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2010-06-30

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

  • 宗教の語源

 アンドレ・コント=スポンヴィルはフランスきっての人気哲学者らしい。ソルボンヌ大学で哲学を教えながら、フランス国内で一大哲学ブームを巻き起こしたとのこと。「日常生活に役立つ哲学」を提唱している。


 キリスト教への理解がそこそこあって、ヨーロッパ史におけるキリスト教の影響を知っている人であれば堪能できる。というよりは、ストンと腑に落ちる。仏教や道教にも言及しながら、何とクリシュナムルティの言葉も引用されている。


 唯一の瑕疵(かし)は訳文のバランスの悪さで、ひらがなを多用しすぎていて、かえって読みにくくなってしまっている。


 常識的に考えれば、国家や集団の内部的価値観は外部からの指摘によって転換を促されるものだ。集団という集団は何らかの利益を共有しており、それが全てに対して優先される。わかりやすくいえば、農村では収穫という利益を共有するゆえに村人が村八分に従うようなものだろう。往々にして内部の常識は外部の非常識だったり、国内の常識が海外で通用しないことがある。


 一神教というのは思い上がった連中が多い。フランス野郎は文化の宗主国を気取っている節がある。芸術、文学、哲学、料理からワインに至るまで確かにフランス文化は高貴な香りを放っている。フランス人は自由で気ままで勝手だ(笑)。「フランス人はイギリス人を猿だと思っていて、イギリス人は日本人を猿だと本気で思っている」という話を昔聞いたことがある。


 そのフランス人がキリスト教を哲学的に批判しているのだから凄い。アメリカのミネソタ大学が行なった調査によれば、米国内で最も嫌われているのは無神論者であるという結果が出た。

 9.11テロ以降は保守主義が台頭していることもあって、アメリカは「巨大な村」と化しているのだろう。いまだにダーウィンの進化論を教科書に載せないような国なのだ。そして、人工中絶を施した医師が地元住民に銃殺されるような国でもある(※毎年起こっている)。「神様万歳」思想という意味では、中東とさほど変わりがないのだ。保安官気取りの田舎者がアメリカ人の正体であろう。


 宗教を理解することなしに、その国の歴史や文化を知ることはできない。日本人の多くは無宗教を自認しているが、日本の文化の底流には仏教や儒教の概念が敷き詰められている。これに対して外国の場合は移民が多いこともあって「悪しき行動にブレーキの作用をする原理」が宗教となっている。しかしながら、日本の「天」(お天道様)と外国の「神」は似て非なるものだと私は考える。アニミズムと一神教との違いだ。


 コント=スポンヴィルはまず宗教の語源を明らかにする――


 西洋語のほとんどに共通している「宗教」ということばの起源は、どのようなものだろうか。観念の歴史のなかでは二つの答えが競合しており、私の知るかぎり現代言語学はいまだ完全に決着をつけられずにいる。どちらの答えも確定的なものではないが、いずれも啓発的であり、どちらとも決めずにおくほうがいっそう得るところが多いだろう。

 もっとも頻繁にさしだされる答えのほうが、私には疑わしいものであるように思われる。ラクタンティウス〔250頃〜325年頃。修辞学者・教父〕あるいはテルトゥリアヌス〔160頃〜220年頃。「不合理ゆえに我信ず」のことばで知られる教父〕以来、多くの著述家たちが、レリギオ[religio]というラテン語(言うまでもなく、「宗教」(ルリジオン)の語源だ)は、「結びつける」という意味の動詞レリガーレ[religare]に由来すると考えている。ときとして証拠のように提出されもするこの仮説は、宗教にかかわる事柄についてのある種の考えかたにつうじてゆく。それは、宗教とは【結びつける】ものだという考え方だ。


【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル/小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】


「結びつける」という語源を知っている人は多いことだろう。宗教は人々を結びつけるものだ。ところが実際は宗教内部のつながりが強くなればなるほど排他的になって、他宗教の人々を殺しまくってきたのが宗教――なかんずくユダヤ教から枝分かれしたキリスト教とイスラム教――の歴史であった。


 一神教国家の歴史は文字通り「侵略の歴史」である。彼等は神の代理人なのだ。殺戮(さつりく)もお気に召すままだ。産業革命(1760-1830)以降、アフリカやアジアがどれほど蹂躙(じゅうりん)されてきたことか。


 宗教は人々を結びつけ、そして人々を分断するものだった。そして、コント=スポンヴィルはもう一つの語源を示す――


 ありうべき第二の語源学は、私にはより信憑性があると思われるものだ。多くの言語学者たちが、すでにキケロがそう考えていたのだが、レリギオ[religio]はむしろ「とり集める」ないしは「再読する」を意味するレリゲーレ[relegere]に由来すると考えている。この意味での宗教は、【結びつける】ものではなく、あるいはまずもってそうなのではなく、私たちが【とり集め】、【再読する】(あるいは、読みかえしながらとり集める)ものを意味する。神話や創生の文書、教え(ヘブライ語のトーラーという語のもともとの意味)や知(サンスクリット語でヴェーダ)、一冊あるいは数冊の書物(ギリシア語におけるビブリア)、講義や朗誦(アラビア語におけるコーラン)、掟(サンスクリット語のダルマ)、原理や規則や命令(旧約聖書における十戒)、要するに啓示ないし伝統が、ただし個人的にも共同でも引きうけられ尊重され内面化されている(二つのありうべき語源学が、ここでひとつになる。すなわち、個々それぞれにひとつの同じテクストを読みかえすことによって絆は生まれる)、さらには古くからも、つねに現在的なかたちでも、集団にとっては統合的に、個人にとっても共同体にとっても構造化的に、そうされているかぎりでの啓示ないし伝統がそれにあたる。こちらの語源学にしたがうなら、宗教とは社会学よりも文献学に多くを負っている。それは、教えへの、掟への、聖典への――要はロゴスへの――愛着なのだ。


 私もこちらに一票を投じよう。教団同士が正統性を争うことは決して珍しいことではないが、その際必ず「瑣末な文献学的争い」に興じることが多い。テクニカルな話題が好まれ、衒学(げんがく)趣味に傾くきらいもある。まさしく、「とり集める」「再読する」心理情況に宗教の本質が垣間見える。


 だがよく考えてみよう。知識と宗教的感情は別のものだ。大切なことは、言葉を手掛かりにして教祖の心に触れることであって、訓詁注釈(くんこちゅうしゃく)に捉われることが宗教的であるわけがない。人間性よりも知識が重んじられるのであれば、それは宗教ではなく学問だ。


「教義の奴隷」と化した人間が果たして自由と言えるだろうか? 言えるはずがない。奴隷は不自由であるからこそ奴隷なのだ。


 しかもキリスト教の場合、イエス本人が記したものは何ひとつ存在しない上、イエスが実在したという証拠すらないのだ。

 関西大学法学部教授をしていた堀堅士(ほり・けんじ)は「四つの異なった『履歴書』を持っている人物を信じることができるでしょうか?」と斬り捨てている(※履歴書とは福音書のこと)。


 クリシュナムルティは常に言う。「言葉は当のものではない」と。

 少し考えれば誰でもわかる話だ。「悟りを語った言葉」がそのまま「悟り」であるはずがないのだ。言葉というものは飽くまでもコミュニケーションのツールであって、その本質は翻訳機能であろう。ところが自分の感情や意志を伝えるはずの言葉は、概念のマントを羽織って意味を曖昧化してしまう。言葉は説明するためのものだ。

 そうであるにもかかわらず、宗教という宗教は教義の奴隷となり、言葉の支配に屈する。なぜなら脳機能が思考に束縛されているからだ。すなわち、我々現代人が真の宗教性を取り戻すためには、思考を終焉させる必要が不可欠となる――

 クリシュナムルティは教団という枠組みをも否定した。そこに彼の宗教性が輝いている。教団は宗教を組織化したもので、人間を必ず内外という物差し分断する。これがどこまでも差異を強調する結果となるのだ。


 宗教は「とり集める」。文献を、そして金と人を。

精神の自由ということ ― 神なき時代の哲学

人口当たり自殺者、日本が最悪=90年代後半から増加−OECD


 経済協力開発機構(OECD)が29日公表した統計で、2008年の日本の自殺者(70歳未満)が人口10万人当たり475人と、比較が可能な加盟国中、最悪だったことが明らかになった。

 日本の自殺者は、OECD発足前の1960年には10万人当たり623人だったが、91年には同275人にまで減少。しかし、90年代後半から増加傾向をたどり、08年は61年以降で最悪となった。


時事ドットコム 2010-06-30

目的と手段


 目的は手段を神聖化しない。たとえ神の国を地上に実現しようとする場合でも。


【『正統と異端 ヨーロッパ精神の底流』堀米庸三〈ほりごめ・ようぞう〉(中公新書、1964年)】

正統と異端 ヨーロッパ精神の底流

ゾーン


 恐怖心がない状態は、無心の精神状態とも言える。それは多くのスポーツ選手が「ゾーン」と呼ぶ精神状態に似ている。今までにスポーツでゾーンを経験した機会があれば、完全に恐怖心のない精神状態がどのようなものであるか分かるはずだ。ただ直感的に行動し、反応する。選択肢は検討しない。結果は気にしない。悩まない。ただその瞬間に「するだけ」なのだ。やるべきことを、そのとおりにやっているのである。


【『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス/世良敬明(せら・たかあき)訳(パンローリング、2002年)】

ゾーン ― 相場心理学入門

2010-06-29

CDSが爆発するのはこれから/『大恐慌入門 何が起こっているか? これからどうなるか? どう対応すべきか?』朝倉慶


 世界経済が不況に陥り大恐慌(1929年)へと転げ落ちた1920年代、ヨーロッパではファシズムが台頭した。オルテガが『大衆の反逆』(La rebelión de las masas)を著したのは1930年のこと。大衆(las masas)という心理的情況を「慢心しきったお坊ちゃん」に譬(たと)え、無責任な群衆心理を唾棄すべきものとして糾弾した。


「大衆」(マス)はマスメディアを介したマスコミニュケーションによって、より一層大衆化されているといってよい。なぜなら心理的情況は情報がつくり上げるものであるからだ。そして社会の至るところに溜まったストレスが「苛立(いらだ)ち」へと変換され、無責任な攻撃性が高まった時、時代はファシズムへと一気に傾斜する。


 21世紀となった今、世界経済は不況に喘ぎ、各国では保守主義、国粋主義がはびこりつつある。


 朝倉慶の名前は、クレジット・デフォルト・スワップ債に警鐘を鳴らす記事で初めて知った。

 CDSの危機を指摘する人はいたものの、具体的に論じた人を私は知らなかった。マネーの動きを知ることは、世界の仕組みを知ることでもある。金融マーケットには実体経済(ODA)の4倍以上の規模になっているといわれるが、レバレッジ(テコの原理)を利かせたギャンブルのような世界である。その実態はペーパーマネーという幻想によって築かれているに過ぎない。


 CDSとは一種の債務保証のようなものだ。これがデリバティブ金融派生商品)として売買されるようになった。


 問題は図のように急拡大したCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)市場なのです。詳しくは後述しますが、CDSは金融商品の元金を保証する保険のようなものです。その想定元本は、現在でも5400兆円と世界のGDPに匹敵します。CDS市場には株式市場や債券市場、為替市場といって公の市場はありません。相対(あいたい)取引です。それゆえCDSの売り手、すなわち保険を引き受けたほうは、損害が出たら保証しなければならないわけですが、この売り手がそれに見合うだけの資金を持っているのか公開されていないのです。いわばいつパンクするかわからないわけです。


【『大恐慌入門 何が起こっているか? これからどうなるか? どう対応すべきか?』朝倉慶〈あさくら・けい〉(徳間書店、2008年)以下同】


 直訳すれば「信用(クレジット)、債務不履行(デフォルト)、交換(スワップ)」である。ま、早い話が企業の倒産を賭けの対象にしているようなものだ。今時の言葉であれば、さしずめ「企業賭博」といったところ。


 リスクを引き受ける機関投資家にはプレミアム(保証料)が入ってくるという仕組みだ。景気がよければ企業の倒産リスクは殆どないわけだから、その儲けたるや想像も及ばない。


 2007年7月末、金融マーケットをサブプライム・ショックが襲った。これは低所得者(サブプライム)の住宅ローンをMBSCDO証券化したもので、要は幕の内弁当の中に腐りかけたおかず(サブプライム証券)を忍ばせていたという話だ。これによって世界金融危機の幕は切って落とされた。


 今回の全米の住宅バブルは、日本の比ではありません。その上昇期間、さらにはそれに絡んで数々の金融商品が作られ、サブプライムローンですら、その一つに過ぎないのです。【73年間にわたって上がってきて、2006年に天井を打ったこのバブルの崩壊は、まだ序章段階にしかすぎません。今後数十年にわたって下がり続けるのは必至なのです】。バブル崩壊の歴史を見れば、疑問の余地のないところです。


 住宅バブルが続いているうちは、転売を繰り返すだけで儲けることが可能だった。ところが信用収縮(クレジット・クランチ)が始まると債務不履行の連鎖が生じる。


 おわかりだろうか? アメリカが生んだ金融工学は結局、取引(売買)を可能にするためにありとあらゆるものを証券化してしまったのだ。一世を風靡(ふうび)したアメリカの投資銀行はその後、殆ど倒産した。


 2008年9月、今度はリーマン・ショックが襲いかかった。投資銀行の名門リーマン・ブラザースが破綻したのだ。なぜベア・スターンズには公的資金が注入された(同年3月)のに、リーマンは見放されたのだろうか? ここに本書の白眉がある。


 朝倉によれば、アメリカ政府が公的資金を注入している企業の全てがCDSを抱えているというのだ。つまり破綻すれば、企業が保有しているCDSが明らかとなり、CDS市場が暴落してしまう。CDSは金融界の大量破壊兵器なのだ。一つの地雷を踏んでしまえば、あっという間に世界は焼け野原と化す。経済用語の「信用」とは「インチキ」の異名である。


 債券の信用度が低下すると、自動的に商品(コモディティ)の価値が上がる。マネーは先物市場に集まる。こうしたこを予測して世界の資源マーケットでは群雄割拠の様相を呈しているそうだ――


 さらにこの間(9.11テロの翌年である2002年から2008年まで)、争いの元となるべき資源の寡占化を着々と進め、水、穀物、石油、石炭、鉄鋼石をはじめ、主要資源の権益はしっかりと押さえられました。鉄鋼生産に不可欠な代表的な資源である鉄鉱石を例にとると、現在ブラジルのヴァーレが39.6%、英国と豪州のリオ・ティント24.4%、同じく英豪のBHPビリトンが14.2%、と3社で8割を握っています。ビリトンがリオ・ティントに買収交渉をかけていましたが、世界経済の減速もあってか、中止になりました。しかし、このような買収交渉や合併は日本国内では独禁法違反で考えられませんが、世界規模では堂々と行われているのですから、どうにもなりません。ますます希少化する資源は全く手の届かないところへ行ってしまっています。そうは言ってもわれわれは買うしかなく、売る側はいつでも買い手を窮地に陥れることができるのです。まさに首根っこをつかまれたとはこのことです。


 経済大国となった中国は既にアフリカへ莫大な投資をしている。それに比べて日本の政治レベルは小学生並みで、何の手立ても講じていない。バブル崩壊後は骨抜きとなった感が強い。


 世界の商品先物相場は1730年の大阪堂島米会所から始まった。先物取引とは生産者を守るためのものである。


 例えば数年前に原油高騰で漁船が漁に出られない事態が生じた。この場合、漁師組合などで資金を募り、先物相場で原油を買えばいいのだ。原油相場が下がれば損失となるが、その分は漁でヘッジできる。


 資本主義経済が続く限り、大衆消費社会は維持される。消費者を保護するためにも、ありとあらゆる商品の先物相場を設けるべきだ。そうしておかないと、国民の資産は金融機関を経由して荒れ狂う世界マーケットの海へ流出してしまうだろう。

大恐慌入門 何が起こっているか? これからどうなるか? どう対応すべきか?

脳は視覚情報を反転させることができる


 ラマチャンドランは、存在しない手足が激しく痛む幻肢痛の治療に成功している。


 正常なおとなが鏡像と本物の物体を混同することはめったにない。高スピードで近づいてくる車がバックミラーに見えたとき、ブレーキを強く踏む人はいない。車の像は前から急接近してくるように見えるのに、アクセルを踏んで加速する。同じように、もし洗面所でひげを剃っているときに泥棒が背後のドアを開けたら、ぐるっと振り返って立ち向かうだろう――鏡のなかの泥棒に襲いかかることはない。脳のどこかが「像は前にあるが、本物は後ろだ」という修正をしているにちがいない。


【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー/山下篤子訳(角川書店、1999年)】

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

文庫化『歴史を変えた気候大変動』ブライアン・フェイガン/東郷えりか、桃井緑美子訳(河出文庫、2009年)


歴史を変えた気候大変動 (河出文庫)


 人類の歴史を揺り動かした500年前の気候大変動とは、いったい何だったのか? 人口大移動や農業革命、産業革命と深く結びついた「小さな氷河期」を、民衆はどのように生き延びたのか?現在、地球規模の温暖化に直面しているわれわれが決して無視できない問題に、気候学と歴史学の双方からアプローチした名著。

「ヒール・ザ・ワールド」マイケル・ジャクソン


 世界を癒そう

 よりよき世界にしよう

 君のため僕のため

 そしてすべての人類のために

 どこかで死んでゆく人々がいる

 命あるものを大切にするなら

 世界をよりよい場所にしてゆこう

 君のために僕のために


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キング・オブ・ポップ-ジャパン・エディション

フィンランドのウォッカ


「フィンランドのウォッカはとびきりうまい」と聞かされていたが、うわさにたがわぬものだった。150年たっても小枝ほどにしか育たない極北の木がゆっくりと、激しく燃え続けて、強烈な酒をつくり出すのだそうだ。


【『深代惇郎エッセイ集』深代惇郎〈ふかしろ・じゅんろう〉(朝日新聞社、1977年/朝日文庫、1981年)】

深代惇郎エッセイ集 深代惇郎エッセイ集

(※左が単行本、右が文庫本)

抽象とは


 抽象ということは虚構ということを意味しない。それは純化された高度の思想性を帯びている、ということなのだ。


【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)】

死と狂気 死者の発見 死と狂気 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-06-28

アレクサンドル・コジェーヴ、J・クリシュナムルティ


 昨日、2冊読了。


 91冊目『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ/今村真介訳(法政大学出版局、2010年)/スタンレー・ミルグラム著『服従の心理』を読んだ人は必読のこと。哲学性もさることながら、ロジックの脚力が凄い。がっぷり四つでみるみるうちに「権威」を土俵際まで追い詰めている。文中で多用されている注記も好ましいアクセントになっている。権威を父・主人・指導者・裁判官の4タイプに分け、「ありうべき全ての権威タイプの完全一覧表」64パターンを示している。学術書ではあるが実にスリリング。


 92冊目『大師のみ足のもとに/道の光』J・クリシュナムルティ、メイベル・コリンズ/田中恵美子訳(竜王文庫、1982年)/クリシュナムルティが13歳で著したいわくつきの作品。星の教団を解散した後の教えとは異質なものだ。それでも萌芽が垣間見える。読むのであれば参考程度にすべきで、言葉を額面通りに受け止めるべきではない。クリシュナムルティ本はこれで38冊目。

JR内の革マル派秘密組織「マングローブ」


 綾瀬アジトの摘発によって、革マル派のなかに「JR委員会」という組織が存在することも明らかになった。そして、このJR委員会に所属する約150人のメンバーが「マングローブ」というコードネームで呼ばれていたのだ。

「マングローブは、松崎がJR各社の組合員に革マル派思想を浸透させることを目的に作った組織です。メンバーの大部分が、トラジャと同じく、動労出身の組合員です。

 警視庁公安部は、綾瀬アジトから押収した大量の暗号文書を解読した結果、約150人いるとされるマングローブのうち約100人を特定したのですが、全員がJR総連の関係者で、うち6割がJR東労組の幹部や専従、組合員で占められていました。

 彼らは今でも、JR東労組をはじめ、JR総連傘下単組の内部に作った革マル派組織の防衛と、さらなる拡大を目指し、活動を続けているのです」(前出・公安当局関係者)

 まるで多足類生物のごとく、熱帯地域の河口の泥地に根を張りめぐらせる「マングローブ」。そのマングローブの根のように、配下の革マル派組合活動家を、JRの隅々まで浸透させてやる――。松崎が、JR内の革マル派秘密組織につけたコードネームからは、そんな彼の目論見が透けて見えるようだ。

 この松崎の目論見が、JR東日本のなかで成功を収めていることは、本書を読めば、理解していただけると思う。そしてこれらの革マル派秘密組織の全容は『週刊現代』の連載キャンペーンによって初めて明らかになった。だからこそ私は、この革マル派秘密組織の名前を、本書のタイトルに据えたのだ。

 綾瀬アジトの摘発から約5年後の01年5月。漆間巌(うるま・いわお)・警察庁警備局長(当時、現警察庁長官)は衆議院国土交通委員会で、これら二つの革マル派秘密組織の存在を、初めて公式に認め、こう答弁した。

〈警察としましてはJR総連、東労組内において、影響力を行使でき得る立場に革マル派系の労働者が相当浸透していると見ているところであります〉(衆議院議事録より)


【『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』西岡研介(講談社、2007年)】

マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

科学は意味を叙述し、芸術は意味を表現する


 アメリカの哲学者ジョン・デューイがかつて書いたように、「科学は意味を【叙述し】、芸術は意味を【表現する】」。科学は前提を【明確にし】、感情を【顕現する】。


【『二十世紀文化の散歩道』ダニエル・ベル/正慶孝〈しょうけい・たかし〉訳(ダイヤモンド社、1990年)】

二十世紀文化の散歩道

2010-06-27

AI - For my Sister feat. Judith Hill


 ジュディス・ヒルは、マイケル・ジャクソンの追悼式典で「Heal the World」を歌ったシンガーである。世界で10億人の人々が彼女の歌声を聴いたとされる。AIは全く引けを取ることなく実に堂々と歌い上げている。

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Still...feat.AK-69(初回限定)(DVD付)

イグニオ(IGNIO)5本指サンダル


 上がレディース、下がメンズ。いずれも1190円。


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『デブでした。 目標を決めない「なんとなくダイエット」で劇的変身!』パパイヤ鈴木


デブでした。 目標を決めない「なんとなくダイエット」で劇的変身!


