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2010-05-31

太陽暦と幾何学を発明したエジプト人

 エジプト人による太陽暦の発明は飛躍的前進だったが、エジプト人は歴史にさらに重要な足跡を残している。幾何学の発明だ。ゼロがなくともエジプト人は、たちまち数学の達人になった。怒れる大河のおかげで、ならざるをえなかった。ナイルは毎年、堤からあふれ、デルタを水浸しにした。幸いだったのは、洪水によって一帯の畑に豊かな沖積土が堆積し、ナイルデルタが古代世界でもっとも肥沃な農業地帯となったことだ。一方、困ったことに、境界の目印が数多く壊され、農民たちに、どこが自分の耕すべき土地かを知らせる標識が消え去ってしまった(エジプト人は所有権を重んじていた。『死者の書』によれば、死んだばかりの人は、隣人から土地をだまし取ったことはないと神に誓わなければならない。そのような罪を犯せば、「むさぼり食うもの」と呼ばれる恐ろしいけだものに心臓を食われるという罰を受けてしかるべきだとされた。エジプトでは、隣人から土地をだまし取るのは、誓いを破ること、人を殺すこと、神殿でマスターベーションをすることにおとらず重大な罪と考えられていた)。


【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ/林大訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-05-30

『クリシュナムルティの神秘体験』の新訳/『クリシュナムルティ・ノート 拡大完全版』中野多一郎訳(たま出版、2010年)


 何と読み終えた今日、発見(笑)。


クリシュナムルティ・ノート


 何が我々をばらばらにしているのでしょうか?

 アイデンティティを死んでやり過ごすとは?

 メディアをやり過ごすとは? 脱落するメディアとは?

 分離不可能な、愛、破壊、死、不可思議な創造とは?

 クリシュナムルティ幻の名著『クリシュナムルティ・ノート』に後に発見された追加32頁を加えた拡大完全版。ついに完訳!

ロバート・カーソン、J・クリシュナムルティ


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折38『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち』(上)ロバート・カーソン/上野元美〈うえの・もとみ〉訳(早川書房、2005年/ハヤカワ文庫、2008年)/100ページを超えたあたりで挫ける。これは著者のせいではない。読み物としては多分面白いことだろう。アメリカ沖でUボートを発見。再度アタックする2週間後まで口外しないことを誓い合った。情報が漏れると確実に沈没船は奪い合いの惨状と化すことが予想された。で、翌日、まず一人から漏れた。続いてアル中の首謀者があっさりと友人に語ってしまう。好きなこと、得意なことだけやってきた連中にはこういうのが多い。人間として半端なのだ。明らかに精神を病んでいると思う。こんな連中の冒険を読んでもあまり意味がないと判断した。


 82冊目『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティおおえまさのり監訳、中田周作訳(めるくまーる、1985年)/ついに読んでしまった。ずっと温めていたのだ。親父の一周忌に携え、やっと本日読了。全編これ悟り一色。不可思議な境地としか言いようがない。結局は「諸法実相」ということなのだ。クリシュナムルティの正真正銘の内なる世界があますところなく描かれている。衝撃の一書だ。クリシュナムルティ本はこれで35冊目の読了。

哲学の限界/『現代思想の冒険』竹田青嗣


 昨年の10月から怒涛の如くクリシュナムルティ本を読んできた。そこで感受性の偏りを防ぎ、バランスをとる目的で本書を読んだ。


 結論から述べよう。思想・哲学の無力さがよくわかった。大体、近代思想の多くが西欧から誕生した時点で胡散臭い。キリスト教+経済力という式が見え見えだ。


 本気で哲学と取り組もうとするなら、まず言葉の定義から見直す必要があろう。例えば「世界」という言葉だ。彼等の「世界」と我々日本人の「世界」は明らかに違う。ヨーロッパ人が置かれた世界は「神と向き合う自分」の世界だ。一方、日本人の世界とは「世間」に過ぎない。


 西洋哲学がとにかくわかりにくいのは、我々がキリスト教を信仰していないためだろう。教会、告白、懺悔、三位一体、パンと葡萄酒、偶像崇拝――言葉は知っていても、皮膚感覚を欠いてしまっているのだ。


 その意味で、西洋の思想・哲学とはキリスト教の亜流であると私は思う。日本人にとっての神はアニミズム的色彩が強く、曖昧な豊かさはあっても、思想を吟味する厳しさに欠ける。


 竹田は「世界のイメージ」(世界像)についてこう書いている――


 たとえば学校で勉強の出来る人間は、学者や官吏その他になる道を選ぶし、スポーツの得意な人は、野球選手やオリンピックをめざすだろう。ところが、こういった自分のライフ・スタイルの思い描きそのものが、社会全体のイメージなしには決して成り立たない。それだけではない。ひとは若い頃からさまざまな〈世界〉を思い描いてそれに【憧れる】が、この〈世界〉への感受性のかたちが、友人や仲間との世界を形づくり、その共同性の中での自分の役割を確定してゆくうえでの唯一の土台になるのだ。

 つまりひとが自分のうちになんらかの〈世界〉を思い描くことは、すでに社会の中に存在する〈世界〉の共同性の中に(たとえば文学の世界、芸術の世界、政治の世界、趣味、嗜好、等々)彼を導き入れ、その中で彼が〈自我〉のかたちを作りあげて生きてゆくための、基本の通路となるのである。


【『現代思想の冒険』竹田青嗣〈たけだ・せいじ〉(毎日新聞社、1987年/ちくま学芸文庫、1992年)】


 わかったような、わからないような文章だ。大事なことを言っているようにも見えるし、何も言っていないようにも思える。かような姿勢を私は「悪しきリベラリズム」と呼ぶ。最も顕著なのが漢字の使い方である。妙なところで平仮名を使っているため、かえってわかりにくくなってしまっている。


 このテキストが致命的なのは、世界と世間の違いが示されていない上、「基本の通路」が環境に由来するものなのか、主体性を発揮し得るものなのかが不明なことだ。更に、その通路が変更可能なのかもわからない。必然性と偶然性の影響だって見逃すわけにはゆくまい。


 また、「自我」という言葉も曲者(くせもの)だ。そもそも自我とは発揮されるべきものなのか、あるいは形成されるものなのか、それすらわからない。「かたち」とは書かれているが、全体的なのか、それとも部分的なのか?


 まあ、こんなふうにだね、自分の頭で批判的にものを考えるのが哲学なのだよ(笑)。


 竹田のテキストは期せずして、クリシュナムルティが説く「条件づけ」を見事に描き出している。本書を一読した上で、以下のテキストを参照すればたちどころに理解できよう――

 最大の問題は竹田が言う「基本の通路」が、教育という名目で既成概念を押しつけている事実なのだ。「基本の通路」を「自由な通路」「本来の通路」としない限り、人類の歴史は過去の延長線を繰り返す羽目になる。


 哲学は思考の次元で行われる。思考を織り成すのは言葉である。そして言葉はシンボルであって「当のもの」(=そのもの)ではない。つまり、「初めに言葉ありき」(ヨハネ福音書)という聖書の教えが拘束着のように作用しているわけだ。


「創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった」――そんなわけねーだろーよ(笑)。で、神の言葉である「光あれ」をビッグバンと結びつける考え方もありそうだが、これは明らかな牽強付会(けんきょうふかい)だ。大体、初めに創造したのは「天地」なんだから、神様が現代宇宙論を知らなかった事実が露呈している。しかもこの言葉自体が矛盾している。だって、本当は「言葉」の前に「神」が存在しているわけだから。

 砂漠で生まれたキリスト教は、自然を征服する対象として見つめるために、自然との交感が欠如している。蛇が悪者になっているのも同じ理由からであろう。西洋哲学にも同じことが言えると思う。

 言葉が構築するのは論理的世界である。世界という言葉は、世界そのものではない。ここに哲学の限界がある。大体、哲学が人を救ったという話を聞いたことがない。哲学が行うべき本当の仕事は「キリスト教の解体」である。

現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)

「冬が来るまえに」オフコース


 高校1年の時に買ったアルバム(もちろんレコードだ)に収められた曲。当時の私にとって「ザ・荘厳」といえば、ユーミンの「翳りゆく部屋」かこの曲だった。この年になるとキリスト教的虚仮威(こけおど)しに聴こえなくもない(笑)。


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SONG IS LOVE(紙ジャケット仕様)

名前のない悲劇


 キーボードを一心不乱に叩きながら彼女は語る。

「一番大きな問題は私たちのこの悲劇には名前がついていないことです。世界の注目どころか、国内でも無視され切り捨てられている」

 名前さえもついていない問題。確かにコソボ難民という言い方をすれば、ほとんどの外国人はアルバニア系住民のことを指すと思うだろう。


【『終わらぬ「民族浄化」 セルビア・モンテネグロ木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社新書、2005年)】

終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ (集英社新書)

パレスチナ人を虐殺した司令官の保釈金は何と10円以下


 多くの人は信じられない、と言うかもしれない。あのアウシュビッツを経験した人々が、他人にそんなひどい仕打ちができるはずがない、と。ましてユダヤ人が非武装のパレスチナ人を虐殺することなど想像もできないに違いない。しかし現実には、そうしたことがしばしば起こっている。1956年にカセム村のパレスチナ人47人がイスラエル兵に虐殺されたときは、命令を下した最高責任者は「単なる技術上の過失」を犯したとして、実に10円にも満たない形式だけの罰金で釈放された。


【『パレスチナ 新版』広河隆一〈ひろかわ・りゅういち〉(岩波新書、2002年)】

パレスチナ新版 (岩波新書)

成功がもたらす問題


 成功のもたらす問題は、失敗のもたらす問題とは大きく異なる。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生〈うえだ・あつお〉編訳(ダイヤモンド社、2000年)】

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))

2010-05-29

国家権力によって沖縄県の民主主義が葬られた


 今回の沖縄県米軍基地普天間移設問題で明らかになったのは、国家権力によって沖縄県の民主主義が葬られたという事実であろう。民主主義なんて代物は所詮この程度のものだ。沖縄県民以外は、「どうせ今まで我慢してきたのだから、もう少し我慢してよ」と心のどこかで思っている。琉球王国(1429-1879年)は薩摩藩に侵略され、沖縄県は1972年までアメリカに支配された。我々は不幸な歴史は知っているものの、不幸な歴史を生きたことがない。


