この種の改革は安らぐところを知らない。

 だがこれに対し、たんなる反動ではない賢明な反逆というものがある。これは自分の思想や感情を自覚することによって、自己認識をしていくことに伴う反逆である。それは私たちが、進行しているままの経験を直視し、めざめた知性をもって苦難を逃避しない時に生まれる。いまめざめた知性といったが、それは直感といってもよい──この直感こそ人生における真の指標なのだ。


【『道徳教育を超えて 教育と人生の意味』クリシュナムーティ/菊川忠夫、杉山秋雄訳(霞ケ関書房、1977年)】


「暴力は反動に過ぎない」という指摘が、私の脳髄を直撃する。つまり、暴力的な革命は抑圧による反動であり、それは縮んだバネが元通りになっただけのことなのだ。革命によって到来したのは「新しい時代」ではなく、「新しい統治者」であった。政治主義や社会形態が激変したところで、資本主義の競争原理に変更が加えられることはない。


 競争は暴力であり、暴力は競争である。プロ格闘家も拳銃には敵(かな)わない。暴力はお金で買える。ということは、お金も暴力なのだ。


 究極の問題は二つだ。「暴力」と「集団」である。歴史上の革命が真の革命たり得なかったのは、古い集団が新しい集団になり代わっただけであったためだ。人間とは「集団を形成する動物」なのかもしれない。だが集団がヒエラルキーを構築し、競争に拍車をかけるのだ。結局、集団形成こそが暴力の温床となっている。


「直感」という翻訳よりも、「直観」「直覚」とするべきだろう。精神的反逆とは、社会に条件づけされた自分に反逆することであった。自分の中に反逆を肯定する心と否定する心とがあるうちは、そこに分裂が存在する。自立とは自分に依(よ)ることであるが、自分を観察するためには自分から離れた視座が求められる。


 世界は、自分と自分を取り巻く人間関係の中にしか存在しないとクリシュナムルティは教える。だからこそ、自分が変われば世界が変わるのだ。彼は一人で荒野を歩んだ。後に続く者が多いとか少ないとかは全く問題にしなかった。人類という名の荒寥(こうりょう)な大地に花は咲かなかった。しかし、彼の内側に全てのものが収まっていた。

道徳教育を超えて 教育と人生の意味

2010-03-19

ハイネ「本を焼却する国はやがて人を焼却するようになる」


 ユダヤ関連の商品や商店に対する不買運動が始まったのが、1933年4月1日である。それはわずか1日で終わったが、1週間も経たぬ4月7日には、市民公職法が発効された。これは、同じドイツ人でも、非アーリア系のドイツ人は、公証人、公立学校教師などの職に就いてはならないと定めるもので、法律によるユダヤ系ドイツ人の差別の端緒となったものであった。

 これより事態はすこしずつ加速していく。5月10日には、ナチス党員である学生や教職員が、ほぼ全国の大学や図書館で、「ドイツの文化的純血を損なうと懸念される」図書を焼くという大規模な事件が起こっている。このとき、焼却された図書の著書には、アルバート・アインシュタイン、ジグムント・フロイド、ステファン・ツヴァイクなどが含まれている。かつて、ドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネは有名な言葉を吐いている。

「本を焼却する国はやがて人を焼却するようになる」

 この言葉が、やがて現実となる。


【『権威主義の正体』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2005年)】

権威主義の正体 PHP新書 330

2010-03-18

恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ

    • 恐怖からの自由

 かれこれ20年ほど前になるが、地域の人々を招いて「遊び」に関する研究発表を行ったことがある。もちろん私が企画・立案したものだ。たまたま若い後輩と話していた時に「最近、遊ぶ場所がないですよね」という一言を耳にしたのがきっかけとなった。


 全国各地の遊びを調べ、お年寄りから幼い頃の遊びを取材した。昔の遊びには歌と運動性があった。はないちもんめなんかは、妙な駆け引きや戦略が練られ、最後に残された時は落ち込んだものだ。


 そこから、次に遊びの別の意味である「余裕」を取り上げた。例えば車のハンドルの遊びなど。で、結論は「真の遊びとは自由自在に生命力を発揮して生きること」とした。


 遊びは自由である。もちろん、そこにルールはあるものの、強制されて遊ぶ子供はいない。つまり、遊びは「自発的な意志」から開始される。


 自分が子供だった頃を思い返すと、遊んでいる時は時間があっという間に過ぎた。夕闇が濃くなって始めて帰る時刻に気づいたものだ。「じゃ、また明日遊ぼうぜ」と友達と別れるまで、我々は完全に自由だった。


 だから反対に、暇で何もすることがない状態には耐えられなかった。退屈にはぞっとさせられる何かがあった。それは死の気配だったのかもしれない。


 自我が芽生える中学生以降になると、自由は極端に技術的なものとなる。勉強やスポーツは基本的に技術がものを言う世界である。私は野球をしていたのだが、自由にボールを打てるようになるには、素振りという不自由が不可欠となる。自由は不自由に支えられていた。


 このようにして社会や文化による条件づけが行われ、幼いあの日のような自由さを我々は失ってしまった。我々が目指す自由とは、「何でも買える自由」に過ぎない。そのためにヒエラルキー社会の中で競争に余念がないわけだ。自由な精神、自由な魂はどこにも見当たらない。多分、人里離れた山奥の洞窟の中にも存在しない。


 人は不自由を感じた時に自由を欲する。これはいわば表面的な自由といってよい。これに対して本質的かつ根源的な自由がある。外なる自由ではなく、内なる自由だ──


 私どもの大部分の人にとって、自由とは観念だけのものであって、現実ではありません。自由ということについて話をする時、私たちは外的な自由というものを欲しがります──旅行をしたり、好き勝手なことをしゃべったり、好きなように考える──という自由です。自由の外的な表現は、特に、圧政やら独裁が行われている諸国ではきわめて重要なことに思えます。これに対して外的な自由が得られる諸国では、人はより多くの快楽とより沢山の所有を求め出します。

 自由とはそもそもどういうことなのか、内的な意味で、完全かつ完璧(ぺき)な自由とはどういうことか、そしてこの自由は外に向って、社会や人間関係の中で表現されるわけなのですが、この自由について深く考察していくと、次のような問いにつき当たるように思えます。それは、人間の精神は、いわば厳重に限定されているのだから、およそ自由になどなれる筈はないのではないか──人間の心は独自の条件のワク内で生きて活動する以外はないのだから、自由の可能性などないのではないか、ということです。こうして、この世では、内的自由であれ、外的自由であれ、自由はあり得ないのだという理屈を人間精神が理解すると、今度は彼岸の世界の中に自由をつくりあげようとする──つまり、未来における解放、天国などということになるのです。

 自由についての理論的・イデオロギー的概念のことはしばらくおくことにしましょう。そして私達の心、私やあなたの心が、そもそも自由であり得るかを調べてみましょう──何ものにも依存しない自由、恐怖や心配からの自由、数々の諸問題からの自由、しかも意識の面でも無意識の深層の面でも、ともに自由であるような、そんな自由はあり得るでしょうか? 心の完全な自由ということ──時間や思惑にわずらわされることのない境地に到達し、しかもそれが日常生活の実際面からの逃避でもないような──そんな自由はいったい存在し得るのでしょうか?

 ところで、人間の心が、内的に、心理的に完全に自由でないならば、真実を見分けることができません──恐怖に左右されてできたのではなく、また私達の住む社会や文化の産物でもないような真実、しかもそれでいて日常の単調・退屈・孤独・絶望・心配といったものからの逃避でもないような真の姿、こういうものは自由な心の持ち主でないと見ることが出来ません。実際、上述したような自由があることを知る為には、人は自からの条件と諸問題を、そして日常生活の単調な浅薄さ・空虚さ・不十分さを自覚せねばならず、特に恐怖についてはこれを熟知しなければなりません。自からを自覚するといっても、後向きに眺めたり、分析的に見るのではなく、現実にあるがままの自己を認識し、人間の心を妨げているように思える事項のすべてから、完全に自由であることができるかを問うのでなければなりません。


【『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ/菊川忠夫訳(霞ケ関書房、1982年)】


「自由」はクリシュナムルティが生涯にわたって取り組んだテーマである。「恐怖からの自由」という言葉に我々の思考を激しく揺さぶる響きがある。


 自由の反対は不自由である。不自由とは束縛である。では、内なる自由を考えた時、心を束縛する要素は何であろうか? それこそが恐怖なのだ。


 我々は天災を恐れ、蛇を恐れ、詐欺師を恐れる。そして、周囲と違うことを恐れ、成績が悪いことを恐れ、結婚できないことを恐れる。法律とは「社会で決めたルールを守れない奴には制裁を加えるよ」という代物だ。例えば我々には裸で外を歩く自由はない。


 条件づけも、根っこにあるのは恐怖である。赤ん坊は両親の顔色を窺いながら、やっていいことと悪いことを学ぶ。学校に行けば、先生が神様みたいに君臨している。児童達は、先生の言葉を疑うことを知らない。


 社会や国家は恐怖感によって築かれている。我々がドロップアウトを恐れるのはこのためだ。ありとあらゆる集団も同様である。


 クリシュナムルティは恐怖の原因は思考にあると説く。過去の失敗や成功にまつわる記憶が思考を形成している。では、思考から自由になることは可能なのだろうか? それは記憶からの自由を意味するゆえ、過去からの自由にもつながっている。


 彼が示した答えはただ一つ。それは「観察」することであった。

自由への道 空かける鳳のように

山本博文


 1冊読了。


 40冊目『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文(光文社新書、2009年)/昨日読了。冒頭の章で遠藤周作著『沈黙』を歴史的に検証し、豊臣・徳川家によるキリシタン迫害の模様が描かれている。壮絶極まりない死にざまだ。何が彼等をして殉教に向かわせたのか? そして多数の日本人が信じるに至った理由はどこにあったのか? 拷問に次ぐ拷問にも屈することなく、火あぶりにされても身じろぎひとつせずに彼等は死んでいった。著者は意図的に歴史の事実を示すことに重きを置いて、控え目な考察を加えるにとどめている。歴史とは「かくの如き人物が存在した」という動かしようのない事実である。宣教師を始めとする殉教者の数は実に4000人を数える。

ファシズムの綱領は「否定」である


否定がその綱領である


 ファシズム全体主義には、前向きの信条がない代わりにおびただしい否定がある。もちろんあらゆる革命がそれまでのものを否定し過去との訣別を信ずる。そこに歴史的な継続性を見出し、あるいは見出したと思うのは後世の見方にすぎない。

 しかしファシズム全体主義においては、歴史上のいかなる政治運動と比べても、過去の否定がはるかに徹底している。なぜならば、否定がその綱領だからである。しかも、さらに重要なこととして、ファシズム全体主義は対立する理念があればそれらの双方を同時に否定する。

 ファシズム全体主義は反リベラルであると同時に反保守である。反宗教であると同時に反無神論である。反資本主義であると同時に反社会主義である。反軍国主義であると同時に反平和主義である。反大企業であると同時に、あまりに多すぎるがゆえに反職人、反商店である。挙げれば切りがない。


【『ドラッカー名著集 9 「経済人」の終わり』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉訳(ダイヤモンド社、2007年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)】

ドラッカー名著集9 「経済人」の終わり

2010-03-17

大氣舎


 大氣舎(だいきしゃ)が千葉県市川市の八幡へ引っ越していた。羽深律さんの店。

民放側が本音の議論 バラエティー番組 BPO意見書巡り


 テレビ局側はスポンサー以外に頭を下げるつもりがないのだろう。所詮、政治家や著名人の子弟のサロンと化している企業体だ。彼等はきっと、スポンサーを支えているのが消費者(=視聴者)であることにすら気づいていないのだろう。私は昨年1年間で1時間しかテレビを観ていない。


 テレビのバラエティー番組のあり方を制作者らが議論するシンポジウムが11日、東京都内であった。放送倫理・番組向上機構(BPO)が番組づくりの見直しを求めたのに対する民放側の「回答」の一つだ。一般の視聴者らも交え、議論は3時間以上に及んだ。

 シンポジウムは日本民間放送連盟が「バラエティー向上委員会」と題して開いた。在京民放キー局5社のバラエティー番組の制作者が1社10人ずつ舞台に上がり、BPOの委員や客席の視聴者と意見を交わした。

 議論の出発点は昨年11月にBPOの放送倫理検証委員会がまとめた意見書だ。バラエティー番組に視聴者が不快感を抱いているとして問題点を指摘した。

 シンポジウムでは、制作者側が「現場介入」と身構えている様子が明らかになった。制作者計50人に意見書への評価を問うと「うっとうしい」が22人。BPOに苦情を寄せた視聴者に対しては「もっと勉強してほしい」が37人。「視聴者が正しくないというなら、ほかの世界で番組をつくれば、という話になる」とBPOの委員がたしなめる場面もあった。

 意見交換では現場の本音が相次いだ。「テレビで暴力を流すと(子どもが)暴力をふるうと言われても。そんなバカを育てた親が悪い」(TBS)「クレームを過剰に考えすぎる必要はない」(テレビ東京)

