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2010-04-07

キリシタン4000人の殉教/『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文

 イエズス会フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられたのは1549年のこと。「以後よく伝わるキリスト教」と覚えている人も多いだろう。


 織田信長はキリシタンを庇護したが、豊臣秀吉は弾圧した。秀吉のバテレン追放令の原因には諸説があり、明らかではないが本書ではサン=フェリペ号事件を取り上げている。


 冒頭の章で遠藤周作の『沈黙』を取り上げ、史実との相違を検証している。


 16世紀といえば、既にヨーロッパでは魔女狩りの嵐が吹き荒れ、マルティン・ルターによる宗教改革が起こった頃である。


 イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」と呼ばれていた。中世カトリック教会の修道会は数多く存在するが、教会による世界制覇の尖兵(せんぺい)といっていいだろう。宣教師は貿易の窓口となり、世界各国の状況をヴァチカンに報告していた。このような歴史もあって、現在に至るまでヴァチカンは高い諜報機能を備えているといわれる。

 本書には豊臣以降、16世紀から17世紀にかけて殺された4000人のキリシタンの点景がスケッチされている。殉教とは思想に殉じることである。人の死は、生と同じほど多様な姿がある。人が思想に生きる動物であるならば、人は思想のために死ぬことが可能だろう。しかしそれだけであれば、イスラム原理主義の自爆テロも立派な殉教になってしまう。


 殉教という言葉には隠れた錯誤があると思う。「思想のために死ねる」ということが、「死ぬほどの価値がある思想」と脳内で変換される。だが世界中の多くの信仰者は、偶然生まれた国家や家庭によって宗教を選択しているに過ぎない。つまり思想的吟味を経ていなければ、思想的格闘すらそこにはない。教義のために伴う自己犠牲を競い合っているだけではないだろうか。


 それにしても酷(むご)い。死刑や処刑は政治的判断で行われ、そこに政治的メッセージが託されている。有り体にいえば「見せしめ」だ。政治の目的は利益調整であると考えられているが、人を殺すこともまた政治である。国家という仕組みは自ずから外交・防衛というメカニズムが機能する。戦争に備えるのが政治の仕事である。


 処刑は、四人の死刑執行人によって行われた。二人が一組になり、処刑者の左右から脇腹に槍(やり)を二度突き上げていった。もう二人も、反対側から同様に処刑者の脇腹を突き上げていた。左脇腹から槍が入ると、槍の先は右肩に突き出、右脇腹から槍が入ると、左肩に槍の先が突き出た。

 そして最後に、四人の死刑執行人がそろってバプティスタの十字架の足もとへ来た。この場面も引用しよう。


 パードレは双方の眼をじっと天に注(そそ)いで、顔をまっすぐにしていた。そこでジョアン半三郎(はんさぶろう)が合図をすると、彼らはパードレに二本の槍を突き刺したために、全身をふるわせつつ、霊を主に捧げたのであるが、しかも双の眼も面(かお)も天に向けて、そのままの姿であった。誰もかれもこっちでも泣き声、そっちでもすすり泣き、あっちでも涙という有様で、検視役すらも、このむごたらしい有様を見まいとして、彼らに背を向けたほどであった。そして五十二の血潮の流れが、聖(きよ)き殉教者のからだから流れおち始めたが、ポルトガル人たちと、いく人からの日本人とは散々に棒でたたかれたかわりに、死刑執行者どもの間にたち混って、この血潮の流れを手に受けた。しかもこのポルトガル人とその仲間の連中はたくさんの涙まじりの血を懸命に手に受けようとしたのである。


 二十六聖人の殉教は、このように多くの信者や民衆に守られながらのものだった。秀吉の意図は見せしめであったが、バプティスタらの立派な最期は、信者には信仰への確信を、信者でない者には驚きを与えた。


【『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文(光文社新書、2009年)】

「日本においてこれほど多数の殉教者が出たのは、武士道のメンタリティと響き合っているためではないか」と山本は書いている。ただ、それを判断するには本書の材料は少な過ぎる。