 リバウンド知らずのパパイヤ式ダイエットで健康でオシャレな生活をゲット! 体重を落として、人生を180度変えた、パパイヤ鈴木の極意とは?


 身長174センチ、体重110キロ。

 2ヶ月に1回病院通い。

 悪玉コレステロール値が1400と異常に高く、尿酸値もトップレベル。

 既製品の洋服が入らず、いつも特注で割高。

 靴はすぐダメになり、ズボンは股ズレ。

 歩くのがつらいので、移動はいつも車。

 ガソリン代、駐車場代、タクシー代はハンパじゃない。

 足首、膝、腰はいつも痛く、横になっているときがいちばん幸せ。

 いびきがうるさくて子供が一緒に寝てくれず、睡眠時は無呼吸症でいつも眠い。

 会うたびに「また太った?」と聞かれる。

 ……もう、いやだ。

 変わろう!(本文「はじめに」より)

「ビューティフル・ネーム」ゴダイゴ


 国際児童年(1979年)の協賛ソング。ビートルズの影響が色濃く出ている。


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ゴダイゴ・グレイト・ベスト1 〜日本語バージョン〜

ゴルバチョフと佐藤優


 シンポジウムの控室で、筆者はゴルバチョフ氏と雑談をした。筆者が自己紹介のときに「検察に逮捕され、512日間、独房に閉じこめられていた」と話した。ゴルバチョフ氏は、ニヤッと笑って「いい経験をしたな。おれは、監獄にぶち込まれたことはないが、(1991年8月のソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件のときに)3日間、軟禁されたことがあるので、君と共通体験をもっている。ああいう経験をすると、物事を深く洞察できるようになるからな」と答えた。


佐藤優の地球を斬る

人間からとる情報の原則


 ソ連8月クーデターが起こった際、佐藤優は西側外交官としていち早くゴルバチョフが生存している情報を入手し、世界に伝えた。


 情報の世界で、ヒュミント(人間からとる情報)の原則は二つである。第一は、情報源がこちら側が関心をもつ情報を知ることができる立場にいるということだ。そして第二に、情報源が自分の得た情報を私に正確に教えてくれるということだ。この場合、ゴルバチョフ氏は外部との連絡を遮断されている。従って、ゴルバチョフ氏の安否について正確な情報をもっているのはクーデターを行っている側だけだ。ゴルバチョフ派、急進民主改革派の情報は憶測か、自己の政治的利害を反映した声明なので、情報としては価値がない。


【『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』佐藤優(新潮社、2005年/新潮文庫、2007年)】

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

キメラ


 このように異なった種の動物細胞がひとつの個体に共存する状態を、キメラという。言うまでもなくギリシャ神話に出てくる顔と体がライオン、胴体から山羊の頭が生え、蛇の尾を持つ怪物キメラから来ている。下半身が蝮の美女エキドナが奇怪な巨人デュポンと交わって生んだ数々の怪物のひとつである。同じ腹から生まれたスフィンクスや、ペルシャのグリフォンもキメラの仲間である。日本では、源三位頼政が紫宸殿の屋根から射落とした鵺が、顔は猿、手足は虎、体は狸、尾は蛇で、まさしく典型的なキメラである。


【『免疫の意味論』多田富雄青土社、1993年)】

免疫の意味論

2010-06-26

ダニエル・ベル


 1冊挫折。


 挫折51『二十世紀文化の散歩道』ダニエル・ベル/正慶孝〈しょうけい・たかし〉訳(ダイヤモンド社、1990年)/A5版でおよそ700ページという大冊。梅雨時に読めるような代物ではない。80ページほど読んでやめる。『イデオロギーの終焉』と『脱工業社会の到来』を先に読んでおいた方がよさそうだ。

書籍と電子テキストの違い


 本はみな、電子メールやそれに類した手軽な情報にはない、独自のリズムと一種の身体的な親密さをもっている。過剰なメディアはしばしば、情報と理解を混同する。追いまくられている気分のときに、本は奇跡のように、内省や熟考や精神的休息のための時間を拡大してくれる。


【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック/山下篤子訳(草思社、2002年)】

共感覚者の驚くべき日常―形を味わう人、色を聴く人

大日本帝国は軍国主義のためではなく官僚主義のために滅んだ/『歴史を精神分析する』(『官僚病の起源』改題)岸田秀


 ある時代の常識が、時を経て異様な姿となって現れてくることは決して珍しくない。むしろ多いくらいだ。岸田秀はこれを「共同幻想」としてバッサバッサと斬り捨てている。


 岸田によれば「アメリカは強迫神経症強迫性障害)」で「日本は精神分裂病統合失調症)」ということになる。ま、有り体にいえば「ほとんどビョーキ」ってことだ(笑)。


 唯幻論の魅力は「物語性を粉砕する破壊力」にある。歴史や文化は堅牢な城壁のように立ちはだかるが、鋼(はがね)にはかなわない。穴を空けられてしまえば脆(もろ)くも崩れる。


 歴史は戦争に集約されると考えれば、岸田の分析は歴史が動く本質を見事に捉えており、自衛隊の教科書に本書を採用すべきだ。


 わたしがかねてから主張しているように、大東亜戦争における日本軍の惨敗の原因は、物量の差ではなく(物量の差のために敗れたというのは軍部官僚の卑怯な逃げ口上である。軍部官僚が言葉の真の意味での軍人の名に値しないのは、その卑怯さからも明らかである。物量の差のために必然的に敗れるのであれば、そのような戦〈いくさ〉はしなければよかったのである。それに、ミッドウェイ海戦のように、物量的にアメリカ軍より優位にあったときも日本軍は惨敗している)、ましてや兵士たちの戦意や勇気の不足ではなかった(歴史上、この前の戦争における日本兵ほど身を犠牲にして懸命に戦った兵士がほかにいたであろうか)。

 最大の敗因は全体的戦略の欠落と個々の作戦のまずさであり、それは軍部官僚の責任なのである。

 そして、この点が重要なのであるが、軍部官僚の失敗は軍人であるがゆえの失敗ではなく、官僚であるがゆえの失敗であった。大日本帝国は軍国主義のためではなく、いわば官僚主義のために滅んだのである。軍国主義のためではなく、官僚主義のために310万の日本人と1000万以上(推定)のアジア人が死んだのである。

 もし当時の日本を支配していたのが、軍部官僚ではなく、政治の延長として軍事力を用いる非官僚的な軍国主義者、すなわち、彼我の軍事力のバランスを冷静に検討し、作戦の合理性を重視する軍国主義者であったとすれば、日本は戦争に突入していなかったかもしれないし、突入しても傷の浅いところで早目に切りあげていたかもしれない。

 戦後のわれわれはその点を見ず、単純に軍人に任せたのがよくなかったと考え、軍というものに病的な恐怖反応を示し、一部の者は、軍隊かどうか疑わしい自衛隊がいささかの発言権を持つのさえ恐れるが、それは敵を取り違えているのであって、真に恐れなければならないのは官僚なのである。


【『歴史を精神分析する』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(中公文庫、2007年/新書館、1997年『官僚病の起源』を改題)】

 岸田が太平洋戦争ではなく「大東亜戦争」と記しているのは、ただ単にGHQの検閲を嫌ったためだろう。ここは歴史認識を追求すべきところではない。


「戦争は官僚によって敗れた」――この指摘はあらゆる組織に適用できそうだ。大宇宙の変転は成住壊空(じょうじゅうえくう/四劫)のリズムを奏でる。住劫(じゅうこう)から壊劫(えこう)へ至る澱(よど)み、腐敗を象徴したのが「官僚」と考えられる。


 そうすると、あらゆる集団・組織の衰えは「官僚化」で計ることが可能かもしれない。官僚は特定の階層に忠誠を誓うロボットである。官僚の行動原理は保身だ。


 政権交代をしてからというもの、政治家と官僚との綱引きが続いていると囁かれている。実態は不明だ。この国では長らく政治家が有名無実の存在と化して、法案作りに至るまで官僚が行ってきた。政治家が作るとあまりにも珍しいので「議員立法」と表現されるほどだ。


 日本国民が最も理解し難いことの一つに、「どうしてこれほどまでにアメリカに頭が上がらないのだ?」という疑問がある。「いくら何でも3発目の原爆は落とされないだろう」とは思うものの、やくざ者にみかじめ料を払う飲み屋のマスターみたいな態度を日本は取り続けている。


 ひょっとしてあれか? 敗戦後、GHQに占領された頃から、官僚は何がしかの因果を含められているのか? 米国に対して犯すまじき不文律が山ほどありそうな気がする。


 元大蔵官僚の高橋洋一なんかが典型と思われるが、彼等は自分の頭のよさに酔い痴れているところがあり、罪悪感というものを持ち合わせてない。でもって妙な明るさがある。明らかなソシオパス傾向が見受けられる。分析には長(た)けているのだが、自己分析が全くできていない。というよりも自己分析という視点を欠いているのだ。


 つまり、官僚は「国家における自我」と想定することができる。官僚がのさばるということは「自我が肥大した状態」を示しているのだ。ソシオパスが二乗された時、肥大した自我は肥大した欲望のままに暴走を始める。


 恐るべきは軍国主義ではなく官僚主義であった。そう考えると吟味することもないまま鵜呑みにしている事柄があまりにも多い。先入観や強い思い込みは認知バイアスとなって情報をデコレーションする。一人ひとりの認識の差異を埋めるものこそが共同幻想であろう。そして歴史は共同幻想の城と化す。


 歴史の記述や叙述には必ず政治性が盛り込まれている。その嘘を見抜く確かな目を養わなければ、ファシズムに迎合するような自分になってしまうだろう。

官僚病の起源 歴史を精神分析する (中公文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

「ブラックボックス」仕組み債、手数料が金利上回る−RBSなど組成


 英銀ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド・グループ(RBS)や米JPモルガン・チェース、英バークレイズが組成した一部の仕組み商品で、金利よりも販売手数料が高くなる現象が起きている。不透明なこうした金融商品の販売には監督当局も厳しい監視の目を光らせている。

 RBSは今月15日、3カ月物のリバース転換社債を販売するブローカーの手数料率を2.75%としたが、これは2.56%の利回り見通しを上回った。目論見書で明らかになった。また、JPモルガンが先月に設定したシティグループ株に関連する同年限のリバース転換社債の手数料率は5.25%で、これも金利の5%を超えた。バークレイズが手掛けた商品では手数料率が利率の2%と同水準だった。

 USトラスト(ニューヨーク)で仕組み債販売を監督した経歴を持つデュラジ・テース氏は、リバース転換社債で販売手数料が利回り見込みを上回るのは「めったにない」と指摘する。ブルームバーグの集計データによると、米国で5月に販売された同仕組み債は4億6000万ドル(約412億円)相当で、公表された手数料は半年で平均2%だった。

 同氏は「顧客が期待できるリターンを販売手数料が上回るのは考えられないように思われる」と指摘し、「リターン見通しを上回る手数料を支払うとすれば、そうした社債はアドバイザーとして勧められない」と付け加えた。

 米金融取引業規制機構(FINRA)はリバース転換社債を含む仕組み債の販売を優先検査対象としている。3月1日のブローカー向け書簡で明らかにした。

 RBS、JPモルガン、バークレイズの広報担当者はいずれもコメントを控えた。

 リバース転換社債は一般的に金利が通常の社債を上回る。満期になると参照銘柄としている株式で償還され得るこの仕組み債を購入するリスクは、ダウン・アンド・インと呼ばれるノックイン・オプションが同証券に組み込まれていることだ。このオプションは取引所で公式に取引されないため、コンピューターモデルがなければ評価が困難だ。

 キャボット・マネー・マネジメントのポートフォリオマネジャー、ウィリアム・ラーキン氏は、RBSの米アルコア株に連動するリバース転換社債は通常の社債よりも金利が良いとした上で、「いろいろと組み込まれたブラックボックス商品を買うよりも、普通の社債を購入すれば決まった期間に決まった金利を得られる」と話している。


ブルームバーグ 2010-06-24

「さよならの世界」上條恒彦


 第4回世界歌謡祭(1973年)歌唱グランプリ受賞曲(作詞・作曲:世良基)。今聴いても痺れる。当時小学生だった私は「大人って凄いな」と心の底から思った(笑)。

上條恒彦 コレクション

一般人が破壊的なプロセスの手先になる


 おそらくこれが、われわれの研究の最も根本的な教訓だろう。特に悪意もなく、単に自分の仕事をしているだけの一般人が、ひどく破壊的なプロセスの手先になってしまえるということだ。さらには、自分の作業の破壊的な効果がはっきり目に見えるようになっても、そして自分の道徳の根本的な基準と相容れない行動をとるよう指示されても、権威に逆らうだけの能力を持つ人はかなり少ない。権威に服従しないことに対する各種の抑止力が働くために、その人物は自分の立ち位置を変えることはない。


【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/同社岸田秀訳、1975年)】

服従の心理

2010-06-25

怒り


「もっと辛辣で、もっとあくどい業者だっているんだよ。それを思うと、血が騒ぐというか、怒りが胸の底から噴水みたいに噴きあがってくるんだ」


【『北の大地に燃ゆ 農村ユートピアに賭けた太田寛一』島一春(第三文明レグルス文庫、1986年)】


北の大地に燃ゆ 農村ユートピアに賭けた太田寛一

Lenovo G530シリーズ 15.6インチワイド液晶ノートブック Core 2 Duo 49000円


 これは安い。


Lenovo G530 シリーズ 15.6インチワイド液晶ノートブック 44463LJ


仕様:

【スマート&シンプル 使いやすいレノボのベーシックノートブック】シンプルなデザインに、優れた性能を凝縮した、非常にお求め易い価格のベーシックノートブック Lenovo G530の登場です。最新のCPUや、高解像度ディスプレイ、ステレオスピーカー、など先端のテクノロジーを搭載しているので、どこでも存分にマルティメディア鑑賞やビジネスとしてもが利用できます。

メーカー型番 : 4463-3LJ

OS : Windows Vista Business(32bit)ダウングレード(Windows XP Professional SP3正規版初期導入済み)

搭載CPU : Intel Core 2 Duo P8400

クロック : 2.26GHz

メモリ(最大容量) : 1GB(最大4GB)

スロット数(空き) : 2(空1)

HDD : 160GB

モニタサイズ : LEDバックライト付 15.4型 WXGA液晶(1,280×800ドット、1,677万色)、光沢あり

ドライブ : Bluray Combo Tray in 12.7mm

グラフィック : チップセット内蔵 (Intel GMA 4500MHD)

ワイヤレス : INTEL Wireless WiFi Link 5100AGN

サイズ : 35.9x25.7x31mm (WxDxH)

重量 : 約2.75Kg

バッテリー : 6セル

その他 : 6 in 1 スリム・カード・リーダー、130万画素WEBカメラ

企業が機関であることを喝破したドラッカー


 ピーター・ドラッカーはおそらく世界をリードするマネジメント思索者だが、1946年の先進的著作『会社という概念』で、企業が機関であることを喝破した点でも草分けの一人となった。全ての企業が等しく機関としての規律と目的を持つことの意義深さを指摘したのは、ドラッカーに他ならない。


【『ザ・コーポレーション わたしたちの社会は「企業」に支配されている』ジョエル・ベイカン/酒井泰介訳(早川書房、2004年)】

(DVD選書) ザ・コーポレーション (DVD付) (アップリンクDVD選書)

2010-06-24

八ッ場ダム一帯は自民党支持者の多い地域/『鳩山由紀夫の政治を科学する 帰ってきたバカヤロー経済学』高橋洋一、竹内薫


民主党財務省経済産業省を擁護


 電車本としては好著。もちろんトイレ本でも構わない。軽薄な調子の対談となっているが、高橋は元官僚だけあって政治力学を鋭く読み解いている。更に高橋と竹内が共に理系出身とあって、数式化を試みながら民主党の原理をわかりやすく示している。鳩山首相が辞任してしまったが、本書の内容はまだまだ通用する。


 とにかくこの国の政治はわかりにくい。政治の基本は利益分配であり利益調整であろう。ところが「どの政策」が「どんな人々」に利益を配分しているのかがわからない。


 例えば官僚の天下りに対して批判がかまびすしいが、天下りがなくなりそうな気配は微塵もない。つまり、政治というパワーゲームにおいて官僚は優位性を示しているのだ。その優位性を報じるメディアは一つもない。なぜなら彼等もまた許認可事業という優位性の恩恵に与(あずか)っているがゆえに、許認可権を牛耳る官僚には逆らい難いためだ。


 政党政治というのは利益を共にする人々が支持している。民国社の連立政権の場合はこうだ――


竹●ざっと閣僚人事を見てきましたが、これで鳩山政権の支持母体はかなり明白になりましたね。まず、連立政権の核である【民主党の支持母体は、日教組自治労、それからパチンコ業界】。次に連立政党である【国民新党の支持母体が郵便局長、社民党が市民運動団体】。でも、【国民新党と社民党は、2010年の夏にある参院選後は切り離す予定だから、実はそんなに意識していない】と。


【『鳩山由紀夫の政治を科学する 帰ってきたバカヤロー経済学』高橋洋一、竹内薫(インフォレスト、2009年)】


 ま、簡単に考えればこれらの団体が資金提供していると考えてよかろう。郵政改革法案の可決を目指す国民新党側に、全国の郵便局長らが過去3年間で総額8億1973万円を資金提供していたことが先日報じられていた。


 それにしてもパチンコ業界ってのは何なんだ? 規制緩和を狙っているのだろうか? それとも外国人参政権に絡んでいるのだろうか?


 民主党は国民の前で大々的に事業仕分けという芝居を行ったが、実際の予算見直しは特定の省庁に限られていたという(文中「先」は先生役の高橋)――


竹●ものすごく、分かりました。だから、【平成21年度分の補正予算の見直しでも、民主党が初めから叩いてやろうと決めていた国交省、農水省、厚労省、文科省の四つは、削減額が大きい】んですね。


先●逆に、擁護することが約束されてた財務省や経産省って、ほとんど減らされてないでしょ。分かりやす過ぎて笑っちゃうよね。


 また、八ッ場ダム建設中止について驚くべき実体が紹介されている――


先●(八ッ場ダムの)総事業費は結局4600億円に膨らんじゃったけど、残りの事業費1390億円(維持費を含めて1600億円)をつぎ込めば、ダムは完成する。完成すれば、6300億の便益が見込める。これだったら、どうします?


竹●便益の方が事業費を上回るから、事業は継続する方が良さそうですが。


先●そう。つまりね、【今までみたいにダラダラやって、また事業費が嵩んでいくようなら中止した方がいいけれど、すぐに手をつけられるんだったら、便益の方が上回るから作っちゃった方がいい】んです。

 民主党政権に変わったことだし、実際、今だったら案外うまくいったかもしれないしね(笑)。


竹●建設した方が、やっぱり良かったんですね。でも、だったら何で中止することにしたんですかね?


