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2010-03-02

監獄としての世界/『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一


 一人の人物を見つめる時、自分の立ち位置を自覚する必要がある。自分の瞳に映る相手は自分によって解釈されおり、その人物の断片あるいは誤認の可能性をはらんでいる。評伝や人物評価の難しい所以(ゆえん)である。


 1934〜1948年の講和が五つと、大野純一による解説で構成されている。大野の訳が実にこなれていて驚かされた。また解説も意欲的でクリシュナムルティ以外の様々なテキストも引用している。クリシュナムルティ作品の大半を翻訳してきた一里塚ともいうべき作品となっている。


 ただし、帯文の『「超正常」をめざして』などというのは頂けない。あたかも、「スピリチュアルでござい」と書いた前掛けをしているような姿だ。販売戦略として奇を衒(てら)ったつもりなのだろうが、読者に不要な先入観を抱かせる雑音と化している。


 クリシュナムルティの言葉は独特のトリッキーなレトリックに満ちている。激しく揺さぶられるのは我々の中に確立された条件づけや、無意識のうちに受け容れている常識である。歴史、文化、宗教、思想、信条、道徳が人為的なものである以上、これらは後天的にインストールされたソフトと考えていいだろう。その目的は社会の維持であり、社会のために個々人が犠牲になることを強いる内容となっている。コミュニティにとって好ましからざる行為、人物を悪徳と決めつけるところも共通しており、協調性や共同性、団結、協力が重んじられる。


 普通、「自由」といえば選択の自由を意味することが多い。で、日本人の場合殆どの人が「自分は自由である」と考えていることだろう。少しばかり検証してみよう。例えば買い物。お金さえあればどんな物でも買える。矢沢永吉は「愛だって買えるさ」と言っていた。だが実際は買うことができない。なぜなら、我々が買えるものは商品棚に並んでいる物に限られているからだ。つまり、買うべき物は既に市場を流通する中で取捨選択されているのだ。典型的なのは音楽CDで、ヒットチャートはプロダクションの広告費に応じて形成される。所詮、メディアへの露出度によって左右される世界だ。


 数え上げればきりがないのだが、かように我々の選択肢は狭められている。しかも決定的なことに我々は親や国を選ぶことすらできない。宗教はおしなべて偶然性に伴う不安を払拭するために「必然の物語」を築き上げる。真の自由を手にするためには、自分が閉じ込められている牢獄を知る必要がある──


 しばらくの間、いささか想像を交えて、人間の内なる営為と外なる営為、彼の作り上げたもの、彼の苦闘を明らかにする、そういう観点から世界を展望してみましょう。で、もしあなた方がしばしの間想像を交えてそうできれば、眼前に何が広がっているのが見えますか? 人間が無数の壁(wall)、宗教の壁、社会的、政治的、国家的制約の壁、自分自身の野心、切望、恐怖、希望、安全願望、偏見、愛と憎しみの壁によって閉じ込められているのが見えてくるでしょう。これらの障壁と監獄(prison)の中に彼は囚われ、世界地図上の色分けされた国境、民族的敵意、階級闘争、文化的集団意識によって制限されているのです。世界中の人間が、自分自身が作り上げた壁によって閉じ込められ、制限されているのが見えます。これらの壁、これらの囲いを通じて彼は感じていること、考えていることを表現すべく努め、それらの内側で彼は喜怒哀楽とともに人生を営んでいるのです。

 そのように、あなた方の目には世界中の人間が囚人として見えてきます。彼自身の創造物、彼自身がこしらえ上げたものの壁の内側に閉じ込められた囚人として。そしてこれらの囲い、これらの環境の壁を通じて、彼の観念、野心、切望の制限を通じて、彼は人生を営もうとし、時には成功を収め、時にはひどい苦汁をなめるのです。そして監獄の中で自分自身を居心地よくさせることに成功する人のことを私たちは「成功者」と呼び、一方、監獄の中で負ける人のことを「失敗者」と呼ぶのです。が、成功も失敗もともに監獄の壁の内側でのことなのです。

 さて、あなた方が社会をそのように見てみる時、あなた方はその制限、その囲いの中にあるのを見ます。では、その人間、その個性(individuality)とは何なのでしょう? 彼の環境とは何であり、彼の行動とは何なのでしょう? それが、今朝私が話してみたいことです。(カリフォルニアのオーク・グローブでのトーク、1934年)


【『片隅からの自由 クリシュナムルティに学ぶ』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2004年)】


 この時クリシュナムルティは39歳。昭和9年のことである。5年後には第二次世界大戦が始まった。クリシュナムルティの声は世界に届かなかった。世界中の人々は牢獄の奥へ向かって進んでしまった。


 殆どの戦争が国民の総意に基づいている。そうでなければ内乱が起こって然るべきだ。国家のアイデンティティが傷ついた時、抑圧された国民の感情は爆発を求めて暴力へと傾斜する。当然の如く国内の情報は操作を加えられ、国外の情報は遮断される。牢獄の壁は堅固(けんご)の度を増し、国民は競って忠誠を誓う。自由は進んで放棄され、個人の思いを語れば直ちに非国民のレッテルを貼られる。


 我々はなにゆえ牢獄に安住しているのだろうか? それは牢獄が「安全」を保障してくれるためだ。雨露を防げることはもちろんのこと、看守の言いなりになっていれば快適な部屋を用意してくれる上、特別な娯楽に興じることも可能だ。牢獄の最上階ともなれば、部屋を移るたびに多額のボーナスももらえる──これが天下りの仕組みである。一流大学、ランキング上位の企業というのは「快適な牢獄」そのものであろう。


 そこに存在するのは「与えられる自由」に他ならない。真の自由とは至福のことだ。内なる自由を開いた人は、どこへ行こうと、何をしようと自由である。現実の獄に囚(とら)われたとしても尚、自由なのだ。病気や経済苦もその自由を奪うことはできない。生そのものが至福であり、死もまた至福となる。自由は川を流れる水のように押しとどめることが不可能となる。


 一方、クリシュナムルティが説く牢獄の中では、部分的な自由──あるいは幸福──が必ず誰かの犠牲を伴っていることに気づく。すなわち、富の過剰な集中は収奪された富なのだ。比較は競争を生み、競争は人々を勝者と敗者とに線引きする。資本主義社会に生を享(う)ければ、物心がつく前から競争を強いられる。


 クリシュナムルティは問う──比較から自由になることは可能だろうか? 競争から自由になることは可能だろうか? 戦闘から自由になることは可能だろうか? 心配事から自由になることは可能だろうか? 恐怖心から自由になることは可能だろうか? 時間から自由になることは可能だろうか?


 目に見えぬ鉄鎖(てっさ)に束縛されていれば、生は疲労し退廃を避けられない。自由とはしなやかで軽やかな精神の異名である。そして自由は、生の無限の深さを知覚することなのだ。

片隅からの自由―クリシュナムルティに学ぶ

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