 28日、消費者・少子化相の福島瑞穂が名護市辺野古への移設を明記した閣議決定に反対し、鳩山首相から罷免(ひめん)された。福島を評価する向きもあるが、これは社民党的短絡平和主義か、あるいは参院選に向けたアドバルーンであろう。特に最近の世論調査ではみんなの党が支持率を上げていることもあって、社民党はそれ相応の危機感を抱いてきたことだろう。


 私は沖縄が大好きだ。りんけんバンドの筋金入りのファンでもある。ゆくゆくは故郷の北海道よりも沖縄に住みたいと考えている。弟夫婦も沖縄にいる。権力者はきっとこう考えているのだろう。「番犬を家の中で買うわけにはいかない。玄関先で飼うのが当然だ」と。


 政治は既に人気取りというレベルに堕している。参院選という次の徒競争に向けて、利用できるものは何でも利用しようとするのが政治家の本能だ。彼等の言説に耳を貸すような愚かな真似だけはしたくないものだ。


 武力が劣って侵略された沖縄に、武力が押しつけられている。これを傍観しているのは、米軍基地のない地域に住む日本国民だ。もちろん私もその一人だ。実に耐え難い事実である。

小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月


 ルバング島のジャングルで30年の長きにわたって戦い続けた小野田寛郎は、帰国後メディアから集中砲火を浴びる。小野田は格好の標的となった。物珍しければ何にでも飛びつくのがメディアの習性だ。連中は野良犬のように鼻が利き、野良犬のようにしつこい。


 野坂昭如(のさか・あきゆき)が小野田寛郎を中傷した――


(野坂昭如による“談話筆記”〈『週刊ポスト』8月16日号〉)

 小野田さんはいろいろ偉そうなことをいっているけど、そして偉い面もあるけど、游撃戦にしろ、残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていないじゃないか。

 彼は自分の頭の中に艦船の出入りとか、飛行機のなんとかというものをしっかり納めていたという。それがやがて来たるべき日本の反撃に備える自分の任務だった、というが、じゃ、それを書いてみろといったら、おそらく書けないのではないか。

 横井さんの場合は、「あれは逃亡兵だ、逃げ回った人間だった」という決めつけ方をされていて、小野田さんの場合には「闘った」というふうにいわれている。しかし、状況判断の悪さからいうと、あれは闘ったことにはならない。

 そのことはさておき、彼は、自分の判断が間違っていたために、小塚さんがどうした、島田さんがどうしたとかいっているが、この文章を読んだ範囲においては、その判断の誤りについてほんとうの後悔は何もない。いやしい感じの方が強い。


【『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月〈とい・じゅうがつ〉(新潮社、2005年)以下同】


 私は以前から野坂という人物に嫌悪感を抱いてきた。見るからに薄汚い風体で、妙にヘラヘラしている。本人はニヒルを気取っているつもりだったのだろう。


 多分この記事は、国民の多くが小野田を礼賛することに背を向けるような格好で発信したのだろう。また小野田が陸軍中野学校出身であったことに警戒感を抱いていたのかもしれない。だが野坂は口の軽い男だった。そう。彼はただの酔っ払いなのだ。そして相手が悪かった。


 例えば、この記事の殆どの部分が、憶測と思い込みによって成立している。あらかじめ、自分の頭の中で描いた絵に結論を引き寄せようとしていると言ってもいい。少なくとも野坂は、小野田から直接話を聞いてもいないし、中野学校のことを調べてもいないし、ルバング島へ取材にも行っていない。その意見の殆どの部分は想像と感想の域を出ていない。いわば、言い放し、書き放しといっていい。しかし、そんなものでも活字になってメディアに載れば力が生まれる。なるほど、そうかと思う人間が出てくる。そうやって、ある人間や、ある出来事のイメージがつくられてゆく。

 小野田は、会ったこともない人間やメディアによって空気がつくられ、知らぬ間にそれが既成事実になってゆくような曖昧さといい加減さが許せなかった。それでは、戦前の日本と同じではないか。野坂の記事を読んだ小野田は、「言いたいことがあるなら、黒眼鏡を外して堂々と言え」と激怒したという。


 野坂は明らかに思い上がっていた。スポットライトを浴びた者は逆光で客席が見えなくなる。目に映るのはライトが当たっている自分の周囲だけだ。傲(おご)りという病(やまい)は治し難い。肥大した自我を正当化するために彼等はひたすら前進するのだ。


 国のために戦い続けてきた男は見世物にされた。小野田の中で日本のイメージが激しく揺れ動いた。彼が守ろうとした国も国民も既に消え失せていた。小野田は帰国から一年を経ずして長兄次兄のいるブラジルへ移住する。


 軽薄な売れっ子であった野坂に対し、小野田はどんな人物だったのか。以下に小野田自身が書いた手紙を紹介する――


 しばらくして週刊誌から手記連載の申し入れがあり、小野田は、代筆者や編集者たちと共に伊東市の出版社寮に缶詰めになった。その頃、小野田は、励ましの手紙をくれた戦争遺族たちに次のような礼状を送っていた。


 拝啓

 御健勝の御事喜ばしく存じます。

 私 帰還に際してはわざわざ御親切なお祝のお便りを頂き誠に有りがたく存じて居ります。今日、生きて日本に帰り得たことはひとえに亡くなられた戦友のお蔭と国民皆様の努力の賜で何とお礼を申し上げてよいものか言葉もなき次第でございます。

 帰られぬ戦友、帰り得た私、その運命の非情さを考えれば帰還の喜びは一瞬に失せ、思いは再び戦場に還ってしまいます。全く相済まぬ事をいたしました。肉親の皆様方に深くお詫びいたしお叱りを受けて、そのお赦しを願わねばなりません。

 肉親の皆様は終戦後の毎日をさぞおつらくお苦しく続けられたことでしょう。よくお耐え下さいました。

 男一匹の私らとは比べものにならない年月をお送りなされたことでございましょう。よく生き貫いて下さいました。

 今、御遺族の貴方様から御慰め頂きましたがこれは全く逆でございます。お慰め申し上げなければならぬのはこの私でございます。何と申し上げても申し上げきれないのはこの私でございます。本当に申し訳ございません。私の今日が祝福されればされる程、私はますます御詫び申し上げなければならないのです。お願いでございます。私の心をお察し下さってお赦し頂きとうございます。

 お互いに死を誓って戦場に出たとは申せあくまでも死は死、生は生でございます。亡くなられた方は再び生きてかえらず、生き帰ったものは全く倖せなのです。戦争の悲劇、全く言い様のない気持です。今迄生き貫かれた貴方様、尚も強く生き通して下さい。それが私にとって最もうれしくお祝の言葉、お慰めの贈りものでございます。

 私の社会復帰について御心配を頂きますがそんなことは第二第三の問題です。私の第一は遺族の皆様のお赦しを頂くことです。どうぞ御健康に御多幸に一日も早く遺族の苦しみ悲しみから抜け出して下さい。それで私は心から解放されるのでございます。右御詫びかたがた御礼まで。

 昭和49年5月

      海南市  小野田 寛郎


 何がここまで私の心を打つのか。私は戦争という戦争を忌み嫌い、戦争へ行ったことを得々と語る老人に対して、「お前は平然と人を殺し、何の躊躇(ためら)いもなくレイプに加担したような人物だろう。たとえお前がやらなかったとしても、周囲で行われたことを黙認するような卑劣漢だ」と心で罵るような人間なのだ。


 私が嫌悪する戦争、私が嫌悪する時代から、なぜこのような人物が生まれたのか。礼儀や人の振る舞いに着地するのは簡単だ。しかし、そんな皮相的なレベルで30年もサバイバル生活を生き延びることは不可能だ。


 小野田の時計は30年前に止まっていた。人間を人間たらしめていたのが30年前の記憶であったとすれば、30年間に及ぶ社会の変化は人間性を失わせるものだったことになる。


 そしてやはり陸軍中野学校の教育が大きかったことだろう。教育というものは例外なく、国家という枠組みに適応させる目的で施される。しかし中野学校では戦時中にもかかわらず、天皇よりも日本国民を重んじる教育を叩き込んだ。その意味では国家を超越する思想を提示したといえよう。


 小野田寛郎の偉大さは、時代や社会から取り残されたジャングルで人間として生き、人間を貫いたところにある。

小野田寛郎の終わらない戦い

東京のバルコニー


 20坪の家にバルコニーをつけること、そのバルコニーに洗濯物を干してしまうこと、そういうことが東京では可能なのだ。「バルコニーというのはジュリエットがロミオを待つようなのを言うんだ」といったような硬直した発想は東京にはなじまない。洗濯物を干そうが檄文をまいて割腹自殺しようが、東京のバルコニーはそんなことにはこだわらない。


【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】

我が心はICにあらず(単行本)


我が心はICにあらず(文庫本)

東京電力の子会社


 まず、その事業規模の大きさ、広さを表しているのが連結子会社だ。不動産管理や電気通信事業とその保守管理はもとより、船会社から放送、電話、人材派遣、果ては介護事業まで手がけていて、その数は145社に上る。(※2006年現在)


【『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘〈おんだ・かつのぶ〉(七つ森書館、2007年)】

東京電力・帝国の暗黒

片麻痺患者の体性感覚/『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三


 脳血管障害で左右いずれかの半身に麻痺症状が現れることを「片麻痺」(かたまひ)という。昔は半身不随といわれたが、これだと下半身なのか左右なのかがわかりにくい。


 脳内の血管が詰まったり(梗塞性)破れたり(出血性)して何らかのダメージを負うと、身体機能が部分的に損なわれる。片麻痺患者の多くは嚥下障害(えんげしょうがい)や失語症を伴う。


 認知運動療法は身体イメージを把握することから始まる。では片麻痺患者の身体イメージはどういったものなのか――


 複数の脳卒中麻痺患者に、目を閉じて、自分の身体を感じてみることを要求し、その状態をより詳細に聞いてみる。すると、驚くべきことに、多くの患者が訴える身体空間は、いわゆる目に見える身体のような姿や形をしていない。