先●マニフェストで公約したから。深夜に行われた閣僚の記者会見でね、前原さんが記者から「なんで止めるんですか?」って聞かれて、「マニフェストに書いてあるから」って言ってたもん(笑)。


竹●そ、それは……ちょっと合理的な判断じゃないですよね。


先●それだけだったらね(笑)。でも、【八ッ場ダム一帯は自民党支持者の多い地域】なんですよ。逆に、小沢さんの地元、【胆沢ダムは中止しなかった】でしょ。


竹●なるほど! つまり、【自民党にとっては有益だけど民主党にとって有益でないものは中止する】と。民主党目線では、きわめて合理的です。


 しかも自民支持者を切り崩す目的で、地元住民には多額の補償金が支払われている。

 貧富の格差が拡大しているという事実は、富の再分配が機能していないことを示している。ということは、収奪された税金は大企業や官僚に有利な形で使われているのだろう。まともに法人税を納めている企業の方が少ないのだ。


 大企業や官僚は確かに問題だ。しかしもっと問題なのは、国民が自分の利益に鈍感であるがゆえにパワーゲームに参加していないことである。民主主義は決して万能ではないが、賢明さを欠くと民主主義は機能しないのだ。

鳩山由紀夫の政治を科学する (帰ってきたバカヤロー経済学)

本格的な経済の問題は紙幣の発明とともに起こった

「今日ではお金とは抽象的な大きさにすぎません。紙幣すらだんだんと姿を消し、今日動かされているのはコンピューターの単位、まったく抽象的な数字といえるでしょう。しかし本格的な経済の問題は紙幣の発明とともに起こったと思います。紙幣には物的価値はなく、価値のシンボルなのです。紙幣の発明で問題が生じるのは、紙幣が好きなだけつくれるからで、金塊ならば好きなだけ増やすというわけにはいきません。金銀に不足した王様は、軍隊に給金が払えず、弱小化しました。周知のようにローマ帝国の滅亡もこのことが主な原因です」


【『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳〈かわむら・あつのり〉、グループ現代(NHK出版、2000年)】

エンデの遺言―「根源からお金を問うこと」

森山大道は無数の写真的断片を増殖させていく


 森山大道はコンパクトカメラを手にノーファインダーでシャッターを切り、無数の写真的断片を増殖させていく。そして、街中を擦過し続ける森山の身体は意図や目的といった人為を無化していく。その写真行為は、写真メディアの複製性や非人称性という潜在的可能性を最大限に発現するものである。盟友の中平卓馬が「カメラになった男」なら、森山大道はさしずめ「写真になった男」といえるのかもしれない。


【『森山大道、写真を語る』森山大道〈もりやま・だいどう〉(青弓社、2009年)】

森山大道、写真を語る (写真叢書)

2010-06-23

「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル

 アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を感じ、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。


 5月後半の課題図書。前半は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』であった。やはりこの二冊はセットで読むべきだろう。


 ナチス強制収容所でフランクルが悟ったのは、生の意味を問う観点を劇的に転換することであった――


 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


【『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)以下同】


 牛馬のように働かされ、虫けらみたいに殺される世界に「生きる意味」など存在しなかった。ひょっとしたら、「死ぬ意味」すらなかったかもしれない。それでも彼等は生きていた。生きる意味がゼロを超えマイナスに落ち込んだ時、「問い」はメタ化し異なる次元へ至ったのだ。問う人は「問われる存在」と変貌した。今日を生きることは、今日に答えることとなった。この瞬間にフランクルは死を超越したといっていいだろう。


 私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。


「どうふるまうか」――そこに自由があった。「ふるまう自由」があったのだ。ベトナムの戦争捕虜として2714日を耐えぬき、英雄的に生還したアメリカ海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールの体験もそれを雄弁に物語っている――

 恵まれた環境に自由があるのではない。自由は足下(そっか)にあるのだ。


 ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められない事態はない」とゲーテはいっています。【それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです】。


 どんな苛酷な運命に遭遇しても選択肢は二つ残されていることをフランクルは教えている。運命を蹴飛ばすか背負うかのどちらかだ。


 逆境の中でそう思うことは難しい。行き詰まった時に人間の本性は噴水のように現れるものだ。いざとなったら見苦しい態度をとることも決して珍しくはない。


 食べるものも満足になく、シャワーを浴びることもままならず、仲間が次々と殺される中で、フランクルはこれほどの高みにたどり着いた。その事実に激しく胸を打たれる。


【苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。

 けれども、人生に重みを与えているのは、【ひとりひとりの人生が一回きりだ】ということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。


 生そのものに意味があったのだ。生きることそれ自体が祝福であった。これがフランクルの悟りである。生の灯(ともしび)が消えかかる中でつかみ取った不動の確信であった。生と死は渾然一体となって分かち難く結びついた。生きることは、瞬間瞬間に死ぬことでもあったのだ。生も死も輝きながら自分を照らしていた。


 絶体絶命の危地にあっても尚、我々は「人生にイエス」と言うことが可能なのだ。フランクルは人類の可能性を広げた。心の底からそう思う。

それでも人生にイエスと言う


D

メキシコ湾の原油流出はこれから何年も続く


 メキシコ湾での石油流出事故が長引いている。これが実は歴史的大災害であることが隠蔽されている。早急に決定的措置が取られなければ、メキシコ湾は回復不能な状況にまで追い込まれる危険性がある。

ROCKWAY EXPRESS

書籍哲学者


 自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。その結果この思想体系は他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形のようなものとなるが、それに比べると自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立のしかたが生きた人間に近いからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである。

 他人から学んだだけにすぎない真理は、我々に付着しているだけで、義手義足、入れ歯や蝋の鼻か、あるいはせいぜい他の肉を利用して整形手術がつくった鼻のようなものにすぎないが、自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので、それだけが真に我々のものなのである。思想家と単なる学者との相違もこのような事情に由来する。したがって自ら思索する者の精神的作品は1枚の生き生きとした絵画、光りと影の配合も正しく、色調も穏やかで、色彩のハーモニーもみごとな生き生きとした出色の絵画のおもむきを呈する。これに反して単なる学者の著作は、色彩もとりどりに豊かでくまなくととのってはいるが、ハーモニーを欠いた無意味な1枚の絵画板に近い。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】

読書について 他二篇 (岩波文庫)

2010-06-22

戦争で異形にされた人々/『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編


 第一次世界大戦の写真集である。粒子が粗(あら)くて見にくい。だからこそ我々は、異形と化した兵士を辛うじて見つめることが可能になる。彼等の顔は原型を思い描くことができないほどズタズタになり、窪み、一部を吹き飛ばされている。


 スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』で紹介されていた一冊。エルンスト・フリードリッヒは敢えて兵士の凄惨な姿を紹介することで、戦争の実態を暴き出そうと試みた。


 写真は、その大部分が戦争場面、共同墓地、そして言語に絶する障害を蒙った兵士などを写し出したものである。それらはすべて、冷徹なカメラの目が捕えた冷酷な戦争の姿である。戦争とはいかに人間を狂気にさせるものであるか、戦争とはいかに多くの悲惨や苦しみそして個人・家庭・社会の崩壊を生み出すものであるか、戦争とは誰のために引き起こされ誰が犠牲になるのか、さらに、戦争が終わった後誰が楽をし誰が苦しむのか、などということを写真の一葉一葉は問いかけてくる。読者は時に、実に残酷な、思わず目を覆いたくなるような写真にも出会うことになろう。そんな時読者は、どうか、それを避けず勇気を持って直視していただきたい。なぜなら、それもまた戦争が生み出す避けがたい事実だからである。私たちは、「戦争を告発する最良の道は、戦争それ自体をもってすることである」というエルンスト・フリードリッヒの信念を共有するがゆえに、そして、「婦人の中にはこの写真を見て卒倒する者もあろう。しかし、どうせ卒倒するなら、この写真を見てする方が前線からの戦士電報を受けてするよりははるかによいのだ」というフリードリッヒの友人であり詩人であったクルト・ツコルスキーの言葉に励まされて、あえてそれらの写真を割愛しなかったのである。(「訳編者まえがき」坪井主税)


【『戦争に反対する戦争』エルンスト・フリードリッヒ編/坪井主税、ピーター・バン・デン・ダンジェン訳編(龍渓書舎、1988年)以下同】


 戦争が人間を狂気にするのではない。人間の狂気が戦争へと駆り立てるのだ。しかもその狂気は日常の中に潜んでいて、我々は疑似戦争行為としての競争に朝から晩まで身をやつしている。


 反戦・平和の声がどこか弱々しいのは現実を無視して理想を語っているためだろう。犠牲という結果に寄りかかり、戦争の原因を抉(えぐ)り取る気魄(きはく)を欠いている。人間は戦争が好きなのだ。そして他人を支配することや、外国人を差別することも。


 まず暴力を定義しよう。暴力とは「力が暴れる」状態と考えられる。つまり、ありとあらゆる力――財力、政治力、知力、魅力など――には「潜在的な暴力性」が秘められている。そしてその力が内外において均衡を欠いた瞬間に暴力は目に見える形となって現れる。相手を無力にしようとする暴力には大なり小なり殺意が存在する。暴力的衝動は相手をモノ化する。「内外において均衡を欠いた力が相手をモノ化する行為」――これを私は暴力と名づける。


 戦争は人間の業(ごう)が織り成すカーニバルである。政治レベルで争い、経済レベルで損得勘定を働かせ、メディアを通じて国民合意を形成する。嘘、デマ、インチキ、何でもありだ。国家的次元の欲望解放が戦争だ。だから戦争は必ず国民の熱狂によって幕を開ける。


 エルンスト・フリードリッヒは写真の合間を縫うようにして、プロパガンダ染みた言辞で読者を扇動する――


 本書を、戦争で利益をあげんとする者、戦争に寄生する者、戦争を挑発する者すべてに献ずる。本書はまた、すべての「国王」に、将軍に、大統領に、そして大臣に、ささげられる。神の御名を通し戦争兵器に祝福を与える聖職者には、戦争バイブルとして本書を献じたい。


 こうした手法に対してスーザン・ソンタグは様々な角度から吟味しているが、私は「あり」だと考える。国民が戦争へと駆り立てられる前に、多くの判断材料が与えられてしかるべきだと思うからだ。


 このような法を、国王に、大統領に、将軍に、そして、戦争賛美の記事を書きたてる新聞記者に適合させて次のような法を作るというのが私の方法である。

「国民をして戦争に徴する者、国民に大量殺人行為をなさしめる者は、兵士となった者の苦しみを購うべく、自らの命と財産を賭すべし。国民をして軍旗の下に駆り立てる王は、自ら旗手となるべし。一兵卒が食する物なく飢えたる時は、王はまた兵卒と共に物乞いに歩くべし。国民の賤家が戦火で焼かれたる時は、宮殿にも城にも火を放ち炎上させるべし。そして就中、前線の露と消えし一個の国民の命を購うべく、一人の王または一人の大臣が祖国のために「名誉の死」を遂げて安らかに葬られるべし。戦争を扇動した新聞記者については、10人一束にして、一兵士の命を購うべく、人質として拘留されるべし。」


「政治家は国民の下僕である」というのは嘘だ。「政治家は国民を戦場へ送り出す人々」なのだから。新聞記者はこれに与(くみ)する連中だ。社会の木鐸(ぼくたく)であることをやめて、政府のスポークスマンやメッセンジャー、あるいは太鼓持ちに成り下がることは決して珍しくない。


 いつの時代も戦争の最大の被害者は女性である。その女性に向かってエルンスト・フリードリッヒは断固として戦争を回避する具体的な行動を呼び掛ける――


「否(ノウ)」――この言葉を絶えず唱えよう。そして、唱えたとおり実践せよ。そうすれば、すべての戦争は遂行不可能になるであろう。全世界のすべての資本、すべての王、すべての大統領は、全世界の全国民が蜂起して「否(ノウ)」を叫んだ時、一体何ができるのか。

 そして汝ら女性たちよ。万一汝の夫が心弱い時、夫に代って汝自身がこの仕事を遂行せよ。夫との愛の絆は軍隊の命令よりも強いことを立証せよ。夫を前線に行かせてはならない。夫のライフルを花で飾ってはならない。夫の首にしっかりと手をまわせ。出発の命令が下っても、夫を行かせてはならない。すべての鉄道を破壊せよ。そして、身を投げて列車の前に立ちはだかれ。女性たちよ、汝の夫が心弱き時、これらを実行せよ。全世界の母たちよ、団結せよ!


 力なき者が「ノー!」と叫ぶ時、時代の歯車は回り始める。その叫び声こそが時代の軋(きし)む音なのだ。バスの運転手から白人に座席を譲るよう促されたローザ・パークスも「ノー!」と答えた。ここからバスボイコット運動が燎原の火の如く広がり、黒人の公民権運動へと発展した。ネルソン・マンデラアパルトヘイト(人種隔離政策)に対して1962年から1990年まで「ノー!」と叫び続けた。インドにおいてはアンベードカルがカースト制度に「ノー!」を叩きつけた。


 時代の悪を炙(あぶ)り出すのはかくの如き反逆者であった。彼等は自らの危険を顧みることなく、自分よりも大きいもののために闘った。


 エルンスト・フリードリッヒも間違いなく反逆者の一人だ。

戦争に反対する戦争

特別会計は憲法違反


 第三に、国の会計のあり方の問題である。そもそもわが国政府は憲法違反を犯し、法律に反した財政運営を行っている。憲法第83条は「国の財政を処理する権限は国会の議決に基いて、これを行使しなければならない」と謳っている。

 しかし、国の一般会計予算から特別会計、特殊法人などへ年間約30兆円も投資されており、この財務については現実には国会の与(あずか)り知らぬところとなっている。特別会計における“公共事業”などの事業予算・箇所付けについても国会を素通りして決定されているのである。


【『日本が自滅する日 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』石井紘基〈いしい・こうき〉(PHP研究所、2002年)】

日本が自滅する日―官制経済体制が国民のお金を食い尽くす

税金の二重取り


 なにしろ、この国では、税金にさえ税金がかかっている(そう。消費税は、酒税や飲食税含みの商品に対してもかかっています)。


【『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆翔泳社、1995年)】

無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ

2010-06-21

破壊とは


 破壊とはつまるところ、創造の一形式なのだ。(「廃物破壊者たち」1954年)


【『二十一の短篇』グレアム・グリーン/高橋和久・他訳(ハヤカワ文庫、2005年)】

二十一の短編  ハヤカワepi文庫

シモーヌ・ヴェイユ


 1冊挫折。


 挫折50『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄シモーヌ・ヴェイユ/田辺保訳(講談社、1974年/ちくま学芸文庫、1995年)/100ページを超えたあたりでやめる。肌が合わない。理由は何か? 彼女の信仰のせいではない。信仰であれば多少なりとも共感できるはずだ。読み始めて直ぐ違和感を覚えた。100ページ読んでギブアップした。純粋な彼女はきっとイエスと同じものを背負っていたのだろう。その覚悟が赤裸々に、そして静かに語られる時、ヴェイユの言葉は刃物と化すのだ。神を見つめる彼女は人間に背を向けた。そこに私は「行き過ぎたストイシズム」を感じてならなかった。神に支配された人々は、神の僕(しもべ)以外の人生を歩むことができない。ヴェイユの純粋さは幸せが近づくことを拒んだ。そんなふうに見えて仕方がない。

カネにまつわる検察庁の問題


 カネにまつわる検察庁の問題といえば、元大阪高検公安部長によって、調査活動費という裏経費が明るみに出たが、それ以外にもいろいろある。たとえば捜査予備費というのも、その一つだ。それは検察庁全体で2億円から3億円の年間予算があり、事件処理をする度に、そのなかから特別の報奨金が各地検に配られる。被疑者を一人起訴して公判請求すれば5万円、略式起訴なら3万円、起訴猶予でも1万円といったところだった。それらの大半が、地検の幹部の小遣いに化けるシステムである。

 つまり、各地検は扱う事件の数が多ければ多いほど、この特別報奨金が分捕れる仕組みになっている。そこで、地検の幹部たちは逮捕者の多い選挙違反を好んであげるのである。


【『反転 闇社会の守護神と呼ばれて』田中森一〈たなか・もりかず〉(幻冬舎、2007年/幻冬舎アウトロー文庫、2008年)】

反転―闇社会の守護神と呼ばれて (幻冬舎アウトロー文庫)

2010-06-20

ジョエル・ベイカン、マックス・ヴェーバー


 1冊挫折、1冊読了。


 挫折49『ザ・コーポレーション わたしたちの社会は「企業」に支配されている』ジョエル・ベイカン/酒井泰介訳(早川書房、2004年)/動画の足下にも及ばない。っていうか多分、動画の出来がよすぎたのだろう。見事な肩透かし。読みたい人はこちらよりも、河出書房新社から出ているDVDブックにした方がよい。


 90冊目『職業としての学問マックス・ウェーバー/尾高邦雄訳(岩波書店、1936年/岩波文庫、1980年)/巻末のあとがきと序文を先に読むべきだった。講演を編んだもので短かったから何とか読み終えることができた。時代背景を知らないと、牧歌的でのんびりした印象を受ける。1919年に行われた講演である。ヒトラーが政治活動を始めた時期だ。ドイツの世相が不穏な動きに包まれる中で、彼は青年に向かって「日々の仕事に帰れ!」と叱咤した。

私たちは何をすべきか? 何から始めるべきか?/『ザーネンのクリシュナムルティ』J・クリシュナムルティ


 同時代に果たしてこれほど世界を駆け巡った人物がいただろうか? 思想や宗教が人間の本質をわしづかみにすると国境を越えて広まってゆく。普遍性は言語や文化を超越して「人間の共通項」を炙(あぶ)り出す。エゴを支えているのは差異への執着だ。真実を叫ぶ一人の声は、やがて人類を照らす光となる。


 クリシュナムルティはスイスのザーネンで毎年夏に集中講話を行った。本書は25年間にわたって開催された最後の夏期国際講習会の講話が収められている。1985年の夏のこと。


 初日にクリシュナムルティはこう話し始めた――


 もしよければ、私たちは日々の生活を気づかう、真面目な人間の集まりだということを指摘したいと思います。私たちは、信念、イデオロギー、仮説、理論上の結論や神学上の概念には何の関心もないだけでなく、誰かに追従する集団である宗派を興そうとしているのでもありません。私たちは、願うに軽薄ではないつもりですし、むしろ世界で起きていることや──あらゆる悲劇や惨憺たる苦悩や貧困──それに対する私たちの責任について、共に気づかっています。

 また、あなたと私、つまり話し手は、共に歩み、共に旅をしているのだということも、指摘したいと思います。上空1万メートルを飛ぶ飛行機に乗っているのではなく、静かな道を、恐ろしいテロ行為、無目的な殺人、脅迫、誘拐、ハイジャック、殺害、戦争を目にする世界のいたるところに伸びている果てしない道を、歩いているのです。しかし、私たちはあまり気にかけているようには見えません。私たちが懸念し、心配し、恐れたりするのは、これらの事件がごく身近で起きたときだけです。事件がはるか彼方のものであれば、いっそう無関心になるのです。

 これが世界で起きていることです──経済的分裂、宗教的分裂、政治的分裂、そしてあらゆる宗教的、宗派的分裂。世界はおびただしい危険や災難に満ちています。未来において、私たちだけでなく子どもや孫たちの生涯においても、何が起こるのか見当がつきません。全世界が重大な危機に瀕しています。そして、この危機は外部にあるばかりでなく、私たち一人ひとりの内部にもあります。もしあなたがこのようなことに少しでも気づいているなら、この問題に対する各自の側の責任とは何でしょう。人は自分自身に頻繁に問いかけたに違いなかった──何をすべきかと。どこから始めるべきでしょう。各自が自分自身、自分の充足、自分の悲しみ、自分の苦悩、経済的な苦闘、その他もろもろのことにかまけています。けれども、私たちが住むこの恐ろしい社会と向き合ったとき、私たち一人ひとりは何をなすべきでしょう。各自が自分自身のことにかまけているのです。どうしますか。祈りの言葉を何度でも繰り返しながら神に祈りますか。それとも、どこかの宗派に属し、どこかの導師(グル)に従い、世の中から逃避し、中世風の衣や、現代的な一風変わった色の衣を身にまとうのでしょうか。僧侶のように、俗世間から完全に身を引くことができますか。(1985年7月7日)


【『ザーネンのクリシュナムルティ』J・クリシュナムルティ/ギーブル恭子訳(平河出版社、1994年)以下同】


「世界の危機」は「人間の危機」であった。「外部の危機」は「内部の危機」であった。


 それにしても見事に世界をスケッチしている。一対一の対話に徹した彼は、人々に共通する苦悩や葛藤を鋭く見据えてた。


 世界を語る人は多い。エゴイズムを平和で糊塗しながら政治的、経済的な覇権を争う目的で世界は語られる。大体の場合において、世界を口にするのは発展途上国から搾取している側のリーダーだ。そして彼等が示す世界とは、領土侵犯的なものであり、地政学的リスクの大小であり、軍事的・貿易的な利得に絡んだものである。政治は必ず人間をコントロールする対象と見なす。これが権力の本質だ。


 一人の力は弱く、大衆は無気力に取りつかれている。「どうせ……」と呟いた瞬間に、我々は単なる労働者や兵士となって権力者に利用される存在と化す。世界は相変わらずのままだ。いや、自分のため息やあきらめが小さな波動となって世界の劣化に拍車をかける。


 私はゴミとなり、砂粒となり、アトムとなるのだ。可もなく不可もなく、いてもいなくてもいい存在になり下がる。人間は透明化して消えかかろうとしている。


 私に何ができるのか? 私は何をなすべきなのか?