 後半は視聴率について討論。「視聴率を取るため、制作者らの首がどんどん締まっている」(フジテレビ)、「作品としての完成度を考えた時、視聴率が落ちてもそこを我慢するのが必要」(テレビ朝日)、「視聴率がなければ素晴らしい番組ができるか、と問うのは民放にとってナンセンス」(日本テレビ)などと意見が分かれた。

 無理に結論を出さないことが前提とはいえ、シンポジウムでは具体的な改善策は見えてこなかった。冗談半分に「私はまな板の上のコイ」とする制作者からは、本気で番組を見直そうとする意識は感じられなかった。「BPOは、どう変わってほしいと思っているのか」との視聴者の問いに、BPOの委員も明確に答えることはなかった。


独自の検証番組も フジテレビ


 BPOの意見書に対する民放各社の対応をみると、「意見書を重く受け止めた」とするフジテレビの動きが際立っている。

 1日に、新たな制作方針として「愛がなければテレビじゃない!安心できなきゃテレビじゃない!やっぱり楽しくなければテレビじゃない!」とうたった「宣言」を発表。2月27日放送のバラエティー番組「めちゃ×2イケてるッ!」では「いじめや差別につながる」と指摘された演出を再現し、出演者らが議論した。

 今月27日には、是枝裕和監督の演出でバラエティーの歴史や功罪を検証するドキュメンタリー番組を放送する。


asahi.com 2010-03-16

石油を「代替」できるエネルギーなど存在しない


 期待される再生可能エネルギーであるが、残念ながらその数値は概して低い。天野氏の試算によると、水力発電の場合、ダム建設に入力エネルギーの48%、コンクリートなどの素材に26%、運用や補修に23%が使われている。

 地熱発電の場合、素材に必要なエネルギーは全体の20%だが、運用に72%が使われる。風力発電の場合、素材に48%、運用や補修に36%、製造に10%のエネルギーが使われる。太陽光発電でも、パーツの製造に61%、モジュールの組み立てに23%、据え付ける架台に8%のエネルギーが使われる計算だ。

 再生可能エネルギーは、その装置が電力を生み出す姿だけを見れば「クリーン」なイメージがあるかもしれないが、装置自体が「工業製品」であることを忘れてはいけない。原料に希少資源が使われる場合は、現地住民の間に紛争の原因を植え付けることにもなる。


JBpress 2010-03-16

マガーク効果−視覚は聴覚を補っている


 病人や要介護者と話す場合、目を合わせることも大切であるが、それ以上に重要なのは口の形を見せることである。健常者であっても視覚が聴覚を補っていて、実は視覚の方が優先されている。

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脳と心


 脳と心の関係に対する疑問は、たとえば次のように表明されることが多い。

「脳という物質から、なぜ心が発生するのか。脳をバラバラにしていったとする。そのどこに、『心』が含まれていると言うのか。徹頭徹尾物質である脳を分解したところで、そこに心が含まれるわけがない」

 これはよくある型の疑問だが、じつは問題の立て方が誤まっていると思う。誤まった疑問からは、正しい答が出ないのは当然である。次のような例を考えてみればいい。

 循環系の基本をなすのは、心臓である。心臓が動きを止めれば、循環は止まる。では訊くが、心臓血管系を分解していくとする。いったい、そのどこから、「循環」が出てくるというのか。心臓や血管の構成要素のどこにも、循環は入っていない。心臓は解剖できる。循環は解剖できない。循環の解剖とは、要するに比喩にしかならない。なぜなら、心臓は「物」だが、循環は「機能」だからである。


【『唯脳論』養老孟司青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

2010-03-16

タイムリー オーピーマウス/USB接続 PS/2変換アダプタ付 2ボタン1スクロール OP-MOUSE


 太郎先輩から借りているマウスである。私は元々トラックボールを愛用してきたが、このマウスはお薦めできる。縦の長さが10cm以下のため最初は小さく感じるが、慣れてくるとトラックボールに引けを取らない。ひと振りでディスプレイを横断できる。

タイムリー オーピーマウス  ブラック USB接続 PS/2変換アダプタ付 2ボタン1スクロール OP-MOUSE-BK タイムリー オーピーマウス  シルバー USB接続 PS/2変換アダプタ付 2ボタン1スクロール OP-MOUSE-SV タイムリー オーピーマウス  レッド USB接続 PS/2変換アダプタ付 2ボタン1スクロール OP-MOUSE-RE

岸田秀


 1冊読了。


 39冊目『続 ものぐさ精神分析岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析』青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析』青土社、1980年で構成)/今月の課題図書。10年前に読んだ時は頭の中がグチャグチャになったものだ。そして今読むと、驚くほど胸にストンと落ちる。30年前に刊行されて、いまだに全く色褪せることがない。それ自体が岸田幻想論の強靭なロジックを証明している。随分とボリュームがあるなあ、と思っていたら3冊の単行本が2冊の文庫本になっていた。唯幻論は期せずして諸行無常、諸法無我を志向している。文句なしの面白さだ。

ケアとは「時間をあげる」こと


 例えば誰でも、自分が好きな人、あるいは大切な人と思う相手に対しては時間をさくのをいとわない一方、そうでない相手に対しては時間を過ごすのを極力減らそうとする。こうしたことから考えると、ケアとはその相手に「時間をあげる」こと、と言ってもよいような面をもっている。あるいは、時間をともに過ごす、ということ自体がひとつのケアである。


【『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』広井良典(ちくま新書、1997年)】

ケアを問いなおす―「深層の時間」と高齢化社会 (ちくま新書)

エディ・タウンゼントと井岡弘樹/『遠いリング』後藤正治


 エディ・タウンゼントの名を知ったのは、沢木耕太郎の『一瞬の夏』(新潮社、1981年/新潮文庫、1984年)を読んでのこと。ボクシング・トレーナーとして育て上げた世界チャンピオンは藤猛海老原博幸柴田国明ガッツ石松友利正、井岡弘樹の6人。赤井英和もエディの教え子だ。名伯楽という言葉は彼のためにあるようなものだ。


 後藤は井岡を取材するために津田博明が経営するグリーンツダジムに通った。足繁く訪れるうちに他のボクサーとも親しくなり、後藤のペンは期せずして無名のボクサーの群像を描くことになる。つまり本書の主役はボクシング・ジムという「場」である。


 そこには教える者と教えられる者がいた。チャンピオンと無名の選手がいた。ベテランと初心者がいた。そして夢に向かって突き進む若者達がいた。


 冒頭の章でエディ・タウンゼントと井岡弘樹が描かれている。これでは尻すぼみになるのではないかと心配したが、後藤は勝者と敗者のドラマを見事にすくい上げている。


 エディにとって井岡は残された最後のチャンスであった。井岡は見事に応え、18歳でチャンピオンとなる。そして初めての防衛戦を迎えた。その時エディは既に癌に冒されていた。絶対安静を振り切ってエディは車椅子で井岡の元へと向かった。朦朧(もうろう)とする意識と戦いながらもエディは井岡を叱咤激励した。遂に試合の日が訪れた──


 井岡は、エディの様子にハッとしたようだった。そばに寄ると、短い間、老人と眼でうなずき合って、それから離れていった。その後若武者は、部屋の隅にほとんど視線をやらなかった。

 その日エディには、グリーンツダジムの近くで開業医をしている二木日出嘉(にき・ひでよし)が付き添っていた。二木がエディの瞳孔が開いているのに気付いたのは、神代が戻ってきた直後である。リングサイドで観戦するという願いも、もはやかなわなかった。二木は百合子と打ち合わせ、すぐに救急車の手配をした。危篤状態のエディが控室から運ばれていったのは、井岡がリングに向かう直前である。エディの状態を、このとき井岡は知っていない。エディが控室から運ばれていったのは気付いたのだが、別の部屋に行ったのかなと、そのときは思っていた。


【『遠いリング』後藤正治〈ごとう・まさはる〉(講談社、1989年/岩波現代文庫、2002年)以下同】


 エディはリングサイドで井岡の試合を観ることがかなわなかった。だが彼の魂は井岡と共にリング上にあった。生の焔(ほのお)を若き弟子に吹き込んだ。


 病院の1階のロビーにテレビが置いてあって、次女のダーナが、ラウンドが終わるたびに2階へあがってきて試合の様子を教えてくれた。そして11ラウンドが終わった頃、エディの意識が戻りはじめ、最終12ラウンドの頃にははっきりと戻っていた。井岡のKO勝ちを告げるダーナに、エディははっきりと、うん、うん、とうなずいたのだ。それに、なぜ、この日だったのだろう、井岡の試合が終わるまでは死ねないという執念が、この世の訣れの日をも動かしたのだろうか。


 試合終了後、井岡が病院を訪れて勝利の報告。その5時間後にエディは逝った。ボクシング一筋の人生は静かに幕を下ろした。


 何かに打ち込む、何かに賭ける人生は時に壮絶な姿を現す。否、狂気に取りつかれることなくして、何かを達成することはできない。単なる欲望でも名声でもなく、我を忘れるほどの没頭に真の充実があるのだ。


 エディはボクシングを愛した。それ以上にボクサーを愛した。彼はどのトレーナーよりもタオルを投げ込むのが早かった。「ボクシング辞めた後の人生の方が長いのよ。誰がそのボクサーの面倒を見てくれるの? 無事に家に帰してあげるのも私の仕事ね」とその理由を語っている。また、選手が勝った後は不意に姿を消し、敗れた場合にはずっと傍にいた。「勝った時には友達いっぱい出来るから私いなくてもいいの。誰が負けたボクサー励ますの? 私負けたボクサーの味方ね」。


 井岡はエディ亡き後もエディと共に歩み続けた。


「エディさんにいわれたことがあるんです。一番いけないのは負けたときに元気の残っている試合だって。たとえ負けたとしても全部出し切ったらいいんだって。あの試合はもちろん良くなかったんだけど、出し切った試合だったし、だから自分としては恥ずかしい試合じゃなかったと思ってるんですけど」


 大量生産された画一的な商品に囲まれ、二流三流のまがい物を買わされているうちに、ふと気がついてみれば自分自身がどうでもいいような存在になり果てている。挙げ句の果てにはつまらぬ意地を張ったり、自分勝手な真似をすることが個性と勘違いされるような時代だ。


 ボクサーが体現しているのは「裸にされた力」である。きらびやかな衣装もなければ、過去を問われることもない。リング上には世間の人びとが競い合っているハードルが何ひとつ存在しない。何か、言いようのないきらめきがそこにあるのだ。

遠いリング (岩波現代文庫―社会) 一瞬の夏 (上) (新潮文庫) 一瞬の夏 (下) (新潮文庫)


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ホロコーストを神聖化するエリ・ヴィーゼル

 まさにザ・ホロコーストは、説明不能であるが故に唯一無二であり、唯一無二であるが故に説明不能なのである。

 ノヴィックはこれを「ホロコーストの神聖化」と揶揄したが、この神秘化を誰よりもさかんに行なっているのがエリ・ヴィーゼルだ。ヴィーゼルにとってのザ・ホロコーストは事実上の「神秘」宗教である、というノヴィックの見解は正しい。よってヴィーゼルは朗誦する――ホロコーストは「暗闇へと導き」「すべての解答を否定し」「歴史を越えてとは言わぬまでも、少なくとも歴史の外にあり」「認識も描写も拒絶し」「説明も視覚化もできず」「理解も伝達も決してできない」ものであり、「歴史の破壊」と「宇宙規模での有為転変」を印するものである。その神秘を垣間見ることができるのは、生還者という名の聖職者(=ヴィーゼル)のみである。しかし――とヴィーゼルは明言する――ザ・ホロコーストの神秘は「伝達不可能であり」「それいついて語ることさえできない」。こうしてヴィーゼルは、通常2万5000ドルの講演料をもらい、運転手付きのリムジンで送り迎えを受けながら、アウシュヴィッツの「真実」という「神秘は沈黙の中にある」と語るのである。


【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/立木勝訳(三交社、2004年)】

ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち

2010-03-15

マイクロソフト キーボード


Microsoft Comfort Curve Keyboard 2000 B2L-00009


メーカー型番 : B2L-00009

必要システム(Windows) : [OS] Windows XP Professional、Home Edition、Media Center Edition、Tablet PC Edition、Windows 2000、[コンピュータ本体] USB ポートを標準装備するモデル、[HDD] セットアップに必要な容量 : 45 MB 以上、[その他] CD-ROM ドライブ

必要システム(Macintosh) : [OS] Mac OS X 10.2から10.4、[コンピュータ本体] USBポートを標準装備するモデル、[HDD] セットアップに必要な容量 : 15 MB 以上、[その他] CD-ROM ドライブ

Windows 95Windows 98Windows Millennium Edition、Windows NT、Mac OS X 10.2 より前のバージョンでは動作しません。

裁判あるところに不正あり


『政治法律ロシア語辞典』(ナウカ)によると、「裁判あるところ不正あり」「強い者と戦うな、金持ち相手に訴訟をするな」「法律は蜘蛛の巣のよう。蜂が飛び抜け、蝿が引っかかる(要領の悪い者だけが罰せられる)」というロシアの諺があるそうだ。(「解説」三浦みどり)