 まず、片麻痺の体性感覚を詳細に検査すると、身体各部の構成部分が何ヵ所も欠損している場合が多い。たとえば「足に触れる感触は踵(かかと)と足底の外側だけで、足の上部はまったくなにも感じない、また、足指は動かされてもまったく感じない」と訴えた患者がいた。「目を閉じれば足指の何本かが欠落しており、その先端のみ微かに存在している。下肢は膝から下が存在せず、足部は遠く離れていて、踵と拇趾(ぼし)の一部は存在しているものの、その他の足の表面は欠落している」と訴えた患者がいる。

 つまり、目を開ければ手や足の全体的な形態は確認できるが、目を閉じれば手足の欠損部分が何ヵ所かに分散しており、一つの形態としての全体性がないように感じているのである。そして、漠然と「白い霧がかかったようだ」と足部の現実感のなさを比喩(メタファー)に変えて訴えることが多い。


【『脳のなかの身体 認知運動療法の挑戦』宮本省三〈みやもと・しょうぞう〉(講談社現代新書、2008年)】


 これはもう「人間MRI」といっていいだろう。患者が語る感覚は、まだらになっている脳の状態そのものと思えてならない。人間の感覚とはかくのように鋭く、正確なのだ。


 視覚イメージと感覚イメージとの乖離(かいり)――つまり、「見える世界」と「感じる世界」がバラバラになってしまっているわけだから、認知レベルでも心理レベルでも混乱状態に置かれているといってよい。そんな凄まじい世界で彼等は生きているのだ。


 昨日、買い物に行った。帰る道すがら私は左手に5kgの米を、右手には買い物袋をぶら下げていた。この状態が一生続いたとしたらどうなるだろう?


「ここに入ってこられる方は、病気やけがと闘って、脳に損傷を受けながらも生き残った勝者です。勝者としての尊敬を受ける資格があるのです。みなさんも患者さんを、勝者として充分に敬ってください」


【『壊れた脳 生存する知山田規畝子〈やまだ・きくこ〉(講談社、2004年/角川ソフィア文庫、2009年)】


 身体障害者は障害という極限状況を生きる人々である。その意味で健常者にとって未踏の険難に挑んでいる人々といってよい。しかし、資本主義に毒されてしまった我々の価値観は人間を、生産や労働でしか測(はか)れなくなっている。金の奴隷と化した人間からすれば、障害者はお荷物でしかない。


 明らかに間違っている。否、狂っているというべきだろう。我々の視線は既に人間を捉えることができなくなってしまった。技術や才能、自分にとって役に立つか立たないか、そういった損得勘定で人間を測っているのだ。質量×距離×時間だ。


「障害者のために何かしたい」という気持ちはもちろん尊い。しかし本当は、障害者に教えを請うべきなのだ。誰よりも生の厳しさと豊かさを知る先達と仰ぐことができれば、社会は幾分まともになっていることだろう。

脳のなかの身体―認知運動療法の挑戦 (講談社現代新書 1929) (講談社現代新書)

2010-05-28

更新料支払い訴訟、2審も借り主側が勝訴…大阪高裁


 同じ賃貸住宅に住んでいる人は、裁判を検討した方がいいかもね。また、敷金・礼金というのにも法的根拠があるのだろうか?


 京都市内のワンルームマンションの家主が借り主の男性(28)に、未払いとなっている契約更新料計10万6000円の支払いを求めた訴訟の控訴審判決が27日、大阪高裁であった。紙浦健二裁判長は「更新料は、借り主を犠牲にし、家主や管理業者の利益確保を優先した不合理な制度」として、家主側の請求を退けた1審・京都地裁判決を支持し、家主側の控訴を棄却した。

 更新料をめぐる高裁判決は4件目で、借り主側の3勝1敗となった。

 判決によると、男性は2006年4月、2年契約で同市北区のマンションに入居。08年春の契約更新時、家賃(5万3000円)2か月分の更新料を払わなかった。

 紙浦裁判長は「更新料は、1960年代に地価の高騰分を賃料に反映できない家主が徴収し始めたもの。地価高騰がなくなった現在は合理性はない」と指摘した。


YOMIURI ONLINE 2010-05-28

ジェフリー・ディーヴァー


 1冊読了。


 81冊目『ウォッチメイカージェフリー・ディーヴァー/池田真紀子訳(文藝春秋、2007年)/500ページ上下二段を一日半で読了。リンカーン・ライム・シリーズの最高傑作といっていいのではなかろうか。また、同シリーズの集大成的要素も濃い。時計好きな人であれば、悶絶するほど堪能することだろう。それにしても麻薬的な面白さだ。仕事中も本を手放せなくなってしまった。

2ちゃんねるとナショナリズム


佐藤●なかでも私は、インターネットの巨大掲示板「2ちゃんねる」の書き込みを、現在の日本におけるナショナリズム形成との関連で注視しておくべきだと思っています。匿名性が担保されていますから、より過激な言説が優位に立つ。言説がどんどん先鋭化していくという、ナショナリズムの病理が最も高まりやすい状況が形成されています。


【『ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき』佐藤優魚住昭朝日新聞社、2006年)】

ナショナリズムという迷宮―ラスプーチンかく語りき ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-05-27

岸田秀、トム・ロブ・スミス


 2冊読了。


 79冊目『歴史を精神分析する岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)/再読。数日前に読了。殆ど記憶から欠落していた。こんなに面白かったかね? 岸田唯幻論はわかりやすいだけに読み手は熟慮する必要がある。ま、それでも逆らい難い魅力にあふれている。


 80冊目『チャイルド44 下巻』トム・ロブ・スミス/田口俊樹訳(新潮文庫、2008年)/死ぬほど面白かった。これはジェフリー・ディーヴァー以来の大物といってよい。ロバート・ラドラムの穴を埋めてくれる大型新人の登場だ。完全に惚れた。

広河隆一責任編集 世界を視るフォトジャーナリスト月刊誌『DAYS JAPAN』


廃刊危機脱出へ前進 写真雑誌「DAYS JAPAN」


 経営難に陥り、廃刊の危機を訴えて昨年から存続のためのキャンペーンを続けていたフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」(広河隆一編集長)が、新たな定期購読者を1000人以上増やした。刊行を続けるためには、まだあと100人ほどが必要で、定期購読の協力を求めている。9日には創刊6周年イベントがあり、心配する支援者の前で存続か廃刊かが発表される。

 04年に創刊された同誌は、世界各地の紛争や人権侵害、飢餓など、ほかのメディアには載りにくい問題を、広河編集長を含む世界のフォトジャーナリストの写真で訴え続けてきた。

 広告収入はわずか。5年ほど前から書店での販売数は減り続け、昨年、初の赤字となった。雑誌を守るために1500人の定期購読者増が必要と昨年9月末から「存続キャンペーン」を始めた。広河編集長は、世界で起こっていることを知るための場を支えてほしいと自社サイトで定期購読を訴えた。

「この雑誌をなくしてはいけない」と考える読者の支援の輪が広がり、雑誌の存在さえ知らなかった人や海外からも多く反響があった。広河編集長の講演会では、会場発のツイッターが飛び、さらに支援者が増えた。

 定期購読者が支え。現在も事務所では、期限が切れる読者に電話で継続を呼びかけている。一時は廃刊を覚悟したという広河編集長は「あと一息というところまできた。ここまで支援が集まるとは。雑誌の廃刊を読者が食い止めるために動くという、とてもまれなことが起こっている」と話している。


【asahi.com 2010-03-06】


写真誌「DAYS JAPAN」、廃刊の危機脱出


 廃刊の危機の中で「存続キャンペーン」を続けてきたフォトジャーナリズム月刊誌「DAYS JAPAN」は9日、今年に入ってからの定期購読の申し込みが伸びたことで存続が可能になったと発表した。創刊6周年の催しで、写真家の広河隆一編集長が読者や関係者を前に話すと場内からは拍手が起こった。

 書店での売り上げが減り、安定した発行を続けるために定期購読による支援を求めていた。支援の輪はメールやブログを通じて海外にも広がり、今年1月から申し込みが増加。9日に終了したキャンペーン中は年間購読料を1000円下げる7700円としたこともあって、定期購読部数はこれまで最高の約7000部を超え、9000部近くまで伸びた。

 広河編集長は「電子化などメディアが変わっていく中で、ジャーナリズムが積み残されていないか。大切なことを伝えるために想像力が試されている」と話した。今後は公募と読者投票で新しい「DAYS JAPAN」の形を探る方針だという。


【asahi.com 2010-03-10】


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DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2010年 06月号 [雑誌] DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2010年 05月号 [雑誌] DAYS JAPAN (デイズ ジャパン) 2010年 04月号 [雑誌]

刑務所と墓場


 念のために言っておくのだが、刑務所には殺人と呼ばれる行為で入っている人がごまんといる。刑務所とは生き残った人のためにある。また、死と呼ばれるもののために墓場に眠っている人もごまんといる。


【『ザ・秒殺術 都市生活者のための暴力・ケンカ・自己防衛術』マーク・マックヤング、ドン・ヴィト・クアトロッチ、ドクター・T・ガンボーデラ/ハミルトン遙子訳(第三書館、2002年)】

ザ・秒殺術―都市生活者のための暴力・ケンカ・自己防衛術

ギネス認定はインチキ


 大体、「ギネス認定」自体がインチキだってことを誰も知らないんだろうか?