 新聞で読んだことや、ジャーナリストや小説やテレビの話などではなく、このすべてを見、直接観察するとき、私たち一人ひとりに課せられた任務や責任とは何でしょう。

 すでに言ったように、あなたを楽しませようとか、あなたが何をすべきかを──私たち一人ひとりが何をすべきかを──教えようとしているのではないのです。政治的、経済的、宗教的な指導者は大勢いましたが、彼らは【まったく】救いようがなかったのです。彼らには彼らなりの理論や方法があり、彼らに従っている何千もの人々が世界中にいます。彼らには、ローマカトリック教会が所有する富だけでなく導師(グル)が所有する富をも含めて、じつに膨大な富があります。すべては金銭に帰すのです。

 そこで、もし尋ねてよければ、私たちは共にどうしたらよいのでしょう。または、一人の人間としてどうしたらよいのですか。はたして、私たちはこのことを問題にしているでしょうか。それとも、自分のために何か特別な満足や喜びを探し求めているのでしょうか。私たちは宗教的な、または宗教以外のある種の象徴に縛られていて、その象徴の背後にあるものが助けてくれるだろうと願いながら、それにしがみついているのでしょうか。これはとても深刻な問題です。そして、この問題は、今日さらにきわめて深刻なものになりつつあります。というのも、戦争の脅威と、まったくの不確実性が存在するからです。


 確かに既成の権力や既成の宗教、既成の概念が世界を変えたことは一度もなかった。ただの一度もだ。世界や人間の共通原理を打ち立てることは可能かもしれないが、複雑化した社会に多様な価値観がある以上、一つの思想が世界を席巻することは考えにくい。政治的な世界統一も、やや陰謀論じみている。緩やかな枠組みを堅持しながらも、細分化しているのが世界の現状だろう。


 世界には争いが絶えない。政治、経済、科学、文化、宗教といったあらゆる次元でぶつかり合っている。そして我々は生まれながらにしてこれらに条件づけられているのである。


 私は日本人だ。すると日本の国益は私にとって望ましいことだが、他国にとってはマイナス益になる。相対性の連鎖の中で損得勘定に支配されているのが我々の人生だ。「すべては金銭に帰す」――。


 クリシュナムルティは初日の講話で自己認識の重要性を説いた。そして、「パターンを壊す」「言葉なしに見つめる」「悲しみに終止符を打つ」と展開していった。


 少なからず彼の声に耳を傾ける人々はいた。しかし世界は耳を貸さなかった。そして5年後の1990年に湾岸戦争が勃発した。

ザーネンのクリシュナムルティ

『暗号名イントレピッド』ウィリアム・スティーヴンスン/寺村誠一、赤羽竜夫訳


暗号名イントレピッド(上) 暗号名イントレピッド(下)


 1940年、英仏海峡へと破竹の勢いで進撃するナチ・ドイツの前に、イギリスの生存は危殆に瀕していた。この重大な局面に対処すべく、チャーチル首相は、一人の男に任務を与えた。

「ヒトラーの世界征服の突破口は、この小さい島イギリスを降伏させることだ。このことをルーズヴェルト大統領に伝えてくれ!」

この使命を受けた人物は、科学者で第一次世界大戦時の空のエース、ヨーロッパ諸国を股にかけるカナダの実業家ウィリアム・スティーヴンソンだった。その使命と人柄に相応しく、暗号名は“勇猛な”を意味する《イントレピッド》だった。

 軍需品の援助が死活問題であった当時、彼は中立国アメリカとの秘密交渉にあたるとともに、「アメリカを戦場に参加させる」密名を帯びていた。そして、英米の諜報組織を統合する必要を感じたチャーチルの要請で、彼は強大な敵枢軸国とその傀儡政権を打破するため、国際的な大諜報網をもついイギリス安全保障調整局(BSC)を創設し、ニューヨークにその本部を置いた。

 史上最大の諜報機関と、この機関の総指揮をとり、チャーチルの密使、ルーズベルトの親友かつ顧問各で、OSSとCIAの名親であった人物の全貌を、30数年の固い沈黙機関を経て明かす記録。

あなた個人を終点とする長い長い系図

 太古から恵まれた進化の系統に属してきたことだけでも、あなたは十分に運がよかったが、あなた個人を終点とする長い長い系図にも、極上の――奇跡と呼ぶしかないほどの――幸運がちりばめられている。38億年間、山河や海洋が生まれるよりもっと昔から、あなたの母方と父方、両方のすべての先祖が、配偶者を見つけるだけの魅力を持ち、繁殖可能な程度に健康で、なおかつそれを実践できるほど長生きする運と環境に恵まれていたのだ。その中の誰ひとりとして、巨獣に踏みつぶされたり、生で食べられたり、海に溺れたり、岸に打ち上げられて鰓(えら)呼吸ができなくなったり、不慮の怪我で生殖機能を損なわれたりすることなく、しかるべき時にしかるべきパートナーと遺伝的材料のささやかな授受・結合を行ない、しかるべき形質の組み合わせを次々ととぎれることなく送り継いで、最後の最後に、ほんの束の間、あなたというゴールへ行き着くたった一本の驚異の道をたどってきた。これがどんなに稀有なことか、考えてみるといい。


【『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン/楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(NHK出版、2006年)】

人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫) 人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

『資本主義の文化的矛盾』ダニエル・ベル/林雄二郎訳


資本主義の文化的矛盾 上 (講談社学術文庫 84) 資本主義の文化的矛盾 中 (講談社学術文庫 85) 資本主義の文化的矛盾 下 (講談社学術文庫 86)


 何か知らぬが現代が歴史的変動のただ中にあるのでないか、という実感は恐らく多くの人々にとって本能的に感じられることであろう。しかし、それがどのような原因によって起こっているのか、それは何を示しているのか、何を指向しようとしているのか、誰もがそれを知りたいにもかかわらず、よくわからない。そして言い知れぬ不安と焦燥にさいなまれている。そうした現代人の不安にこたえてくれるのが本書である。(訳者あとがきより)


 本書こそは、まさに現代人のための現代の社会学である。騒乱と混惑に終始した1960年代を、これほど鮮やかに分析した本はない。『イデオロギーの終焉 1950年代における政治思想の涸渇について』で登場し、『脱工業社会の到来 社会予測の一つの試み』にいたるまで、現代社会の本質を鋭く衝いてきたダニエル・ベルが、今その思想の全貌を明らかにする。政治、経済、文化がバラバラに分解した現代への処方箋は何か。宗教こそ新たな統一の基盤であるとする本書の提案を、真剣に受けとめねばならない。


 公共家族(パブリック・ハウスホールド)という言葉が、本書で初めて日本に紹介される。それは、今までの経済学や社会学が、個人と企業を中心に考えてきて、真剣にとりくむことのなかった第三の部門である。それはまさに脱工業化社会の中心領域である。日本でも、企業エゴ、住民エゴ、地域エゴ等と呼ばれる状況が生じてきた。争い合う権利要求のため、政治は立ち往生している。この現代的な問題を解決するのが、公共家族の理念なのである。

『二十世紀文化の散歩道』ダニエル・ベル/正慶孝訳


二十世紀文化の散歩道


 現代、そしてそれを準備した近代――この数世紀にわたる人間社会の「進歩の果実」を、全領域的に検証。新たなる視座から、人間社会への知的貢献を試みた野心作。

2010-06-19

正慶孝、藤原肇


 1冊読了。


 89冊目『ジャパン・レボリューション 「日本再生」への処方箋』正慶孝〈しょうけい・たかし〉、藤原肇(清流出版、2003年)/藤原肇と平野貞夫の対談を読んで早速入手した。100ページ前後で挫けそうになったが、何とか読み終えた。昔の「時事放談」的な臭みがあるものの、二人が教養人であるのは確かだ。特に藤原の頑迷さが目立つ。自著をやたらと紹介する癖があるので一流の人物には見えない。世界を股にかける石油ビジネスを手掛け、これだけの教養がありながら、長ずるにつれ視野が狭くなっているのが残念である。格調高い原理を示す対談が瑕疵(かし)だらけとなっている。

喋るのをやめて、準備にとりかかるべき時だ


「いいか、自分がコントロールできない事柄についてくよくよ考えたって、なんの益にもならない。そういうことは、もうそろそろやめるべきだ。きみは惨めな生活をしてきたし、状況が好転するとは思えない。そろそろ成長し始めるべきだ。喋るのをやめて、準備にとりかかるべき時だ」


【『初秋』ロバート・B・パーカー/菊池光〈きくち・みつ〉訳(早川書房、1982年/ハヤカワ文庫、1988年)】

初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

フォーディズムとナチズム


 事実、ワシントンからの圧力のおかげで、ニュルンベルク裁判においてフォードがナチズムを支援した罪が裁かれることはなかった。アメリカの学者はフォーディズムとナチズムの深い関係を歴史の闇に葬り、アメリカ追従を得意とする日本の学者も、敢えて指摘しようとしないのが現状である。


永井俊哉ドットコム

比較トラップ/『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 天才本である。天才本(てんさいぼん)とは、読むだけで自分が天才になったような錯覚を抱かせてくれる「知的興奮掻き立て本」のことだ。ランクとしては「悟り本」と「勉強本」の間に位置する。


 マッテオ・モッテルリーニの『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』が辞書的、レジュメ的であるのに対して、本書では実証的に行動経済学を解き明かしている。


 実験証明の手法がスタンレー・ミルグラムの『服従の心理』とよく似ており、モルモット化された人間が突きつけてくるデータにたじろぐこと間違いなし。


 この本を通じてのわたしの目標は、自分やまわりの人たちを動かしているものがなんなのかを根本から見つめなおす手助けをすることだ。さまざまな科学的実験や研究成果、逸話などを紹介することが(興味を持ってもらえるものが多いはずだ)、よい道しるべになるのではないかと思う。ある種の失敗がいかに秩序立っているか――わたしたちがいかに何度も同じ失敗を繰り返すか――がわかるようになれば、そのうちの一部は、どうすれば防げるかが見えてくるだろう。


【『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー/熊谷淳子訳(早川書房、2008年)以下同】


 これはかなり良心的な手心を加えた言い草となっている。我々の「不合理な行動」を知ったところで現実に生きているのは高度情報化社会であるからだ。しかも情報の取捨選択、リテラシーは飽くまでも恣意的(しいてき)に行われており、脳の情報処理は認知バイアスを避けることができない。


 つまり、「メディアバイアス×認知バイアス=自分の判断」という図式になっている。


 ダン・アリエリーの文章は人間というリアリティに支えられている。わかりにくい理屈とは無縁だ。彼は18歳の時、全身の70パーセントに火傷(やけど)を追っている。その後、3年間もの入院生活を余儀なくされた――


 友人や家族と同じ毎日をすごすことができなくなり、社会から半分切りはなされたように感じた。そのため、以前は自分にとってあたりまえだった日々の行動を、第三者のように外から観察するようになった。まるでべつの文化から(あるいは、別の惑星から)来たよそ者のように、自分やほかの人のさまざまな行動について、なぜそうするのかを考えはじめた。


 思春期の不安、病苦との格闘、将来への絶望――彼はそこから離れて、高い視点から自分を取り巻く世界を観察した。「見る」ことは「離れる」ことである。彼は期せずして「欲望から離れよ」というブッダの教えを実践していたといってよい。失意に打ちひしがれる自分を上から見下ろした時、彼は失意から離れていたはずだ。ダン・アリエリーは人間を通して共通原理を探った。経済原理に人間をはめ込むような真似は決してしなかった。


 では、具体的なケースを紹介しよう――


(飲食店経営コンサルタントのグレッグ・)ラップがこれまでの経験から学んだのは、値の張るメイン料理をメニューに載せると、たとえそれを注文する人がいなくても、レストラン全体の収入が増えるということだ。なぜだろう? たいての人は、メニューのなかでいちばん高い料理は注文しなくても、つぎに高い料理なら注文するからだ。そのため、値段の高い料理をひとつ載せておくことで、二番めに高い料理を注文するようお客をいざなうことができる(そして、二番めに高い料理からより高い利鞘〈りざや〉を確保できるよう調整しておくこともできる)。


 相対性は(相対的に)理解しやすい。しかし、相対性には、絶えずわたしたちの足をすくう要素がひとつある。わたしたちはものごとをなんでも比べたがるが、それだけでなく、比べやすいものだけを一所(ママ)懸命に比べて、比べにくいものは無視する傾向がある。


 わたしたちの実験が示すように、消費者が支払ってもいいと考える金額は簡単に操作することができる。つまり、消費者はさまざまな品物や経験に対する選考や支払い意思額を自分の思いどおりには制御できていない。


 値段の変化に対してわたしたちが示す感応度は、真の選好や需要の度合いの反映などではなく、過去に支払った金額の記憶と、過去の決断との一貫性を維持したいという願望によるところが大きいのかもしれない。


 ストックホルム症候群も、「閉ざされた状況下において劇的な場面が展開されることで極端に選択範囲が狭まった状態」と考えれば、恋愛感情が芽生えることも理解しやすい。


 不合理な行動の原因は「比較トラップ」にあったのだ。物事を判断する際、比較対象は自分の経験を通して矮小化(わいしょうか)される。こうして広い世界は自分を媒介して狭くなってゆく。


 ダン・アリエリーは唯一の解決策は「相対性の連鎖を断つことだ」と指摘している。掘り下げられたテーマがどんどん哲学性を帯びてくる。では、その向こう側に現れるべき「絶対性」は何なのか?


 これは環境問題大衆消費社会の論点に直結している。


 答えは明らかだ。欲望をコントロールするしかない。つまり「少欲知足」だ。「欲少なくして足るを知る」生き方ができない限り、社会や世界のどこかに必ず負荷がかかる。そして答えが明らかであるにもかかわらず実践は至難だ。


 クリシュナムルティは「比較が分断を生む」と指摘している。とすると、「比較からの自由」こそ我々が追求するべき自由なのだろう。ヒエラルキーにまつわる「集団と暴力の問題」も比較に根差している。

予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

思春期のジレンマ


 もっとも、ひとりテレビにかぎらず、あの人生の時期は、同じような相克と煩悶のなかで過ぎていくらしいのだ。いつも決められた何かをしなくてはならない。日々なすべきことが前もって定まっている。いつも誰かが目を光らせていて、いいつけ、要求する。こうしろ、ああしろ、忘れるな、もうすませたか、行ってきたか、どうしていまごろになって……いつも強制だ。押しつける。ぐずぐずするな、ちゃんとやれ……。ひとりのんびりさせてくれない。まったく、あのころときたら――


【『ゾマーさんのこと』パトリック・ジュースキント、ジャン=ジャック・サンペ絵/池内紀〈いけうち・おさむ〉訳(文藝春秋、1992年)】

ゾマーさんのこと

2010-06-18

ジャック・ロンドン、永井陽之助、夏目漱石、ラッタウット・ラープチャルーンサップ


 4冊挫折。


 挫折45『どん底の人びと ロンドン1902』ジャック・ロンドン/行方昭夫訳(岩波文庫、1995年)/体力不足にて挫ける。再読する予定。


 挫折46『現代と戦略』永井陽之助(文藝春秋、1985年)/体力不足にて挫ける。これも再読する予定。


 挫折47『吾輩は猫である』夏目漱石(新潮文庫、2003年)/体力不足にて挫ける。いつか読みたい。


 挫折48『観光』ラッタウット・ラープチャルーンサップ/古屋美登里訳(早川書房、2007年)/体力不足のため挫ける。これは多分読み直すことはないだろう。

イシガキ産業 多用鍋 25cm


 炊飯器が壊れてしまった。下の方が餅みたいになり、上の方は半分も炊けてなかった。二度続いたのであきらめた。で、内釜で炊いてみたところ実に上手く炊けた。「始めチョロチョロ、中パッパ、赤子泣いても蓋取るな」なあんてやる必要はない。最初っから中火でオーケー。15〜20分ほど経ったら、火を止めて蒸らす。しばらくはこれでご飯を炊くことにした。蓋(ふた)は我が家の秘密兵器「イシガキ産業の多用鍋」のを使用。こっちで炊いた方が美味いのだが、如何せん洗うのが面倒なのだ。5.5kgと重量級。


多用鍋25cm 2541

丸山健二新刊『猿の詩集』(文藝春秋、2010年)


猿の詩集〈上〉 猿の詩集〈下〉


 時は第2次世界大戦中。南方の激戦地にて眉間を撃ちぬかれた男の魂が、1匹の猿に乗り移る――。あの戦争を超越的な視点から語りつつ、そこに生きる市民、権力者、そして天皇の在り方をも論じる異色の超大作です。文章を読点によって長く続けるという、特異な文体が放つ異様さもさることながら、日本の戦後と全身全霊で向き合い、批判していく本作は、まさに「圧倒的」の一言に尽きます。約2年ぶりとなる著者の長編小説は、丸山ファンだけでなく、「昭和」を生きた人たちに是非読んでほしい1冊です。

「Bad Day」ダニエル・パウター


 まるでショートムービーのような動画だ。画面構成にもちょっとした工夫があって面白い。


D


Daniel Powter

脳という宇宙


 それぞれのニューロン(神経細胞)は他のニューロンと、およそ1000個から1万個のシナプスを形成している。シナプスにはオンとオフ、つまりあるシナプスが物事を刺激する信号を出す一方で、別のシナプスがそれを鎮める信号を出し、驚異的に複雑な出入りが進行する。砂粒くらいの大きさの脳の断片に、10万個のニューロンと200万本の軸索と100億個のシナプスがあり、それらがたがいに「会話」をしている。これらの数字をもとに計算すると、可能性のある脳の状態――理論的に可能な活動性の順列と組みあわせの数――は全宇宙の素粒子の数を超える。これほど複雑な脳の機能を、いったいどこから理解しはじめればいいのだろうか。機能を理解するためには、神経系の構造を理解することが不可欠なので、まず脳の構造をざっと見ることにする。脊髄の上には脊髄と脳をつなぐ延髄という部位があり、ここに血圧、心拍数、呼吸などの重要な機能をコントロールするニューロン集団(核)がある。延髄の次は橋(きょう)という部位(ややふくらんだ部分)で、小脳に神経線維を送っている。小脳は脳の後部に位置するこぶし大の組織で、体の強調運動を助けている。これらの上に、二つの巨大な半球がのっている――かの有名なクルミ形の脳半球である。半球にはそれぞれ前頭葉、側頭葉、頭頂葉後頭葉の四つの葉(よう)がある。


【『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー/山下篤子訳(角川書店、1999年)】

脳のなかの幽霊 (角川文庫)

2010-06-17

デレク・シヴァーズ「社会運動はどうやって起こすか」


D


完全教祖マニュアル』にも同じ話が出てくる。これを学術的なアプローチで読み解いているのがネットワーク科学だ。フォロワー=コネクター(ハブ)である。このネットワークが「弱いつながり」であるというのがミソ。

パニックが生死を分かつ


 沈没船内で道に迷うか、なにかとからまったダイバーは、自分の死に向かいあうことになる。ダイバーの遺体が沈没船内で多数発見されている――かわいそうなダイバーは道に迷ったまま、目の見えないまま、なにかに引っかかったまま、身動きできないまま、恐怖のために目と口を大きくひらいていた。とはいえ、これらの危険には、奇妙な真実がつきまとう。その危険じたいがダイバーの命を奪うことはめったにないという事実だ。むしろ、危険に対するダイバーの反応――パニック――が、おそらくは生死を分けるのだろう。


【『シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち』ロバート・カーソン/上野元美〈うえの・もとみ〉訳(早川書房、2005年/ハヤカワ文庫、2008年)】

シャドウ・ダイバー 上―深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち (ハヤカワ文庫 NF 340) シャドウ・ダイバー 下―深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち (ハヤカワ文庫 NF 341)

生まれ変わるICタグの衝撃


 中出力型のICタグは場所の制限がなく読み書きができ、読み取り距離が2メートルと長い。この特性を生かせば、山積みになった箱に貼ってあるICタグでも、読み取り機をかざすだけで、一括で読み取れるという。


ITpro 2010-06-14

つつましい落魄

 その横町へはいってゆくと、ふしぎな心のやすらぎを覚えた。そこにはつつましい落魄(らくはく)と、諦(あきら)めの溜息が感じられた。絶望への郷愁といったふうなものが、生きることの虚(むな)しさ、生活の苦しさ、この世にあるものすべてのはかなさ。病気、死、悲嘆、そんな想いが胸にあふれてきて、酔うようなあまいやるせない気分になるのであった。(「嘘アつかねえ」)


【『日日平安』山本周五郎(新潮文庫、1965年)】

日日平安 (新潮文庫)

2010-06-16

秋葉原無差別殺傷事件


 やっと見つけたよ。早速、SmileDownloaderで保存した。この番組を見て私は東浩紀に注目した。櫻井よしこは完全なミスキャスト。


D

極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル

 20世紀を代表する一冊といっていいだろう。「戦争の世紀」に何がどう行われたか。そして戦争をどう生き抜いたかが記されている。


 20代で初めて本書を読んだ時から、私の胸の内側には「ナチス」という文字が刻印された。激しい憎悪が炎となって燃え盛った。「できることなら、ナチスの連中を同じ目に遭わせてやりたい」と歯ぎしりをした。こうして暴力は光のように反射して拡散する。果たしてジプシーや障害者、そして連合軍兵士やユダヤ人に対して向けられたナチスの憎悪と、私の憎悪とにいかほどの差異があるだろうか?


 私の手元にあるのは旧版で、冒頭には70ページ近い「解説」がある。要はナチスの非道ぶりを紹介しているわけだが、読者を特定の方向へリードしようとする意図が明らかで、先入観を植えつける内容になっている。しかもこの解説は署名がないので、訳者が書いたのか出版社サイドが書いたのかもわからない。「お前は神なのか?」と言いたくなるような代物だ。


 例えばこう――


 グラブナーと彼の助手たちは、何かの口実を設けてはたびたび収容所の訊問を行い、もしそれが男の場合には睾丸を針で刺し、女の場合には膣の中に燃えている坐薬を押し込んだのである。(アウシュヴィッツ収容所)


【『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル/霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1956年/新版、1985年/池田香代子訳、2002年)以下同】


 文章に独特の臭みがあるので多分、霜山徳爾が書いたのだろう。大体、翻訳者なのだからこっちがそう思い込んだとしても罪にはなるまい。


 我々はともすると、戦争や政治を道徳的次元から問うことがしばしばある。しかし厳密に考えるならば、道徳は個人の行為を問題にするのであって、戦争や政治という利害調整と道徳とは本来まったく関係がない。多数の人々を殺傷しておきながら、ジュネーブ条約もへったくれもない。


 食べるものも満足に与えられず、暴力にさらされると、人間はどのように変わり果てるのだろうか?