【『プーチニズム 報道されないロシアの現実』アンナ・ポリトコフスカヤ/鍛原多惠子〈かじわら・たえこ〉訳(NHK出版、2005年)】

プーチニズム 報道されないロシアの現実

ゆうちょ銀:米国債3000億円購入、民営化後で初


 いよいよ郵便貯金がアメリカに流れ始めた。


 日本郵政グループのゆうちょ銀行が2009年10−12月期に、07年10月の郵政民営化後で初めて米国債を約3000億円購入していたと15日付の日本経済新聞朝刊が報じた。同行は190兆円に上る資金運用の8割を日本国債が占めており、運用先の多様化を進めるのが狙いだという。情報源は示していない。


ブルームバーグ 2010-03-15

2010-03-14

エスピオナージュに見せかけた「神の物語」/『木曜の男』G・K・チェスタトン

    • エスピオナージュに見せかけた「神の物語」

 私には魂胆があった。ある時代の風俗を知りたければその時代のミステリを読むのが一番だといわれる。世界を支配する力は富ではなく情報である。これは今も昔も変わらない。ある時代は巫女(みこ)や霊媒師が、またある時代は王や貴族が、そしてまたある時代は軍や政治家が情報を牛耳ってきた。現代ではメディアが一手に支配している。


 例えば近年最も衝撃を受けた作品の一つに、アメリカのテレビドラマ『24 TWENTY FOUR』がある。個人的にはこのドラマの捜査手法はかなり信憑性が高いと思っている。つまりこうだ。CIAやFBIの手の内を敢えてさらけ出すことで、視聴者に「ドラマ」として印象づける意図があるように感ずる。で、我々は「いやあ凄いもんだなー。でも、あれってドラマの中の話だよな」と結論を出してしまうのだ。


「民主主義の時代にあって、よもや暗殺とはね……」などと思っているあなたは甘い。世界はいまだに暗殺で動いている。西側諸国の敵、あるいは国家の裏側を暴露するジャーナリストなど、今この瞬間も殺されている人々が多数存在する。

 アメリカのメディアを支配しているのはユダヤ資本である。日本のメディアも許認可事業であり、戦後のGHQ統制下でスタートしている歴史を併せて考えると、権力の支配下にあることは言うまでもない。


 そこで私は、宗教者を主人公にしたブラウン神父シリーズか、ハリイ・ケメルマンのラビ・シリーズを読んで秘密を探ろうとしたのだ。色々と物色した結果、本書を読むことにした。これが、ドンピシャリだった。原書は1908年刊。まだラジオも出回ってない時代である。とすると、メディア(媒体)としては紙(=印刷物)がメインであったことだろう。


 一人の男が無政府主義者と出会うところから物語は幕を開ける──


「芸術家は無政府主義者と同じものなのだ」と彼はいった。「この二つは、いつだって入れ替えられるもので、無政府主義者は芸術家なのだ。爆弾を投げる男は、ある偉大な瞬間を他のどんなことよりも好むから芸術家で、その男は稲妻が一度まぶしくひらめくこと、雷が一度、完全に鳴り響くことのほうが、何人かのかっこうが悪い巡査のありふれたからだよりも、ずっと貴重なのだということを知っている。そして芸術家はすべての政府を無視して、いっさいの因襲を破棄する。詩人は秩序をきらって、もしそうでなければ、世の中でいちばん、詩的なものは地下鉄だっていうことになる」


【『木曜の男』G・K・チェスタトン/吉田健一訳(創元推理文庫、1960年)以下同】


 詩人のグレゴリーは無政府主義の秘密結社に所属するメンバーの一人だった。ヨーロッパの歴史を知るには秘密結社とキリスト教を理解する必要がある。更に日本人が想像する以上の階級社会となっている。


 グレゴリーと巡り合ったサイムは秘密結社の会合に同行する。七人の主要メンバーは七曜で呼ばれていた。ここで「木曜の男」が選出されることになった。グレゴリーの選出が決まりかけた時、何とサイムが異議を唱えた。彼もまた詩人であった。そしてあらん限りの表現力を尽くして、サイムが「木曜」として承認された。彼は潜入捜査をしている刑事だった。


「無政府主義中央会議には議員が7人いて、その一人一人を曜日の名で呼ぶことになっているんです。それで議長が日曜で、議長の崇拝者の中には、血の日曜と呼ぶものもあります」


 日曜の男が秘密結社のリーダーであった。日曜は圧倒的な存在感で傲然と構えていた。サイムが初めて参加した会合で裏切り者が発覚する。ここから物語は加速度を増す。


「刑事というのは相対的な名称ともいえるんで、進化論の観点からすれば、猿が刑事になるまでの過程には断続というものがないもんですから、私にはどこでそうなるかがわからないんです。猿は刑事にいずれなるもんなんです」


 こんな文章がたくさん出てくる。古典はやはり侮れない。


 最後は日曜を追い詰める展開になるのだが、その前に不条理の波がサイムに襲い掛かる。日曜こそは逮捕するべき犯人であるのだが、全編の通奏低音として日曜の巨大な影が、ある恐怖感を伴って支配している。


 アッと驚くラストシーンによって、我々は「日曜」が神を象徴していることに気づく。サイムは神の掌(てのひら)の上にあるも同然だった。日曜は安息日だ。人間の所業は「終わることなき騙し合い」であった。現代の諜報戦においても同様であろう。二重スパイ、三重スパイが存在することで、誰が敵で味方かもわからなくなる。悪魔と思われていた日曜が実は神だったのだ。


 アダムとイブは智慧の実を食べた後で神に嘘をついた。

 そして神はあろうことか、製造者としての責任を反省することなく呆れ果てたのだった。もしも神が人間を創造したのだとすれば、間違いなく神も愚かなはずだ。


 本書には多分、濃厚なキリスト教的世界が描かれている。

木曜の男 (創元推理文庫 101-6) 木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

(※左が旧訳、右が新訳)

ヘンリー・ミラー、川北稔、ジェーン・エリオット


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折20『ヘンリー・ミラー全集 11 わが読書』ヘンリー・ミラー/田中西二郎〈たなか・せいじろう〉訳(新潮社、1966年)/全14章のうち第9章の「クリシュナムルティ」だけを読んだ。挙げられている名前を見る限りだと、ヘンリー・ミラーはスピリチュアル系に甘いような気がする。ベサント夫人の名前まであった。原書は1952年刊。ミラーはフランス語で書かれたクリシュナムルティの著作をひもといていたようだ。


 37冊目『砂糖の世界史川北稔(岩波ジュニア新書、1996年)/3日ほど前に読了。これは勉強になった。見事な教科書本。中学でこんな授業を受けていれば、勉強嫌いになる子供などいなくなるに違いない。世界史が経済で動いている実態がよくわかる。砂糖、茶、綿織物は世界を席巻してきた。世界各国のプランテーションは奴隷の労働力を必要とした。『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』と併読すれば、更に理解が深まる。


 38冊目『囚われの少女ジェーン ドアに閉ざされた17年の叫び』ジェーン・エリオット/真喜志順子〈まきし・よりこ〉訳(ソニー・マガジンズ、2005年/ヴィレッジブックス、2007年)/正義感の強い人は読まない方がよい。怒りに我を忘れて最後まで読んでしまった。ジェーンは4歳から17年間にわたって義父から虐待を受けてきた。勇気を振り絞って告発するまでが描かれている。実母と弟である継子(ままこ)達は頭が狂っているとしか言いようがない。もしも私がジェーンの傍にいたならば、3倍くらいにして義父に報復したことだろう。この手のことで私が躊躇(ためら)うことはない。地獄はあの世ではなく、この世にあるのだ。

マルコムXの暗殺


 教団はマルコムの暗殺指令をメンバーに下した。教団内のFBI工作員は教団からマルコムの自動車に爆弾を仕掛けるように指示された。1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅は教団メンバーによって爆弾で攻撃されたが、マルコムと彼の家族は無事だった。

 1週間後の2月21日、マンハッタンのオードゥボン舞踊場でマルコムがスピーチを始めたとき、騒動が400人の群衆の中で発生した。男が「俺のポケットから手を離せ! ポケットにさわるな!」と叫んだ。マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとしたとき、男は前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射した。さらに他の2人がステージに素早く近づき、マルコムに短銃を発砲した。マルコムは15発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。


Wikipedia


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完訳マルコムX自伝 (上) (中公文庫―BIBLIO20世紀) 完訳マルコムX自伝 (下) (中公文庫―BIBLIO20世紀) マルコムX [DVD]

脅迫は大地に満てり


 何処(いづこ)にか走らざるべからず

 走るべき処なし

 何事か為さざるべからず

 為すべき事なし

 坐するに堪へず

 脅迫は大地に満てり(「寂寥」)


【『高村光太郎詩集』高村光太郎(岩波文庫、1981年)】

高村光太郎詩集 (岩波文庫)

2010-03-13

尾辻秀久氏が平成の借金財政王与謝野氏を一喝

 2007年12月22日に亡くなられた民主党の故山本孝史参議院議員に送られた追悼演説です。発言者は自民党参議院議員会長の尾辻秀久(元厚生労働大臣)議員。尾辻氏は「最も手ごわい政策論争の相手だった」と述べ、また党派の垣根を超え、がん対策や自殺対策に奔走したことを偲んだ。通常国会議員逝去の場合、属する院において失礼ながら事務的に追悼演説が行われるが、これほどまでに気持のこもった演説は過去に例がありません。


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酔生夢死

 私は今日も生きていた。単に生きていただけに過ぎなかったのではないだろうか。生物学的に生きていることの淋しさ。限りない無意味さ、味気無さ加減。(中村徳郎 25歳)


【『きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記』日本戦没学生記念会編(東大協同組合出版部、1949年/岩波文庫、1982年)】

きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (ワイド版岩波文庫) きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (岩波文庫)

(※左がワイド版、右が文庫本)

2010-03-12

オオルリのさえずり


 八王子の「市の鳥」がオオルリなのだが、いまだに見たことがない。因(ちな)みに青くなるのはオス。


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記者クラブ制度の問題をカレル・ヴァン・ウォルフレンは20年前から指摘していた


 記者クラブは公式に検閲がおこなわれていた戦時中に出現したもので、ジャーナリストとその取材対象である〈システム〉側の各組織体とが共生するための制度化された機関である。


【『日本/権力構造の謎』カレル・ヴァン・ウォルフレン/篠原勝訳(早川書房、1990年/ハヤカワ文庫、1994年)以下同】


 その数400を数える記者クラブは、すべての省庁、政府機関、日本銀行、自民党、警察、経済団体など、日本を円滑に運営していく役目を担う、ありとあらゆる機関や人物に付随して設置されている。記者クラブに出入りするのは160以上の報道媒体を代表するおよそ1万2000のジャーナリストである。クラブを通さずに、主要機関からほんとうのニュースを収集するのは難しい。実質的には不可能なときすらある。日本でおこなわれる正式の記者会見は、こっけいなくらい、演出されたものである。


 こうした記者クラブは、かなり排他的で、在日外国記者協会の代々の会長の10年以上の交渉のかいもなく、外国人ジャーナリストには、記者クラブの多くが門を閉ざしたままである。

日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF) 日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

2010-03-11

諸行無常への覚悟


 若くて美しい、完全とも思われる状態にいる者ほど、いつかはその完全な状態が失われてしまうことを恐れる。『華麗なるギャツビー』以来のアメリカの文学作品の中には、綿々とそのようなモティーフが受け継がれている。ディズニーランドのぴかぴかのプラスティックの世界は、永遠の若さと美しさのメタファーである。そのような見かけ上の永遠は、傷ついたプラスティックのパーツを交換するシステムによって成り立っている。

 しかし、自分の人生は取り替えるわけにいかない。皺だらけになった肉体を、つるつるの若い肉体と交換するわけにはいかない。傷ついてしまったら、傷ついてしまったことを引き受けて生きていくしかない。


【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】

脳と仮想 脳と仮想 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-03-10

生と死の間に生まれ出る言葉/『異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩』異空間の俳句たち編集委員会


 人を殺(あや)めた男達が、牢獄で自分の死と向き合う。罪を顧(かえり)み、残された生をひたと見つめ、更にもう一段高い視点から俳句は生まれる。


 死を自覚すると、生の色彩はガラリと変わる。その時、彼等の胸の内で悔恨の風が吹き抜けたことだろう。そうかといって決して過去の罪が軽くなるわけではない。


 進化論的に考えれば、突発的な犯罪を犯す者はコミュニティを危険にさらす可能性がある。だから、チンパンジーの世界では仲間によって殺される。このあたりに死刑制度の原型があるように思う。また、種の本能としてそのようなDNAは排除されてしかるべきだと判断されるのかもしれない。


序  鶴見俊輔(哲学者)


俳句の生まれるとき

 二つの力のせめぎあいを感じる。

 自分個人として生きてきたという事実を何とかしてここにのこしておきたいという意志と、自分個人の肉体をぬけだして、すでに人外の場所に立って、誰のものでもない自由を行使する感性と。

 死刑囚の俳句は、この二つの方向に、作品をときはなつ。


 人間の存在に 頭をたれる。


【『異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩』異空間の俳句たち編集委員会(海曜社、1999年)以下同】