 ギネスブックなんて、単なる私企業(ビール会社)が出してるパンフだぜ。

 だから、そこで言っている「世界一」というのだっておよそ恣意的なものなわけだ。

 いや、恣意的どころか、「認定料」を取るんですよ、このギネス協会って詐欺まがいの組織は。


【『イン・ヒズ・オウン・サイト』小田嶋隆朝日新聞社、2005年)】

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

2010-05-26

物語の結構を名文が支える/『忘却の河』福永武彦


 さしたる興味も湧かない物語をぐいぐい読ませる筆力がある。透明感を湛(たた)えた文章、引き締まった文体、揺るがぬ小説の結構……。前にもこのような作品と出会ったことがある。読み進むうちに思い出した。ローリー・リン・ドラモンドの『あなたに不利な証拠として』だ。ストーリーの好き嫌いは無視して、精緻な文体の前に読者はひれ伏すこととなる。


 ありふれた上流家庭が、それぞれの視点から描かれている。日常の小さな嘘と裏切りが、やがて人生の大いなる偽りと化す。忘却の河を流れているのは記憶の束であった。過去は軛(くびき)となって現在を束縛する。著者は不信と疑念を絶妙な筆致ですくい上げる。


 父親は若い女と密通していた。しかしながら浮気とか火遊びと称するほどのものではなく、なりゆきから結び合った二人であった。息抜きというのも相応(ふさわ)しくない。家族の目を盗んで捨て猫を育てているような心境に近い。腐臭が漂う日々の中で男は女に虚を衝かれた。


 私は身体を立て直しても、そのまま、10階建てのビルのこちら側の面をまじまじと見詰めていた。窓という窓は昨夜来の横なぐりの雨に叩(たた)かれてすっかり濡(ぬ)れ、そこに今、朝の烈(はげ)しい日射(ひざし)が射していた。それは無数の、涙に濡れた眼だった。四角な硝子の眼。どの眼も雫(しずく)をしたたらせながら、朝の太陽の新鮮な光を貪(むさぼ)るように吸い込んでいた。四角な眼、眼、眼。縦にも横にも、整然と連なったまま、これらの眼はひとしく私を見詰めていた。私ひとりを見詰めていた。

 その時、この偶然が私に齎(もたら)したものを何と名づけたらよかったろうか。眩暈(げんうん)だろうか、放心だろうか、感動だろうか。私はこんなに数多くの眼を一度に見たことはない。それらの一つ一つが生きて、泣いて、訴えて、私の心の奥底を覗(のぞ)き込んで、何かを私に語っていたのだ。お前は忘れているのか、忘れたままで生きていることが出来るのか、と。いや、そうではない、もっと別のことを言っていたのだ。私たちはお前を見ているよ、と。そう、ただそれだけのことを語っていた。無心に語っていた。そして私の方が見られていることを強く意識したあまり、私の経て来た時間が私にとって何であったかを反省せざるを得なかったのだ。その眼は彼を見ていた。その二つの落ち窪(くぼ)んだ眼窩(がんか)を彼を見ていた。


【『忘却の河』福永武彦(新潮社、1964年/新潮文庫、1969年)以下同】


 父親の意識に生じたのは「死者の目」であった。戦地で仲間を看取った出来事や、彼にまつわる出生の秘密が交錯して、生と死がモノクローム化して物語全体を覆っている。


 窓は穴である。窓は空白だ。そうでありながら窓は世界を映し出している。


 彼が反省したこと。それは戦友との約束を果たしていなかったことだった。最終章で戦友の家族を訪ねるが、劇的なことは何ひとつない。むしろ逆だ。物語はここから一気に死の臭いを放つ。


 川幅の狭いこの川の向う側は、先程私が佇(たたず)んでいた筈の片側道で、そこには月明りが射(さ)していたが、川は暗く澱(よど)んで、水が流れているようではなかった。それはただ深く抉(えぐ)られた地の底のように見えた。そこには人間のさまざまな過去の回想が悔恨と執念とを籠(こめ)めて蠢(うごめ)いているように見えた。


 私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途(さんず)の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ。しかし私にとって、忘却の河とはこの掘割のように流れないもの、澱んだもの、腐って行くもの、あらゆるがらくたを浮べているものの方が、よりふさわしいような気がする。この水は、水そのものが死んでいるのだ。そして忘却とはそれ自体少しずつ死んで行くことではないだろうか。あらゆる過去のがらくたをその上に浮べ、やがてそれらが風に吹かれ雨に打たれ、それら自身の重味に耐えかねて沈んで行くことではないだろうか。


 記憶は腐る。なぜなら記憶は成長することがないからだ。同じ記憶を思い出すごとに現在の自分を腐らせてゆく。「昔はよかった」という人は、「今がよくない」と白状したも同然なのだ。


 父親が死をひたと見つめた瞬間に、澱(よど)んだ河が海に注がれるような変化が訪れる。そこには変わりない家族の姿があった。かけがえのない家族の姿が。

忘却の河 (新潮文庫)

トム・ロブ・スミス、朝倉慶


 2冊読了。


 77冊目『チャイルド44 上巻』トム・ロブ・スミス/田口俊樹訳(新潮文庫、2008年)/「超新星」という謳い文句に偽りなし。著者は1979年生まれだから、何と20代でこの作品を書いている。驚愕。空いた口が塞がらない。下の顎が胸まで届きそうだ。舞台が旧ソ連ということもあってマーティン・クルーズ・スミスの『ゴーリキー・パーク』とよく似た香りを放っている。更に『一九八四年』風味のスパイスを効かせている。トム・ロブ・スミス恐るべし。


 78冊目『恐慌第2幕 世界は悪性インフレの地獄に堕ちる』朝倉慶〈あさくら・けい〉(ゴマブックス、2009年)/前著に比べると散漫な内容だ。本の作りも悪い。これで1500円は高過ぎる。朝倉は粗製乱造気味か。結論部分で述べている金・白金への投資もポジショントークであろう。

文庫化『ゴーリキー・パーク』マーティン・クルーズ・スミス/中野圭二訳(ハヤカワ文庫、2008年)


ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV) ゴーリキー・パーク 下 (ハヤカワ文庫 NV ス 10-4)


 モスクワのゴーリキー公園で雪の下から男女3人の射殺体が発見された。いずれも顔面を刃物で削ぎ落とされ、指先も切断されていた。捜査を命じられた民警の主任捜査官レンコは、人類学研究所に被害者の顔の復元を依頼する一方、被害者の遺留品から運命の女性イリーナと出会う。反体制派の彼女に次第に魅かれていくレンコ。そして捜査線上に浮かぶアメリカ人の毛皮商……ソ連社会の暗部をかつてないリアリティで描いた問題作。


 ゴーリキー公園の顔と指のない三つの死体――それは誰も触れることの許されぬソビエト社会の根深い矛盾を象徴していた。ようやくレンコは殺人犯の正体をつかむが、検事局長から捜査の終了を命じられる。彼はけっして掘り起こしてはならない過去を発見してしまったのだ。主任捜査官の地位さえも奪われたレンコは、メーデーの夜、ついに犯人と対決する。そして彼が海の彼方で見た、驚愕の真実とは? 英国推理作家協会賞受賞作。

自分は今日リンゴの木を植える


「どんな時でも人間のなさねばならないことは、

 たとえ世界の終末が明日であっても、

 自分は今日リンゴの木を植える……」


【『第二のチャンス』ゲオルギウ/谷長茂訳(筑摩書房、1953年)】

第二のチャンス

父の仕事は「区切ること」、母の役割は「つなぐこと」


 父の仕事の本質は、「区切ること」です。これと対になるという点で母の役割は「つなぐこと」ともいえるでしょう。

 父はまず、「この者たちに私は責任を負う」という家族宣言をすることによって、自分の家族を他の家族から区分します。このことを指して「社会的父性」の宣言といいます。この宣言によって、ひとつの家族が成立するのですから、父の役割を家の塀や壁という区切りにたとえることができるでしょう。ついでにいえば、妻や子が雨露に濡れることから防ぐ屋根の役割といってもよい。いずれにしても家族を外界と区切るひとつの容器を提供することは父の機能です。

 第二に父は、是非善悪を区切ります。世に掟(おきて)をしき、ルール(規範)を守ることを家族メンバーに指示するのは父の仕事です。「父性原理」という言葉がありますが、これは父親のこうした機能を指して用いられるものです。

 父の仕事の三番目は、母子の癒着を断つこと、親たちと子どもたちの間を明確に区切ることです。父を名乗る男は、妻と呼ばれる女を、何よりも、誰よりも大切にするという形で、この仕事を果たします。子どもは父のこの仕事によって、母親という子宮に回帰する誘惑を断念することができるのです。


【『インナーマザーは支配する』斎藤学〈さいとう・さとる〉(新講社、1998年)】

インナーマザー 〜あなたを責めつづける心の中の「お母さん」〜 (だいわ文庫)

2010-05-24

言葉と文化


 しかし、新人が出現して以来、科学技術の進歩にはおどろくべきものがある。生物的存在としてのヒトの脳は、実はほとんど変化していないにもかかわらず、人間の地球に対する影響力はすさまじい速度でエスカレートしているのだ。

 何がこの変化をおこしているのだろうか。それは、人間が言葉を獲得して以来つくりあげてきた「文化」であると考えられる。「文化」は、脳の機能に大きな影響を与えるが、脳の中にあるのではない。「文化」は人間集団の産物であり、集団に属するメンバーによって学習され、世代をこえて伝えられる。「文化」はある意味で「獲得性遺伝」的な要素をもっている。


【『ここまで解明された最新の脳科学 脳のしくみ』Newtonムック(ニュートン プレス、2008年)】

脳のしくみ―ここまで解明された最新の脳科学 (ニュートンムック Newton別冊)

菅野恭子


 1冊読了。


 76冊目『リシバレーの日々 葛藤を超えた生活を求めて』菅野恭子〈かんの・きょうこ〉(文芸社、2003年)/昨日読了。飛ばし読み。著者は『ザーネンのクリシュナムルティ』を翻訳したギーブル恭子である。インドのクリシュナムルティスクール、リシバレー校の訪問記である。まあ酷い代物だ。人格障害傾向が顕著だ。子供みたいにやたらと好き嫌いを述べ、いきなり夏目漱石をこき下ろしたりしている。読むに値するのはいくつか紹介されているクリシュナムルティのエピソードのみ。これでクリシュナムルティ本は34冊読了。

「義(ただしい)」の語源


「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。


【『一日一書』石川九楊二玄社、2002年)】

一日一書

2010-05-23

『ブラッド・ダイヤモンド』エドワード・ズウィック監督


 以前から観たかった作品。帰省したところ何と実家にDVDがあった。僥倖(ぎょうこう)。ディカプリオが出演していることを知らなかった。女性ジャーナリストが登場したところで挫ける。ストーリーがもたついている上、場面展開が退屈過ぎる。


 ただ一つだけ素晴らしいのは、少年兵がつくられるまでのシーンだ。武器を持ってトラックで乗りつけた男達に部落が襲撃される。手足を鉈(なた)で切り落とされる。拉致(らち)された少年達は殺人を強要される。


