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2010-05-23

現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

 文明の進歩は人間を自然から隔絶した。密閉された住居、快適な空調、加工された食品、電線や電波を介したコミュニケーション、情報を伝えるメディア……。文明の進歩は人間を人間からも隔絶してしまったようだ。


「自然との正しい関係とは、実際は何を意味するのでしょう?」という質問にクリシュナムルティが答えた一部を紹介しよう――


 私たちはけっして木を見つめません。あるいは見つめるとしても、それはその木陰に坐るとか、あるいはそれを切り倒して木材にするといった利用のためです。言い換えれば、私たちは功利的な目的のために木を見つめるということです。私たちは、自分自身を投影せずに、あるいは自分に都合のいいように利用しようとする気持ちなしに木を見つめることがけっしてないのです。まさにそのように、私たちは大地とその産物を扱うのです。大地への何の愛もなく、あるのはただその利用だけです。もし人が本当に大地を愛していたら、大地の恵みを節約して使うよう心がけることでしょう。つまり、もし私たちが自分と大地との関係を理解するつもりなら、大地の恵みを自分がどう使っているか、充分気をつけて見てみるべきなのです。自然との関係を理解することは、自分と隣人、妻、子供たちとの関係を理解することと同じくらい困難なことなのです。が、私たちはそれを一考してみようとしません。坐って星や月や木々を見つめようとしません。私たちは、社会的、政治的活動であまりにも忙しいのです。明らかに、これらの活動は自分自身からの逃避であり、そして自然を崇めることもまた自分自身からの逃避なのです。私たちは常に自然を、逃避の場として、あるいは功利的目的のために利用しており、けっして立ち止まって、大地あるいはその事物を愛することがありません。自分たちの衣食住のために利用しようとするだけで、けっして色鮮やかな田野をを見て楽しむことがないのです。私たちは、自分の手で土地を耕すことを嫌がります──自分の手で働くことを恥じるのです。しかし、自分の手で大地を扱うとき、何かとてつもないことが起こります。が、この仕事は下層階級(カースト)によってのみおこなわれます。われわれ上流階級は、自分自身の手を使うには偉すぎるというわけです! それゆえ私たちは自然との関係を喪失したのです。(プーナ、1948年10月17日)


【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1993年)】


 木を見る。比較することなくただ木を見つめる。葉や花に捉われることなく全体を、木の存在そのものを見る。そこに「生の脈動」がある。人が木を見つめ、木が人を見返す。ここに関係性が生まれる。私も木も世界の一部だ。そして世界は私と木との間に存在している。私は木だ。私は木と共に【在る】。


 そんなふうに物事を見ることは殆どない。「見慣れる」ことで我々は何かを見失っているのだろう。「見える」のが当たり前と思い込んでいるから、「生きる」ことも当たり前となってしまう。このようにして二度と訪れることのない一瞬一瞬を我々はのんべんだらりと過ごしているのだ。


「明日、視力が失われる」となれば、我々の目は開くことだろう。「余命、3ヶ月です」と診断されれば、我々は真剣に生きるのだろう。


 生きるとは食べることでもある。生は他の生き物の死に支えられている。生には動かし難い依存性が伴う。そして食べることは残酷なことでもある――

 美味しい肉に舌鼓を打つ時、屠(ほふ)られた動物の叫び声が我々の耳に届くことはない。欲望はあらゆるものを飲み込む。動物に課された理不尽な運命は易々(やすやす)と咀嚼(そしゃく)される。我々が気にするのは値段だけだ。家畜が屠殺(とさつ)される瞬間に思いを馳せることもない。


 文明は死を隠蔽(いんぺい)する。そして死を見つめることのない生は享楽的になってゆく。社会は経済性や功利主義に覆われる。


 生は交換することができない。資本主義経済はあらゆるものを交換可能な商品にした。現代人の価値観は「商品価値」に毒されている。出自や学歴、技術や才能で人間を評価するのは、人間が商品となってしまったためだ。だからこそ我々は「労働力」と化しているのだ。


「あの花を見よ」とクリシュナムルティは言う。花が見えなければ、自分の心も見えない。集中するのではなく、注意深く見つめる。「見る」が「観る」へと昇華した瞬間に世界は変容するのだろう。

瞑想と自然

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