「せめぎあい」は彼等が激情に駆られた時にこそ発揮されるべきであった。後悔先に立たず、である。悔やんでも悔やみきれない過去を見つめ、死を受け入れた時、彼等の心には初めて静穏が訪れた。


   絶句


 冬晴れの

 天よ

 つかまるものが無い


 尚道(63歳)


 さらになにか言おうとしても、それ以上の言葉がでてこない。とぎれてしまった最後の言葉、最後のうた=絶句。

 身をゆだねる雲もない「冬晴れ」。間もなく自分は宙に吊られる。

 絞首刑という即物的なイメージを離れ、生きていること事体のえたいの知れない不安感も。

(俳号の下に記載されている年齢は被処刑時のもの)


 死後の自分をも達観しているのか。ロープにぶら下がった彼は空(くう)に手を伸ばしただろうか。その手で何をつかまえようとしたのか。


 執行直前


 水ぬるむ

 落としきれない

 手の汚れ


 公洋(28歳)


 汚れを自覚しているのは、心が清らかな証拠であろう。それにしても若い。若過ぎる。


 処刑前夜


 処刑明日(あす)

 爪 切り揃う

 春の夜


 卯一(27歳)


 20代で泰然自若として死に赴くことは、まず難しい。俳句にしかならなかった言葉、そして言葉にできなかった思いが交錯する。「自分は何のために生まれてきたのか?」という疑問が、心の中を行きつ戻りつしたに違いない。どこで人生の歯車が狂ったのか。どこでボタンを掛け違えたのか。二度と伸びることのない爪がパチンパチンと弾ける音を牢獄の壁はじっと聞いていた。


 我々はどうしても「死刑囚」とひと括りにしがちであるが、色々な人物がいることだろう。いい奴もいれば、悪い奴もいるはずだ。人生が千差万別であれば、犯罪だって千差万別であろう。わずか五七五の文字だけで人を判断できるものではない。それでも、次の句には戦慄を覚える──


 綱(つな)

 よごすまじく首拭く

 寒の水


 和之(31歳)


 作者が残した二枚の色紙。その一枚が「布団たたみ/雑巾しぼり/別れとす」。もう一枚がこれである。色紙を手渡された係官は「もうこれは人間のワザではない。神様に近い存在だ」と感じ、「手の震えが止まらなかった」という。執行の瞬間、立ち会った全員が、夢中で「南無阿弥陀仏」を唱和していたとも。


 死と一体化した時に現れる慎み深い所作。溢れんばかりの自由な旋律。一切を受け容れた者のみに特有なニヒリズム。人間はこれほどの言葉を発することができるのだ。「凄まじい」としか表現のしようがない。


 彼等は死んだ。我々の法律によって処刑された。死刑制度とは、正当な理由があれば人間を殺してもいいという価値観である。そこに潜む暴力性は不問に付されている。


 人が人を殺(あや)める。そして国家が犯罪者を殺める。行為だけ見れば全く同じだ。


 最後に収められた「鑑賞と解説」という座談会が余計である。かえって、死刑囚の俳句を軽んじる結果となっていて辟易(へきえき)させられる。しかも、関西弁をそのまま活字にするというお粗末ぶり。


異空間の俳句たち 死刑囚いのちの三行詩

「隠し撮り」アカデミー賞映画ベースに 「反イルカ漁」テレビ番組も決定?

 盗撮映画『ザ・コープ』は、原爆で30万人以上の日本人を殺戮(さつりく)したアメリカ人が、日本のイルカ漁を問題視した作品。こうした行為は、彼等の先祖が先住民族を虐殺した事実に対して目をつぶっている証拠といえる。正義に取りつかれたアメリカは強迫神経症に冒されている。

日米密約:3密約確認 元駐米大使・東郷氏の大量メモ決め手に


 息子の東郷和彦は外務省で佐藤優の上司だった人物。


 60年安保改定や沖縄への核再持ち込みを巡る三つの「密約」の交渉過程が9日に公表された外交文書で明らかになったのは、当時の担当者だった東郷文彦元駐米大使が残した大量の記録によるところが大きい。東郷氏は安保改定交渉時に外務省安全保障課長、69年の沖縄返還交渉時はアメリカ局長を務めた。

 68年、東郷氏は核兵器搭載艦船の寄港を認めた密約の経緯をメモに記した。メモは政府内の共通認識として外務省幹部に引き継がれ、歴代首相、外相への説明に使われた。沖縄返還を巡り、69年には日米首脳会談直前の佐藤栄作元首相と外務省幹部の打ち合わせ記録なども残した。

 東郷氏は、義父が太平洋戦争開戦時の外相の茂徳氏、次男が元オランダ大使の和彦氏という外交官一家。


毎日jp 2010-03-10

ナイジェリアの宗教衝突、死者500人に


 西アフリカ、ナイジェリアの中部ジョス近郊で7日に起きたイスラム教徒とキリスト教徒の衝突で、AFP通信は8日、政府当局者の話として、犠牲者が少なくとも500人に達したと報じた。

 イスラム教徒の武装集団が7日未明、ジョス郊外にあるキリスト教徒の村を奇襲。逃げまどう住民をナタで襲い、家屋や車に放火したという。ジョスでは1月、キリスト教徒がイスラム教徒を襲撃したことが発端で混乱が拡大し、300人以上が死亡。地元紙は今回の襲撃はイスラム教徒による報復との見方を伝えている。


YOMIURI ONLINE 2010-03-08

「太陽の男たち」の冒頭


 アブー・カイスは湿り気をおびた土に胸を憩わせた。すると大地は身体の下で息づき始めた。心臓の鼓動はもの憂く脈打ちながら砂の粒子に伝わり、それから彼の細胞のすみずみに行きわたった。砂の上に腹這いになるたびに彼はこの脈動を感じ取る。それはちょうど大地の心臓が、彼が初めてそこに胸をあててこのかた、遥か地底の暗闇から光を求めてたゆみなく険しい道を切り拓いているかのようであった。


【『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー/黒田寿郎、奴田原睦明〈ぬたはら・のぶあき〉訳(河出書房新社、1978年〈『現代アラブ小説集 7』〉/新装新版、2009年)】

ハイファに戻って/太陽の男たち

2010-03-09

リチャード・パワーズ、山口仲美、佐木隆三


 2冊挫折、1冊読了。


 挫折18『舞踏会へ向かう三人の農夫』リチャード・パワーズ/柴田元幸訳(みすず書房、2000年)/コストに配慮したと思われるがページの余白が殆どない。そのためページ数と章のタイトルが上下二段の真ん中に配されている。これが気になって仕方がなかった。30ページほどで挫ける。チンプンカンプンだ。


 挫折19『犬は「びよ」と鳴いていた 日本語は擬音語・擬態語が面白い』山口仲美〈やまぐち・なかみ〉(光文社新書、2002年)/惜しむらくは単調。ま、擬音語・擬態語だから仕方がないかもね。著者というよりは編集者の責任だろう。構成に工夫があれば、もっと面白い読み物になったはずだ。100ページで挫ける。


 36冊目『日本の名随筆 別巻91/裁判』佐木隆三〈さき・りゅうぞう〉編(作品社、1998年)/山口二郎の座右の銘を知り、慌てて本書を取り寄せた。徳冨蘆花〈とくとみ・ろか〉の「新しいものはつねに謀反である」という言葉をこの眼で読みたかった。「謀叛論(草稿)」だけでもこの本は読む価値があるといえる。全体的には序盤が面白いのだが、中盤の作家が巻き込まれた裁判からつまらなくなり、終盤の裁判所関係者のエッセイは読む価値もない代物だ。私は裁判なんぞ、これっぽっちも信用していない。

驚天動地、波乱万丈の人生/『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール

 凄まじい人生である。ティム・ゲナールは1958年生まれだから今年で52歳になる。彼の思春期までをスケッチしてみよう。


 3歳の時、母親に捨てられる。電信柱に縛りつけて、振り返ることもなく母親は去って行った。4歳になり、元米軍特殊部隊にいた父親と継母(ままはは)から日常的な虐待を受ける。最後は両足を粉砕骨折し、2年間の入院を余儀なくされる。8歳で精神病院に入れられる。9歳で養子になるが、ここでも酷(ひど)い仕打ちを受ける。二度にわたって自殺未遂。11歳で少年院に入り、暴力に目覚める。その後、脱走。12歳の時、初老の紳士にレイプされる。13歳でギャングの仲間入りをする。14歳で男娼(だんしょう)に。15歳で再びホームレス。16歳になり石材加工職人の職業適性証を取得。フランスで最年少の資格取得者となる。この年にボクシングを始め、国内チャンピオンの座を射止めた。


 単なるサクセスストーリーではない。生まれてから一度も愛されることのなかった少年が、もがきにもがきながら遂に人間を信じられるようになるまでが綴られている。陰惨極まりない人生でありながらも、それを笑い飛ばすようなユーモアがそこここに顔を覗(のぞ)かせている。


 ティム・ゲナールが3歳の時に継母と継子(ままこ)が新しい家族となる。彼はただ父親に抱いてもらうことを夢見ていたが、父親は虐待をもって応えた。継母までがこれに加勢した──


 それから、父はぼくの服をつかんで袋みたいに背負い上げ、地下室の入り口まで運んでいき、ドアを開けてそこから下へ放り投げた。

「このガキ、首の骨でも折っちまえ! でなきゃ……」

 最後までは聞き取れなかった。ぼくは暗闇めがけて飛行機みたいに空中を飛び、ぐしゃりと着地した。


 数秒後、いや数分後だろうか? ぼんやりした頭の中に継母のどなり声がこだまして、ぼくは無の世界から引き戻された。

「上がってくるんだよ! ほら、早く!」

 そんなこと言われたって無理だ。動けないんだから……。落ちたときに顎と鼻を砕いていたし、足はこん棒で殴られたときにもう折れていた。すると継母が下りてきて、父に代わってベルトの鞭でぼくを叩いた。ピシッ、ピシッ!

「ほら、動け! 上がりな! 上がるんだよ!」

 ぼくは力を振り絞り、階段を一段ずつナメクジみたいに這い上がった。背中にはなおもピシッ、ピシッとベルトの鞭が飛んでくる。足にはまったく感覚がなかった。

 朦朧としながらやっと階段の上まで這い上がると、父が仁王立ちで待っていて、また嵐のように襲いかかってきた。これでもか、これでもかとぼくを殴る。右側からの一発で目から火が出た。次いで内出血で膨れ上がっていた左側にも一発。さらにまた右から強烈な一撃が来て、耳がガリッと音を立ててつぶれた。目の前が真っ暗になった。

 あとは何も覚えていない。


 その日はぼくの誕生日だった。ぼくは五つになったのだ。


【『3歳で、ぼくは路上に捨てられた』ティム・ゲナール/橘明美訳(ソフトバンク クリエイティブ、2005年)以下同】


 ティム・ゲナールは鼻の骨を27回折っているが、23回はボクシングで、4回は父親にやられたものだった。多分、まだ幼くて骨が軟らかかったから死なずに済んだのだろう。父親はその後、我が子の手を焼き、額にナイフを突き立てた。ティムが歩けるようになるまで2年を要した。


 我々が生きる世界は暴力に覆われている。立場の弱い者には威張り散らし、車に乗ればけたたましいクラクションを鳴らし、自衛目的の軍隊を黙認し、アメリカの軍事行動に税金が使われても平然としている。我々は確実に暴力を容認している。その容認された暴力が圧縮されて、世界のあちこちで噴火しているのだ。


 彼の父親を殺したところで我々の世界は変わらない。とは思うものの、私の心の中に殺意の嵐が駆け巡る。


 ティム・ゲナールは10代で既にチンピラグループのボスになっていた。そして18歳の時に障害児と共同生活をするキリスト教ボランティアと巡り合う。こうして彼の人生に初めてうっすらと光が射(さ)し込んだ。トマ神父、そして子供達との出会いが彼を変えたのだ。


 ある晩のこと、みんなのトイレのために何度も起こされて、ぼくは頭にきた。

〈もしまた誰か起こしやがったら、階段の上から放り投げてやるから!〉

 はいそうですか、とばかりに声がかかった。

 ぼくは起き上がり、ぼくを呼んだ女の子のベッドへ行き、腕に抱えた。投げようと思ったから、いつもよりしっかり抱えた。女の子は不思議そうな顔をした。階段のところまで行って、さあ投げてやろうとしたら、その子が不自由な腕でぼくのくびにぎゅっとしがみついてきた。

 ぼくははっとした。父も母もぼくを抱きしめてくれなかったのに、この子はぼくを抱きしめてくれているのだと!