 少なからず少年兵やシエラレオネの歴史に興味のある人であれば、一度は観ておくべきだろう。映画作品としては評価に値しないが、資料と考えればそれなりの価値はある。

 

ブラッド・ダイヤモンド [DVD] ブラッド・ダイヤモンド [Blu-ray]

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D

現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

 文明の進歩は人間を自然から隔絶した。密閉された住居、快適な空調、加工された食品、電線や電波を介したコミュニケーション、情報を伝えるメディア……。文明の進歩は人間を人間からも隔絶してしまったようだ。


「自然との正しい関係とは、実際は何を意味するのでしょう?」という質問にクリシュナムルティが答えた一部を紹介しよう――


 私たちはけっして木を見つめません。あるいは見つめるとしても、それはその木陰に坐るとか、あるいはそれを切り倒して木材にするといった利用のためです。言い換えれば、私たちは功利的な目的のために木を見つめるということです。私たちは、自分自身を投影せずに、あるいは自分に都合のいいように利用しようとする気持ちなしに木を見つめることがけっしてないのです。まさにそのように、私たちは大地とその産物を扱うのです。大地への何の愛もなく、あるのはただその利用だけです。もし人が本当に大地を愛していたら、大地の恵みを節約して使うよう心がけることでしょう。つまり、もし私たちが自分と大地との関係を理解するつもりなら、大地の恵みを自分がどう使っているか、充分気をつけて見てみるべきなのです。自然との関係を理解することは、自分と隣人、妻、子供たちとの関係を理解することと同じくらい困難なことなのです。が、私たちはそれを一考してみようとしません。坐って星や月や木々を見つめようとしません。私たちは、社会的、政治的活動であまりにも忙しいのです。明らかに、これらの活動は自分自身からの逃避であり、そして自然を崇めることもまた自分自身からの逃避なのです。私たちは常に自然を、逃避の場として、あるいは功利的目的のために利用しており、けっして立ち止まって、大地あるいはその事物を愛することがありません。自分たちの衣食住のために利用しようとするだけで、けっして色鮮やかな田野をを見て楽しむことがないのです。私たちは、自分の手で土地を耕すことを嫌がります──自分の手で働くことを恥じるのです。しかし、自分の手で大地を扱うとき、何かとてつもないことが起こります。が、この仕事は下層階級(カースト)によってのみおこなわれます。われわれ上流階級は、自分自身の手を使うには偉すぎるというわけです! それゆえ私たちは自然との関係を喪失したのです。(プーナ、1948年10月17日)


【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1993年)】


 木を見る。比較することなくただ木を見つめる。葉や花に捉われることなく全体を、木の存在そのものを見る。そこに「生の脈動」がある。人が木を見つめ、木が人を見返す。ここに関係性が生まれる。私も木も世界の一部だ。そして世界は私と木との間に存在している。私は木だ。私は木と共に【在る】。


 そんなふうに物事を見ることは殆どない。「見慣れる」ことで我々は何かを見失っているのだろう。「見える」のが当たり前と思い込んでいるから、「生きる」ことも当たり前となってしまう。このようにして二度と訪れることのない一瞬一瞬を我々はのんべんだらりと過ごしているのだ。


「明日、視力が失われる」となれば、我々の目は開くことだろう。「余命、3ヶ月です」と診断されれば、我々は真剣に生きるのだろう。


 生きるとは食べることでもある。生は他の生き物の死に支えられている。生には動かし難い依存性が伴う。そして食べることは残酷なことでもある――

 美味しい肉に舌鼓を打つ時、屠(ほふ)られた動物の叫び声が我々の耳に届くことはない。欲望はあらゆるものを飲み込む。動物に課された理不尽な運命は易々(やすやす)と咀嚼(そしゃく)される。我々が気にするのは値段だけだ。家畜が屠殺(とさつ)される瞬間に思いを馳せることもない。


 文明は死を隠蔽(いんぺい)する。そして死を見つめることのない生は享楽的になってゆく。社会は経済性や功利主義に覆われる。


 生は交換することができない。資本主義経済はあらゆるものを交換可能な商品にした。現代人の価値観は「商品価値」に毒されている。出自や学歴、技術や才能で人間を評価するのは、人間が商品となってしまったためだ。だからこそ我々は「労働力」と化しているのだ。


「あの花を見よ」とクリシュナムルティは言う。花が見えなければ、自分の心も見えない。集中するのではなく、注意深く見つめる。「見る」が「観る」へと昇華した瞬間に世界は変容するのだろう。

瞑想と自然

ゴールドマン・サックスの歴史/『ゴールドマン・サックス 世界最強の投資銀行』リサ・エンドリック

ゴールドマン・サックス―世界最強の投資銀行


「世界最強の投資銀行」と呼ばれ、金融市場で絶大な力をふるうウォール街の名門投資銀行、ゴールドマン・サックス。だが、そのビジネスの実態は、非公開のパートナーシップ経営という秘密のベールに包まれ、今日までほとんど知られることはなかった。本書は、自らヴァイス・プレジデントとして同社に勤務した著者が、創業以来130年にわたる波瀾万丈の企業ドラマを再現するとともに、その驚異的な成功の秘訣を明らかにするものである。日本版金融ビッグバンの始動、自己責任による資産運用の時代を迎え、いま日本で最も注目される国際的投資銀行の歴史と実力を初めて明かす注目の書。

実は信じられないくらい安い「物」の原価をバラしちゃいます


 これには驚いた――


“《MRI・CT・レントゲンの原価》定価の半値×0.8×0.7”


 例えば、定価が1億とすると、原価は何と2800万円って事ですね♪ これは昔よりの仕組みで、購入担当者を、院長・事務長などにこれだけ値引きしたと胸を晴らす為、メーカーが考え出した方法で、定価をかなり高く設定しているらしいです。


NAVERまとめ

直感的思考のスピード


 直感的思考はしっかりした推理というフィルターを使わずに、無意識のうちに私たちを先導する。というより、スピードの秘密は、ほかならぬその無意識にある。脳の深いところにある扁桃体(へんとうたい)は、たとえば、ある人の顔に表われた恐怖のサインを、30ミリ秒という速さで捉える。


【『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ/泉典子訳(紀伊國屋書店、2009年)】

世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)

GDPとGNPの違い


 日本人歌手のアメリカ公演

 ……日本のGNPには入るが、日本のGDPには入らない。(アメリカのGDPに入る)


 アメリカ人歌手の日本公演

 ……日本のGDPには入るが、日本のGNPには入らない。(アメリカのGDPに入らない)


【『図解雑学 マクロ経済学』井堀利宏〈いほり・としひろ〉(ナツメ社、2002年)】

図解雑学 マクロ経済学 (図解雑学シリーズ)

2010-05-22

外交官が描いたインドの現実/『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ


 2009年のアカデミー賞で8部門を受賞した映画『スラムドッグ$ミリオネア』の原作。これを書いたのがインドの外交官というのだから驚く。


 書き出しはこうだ――


 僕は逮捕された。クイズ番組で史上最高額の賞金を勝ちとったのが、その理由だ。

 警察は昨日の夜更けにやってきた。野良犬さえねぐらに帰るほどの時間だった。彼らはドアをけやぶり、僕に手錠をかけ、赤いランプが光るジープまで歩かせた。


【『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ:子安亜弥〈こやす・あや〉訳(ランダムハウス講談社、2006年/ランダムハウス講談社文庫、2009年)以下同】


 取り調べを担当した刑事が息巻く――


 ゴードボーレーは愛想笑いを浮かべて言う。「お任せください。この小僧を締め上げてやって、マハトマ・ガンジーの暗殺だって白状するぐらい素直にしてやりますよ」


 貧困は不正の湖に浮かんでいる。案の定、少年ラムは拷問される。自白を引き出すのはただ単に時間の問題と化す。暴力は自由だ。望むものを手に入れることができるのだから。「自由の国アメリカ」は「自由に暴力を振るえる国」という意味に他ならない。


 日本における貧困は相対的レベル(=心理的レベル)にとどまっているが、インドのスラム街においては生き死にがかかった次元となる。だから生きるためとあらば何でもする。これが犯罪の温床と化すわけだ。犯罪といっても日本人の想像を絶するようなものもある。

 あるいはこうだ――


パンジャブのドーラ王の神殿あたりにはたくさんいるんだ。“ラット・チルドレン”(ドブネズミの子)って呼ばれてる」

 見世物にするために、生後間もない頃から孫悟空のような輪を頭にはめられる子供達がいる。生き延びるための幼児虐待。


 インドの現実が物語の細部を鉄筋のように支えている。更に成長譚でありながらも、そこここに死の気配が漂っている――


 でも僕は、ダラヴィでは少なくとも一人ぼっちではない。僕と同じような100万人の人間が、この200ヘクタールの三角地帯で暮らしている。都会のすきまのじめじめした場所で、人々は動物のように生き、虫のように死んでいく。


 クイズで獲得した10億ルピーの賞金は単なる成功を象徴しているのではない。宗教対立、貧困、暴力、不正といったマイナス価値を反転させる「相対性の仕掛け」なのだ。その意味で相反する価値観を見事に描き出したモノクロ写真のような秀作となっている。

ぼくと1ルピーの神様 ぼくと1ルピーの神様 (ランダムハウス講談社文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)


スラムドッグ$ミリオネア [DVD]


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第1四半期の米住宅ローン、差し押さえ率が過去最悪更新=MBA


 米抵当銀行協会(MBA)が19日公表した2010年第1・四半期の住宅ローンに関する調査によると、差し押さえ率が09年第4・四半期の4.58%から4.63%に悪化し、過去最悪となった。前年同期は3.85%だった。

 住宅差し押さえ、もしくは1回以上のローン延滞となっている住宅ローンの割合は、季節調整前で14.01%となり、過去最悪だった第4・四半期の15.02%から若干改善した。

 ローン延滞率(季節調整済み)は10.06%で、第4・四半期の9.47%、前年同期の9.12%から悪化した。 

 MBAによると、延滞率は通常第4・四半期にピークに達し、第1・四半期に減少する傾向にあることから、調整済みデータに関しては実質的な改善の度合いを測るのが難しく、慎重にみる必要があるという。

