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2010-06-10

精神疾患患者に化学的なバランスのくずれがあるという確かな証拠はなにもない

 驚くべきことに、ほとんどの精神疾患患者で、化学的なバランスのくずれがあるという確かな証拠はなにもない。それにもかかわらず、多くの医師は患者に、化学的なバランスのくずれがあるというふうに説明する。だが、生きている人間の脳の化学的な状態を評価するための検査法は、存在しないのが現実だ。死亡した精神疾患患者の脳において、ある種の神経伝達物質の活性の過剰・不足があったという報告はあるが、そのような関係が見つからないという研究者もいて、決定的ではない。せいぜいのところ、多数の患者から得たデータの平均的な傾向ということにすぎないし、こうした研究において多くの患者の脳の神経化学的現象は調べたところまったく正常だったので、彼らの精神的な問題が化学的なバランスのくずれからきていると論じるのは難しい。

 また、「正常な」人、すなわち精神障害の病歴がない人の脳の神経伝達物質の活性が過剰または不足の兆候があることさえある。さて、ここで一つ認識しておかねばならないのは、化学的な異常がある種の精神疾患の発生と大いに関連があるということが明らかになったとしても、それをどう解釈すべきかがわかったわけではないということである。そのような化学的な「異常」は、病気の原因というより、ある精神疾患にともなうストレスや行動上の特色によって引き起こされたのかもしれない。さらに、向精神薬自体が、化学的なバランスのくずれを生じさせることもあることもよく知られている。精神疾患の「原因」と「結果」が混同されがちである。


【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン/功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監修、中塚公子訳(みすず書房、2008年)】

精神疾患は脳の病気か?―向精神薬の科学と虚構

『大師のみ足のもとに/道の光』J・クリシュナムルティ、M・コリンズ/田中恵美子訳(竜王文庫、1974年)


大師のみ足のもとに


 扉を叩く者へ

 不真実より真実へと導き給え。

 暗黒より光明へと導き給え。

 死より不死へと導き給え。


「知る、敢行する、決意する、沈黙する。」最後の沈黙することは最も難しいことです。

 もう一つのよく起こる欲望、人の事におせっかいしたいと思うことを、あなたはしっかりとおさえなければなりません。人が何を行い、何と言い、何を信じているかは、あなたの知ったことではありません。その人の為すままにしておくようにならねばいけません。他人を害しない限り、人間は自由に考え、話し、行う完全な権利を持っています。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

 若い頃に運動をしてきたこともあって、私は思想や宗教をスポーツと同じ次元で見つめる癖があった。「生きる智慧」は身体性や皮膚感覚に求めるべきだという強い思い込みがあった。


「偉そうなことを言っているが、言葉だけではないのか?」「後継者は何人いるんだ?」「社会に対してどの程度の変化を与えたのだ?」といったような極めてシンプルな判断基準を堅持していた。


 クリシュナムルティを知って、自分が誤っていることに気づいた。私のものの見方はどうしても「技術」に傾いてしまうのだ。功績が問われる世界であれば通用するのだが、「生きる術(じゅつ)」は決して技術ではない。人生には千差万別の固有性があり、その差異を肯定し、受容し、【生きられて】然るべきだ。


 我々は幼い時分から「理想に向かって努力をする生き方」を奨励される。この価値観を疑う者はまずいない。ところがクリシュナムルティは理想も努力も否定する――


 人はどのようにして変容し、「なる」(ビカミング)から「ある」(ビーイング)ことへのこの根源的変化を起こしたらいいのでしょう? 何かになろうとしており、それゆえ奮闘努力し、自分自身と格闘している人──いかにしてそのような人があの「ある」状態、廉直にして自由な状態を知ることができるでしょう? 問題点をはっきりつかんでいただければいいのですが。つまり、私は何かになるために何年もの間努力してきた──例えば、羨望をなくする(ママ)ように、妬み深くなくなるように努力してきた。では、その私はどうやってその努力を放棄し、やめたらいいのでしょう? なぜなら、私がいわゆる善良になろうと努力しているかぎり、私は明らかに自己閉鎖の過程を築き上げつつあるからであり、そして閉鎖状態には何の自由もないからです。そこで私ができることのすべては、自分が何かになりつつある過程に気づくこと、受動的に気づくことです。もし私が浅薄なら、私は、何かになろうと努力する前に、自分が浅薄だということに受動的に気づくことができるはずです。もし自分が怒っていたり、嫉妬していたり、無慈悲であったり、あるいは羨望にとらわれたりしていたら、私はそれと闘ったりせず、ただその事実に気づくことができるのです。私たちが何らかの性質と闘うやいなや、私たちはその努力を強調してしまい、それゆえ抵抗の壁を強めてしまうのです。この抵抗の壁が善良とみなされるのですが、しかし独善的な人の前にはけっして真理は現前できません。真理が現われることができるのは、自由な人の前だけであり、そして自由であるためには、けっして独りよがりな記憶の養成、すなわち独善があってはならないのです。

(ボンベイ、1948年3月7日)