 ぼくは我に返り、その子をトイレに連れていった。自分のベッドに戻ったときには頭が割れるように痛かった。ぼくは怒りが溜まるとそれを暴力として吐き出さずにはいられない。その怒りが頭からあふれ出さんばかりになっていた。本当に危なかった。でも、ぎりぎりのところであの子が助けてくれたのだ。


 本書で描かれているのは24歳までである。このまま映画化できそうなほどの破天荒な人生だ。結婚前に世界各地を旅して回っている。ティム・ゲナールはローマの駅で立ちすくんでいる老婦人に声を掛け、案内を申し出る。この老婦人が何とマザー・テレサその人であった。あちこちに同行した彼はマザー・テレサを知らなかった(笑)。


 不信に取りつかれた少年が、信仰と障害児によって生の喜びを知った。愛情を知った彼は、自分の両親を赦(ゆる)した。ティム・ゲナールは本物の自由を手に入れたのだ。

3歳で、ぼくは路上に捨てられた

黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった

石●石炭ガスが登場する以前、大都市の街頭の燃料にクジラの油を使っていて、1740年代のロンドンでは5000もの街灯が鯨油でともされていたそうです。これでは、いくら捕鯨をやっても足りないですよ。欧米で捕鯨の圧力が少し下がるのは、19世紀に入って石炭ガスが普及してきてからです。


(中略)


石●アメリカの捕鯨産業は1650年頃東海外で始まり、1700年頃にはそこも捕り尽くして北極海に出ていく。それも、湯浅さんがいわれたとおり、1830年頃には資源は枯渇して太平洋に進出を余儀なくされる。19世紀半ばには、もう太平洋の東ではクジラが壊滅し、さらに西へ西へと進出したわけです。しかし、捕鯨船への燃料や水の補給ができなくなり、そこで強面のペリー提督を日本に送り込んで、捕鯨船への補給のために開国の圧力をかけることになる。


【『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之〈いし・ひろゆき〉、安田喜憲〈やすだ・よしのり〉、湯浅赳男〈ゆあさ・たけお〉(洋泉社新書y、2001年)】

環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)

アインシュタインは実験をしなかった


 アインシュタイン自身はけっして実験をしなかった。彼は自らの相対性理論を用いて、世界についての新しい見方を思い描いた。それを解く鍵は、何年も失敗を続けたあと、ある朝目覚めてベッドに座っていたとき思いがけない形でやってきた。鍵は合うか合わないかのどちらかだ。アインシュタインは、その鍵がぴったりあ(ママ)うことをただちに理解した。


【『内なる目 意識の進化論』ニコラス・ハンフリー/垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(紀伊國屋書店、1993年)】

内なる目 意識の進化論

民族という概念は18世紀に発明された


 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。

 こうして幻の「日本民族」はできた。さて植民地ができると、そこに住む新日本人たちは、一体何になるのか? これにかかわり、「国体の本義」を考える人たちは悩んだ。研究者たちも迷った。喜田定吉(きた・さだきち)の著作を読むと、当時の知識人の困惑が掌にとるようだ。結局、ラ・フランス・メトロポリテーヌ(内地フランス)とラ・フランス・ドウトル・メール(外地フランス)というフランス型の植民地支配方式でごかました。ドイツ語の「血」の語源をここで落としたのであった。

単一民族」幻想は成立したのだが、実は「血」を語ると、それ以前から不都合な部分があったからである。沖縄の人たちと、北海道のアイヌなどの先住民たち、あるいは小笠原の人々の存在だった。

 フランス型植民地支配方式とは、つまり「内地日本(人)」が、「外地日本(人)」(この場合は、朝鮮半島、台湾、樺太(現サハリン))を統治指導する、という考え方である。昭和になって、ついでに中国もまとめて指導してやろうじゃないか、というのが、いわゆる「大東亜共栄圏」論、「八紘一宇」論だ。この「八紘一宇」論が、実はそのまま現在の「大東亜戦争=アジア解放戦争」論に繋がっている。

「八紘一宇」論とは、つまり、わたしの言う「日本型中華思想」である。中華が蕃(蛮)を救済し、指導してやる、と言うのである。


【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】

無境界の人 (集英社文庫)

2010-03-08

北方領土ビジネス/『北方領土 特命交渉』鈴木宗男、佐藤優


 怨念のこもった一冊。一矢(いっし)報いようとする二人の執念は、外務省幹部の実名を挙げ、顔写真まで入れて指弾している。北方領土を取り巻く日ロ交渉の舞台裏が描かれており、テレビや新聞の流すニュースがどれほど不毛であるかがよく理解できる。しかし残念ながら、本書の情報を読者は確認することができない。


 塀の中から出てきた二人は義憤に駆られていた。国策捜査が北方領土返還を頓挫させた。いずれにせよ、外務省内の権力闘争であったことは確かだろう。法廷も権力者の味方をする以上、真実が明らかになるとは到底思えない。


 官僚と強力なタッグを組む御用学者も断罪されている。その筆頭が青山学院大学の袴田茂樹教授だ──


佐藤●ここで一部からの反発をあえて覚悟してこれまで誰も踏み込まなかった問題に言及したいと思います。じつは、「北方領土ビジネス」なるものが存在します。そんなビジネスをやっている連中にとっては、ビジネスがいつまでも続くことが個別利益に適います。たとえば、北方領土問題対策協会(北対協)にはいくらくらい金が出ているのでしょうか。


鈴木●北対協のホームページによれば、2006(平成18)年度予算は10億17000(ママ)万円ということです。

 ほかにも、外務省系として北方領土復帰期成同盟(北方同盟)がありますが、ここは2000(平成12)年10月に2100万円の使途不明金問題が発覚しています。また、北方領土対策本部という部署もありますが、どこも億単位の予算がついている。


佐藤●そうした団体には北海道庁から役人が天下り、研究会と称したことをやっていますが、どこまで役に立っているかわかりません。


鈴木●北方領土ビジネスというのは、領土問題が解決しないほうが都合がいいのです。自分たちの立場ば(ママ)守られますからね。返還運動に関わっている北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)の事務局長である児玉泰子(こだま・やすこ)さんや、すでに何度も名前のあがっている青山学院大学の袴田茂樹教授も同じです。

 はっきりいいますが、彼らは国民の税金を食い物にしているのです。


佐藤●児玉さんや袴田さんの運動によって、北方領土交渉が前進したことがあるのでしょうか。


鈴木●何ひとつありません。彼らにとって、自分たちの仕事が続くためには、北方領土問題が解決してもらっては困るのです。

 したがって、ことあるごとに問題を起こして交渉の妨害を企てる。トラブルメーカーのようなものですね。


【『北方領土 特命交渉』鈴木宗男、佐藤優(講談社、2006年/講談社+α文庫、2007年)】


 鈴木宗男の公式サイトには、袴田からの抗議文がアップされている──

 鈴木、佐藤の指摘が正しいとすれば、とんでもない話だ。学識を利用した詐欺といっていいだろう。青山学院大学の学生諸君は立ち上がって真実を糾弾すべきである。


 二人が語る北方領土返還の道筋は具体性があり説得力に富んでいる。二島返還の先行をロシア側が承認しているのだから、残された二島については更なる協議を続けていけばよい。既に半世紀以上も返ってきていないのだから、これ以上長期間に及んでしまえば、ロシアの領土であることが歴史上の事実と化してしまう。


 事実として北方領土返還は何の進展もない以上、二人を葬った外務省側に膠着(こうちゃく)状態を打開せしむる力量を持つ人物はいないと見て構わないだろう。であれば、アイディアも人脈もある鈴木宗男に賭けたくなるのが道産子の心情だ。


 ロシア語通訳の米原万里は、佐藤優の『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を次のように評した──


 外務省は、途轍(とてつ)もなく優秀な情報分析官を失った。おかげで読書界は類(たぐ)い希(まれ)なる作家を得た。退官した外交官がよく出すノー天気な自画自賛本が100冊かかっても敵(かな)わない密度の濃さと面白さ。(「日暮れて途遠し」より借用)


 その意味では何がどう転ぶか決してわかったものではない。鈴木宗男と佐藤優は甦(よみがえ)った。人間の本質というものは、そう簡単に変わるものではない。彼等が獄中で何を見つめ、何を思い、そしてどのような焔(ほのお)が心に灯されたのか──それは自ずから今後の行動に現れることだろう。

北方領土「特命交渉」 北方領土 特命交渉 (講談社+α文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

タリバンが少女をむち打ち パキスタン


 パキスタン北西辺境州のスワト地区で、17歳の少女が、義父と性的関係をもったとして、イスラム原理主義勢力タリバンのメンバーからむち打ちを受ける場面がテレビで放映され、パキスタン国内で衝撃が広がっている。スワト地区は治安回復を望む州政府が武装勢力の主張を受け入れ、3月中旬からイスラム法が導入されている。

 映像では、大勢の男性が取り巻くなか、2人の男性に上半身と下半身を押さえられた少女が、もう1人の男性からむち打ちを受け、「やめて」と懇願する様子などが映し出されている。

 タリバン側はこの映像の存在を認めたうえで、「少女は夫以外の男性と家から出てきたから、罰を受けなければならない」として、むち打ちは妥当だと述べた。一方、地元タリバンの司令官が少女に求婚したが、少女の父親が拒否したための報復との説もある。

 一部の報道によると、映像は住民の携帯電話で広がり、テレビでも繰り返し放映された。特に事件が起きたのがイスラム法が導入されたスワト地区だけに衝撃は大きく、中央政府は事実関係の調査を指示した。スワト地区を管轄する州政府側は「映像はイスラム法が導入される前の1月の出来事だ。政府と武装勢力の合意を妨害しようとする勢力の仕業だ」と反発している。


産経ニュース 2009-04-06


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タリバンの40%は外国兵


 タリバーンは、反タリバーン地域を制圧すると、家と畑を焼き、男たちを連れ去ったと難民が訴えていた。娘や妻にガソリンをかけ家族の目の前で殺し、人々に恐怖感を植えつけて村に戻れないようにしたともいう。人が集まる市の立つ日を狙って爆撃を加えることもあった。「アフガン人なら、こんな残酷なことはできない」と住民は怒りを募らせた。マスードは「タリバーンの40%はパキスタン、アラブなど世界各国からの外国兵だ」と話していたが、アフガニスタンに世界の原理主義者たちが集うにようになったきっかけはソ連軍の侵攻だった。イスラムの聖戦に加わった各国の義勇兵の中で、原理主義組織のネットワーク作りが進んでいった。その中に、オサマ・ビンラディンもいた。


【『マスードの戦い』長倉洋海〈ながくら・ひろみ〉(河出文庫、1992年/『峡谷の獅子 司令官マスードとアフガンの戦士たち』朝日新聞社、1984年に一部加筆)】

マスードの戦い (河出文庫)

2010-03-07

「謎の学費」に悲鳴を上げる親が続出! 高校生ワーキングプア大増殖の真相


「試験日なのに生徒が来ないので電話してみると、月末でバス代が出せないので学校に行かせられない、と言われた」

「片道4時間かけ、徒歩通学している子がいる」 

 などといった声が後を絶たない。


西川敦子

J・クリシュナムーティー


 1冊読了。


 35冊目『英知の探求 人生問題の根源的知覚』J・クリシュナムーティー/勝又俊明訳(たま出版、1980年)/原書は1972年刊。前半は1970年にスイスのザーネンで行われた講話で、後半は討論会が収められている。訳が少しぎこちない。注目すべきは討論で、通りいっぺんに読んでしまうと散漫な印象を受けてしまう。だが、ここに思想を伝える難しさがあるのだ。そしてクリシュナムルティは厳しい姿勢で臨んでいる。読んでいても質問の意図がわかりにくい。言葉が思想に追いつけないのだ。それでも尚、クリシュナムルティは言葉をまさぐるようにして対話を続ける。時に焦りや苛立ちも見受けられ、生々しい雰囲気を再現している。クリシュナムルティ関連はこれで24冊目の読了。

偽りの記憶/『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー


 答えは「睡眠障害」。エ、それだけ? そう、それだけの話だ。序盤で解答が判明するため、これから汗を握ろうとしている手から力が抜ける。構成に難あり。脱力状態。残されているのは冗長な説明。


 元々スーザン・A・クランシーは「偽りの記憶」に関する研究を行っていた。レイプ被害者に面談調査し、催眠療法によって引き出された記憶の多くが「作り話」であることが明らかになったという。研究結果を公開するや否や、レイプ被害者から怒りの声が沸き起こった。そりゃ当り前の話だ。ところが著者は「科学的な事実を追求しただけなのに、どうしてそれが悪いの?」といった所感を綴っている。まず間違いなくこの人物は人格障害だと思われる。善悪の概念が稀薄で、他人を傷つけることに罪悪感を覚えていないのだから。


 トーマス・ギロビッチ著『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』、アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース著『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』などを既に読んでいる人であれば本書は不要だ。


 実際アメリカにはどれくらいの人々が宇宙人にさらわれた経験があるのだろうか? 何と400万人だ。アメリカの人口は3億人だから、実に1%以上の人々がエイリアンに連れ去られていることになる。

 とすれば、地球を訪れたエイリアンの人数も400万人以上の可能性がある(笑)。


 一体全体どうしてそんな経験をでっち上げるのだろうか? 殆どの「体験者」が実ははっきりと宇宙人を目撃しているわけではない。にもかかわらず、「未知との遭遇」を証言するのだ──