 調整前の延滞率は、第4・四半期の10.44%から9.38%に低下した。

 差し押さえ手続きに入ったローンの比率は1.23%で、第4・四半期の1.20%からはやや悪化したが、前年同期の1.37%からは改善した。


ロイター 2010-05-20

2010-05-21

アンドレ・コント=スポンヴィル


 1冊読了。


 75冊目『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル/小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)/クリシュナムルティ法華経とするならば、無量義経に位置する作品である。クリシュナムルティの言葉もいくつか引用されている。神が人間を創ったのではなく、人間が神を創造したのだ。人類最大の詐欺行為といっていいだろう。対キリストチーム戦における一番打者に指名したい。欧米で本書が広く流布することを切望する。

2010-05-20

歴史を貫く物理法則/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 べき乗(冪乗)とは、ある数字を掛け続ける操作のことをいう。累乗(るいじょう)といった方がわかりやすいだろう。様々な現象にべき乗の法則があるそうだ。


 地震の代わりにジャガイモの破片を使うと、グーテンベルク=リヒターの法則と同様の、特徴のない曲線が得られる。ブドウの種くらいの微小な破片は膨大な数あり(ママ)、破片が大きくなっていくにつれて、その数は徐々に少なくなっていく。実際注意深く調べていくと、破片の数は、大きさに応じてきわめて規則正しく減少していくことが分かる。重さが2倍になるごとに、破片の数は約6分の1になるのだ。グーテンベルクとリヒターが発見したべき乗則と同様のパターンである。一つ違うのは、重さが2倍になるごとに、この場合には6分の1になるが、地震の場合には4分の1になるという点である。


【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン/水谷淳訳(ハヤカワ文庫、2009年/『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』早川書房、2003年を改題)以下同】


 ジャガイモを硬い壁や床に叩きつけると粉々になる。何個ぶつけようと大きなかけらよりも小さなかけらの方が多い。同様に大きな地震よりも小さな地震の方が数は多い。これがべき乗になっているというのだ。


 世界各国が地震予知のために巨額の予算を投じているが、今まで予知できた例(ためし)はない。そもそもどうしてプレート(岩盤)が動くのかが判明していないのだ。最近の研究では宇宙線がトリガーになっているという説もある。


 本書で明らかにされているのは、「大地震の後は、しばらく大地震がこない」という事実のみである。


 あなたがナシの大きさだったときには、自分と同じ重さの破片一つに対して、その半分の重さの破片は約6個あった。ところが自分が縮んだ後でも、まったく同じ規則を発見する。再び、自分と同じ重さの破片一つあたり、その半分の重さの破片が約6個あるのだ。どんな大きさでもまわりの景色はまったく同じに見えるので、もし自分を何回縮めたか忘れてしまうと、まわりを見ただけでは自分の大きさがまったく分からなくなってしまう。

 これがべき乗則の【意味】するところである。


 大きさこそ違っても、同じ世界が広がっているというのだから不思議な話だ。多分、世界は入れ子構造になっているのだろう。マトリョーシカ人形のように。


 人それぞれの幸不幸もきっと同じような構造になっているに違いない。大きさの異なる幸不幸が一人ひとりの人生に彩(いろどり)を添えているのだろう。


 ここからが本書の白眉となる。物理世界に適用できるべき乗則が果たして人間の歴史にも応用可能なのかどうか?


「応用可能」というのが本書の答えである。つまり歴史を動かしているのは偉人や悪人といったパーソナルな要因ではなく、ある方向に時代が揺り動かされる時に臨界点を左右する人物が登場するということになる。


 詳細についてはまた後日。それなりの科学知識が必要で、一度読んだだけでは中々理解が深まらない。それでも面白い。

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

V・E・フランクル、ダン・アリエリー


 北海道にて2冊読了。


 73冊目『それでも人生にイエスと言うV・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)/今月後半の課題図書。講演のため読みやすい。地獄の深淵を知った人間ならではの深い洞察が光る。傑作といってよいのだが、それでも体験に束縛された者の限界性が見えてしまう。これが阿羅漢(あらかん)と仏との違いである。


 74冊目『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー/熊谷淳子訳(早川書房、2008年)/ノリがスタンレー・ミルグラムに似ている。面白主義といったところ。経済学というのは合理性に貫かれている。市場原理が適正価格を決め、いざとなれば神の手が支えてくれることになっている。一方、行動経済学は人間という要素に着目し、心理学的洞察を加えることで、「不合理な行動」を明かしている。最近、マクロ経済学の本を2冊ほど読んだがいずれも挫折した。とにかくツルツルしていてつまらない。経済学者の手にかかれば、衝動買いすら合理的に説明するのだろう。マッテオ・モッテルリーニよりもこちらがオススメ。

2010-05-19

2010-05-16

海賊リスクにかかるコスト


 とはいえ、保険会社が注目するには十分な金額だ。海賊行為が多発するようになる以前は、戦争のリスク(戦時下は海賊が減少する)や、誘拐、身代金などについて英ロイズなど海上保険業者が顧客から保険料を徴収できる理由は(確率が低すぎて)見あたらなかった。だが現在、船会社は自社の船舶が襲撃される約1%の可能性に備えて、年間およそ4億ドルの支払いを余儀なくされている(ソマリア沖を航行する年間2万隻のうちざっと200隻が襲撃を受ける)。つまり一度の航海につき、平均2万ドルの保険料コストが余分にかかっているということだ。


Forbes 2010-04-15

2010-05-14

高橋洋一、竹内薫


 1冊読了。


 72冊目『鳩山由紀夫の政治を科学する 帰ってきたバカヤロー経済学』高橋洋一、竹内薫(インフォレスト、2009年)/理系出身の二人が理系宰相・鳩山由紀夫のオペレーションズリサーチを読み解く対談。非常にわかりやすい。竹内の発言が「竹」となっているのに、高橋は「先」となっている。先生役ということなのだろうがへりくだり過ぎ。高橋洋一は優秀な官僚を体現していて小気味いいほどだ。そして元官僚は完全に自省を欠いていて、明らかに人格障害傾向が窺える。政策オタクといった印象を受けた。

2010-05-13

「事実をつかまえ、他者とのあいだで自己実現し、未来を手探りするためのことば」

“事実をつかまえ、他者とのあいだで自己実現し、未来を手探りするためのことば”、そういうことば能力でなかったら、どんなに豊富な語彙(ごい)の駆使であろうと、浅くむなしい。


【『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴(思想の科学社、1975年/ちくま文庫、1988年)】

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ガブリエル・ガルシア=マルケス、マッテオ・モッテルリーニ、井堀利宏、V・E・フランクル、朝倉慶、三枝充悳、岸田秀、クリシュナムルティ、デビッド・ボーム


 やっとつながった。


 挫折35『百年の孤独ガブリエル・ガルシア=マルケス鼓直〈つつみ・ただし〉訳(新潮社、1999年/改訳版、2006年)/満を持して臨んだが呆気なく挫ける。10ページほどで。「翻訳に時間がかかった」ことに問題がありそうだ。


 挫折36『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ/泉典子訳(紀伊國屋書店、2009年)/著者が若いせいか文章が散漫。中途半端な雑学事典みたいになっている。30ページほどで挫ける。


 挫折37『図解雑学 マクロ経済学』井堀利宏〈いほり・としひろ〉(ナツメ社、2002年)/20ページほどで挫ける。マクロ経済学の勉強はあきらめた。


 68冊目『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録V・E・フランクル/霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1961年)/今月前半の課題図書。冒頭に70ページほどの「解説」があるのだがこれが噴飯物。ナチスへの憎悪を騒々しく煽っている。20代で読んだ時の衝撃的な感動はもうない。フランクルは精神分析医としての視点を確保することで、収容所体験を突き放して見つめることができた。水晶のように透明で硬質な文体もそこから生まれたのだろう。再読に値する本ではあるが、三度読むことはないだろう。


 69冊目『大恐慌入門 何が起こっているか? これからどうなるか? どう対応すべきか?』朝倉慶〈あさくら・けい〉(徳間書店、2008年)/一日で読み終えた。CDSクレジット・デフォルト・スワップ)の増殖と膨張が必ずや世界を大恐慌に陥れると力説している。サブプライムローン問題やリーマンショックはそのイントロダクションに過ぎない。CDSは癌というよりも放射能に近い。先進国の政府は含み損を隠蔽するために税金をばらまいている。一つでも出たらアウトだそうだ。国家単位の経済が次々と連鎖して崩壊することになる。私の予想では今年の夏以降だ。


 70冊目『仏教と精神分析』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉、岸田秀〈きしだ・しゅう〉(小学館、1982年/第三文明レグルス文庫、1997年)/一日で読了。いやあ面白かった。あの饒舌な岸田秀が三枝充悳の前では借りてきた猫みたいになっている。三枝充悳恐るべし。読んだのは二度目だが大変勉強になった。


 71冊目『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』(JCA出版、1993年)/夜中に目が覚めて、何となく手に取りそのまま読了。その後再び眠りに就く。対話のライブ感と緊張感がよく表れている。言わば、「悟vs知」。まるで、ブッダと舎利弗(しゃりほつ)の対話を見ているような気分になってくる。JCA出版のクリシュナムルティ作品は入手が難しい。クリシュナムルティ本はこれで33冊読了。

2010-05-12

接続不能


 ウーム、困った。接続業者を変更したところ、プロバイダーの不手際でインターネット回線が断たれてしまった。9日からなんで、もう3日目。「早くても金曜日になる」とオペレーターに言われたので、責任者に替わらせ徹底抗戦。もちろん私の勝ちだ。先方は誤りを認めている。だがつながらないもんはつながらない。金曜日には帰省するので、それまで更新できない可能性あり。この間の注文については、来週の木曜日以降の発送となるゆえ、何卒ご理解を賜りたい。

2010-05-09

スーザン・ソンタグ、石浦章一、西岡研介、エルンスト・フリードリッヒ、J・クリシュナムルティ


 2冊挫折、3冊読了。


 挫折33『この時代に想う テロへの眼差し』スーザン・ソンタグ/木幡和枝訳(NTT出版、2002年)/「サラエヴォゴドーを待ちながら」の途中で挫ける。100ページまで辿り着けず。大江健三郎との往復書簡も収められているが興味を掻き立てられる内容ではない。


