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2010-04-17

ヘンリー・ミラー「クリシュナムルティは徹底的に断念した人だ」/『ヘンリー・ミラー全集11 わが読書』ヘンリー・ミラー


『わが読書』の初版は1960年(新潮社)である。全集は1966年の刊行。ということはヘンリー・ミラーのファンであれば、昭和35年から41年にかけてクリシュナムルティの名前に触れていたことになる。


 ただしこの時点でクリシュナムルティの作品は今武平〈こん・ぶへい〉訳『阿羅漢道』(文党社、1924年)の1冊しかなかった。大正14年の発行で、訳者は今東光日出海兄弟の父親。今武平は神智学協会の会員で、日本郵船会社の船長職に就(つ)いていた。著者名は「クリシナムルテ」となっている。これは1998年に田中恵美子訳で『大師のみ足のもとに』(竜王文庫)として発行されている。


 ミラーによれば、ニューエイジ・ムーブメント(1970年代後半から)に先駆けて、スピリチュアルブームがあったことが窺える。1965年にベトナム戦争が勃発することを踏まえると、アメリカ社会には閉塞感があったことだろう。社会や時代が行き詰まってくると、必ず神秘主義に飛びつく連中が出てくる。無気力者による妄想は幸福の青い鳥を探し求めてやまない。


 ヘンリー・ミラーの自伝的小説『北回帰線』はアメリカで発売禁止処分とされた。奔放な性描写が問題視されたのは有名な話である。日本人はこの手の話題になると、「何だ、エロ本か」という低劣な反応に傾きがちであるが、実はそうではない。


 性というものは、キリスト社会においてがんじがらめに抑圧されており、カトリックなど保守的なキリスト教団においては「快楽」そのものが禁忌(タブー)視されているのだ。きっと、人間を創造するのは神の仕事であって、お前等下々の者が勝手に行うことはまかりならん、といった姿勢があるのだろう。しかも、女性が子を産む行為は神に似ているから、女を貶(おとし)めておく必要もある。

 挙げ句の果てには、こんな馬鹿な話も出てくる──

 教義に洗脳されてしまうと、常識的な価値判断すらできなくなるという好例であろう。


 1960年代のヒッピー達が叫んだ「セックス、ドラッグ&ロックンロール」も同様で、欧米で繰り広げられる「反社会的」なものの底流には、「反教会的」精神が流れている。我々日本人が「世間」に束縛されているように、西洋の面々はキリスト教ドグマに支配されているのだ。


 このように考えると、ミラーが描いた性表現は明らかに時代への「反逆」であったと見ることができよう。そんな彼がクリシュナムルティに辿りつくのは当然ともいえよう。


 ところでぼくが出し控えた一つの名がある。それはおよそ秘密な、怪しげでむずかしげな、学者くさい、精神を奴隷化する種類のものと対象的に目立つ名──クリシュナムルティである。ここに実在の導師とも呼ばれて然るべき現代の一人物がある。彼はひとりで立っている。彼はキリストを除き、ぼくの考えうる限りの誰よりも徹底的に断念した人だ。基本的なところでは彼は実に単純でわかりやすいから、彼の明快直截な言葉と行為とがひきおこした混乱を理解することは容易である。人々はわかりやすいことを承認するのを好まないものだ。サタンのあらゆる悪だくらみよりも深いひねくれ根性から、人間はおのれの天賦の諸権利を認めることを拒む──ある仲介者による、これを通じての解放、救済を要求する。案内者、助言者、指導者、思想体系、儀式といったものを求めるのだ。おのれの自らの胸にあるはずの解答をよそに探し求めるのだ。知恵よりも学識を、弁別の術よりも力を、上に置く。しかし何よりも、人間はまず第一に“世の中”が解放されねばならぬと称して、おのれ自らの解放のためにはたらくことを拒むのだ。とはいえ、クリシュナムルティがしばしば指摘したように、世界の問題は個人の問題と一つに結びついている。“真理”はつねに現存しており、“永遠”はいま、ここにある。【そして救いは】? 御身が、おお人間よ、救いたがっているもの、それは何ですか? 御身のちっぽけな自我ですか? 霊魂ですか? 個性ですか? そんなものを失ってしまえば、御身は御身自身を発見することでしょう。神のことは心配無用だ──神はご自身のことはご自身でめんどうをみる術をご存じだ。御身の疑惑を深めよ、あらゆる種類の経験を抱擁せよ、熱望することをやめず、忘れることをも記憶することをも努めず、御身の経験したことを吸収同化し全一ならしめよ。

 あらまし、これがクリシュナムルティの説きかただ。


【『ヘンリー・ミラー全集11 わが読書』ヘンリー・ミラー/田中西二郎訳(新潮社、1966年)】


 実に興味深い記述である。クリシュナムルティの言葉が、それぞれの民族性をも浮かび上がらせることがわかる。西洋人は「神の否定」と受け止めるが、日本人であれば「社会への反逆」と捉える人が多いのではないだろうか。


 西洋には神がそびえ立っている。神という前提のもとで人間は「救われるべき対象」と化す。つまり、生まれついた瞬間から「救いを必要としている」ことになってしまう。そして人間は神になることは不可能だから、絶対に神に逆らうことができない。人間は僕(しもべ)として一生を過ごす他ない。


 人類の歴史は200万年にも及ぶが、いまだかつて神様が人助けをしたことはただの一度もない。何と不親切なことだろう。神様はお年寄りに座席を譲ったこともないのだ。


 それどころか十字軍の遠征魔女狩り以降は、常に殺戮(さつりく)の旗印として神様は君臨してきた。GOD(神)はDOG(犬)よりも凶暴であった。


「誰もわたしを知ることはできない」と彼はある個所で言っている。彼が何を代表し、存在と本質において何のために闘っているかを知るだけで十分である。


 これには異論を挟んでおきたい。クリシュナムルティの言葉は、「単独の道を歩む」ことを示したものであり、「過去の束縛から解き放たれて自由に進化し続ける」ことを表明したものであって、神秘的な役割をほのめかしているわけではない。


 なぜなら、彼を「わかった」と言ってしまえば、我々は過去の知識を根拠にして判断を下したことになるからだ。そして、「わかった」瞬間に学ぶことが途絶えてしまう。川を流れる水のように、絶え間ない気づきがある限り、人間は無限に生を謳歌できるのだ。


 かつてヴァン・ゴッホは弟のテオとの会話のなかで言った。「キリストがあれほど限りなく偉大なのは、どんな家具も、その他の愚劣な附属品も、彼の行手を邪魔しなかったからだよ。」クリシュナムルティについても、同じような感じを受ける。【何ものも彼の行手を邪魔しない】。


「ただひとりあること」「単独であること」の意味はここにある。クリシュナムルティほど自由な人を私は知らない。

ヘンリー・ミラー全集 11 わが読書

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