古本屋の覚え書き

古い書評&今週の一曲

「信じること」と「知ること」は違う

 ある命題を「知」というならば、世界に起こるすべての場合において、それが真でなくてはならない。「電話番号を教えてくれた人は私が一番信頼している人だから、繋がらなくても正しいはずだ」と主張したところで、何の説得力も持たない。要するに「信じること」と「知ること」とは違うのである。ある事件の犯人を、あらゆる状況証拠から、犯人であると信じるに足る要件が整っていたとしても、もしその人が真犯人でなかったら、犯人を知っているとはいえないのと同様だ。命題が真でなければ、「知っている」とはいえないのである。正しいと「信じている」にすぎない。
 ここまで理解させたあと、この命題を麻原教祖に置き換えて考えさせてみた。麻原教祖はすばらしい人格者で、信じるに足る人間で、行動にはまったく悪意がなかったのかもしれない。だから彼に教えられた教義という名の携帯電話の番号が、間違っていたと非難されても、番号を聞き間違えたかもしれないし、麻原教祖が言い間違えていたかもしれないし、電話するときにかけ間違えていたかもしれない。しかしその過程がどうであれ、思っていた番号が間違っていたなら、それは知るとはいわない。そういうことは哲学では、知識とはいわないのだよ、と彼女に説明した。
 もちろん、このような単純な比喩を使ったわけではないのだが、単純化すれば、このような論理的トラップを、知識、認識、霊魂の存在、輪廻とカルマといった話題について、いくつも仕掛けたのである。


【『洗脳原論』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(春秋社、2000年)】


洗脳原論