 挫折34『遺伝子が明かす脳と心のからくり 東京大学超人気講義録』石浦章一(羊土社、2004年)/十数ページで挫ける。大学の講義というよりは、まるでセミナーみたいな調子だ。教育的要素が殆ど感じられない。知に溺れているような印象を受けた。


 65冊目『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』西岡研介(講談社、2007年)/衝撃のノンフィクション。JRの労働組合革マル派が支配しているという。トップに君臨しているのは松崎明という革マル派の最高幹部。組合費を自由勝手に使い、ハワイや沖縄に別荘を所有している。職場でのいじめ、組織的に行われる盗聴、敵対するJR幹部は鉄パイプで滅多打ちにされ、死亡した人々もいる。なぜ野放しにされてきたのかが理解に苦しむ。


 66冊目『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編/坪井主税、ピーター・バン・デン・ダンジェン訳(龍溪書舎、1988年)/第一次世界大戦の写真集。不鮮明なのがせめてもの救いだ。遺体の数々が時を超えて沈黙を伝えている。生き残った「戦争の顔」は既に顔という形をとどめていない。鼻、下あご、歯茎、舌を失った顔、また顔面の真ん中が窪んでいる男もいる。生き残った者は呻(うめ)き声を上げている。死んでも地獄、生き残っても地獄という戦争の実相が噴出している。そして、この写真集をもってしても人類に戦争をやめさせることはできなかった。つまり、写真に写っているのは私でありあなたであるのだ。


 67冊目『最後の日記』J・クリシュナムルティ/高橋重敏訳(平河出版社、1992年)/口述した録音テープから起こされた日記である。『生と覚醒のコメンタリー』と同じ形式で、冒頭に美しい風景描写が配され、過去のやり取りが綴られている。口述とは思えない完成度の高さである。1983年〜84年にかけて録音されているので、逝去する2〜3年前の時期に当たる。他のテキストに比較すると淡白な印象を受けるが、その分余韻が深い。クリシュナムルティ関連は32冊目。

『廃市・飛ぶ男』福永武彦(新潮文庫、1971年)


廃市・飛ぶ男


 誇り高い姉と、快活な妹。いま、この二人の女性の前に横たわっているのは、一人の青年の棺。美しい姉妹に愛されていながら、彼はなぜ死なねばならなかったのか……? 夏雲砕ける水郷に茜の蜻蛉の舞い立つとき、ひとの心をよぎる孤独と悔恨の影を、清冽な抒情に写した秀作「廃市」。ほかに「飛ぶ男」「樹」「風花」「退屈な少年」「影の部分」「未来都市」「夜の寂しい顔」の7編を併録。

飢えと文学


 人間を人間ならざる者としてまなざす他者の視線が、人間の存在の深奥においてその人間性を蝕むのなら、飢えて死んでいくアフリカの子どもたちに文学は無力である。すなわち彼らに文学は意味をもたないと見なすこと、人間らしく生きることが奪われているからこそ彼らの魂が何にも増して文学を希求しているのだということを否定することは、彼らの人間性それ自体を否定することにほかならず、極言すればその視線のなかで、アフリカの子どもたちはすでに人間として殺されているとは言えまいか――。


【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年)】

アラブ、祈りとしての文学

2010-05-08

地獄と痛み


 体内に地獄を感じない者には、魂の安息を求める資格がない。

 良心に痛みを覚えない者には、残りの生命を謳歌する権利がない。


【『鉛のバラ』丸山健二(新潮社、2004年)】


鉛のバラ

経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 戦争の形は軍事に限らない。経済的に、学術的に、文化的に、心理的に行われているのだ。戦争の本質は「システマティックな侵略」にある。


 エコノミック・ヒットマンという職業があるそうだ。ヒットマンとはご存じのように「狙撃手=殺し屋」を意味する言葉だ。つまり他国の経済を狙い撃ちすることを目的としている。ジョン・パーキンスはエコノミック・ヒットマンであった。彼は悔恨の中から本書を執筆し、自らの体験を赤裸々に綴っている。


 エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大な金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。彼らは世界銀行や米国国際開発庁(USAID)など国際「援助」組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族の懐(ふところ)へと注ぎこむ。その道具に使われるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。彼らは帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化が進む現代では、その存在は質量ともに驚くべき次元に達している。

 かつて私は、そうしたEHMのひとりだった。


 1982年、私は当時執筆していた『エコノミック・ヒットマンの良心』(Conscience of an Economic Hit Man)と題した本の冒頭に書いた。その本は、エクアドルの大統領だったハイメ・ロルドスと、パナマの指導者だったオマール・トリホスに捧げるつもりだった。コンサルティング会社のエコノミストだった私は、顧客である二人を尊敬していたし、同じ精神を持つ人間だと感じてもいた。二人は1981年にあいついで飛行機の墜落で死亡した。彼らの死は事故ではない。世界帝国建設を目標とする大企業や、政府、金融機関上層部と手を組むことを拒んだがために暗殺されたのだ。私たちEHMがロルドスやトリホスのとりこみに失敗したために、つねに背後に控えている別種のヒットマン、つまりCIA御用達のジャッカルたちが介入したのだ。


【『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス/古草秀子〈ふるくさ・ひでこ〉訳(東洋経済新報社、2007年)】


 白羽の矢が立てられる国は石油などの天然資源が豊富な発展途上国である。ここにIMFや世界銀行などから資金が流れる仕組みをつくった上で、開発援助という名目のもとにアメリカ企業が参入する手筈を整える。実際のマネーはアメリカ国内の金融機関同士で完結する。種を明かしてしまえば、懐(ふところ)から鳩を出すよりも簡単な話だ。


 西水美恵子の著作を読んだ人は必ず本書を読むべきだ。

 彼女が何も知らなかったのか、あるいは知っていながら広告塔を買って出たのかそれはわからない。だが本書を読めば、西水が描いたのは世界銀行のわずかに残された美しい部分であることがわかる。大体、「世界」だとか「国際」と名のつく団体は、おしなべて先進国の論理で運営されているものだ。


 私はジョン・パーキンスが嫌いだ。この人物は吉川三国志劉備(りゅうび)と同じ匂いがする。弱さを肯定する延長線上に善良さを置いている節がある。「告白すれば罪が赦(ゆる)される」というキリスト教的な欺瞞を感じてならない。だから文章もそこそこ巧みで読ませる内容にはなっているものの、底の浅さが目につく。煩悶(はんもん)、懊悩(おうのう)、格闘が足りないのだろう。私を魅了するだけの人間的な輝きが全く感じられなかった。


 大体最初に告白本を出版しようとした際に、様々な圧力を掛けられたにもかかわらず、その後はテレビにまで出演しているのもおかしな話だ。彼の話が正真正銘の事実であるなら、とっくに消されているのではあるまいか。「よもや、エコノミック・ヒットマンとして新しいステージの仕事をしているんじゃないだろうな」と疑いたくもなる。


 暴力は様々な形で存在する。世界中の貧困が放置されているのも暴力の一つの形に他ならない。多様な暴力の形態を知るために広く読まれるべき一冊である。読み物としては文句なしに面白い。


 尚、既に紹介したが、ジョン・パーキンスは『Zeitgeist Addendum/ツァイトガイスト・アデンダム』にも登場している。

エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ

貿易収支は通関統計


 公と断っている理由は「貿易収支は通関統計、すなわち税関を通る金額だから」にあります。密輸や個人の持込、あるいはアメリカの貿易収支のように軍需関連を省く場合にはこの数値には出てきません。


【『矢口新の相場力アップドリル【為替編】』矢口新〈やぐち・あらた〉(パンローリング、2004年)】

矢口新の相場力アップドリル 為替編

新訳 『生の短さについて 他二篇』セネカ/大西英文訳


生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)


 生は浪費すれば短いが、活用すれば十分に長いと説く『生の短さについて』。心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く『心の平静について』。快楽ではなく、徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く『幸福な生について』。実践を重んじるセネカ(前4頃‐後65)の倫理学の特徴がよく出ている代表作3篇を収録。新訳。

2010-05-07

アイコンとは


【アイコン】Icon


(中略)このIconなる英語は、実は、「イコン」すなわち、ギリシア正教でいうところの「聖母像や殉教者の肖像画」と語源を同じくしている。

 つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。

 であるからして、漢字および仏教文化圏に住む者の一人として、私は、思い切って「アイコン」を「曼陀羅」と訳してみたい衝動に駆られるのであるが、そういうことをして業界に宗教論争を持ち込んでも仕方がないので、このプランはあきらめよう。

 さて、「イコン」は、聖書主義者あるいはキリスト教原理主義者の立場からすると、卑しむべき「偶像」である。

 彼らは、イコンに向かってぬかづいたりする人間を「アイコノクラスト(偶像崇拝者)」と呼んで、ひどく軽蔑する。なぜなら、偶像崇拝者は、何物とも比べることのできない絶対至高の存在である神というものを、絵や彫像のような卑近な視覚対象として描写し、そうすることによって神を貶め、冒涜しているからだ。しかも、偶像崇拝者は、もっぱら神の形にだけ祈りを捧げ、神のみ言葉に耳を傾けようとしない愚かな人間たちだからだ。

 ……ってな調子で、融通のきかない原理主義の人々はコ難しいことを言っているが、一般人は、ばんばん偶像崇拝をしている。

 結局、偶像は、迷える仔羊たちに「神」を実感させる道具として有効なのだ。というよりも、形を持たないものに向かって祈ることは、並みの人間にはなかなかできないことなのである。


【『コンピュータ妄語録』小田嶋隆ジャストシステム、1994年)】

コンピュータ妄語録

計篇


 作戦を「謀」(はかりごと)と言うが如し。


 計とは、はかり考える意味。開戦の前によくよく熟慮すべきことを述べる。(「計篇第一」)


【『新訂 孫子金谷治〈かなや・おさむ〉訳注(岩波文庫、2000年)】

孫子 (ワイド版岩波文庫) 新訂 孫子 (岩波文庫)

(※左がワイド版、右が文庫本)