 最初は囚人は、たとえば彼がどこかのグループの懲罰訓練を見ねばならぬために点呼召集を命令された時、思わず目をそらしたものだった。また彼はサディズム的にいじめられる人間を見ることが、たとえば何時間も糞尿の上に立ったり寝たりさせられ、しかも鞭によって必要なテンポをとらせられる同僚を見ることに耐えられなかったのである。しかし数日たち、数週間たつうちに、すでに彼は異なってくる。(中略)その少年は足に合う靴が収容所になかったためはだしで何時間も雪の上に点呼で立たされ、その後も戸外労働をさせられて、いまや彼の足指が凍傷にかかってしまったので、軍医が死んで黒くなった足指をピンセットで附根から引き抜くのであるが、それを彼は静かに見ているのである。この瞬間、眺めているわれわれは、嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。【苦悩する者】、【病む者】、【死につつある者】、【死者】──【これらすべては数週の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである】。


 無気力は「心の死」である。日常的に暴力にさらされると人は痛みに対して鈍感になり、他人の痛みに心を動かさなくなるというのだ。これほど恐ろしいことはない。生存本能を最も深い部分で支えているのは「恐怖」である。強制収容所の人々は確実に死につつあった。


 これを逆から読めば、生の本質は「ものごとを感じ取る力」にあるといえよう。すなわち感受性である。感受して応答するのが生きることなのだ。ゴムまりのように軽やかに弾んでいなければ生きるに値する人生を歩んでいるとはいえない。


 アウシュヴィッツは一つの概念だった。


 概念とは言語世界である。思考は言語世界から離れることができない。そして概念は世界を構築する。この時、アウシュヴィッツの外側の世界は存在しない。世界は階層化する。同じ囚人であっても、カポーと呼ばれる囚人の見張り役になって特典を与えられた者も存在した。過酷な情況は鑿(のみ)となって人々の本質を彫像のように現した。生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれた人間は丸裸にされる――


 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい【内面化への傾向】があったということが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な外的状況を苦痛であるにせよ彼らの精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。【かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである】。


 生きる権利すら奪われた地獄にあっても、「内なる世界」が存在したというのだ。アウシュヴィッツにはこれほどの希望が存在した。人の心はかくも巨大であった。


 ヴィクトール・E・フランクルの偉大さは、強制収容所において「心理学者としての視点」を失わなかったところにある。つまり、劣悪な環境を一歩高い視点から見下ろすことができたのだ。「観察する自分」はアウシュヴィッツから離れていた。これは一種の解脱と見ることができる。


 最もよき人々は帰ってこなかった。


 この重い一言を徹底して掘り下げたのがプリーモ・レーヴィだった。

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録 夜と霧 新版


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生演奏の音は「感受される質」

小林●そうです。トランペットの音質を感ずる。音質というものを聴いているんだよ。ナマの音というのは、感受される質なんですよ。計算できるものは量でしょう。量の方を操作して人間の耳が感受できないような音さえ再生する装置はできる。だけれども、そんなものぼくらには一つもいらないでしょう。耳は自分に合った音色、それだけをキャッチするわけだろう。量を研究してみんなナマの音に近づこうとするんだがそうじゃない。実は自分の耳に近づこうとしているんだ。


【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』(新潮社、2004年)】

小林秀雄全作品〈26〉信ずることと知ること

きちんとした反社会性と粗暴さ


 実際今の子供たちは、幼児向けの歌番組を通じて物心がつく前からロックのビートに慣れ親しんでしまう。だから、彼らは、ビートを体で理解することができる。

「素晴らしいことじゃないか」

 事実、ある面で、これは素晴らしいことなのかもしれない。が、私としては、子供みたいなものにロックをわかってもらっては困るのである。

 ロックに出会う年齢は、せめて14歳以上であって欲しい。

 でないと、きちんとした反社会性と粗暴さが確保できないからだ。5歳6歳の段階でロックに慣れ親しんでしまったら、その人間にとってロックは、ヤバい音楽でもなければ非行への入口でもない。ただの聴いて愉快なだけの、踊れるビートでしかない。ロックは、そんなものであってはならないのである。


【『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆JICC出版局、1993年)】

仏の顔もサンドバッグ

2010-06-15

菅原出


 1冊読了。


 88冊目『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか菅原出〈すがわら・いずる〉(草思社、2002年)/今月の課題図書。昨年読んだばかりだが、やはり面白い作品は何度読んでも面白いものだ。第二次世界大戦前後の米国裏面史。菅原は33歳という若さでこの本を著しているのだから凄い。気になったことはただ一つ。「あとがき」で触れている藤井厳喜や産経新聞社といった右寄りの人脈のみ。ナショナリズムというのは空疎な自我と国家を同一化させることで自分を大きく見せようとする思想で、必ず差別主義者になる。

イビチャ・オシム氏がカメルーン戦を回顧


 今日の試合に限って言えば、本田はデリケートな役割を見事にやったし、褒美としてゴールも決めた。しかし、これは彼のキャリアの始まりでしかない。メディアの皆さんも、今日のゴールだけで本田をヒーローだと持ち上げないでほしい。もし明日の一面がすべて本田ということになれば、日本の未来は危ない。ヒーローは1人ではなく全員だ。もし本田がゴールしたことでヒーローになったとするならば、トラップ技術が巧みでGKの上にボールを浮かすキックができればみんながヒーローになれるということだ。しかし、そうではない。ヒーローは自分の一生と自分の命を懸けて何かを守る存在のことだ。


スポーツナビ 2010-06-15

ドメスティックバイオレンスの本質はインサイドバイオレンス


ドメスティック」は「家庭の」という意味であるが、「国内の」という意味もある。ということは、検察の恣意的な捜査などはドメスティックバイオレンスと呼んでもいいことになる。生活保護の申請を拒否する地方自治体もまた同様だ。


 ドメスティックバイオレンスの本質はインサイドバイオレンス(内部暴力)にあると私は考える。「見えない暴力」「隠蔽(いんぺい)された暴力」と言ってもよい。


 戦争や格闘技は「開かれた暴力」である。暴力団や右翼は「公開された暴力」だ。暴力は示威的な意味合いを帯びる。


 これに対して一般的に言われるところのDVは、家庭内で主に男性が女性に振るう暴力を指す。「家庭内」で行われているため外からは見えない。幼児虐待も同じだ。


 1970年代後半に校内暴力が起こり、1980年代になってからいじめを苦にした自殺が現れ始めた。前者は「見える暴力」であるが、後者は「見えない暴力」であろう。ということは、いじめ問題こそインサイドバイオレンスの走りと考えられる。


 いじめはそれまでも存在したが、明らかに1980年代を経てバブル経済が弾けてから尖鋭化(せんえいか)している。もとより学校だけではなく、社会の至るところでいじめは繰り広げられた。


 EU(欧州連合)発足が1993年のことである。世界は緩やかな統合を目指しつつ、領土拡張路線は姿を消して、帝国主義は既に滅んだように見えた。


 ところがインサイドバイオレンスは激化した。イスラエル問題ルワンダ大虐殺がそれを象徴している。


 バブルが弾けた頃、「戦国時代」だとか「サバイバル」といった言葉がもてはやされた。その一方で若者は「息苦しさ」や「生きにくさ」を覚えていた。経済が不安定になると様々なプレッシャーにさらされる。同調圧力の高い日本社会においてプレッシャーは暴力と化す。その暴力性が連鎖となって弱い者へ向けられるのだ。


 暴力のベクトルは内側に向かう。共同体の枠組みは解体し、分断された個人が泡沫(うたかた)のようにウェブの海を漂っている。そこでは現実のつながりよりも、むしろ情報的なつながりが求められている。


 これを単純に「人間関係が稀薄になる問題」として捉えるのは浅はかだ。人々が求める人間関係の「新しい形」と受け止めるべきだろう。


 通信技術の発達は「いながらのコミュニケーション」を可能にした。人類は引きこもる。家族も崩壊して人々は自分だけのカプセルに安住する。暴力を避けるために。


【付記】英語の接頭辞「in」は反意語を表す場合がある。インフォーマルは非公式で、インモラル(英語表記は「im」)は不道徳になる。本来は「中へ」という意味にもかかわらず、頭につくことで反意語となるのが意味深長であると思う。

東浩紀「一般意志2.0」(民主主義2.0)を語る


グーグルとツイッターの出現によって初めて世界はルソー化した


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 以下、「実況ログ」より転載――


東「民主主義2.0ですが、ルソーが書いた社会契約論の中で、一般意思を元に政府を選ぶ。政府が一般意思を代表しているのか。一般意思とガバナンス、政府は違う。全体意志と一般意志は違う」


東「カントやヘーゲルでは、世論の努力目標として一般意思をとらえた。しかしルソーは違う。18世紀の真ん中は数学が発展していなかった時代。一般意思とは、特殊意志、個人の意志ですね、そこから過不足を取り除いた総和を集めたものである。これはすごく変なことを言っている」


東「ルソーの時代には数学が発展していなかった。そのため一般意思を努力目標として捉えていた。しかし今は違う。今我々の努力していることがルソーの一般意思につながる。一般意思があるから統治形態が選ばれる」


東「佐藤さんが言った討議的民主主義は、デリバレイトと訳される。意思決定にはinformation communication deliberate、3つが入ってくる。ルソーのテクストを現代的に読みかえることが重要」


東「ルソーの話。人民は個々に意志があるのだが、一般意思は生成しているように見えるというのがポイント。議論して意見をまとめていこうよというのは駄目。ニコ動やTwitterは議論していように感じられるというフィクション感がルソーの一般意思と近いと思う」


東「Twitterはフィクションとしての議論感が立ち上がってしまう。それが面白いところ。Twitterの何百万のつぶやいているデータベースがある。これが一般意思。各自のTimeLine、これが全体意思。みたいなことをルソーが考えていたんじゃないか」


東「GoogleとTwitterがでてきて、その二つでルソーが出てくる。Twitterが相互承認じゃないというのは大事と思う。コミュニケーションをとらないで、十分にインフォメーションを与えられている一般市民がデリバレイトすると、一般意思が生まれる」


東「140文字についてコメント。よくブログなどでも『文脈おさえろよ』と言われた。でも文脈をおさえると何も書けない。何も動けなくてマヒしていて、誰かが勝手に動かしてるのをじっとみてるしかなかった。それを解除したのがいいこと」


東「一般意思2.0は、ヨーロッパは精神的、哲学的に民主主義が機能しそうな感じがする。アメリカも同じく自己啓発の国だから、テンション高い。日本はテンション低いし、精神的な伝統もない。僕らが使える道具立ての中から原理を考えないといけない」


 http://www.ustream.tv/flash/video/2733140

【※ディスカッションは01:06:30から】


社会契約論 (岩波文庫)


 これはもっとも徹底的な人民主権論を説いた書物である。国家は個々人が互いに結合して、自由と平等を最大限に確保するために契約することによって成立する。ルソー(1712‐78)はこの立場から既成の国家観をくつがえし、革命的な民主主義の思想を提示した。フランス革命の導火線となった近代デモクラシーの先駆的宣言の書。

民主主義は過大評価されている


 一般の人々だけでなく、ほとんどの経済学者も、民主主義を過大評価している。一般の人々は市場がどれだけうまく機能するかを過小評価しているが、経済学者でさえ、民主主義とくらべれば、市場の長所を過小評価しているのである。


【『選挙の経済学』ブライアン・カプラン/長峯純一、奥井克美監訳(日経BP社、2009年)】

選挙の経済学 投票者はなぜ愚策を選ぶのか

2010-06-14

朝までニコニコ生激論 「民主主義 2.1 (夏)」


 ホリエモン教えて君状態となって、東浩紀の進行を妨げている。それ自体が巧まずして衆愚政治と貴族制を象徴している。ホリエモンの辞書には「忖度」(そんたく)という言葉が載っていないのだろう。獄中体験によってソシオパス傾向が強化されたように見える。

冷ややかな嘲笑をもってコントロールされるピアノ


 眺めていると、アイダはさっきの楽節をさらに数度繰り返し弾いた。それからいきなり、迫りくる怒涛のような章に突入した。音楽が築かれ、迸(ほとばし)った。華やかなアルペジオを貫く叩きつけるような不協和音、余韻を全く残さずに鋭く断ち切ったフォルテッシモ、そして再び叫び、歌い出す。だが、常に冷ややかな嘲笑をもってコントロールされていた。


【『ピアノ・ソナタ』S・J・ローザン/直良和美訳(創元推理文庫、1998年)】

ピアノ・ソナタ (創元推理文庫)

仮に現時点では嘘をついたとしても、後世に対しては絶対に嘘をついてはならない


佐藤●インテリジェンスの世界は情報を外に漏らさないのが原則ですが、しかし自分がやっていることについて、仮に現時点では嘘をついたとしても、後世に対しては絶対に嘘をついてはならない。そのためには記録を残しておかなければいけない。それが、国家や歴史に対する責任なんです。ところが今は、記録なしのメチャクチャな外交が行われている。


【『インテリジェンス 武器なき戦争』手嶋龍一〈てしま・りゅういち〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(幻冬舎新書、2006年)】

インテリジェンス 武器なき戦争 (幻冬舎新書)

2010-06-13

予言の自己成就/『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ


 経済学は実に妙ちきりんな学問で、「経済人」という合理的な存在が大前提になっている。しかしながら私は衝動買いをし、読んでいない本が数千冊あってもなお古本を買い漁り、コンビニやスーパーへ行くと常習的にプッチンプリンを買ってしまう。そんな私が経済人であるわけがなかろう。人生を振り返っても「見えざる手」が働いたことは一度もない。


 合理性だと? フン、そんなものはどうせキリスト教的欺瞞だろう。大体において翻訳語がピンと来ない場合、その原語にはキリスト教の歴史が横たわっていると考えていいと思う。


 例えば「個人」というのは「神と向き合う存在」であり、その個人が集まったのが「社会」である。日本には世間はあっても社会は存在しなかった


「理性」も多分そうだ。理性の有無は神を信じることができるか否かに依(よ)っているのだろう。西洋の連中は長い間、遠い世界には化け物が棲んでいると信じ込んでいたのだ。

 マルクス主義もキリスト教の嫡子(ちゃくし)である。神を人民に、教会を党に、信仰を経済に置き換えただけの話だ。経済学と同様、嘘だろうというほどの合理性に貫かれている。


 更に古典経済学ではアングラマネー富の蓄積を読み解くことができない。


 そこで人間の不合理性に着目し、経済学の世界に心理学を導入したのが行動経済学である。立役者のダニエル・カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞している。


予言の自己成就

 個人が自己の予測や願望に沿うような行動をとった場合、社会現象としてその通りの結果が出現すること。

 すなわち、予言されることによって予言されたことが現実のものになり、人びとが自分たちの共有した知識に基づいて行動することによって、その知識が自分のものになって自己成就する。


★「地価は上がる」と人びとが信じることにより、実際に地価は上がり、「株価は上がる」と信じている限り、株価は上がり続ける。その逆もあるわけで、「銀行が倒産する」などと人びとが予測して、預金引き出しに殺到したり、購買拒否したりすれば、銀行や食品会社はあっという間に倒産してしまう。「思い込み」や「風評」の恐ろしさは他人事ではない。とりわけ、現代はインターネットの時代。サイバー社会の「予言」のスピードとパワーは半端ではないのだ。


【『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ/泉典子訳(紀伊國屋書店、2009年)】

 これはきっと『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』と同じメカニズムが働いているのだろう。


 言葉はシンボルである。営業マンがやたらと具体的な目標や烈々たる決意を発表させられる機会が多いのは、自分の発した言葉で脳を支配するためだ。情報というものは信号機の役割を果たして集中すべき対象を選別する。


 例えば私があなたに向かって「今年中に不幸な出来事が起こる。見える……。私には見える!!!」と予言したとしよう。人生にはいいこともあれば悪いこともあるのが当然だ。ところが、何かアクシデントが起こった際に突然私の言葉を思い起こす羽目になるのだ。そしてあなたは再び私のもとを訪れ、高価な壷を購入するという寸法だ(笑)。


 一寸先は闇だから、人は少しでも確かなものにすがろうとする傾向がある。占いなんぞが典型だろう。ひょっとすると勉強や蓄積もそうかもしれない。安全性への欲求が高まるあまり「私は成功する」と呪文のように唱えるビジネスマンも多い。


 行動経済学の要(かなめ)は実験証明とヒューリスティクスにある。つまり「経験と直観」だ。21世紀になってやっと経済学の中道が誕生した。

世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)

常識を疑え


 しょくん、しょくんは、テンノウとかコウシツとかゆうものをもち出されると、畏れ多いと頭を下げる。

 しかし、考えろ、いったい、テンノウがなぜ尊いのか? と。

 そんなことを考えちゃいけない、と言うやつがいる、また考えたってわかるもんじゃないなどとも。けれども、ほんとに尊く畏れ多いものなら、それを考えれば考えるほど、尊さありがたさがしみじみ魂にしみこむものでなければならないはずだ。

 しょくん、ごまかされちゃいけない。よく考えろ。それを考えるな、などとゆうのは、何か後ぐらいところがあるんだ。手品の種が、ばれそうなんだ。

(※菅季治が京大で学びながら、京都府立五中の嘱託教師をしていた頃、試験問題の裏に鉛筆で書いた文章。1943.11.20)


【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


内なるシベリヤ抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史


(※上が文元社版で、下が社会思想社版)

睡眠は「休み」ではない


 睡眠が何であるかは、やはり、議論の種である。すでに述べたエネルギー消費の観点からすれば、睡眠は「休み」ではない。さらに神経生理学的には、睡眠がいくつかの神経回路の活動を必要とする「積極的」な過程であることが知られている。しかも、睡眠はどうしても必要な行動であるから、その間になにか重要なことが行なわれていることは間違いない。クリックはそれを、覚醒時に取り込まれた余分かつ偶然の情報を、訂正排除する時期だと言う。そうした活動が夢に反映される。「われわれは忘れるために夢を見る」。そうかれは言うのである。


【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

2010-06-12

「ノー・ウーマン・ノー・クライ」ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ


 歌が祈りであるすれば、ライヴという一回性にこそ歌の真髄がある。繰り返される祈りは願望にすぎない。繰り返し聴く曲に求められているのは刺激だ。祈りと歌は常にドラッグと化す危険性を秘めている。「繰り返す」という行為は欲望と所有の臭いがする。「出会い」ではなく「出合い」。ファーストコンタクトの瞬間が持つ現在性に「生の鍵」があるように思う。


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Live!

7000年前に脳手術が行われていた


 これは、7000年前の人間の頭蓋骨。7000年前っていうと、想像もできないくらい遠い昔の話だよね。古代文明、たとえばメソポタミア文明エジプト文明はいかまら4000年から5000年前のことでしょ。それよりももっと昔の人の頭蓋骨。

 この頭蓋骨の上の方の2箇所がへこんでいるのがわかる? これ、手術した跡なんだよ。なんで手術した跡とわかるかっていうと、いちど頭蓋骨を開けると、その穴を開けた部分の骨はもちろんなくなるよね。でも、この写真では、まわりの骨細胞が増殖して穴が埋められているんだ。

 もし事故や武器なんかで、脳を打って死んじゃった人の頭蓋骨だったら、ただここに穴が開いているだけだよね? だって、死んじゃったら増殖できないから。そうじゃなくて、これは手術して、しかもそれがちゃんと成功している跡なんだ。手術の後ちゃんと生きた。少なくとも頭蓋骨が再生するまではこの人は生きていた。


【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(朝日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】

進化しすぎた脳 (ブル-バックス)

仏教における知性と信仰


松山●それで中村元先生とかいろいろな方が教えて下さっていることですが、案外、初期のジャイナ教と仏教はいっていることは同じだし、用語も共通のものが多い。それだけではなく、バラモン教などのいったことと違うことが強調されているけど同じところもいっぱいあって、本当の釈迦如来というかゴータマという人は非常に人格的な感化力が強い、いい意味でのカリスマではあったんだろうけど、何が独特の教説であったかは、あまり分からない可能性もあると思うんです。(中略)

 だから無明の除去(※十二因縁)――現代の言葉でいえば理性によって真実を覚知しそれに基づいて生きるというのは――理想主義としては非常にいいけど、それを全ての人間に要求するとすれば大体不可能だということから、どうも釈迦仏教というものは理想の形で、ごく少ない人にはかなりの程度に実践できるにしても、普通の人にはできっこない、あまりにも厳しいし、またある意味では、人間性について楽観視しすぎている教えだったという気がするわけです。

 そのために密教に至るまで、お互いに全く違う、お釈迦さまがおそらくいわなかった教えによって救われようという、いろいろな分派が生じちゃったと思うんです。

 そこへいくと、『法華経』は、お釈迦さまの『法華経』で説かれたことを心から信ぜよということをもっとも重要視していて、知による無明の根絶を不可欠とする、それまでの仏教というものとはつながらないんですね。それでも、一つだけいえるのは、お釈迦さまがいなければ『法華経』もできなかったことは確かだから、そういう意味で釈迦仏教の延長上にあることも間違いないとは思うけども、やっぱりダルマというものに対する信頼感を徹底的に持つことで『法華経』精神が成り立つのではないか。


【『蓮と法華経 その精神と形成史を語る』松山俊太郎(第三文明社、2000年)】

蓮と法華経 その精神と形成史を語る

2010-06-11

「たんぽぽ」つじあやの


 つじあやの三昧(笑)。「そっと愛して そっと恋して 生きてゆこう」という歌詞が泣かせる。

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つじベスト

霊よ、風となって私を吹き飛ばせ


 妻が自爆テロを実行した。それを知った夫の心情――


 交信してくる霊よ、にぎやかな霊よ、この家にとりつくがいい、願わくばすきまを拭き抜けていく風となり、あるいは窓を突き破るほどの嵐となって、私を遠く、うんと遠くまで吹き飛ばしてくれ。今の私の内臓をじわじわと蝕み、私の信じてきたものを壊し、私の心を重大な不安で脅かしているこの疑念から、遠く離れたところまで飛ばしてくれ……。


【『テロル』ヤスミナ・カドラ/藤本優子訳(早川書房、2007年)】

テロル (ハヤカワepiブック・プラネット)

一流メディアと三流週刊誌

 かつて、「この国の週刊誌の定冠詞はいつも“三流”だ」と言った人がいた。「一流」週刊誌など存在しないのだ、と。私もそう思う。報道される中身ではなく、メディアの形式で一流だの三流だのと区別をするならば、週刊誌はいつまでたっても報道機関として「三流」でしかないではないか。