【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1994年)以下同】


 クリシュナムルティ・マジックは脳内のシナプスを掻(か)き乱す。つながるべき経路を遮断し、突拍子もない並べ替えを施す。クリシュナムルティが説く「変容」とは、価値観の相転移である。


「理想の自分に【なる】」のではなくして、「本来の自分で【ある】」こと。これは仏法で説かれる有作(うさ)と無作(むさ)の違いと完全に一致している。有作とは作為であり、意図を働かせている生命の状態であり、無作とは天衣無縫な振る舞いが摂理に則って自由自在に生を謳歌する様を表している。


 もちろん技を競う世界において努力することは不可欠だ。筋肉は負荷を与え続けることで強靭になる。そして鍛え上げられた筋肉で我々は重たい荷物を運ぶのだ。そう。働き蟻みたいに。


 理想は美しい。ってことはだよ、「現実は醜い」ってことになってしまっている。しかもそれは「現実の自分」だ。自分を貶(おとし)めることによって、「満たされない欲望」が蛇のように頭をもたげる。クリシュナムルティは「理想を抱く前に現実を見つめよ」と言っているのだ。彼が言う現実とは、理想から懸け離れた「ダメな自分」ではなく、「ダメだと思い込んでいる自分」「自分はダメだと思い込むように教育されてきた自分」を指している。


 ですから人は、この努力、この絶え間ない闘いに気づかなければなりません。ぶつかったり、非難したりせずに、ただ気づくようにするのです。で、もし皆さんがきちんと見守り、受動的に、にもかかわらず機敏に気づくようにすれば、羨望、嫉妬、貪欲、暴力などのすべてが去り、そしてそこに秩序が生まれる──独善としての秩序、閉鎖的秩序ではない秩序が、静かに、速やかに生まれる──のです。なぜなら廉直は自由であり、それは閉鎖の過程ではないからです。そして自由においてのみ、真理が生まれ出ることができるのです。それゆえ、独善ではなく、廉直であることが不可欠です。なぜなら、廉直が秩序をもたらすからです。混乱し、葛藤しているのは独善的な人だけです。自分の意志を抵抗の手段として伸ばすのは独善的な人だけです。そして、意志の持主はけっして真理を見い出すことはできないでしょう。なぜなら、彼はけっして自由ではないからです。ものごとの「あるがまま」を認識し、それを受入れ、そしてそれと共に生きていくこととしての「ある」状態──あるがままを変形させたり、非難したりしようとしないこと──が廉直をもたらし、そしてそこに自由があるのです。精神が記憶を養成していないとき、抵抗の手段として独善を追求していないときにのみ自由があり、そしてその自由のなかに真実在、じかに体験されなければならない祝福が訪れるのです。


「自分は何てダメな人間なんだろう」――常に比較にさらされている我々は卑屈な生き方を強いられている。このため幸福とは社会的成功を意味するようになってしまった。「ひとかどの人物」になることで、我々は自我の拡大を図っているのだ。


 実は我々が考える自由は、「競争下における自由」である。ピラミッド型のヒエラルキーをエレベーターのように上昇する自由だ。我々はエレベーターから出る自由を求めていない。つまり、獄舎を飾り立てる自由にしか興味を持てないのだ。

「なりたい」というのは欲望である。そして欲望が悲哀・不安・恐怖を生む


 理想は鋳型(いがた)である。人間を枠組みで規定し、成形しようとする。理想という未来を見つめる時、現在は未来のための手段と化す。大切なのは未来であるがゆえに、現在は否定されるべき性質を帯びる。しかし我々が思い浮かべる未来とは「過去の延長」に過ぎない。

 理想は美しい欺瞞(ぎまん)だ。一寸先は闇であるならば、我々は現在を生きるべきなのだ。理想は現在を束縛し、支配する。


「ありのまま」であること。これこそが真の自由である。

自由とは何か

『アウトレージ』と鳩山政権


 暴力は権力の象徴として描かれることが多い。その究極がジョージ・オーウェルの『一九八四年』である。これに対して純粋な暴力世界、暴力という状況を追求した傑作が、ユースフ・イドリース著『黒い警官』だ。


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密偵政治が失敗する理由


 独裁政治の密偵政治が失敗するのは、君主がかえってこの密偵に誤られるからである。密偵は劇薬のようなもので、副作用が強い。その上に分量を誤るととんでもない結果を招くものだ。明代の天子が宦官を用いて密偵政治を強行して失敗したのがそれである。密偵に誤られないためには、ただの一本筋でなく、縦横十文字に密偵の系統をからみ合わせなくてはならない。できるならばとくに密偵というような専門の機関を設けるよりは、官吏同士をたがいにスパイさせるのが最上の策略である。よほど頭の緻密に働く、聡明な君主でなければ十分に密偵は使いこなせない。


【『雍正帝(ようせいてい) 中国の独裁君主』宮崎市定〈みやざき・いちさだ〉(岩波新書、1950年/中公文庫、1996年)】

雍正帝―中国の独裁君主 (中公文庫)