2010-05-06

我慢をしたかしないかということの差


 つらい修業といったって何年もつづくわけではないのです。長い人生のうちにほんの5年か6年、あるいは7年か8年、こういう思いをするのは当たり前だし、私なんか6年ちょっとの修業のおかげで、それ以後、自分が生活をし、女房、子供を養い、さらに私のお袋まで背負っていけるわけですから。そして振り返ってみますと、つらかったなんていうことも、考えてみるとそれほど大したことではないのです。しかも、わずか6年ちょっとの修業で、死ぬまでの間、おまんまがいただけるなんていうのは、考えてみれば、ほんとに安い修業ですし、短い修業だったと思います。(中略)ですから、そういうことを考えますと、我慢をしたかしないかということの差が、その人のあとあとの人生の勝負にずいぶん影響をおよぼすんじゃないかと思うのです。


【『神田鶴八鮨ばなし』師岡幸夫〈もろおか・ゆきお〉(草思社、1986年/新潮文庫、2003年)】


神田鶴八鮨ばなし 神田鶴八鮨ばなし (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-05-05

ゲーデルを称えるオッペンハイマー


ゲーデルの仕事は、数学的議論の論理的構造をはかりしれぬほど深め、また豊かにしたのみならず、人間の理性一般における限界というものの役割を明らかに示したのです」。

 これは1966年4月22日、オハイオ州立大学でゲーデルの60歳を祝う――日本でいえば還暦祝い――学会が開かれた際、当時プリンストン高等学術研究所の所長をしていたオッペンハイマーが挨拶に立って、ゲーデルの業績を称えた言葉です。ゲーデル不完全性定理については、いろいろな人がさまざまな賛辞を贈っていますが、このオッペンハイマーの言葉はその中でもおそらく、もっとも有名な歴史的名文句といっていいでしょう。


【『ゲーデル・不完全性定理 “理性の限界”の発見』吉永良正(講談社ブルーバックス、1992年)】

ゲーデル・不完全性定理―

2010-05-04

ギャンブルと確率


 賭ける対象が馬であろうと、スポーツの試合であろうと、

 カジノのゲームであろうと、窓ガラスを伝い落ちる水滴であろうと、

 ギャンブラーとは不利な確率に賭ける人間である。

 それに対し、冷静な状況判断のできるポーカー・プレーヤーは、

 有利な確率に賭ける。

 ギャンブラーがロマンティストだとすれば、

 ポーカー・プレーヤーはリアリストだといえるだろう。

  ――アンソニー・ホールデン(ポーカー・プレーヤー)


 ギャンブルにのめりこんだ人間は、たいていの場合、

 勝負がどれだけあるかを考えられなくなってしまう。

 確率の計算法を生んだのはギャンブルであり……

 それゆえ、人はギャンブルを理解しようと努力すべきであるが、

 その理解は哲学的な意味においてなされるべきものであり、

 低劣な欲望とは無縁でなければならない。

  ――ルイ・バチャリエ(数学者)

数学的にありえない〈上〉 (文春文庫) 数学的にありえない〈下〉 (文春文庫)

溜飲の下がる味


「お前、溜飲の下がる味合を知ってるかえ、今の中(うち)、じっとして、思う存分、踏んだり蹴ったりされていなくちあその味合がねえじあねえか、なあに、なにをどうされたって、高々20年か30年の辛抱だ、今にこの勝麟太郎があ奴らの足許から、いやっという程引っくり返して泣きべそをかかせてやるよ」


【『勝海舟子母澤寛(日正書房、1946年/新潮文庫、1968年)】

勝海舟 (第1巻) (新潮文庫) 勝海舟〈第2巻〉咸臨丸渡米 (新潮文庫) 勝海舟 (第3巻) (新潮文庫)


勝海舟 (第4巻) (新潮文庫) 勝海舟〈第5巻〉江戸開城 (新潮文庫) 勝海舟〈第6巻〉明治新政 (新潮文庫)

2010-05-03

水崎節文、森裕城


 1冊挫折。


 挫折32『総選挙の得票分析 1958-2005』水崎節文〈みずさき・ときふみ〉、森裕城〈もり・ひろき〉(木鐸社、2007年)/貴重な研究なのだろうが、如何せん読み物としては全く面白みがない。パラパラとページをめくっただけで挫ける。

アンテナが林立し始めた1960年代


 60年代の初めマルセーユから貨客船に乗り、約50日かけてドイツ人の妻を両親に紹介する意図でフランスから帰国した私は、船が神戸の港に近づくに連れ、かなたの町が銀色にきらきら光り輝いている風景に肝を潰した。最初、その正体がまったくわからなかった。真昼間なのに、まるでクリスマスのイルミネートのように飾られて見えたのだ。

 船が更に日本に接近するに従い、それが各家庭の屋根に取り付けられていたテレビのアンテナが、太陽に反射している光だと知り、驚きは一種の恐怖に変わった。

 それまで私の住んでいた南フランスの大学町、モンプリエで、テレビを持っている家庭を私は当時一軒も知らず、見たこともなかった。人間の視覚を刺激する動く映像は、映画だけだった。ところが、上陸した神戸から東京へ帰る列車の線路沿いの家々には、一軒の例外もなく、このテレビのアンテナが立っていた。それが、石のしっかりした建築物を5年近く見慣れていた感覚を破壊する貧弱で薄汚い木造家屋とのアンバランスへの強烈な違和感とともに、私の恐怖心を一層強めた。「異常」を察知する恐怖だった。本能的ともいえる嫌悪感を伴う恐怖だった。そのときは、まさか自分がそのテレビの世界にずっぽり身を沈めることになるなど、想像もしていなかった。


【『おテレビ様と日本人』林秀彦(成甲書房、2009年)】

おテレビ様と日本人

自負と誇り


 おのれの過去にかかわる自負や誇りにこだわっていたら、明日、というより生涯を貫く自負と誇りを失うことになる。


【『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔世界文化社、1992年)】

彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論

2010-05-02

竹田青嗣


 1冊読了。


 64冊目『現代思想の冒険竹田青嗣〈たけだ・せいじ〉(毎日新聞社、1987年/ちくま学芸文庫、1992年)/デカルト、カント以降の哲学を俯瞰する内容。現代思想の変遷(へんせん)がわかりやすく紹介されている。どこを読んでも閉塞感が漂っている。哲学者とは巨大な触覚を持つタイプの人々で、感受性が敏感過ぎて一歩も動いていないように見受けられる。クリシュナムルティを知ってしまった後では退屈な議論にしか思えない。彼等は考えるよりも、飢餓や貧困に我が身をさらすべきだろう。竹田の思考もタコつぼにはまっているようにしか見えない。私にとって哲学とは過去の遺物であることがよくわかった。わかりにくい言葉、伝わらない言葉には力がない。真理があるとすれば、それはもっとシンプルで単純なものだろう。

第1四半期のスペイン失業率、20.05%に上昇=新聞


 スペインの日刊紙ABCによると、第1・四半期の同国の失業率は20.05%(461万人)だった。同紙は、これは30日に発表予定の公式統計で、26日に統計局のホームページに誤って数分間掲載されたと伝えている。

 ロイター調査では19.6%と予想されている。

 昨年第4・四半期の失業率は18.8%だった。


ロイター 2010-04-27

サラエヴォ紛争を生きた少女


「戦争が始まって一年半の間が、人生最悪の時だったわ。私は家から一歩も外へ出られなかった。自分の部屋にさえ危険で入れなかった。私の家ではトイレと廊下が一番安全だったから、そこで一か月も過ごしたの。水も電気もなくって、大切な友人が何人も死んで……。精神的にもほんとうにつらかった」(2年半をサラエボで過ごしたサビナ・タビッチ 17歳)


【『失われた思春期 祖国を追われた子どもたち』堅達京子〈げんだつ・きょうこ〉(径書房、1994年)】

失われた思春期 祖国を追われた子どもたち

静かな配慮


 ひと月ほどたって、籍をいれたよ、その報告を聞かされた際も、そうか、と答え、なにもたずねはしなかった。こちらから話題を変えた。するとふいに柿島がいったのだ。堀江、きみは人のこころがわかる人間だな。私は聞かなかったふりをして世間話をつづけた。


【『名残り火 てのひらの闇II』藤原伊織文藝春秋、2007年)】

名残り火―てのひらの闇〈2〉 (文春文庫)

2010-05-01

世界は月から上と下の二つに分かれていた


 前年より微分積分の核心にほぼ到達していたニュートンは、ウールズソープ村に帰省するやいなや月の運動の解明にとりかかった。当時まだ支配的だったアリストテレス的自然哲学では、世界を月より上と下の2領域に分け、それぞれが異なる原理で動いていると考えていた。


【『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦(新潮選書、2002年/文春文庫、2008年)】

天才の栄光と挫折―数学者列伝 (文春文庫)

論理の限界/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 人は自転車に乗れるが、どうやって乗っているのかは説明できない。書くことはできるが、どうやって書いているのかを書きながら解説することはできない。楽器は演奏できても、うまくなればなるほど、いったい何をどうしているのか説明するのが困難になる。


【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ/柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】


「論理の限界」、「言葉の限界」を見事に言い当てている。固有の経験を論理化することはできない。人間が持つコミュニケーション能力は無限の言葉でそれを相手に伝えようとしてきた。哲学がわかりにくいのは経験を伴っていないためであろう。ただ、思考をこねくり回しているだけだ。一人の先達の「悟り」を言葉にしたのが宗教であった。とすれば、教義という言葉の中に悟りは存在しないことになる。そこで修行が重んじられるわけだが、今度はスタイルだけが形式化されて内実が失われてしまう。


 もっとわかりやすくしてみよう。例えば自転車を知らない人々に「自転車に乗る経験」を伝えることが果たして可能だろうか? ブッダやクリシュナムルティが伝えようとしたのは、多分そういうことなのだ。

ユーザーイリュージョン―意識という幻想

風評に惑わされる


「風評に惑わされるのは小者のすることだ。おまえはいつも人の話を半分も聞かずに拳を上げる」


【『時宗高橋克彦(NHK出版、2000年/講談社文庫、2003年)】

時宗〈巻の1〉乱星 (講談社文庫) 時宗〈巻の2〉連星 (講談社文庫) 時宗〈巻の3〉震星 (講談社文庫) 時宗〈巻の4〉戦星 (講談社文庫)