 キリシタン取り締まりの御触れが出るや否や、信者はこぞって名乗りを上げる。明らかに異様な光景だ。殺されることがわかっていながら嬉々として「我こそは!」と現れるのだ。あまりの人数の多さに処刑者の数を減らさざるを得なかったこともたびたびだったという。


 どこからどう見ても、「死に急いでいる」ようにしか映らない。そこに当時の人々が抱える絶望が透けて見えるような気がする。生き甲斐や幸福を見出すことができない社会状況に置かれれば、あとは「名を残す」ことくらいしか選択肢がなくなるのではなかろうか。しかも、「天国」が約束されているのだ。


 慶長13年12月6日、加藤清正の命令により、牢に入れられていたジョアンとミゲルが処刑されることになった。清正の家臣稲田重右衛門(じゅうえもん)に処刑を告げられた二人は、地面に跪き、天に向かって両手をあげ、感激の涙を流しながらデウスの慈悲に感謝した。

 ミゲルの息子で12歳のトメと、ジョアンの息子で6歳のペイトロも同時に処刑されることになった。まだ幼い者たちの殉教は痛ましいものに見えるが、日本年年報には、「彼らにとっての最高の喜びは──これもデウスが彼らに授け給うたものだが──彼らそれぞれの一人息子たちがともに信仰のために父と同様、死罪を宣告されたことであった」と記されている。殉教は、まさしく神の栄光だったのである。

 刑場では、首切り役人がまずミゲルの首を切り落とし、次いでトメの首を切った。ジョアンの首も切り落とされた。

 ペイトロは遅れて刑場に連れられてきた。彼は、落ち着き払って父親の遺体を探し、父の血が流れている場所に跪いて静かに祈りを捧げた。首切り役人が刀を抜いて近づくと、彼は頭をあげて両手を高く掲げ、首を差し出した。

 この態度には首切り役人も感動し、「自分にはこのように汚れのない子供を殺せるような勇気はない」と尻込みした。もう一人の首切り役人も同様だった。そのため、ペイトロが処刑を待ち続けているのを憐(あわ)れんだ別の者が、その首を切った。

 いまだ全国的な禁教令は出されておらず、清正も信仰を放棄すれば許すつもりだった。しかし彼らは、牢にいるときから、この処刑の日を待ち望んでいたのである。彼らに唯一の心残りがあるとすれば、キリストと同じような十字架上の死ではなかったことぐらいだろう。


 6歳の幼児が首切り役人を感動させたというのだ。ここには確かに武士道との共感を見て取ることができよう。それにしても、言葉を覚えるのが3歳としても、わずか2〜3年で子供をこんなふうに育てられるものだろうか。


「死を恐れない姿」だけ見れば感動的だ。だが、私は言いようのない違和感を覚える。「じゃあ、お前に同じことができるのか?」と問われれば、もちろんできるはずもない。宗教というものは、死を物語化することで、生に意味を与えるものだ。だとすれば、宗教の第一義は「生きる」ことにあるべきだ。殉教を標榜し、人々を「死に向かわせる」教義があるとすれば、それは邪教と呼ばれて然るべきだと私は考える。


 ここは微妙ではあるが、正確に見極めなくてはならない。「迫害を恐れないこと」=「殉教」ではない。最後の最後まで生の炎を赤々と燃やすことを宗教は教えるべきなのだ。であるがゆえに、私は死後の幸福を約束する宗教は、全部インチキであると思う。


 とはいうものの、何をどのように考えたところで、彼等の死という歴史的事実が私の心を打ってやまない。十字架に磔(はりつけ)にされ、燃え上がる火に包まれながら微笑みながら死んでいったキリシタンもいたのだ。


 その崇高さが反動となって、キリスト教国は世界史において暴力の限りを尽くした。キリスト教の恐るべき二面性が現れている。

殉教 日本人は何を信仰したか (光文社新書) 沈黙 (新潮文庫)

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