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2010-04-15

恐怖なき教育/『未来の生』J・クリシュナムルティ

英知の教育』同様、クリシュナムルティスクールで行われた講話と質疑応答で構成されている。


 冒頭に27ページに及ぶ序文が記されており、クリシュナムルティの教育に懸ける情熱がほとばしっている。


 彼は言う。「学校は児童がくつろぎを感じ、安心できる場所であることが第一義だ」と。それは、「木登りができ、もし木から落ちても叱られないという感じなのだ」と絶妙な例えを示している。


 教育の現状を考えてみよう。殆どの国において教育は政治の支配下にある。教師は選別され、教科書は検定され、生徒はランク付けされる。学校では目標が設定され、育つべき人間像を叩き込まれ、社会に貢献することが善であると吹聴される。国家という強大な意志による「人間プレス工場」──これが教育の実体であろう。


 学校の目的は、労働者と兵隊を育てることだ。歴史と称して、隣国への憎悪を植え付けることも平然と行う。いつの間にか我々は国家なくしてアイデンティティは成立しないとまで思い込むようになる。そして「国民の義務」を課せられるのだ。


 子供達は競争へと駆り立てられる。ヒエラルキーの下(もと)で行われるラットレースだ。自己実現をするためには社会で成功する他ない。「私」は社会から評価される対象と化し、国家に隷属する。そして召集令状が届けば、家族は万歳をしながら見送ってくれることだろう。国家の命令とあらば、勇んで人殺しに手を染め、敵の喉をかっさばき、目玉を抉(えぐ)り抜いてみせるのだ。なぜなら、それが国民の義務だからだ。


 と、まあそんな現状だろう。クリシュナムルティはこれに真っ向から反逆する──


 児童が今まで一度も経験したことがないかもしれない、信頼にもとづいたこの新しい関係のまさに最初の衝撃が、若者が大人を恐怖すべき脅威として見なすことのない自然な意思疎通に役立つであろう。安心していられると、児童は、学習にとって不可欠な尊敬の念を自分なりのやり方で表わすものである。この尊敬の念には、権威と恐怖が一切ない。児童に安心感があるときは、彼の行動や態度は大人によって押しつけられたものではなく、学びの過程の一部になるものである。生徒は教師との関係で安心していられるので、自然に周囲を思いやるようになるであろう。そしてこのような安心していられる環境においてのみ、感情的開放性と感受性が開花できるのだ。くつろぎ、安心していられると、子供は自分の好きなことをするだろう。しかし自分の好きなことをすることによって、何をするのが正しいのかを見出すだろう。するとそのとき、子供の行動は、反抗や強情、抑圧された感情によるものでも、あるいは一時的な衝動のたんなる表現でもなくなるだろう。

 感受性とは、自分の周囲のあらゆるもの──植物、動物、木、空、川の水、飛んでいる鳥、そしてまた周囲の人々の気持ち、通りすがりの見知らぬ人に対しても──に敏感であることを意味する。このような感受性が、ほんとうの道徳と行為である打算的でも利己的でもない応答の性質を生み出すのだ。敏感なので、児童の行動は開放的で、隠しだてのないものになるだろう。それゆえ、教師側からのちょっとした示唆でも、抵抗や摩擦なしに容易に受け入れられることだろう。

 われわれの関心は人間の全的発達にあるので、知的推論よりもはるかに強い感情的な衝動をまず理解しなければならない。必要なことは感情的能力を養うことであって、その抑制に手を貸してはならないのである。知的ならびに感情的な事柄を理解し、それゆえそれらに対処できるときには、何の恐怖感もなくそれらに取り組むようになるだろう。

 人間の全的発達のためには、感受性を養う手段としての独居(ソリチュード/一人でいること)が必要不可欠になる。われわれは、一人でいるとはどういうことか、瞑想するとはどういうことか、死ぬとはどういうことかを知らなければならない。が、独居、瞑想、死の意味は、それを探究しぬくことによってしか知ることができない。それは教えてもらうことはできないものであって、学びとらねばならないものだ。指し示すことはできるが、指し示されたものによる学びは、独居や瞑想の刻々の体験ではない。独居とは何か、瞑想とは何かを刻々に体験するためには、探究の状態にいなければならない。探究の状態にある精神だけが学ぶことができる。しかし、探究が以前得た知識、他人の権威や経験によって抑制されるときには、学びはたんなる模倣になり、そして模倣は、当人が学んだことを刻々に体験せぬまま、ただ反復するようにさせるのだ。

 教えるというのは、たんに情報を伝達することではなくて、探究精神を養うことである。このような精神は、寺院や儀式からなる既成宗教をむやみに受け入れたりはしないで、宗教とは何かという問題にまで進むべきであろう。信仰や教義のたんなる受容ではなく、神、真理、または何と名づけようが、そういうものの探究こそが真の宗教なのである。


【『未来の生』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1989年)】


「そんな悠長な教育ができるはずがない」と思った人々は、既に生産性に取りつかれている証拠である。混乱する世界を変革するには教育しかないのだ。人類の未来は、小さな子供達の胸の中にしか存在しない。


 我が子に命令し、言うことを聞かないと罰を与え、言いなりになれば褒美を授ける。これが我々の世界なのだ。教育という名の矯正は、まるで盆栽のようだ。針金をぐるぐる巻きにし、伸びゆく力を抑えつけ、余計な枝は剪定(せんてい)され、小ぢんまりとした大人が出来上がるってわけだよ。


 教育の失敗例はそこここに転がっている。いじめ、不登校、引きこもり、リストカット、家庭内暴力、万引き、薬物乱用、援助交際……。そうであるならば、最初っから自由にした方がいいのではないだろうか? 「自由に生きてみろ」「大人の言いなりになるな」「あらゆる価値観を疑え」──そんなふうに育てられたら、人間はどのように伸びてゆくのだろうか? 丁と出るもよし、半と出るもよし。親が子供の失敗や落伍を恐れるようなら、どうせ会社人間しか育てることはできない。


「真に自由な人間」を見てみたいものだ。

未来の生

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