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2010-03-23

唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀

 人を司る脳はネットワーク化して概念を形成する。言葉に意味を付与し、言葉と言葉に関連性を加え、因果関係を築き、物語化を図る。こうして人生はドラマと化す。自我を拠(よ)り所としながら。


 初めて読んだのは10年前のこと。私は常々批判的に物事を見る訓練を自分に課してきたが、本書には歯が立たなかったことをありありと覚えている。再読してその理由がわかった。岸田は自分の頭でものを考えている。一方私は他人の言葉を受け売りしながら、安っぽい批判を企てていただけであった。


 今読んでみて、初めて見えてくるものが数多くある。あらゆる価値観、歴史、文化、そして性に至るまでを幻想とする岸田の思想は、ブッダのニヒリズムと共通する響きがある。


 唯幻論は、道教で説かれる「胡蝶の夢」を想起させる。男が蝶になった夢を見た。嬉々として自在に舞っていた。はっと目が覚めた。果たして男が蝶になった夢を見たのか、あるいは蝶が男になった夢をみているのか? ってな話である。夢とうつつを相対化することで、現実のはかさなを示している。


 唯幻論は単純でありながらも、しなやかで強靭な腰の強さを秘めている。冒頭で岸田は日本の近代史を一人の個人の歴史として説明できるとして、診断を試みている──


 日本国民の精神分裂病的素質をつくったのは、1853年のペリー来航の事件である。鎖国していた徳川時代は、個人で言えば、外的世界を知らないナルチシズムの時期に相当する。


【『ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(青土社、1977年/中公文庫、1996年)以下同】


 本書には書かれていないが、岸田はこれをアメリカによる「レイプ」であったと位置づけている。鎖国とは引きこもりの状態である。他国に依存していない以上、国内では完璧なヒエラルキーが構成可能となる。異国と交流していないのだから外的世界が存在しないも同然である。


 ペリー・ショックによって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず、開国論と尊王攘夷論との対立となって現われた。開国は日本の軍事的無力の自覚、アメリカをはじめとする強大な諸外国への適応の必要性にもとづいていたが、日本人の内的自己から見れば、それは真の自己、真実の伝統的日本を売り渡す裏切りであり、この裏切りによって、日本は自己同一性の喪失の危険にさらされることになった。この危険から身を守るためには、日本をそこへ引きずりこもうとする外的自己を残余の内的自己から切り離して非自己化し、いいかえれば真の自己とは無関係なものにし、内的自己を純化して、その回りを堅固な砦でかためる必要があった。(中略)そこで、不安定な内的自己を支える砦としてもってこられたのが天皇であった。

 ペリー率いる黒船によって日本は上を下への大騒ぎとなる。「上喜選 たった四杯で 夜も寝られず」という川柳からもそれが窺える。高級茶の上喜選を「蒸気船」とかけている。


 この歴史的情況を一人の個人と想定した上で、「精神分裂症」(統合失調症)と分析するところに岸田理論の破壊力がある。


 封建国家から近代国家へと移行する揺籃(ようらん)期である。黒船がきっかけとなり、自我の芽生えが激しい浮き沈みを繰り返す。まるで中学生だ(笑)。


 皇国史観はまさしく誇大妄想体系である。分裂病者が現実の両親を自分に生命を与えた起源として認めず、神の子であるとか、皇帝の落胤であるとか称する(血統妄想)のと同じように、天皇の万世一系が信じられ、日本文化の独自性が強調され、日本文化の起源における朝鮮や中国の文化の役割は不当に過小評価された。日本の古代史は現実の歴史であってはならなかった。神話こそ真実でなければならなかった。はたからどれほどおかしな、不合理なものに見えようとも、妄想体系は維持される。内的自己の独自性を支えるために必要だからである。いっさいの世俗的欲望とは無縁で、すべてのことに責任があると同時にすべてのことに責任がなく、純粋にして金甌無欠、神聖にして不可侵、ただ無私無償の献身を捧げることのみ許されるという天皇像は、純化された内的自己の理想像である。


 これは中々書ける文章ではない。しかも学者だよ。ただ浅薄な誤解のないように注意しておくが、岸田は何も天皇批判を主張しているわけではない。批判しているとすれば、すべての価値観を批判しているのである。一切の信条、主義、思想、宗教を岸田は「幻想」と斬り捨てている。


 国家のアイデンティティとしての天皇という見立ても、皇国史観に疎(うと)い道産子の私には納得がゆく。


 日本にペリー・ショックという精神外傷を与えて日本を精神分裂病質者にしたのも、日本を発狂に追いつめたのもアメリカであった。そのアメリカへの憎悪にはすさまじいものがあった。この憎悪は、単に鬼畜米英のスローガンによって惹き起こされたのではなく、100年の歴史をもつ憎悪であった。日米戦争によって、百年来はじめてこの憎悪の自由な発現が許された。開戦は内的自己を解放した。

 軍部が強制的に国民を戦争に引きずりこんだというのは誤りである。いくら忠君愛国と絶対服従の道徳を教えこまれていたとしても、国民の大半の意志に反することを一部の支配者が強制できるものではない。この戦争は国民の大半が支持した。と言ってわるければ、国民の大半がおのれ自身の内的自己に引きずられて同意した戦争であった。軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう。


 実に鋭い指摘だと思う。ともすれば、「戦争を主導したのは国家の指導者であって、国民はその犠牲になった」という見方もあるが、そんなものは敗戦にかこつけた欺瞞であろう。国家が戦争という行為を起こす時、そこには必ず国民の合意が形成されている。戦争に反対する暴動が各地で起こらなかったことがその証拠だ。


 ペリー・ショックというコンプレックスは今も尚、日本のアイデンティティを揺るがしている。最近でも北朝鮮による日本人拉致問題やテポドン攻撃を背景に、保守論壇が勢いを増している。


 結局、日本人が日米戦争あるいは経済成長によって解決しようとした問題、すなわち外的自己と内的自己との分裂の問題は依然として解決されずに残っている。日本人の自己同一性は依然として不安定である。外的自己と切り離されて純化された内的自己の一つの重要な形態である尊王攘夷思想は、戦後も一つの底流として流れつづけており、ときどき表面まで吹き出してきて、山口二矢の浅沼書記長暗殺や三島由紀夫の割腹自殺のような事件を惹き起こす。彼らを時代錯誤的と決めつけても問題は解決しない。彼らは時代錯誤的なのではなく、戦後抑圧されている日本人の人格の半面を純粋な形で表現したのである。


 戦後の欧米崇拝、アジア蔑視にも同じ根っこから派生したものだろう。強い者には媚びへつらい、弱い者には威張り散らすのが我が国民性だ。


 国家を牛耳る者は、近隣諸国の不穏な動きを歓迎し、テロや猟奇犯罪を喜ぶ。20年ほど前にはプライバシーの侵害だとして大問題になった監視カメラが、いつの間にか街のあちこちで見られるようになった。権力者にとっては都合のよい時代向きとなりつつある。彼等が望んでいるのは、国民が国家に依存することである。


 国家も集団も組織も幻想に過ぎない。そして自我ですら幻想なのだ。岸田はソフトウェアとしての幻想を見事に暴き出した。クリシュナムルティはそれを「条件づけ」と呼んだ。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

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