 だが、この桶川の事件に関わってみて私の思ったことの一つは、その分類の弊害が如実に現れたのがこの事件だったのではないか、ということだ。官庁などが発表する「公的な」情報をそのまま流して「一流」と呼ばれることに甘んじているメディアの報道が、その情報源自身に具合が悪いことが起こったときどれだけ歪むか。情報源に間違った情報を流されたとき、「一流」メディアの強力な力がいかに多くのものを踏み潰すか。

 本書のもう一つの目的は、警察という公的な機関と、それに誘導された「一流」メディアが歪めた、この事件の本当の構図と被害者像を改めて伝えることにある。


【『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔(新潮社、2000年/新潮文庫、2004年)】

遺言―桶川ストーカー殺人事件の深層 桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-06-10

精神疾患患者に化学的なバランスのくずれがあるという確かな証拠はなにもない

 驚くべきことに、ほとんどの精神疾患患者で、化学的なバランスのくずれがあるという確かな証拠はなにもない。それにもかかわらず、多くの医師は患者に、化学的なバランスのくずれがあるというふうに説明する。だが、生きている人間の脳の化学的な状態を評価するための検査法は、存在しないのが現実だ。死亡した精神疾患患者の脳において、ある種の神経伝達物質の活性の過剰・不足があったという報告はあるが、そのような関係が見つからないという研究者もいて、決定的ではない。せいぜいのところ、多数の患者から得たデータの平均的な傾向ということにすぎないし、こうした研究において多くの患者の脳の神経化学的現象は調べたところまったく正常だったので、彼らの精神的な問題が化学的なバランスのくずれからきていると論じるのは難しい。

 また、「正常な」人、すなわち精神障害の病歴がない人の脳の神経伝達物質の活性が過剰または不足の兆候があることさえある。さて、ここで一つ認識しておかねばならないのは、化学的な異常がある種の精神疾患の発生と大いに関連があるということが明らかになったとしても、それをどう解釈すべきかがわかったわけではないということである。そのような化学的な「異常」は、病気の原因というより、ある精神疾患にともなうストレスや行動上の特色によって引き起こされたのかもしれない。さらに、向精神薬自体が、化学的なバランスのくずれを生じさせることもあることもよく知られている。精神疾患の「原因」と「結果」が混同されがちである。


【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン/功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監修、中塚公子訳(みすず書房、2008年)】

精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構

『大師のみ足のもとに/道の光』J・クリシュナムルティ、M・コリンズ/田中恵美子訳(竜王文庫、1974年)


大師のみ足のもとに


 扉を叩く者へ

 不真実より真実へと導き給え。

 暗黒より光明へと導き給え。

 死より不死へと導き給え。


「知る、敢行する、決意する、沈黙する。」最後の沈黙することは最も難しいことです。

 もう一つのよく起こる欲望、人の事におせっかいしたいと思うことを、あなたはしっかりとおさえなければなりません。人が何を行い、何と言い、何を信じているかは、あなたの知ったことではありません。その人の為すままにしておくようにならねばいけません。他人を害しない限り、人間は自由に考え、話し、行う完全な権利を持っています。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 若い頃に運動をしてきたこともあって、私は思想や宗教をスポーツと同じ次元で見つめる癖があった。「生きる智慧」は身体性や皮膚感覚に求めるべきだという強い思い込みがあった。


「偉そうなことを言っているが、言葉だけではないのか?」「後継者は何人いるんだ?」「社会に対してどの程度の変化を与えたのだ?」といったような極めてシンプルな判断基準を堅持していた。


 クリシュナムルティを知って、自分が誤っていることに気づいた。私のものの見方はどうしても「技術」に傾いてしまうのだ。功績が問われる世界であれば通用するのだが、「生きる術(じゅつ)」は決して技術ではない。人生には千差万別の固有性があり、その差異を肯定し、受容し、【生きられて】然るべきだ。


 我々は幼い時分から「理想に向かって努力をする生き方」を奨励される。この価値観を疑う者はまずいない。ところがクリシュナムルティは理想も努力も否定する――


 人はどのようにして変容し、「なる」(ビカミング)から「ある」(ビーイング)ことへのこの根源的変化を起こしたらいいのでしょう? 何かになろうとしており、それゆえ奮闘努力し、自分自身と格闘している人──いかにしてそのような人があの「ある」状態、廉直にして自由な状態を知ることができるでしょう? 問題点をはっきりつかんでいただければいいのですが。つまり、私は何かになるために何年もの間努力してきた──例えば、羨望をなくする(ママ)ように、妬み深くなくなるように努力してきた。では、その私はどうやってその努力を放棄し、やめたらいいのでしょう? なぜなら、私がいわゆる善良になろうと努力しているかぎり、私は明らかに自己閉鎖の過程を築き上げつつあるからであり、そして閉鎖状態には何の自由もないからです。そこで私ができることのすべては、自分が何かになりつつある過程に気づくこと、受動的に気づくことです。もし私が浅薄なら、私は、何かになろうと努力する前に、自分が浅薄だということに受動的に気づくことができるはずです。もし自分が怒っていたり、嫉妬していたり、無慈悲であったり、あるいは羨望にとらわれたりしていたら、私はそれと闘ったりせず、ただその事実に気づくことができるのです。私たちが何らかの性質と闘うやいなや、私たちはその努力を強調してしまい、それゆえ抵抗の壁を強めてしまうのです。この抵抗の壁が善良とみなされるのですが、しかし独善的な人の前にはけっして真理は現前できません。真理が現われることができるのは、自由な人の前だけであり、そして自由であるためには、けっして独りよがりな記憶の養成、すなわち独善があってはならないのです。

(ボンベイ、1948年3月7日)


【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1994年)以下同】


 クリシュナムルティ・マジックは脳内のシナプスを掻(か)き乱す。つながるべき経路を遮断し、突拍子もない並べ替えを施す。クリシュナムルティが説く「変容」とは、価値観の相転移である。


「理想の自分に【なる】」のではなくして、「本来の自分で【ある】」こと。これは仏法で説かれる有作(うさ)と無作(むさ)の違いと完全に一致している。有作とは作為であり、意図を働かせている生命の状態であり、無作とは天衣無縫な振る舞いが摂理に則って自由自在に生を謳歌する様を表している。


 もちろん技を競う世界において努力することは不可欠だ。筋肉は負荷を与え続けることで強靭になる。そして鍛え上げられた筋肉で我々は重たい荷物を運ぶのだ。そう。働き蟻みたいに。


 理想は美しい。ってことはだよ、「現実は醜い」ってことになってしまっている。しかもそれは「現実の自分」だ。自分を貶(おとし)めることによって、「満たされない欲望」が蛇のように頭をもたげる。クリシュナムルティは「理想を抱く前に現実を見つめよ」と言っているのだ。彼が言う現実とは、理想から懸け離れた「ダメな自分」ではなく、「ダメだと思い込んでいる自分」「自分はダメだと思い込むように教育されてきた自分」を指している。


 ですから人は、この努力、この絶え間ない闘いに気づかなければなりません。ぶつかったり、非難したりせずに、ただ気づくようにするのです。で、もし皆さんがきちんと見守り、受動的に、にもかかわらず機敏に気づくようにすれば、羨望、嫉妬、貪欲、暴力などのすべてが去り、そしてそこに秩序が生まれる──独善としての秩序、閉鎖的秩序ではない秩序が、静かに、速やかに生まれる──のです。なぜなら廉直は自由であり、それは閉鎖の過程ではないからです。そして自由においてのみ、真理が生まれ出ることができるのです。それゆえ、独善ではなく、廉直であることが不可欠です。なぜなら、廉直が秩序をもたらすからです。混乱し、葛藤しているのは独善的な人だけです。自分の意志を抵抗の手段として伸ばすのは独善的な人だけです。そして、意志の持主はけっして真理を見い出すことはできないでしょう。なぜなら、彼はけっして自由ではないからです。ものごとの「あるがまま」を認識し、それを受入れ、そしてそれと共に生きていくこととしての「ある」状態──あるがままを変形させたり、非難したりしようとしないこと──が廉直をもたらし、そしてそこに自由があるのです。精神が記憶を養成していないとき、抵抗の手段として独善を追求していないときにのみ自由があり、そしてその自由のなかに真実在、じかに体験されなければならない祝福が訪れるのです。


「自分は何てダメな人間なんだろう」――常に比較にさらされている我々は卑屈な生き方を強いられている。このため幸福とは社会的成功を意味するようになってしまった。「ひとかどの人物」になることで、我々は自我の拡大を図っているのだ。


 実は我々が考える自由は、「競争下における自由」である。ピラミッド型のヒエラルキーをエレベーターのように上昇する自由だ。我々はエレベーターから出る自由を求めていない。つまり、獄舎を飾り立てる自由にしか興味を持てないのだ。

「なりたい」というのは欲望である。そして欲望が悲哀・不安・恐怖を生む


 理想は鋳型(いがた)である。人間を枠組みで規定し、成形しようとする。理想という未来を見つめる時、現在は未来のための手段と化す。大切なのは未来であるがゆえに、現在は否定されるべき性質を帯びる。しかし我々が思い浮かべる未来とは「過去の延長」に過ぎない。

 理想は美しい欺瞞(ぎまん)だ。一寸先は闇であるならば、我々は現在を生きるべきなのだ。理想は現在を束縛し、支配する。


「ありのまま」であること。これこそが真の自由である。

自由とは何か

『アウトレージ』と鳩山政権


 暴力は権力の象徴として描かれることが多い。その究極がジョージ・オーウェルの『一九八四年』である。これに対して純粋な暴力世界、暴力という状況を追求した傑作が、ユースフ・イドリース著『黒い警官』だ。


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密偵政治が失敗する理由


 独裁政治の密偵政治が失敗するのは、君主がかえってこの密偵に誤られるからである。密偵は劇薬のようなもので、副作用が強い。その上に分量を誤るととんでもない結果を招くものだ。明代の天子が宦官を用いて密偵政治を強行して失敗したのがそれである。密偵に誤られないためには、ただの一本筋でなく、縦横十文字に密偵の系統をからみ合わせなくてはならない。できるならばとくに密偵というような専門の機関を設けるよりは、官吏同士をたがいにスパイさせるのが最上の策略である。よほど頭の緻密に働く、聡明な君主でなければ十分に密偵は使いこなせない。


【『雍正帝(ようせいてい) 中国の独裁君主』宮崎市定〈みやざき・いちさだ〉(岩波新書、1950年/中公文庫、1996年)】

雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫)

2010-06-09

江副浩正、岡真理、イーブリン・ブロー


 2冊挫折、1冊読了。


 挫折43『リクルート事件・江副浩正の真実』江副浩正〈えぞえ・ひろまさ〉(中央公論新社、2009年)/江副は人がよすぎる。だからこそ検察に付け込まれたのだろう。トーンが穏やかすぎて読む気が失せた。


 挫折44『記憶/物語』岡真理(岩波書店、2000年)/タイトルと著者名だけで私にとって読まずにはいられない作品である。だが、1ページも読むことなく放り投げてしまった。横書きだったのだ(涙)。しかも岩波書店の横書き本は、句読点を「,」「.」と表記しているので断じて許し難い。私はよほどのことがない限り、横書きの本は読まない。ついでに言っておくと、やたらと改行の多いブログやホームページの類いも読まない。


 87冊目『回想のクリシュナムルティ 第1部 最初の一歩……』イーブリン・ブロー/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2009年)/クリシュナムルティ本37冊目の読了。著者は『変化への挑戦 クリシュナムルティの生涯と教え』でホスト役を務めた女性で、クリシュナムルティ・アメリカ財団の理事。映像からは傲慢の臭いがプンプン漂っていた。他の登場人物がおしなべて誠実な笑顔で語っているため、傲慢な感じが際立っていた。星の教団時代のクリシュナムルティにやたらと注目する連中を私は「神秘派」と名づける。2部構成の著作の半分を星の教団時代に割いていることからも、イーブリン・ブローが神秘派であることは明らかだ。神秘派はクリシュナムルティを無意識のうちに神格化する傾向が強い。本書で注目すべきはクリシュナムルティの詩が紹介されていることである。これは私も初めて知った。大野純一が36ページもの「あとがき」を書いて、一生懸命自社(コスモス・ライブラリー)刊行本の営業に励んでいる。自分の行為がクリシュナムルティの精神と懸け離れていることに、まだ気づいていないようだ。

革マル派に支配されているJR東日本/『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』西岡研介


 読む前は「虫眼鏡本かな?」と思っていた。小さな事実を大袈裟なまでに拡大解釈して騒ぎ立てる本を私は虫眼鏡本と呼ぶ。予断は見事に外れた。タイトル通りの内容だった。驚愕の事実である。JRを利用している人は必読のこと。


 集団や組織は目的の下(もと)に形成される。そして組織の内部にあっては、目的に沿った力学が働く。基本的に「開かれた組織」というものは存在しない。組織は常に閉じられている。つまり組織内部の力学は法律や常識、あるいは倫理や道徳から距離を置き、「目的達成のための犠牲」を強いることが多々見受けられる。


 胡散臭い新興宗教や悪質なマルチ商法からの勧誘に遭遇した時、我々が覚える違和感は「閉ざされた集団内の論理」と「良識」との乖離(かいり)に基づいたものだ。


 約7500キロの線路網を有し、1日約1600万人が利用する「世界最大級の公共交通機関」、JR東日本。その最大・主要労組に「革マル派」という特定の思想集団が浸透し、労働組合を支配し、さらにはJR東日本の経営権にまで介入しているという事実が、この問題の核心部分である。

 革マル派に支配されたJR東労組幹部とJR東日本経営陣の癒着は、「JR東労組(組合員)ニアラザレバ、人(社員)ニアラズ」という悪しき風潮を生み出した。そして、それはJR東日本発足から20年で、もはや企業風土になってしまった。さらにその企業風土は絶えず、乗客の安全や、生命さえ脅かしかねない危険性を孕(はら)んできた。

 これらの問題の中心的存在が、JR東労組の絶対権力者で、「革マル派最高幹部」といわれる松崎明〈まつざき・あきら〉氏(71歳・以下敬称略)という人物である。


【『マングローブ テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』西岡研介(講談社、2007年)以下同】

 革マル派というのは完全なテロリスト集団である。戦前の治安維持法を嫌悪する人であっても取り締まって欲しいと思うような連中だ。基本的に左翼は「暴力による革命」を標榜している。これが内部に向かって締めつける力として働くとリンチになる。


「日本革命的共産主義同盟革命的マルクス主義派」、略称「革マル派」。いまもなお「帝国主義打倒、スターリン主義打倒」、いわゆる「反帝、反スタ」を掲げ、共産主義暴力革命をめざす新左翼セクトである。

 革マル派は1963年の結党以来、10年余にわたって、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)や革労協革命的労働者協会)など対立セクトと、血で血を洗う「内ゲバ」を繰り返してきた。しかし70年代後半からは、組織拡充に重点を置き、党派性を隠して基幹産業の労組やマスコミなど各界各層に浸透。全国に約5400人の構成員を擁するといわれており、きわめて非公然性、秘密性、そして排他性の高い組織である。

 過去に「内ゲバ」という名の殺人を繰り返し、盗聴や盗撮、住居侵入や拉致監禁などの非合法な手段で、自らと主義主張の違う人たちを「Terreur」(フランス語で「恐怖」)に陥れてきた彼らを、「テロリスト」と呼ぶことに私は、なんら躊躇(ちゅうちょ)を覚えない。

 ただ、私は彼らの「思想」を問題にするつもりはない。むしろジャーナリズムに携わる者として、彼らの「思想・信条の自由」は、それこそ職を賭して守らなければならないと考えている。

 私が問題としているのは、彼らの「思想」ではなく、その「行動」なのだ。


 それにしても本書の内容には驚かされる。革マル派の工作活動はスパイ映画さながらである。革マル派思想を浸透させることを目的に作った組織のコードネームが「マングローブ」であった。


「なんなんだ、これは……」

 98年1月7日、東京都練馬区豊玉の6階建て雑居ビル。その最上階に踏み込んだ警視庁公安部の捜査員は、部屋の中から約1万4000本もの鍵の束を見つけ、思わずうめき声を上げたという。

 後に「豊玉アジト」と呼ばれるこの革マル派の非公然アジトからは、この約1万4000本の鍵以外に◎広島県警の警察手帳2冊と公安調査庁の調査官証票4通◎印鑑約400個◎革マル派担当捜査員の住民票や住宅地図をはさんだファイル◎無線機やイヤホンマイク◎偽装カメラ◎5000本を超えるカセットテープとビデオテープ――などが見つかった。

「約1万4000本の鍵のうち、半数の7000本ほどが、使用可能な状態に加工されていました。それらのなかには警察庁、警視庁幹部をはじめ、革マル派担当の捜査員の自宅の鍵まであったのです。

 しかも、実際に使われた形跡のある鍵も多い。驚くべきことに、その後の捜査の結果、革マル派が元警察庁長官宅に侵入し、資料や写真を盗み出していたことまで判明したのです」(捜査関係者)


 盗聴、侵入どころではない。デジタル化された警察無線が傍受され、更には公安警察の専用無線までもが筒抜けになっていた。


 何の躊躇(ためら)いもなく犯罪に手を染める集団がまともであるはずがない。JRには複数の組合があるが、松崎明率いる革マル派が牛耳っていたのは「JR東労組」である。組合員が同郷出身の別の組合員とバーベキューに行っただけで凄惨ないじめに遭う。擦れ違う電車からのパッシングや、挙げ句の果てには「信号を隠す」ようなことまで行われる。毎日毎日罵倒され続け、心理的に追い込まれる組合員はやがて職場を去ってゆく。こんなことが日常的になされているのだ。


 組合間の攻防が熾烈(しれつ)を極めると、鉄パイプで滅多打ちにされ死亡したケースもある。


 このようなテロ集団がなぜ野放しにされているかというと、何と公安幹部の天下り先になっており、公然と公安OBが捜査を妨害しているのだ。


 読み進むうちにオウム真理教を思い出した。オウムがロシアとネットワークがあったことや暴力肯定のポア思想を踏まえると、彼等は「宗教に名を借りた極左集団」であった可能性がある。


 マルクス主義は唯物論の土壌から生まれた。人間を物質的、機械的に見つめる眼差しは暴力との親和性が高い。


 ソ連崩壊後、左翼という言葉は死語になりつつあると思っていたが大きな間違いであった。極左勢力が動かす鉄道を私は利用していたのだから。

マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

「風になる」つじあやの


 ウウーム、病みつきになる声だ(笑)。とはいっても薬物系ではなく、炭水化物系のものだ。あるいはお新香系か。


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つじギフト~10th Anniversary BEST~

北海道新聞社説「調書不採用 これでは冤罪は消えぬ」


 検察が自ら描いた事件の構図に合わせて被告や容疑者の自白を誘導する。否認しても聞く耳を持たず、シナリオ通りに立件する。

 捜査のほころびだとか、詰めの甘さなどという次元の話ではない。自分たちの都合で強引に供述調書を作る手法に背筋が寒くなる。

 郵便割引制度の悪用に絡む厚生労働省の文書偽造事件。元局長の公判で、大阪地裁が検察側主張の最大の根拠だった元係長のすべての供述調書を証拠採用しないと決めた。

 検察が虚偽の自白を誘導した可能性が高いという理由からだ。

 当然の判断である。

 元係長は捜査段階で、上司だった元局長の指示に従って偽の文書を作成したと認めた。検事は「記憶なんてあいまいだから、取り調べた関係者の多数決で決めよう」などと調書への署名を求めたという。

「冤罪(えんざい)はこうして始まるのかな」「密室では検察に勝てない」

 元係長は、取調官とのやりとりを記録する被疑者ノートに「うそをつくな」と追い詰められ、不眠症になりながら調書に署名した経緯を克明につづっていた。

 しかし、公判では一転、元局長からの指示を否認した。検察の誘導でやむを得ずそう自白したのであり、虚偽の文書は自らの判断で作成したと主張を変えたのだ。

 今回の地裁判断は、2人を共犯とした厚労省ぐるみの犯罪という検察の描いた事件の構図が、根底から崩れたことを意味する。元局長が無罪になる可能性が濃厚となった。

 検察は事態を深刻に受け止め、猛省しなければなるまい。

 足利事件菅家利和さんや、富山氷見女性暴行事件の柳原浩さんら犯人にされた人の言葉が思い浮かぶ。

 共に虚偽の供述を捜査官に強要され、裁判でも訴えは認められず、長い間獄につながれた。犯行を否定しても信じてもらえず、責められる。

 苦しさに耐え切れず、どうにでもなれと認めてしまうというのだ。

 冤罪を生みだすこうした土壌を反省し、教訓にしようとする姿勢が今回の検察には感じられない。

 これまでも指摘してきたが、取り調べを録音・録画する全面可視化の実現をあらためて求めたい。

 刑事裁判では従来、供述した本人の署名・押印がある検察官作成の供述調書が証拠として採用されないケースは、ほとんどなかった。

 調書の在り方を厳しくついた今回の決定は、警察や検察の捜査はもとより、裁判所の審理にも厳しい注文をつけたと受け止めるべきだろう。

 裁判で厳格な証拠主義を徹底させなければ、裁判員が冤罪の一角を担うようなことにもなりかねない。


北海道新聞 2010-05-28

貧乏人がいなければ、金持ちは存在し得ない


 都内の国道沿いからモルタルの貧乏アパートが減ったのだって、貧乏人が減ったからではなく、彼らがその場所を追出されたからに過ぎないのだと私は思っている。

 それに、なによりも、我々の経済システムは、神の見えざる足によって不断に踏みつけにされている人々――つまり貧乏人――を常に必要としているのだ。

 そう、貧乏人がいなければ、金持ちは存在し得ない。このことはぜひ強調しておきたい。考えてみれば当然の話だが、富の源泉は、富にでなく、貧困にあるのだ。

 うかつに考える人々にとって、富は、生産力の増大によってもたらされるものであるように見えがちだ。しかし、全地球的な視野に立ってみれば、資源が有限である限りにおいて、富は、富の偏在によってしか保障されないのである。


