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2010-04-27

戦争と写真/『他者の苦痛へのまなざし』スーザン・ソンタグ


 スーザン・ソンタグの本を初めて読んだ。凄い。柔軟さとしなやかさが強さであることを示している。当初、「鞭のようだ」と思った。が、それは正確ではない。衣(ころも)のように包み込み、水のごとく浸透する、と言うべきか。


 彼女は揺らぐ。バランスをとるために。だからソンタグは初めから「揺れる」ことを恐れるところがない。人の意志決定を司(つかさど)っているのは、脳内の電気信号の揺らぎであるとされる。

 ソンタグは判断を下す前に思考を振り子みたいに揺らしている。意図的に。その振幅が思考に余裕を生み、豊かさを醸(かも)し出す。


 本書は戦争と写真に関する考察である。暴力とメディアと言い換えてもよいだろう。


 スペイン内戦(1936-39年)は現代的な意味で目撃された(「取材された」)最初の戦争であった。


【『他者の苦痛へのまなざし』スーザン・ソンタグ/北條文緒訳(みすず書房、2003年)以下同】


 報道された戦争は「翻訳された戦争」である。戦争の情報化が始まった。情報は常に加工される。ある時は国威発揚のために、別の際には敵を撹乱(かくらん)させる目的で嘘が盛り込まれる。


 我々は正確な情報を求めている。そこには、正確な情報さえわかれば正当な判断ができるという勝手な思い込みが存在する。見事な欺瞞だ。


 そして戦争の犠牲者の写真はそれ自体でひとつのレトリックなのだ。写真は繰り返し立ち現われる。写真は単純化する。写真は扇動する。写真はコンセンサスという幻覚を創りだす。


 ごらんなさい、と写真は言う。【こんな】ふうなのですよ。戦争とはこういうことを【する】のですよ。それに【あの】写真の、ああいうことも、あれも戦争がすることです。戦争は引き裂き、引きちぎる。戦争は抉りとる。戦争は焼き、解体し、【滅ぼし尽くす】。


 写真は主張する。「これは嘘偽りのない事実だぞ!」と。写真は見る者の視点をカメラの位置に閉じ込める。首を動かすことは不可能だ。そして瞬間の中に記憶が固定される。


 遺体が映っていれば、彼あるいは彼女の来し方と、【あったはずの】行く末とに我々は思いを馳せ、写真には映っていない殺人者の存在を強烈に意識する。遺体は「自分」と化す。このような所業が許されていいはずがない。死は憎悪を掻(か)き立てる。


 ところが殺された者が大量殺戮者であれば、我々は溜飲(りゅういん)を下げる。いや、「殺し足りない」と思うほどだ。「寸刻みで切ってやりゃいいんだよ」とまで思う。「物語としての遺体」。


 それとは対照的に、一方の側には正義、他方には抑圧と不正があり、ゆえに戦闘は続けられねばならない、と信じる者にとって重要なのは、まさに誰によって誰が殺されるかということである。イスラエルのユダヤ人にとって、イェルサレム都心のスバロ・ピザ・レストランへの襲撃で、ばらばらにされた子どもの遺体の写真は、何よりもまずパレスチナの自爆者によって殺されたユダヤ人の子どもの写真である。パレスチナ人にとって、ガザ付近で戦車に轢き殺された子どもの写真は、何よりもまずイスラエルの兵器によって殺害されたパレスチナの子どもの写真である。戦闘者にとっては、誰かということがすべてである。したがってすべての写真には、キャプションによる説明、あるいはキャプションによる偽装工作が求められる。近年のバルカン半島でのセルビア人とクロアチア人の戦闘では、村の爆撃で殺された子どもたちの同じ写真が、セルビア人、クロアチア人双方で宣伝活動のために流布された。キャプションさえ変えれば、子どもたちの死は繰り返し利用できるのである。


 つまり、同じ写真であっても意味を変換することが可能なのだ。ポジとネガは善悪となって反転する。善悪は交互に点滅する。戦時中の価値観はいつだって政治に支配されている。善悪を判断するのは政治家だ。


 一般の言語は、ゴヤの作品のような手作りの図像と写真との違いを、芸術家は絵を「メイクし」(作り)、写真家は写真を「テイクする」(撮る)という月並みな言い方で説明する。だが写真の映像は、それが一つの痕跡である(雑多な写真的痕跡からなる構成物ではなく)かぎりにおいて、単に事件を透明に反映したものではない。それは常に誰かが選びとった映像である。写真を撮ることは枠をつけること、枠をつけることは排除することである。さらに写真をいじることは、デジタル写真術と写真店による修正のずっと前からおこなわれており、写真が偽りの映像を作ることは常に可能だった。


 しかし、である。戦争の全てをあらゆる角度から撮影した膨大な写真があったとしても、見る人の意図は恣意的(しいてき)な物語を作り上げることだろう。結局、皆が皆自分の都合に合わせて情報を取捨選択している。


 記憶することは以前にもまして、物語を呼び起こすことではなく、ある映像を呼び出すことになっている。


 我々は映像によって「物語を紡(つむ)ぐ自由」すら奪われてしまったのだ。私の常識や価値観は、メディアへの迎合と反発の間にしか築かれない。


 これは五感の中で視覚情報が圧倒的な情報量を占めていることとも関係しているのだろう。我々はあらゆるものを「見た目」で判断する。中身を問うのはその後の話である。


 視覚情報は欲望を喚起する。男性がグラマーな女性を好むのは、遺伝子を残しやすいためといわれる。とすると遺伝的優位性は目に見える形を成していることになる。


 人は視覚に捉われ、翻弄され、判断を誤る。


 他者の苦痛へのまなざしが主題であるかぎり、「われわれ」ということばは自明のものとして使われてはならない。


 我々は「我々」という言葉を使うことで、「私」を大きく見せようと目論む。私が「我々」と言う時、私は「スタンダード」(標準)となっている。政治的メッセージは必ず「我々」を多用する。「我々以外は敵だ」と言わんばかりに。


 写真を見た瞬間、我々はそこに意味を読み取ろうとする。我々は「わからない」ことに耐えられない。見るという行為が、胸倉をつかんで関係性を強要する。意味がわからなければ、観察者は部外者となってしまう。


「見る」ことは「見えなくなる」ことでもある。見えている物の裏側や、自分の背後は決して見えないのだから。とすると、「わかる」ことは「わからなくなる」でもあるのだ。


 苦しみを容認せず、苦しみに抵抗することは、何を意味するのか。


 写真は見る者をして傍観者に仕立てる。ギャラリーは野次馬と化し、覗き見に加担させられる。ジョルジュ・バタイユ著『エロスの涙』で紹介されている中国の残酷な写真について触れている。私はバタイユの感覚が全く理解できない。

 かくも残忍極まりない処刑が中国では春秋時代(紀元前770-紀元前403年)から清朝(1644-1912年)に至るまで行われてきた。バタイユはこの写真に魅せられ、手元から離すことがなかったという。「お前が同じ目に遭ったらどうなんだ?」と言いたくなる。


 サブリミナル効果が示すように、生と死(セックスと暴力)は人間を刺激してやまない。格闘技が我々を熱狂させるのは、勝者が生を敗者が死を体現しているからだ。


 残念ながら惨殺された遺体の写真は暴力的衝動を引き出す。人間の良心は「殺す者」への共感を拒む。一歩誤ると暴力への渇望すら生みかねない。


 メディア情報が席捲する時代にあって、我々に必要なのは静かに「瞑目(めいもく)する」ことではあるまいか。そんな気がしてならない。

他者の苦痛へのまなざし エロスの涙 (ちくま学芸文庫)

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