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2010-03-24

中村哲、小野田寛郎


 2冊読了。


 43冊目『医者、用水路を拓く アフガンの大地から世界の虚構に挑む』中村哲〈なかむら・てつ〉(石風社、2007年)/凄い人物がいたものである。中村哲はアフガニスタンで現地の人々のために医療活動を続けている。米軍との戦闘が激しさを増す中で、中村は衛生面の向上と飢餓を克服するために井戸を掘り、遂には灌漑(かんがい)水利に着手する。タイトルは用水路となっているが、実際は大規模な工事だ。これをペシャワール会というNGOの支援だけで成し遂げたのだ。同会のメンバーであった伊藤和也青年が殺害されたことは、まだ記憶に新しい。事件のあった前年までの労作業が綴られている。中村は実務家である。伊勢崎賢治と同じ匂いがする。戦禍にまみれた砂漠を緑の大地に変えた男の見事な記録だ。


 44冊目『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉(講談社、1974年/日本図書センター、1999年)/帰国後に発表された記録。『たった一人の30年戦争』と重複した内容が目立つので、こちらを先に読んだ方がいい。小野田さんの30年間は、陸軍中野学校の勝利と敗北そのものであった。それにしても、戦闘状態の緊張感を30年間も維持し続けた精神力に驚嘆させられる。写真の姿はいずれも実に姿勢が正しい。投降後の所作も軍人としての様式に貫かれており、最初から最後までルールに則った行動であった。

札幌農学校


 町村金弥の孫が、自民党の町村信孝である。


 理想の星をかかげた旗は、あっけなく下ろされてしまったが、このみじかい年月に、開拓使がこの町に残していったいちばん大きなものは、ひろい道路でもなく、大きな官営工場でもなかった。

 札幌農学校である。

 開拓の中心は、学問である、この考えが開拓使の方針をはっきりとつらぬいていた。

 その学問と技術の底に、〈精神〉をたたきこんだのが、初代教頭クラークであった。

 クラークは、明治10年4月、ようやく雪のとけようというころ、札幌を去ってアメリカに帰った。札幌からおよそ25キロの島松まで、学生たちは馬に乗って、見送っていた。

 いよいよ別れるとき、クラークは、学生たちに手をふって、いった。

 Boys(ボーイズ)

 Be Ambitius!(ビ アンビシャス)

(諸君、

 理想をつらぬこう)

 このみじかい一言は、学生たちの心に火矢となってつきささった。クラークの点じたその火は、燃えて、生涯消えることはなかったのである。

 その一期生に、佐藤昌介(しょうすけ)、大島正健(まさたけ)ら、二期生に内村鑑三新渡戸稲造、宮部金吾、町村金弥らがいた。

(昭和39年2月)


【『一戔五厘の旗』花森安治〈はなもり・やすじ〉(暮しの手帖社、1971年)】

一戔五厘の旗

現代心理学が垂れ流す害毒/『続 ものぐさ精神分析』岸田秀

 岸田の理論は高い視点から文明や歴史を分析している。このため、臨床心理学とは異なる次元になっていて、「デタラメな絵を描いているだけじゃないのか?」という思いがよぎる。しかしそうではない。なぜなら、心理学自体が「絵を描く」ことに過ぎないからだ。カウンセリングとは、本人が思ってもいない角度から因果関係を構成し直す作業といえる。


 つまり、「物語」に脚色を施し、効果音を挿入し、BGMを流し、ナレーションによって意味を変質させているわけだ。効果があれば、悲劇は喜劇へと転じる。


 アリストテレスが「人はポリス的な動物である」と定義しているが、ポリスとは社会的、政治的、共同体的という意味合いである。ま、「群れ」といってもよい。人はたむろし、群れる。


 社会といっても政治といっても、結局のところ役割分担と上下関係で構成される。そして差別化が自我を強化する。自我とは、分断され孤立化した「私」のことだ。社会がサッカーチームの如く完全に一体化していれば、そこに自我が生まれる余地はない。存在するのはボールを追う一つのチームだけと化す。


 我々が「物語」を必要とするのは、差別化を解消するためである。今置かれた自分の位置で成功物語を綴らなければ、生きている価値がない。何らかの成功を手に入れられないと、自分という存在は重みを失い、更には透明化してしまう。自己実現こそ至上命題である。


「物語」の主人公は自分であるがゆえに、この「自分」が他の誰かから必要にされなくてはならない。リストラが心理的ダメージを与えるのは、自分が「いてもいなくてもいい存在」になってしまうためだ。それは、社会から不要とされたことを意味する。本当はそうじゃないんだが、そういう物語をつくってしまうところに「社会的動物」の所以(ゆえん)がある。で、首を切られた男に帰る場所はない。家族からはとっくの昔に見捨てられているからだ(笑)。


 価値観というのは人の数だけある。仮に同じ思想や宗教を信じていたとしても、完全に一致することはあり得ない。人それぞれに微妙に異なるものだ。もっと根本的なことを言えば、「言葉の意味」すら一致することはない。言葉は最大公約数であり、妥協案であり、折衷(せっちゅう)主義である。


 ここに勘違いが生まれ、行き違いが生じ、齟齬(そご)をきたす原因がある。そして人間関係というのは力関係が基軸になっているため、力の加減によっては相手に極度のストレスを与えてしまう。


 例えば核家族化が進み、子供が親の管理下に置かれ、塾や習い事漬けにされた昭和40年前後の世代は、突如として校内暴力、家庭内暴力の牙を剥(む)いた。私の世代である。北海道の中学で一番最初に新聞紙面を飾った校内暴力は、私の友達が起こしたものだった。