【『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆翔泳社、1995年)】

無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ

病に感謝する女子中学生


「わたし、この病気でよかった。たくさんの人たちのいたみを知って、たくさんの人たちに出あうことができたもの。骨肉種さん、ありがとう、っていいたいくらいよ。みんなが、こんなにわたしをね、思っていてくれる……。だから、わたし……、世界一、しあわせ。ねぇ、ママ、わかってくれる」


【『いのちの作文 難病の少女からのメッセージ』綾野まさる、猿渡瞳(ハート出版、2005年)】

いのちの作文―難病の少女からのメッセージ (ドキュメンタル童話シリーズ)

2010-06-08

文庫化『国家の自縛』佐藤優(扶桑社文庫、2010年)


国家の自縛 (扶桑社文庫)


 国策捜査、対露外交、陸軍中野学校、キリスト教、同志社学生時代、国体論、神皇正統記大川周明……。『国家の罠』以後、「作家佐藤優」が取り組んできたテーマの多くがここに出揃っている。異能の外交官は日本を、世界を、そして自らをどう分析し、何を考えてきたのか?「文庫版あとがき」として160枚の新規書き下ろしを加え、“戦友”斎藤勉による「佐藤優の自白調書」待望の文庫化。

シンポジウム「嵐の中の⇒嵐の中だった小鳩政権!!〜ニッポンは何を守ろうとしているのか!?」


 いやあ面白かった。ネット上の動画も随分と充実しつつある。佐藤優田原総一朗を怒鳴りつけた。会場の反応を見て、田原総一朗は初めて自分の立ち位置に気づいたことだろう。司会者として進行をコントロールできるテレビ番組ではわからなかったはずだ。

独創技術とは粘り強い努力


 はなはだしい発明物語など、私には無縁なものである。独創技術とは、地味で、地道な努力のうえにようやく発現するものだと思うからである。

 物にたとえれば、万里の長城のように、といえようか。阿呆のように、とことん物事にこだわり、考え抜き、気の遠くなるような営みをコツコツと積み重ねる。途中であきらめることは許されない。妥協も許されない。あきらめず、ごまかさず、粘り強い努力だけが最後にものをいう。


【『独創は闘いにあり』西澤潤一(プレジデント社、1986年/新潮文庫、1989年)】

独創は闘いにあり 独創は闘いにあり

(※左が単行本、右が文庫本)

日本における「勝ち組」の正体は薩摩・長州出身者


 ところで、徳川幕府に取って代わった明治維新の新勢力は、結局どのような人物たちでしょうか。

 もちろん、薩摩と長州の武士たちです。

 脈々と現代に生き続ける、日本の「勝ち組」の正体は、じつはこの薩摩と長州を中心とする勢力だということができます。

 明治維新以来、昭和21年に日本国憲法が施行されるまでの間に任ぜられたのべ45人の内閣総理大臣のうち、薩摩出身者はのべ5人、長州出身者はのべ11人に上っています。倒幕に参加した土佐藩からはのべ1人、肥前藩からはのべ2人、占有率はじつに42パーセントを超えてしまいます。大蔵大臣、外務大臣などの主要ポストも薩長閥がほとんどです。

 中央省庁のなかでも、とくに警察庁と防衛省は、薩長の牙城です。鹿児島県、山口県の出身者が多く、事情を知る関係者の間には「鹿児島県、山口県の出身者でなければ出世できない」という暗黙の了解があるほどです。最後まで新政府軍と戦った会津藩の福島県には、昭和になってからようやく国立大学が創られたというのも有名な話です。


【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(ビジネス社、2008年)】

洗脳支配ー日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて

IAEA理事会:「イスラエル核」議題に…91年以来初


 国際原子力機関(IAEA)の6月定例理事会が7日、開会した。イランの核開発問題などに加え、事実上の核兵器保有国とみられているイスラエルの「核能力」についても、92年以来初めて理事会の議題になった。

 パレスチナ自治区ガザ地区に向かった支援船団をイスラエル軍が急襲、多数の死傷者を出した事件を受け、イスラム諸国を中心に反イスラエル機運が高まっていることもあり、核を巡るイスラエルへの風当たりは一層強まりそうだ。

 イスラエルの同盟国・米国は、イスラエルの「核能力」について議題とすることに「留保」の姿勢を示したが、議題からの削除は求めなかった。

 イスラエルの核問題では、昨年9月のIAEA年次総会で同国に核拡散防止条約(NPT)加盟を求める決議が採択されている。理事会ではこれを受ける形で、加盟国から意見を聴取する。ただ、決議など具体的な動きは予定されていない。

 一方、天野之弥ゆき(や)事務局長は理事会冒頭の演説で、イランが引き続き、ウランの濃縮度を約20%に高める活動を拡大していると指摘。イランに対し、安全保障措置(査察)への一層の協力を呼び掛けた。事務局長は先月末の定例報告で「秘密裏に核弾頭開発を続けている可能性」に再び強い懸念を示していた。


毎日.jp 2010-06-07

2010-06-07

「We Con the World」(私達は世界を騙す)


 以下、gloomynewsのつぶやきより引用――


 プロパガンダ戦争:イスラエルのコメディテレビLatma TVがガザ支援船事件に関するイスラエル批判報道を皮肉ったパロディPVを公開。「We are the world」の替え歌で、「We Con the World」と題するビデオ。


「We Con the World」ビデオをLatma TVと共同製作したのは元イスラエル軍所属のジャーナリスト、キャロライン・グリック。グリックはワシントンのシンクタンクCenter for Security Policyのメンバー。http://ow.ly/1UNFu


 シンクタンクCenter for Security Policyメンバーにはリチャード・パール他ネオコン人脈がずらり。NYtimes紙報道によれば「We Con the World」ビデオをプロデュースしたキャロライン・グリックはネタニヤフ首相の元側近。


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アンドレ・コント=スポンヴィル、ナオミ・クライン、トム・ロブ・スミス


 2冊挫折、2冊読了。


 挫折41『資本主義に徳はあるか』アンドレ・コント=スポンヴィル/小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2006年)/250ページでやめた。本書の半分が質疑応答となっているが、さほど面白くない。前半の講演もチマチマしていて説明が長すぎるように感じた。


 挫折42『ブランドなんか、いらない』ナオミ・クライン/松島聖子〈まつしま・せいこ〉訳(はまの出版、2001年/〈新版〉大月書店、2009年)/ナイキ、シェル、ギャップ、スターバックスといった国際企業が、どのようにアジアから搾取しているかを暴いたルポ。50ページで挫ける。大部にもかかわらず、文章が全く馴染めなかったためあきらめた。


 85、86冊目『グラーグ57 上』『グラーグ57 下』トム・ロブ・スミス/田口俊樹訳(新潮文庫、2009年)/案の定、前作の出来がよすぎた(笑)。筋書きが粗い。グラーグ57と呼ばれる刑務所に船で向かう件(くだり)はあまり必要性が感じられなかった。それでも一気読みさせられる。「家族の物語」は深刻の度を増す。レオ・デミトフ・シリーズは三部作で完結する予定とのこと。量産を抑えてじっくりと若き才能を育ててもらいたい。田口の訳は時々わかりにくくなる。他の作品も同様だ。

夢を食べて生きる者


 夢を食べて生きる者は空腹で死ぬ――ベンジャミン・フランクリン


【『フルタイムトレーダー 完全マニュアル 戦略・心理・マネーマネジメント』ジョン・F・カーター/長尾慎太郎監修、山下恵美子訳(パンローリング、2007年)】

フルタイムトレーダー完全マニュアル (ウィザードブックシリーズ)

町の光景


 新しい町の高層建築がまわりを取り巻いているが、橋から見たところではまだ古い町を圧倒するまでにいたっていない。かつての様子を、あるいはかくあるべきであったと思える姿を、雨を通して顧みている感じであった。


【『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー/菊池光〈きくち・みつ〉訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1981年/ハヤカワ文庫、1988年)】

レイチェル・ウォレスを捜せ (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)

2010-06-06

日本で初めて告別式をしたのは中江兆民


(1901年12月)17日の葬式は、彼(※中江兆民)の遺言により、一切宗教的儀式を排するために、「告別式」という形で行われた。これが日本における「告別式」の始まりである。然るに、すべてをあいまい化してしまう日本人は、やがて「告別式」のほかにも依然二重の手間をかけて「葬式」は行い、兆民の考えた「告別式」と別の形態のものにしてしまった。

 兆民は墓さえ作らせなかった。


【『人間臨終図巻』山田風太郎徳間書店、1986年)】

人間臨終図巻〈1〉 (徳間文庫) 人間臨終図巻〈2〉 (徳間文庫) 人間臨終図巻〈3〉 (徳間文庫)

半径1メートルの中で1ミリでも社会を変えていこう


 政治家や官僚を叩きながら確実に腐っていく我が国の中で、僕は今日から自らの行いによって、半径1メートルの中で1ミリでも社会を変えていこう、と。


病児保育のNPO法人フローレンス代表 駒崎弘樹のblog

考えるとは「自分で考える」ということでなければならない


 一つの対象を知るとか、一つの問題を解くとかいうことは、それをすでにできあがっている知識の体系に入れることであると一般には考えられておりますし、また事実それで問題の解決がなされることもありますが、しかし真に具体的な問題は、一つ一つ独特なものであります。厳密に申しますなら、少なくとも現実の問題においては、一つとして全く同じ問題はないはずであります。したがってそれは既成のパターンに入れることでは、十分な解決とはなりません。またすでにできあがっているパターンにははいらないからこそ、問題なのであります。したがってその問題を具体的に解くためには、(中略)自分でその枠なり、入れものなりをつくらなければなりません。考えるとは、できあがったパターンにそれを適用することではなく、パターンそのものをつくるということでなければなりません。一言で申しますと、考えるとは自分で考えるということでなければならないのであります。


【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】

「自分で考える」ということ

2010-06-05

公人は修道士のような暮らしであれ


「公人は修道士のような暮らしをしなくちゃいかん、家庭も愛もなにもかもあきらめて、自分以外の者がそれらを豊に持てるように努力せにゃいかん」


【『永遠の都』ホール・ケイン/新庄哲夫訳(潮文学ライブラリー、2000年/白木茂訳、潮出版社、1968年/1901年作)】

永遠の都〈上〉 (潮文学ライブラリー) 永遠の都〈中〉 (潮文学ライブラリー) 永遠の都〈下〉 (潮文学ライブラリー)

「ぎゅっと抱きしめて」つじあやの


 今見つけたウクレレ・ミュージシャン。透明感のある声にもかかわらず、投げやりな歌いっぷりという落差が面白い。CDは2枚組で1980円。破格。

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つじベスト

ラジオ局のヒエラルキー


 ご承知の通り、番組聴取率が悪かったり評判がよろしくなかったりした場合、通常、放送局の社員であるディレクターは責任を取らない。

 取るわけもない。

 どんな場合にでも、彼等は権限の内にあって、なおかつ責任の外にいる。

 彼ら、局の人間は、要するに人事管理に専念する奴隷商人みたいなものであって、実際、半数以上がコネ入社(つまり局のスポンサーであるメーカーさんや大株主である広告代理店の子弟たち)の公家さんたちなのだ。

 ということであれば、現地の泥んこ仕事を担当するのはどうしたって外部の人間、つまりフリーのディレクター、構成作家、タレントといった有象無象ということになる。

 で、構成作家は、そうした責任取りの場所の、切り札みたいなものになる。

 具体的に言えば、番組の評判がよろしかった時にはディレクターのお手柄、よろしくなかったら構成作家の不手際……というわけ。

 私は、残念ながら、そういう構成作家(つまり、あらかじめ用意されたトカゲの尻尾みたいな間抜けな存在)であった。


【『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆(洋泉社、1995年)】

罵詈罵詈 11人の説教強盗へ

ピジンとクレオール


 しかし、言語学者のデレク・ビッカートンによると、ピジン(※互いの言語を学ぶ機会がなかった者同士の間で作られた混成語。奴隷貿易などから生まれた)があるとき一挙に複雑な言語に変身する例も多々あるという。変身の条件はただ一つ、子どもの集団が、母語を獲得する臨界期に、両親の母語ではなくピジンに接することである。子どもたちが両親から引き離され、一カ所に集められて保育される仕組みのプランテーションで、面倒を見る係がピジンで話しかければ、この条件が満たされる。実際、その例はいくつもあった、とビッカートンはいう。子どもたちは、断片的な単語の連なりを真似するだけでは満足せず、複雑な文法を織り込んで、表現力に富んだまったく新しい言語を作り上げる。子どもがピジンを母語とした場合に出現する言語を「クレオール」という。


【『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー/椋田直子〈むくだ・なおこ〉訳(NKKブックス、1995年)】

言語を生みだす本能〈上〉 (NHKブックス) 言語を生みだす本能〈下〉 (NHKブックス)

2010-06-04

シエラレオネ反政府軍に使われた少年兵は5000人以上


 初めのうち、人数の少なかった反政府軍は兵士の数を増やそうと、村という村をおそって、子どもたちをさらって行きました。

 そして、ジャングルで子どもたちを兵士にするように訓練したのです。大人とちがって、武器を持っていなければ子どもたちは相手からあやしまれることはありません。相手を偵察するスパイ役にはもってこいです。

 また、体が小さくすばしっこい子どもたちは、遠くの敵からは攻撃されにくく、大人の兵士よりも活躍します。そのため、たくさんの子ども兵士が戦闘の最前線に送りこまれることになりました。

 兵士になった子どもたちは、大人の兵士に教えられたとおりに村をおそい、家を焼きはらい、人々の手足を切り落とす戦闘マシーンになって行きました。

 反政府軍に使われた子ども兵士の年齢は10歳から16歳。その数は、5000人以上と言われています。


【『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二(汐文社、2005年)】

ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白

龍樹「縁起なるものそれを空性と呼ぶ」


 縁起なるものそれを空性と呼ぶ。それ(空性)は仮説であり、中道である。(『中論』二十四章第一八偈)


 ここで龍樹が「縁起」と呼ぶものは現象世界であるが、厳密にいうならば言葉によって表現された世界のことである。例えば、「人が歩く」という言葉(命題)によって表現されている人と歩く動作とは、縁起の関係にあると龍樹は考えた。「人が歩く」とう縁起の世界(現象)は、究極的な立場では空性()であり、そこでは言葉は止滅(しめつ)しているという。


【『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社選書メチエ、1998年)】

最澄と空海―日本仏教思想の誕生 (講談社選書メチエ)

2010-06-03

検証:鳩山退陣


「ところが鳩山は翌28日朝にオバマ米大統領と電話で会談したことを境に、豹変(ひょうへん)する」――沖縄に米軍基地を押しつけ、連立の一角を崩壊させ、首相の地位まで棒に振らせる「一本の電話」って何なんだ? この国はいまだに治外法権のようだ。右巻きの連中は今こそ叫ぶ秋(とき)だ。

【衝撃事件の核心】見逃されたSOS…両親からの虐待で死亡した7歳男児の阿鼻叫喚


 新たに「虐待」というカテゴリーを設けた。匿名報道が私の個人的信条ではあるが、虐待のニュースに関しては加害者の実名を挙げることに何の痛痒(つうよう)も覚えない。仮に反省したとしても絶対に許すべきではないと考える。一度犯した罪は償(つぐな)うことができない。「償える」と錯覚するのは単なる甘えだ。もしも罪が償えるのであれば、善悪は経済の範疇(はんちゅう)になってしまうだろう。そもそも善行や悪行を足したり引いたりできるわけがないのだ。私は死刑反対論者であるが、幼児虐待や幼児性愛者は死刑にすべきだと考える。


「パパにぶたれたけど、ママは見ても何も言わない…」。虐待のサインは“無視”された。東京都江戸川区の男児はわずか7年で生涯を閉じた。正座をさせられた状態で継父と実母に顔を繰り返し殴られた男児。学校や区も暴行の事実を確認しながらも、両親の「しつけ」という言葉に押し切られた。男児の悲痛な声はどこにも届かなかった。悲しすぎる。


「食べるの遅い」 正座させて顔を平手打ち


 トタンのようなグレーの外壁に、茶色っぽい屋根。見るからに老朽化が進んだアパートは、風が吹くとカタカタと音を鳴らす。

 1月23日午後8時ごろ、このアパートの2階で区立松本小学校1年、岡本海渡(かいと)君(7)は正座させられていた。その小さな体を、電気工の継父、健二容疑者(31)と、実母の千草容疑者(22)が見下ろしていた。

「ごはんを食べるのが遅い!」

 捜査関係者によると、2人はそんな些細(ささい)な理由から海渡君に約1時間にわたり暴行を加えたとされる。2人は海渡君を正座させたまま、顔を10回くらい平手打ちした。健二容疑者はさらに足を4、5回けりつけたという。

「子供がぐったりしている」

 千草容疑者が119番通報したのは午後9時10分ごろ。海渡君は病院に緊急搬送されたが、打撲の痕などから不審に思った救急隊が110番通報した。通報を受けた署員が病院に駆けつけたとき、海渡君は心肺停止状態だった。懸命の救命措置でいったんは蘇生(そせい)したものの、翌24日午前7時ごろ、短い生涯を終えた。

 健二容疑者と千草容疑者が病院にいたため、署員がその場で事情を聴いたところ、2人は暴行の事実を認めたのだが…。

「普段から食べるのが遅く、きちんと食べるようにしつけていた。今回もしつけの一環でやった」

「日ごろからウソをついたり、素直に謝らなかったりしたときはビンタしていた」

 2人の口から出た言葉は、虐待する親の常套(じょうとう)句である「しつけ」だった。健二容疑者は「男の子だから、厳しくしつけていた」とも説明した。

 遺体の腕や肩、胸、足といったいたるところにあざがあった。背中には多数のやけどの痕残っていたという。

「比較的、古い感じの傷があった。長い期間、虐待が繰り返されていた疑いがある」

 捜査幹部はまゆをひそめた。

 警視庁小岩署は2人を傷害容疑で逮捕。司法解剖で死因は不明だが、同署は容疑を傷害致死に切り替えて虐待の実態を調べるとともに、病理検査で死因の特定を進めている。


「もう殴らない」をうのみにした学校


 千草容疑者は中学3年の15歳のとき、海渡君を出産した。千葉県内の実家でシングルマザーとして育児を続けたが、母親に海渡君を任せて、千葉市内の飲食店で働くようになったという。

 その店に客として訪れていたのが健二容疑者だった。客と従業員の間柄から恋愛関係になり、千草容疑者は海渡君を実家に預けたまま、健二容疑者の家に住むようになった。昨年2月に入籍し、4月から海渡君を引き取って3人で暮らし始めた。

「入学式のときだったかな。3人でおめかしして歩いていた。奥さんと海渡君は手をつないでいて、『記念写真を撮ってきたんだぁ』と喜んでいた」

 近くに住む女性はこう振り返る。3人で買い物をする様子もたびたび見られており、はた目には仲の良い家族にみえたという。

 だが、昨年夏ごろから状況は変わったようだ。

 近所の人たちによると、アパート付近で子供の「ギャー」という泣き叫ぶ声、男の怒声、ドスンという大きな物音が聞こえるようになった。

「パパにぶたれた。ママは見ているだけで、何も言わない」

「何も悪いことをしていないのに、ぶたれた」

 昨年9月4日、海渡君が近くの歯科医院を訪れたときだった。歯科医師の男性が足などのあざに気が付いて問いただすと、海渡君はこう打ち明けた。

「自分の保護者である両親から虐待されていることを打ち明けることは、とても勇気のいることだ。それだけ、海渡君は追い詰められていたのではないか」(捜査関係者)

 歯科医師は同月14日、虐待情報を受け付ける同区の「子ども家庭支援センター」に通報。連絡を受けた松本小は、小原サナヘ校長(60)や担任教諭(28)らが17日に家庭訪問を行う対応を取った。

 その際、姿を見せた海渡君の顔はパンパンに腫れ上がっていたという。

「うそをついたので、しつけの意識で殴った。二度と殴らない。男の約束だ」

 学校や区側は健二容疑者の言葉を額面通りに受け取り引き下がった。

 児童虐待防止法により強制立ち入り調査や被害者の一時入所などの対応を行う児童相談所には情報提供したのみ。具体的な対応を求める「通告」という手続きを行わなかった。

「これで解決というつもりではなかったが、『二度とやらない』という確認をとっており、保護者との信頼関係があり、見守り続けたいということで…」

 同区の丸山みどり児童女性課長は当時のことをこう説明する。

 児童虐待に詳しい東海学院大学人間関係学部の長谷川博一教授(臨床心理学)は、こうした対応を厳しく批判する。

「学校や区の対応が理解できない。『しつけのためにやった』という言葉は一番危険度が高いし、母親が虐待を止めようともしない時点で危ない状況だ」

 健二容疑者が「男の約束」という言葉を使っていたが、長谷川教授によれば、「よくも約束させたな」と、健二容疑者が海渡君に責任転嫁し、さらに虐待のリスクが高まった可能性もあるという。


繰り返される連れ子の虐待死


 海渡君の欠席は家庭訪問後、目立つようになった。学校によると、昨年9月以降、「風邪」や「家の都合」、「頭痛」といった理由で85日の出席日のうち31日欠席した。10月には11日連続で欠席していた。