 わたしがインタビューした被験者は、みなおなじ軌跡をたどっていた。いちどエイリアンに誘拐されたのではないかと疑いはじめると、もう後戻りはできない(信じかけた人が、そうでないと思い直すには、どんなことがターニングポイントになるのだろう。これは興味深い研究分野になりそうだ。誤った思い込みをつくりだすのを防いでいる心理的な認知要因を理解するのに役立つかもしれない)。思い込みの種がまかれ、アブダクションを疑いはじめると、アブダクティーは補強証拠を探す。そしていったん探しはじめると、必ずといっていいほど証拠が出てくる。確証バイアス──すでに信じていることに都合のいい証拠を探したり解釈したりして、都合の悪い証拠は黙殺したり解釈しなおしたりする傾向──は、だれもが持っているものである。科学者さえもだ。いちど前提(「わたしはエイリアンに誘拐されたと思う」)を受け入れてしまうと、それが事実ではないと納得するのは非常にむずかしい。打たれ強くなり、まわりの議論に左右されなくなる。


【『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー/林雅代訳(ハヤカワ文庫、2006年)以下同】


 睡眠障害というのは、いわゆる金縛りである。つまり、肉体は睡眠しているが脳が覚醒している状態だ。私は一度も経験したことがないが、ま、大体の想像はつく。まず、恐怖感に襲われることだろう。そして身体を動かすことができないのは、何者かによってコントロールされているからだと考えるに違いない。そして、部屋の中をサッと黒い影が動く。「あ、宇宙人だ!」。


 また、エイリアンに誘拐されたという人々の手記は、ほぼ睡眠障害の状態と一致しているため、人知れず悩んでいる人にとっては渡りに舟となるのだ。


 人間は何かを信じた途端、認知バイアスがかかる。自分が信じる対象を補強する情報は積極的に取り入れ、吹聴するが、反対に否定する情報に対しては無視する傾向が強くなる。「信じる」とは、信じる対象を中心にして物語を編む営みである。


 著者は催眠療法についても異議を唱える──


 要するに、何十年にもわたる研究から、催眠によって偽りの記憶がつくられやすくなることがわかっているのだ。これはおもに、催眠で想像力が刺激されることと、現実の束縛から解放されることに原因がある。そして、このような状況においては、わたしたちはいつになく暗示にかかりやすくなる。


 つまり、催眠状態に置かれたクライアントは誘導されやすいということだ。自我を形成しているのは記憶である。偽りの記憶によって「勝手に上書きされた自我」が現れる。


 ただし、このあたりも面白みのある展開ではない。じゃあ、記憶が正確なら人間は幸せなのか? ってな次元になってしまう。心理学が胡散臭いのは、データを集めて恣意的(しいてき)な解釈を試みるためだ。本来であれば、「記憶を偽らざるを得ない理由・原因は何か?」と踏み込むべきところだ。


 相手がエイリアンだから、我々はフンと鼻で笑う。でも、これが神様や幽霊だとしても何ひとつ変わりがない。っていうか、何かを信じて生きている以上、錯誤は避けようがないのだ。


 果たして宇宙人は存在するのだろうか? ああ、いるとも。実際にどこにいるかは問題ではない。「宇宙人」という言葉が生まれた時から宇宙人は存在するのだ。言葉や情報とはそういう性質のものである。つまり、我々が宇宙人という概念を受け入れた瞬間から宇宙人は実在するのだ。


 で、今回の結論だ。宇宙人や神様や幽霊を信じている人々は、恐怖感に支配された人々であると考えられる。

なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫NF)

ネットで医師暴走、医療被害者に暴言・中傷


 医療事故の被害者や支援者への個人攻撃、品位のない中傷、カルテの無断転載など、インターネット上で発信する医師たちの“暴走”が目立ち、遺族が精神的な二次被害を受ける例も相次いでいる。

 状況を憂慮した日本医師会(日医)の生命倫理懇談会(座長、高久史麿・日本医学会会長)は2月、こうしたネット上の加害行為を「専門職として不適切だ」と、強く戒める報告書をまとめた。

 ネット上の攻撃的発言は数年前から激しくなった。

 2006年に奈良県の妊婦が19病院に転院を断られた末、搬送先で死亡した問題では、カルテの内容が医師専用掲示板に勝手に書き込まれ、医師らの公開ブログにも転載された。警察が捜査を始めると、書いた医師が遺族に謝罪した。同じ掲示板に「脳出血を生じた母体も助かって当然、と思っている夫に妻を妊娠させる資格はない」と投稿した横浜市の医師は、侮辱罪で略式命令を受けた。

 同じ年に産婦人科医が逮捕された福島県立大野病院の出産事故(無罪確定)では、遺族の自宅を調べるよう呼びかける書き込みや、「2人目はだめだと言われていたのに産んだ」と亡くなった妊婦を非難する言葉が掲示板やブログに出た。

 この事故について冷静な検証を求める発言をした金沢大医学部の講師は、2ちゃんねる掲示板で「日本の全(すべ)ての医師の敵。日本中の医師からリンチを浴びながら生きて行くだろう。命を大事にしろよ」と脅迫され、医師専用掲示板では「こういう万年講師が掃きだめにいる」と書かれた。

 割りばしがのどに刺さって男児が死亡した事故では、診察した東京・杏林大病院の医師の無罪が08年に確定した後、「医療崩壊を招いた死神ファミリー」「被害者面して医師を恐喝、ついでに責任転嫁しようと騒いだ」などと両親を非難する書き込みが相次いだ。

 ほかにも、遺族らを「モンスター」「自称被害者のクレーマー」などと呼んだり、「責任をなすりつけた上で病院から金をせしめたいのかな」などと、おとしめる投稿は今も多い。

 誰でも書けるネット上の百科事典「ウィキペディア」では、市民団体の活動が、医療崩壊の原因の一つとして記述されている。

 奈良の遺族は「『産科医療を崩壊させた』という中傷も相次ぎ、深く傷ついた」、割りばし事故の母親は「発言することが恐ろしくなった」という。


YOMIURI ONLINE 2010-03-06


 医師に対する社会的なプレッシャーが大きなストレスと化している様子が窺える。また世襲的な職業であるがゆえに、打たれ弱い人々が多いであろうと想像する。政治家、医師、教員──「先生」と呼ばれてきた職業は、いずれも地に堕ちた感が強い。

記者クラブ制度の是非 上杉隆vs花岡信昭


 花岡信昭は元産経新聞記者である。OBの立場でも話しにくい内容であることが明らかだ。最初から最後まで苦しい言いわけに終始している。


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ネット子育てゲームに熱中、生後3カ月の娘餓死 韓国カップル


 韓国の聯合ニュースによると、ソウル郊外に住むカップルがオンラインの子育てゲームに熱中し、ネット上のバーチャルな子供を育てる一方で、生後3カ月の実の娘が餓死するまで放置し、遺棄致死容疑などで逮捕された。

 このカップルは1日のうち12時間をインターネットカフェで過ごす一方、娘には1日に1度しかミルクを与えなかったという。

 警察当局者は、「2人は仕事がない状態で、未熟状態の娘が生まれたため、ノーマルな人生を送る意志をなくしたのだろう」と述べている。

 ソウルにある東国大学校の専門家は聯合ニュースに対し、カップルが現実の進むべき道を見失ったのだろうと指摘。「オンラインゲーム中毒は、現実とネットの世界の境をあやふやにさせてしまう。ネットの子供を世話することで、実際の子供を虐待する罪の意識が薄れていたのではないか」と話している。

 また、政府に対し、オンラインゲーム中毒に周囲が気付き、何らかの対策が施せるような社会システムの構築を求めている。


CNN 2010-03-06

2010-03-06

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 これは勉強になった。人類史の壮大なパノラマを「環境史」という視点で読み解く作業が実に刺激的である。最近よく聞かれるようになったが、世界の大きな戦争は寒冷期に起こっているという。これは少し考えればわかることだが、寒くなれば暖房などのエネルギーを多量に使うようになる上、農作物が不作となれば大量の人々が移動をする。当然のように温暖な地域を目指すことになるから衝突は必至だ。


 このように世界の歴史を「環境」から検討する学問を環境史という。人類の歴史が大自然との戦いであったことや、天候が人間心理に及ぼす影響を踏まえると、その相関関係はかなり説得力があるように思う。


 たまたま、ジョン・グレイ著『わらの犬 地球に君臨する人間』という陰気臭い本と一緒に読んでいたこともあり、本書に救われるような気がした。学問の王道はやはり「面白主義」である。予想だにしなかった事柄が結びつく時のスリルが堪(たま)らん。


 私は今まで、西洋文明=騎馬民族vs東洋文明=農耕民族と何となく考えていたが、本書では動物文明(家畜&麦作)vs植物文明(稲作&漁業)という構図が示されており、文明の違いを様々な角度から検証している。更に、アジアにおいて黄河文明などは動物文明であったとのこと。


 先進国は基本的に西洋のルールに従っていると思われるが、その暴力性・侵略性が実によく理解できる。


安田●やはり家畜の民がつくった文明が、現在の世界を支配しているということです。この点が21世紀には大変大きな意味をもつと思います。人間を家畜と同じようにコントロールして奴隷をつくる。そして人間の性、つまり子どもを産むことにまでタッチする文化をどう考えるのか。たとえば遺伝子操作やクローン技術は、全部ヨーロッパ文明=家畜の民が生み出した技術革新です。

 もともと家畜の民だった人がつくった地中海文明のうえに、キリスト教という家畜の民の巨大宗教がやってきて、自然支配の文明をつくりだした。これが人類の歴史における大きな悲劇だったと思う。


【『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之〈いし・ひろゆき〉、安田喜憲〈やすだ・よしのり〉、湯浅赳男〈ゆあさ・たけお〉(洋泉社新書y、2001年)以下同】


 人間の家畜化が奴隷化であった。ヨーロッパの隣に位置するアフリカの歴史を見れば一目瞭然だ。

 西洋における農業は麦作が中心だった。麦作は畑を耕すために動物の力を必要とした。そして麦作は個人戦で展開することができた──


安田●僕は湯浅さんから教えられたんですが、ムギというのは天水農業の下では個人の欲望を自由に解放できる農作物です。つまり、自分の土地を所有し、水に支配される度合いが少ないために、自分の好きなように土地を耕していけば、それだけ生産性が上がる。ですから個人の欲望を解放しやすいわけです。一方稲作は、いつも水に支配されていますから、個人の欲望は解放しにくい。共同体に属さないことには農耕がしにくいという制約がありますね。


湯浅●水管理には協調性が必要です。


 別の見方をすれば、個人で開墾することができたからこそ、奴隷に任せることも可能であった──


安田●稲作は苗代をつくり、種籾をまき、田植えをし、草取りをし、刈り取るというように、かなり集約的で時期が制限された農耕ですから一所懸命やらないといけない。


石●稲作は技術集約的、かつ労働集約的ですね。


安田●奴隷には任しておけないということですね。ムギとコメはそこに根本的な違いがある。


石●それは面白い。稲作文明で大規模な奴隷が発生した例は思いつきませんね。


湯浅●僕は麦作文明からは、労働の生産性を追求する経済学、稲作文明からは土地の生産性を追求する経済学が誕生したと思っています。前者が今日の近代経済学にも通じる。マルクス経済学も労働の経済性の追求でしょう。労働の生産性というのは、自分以外のエネルギーを自分のエネルギーにしてしまうわけです。初めはウシ、ウマ、いまや石炭、石油になっています。


安田●これはあくまでも「家畜の経済学」ですね。


湯浅●そう。それに対してコメの経済は土地の生産性を重視する。つまり、一定の限界があり、最終的には水の量で決定するわけですね。


石●それと地形ですね。


湯浅●そう。日本の中世文書をご覧になればわかるように、紛争は入会と水をめぐる争いですよ。


 そして牧畜が森を破壊する──


安田●それまで、中世ヨーロッパの農業社会は非常に不安定だった。ところが、稲作農業というのは初期の段階から土地の生産性を生かす方向にいっていますから、非常に循環的だった。ですから、東と西の中世社会を比べてみたときに、日本やアジアの水田稲作農業のほうがはるかに生産性も高かったし、社会的な安定性という面においてもヨーロッパの中世社会よりもよかった。


湯浅●だいたい物質文明は、16世紀まではアジアのほうが高かったわけです。


安田●秋の終わりに家畜を殺して、やっと冬を越していた三圃式農業の悪循環を脱却するために、四圃式農業が登場した。それによって、初めてヨーロッパの農村が近代化への道を歩み出したのです。


石●しかし、家畜を森林に放したために、大規模な森林破壊が起きる。ブタの放牧によって、若芽とドングリを食われて木がなくなってしまう。


安田●もちろんこれもヨーロッパの森林破壊の一つの原因です。それは、もっと前から行われていた。


湯浅●僕は、鉄の破壊力も大きいと思っています。


 最後の「鉄の破壊力」というのは、鉄を精錬するために大量の木を燃やす必要があるためだ。また塩害によって、森を開拓せざるを得ない状況も生まれたようだ。


安田●ヨーロッパへ留学した研究者の多くは、21世紀は個人を解放し、個人が自立しなければならないというわけです(笑)。日本人は個人が自立していない。ヨーロッパ人はきちんと個を確立している、と。