 幼い頃から教育、しつけという名の「柔らかな暴力」にさらされると、その反動は必ず明快な暴力となって現れる。比較的最近の「キレる子供達」というのも同様であろう。


 現代心理学の思想はいろいろなところに害毒を流しているようであるが、現代の母親たちも、知らず知らずのうちにその害毒に冒されてしまっているようである。

 現代心理学の思想とは、一言にして言えば、人間を、ある刺激を与えればある反応をする一つの条件反応体と見る思想である。もちろん、この思想は、心理学に特有のものではなく、大きな思想的流れの一支流が心理学にも姿を見せているというのに過ぎないが、心理学はそれを「科学的に」証明しようとしているだけに、いいかえれば、心理学は一般に「科学」と見なされているだけに、その悪影響は恐ろしい。


【『続 ものぐさ精神分析』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、1982年/『二番煎じ ものぐさ精神分析』青土社、1978年と『出がらし ものぐさ精神分析』青土社、1980年で構成)以下同】


 岸田は「パブロフの犬」以降、こうした傾向が顕著になったと指摘している。条件づけ、刷り込み、マインドコントロールなどに共通するのは、「人間を操る」という発想である。実は、ここに権力というメカニズムの本質もある。権力者が求めているのは、奴隷あるいはロボットとしての大衆だ。


 我が子のためによかれと思ってやっていることが、実は虐待だったりすることもある。子供の意志が無視されれば、そこに抑圧が生まれる。「抑圧された」ということは、「暴力を振るわれた」ことに等しい。子供は抑圧されるほど攻撃性が高まる。


 そもそも心理学を鵜呑みにした時点で、親は心理学にコントロールされていることになるのだ。コントロールの連鎖が生まれるのは必定である。


 更に岸田は重大な指摘を加える──


 親の意識的な意図より無意識的な態度に子どもは敏感である。親の人格の意識的部分と無意識的部分に対立と分裂がある場合、往々にして子どもがその皺寄せを受ける。たとえば、まじめで小心で善良な両親に非行少年の息子がいたりするが、こういう場合、息子は親の無意識的期待に沿っているのかもしれないのである。この親は、内心では世間に不当に虐待されていると感じていて恨みを懐いており、復讐したいのだが、それでは社会的に不適応になるので、そうした傾向を深く無意識へと抑圧し、意識的には卑屈と言えるほど小心な生活を送っている。この親は、息子に対して、口ではまじめに生きてゆかねばならないと説教し、息子の不行跡を叱るが、息子が世間に迷惑をかけることを仕出かしたときにふと見せる歓びの表情を息子は見逃さず、非行を重ねているうちは親の愛情を失うことはないことを知るのである。こういう人格分裂を抱えた親が意識的にどれほど子どもを「清く正しく」育てようとしても、だめなのだ。どれほど子どもの非行をきつく叱り、折檻しても、だめなのだ。子どもにとっては、親の口先だけの叱責や折檻よりも、親の本当の是認と愛情を失う方がはるかに恐いのである。


 これは何となくわかる。例えば、いじめっ子の親が我が子の問題を話す時、ほぼ100%の親が笑顔で語る。一方、いじめ被害に遭っている児童の親が笑顔で打ち明けることはない。


 大体、子供の問題というのは、芽が小さいうちにきちんと対処しておけば解決できるものが多く、親による放置、不作為が問題を大きくしている側面がある。例えば私に子供がいて、強姦事件を起こしたとしよう。私は躊躇(ちゅうちょ)することなく息子を撲殺する。その程度の覚悟が親になければ、子供を育てることはできないだろう。


 人は嘘をつける動物であり、嘘をつけない動物でもある。幼い生命は大人の嘘と真実からこの世のルールを学んでゆくしかない。言いわけは後の祭りだ。子供に向って「俺を見ろ!」と言い切れるかどうかである。

ものぐさ精神分析 (中公文庫) 続 ものぐさ精神分析 (中公文庫)

毎度バカバカしい日本のメディア


 最近の政治報道は「世論」の動向ばかりを喧伝している。おそらくメディアが散々利用された小泉政治のマインドコントロールから抜けられずにいるからだろう。小泉純一郎氏はなる筈のない総理になったため、自民党内に全く権力の足場がなかった。そこでメディアを利用して「世論誘導」を行い、自民党の外に足場を作った。「世論」だけが頼りの政治が始まり、政治の本道が見失われた。すると生活にひずみが出始め、そこで国民は気付いたのである。昔からの熱心な支持者ほど自民党から離れた。昨年の総選挙で自民党が野党に転落したのはそのためである。


田中良紹

国家的危機の本質は誤った教育にあり


 全面的に落ちこみに歯止めをかけようと、ありとあらゆる領域で、ありとあらゆる議論がなされて、多種多様の改革がなされてきたが、ほとんどが対症療法にとどまっているため、成果を上げずにいる。経済と教育と社会が密接につながっているように、この国の当面するあらゆる困難は互いに関連し、絡み合った糸玉のようになっていて、誰もほぐせないでいる。部分的にほぐしても全体には何の影響も与えない。

 我が国の直面する危機状況は、足が痛い手が痛い頭が痛いという局所的なものではなく、全身症状である。すなわち体質がひどく劣化したということである。国家の体質は国民一人一人の体質の集積であり、一人一人の体質は教育により形造られる。すなわち、この国家的危機の本質は誤った教育にあるということになる。


【『祖国とは国語』藤原正彦(講談社、2003年/新潮文庫、2005年)】

祖国とは国語 (新潮文庫)