 それでも学校は虐待の可能性を疑わなかった。小原校長は「暴力を振るわないと約束していた。子供がもし、実際にそういうことに遭っていたのであれば、担任に話をしてほしかった」と釈明する。

 子供にそんな相談ができるだろうか。相談がなかったから、気づけなかったという学校側の対応は常軌を逸していると言わざるを得ない。

 海渡君のような連れ子が虐待され、命を落とすケースは後を絶たない。

 平成20年1月、妻の連れ子だった無職の長男(16)を木製のハンガーで殴打するなどして死亡させたとして、川崎市内の会社員の男(39)が神奈川県警に逮捕された。男は「言うことを聞かなかったので殴った」と供述した。

 昨年4月には大阪市西淀川区の小学4年の女児(9)が虐待で衰弱した状態でベランダに放置され、死亡した。保護責任者遺棄致死や死体遺棄容疑で母親(34)と内縁の夫(38)が大阪府警に逮捕された。内縁の夫は女児へ日常的に虐待を繰り返し、母親は黙認していたとされる。顔の傷を隠すために学校に登校させないこともあったという。

 連れ子のほうが一般的に虐待されるリスクが高いとされる。

「連れ子を愛せず、自分の思い通りにならないと邪魔だと思って虐待してしまうことがある。実の親も再婚相手を失いたくないという思いや、自分に暴力の矛先が向くことへの恐れから、虐待に追随するケースもある」(長谷川教授)。


 繰り返される児童虐待。海渡君は事件数日前、近所の人に「お父さんからいじめられていないか」と聞かれたとき、「いじめられてません」と答えたという。

 健二容疑者に気に入られたいというけなげな思いだったのか、そのことが健二容疑者に知られたらまた虐待されると思ったのか。

 海渡君の遺体は千葉県内に住む千草容疑者の母親が引き取り、28日に葬儀が執り行われたという。

 健二容疑者は「子供が亡くなってしまい悲しい。やりすぎてしまった」と反省の言葉を述べ始めているというが、海渡君が死の間際まで味わった恐怖は「やりすぎ」では片づけられない。


産経ニュース 2010-01-31


 注意すべきことだが、虐待にまつわるニュースにおいて新聞やメディアがジャーナリズムとしての役割を果たすことは、まずない。彼等はただの覗き屋である。この記事にしても同様で、学校や児童相談所に責任をなすりつけて自分は頬かむりしている。直ちに法改正をして、虐待通報があった場合は警察が介入すべきだ。

詩は、「書くまい」とする衝動なのだ/『石原吉郎詩文集』石原吉郎


 ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。

(「詩の定義」)


【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】


 これは決して「気取った文章」ではない。戦後、シベリアのラーゲリに抑留された石原にとって「言葉を語る」ことは、そのまま実存にかかわることもあった。言葉にした途端、事実は色褪せ、風化してゆく。時間の経過と共に自分の経験ですら解釈が変わってゆく。物語は単純化され、デフォルメされ、そして変質する。


 石原は「語るべき言葉」を持たなかった。シベリアで抑留された人々は、「国家から見捨てられた人々」であった。ロシアでも人間扱いをされなかった。すなわち「否定された存在」であった。


 消え入るような点と化した人間が、再び人間性を取り戻すためには、どうしても「言葉」が必要となる。石原吉郎は詩を選んだ、否、詩に飛び掛かったのだ。沈黙は行間に、文字と文字との間に横たわっている。怨嗟(えんさ)と絶望、憎悪と怒り、そしてシベリアを吹き渡る風のような悲しみ……。無量の思いは混濁(こんだく)しながらも透明感を湛(たた)えている。


 帰国後、鹿野武一(かの・ぶいち)を喪った時点で、石原は過去に釘づけとなった。シベリアに錨(いかり)を下ろした人生を生きる羽目となった。石原は亡霊と化した。彼を辛うじてこの世につなぎ止めていたのは、「言葉」だけであった。

石原吉郎詩文集 (講談社文芸文庫)

幻のグアム案


 これは驚くべき事実だ――。「グアムでの駐留がアジア太平洋における抑止力を強化すると両政府は認識」(「在沖縄海兵隊に係る協定」)。なぜメディアはこうした情報を早い段階で明らかにしなかったのか? 未必の故意、あるいは不作為があったとしか思えない。


D

銃弾が食い込んだままの教科書


 ヨルダン川西岸のジェニンでは、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が運営する女子小学校を訪ねました。3月4日からの5日間におよぶ侵攻で、戦車によって爆撃を受け、校庭も校舎も銃弾の跡で穴だらけでした。

 ある女の子が、私にノートを見せてくれました。

 彼女のノートは、銃弾を受け、ビリビリに切り裂かれていました。そしてその裂け目の間には、まだ弾丸がくいこんだままでした。

 彼らは、授業中の小学校を銃撃したのです。たくさんの子どもたちがケガをしましたが、病院に運ぶこともイスラエル兵は阻み、助けに入ろうとする者を次々に撃っていきました。

 この日、UNRWAのジェネラルディレクターが駆けつけてキャンプに入ろうとしましたが、イスラエル兵はそれも拒みました。


【『「パレスチナが見たい」』森沢典子〈もりさわ・のりこ〉(TBSブリタニカ、2002年)】

パレスチナが見たい

2010-06-02

福永武彦、魚住昭、ジェイムズ・リーズナー、J・クリシュナムルティ


 2冊挫折、2冊読了。


 挫折39『廃市』福永武彦(新潮社、1960年)/旧かな、旧漢字であったため断念。文庫本を入手する予定。


 挫折40『野中広務 差別と権力』魚住昭(講談社、2004年/講談社文庫、2006年)/講談社ノンフィクション賞受賞作。自民、公明が連立政権を組むに至った顛末(てんまつ)の舞台裏が描かれていて面白かった。やはり政治は生臭い世界だ。読んだのは調べ物をするために必要な箇所のみ。


 83冊目『聞いてないとは言わせない』ジェイムズ・リーズナー/田村義進〈たむら・よしのぶ〉訳(ハヤカワ文庫、2008年)/「贅肉をそぎおとしたハードな文体。人間の悪意を見据える冷徹な目。いくつもの裏切り。ほとばしる血。本書が21世紀のノワールの秀作として読みつがれていく作品になるのは、おそらく間違いのないところだろう」(訳者あとがき)――これは完全な間違いである。通販番組の謳い文句に等しい誇大宣伝であると断言しておこう。確かに一気読みできるが、プロットが粗すぎる上に人物造形の中途半端さが目立つ。主人公の青年と女農場主とが結ばれるのはまだしも、青年の狙いが明らかになると大いなる違和感を覚える。ミステリと呼べる代物ではなく、せいぜい「娯楽フィクション」といったレベルだ。シドニイ・シェルダンの亜流といった印象を受けた。


 84冊目『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)/あまりの薄さに驚いた。本文はたったの63ページしかない。これで840円は高すぎやしないか? 大野も随分と商魂が逞しい。この値段は明らかにクリシュナムルティの精神に反するものだ。1986年に出版されたププル・ジャヤカールの『クリシュナムルティ伝』(日本語未訳と思われる)の一章が元テキスト。わかりやすい内容なのだが、順番としては先に読むべきではない。文章が端的であるため、逆に思想の深さが捉えにくくなっている。クリシュナムルティ本はこれで36冊目の読了。

新装版『CIA洗脳実験室 父は人体実験の犠牲になった』ハービー・M・ワインスタイン/苫米地英人訳(WAVE出版、2010年)



 アメリカ政府が隠し続けたCIA機密プロジェクト「MKウルトラ」。試薬の処方、ショック療法、感覚遮断、強制睡眠……。同プロジェクトは1940年代に始まり、自白薬の開発から洗脳へと発展していった。本書は洗脳の実験台にされた父親を目撃し続け、精神科医になった著者が告白する衝撃のノンフィクション。苫米地英人氏と宮崎哲弥氏による対談も収録!待望の復刊!


新装刊にむけてのまえがき(一部抜粋)  苫米地 英人

 2010年3月末日、警察庁長官狙撃事件の公訴時効を迎えて、警視庁公安部は「オウム真理教のほかに犯人はいない」と異例の発表をした。といっても、私が洗脳を解いた元警察官・K氏を04年に不起訴にした時点で事件の迷宮入りは決まったようなものだった。自白も状況証拠もそろっていたのに、彼らは不起訴に持ちこんだ。K氏から情報が漏れるのを恐れていたのだろう。この事件のオウムの役割はヒットマンに過ぎず、背後に別の組織が存在する。その組織に話が及ばないようにするためどうしても、オウムの仕業で幕を閉じる必要があった。

 本書で、著者の父親が入院した病院がCIAの洗脳実験に利用されたように、オウム真理教がなにかに利用されていた大きな実験場であったことは、今でもあまり知られていない。オウム真理教にかんする事件がうやむやに終わるのは当然といえる。隠したいことがたくさんあるのだ。

麻原こと松本智津夫死刑囚にしても、本人が何かを話してしまう前に、裁判をせずにそのまま消されてしまうのではないか。知人の精神科医が麻原の医療接見の許可を取り会いに行ったが、本来四時間認められる医療接見のはずが、通常接見と同じで一時間、実際は30分ぐらいで追い出されてしまった。もちろん何も訊けなかった。麻原は脳梅毒でかなりやられてはいるけれど、精神的に崩壊はしていないから話しはできるはずだ。でも語らない。村井(秀夫・元幹部。1995年に刺殺された)のように口を封じられてしまうからだろう。上祐(史浩・元幹部)もいまだにいっさい口を割らない。

 地下鉄サリン事件では、発生直後に各国のエージェントがデータを取りに来ていた。日本以外はみんな事件を知っていた。本書で、アメリカ人であるCIAが、同じ人間ではないかのように、カナダ人に洗脳実験を施したように、欧米人にとっては日本人はただの実験材料だったのだろう。オウム自体も実験の対象であり、食事に炭素菌やLSDを混ぜられるなど、信者たちは知らぬうちに実験材料となっていた。これがオウム真理教の実態である。

立て続けに巨額の誤発注


 胡散臭さもここまで来るとお笑い草だ。暴落の予行演習でもやっているのだろう。サイバーテロよりも誤発注の確率が高くなってきた。犯人を捜す手間も省けるしね。


NY株急落 1000倍誤発注?


million(100万)のつもりがbillion(10億)に

 6日のニューヨーク株式市場でダウ平均株価(30種)が急落したきっかけは、「大手金融機関による誤った取引」(金融筋)との見方が広がっている。

 主要銘柄である日用品大手P&Gや化学大手スリーエムの株価が、明確な理由が不明なまま4〜2割前後も急落した。大手金融機関が売り注文を出す際に、「ミリオン(million=100万)」と「ビリオン(billion=10億)」を誤って入力した可能性がある。これに、株価が一定以上の比率で下落した際に、損失を回避するために自動的に売り注文を出す証券会社のコンピューターシステムによる取引が下落に拍車をかけた。

 米証券取引委員会(SEC)などは6日、異常な取引について調査する方針を表明した。

 ニューヨーク証券取引所と、ナスダック店頭市場を運営するナスダックOMXグループは6日、相場が急落した午後2時40分〜同3時に、株価が60%以上変動した取引をすべて取り消すと発表した。


YOMIURI ONLINE 2010-05-07


大証の先物取引で10兆円誤発注、東京株一時110円下落


ドイツ証券、システム不具合か

 大阪証券取引所日経平均先物取引で1日、過去最大とみられる10兆円規模の売り注文の誤発注が発生した。ドイツ証券の発注システムの不具合が原因の可能性がある。先物価格は直後に前日比で110円安の9650円に急落。これをきっかけに、東京株式市場の日経平均株価も一時、110円程度下落した。

 ドイツ証券は、誤発注の詳細を明らかにしていないが、「すぐに注文を取り消した」としている。先物価格は急落後、1分後には10円安まで戻しており、現物の日経平均を含め相場に大きな影響はなかったとみられる。

 市場関係者によると、1日朝の取引開始時に、9690円から9730円の間で、180単位(1単位は取引金額の1000倍)ずつの売り注文が大量に出て合計で約100万単位、10兆円規模になったという。

 5月6日にニューヨーク市場でダウ平均株価(30種)が暴落した際、超高速コンピューターによる誤発注が原因ではとの風評が流れたばかり。「機関投資家のシステム売買に対する不信、不安感につながりかねない」(アナリスト)との懸念の声があがった。大証は「誤発注の経緯について、報告を求めるなど対応を検討したい」としている。


YOMIURI ONLINE 2010-06-02

視点を持たなければ何も見えない


 わかったことは、目があるからモノが見えるんじゃないということなんですね。耳があるから聞こえるわけではなくて、どんな音でも注意深く聞かなければ雑音になったりします。視力があるからモノが見えてるのではなくて、注意深く見なければモノの本質は見えてこないもんなんです。だから、見る視点を持つことによって、看護婦として患者さんを見たとき初めて見えてくるものがあるということでしょうか。


【『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編(KTC中央出版、2001年)】

紙屋克子 看護の心そして技術―課外授業 ようこそ先輩・別冊 (別冊課外授業ようこそ先輩)

党のスローガン


 戦争は平和なり

 自由は隷従(れいじゅう)なり

 無知は力なり


【『一九八四年』ジョージ・オーウェル/高橋和久訳(ハヤカワ文庫、2009年)】

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

2010-06-01

ポリフォニーとホモフォニー


 バッハは、左右の手が独立して動けるようにすることを、音楽の第一の基礎と考えた。そして初心者にも、伴奏音型のみに甘んずる怠惰な左手を許さなかった。それは、音楽に対するバッハの根本的な発想と関係している。

《インヴェンション》のように複数の線が独立にからみあって作られる音楽を、「ポリフォニー」(複旋律音楽)と呼ぶ。これに対し、ひとつの旋律を中心としてそこに和声をまとわらせてゆく音楽の書き方は、ホモフォニー(和声付単旋律音楽)と呼ばれる。この二つは、ヨーロッパで発達した多声音楽の作曲の仕方の両腕として、区別されている(世界の諸民族の音楽は和声なしの単旋律音楽――モノフォニー――がほとんどだが、ヨーロッパでは、複数の音をタテに組み合わせる音楽が大きく発展した)。


【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】

J・S・バッハ (講談社現代新書)

若い女性に同衾(どうきん)を命じたガンディー


 晩年になって、彼の禁欲の誓いの守り方に、非難が寄せられた。周知の通り、彼は、絶えず献身的な若い女性に取り巻かれていた。彼は、彼女らを自分のベッドで寝させるのが習慣となり、彼を暖めるために、服を脱いで彼の裸体に身体をぴったり寄せて寝るよう要求した。ニルマル・クマル・ボーズという弟子が、この変わった習慣を暴露した。問いつめられたガンジーは、最初は、裸の女性を横にして眠るということを昂然と否定し、その後、それはブラフマーチャリヤの実験であると言った。ボーズは、なんら精神性のない実験のために女性の身体を利用するのは、女性の軽蔑であると反論した。

 ガンジーは、若い女性に自分の身体を洗ってもらい、マッサージをしてもらった。正統ヒンドゥー教徒も、厳しい禁欲を課されていた弟子たちも、これにショックを受け、ガンジーのブラフマーチャリヤの解釈を嘲笑した。ガンジーの姪アバ・ガンジーは、ボーズの暴露を確認し、結婚してからもガンジーと寝ることを習慣にしていることを認めた。もう一人の姪マヌも、1962年から1967年にかけて厚生大臣をつとめた女医スシラ・ナヤルも、ガンジーを暖めた女性であった。スシラ・ナヤルは、最初はブラフマーチャリヤはいっさい問題にされなかったと断言した。ガンジーがそれを言い出したのは、人がこの習慣を聞きつけ、許しがたいと思うようになってからである。彼の傍らに生活していた若い女性は、彼とはかなり曖昧な関係を持っていたようである。


【『ガンジーの実像』ロベール・ドリエージュ/今枝由郎訳(白水社文庫クセジュ、2002年)】

ガンジーの実像 (文庫クセジュ)

九日目と十日目にドラマが起こった/『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎


 紛(まが)うことなき経典本といっていい。同じく明治学院大学の講義を編んだものとしては、加藤典洋著『言語表現法講義』が先に出版されているが、こちらは徹底的に技術志向であったのに対して、高橋本は文を書く営みの根源をまさぐっている。


「自由にものを書く」ためには、「自由にものを感じる」ことが必要である。高橋は学生に対して様々なテキストをぶつける。自由を体現した言葉はおしなべて「反逆」の匂いを放っている。学生達の常識や価値観が激しく揺さぶられる。それはまさしく「言葉との出合い」だ。


 初日に紹介されたのは、スーザン・ソンタグの「若い読者へのアドバイス……」であった。高橋は何の解説もしない。ただ、「窓の外を見てください。見慣れた風景が変わって見えませんか?」と静かに問い掛けた。


 そして高橋自身の小学生時代の思い出を振り返った――


(高橋が小学生時代、感想文を書くために用意された2枚の原稿用紙に2行しか書かなかった。担任はこれを「反抗的態度」と受け止め家庭に連絡。これを聞いた父親が激怒。学校へ行き、校長に対して「小説の感想なんか、どう書いたっていいじゃないか! そもそも、そんなものを書く必要なんかあるんですか?」と文句をつけた)

「元芸術家」としての(私の)父親にとって、芸術というものは、たとえば、感想を原稿用紙に2枚書かせるようなものではありませんでした。

 その前に立って、沈黙するか(感動してなのか、あまりにつまらないので絶句してなのかはわかりませんが)、急いで家に帰り、(いい意味でも、悪い意味でも、とにかくなんらかの刺激を受けたせいで)インスピレーションにかられて、キャンバスに向かって絵筆をふるうもの、そのいずれかだと父親は考えたのです。

 そして、その父親の考え方は、学校では受け入れられないものだったのです。正しいのは、どっちでしょう。

 わたしは、父親の方が正しいと思っています。およそ、芸術というものは(小説でも、絵画でも、音楽でも)、それに触れた時、「感想文」を書きたくなるようなものではありません。


【『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎(朝日新聞出版、2009年)以下同】


 では、文章はどこに生まれるのか?


 その相手との話が盛り上がっているとしましょう。たとえば、その相手が、付き合い始めたばかりの恋人だったとか。きっと、楽しいでしょうねえ、すごく。

 ふたりでいるだけで嬉しい。なにを話しても嬉しい。そういう時には、あまり「私」のことを考えたりはしません。

 だって、「私」のことを考えるより、ずっと楽しいことがあるんだから。

 でも、なんだか、相手とのことがうまくいかなくなってきた。ちょっとしたことばのずれで、喧嘩しちゃった。相手を傷つけた。相手が怒った。仲直りしようと思ったのに、もっと怒らせた。なにをしゃべっても、なにをやっても、うまくいかない。

 そういう時、相手が、なにを考えているのか、わからなくなる。でも、それは、相手も一緒のはずではないでしょうか。

 では、どうすればいいのか。どうすれば、相手に伝わる言葉が見つかるのか。

「文章」というものは、そこで発生するべきだ、とわたしは考えています。

 伝えたい相手に、伝わらない。でも、どうしても伝えたい。

 だから、真剣に考える。

 そういうものじゃありませんか?


 文章は分断された世界を統合させるために生まれるというのだ。とすると、自己主張の勝ち過ぎた文章は「真の文章」とはいえない。


 文章に対して、言葉に対して思想的・哲学的アプローチを試みる授業に変化が訪れる。九日目は高橋の私用のために休講となった。そして十日目――


 最初に、あなたたちに、話しておかねばならないのは、それが、きわめて個人的なことだということです。

 そして、わたしの考えでは、きわめて個人的なできごとから出発したものだけが、遠くまで、即ち、あなたたちにまで、目の前に存在しているのに、ほんとうのところは遥か離れたところにいるあなたたちにまで、たどり着くことができるのです。 


 高橋は机を壁際に移動するよう学生に伝え、教壇から降りて学生と同じ目の高さで話しかけた。前回休講にしたのは、高橋の2歳の子が急性脳炎になったためであった。死の淵を彷徨(さまよ)う幼子の姿を見て、高橋は親と子の関係性を見つめ直す。ちょうどその時、高橋は小説を書いていた。作品の中に幼い子が「言葉を失う」場面が挿入されていた。妻が高橋を詰(なじ)る。「あなたが、あんな小説(『「悪」と戦う河出書房新社、2010年)を書いたからだ!」と。


 事の顛末(てんまつ)を高橋は正確な言葉で静かに語る。まるで宗教体験を披歴するかのように。「生の不思議さ」という意味で、それはまさしく宗教的な体験といえた。授業は思想・哲学といった論理的次元を超えて、「生の根源」に触れたのだ。まるで小説そのものといった趣である。


 教育者の本領は「引き出す力」にあることがよくわかる。ソクラテスが書かれた文字よりも対話を重んじた理由もここにあったのだろう。


 最後の講義を高橋は次のように結んだ――


 これでわたしの講義はすべてお終いです。(中略)

 わたしは、あなたたちに、おおいにとまどってほしかったのです。というか、「文章」をうまく書くようになるのとは反対の方向へ、なにも書けなくなるとか、なにを書いたらいいのか、なんのために書いているのか、わからなくなるとか、そうなってほしかったのです。


 案の定、私はそうなってしまった(笑)。数日間書くことができなくなった。身動きできない不自由――そこに自由のスタート地点があったのだ。つまり自由は懐疑とセットになっている。何かを信じる自由よりも、全てを疑う自由の方が重い。

13日間で「名文」を書けるようになる方法