 それはそうですが、逆にいったら個人が勝手気ままにやる社会ということです。これをコントロールしようと思ったら、厳しい法律を決めるしかない。「おまえ、これをやったらおちんちん切るぞ」という厳しい法律で個人をコントロールするしかないのが動物文明です。今の中国は、まさにこの方策を断行するしかない。そうしないと四分五裂してしまう。中国文明も黄河文明がそうであるように、動物文明、家畜文明の性格を強く持っている。


湯浅●僕は、日本的な個は充実していたと思っています。日本社会は西ヨーロッパと同じように、「多数中心社会」だと思っています。一つの中心に集中しないようにしている。たとえば天皇と将軍という複数のシステムができていて、一つが独走しないように常に片手が牽制している構造ができているわけです。

「個が充実してない」というよりも、その仕方が違うのではないでしょうか。日本の歴史で欧米的にいちばん個が充実していた時代は戦国時代です。その後、江戸的な抑制システムに転換していく。あの下剋上の時代こそ、個が充実することによってコミュニティも充実したのではないでしょうか。京都の祇園祭の母体となる「町衆」も戦国時代に誕生しました。


 個人戦によって西洋では過剰な自意識が芽生えた。そこに権利を守る必要が生まれたというわけだ。アメリカが訴訟社会であるのも、人種の坩堝(るつぼ)=多様な価値観が入り乱れているためなのだろう。価値観が異なるのだから「暗黙の了解」という文化は生まれない。


石●人間の欲望を抑制する「装置」は何かと考えたんですが、過去で最も効果的な装置は宗教ですよね。それと、農村社会も多分、立派な装置を備えていたようにみえる。常にお天道様が相手ですから、早稲まきのイネをまいて駄目だったら、すぐに遅まきに切り替える、というふうにいくつも装置がある。農耕社会というのは、常に生き残っていくためには同じ作物を植えないで、半分は収穫は低いけど乾燥に強いものを植えるようなやり方をしている。

 アフリカの農耕社会では、「ムゼー(長老)の知恵」といって、同じトウモロコシでも何種か何回かに分けて種をまきます。あるものは発育が遅いけれども収穫が非常にいい、あるものは早くできても収穫が悪いというように、常に安全装置をみています。

 たぶん牧畜社会では、そうした安全装置がないですから、病気で全部のヤギが死んでしまうと、結局隣の村へヤギを盗りにいくことになる。


 つまり、「生きるための侵略主義」ということになろうか。しかも西洋の連中には一神教の神様までついていたわけだから侵略を正当化するのも朝飯前だ。


 農業を支配しているのは気候である。西洋も稲作をすりゃよかったのに、と言ったところで、雨が少なければそれもかなわない。元々は自生していたのだろうから、突飛な作物を植え付けすることは考えにくい。それこそ畑違いというものだろう。


 我々にしたって、「稲作は循環型だから俺等の勝ちだ」なんて油断していられない。大体、食糧の殆どを輸入しているわけだから、農作物と国民性の相関関係も随分と変わっているに違いない。


 食べ物を自分達で供給しなくなったことによって、我々は根無し草のようになってはいないだろうか? どこで作られたのかもわからない加工食品を食べることで、ひょっとしたら無国籍になりつつあるような気がする。


 取り敢えず今のところは温暖化が進んでいるようだから、しばらくの間は世界の動乱は起こらないことを信じたい。

環境と文明の世界史―人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ (新書y)

寺島しのぶの見上げた女優根性


 ベルリン国際映画祭のコンペティションに出品された若松監督作品『キャタピラー』で最優秀女優賞を獲得。


「生活する人間を撮っているんだから、脱いで何が悪い。裸だけで騒ぐって、意味わかんないですよ」


『AERA』2010-03-01

宝月誠、岸田秀、小野田寛郎


 1冊挫折、2冊読了。


 挫折17『逸脱とコントロールの社会学 社会病理学を超えて』宝月誠〈ほうげつ・まこと〉(有斐閣アルマ、2004年)/横書きだった。横書きというだけで読む気が失せてしまった。


 33冊目『ものぐさ精神分析岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)/今月の課題図書。10年ぶりの再読。面白い。脳科学が発展した現在でも十分に通用する論理だ。二枚腰、三枚腰といったところ。性に関する部分が肛門のオンパレードでいささか鼻白(はなじろ)むが、それは私の幻想が強いためなのだろう。後半で心理学者をこき下ろしているが内部告発というよりも完全な反逆。やはり冒頭の国家と歴史について書かれたテキストが圧巻。あと2〜3回は読む必要がありそうだ。


 34冊目『たった一人の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(東京新聞出版局、1995年)/一気読み。いやはや凄い。何がこれほどまでに涙を誘うのか? 小野田さんが上官の命令によって「投降」したのは昭和49年(1974年)3月9日のことであった。実に終戦後から29年を経ていた。私は当時小学4年生だった。幼心に「凄い人がいるな」とは思ったものの、まさかこれほど凄い人だとは知らなかった。表紙になっている写真は投降前のもので、眼光の鋭さはまさに軍人のものである。当初は4人で行動していたが一人が昭和29年に死亡。一人は逃走。そして生死を共にしてきた小塚一等兵が昭和47年に射殺された。陸軍中野学校二俣分校で学んだ小野田さんは、中野学校そのものと化していた。中野学校で学んだ技術によって小野田さんは生き延びることができた。そして中野学校で叩き込まれた諜報活動の習性によって小野田さんは終戦を信じることができなかった。日本政府が幾度となく動き、家族による呼び掛けも行われたものの、小野田さんは「いまだ任務を解かれていない」という一点で諜報活動を続けた。本当にたった一人で30年間にわたって戦争を続けていたのだ。まず驚かされるのは、その冷静さである。飲み水に留意し、毎日大便の状態を検(あらた)めて健康をチェックする。口論となった際にも合理的な姿勢は変わらない。捜索隊が置いていった手紙は「秘密開緘」(ひみつかいかん)という方法で開封した痕跡が残らないようにした。こうしてフィリピンのルバング島で「残置諜者」(ざんちちょうじゃ)として戦い、じっと日本軍を待ち続けていた。30年ぶりに帰ってきた祖国は金まみれになっていた。当時の田中内閣からの見舞金100万円を、小野田さんは靖国神社に奉納した。苛酷な30年間は勘違いといえば勘違いである。だが我々が生きている物語も大なり小なり「心のルバング島」に囚われていることだろう。小野田さんは清廉に生きた。その事実が読者の心を打たずにおかない。傑作である。

米国で極右組織が急増、09年は前年比3倍


 米国内のヘイトグループ(人種や宗教に基づく差別・排斥を扇動する集団)に関する調査を行っている人権団体、南部貧困法律センター(Southern Poverty Law Center、SPLC)が2日発表した報告によると、過激な反政府主義や陰謀説を掲げる極右組織や武装集団がここ数年で、急増しているという。

「愛国者」を名乗り活動しているこうした極右組織の数は、2008年には149団体だったが、翌2009年には512団体と、約3倍に急増した。うち武装集団は、前年の42団体から127団体に増加した。

 同センターによると、極右組織は政府を第1の敵と位置づけ、あらゆる種類の陰謀説にとりつかれているという。

 極右組織の急増の背景には、米国人口における人種構成の変化や、それを体現したとも言える米国初の黒人大統領の誕生、また膨張する国家債務や破たん金融機関に対する救済に対する不満があると指摘している。またそれらの組織は、オバマ政権の一連の政策を「社会主義的」あるいは「ファシスト的」だと主張している。


【AFP 2010-03-05】

繁栄と多忙が「祈り」を葬る


 繁栄も祈りを弱体化するだろう。あちこち旅をするなかで、発展途上国のクリスチャンは祈りの効果をあれこれ考える時間が少なく、より多くの時間を実際に祈ることに費やしていることがわかった。裕福な人々は、当面の問題を解決するには才能や資産を、将来の保障には保険証券や退職年金制度を当てにする。貯蔵庫に1か月分の食料品の蓄えがある私たちは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と真剣に祈ることなどほとんどない。

 時間の重圧は、祈りに必要と思われるゆっくりした時間の流れをどんどん閉め出してしまう。他者とのコミュニケーションは、テキストメッセージ、電子メール、瞬間的な電子通信など、ますます簡素なものになっている。会話をする時間が減る一方で、じっくり考える時間はもっと少なくなっている。絶えずつきまとう「不足」感。時間不足、休息不足、運動不足、余暇不足。すでに予定から遅れているような生活のどこに神の入る余地があるだろう。


【『祈り どんな意味があるのか』フィリップ・ヤンシー/山下章子訳(いのちのことば社、2007年)】

祈り―どんな意味があるのか

2010-03-05

「信じること」と「知ること」は違う


 ある命題を「知」というならば、世界に起こるすべての場合において、それが真でなくてはならない。「電話番号を教えてくれた人は私が一番信頼している人だから、繋がらなくても正しいはずだ」と主張したところで、何の説得力も持たない。要するに「信じること」と「知ること」とは違うのである。ある事件の犯人を、あらゆる状況証拠から、犯人であると信じるに足る要件が整っていたとしても、もしその人が真犯人でなかったら、犯人を知っているとはいえないのと同様だ。命題が真でなければ、「知っている」とはいえないのである。正しいと「信じている」にすぎない。

 ここまで理解させたあと、この命題を麻原教祖に置き換えて考えさせてみた。麻原教祖はすばらしい人格者で、信じるに足る人間で、行動にはまったく悪意がなかったのかもしれない。だから彼に教えられた教義という名の携帯電話の番号が、間違っていたと非難されても、番号を聞き間違えたかもしれないし、麻原教祖が言い間違えていたかもしれないし、電話するときにかけ間違えていたかもしれない。しかしその過程がどうであれ、思っていた番号が間違っていたなら、それは知るとはいわない。そういうことは哲学では、知識とはいわないのだよ、と彼女に説明した。

 もちろん、このような単純な比喩を使ったわけではないのだが、単純化すれば、このような論理的トラップを、知識、認識、霊魂の存在、輪廻とカルマといった話題について、いくつも仕掛けたのである。


【『洗脳原論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(春秋社、2000年)】

洗脳原論

2010-03-04

スーザン・A・クランシー


 1冊挫折。


 挫折16『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー/林雅代訳(ハヤカワ文庫、2006年)/ちょうど半分の110ページでやめる。雑誌記事にまとまる内容を無理矢理引き延ばしたような感じがする。表紙見返の顔と、大学院生時代に性的虐待に関する研究をしていた件(くだり)から察すると、著者は境界性人格障害であると思われる。自省的な視点の欠如が明らかである。更に、「普段のわたしは、ひじょうに冷静で現実的なタイプだ」(97ページ)という記述が感情の麻痺を示しているように感じた。睡眠障害(いわゆる金縛り)時のショックが記憶を捏造する、という主張は十分説得力がある。ただ、「信ずる者はその存在を確信する」という次元では、エイリアンも神様も全く一緒である。エイリアンを信じるのが非科学的であるならば、神を信じる人々の非科学性も声を大にして指摘すべきだ。

サミュエル・ジョンソン「すべての人間は怠け者である」


「すべての人間は、怠け者か、怠け者志願者である」(サミュエル・ジョンソン『アイドラー』1758年4月15日)


【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ/小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】

働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち

米司法省、ヘッジファンドのユーロ売りに関し調査開始=WSJ紙


 米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)は3日、複数の関係筋の話として、米司法省がヘッジファンドのユーロ売りに関する調査を開始したと報じた。ヘッジファンドが集団で共謀してユーロを売り仕掛けたかどうかを調べているという。

 同紙によると、司法省は先週2月26日付で送付した書簡で、SACキャピタル・アドバイザーズLP、グリーンライト・キャピタル、ソロス・ファンド・マネジメントLLC、ポールソン・アンド・カンパニーなどのヘッジファンドに対し、ユーロに関する取引記録や電子メールなどすべての書類を保管するよう求めた。

 ユーロはギリシャの債務問題を背景に売り圧力に見舞われ、昨年11月以降、10%超下落している。WSJ紙は、ユーロについて話し合われたヘッジファンド関係者の会合に関する同紙の記事と司法省の書類保管要請の時期が一致していると指摘している。

 同紙は2月25日、一部の大手ヘッジファンドがギリシャの債務危機を理由にユーロ売りのポジションを膨らませていると報じた。報道によると、SAC、ソロスなどの大手ヘッジファンドの関係者が2月8日にニューヨークで開かれた夕食会に参加し、その際、一部の参加者は、ユーロが1ユーロ=1ドルまで下落する可能性が高いとの見方を示したという。


IBTimes 2010-03-03

2010-03-03

国民の敵

 主権者である国民が選んだ新政権が初めての予算案を組み、それを審議しようとしていた矢先に、「思い込み」によって現職議員を逮捕し、「ガセ情報」をマスコミに書かせ、国民生活に直結する予算審議を妨害した日本の検察は民主主義の原理を無視した「国民の敵」である。民主主義の国でこんな検察はありえない。


