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2010-05-26

物語の結構を名文が支える/『忘却の河』福永武彦


 さしたる興味も湧かない物語をぐいぐい読ませる筆力がある。透明感を湛(たた)えた文章、引き締まった文体、揺るがぬ小説の結構……。前にもこのような作品と出会ったことがある。読み進むうちに思い出した。ローリー・リン・ドラモンドの『あなたに不利な証拠として』だ。ストーリーの好き嫌いは無視して、精緻な文体の前に読者はひれ伏すこととなる。


 ありふれた上流家庭が、それぞれの視点から描かれている。日常の小さな嘘と裏切りが、やがて人生の大いなる偽りと化す。忘却の河を流れているのは記憶の束であった。過去は軛(くびき)となって現在を束縛する。著者は不信と疑念を絶妙な筆致ですくい上げる。


 父親は若い女と密通していた。しかしながら浮気とか火遊びと称するほどのものではなく、なりゆきから結び合った二人であった。息抜きというのも相応(ふさわ)しくない。家族の目を盗んで捨て猫を育てているような心境に近い。腐臭が漂う日々の中で男は女に虚を衝かれた。


 私は身体を立て直しても、そのまま、10階建てのビルのこちら側の面をまじまじと見詰めていた。窓という窓は昨夜来の横なぐりの雨に叩(たた)かれてすっかり濡(ぬ)れ、そこに今、朝の烈(はげ)しい日射(ひざし)が射していた。それは無数の、涙に濡れた眼だった。四角な硝子の眼。どの眼も雫(しずく)をしたたらせながら、朝の太陽の新鮮な光を貪(むさぼ)るように吸い込んでいた。四角な眼、眼、眼。縦にも横にも、整然と連なったまま、これらの眼はひとしく私を見詰めていた。私ひとりを見詰めていた。

 その時、この偶然が私に齎(もたら)したものを何と名づけたらよかったろうか。眩暈(げんうん)だろうか、放心だろうか、感動だろうか。私はこんなに数多くの眼を一度に見たことはない。それらの一つ一つが生きて、泣いて、訴えて、私の心の奥底を覗(のぞ)き込んで、何かを私に語っていたのだ。お前は忘れているのか、忘れたままで生きていることが出来るのか、と。いや、そうではない、もっと別のことを言っていたのだ。私たちはお前を見ているよ、と。そう、ただそれだけのことを語っていた。無心に語っていた。そして私の方が見られていることを強く意識したあまり、私の経て来た時間が私にとって何であったかを反省せざるを得なかったのだ。その眼は彼を見ていた。その二つの落ち窪(くぼ)んだ眼窩(がんか)を彼を見ていた。


【『忘却の河』福永武彦(新潮社、1964年/新潮文庫、1969年)以下同】


 父親の意識に生じたのは「死者の目」であった。戦地で仲間を看取った出来事や、彼にまつわる出生の秘密が交錯して、生と死がモノクローム化して物語全体を覆っている。


 窓は穴である。窓は空白だ。そうでありながら窓は世界を映し出している。


 彼が反省したこと。それは戦友との約束を果たしていなかったことだった。最終章で戦友の家族を訪ねるが、劇的なことは何ひとつない。むしろ逆だ。物語はここから一気に死の臭いを放つ。


 川幅の狭いこの川の向う側は、先程私が佇(たたず)んでいた筈の片側道で、そこには月明りが射(さ)していたが、川は暗く澱(よど)んで、水が流れているようではなかった。それはただ深く抉(えぐ)られた地の底のように見えた。そこには人間のさまざまな過去の回想が悔恨と執念とを籠(こめ)めて蠢(うごめ)いているように見えた。


 私は昔ギリシャ神話を読んで、うろ覚えに忘却の河というのがあったのを覚えている。三途(さんず)の河のようなものだろう、死者がそこを渡り、その水を飲み、生きていた頃の記憶をすべて忘れ去ると言われているものだ。しかし私にとって、忘却の河とはこの掘割のように流れないもの、澱んだもの、腐って行くもの、あらゆるがらくたを浮べているものの方が、よりふさわしいような気がする。この水は、水そのものが死んでいるのだ。そして忘却とはそれ自体少しずつ死んで行くことではないだろうか。あらゆる過去のがらくたをその上に浮べ、やがてそれらが風に吹かれ雨に打たれ、それら自身の重味に耐えかねて沈んで行くことではないだろうか。


 記憶は腐る。なぜなら記憶は成長することがないからだ。同じ記憶を思い出すごとに現在の自分を腐らせてゆく。「昔はよかった」という人は、「今がよくない」と白状したも同然なのだ。


 父親が死をひたと見つめた瞬間に、澱(よど)んだ河が海に注がれるような変化が訪れる。そこには変わりない家族の姿があった。かけがえのない家族の姿が。

忘却の河 (新潮文庫)

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