田中良紹 2010-02-08】

2010年2月のアクセスランキング


順位記事タイトル
1位民野健治/週刊朝日2/12号「子ども”人質”に女性秘書『恫喝』10時間」の記事で、久しぶりに怒りが込み上げた!
2位アインシュタインを超える天才ラマヌジャン/『無限の天才 夭逝の数学者・ラマヌジャン』ロバート・カニーゲル
3位日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信
4位経頭蓋磁気刺激法(TMS)/『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著
5位民野健治関連記事
6位週刊朝日1月29日号/上杉隆「検察の狂気」引用
7位クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J.クリシュナムルティ
8位少年兵は流れ作業のように手足を切り落とした/『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
9位マイケル・ジャクソン「ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス」再び
10位そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ウィリアム・ノースダーフ
11位日本最強のパワースポット−長野県分杭峠
12位松田光世
13位ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記レヴェリアン・ルラングァ
14位ジニ係数から見えてくる日本社会の格差/『貧乏人のデイトレ 金持ちのインベストメント ノーベル賞学者とスイス人富豪に学ぶ智恵』北村慶
15位獄中の極意/『アメリカ重犯罪刑務所 麻薬王になった日本人の獄中記』丸山隆三
16位大鶴基成関連記事
17位『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』その後
18位米軍による原爆投下は人体実験だった/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
19位上杉隆のツイッター
20位巧みな介護の技/『古武術介護入門 古の身体技法をヒントに新しい身体介助法を提案する』岡田慎一郎

偶然の一致はもっと壮大な宇宙の調和の現われ


 19世紀初頭のオーストリアの生物学者ポール・カメラーによれば、偶然の一致はもっと壮大な宇宙の調和の現われだという。それは、重力と同じくらい強い力で、その力が選択的に作用し、物事を類似性によって結び付けているというのである。私たちはそのうちの突出した部分にしか注目しないが、それは池の水面に立つさざ波のようなものにすぎない。


【『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング/有沢善樹、他訳(アスペクト、2004年)】

本当にあった嘘のような話 (アスペクト文庫 B 19-1)

2010-03-02

「大きな物語」は死んだ


本田●いわゆる「大きな物語」が死んだと言われて久しいわけじゃないですか。「小さい物語」として恋愛とかいくつかのパターンがあって、オタクになるというのもそうしたパターンの一つだろうと思いますが、結局彼の場合、そうしたシナリオのどれにも乗れなかったんだと思います。2ちゃんねるでも居場所がなくて、携帯サイトの個人掲示板という誰も読まない場所に行っちゃっただろうけど、どこのコミュニティーにも入れなかったので、自分の物語がまったく持てず、自分が何者かわからなくなったのではないか。そういう人が最終的にどうなるのかというと、スキルがなくても物語の主人公になれる方法としてはテロリストになって一日だけでも主役になろうとする。あれと同じですよ。昨年アメリカで起こったヴァージニア工科大学の32人殺し。犯行声明のビデオに執拗にセレブ層に対する怒りを叫びまくった在米韓国人、チョ・スンヒの銃乱射事件と同じだと思います。

(特別対談 本田透×柳下毅一郎


【『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』洋泉社ムック編集部編(洋泉社MOOK、2008年)】


ポストモダンとは大きな物語の終焉である」と定義したのはジャン=フランソワ・リオタールであった(『ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム小林康夫訳、水声社、1989年)。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一


 一人の人物を見つめる時、自分の立ち位置を自覚する必要がある。自分の瞳に映る相手は自分によって解釈されおり、その人物の断片あるいは誤認の可能性をはらんでいる。評伝や人物評価の難しい所以(ゆえん)である。


 1934〜1948年の講和が五つと、大野純一による解説で構成されている。大野の訳が実にこなれていて驚かされた。また解説も意欲的でクリシュナムルティ以外の様々なテキストも引用している。クリシュナムルティ作品の大半を翻訳してきた一里塚ともいうべき作品となっている。


 ただし、帯文の『「超正常」をめざして』などというのは頂けない。あたかも、「スピリチュアルでござい」と書いた前掛けをしているような姿だ。販売戦略として奇を衒(てら)ったつもりなのだろうが、読者に不要な先入観を抱かせる雑音と化している。


 クリシュナムルティの言葉は独特のトリッキーなレトリックに満ちている。激しく揺さぶられるのは我々の中に確立された条件づけや、無意識のうちに受け容れている常識である。歴史、文化、宗教、思想、信条、道徳が人為的なものである以上、これらは後天的にインストールされたソフトと考えていいだろう。その目的は社会の維持であり、社会のために個々人が犠牲になることを強いる内容となっている。コミュニティにとって好ましからざる行為、人物を悪徳と決めつけるところも共通しており、協調性や共同性、団結、協力が重んじられる。


 普通、「自由」といえば選択の自由を意味することが多い。で、日本人の場合殆どの人が「自分は自由である」と考えていることだろう。少しばかり検証してみよう。例えば買い物。お金さえあればどんな物でも買える。矢沢永吉は「愛だって買えるさ」と言っていた。だが実際は買うことができない。なぜなら、我々が買えるものは商品棚に並んでいる物に限られているからだ。つまり、買うべき物は既に市場を流通する中で取捨選択されているのだ。典型的なのは音楽CDで、ヒットチャートはプロダクションの広告費に応じて形成される。所詮、メディアへの露出度によって左右される世界だ。


 数え上げればきりがないのだが、かように我々の選択肢は狭められている。しかも決定的なことに我々は親や国を選ぶことすらできない。宗教はおしなべて偶然性に伴う不安を払拭するために「必然の物語」を築き上げる。真の自由を手にするためには、自分が閉じ込められている牢獄を知る必要がある──


 しばらくの間、いささか想像を交えて、人間の内なる営為と外なる営為、彼の作り上げたもの、彼の苦闘を明らかにする、そういう観点から世界を展望してみましょう。で、もしあなた方がしばしの間想像を交えてそうできれば、眼前に何が広がっているのが見えますか? 人間が無数の壁(wall)、宗教の壁、社会的、政治的、国家的制約の壁、自分自身の野心、切望、恐怖、希望、安全願望、偏見、愛と憎しみの壁によって閉じ込められているのが見えてくるでしょう。これらの障壁と監獄(prison)の中に彼は囚われ、世界地図上の色分けされた国境、民族的敵意、階級闘争、文化的集団意識によって制限されているのです。世界中の人間が、自分自身が作り上げた壁によって閉じ込められ、制限されているのが見えます。これらの壁、これらの囲いを通じて彼は感じていること、考えていることを表現すべく努め、それらの内側で彼は喜怒哀楽とともに人生を営んでいるのです。

 そのように、あなた方の目には世界中の人間が囚人として見えてきます。彼自身の創造物、彼自身がこしらえ上げたものの壁の内側に閉じ込められた囚人として。そしてこれらの囲い、これらの環境の壁を通じて、彼の観念、野心、切望の制限を通じて、彼は人生を営もうとし、時には成功を収め、時にはひどい苦汁をなめるのです。そして監獄の中で自分自身を居心地よくさせることに成功する人のことを私たちは「成功者」と呼び、一方、監獄の中で負ける人のことを「失敗者」と呼ぶのです。が、成功も失敗もともに監獄の壁の内側でのことなのです。

 さて、あなた方が社会をそのように見てみる時、あなた方はその制限、その囲いの中にあるのを見ます。では、その人間、その個性(individuality)とは何なのでしょう? 彼の環境とは何であり、彼の行動とは何なのでしょう? それが、今朝私が話してみたいことです。(カリフォルニアのオーク・グローブでのトーク、1934年)


【『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2004年)】


 この時クリシュナムルティは39歳。昭和9年のことである。5年後には第二次世界大戦が始まった。クリシュナムルティの声は世界に届かなかった。世界中の人々は牢獄の奥へ向かって進んでしまった。


 殆どの戦争が国民の総意に基づいている。そうでなければ内乱が起こって然るべきだ。国家のアイデンティティが傷ついた時、抑圧された国民の感情は爆発を求めて暴力へと傾斜する。当然の如く国内の情報は操作を加えられ、国外の情報は遮断される。牢獄の壁は堅固(けんご)の度を増し、国民は競って忠誠を誓う。自由は進んで放棄され、個人の思いを語れば直ちに非国民のレッテルを貼られる。


 我々はなにゆえ牢獄に安住しているのだろうか? それは牢獄が「安全」を保障してくれるためだ。雨露を防げることはもちろんのこと、看守の言いなりになっていれば快適な部屋を用意してくれる上、特別な娯楽に興じることも可能だ。牢獄の最上階ともなれば、部屋を移るたびに多額のボーナスももらえる──これが天下りの仕組みである。一流大学、ランキング上位の企業というのは「快適な牢獄」そのものであろう。


 そこに存在するのは「与えられる自由」に他ならない。真の自由とは至福のことだ。内なる自由を開いた人は、どこへ行こうと、何をしようと自由である。現実の獄に囚(とら)われたとしても尚、自由なのだ。病気や経済苦もその自由を奪うことはできない。生そのものが至福であり、死もまた至福となる。自由は川を流れる水のように押しとどめることが不可能となる。


 一方、クリシュナムルティが説く牢獄の中では、部分的な自由──あるいは幸福──が必ず誰かの犠牲を伴っていることに気づく。すなわち、富の過剰な集中は収奪された富なのだ。比較は競争を生み、競争は人々を勝者と敗者とに線引きする。資本主義社会に生を享(う)ければ、物心がつく前から競争を強いられる。


 クリシュナムルティは問う──比較から自由になることは可能だろうか? 競争から自由になることは可能だろうか? 戦闘から自由になることは可能だろうか? 心配事から自由になることは可能だろうか? 恐怖心から自由になることは可能だろうか? 時間から自由になることは可能だろうか?


 目に見えぬ鉄鎖(てっさ)に束縛されていれば、生は疲労し退廃を避けられない。自由とはしなやかで軽やかな精神の異名である。そして自由は、生の無限の深さを知覚することなのだ。

片隅からの自由―クリシュナムルティに学ぶ

強制上座送り


「ウォルト・プロケットの昇進はどう説明がつくんだ? ヤツは絵に描いたような無能でお荷物だったから、経営陣は上のポストに祭り上げたんじゃないのか?」

 これはピーターの法則に当てはまらないのではないかということで、よく受ける質問の一つです。この現象から詳しく見ていきましょう。ちなみに、私はこれを「強制上座送り」と呼んでいます。

 まずは質問です。プロケットは無能なポストから有能なポストへ異動したでしょうか? 答えは「ノー」です。彼はたんに、生産性の低いポストから別の生産性の低いポストに移されただけです。また彼は今の地位で、以前より大きな責任を負うことになったでしょうか? 「ノー」です。彼は新しいポストで、以前より多くの仕事をこなすことになるでしょうか? やはり答えは「ノー」です。

 強制上座送りは「擬似昇進」なのです。周囲にはその真意がわかるのに、プロケットのような社員のなかには「出世だ!」と喜んで、疑うことを知らない者もいます。しかし、擬似昇進の主たる狙いは、階層社会の外にいる人間を欺(あざむ)くことです。はたで見ている人をだませれば、作戦は大成功というわけです。

 しかし、目の肥えた階層社会学者はだまされません! 階層社会学的に言えば、昇進と認めてよいのは、有能さを発揮していたポストからの異動に限られるのです。


【『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル/渡辺伸也訳(ダイヤモンド社、2003年)】

ピーターの法則

2010-03-01

東洋人と西洋人の違い


 西洋の形而上学的分析と、東洋の縁起に基づく直観の違いが明らかである。


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宗教の役割は脳機能の統合

 もしキリスト教が、ある時期に天体観測を禁止していたとすれば、その後の古典物理学の発展がどうなったか、わからない。

 しかし、禁止の動機が教義を守るためだけであれば、そうした宗教は、いずれ破綻する。その教義が、完全に閉じた体系にならざるをえないからである。ところが、教義を担う脳の方は、残念ながら閉じた体系ではない。ホメイニ師くらいに年をとれば、新しいものが、ほとんど脳に入らないことは、だれでも想像がつく。そういう人には、閉じた体系で十分であろうが、若い人はそうはいかない。脳は、若いほど、開放系の性質が強いからである。

 宗教は、一面では知覚系における認識を規定し、他方ではそれに対応して、運動系における倫理を定める。もちろん、知覚系の認識といっても、いわば世界観のレベルであるのと同様に、運動といっても、手足の動きのような細かいものではない。むしろ、抽象的な、あるいは大まかな行動規定となる。この二分は、脳の構造に、典型的によく対応している。われわれの大脳皮質も、中心溝という溝を境にして、前は運動、後は知覚であり、両者はさまざまな経路で連合するからである。宗教の合理性は、この両者の結合の、ヒトにとっての最適性の追及ではないかと思われる。しかも、皮質だけではなく、下位の中枢がしばしば絡んでいるはずである。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】


「下位の中枢」とは本能、情動、欲望か。我々の心が分裂しているのは、脳が二つに分かれているためである。これがそのまま世界の分裂として現れている。養老孟司の文章には気難しそうな性格が顕著で好き嫌いが分かれるところであるが、そこに流れているのは「わかる奴だけ、ついてこい」といった姿勢だ。つまり、読者に対して媚びるところがない。

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)