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2010-06-23

「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル

 アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を感じ、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。


 5月後半の課題図書。前半は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』であった。やはりこの二冊はセットで読むべきだろう。


 ナチス強制収容所でフランクルが悟ったのは、生の意味を問う観点を劇的に転換することであった――


 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


【『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル/山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)以下同】


 牛馬のように働かされ、虫けらみたいに殺される世界に「生きる意味」など存在しなかった。ひょっとしたら、「死ぬ意味」すらなかったかもしれない。それでも彼等は生きていた。生きる意味がゼロを超えマイナスに落ち込んだ時、「問い」はメタ化し異なる次元へ至ったのだ。問う人は「問われる存在」と変貌した。今日を生きることは、今日に答えることとなった。この瞬間にフランクルは死を超越したといっていいだろう。


 私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。


「どうふるまうか」――そこに自由があった。「ふるまう自由」があったのだ。ベトナムの戦争捕虜として2714日を耐えぬき、英雄的に生還したアメリカ海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールの体験もそれを雄弁に物語っている――

 恵まれた環境に自由があるのではない。自由は足下(そっか)にあるのだ。


 ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められない事態はない」とゲーテはいっています。【それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです】。


 どんな苛酷な運命に遭遇しても選択肢は二つ残されていることをフランクルは教えている。運命を蹴飛ばすか背負うかのどちらかだ。


 逆境の中でそう思うことは難しい。行き詰まった時に人間の本性は噴水のように現れるものだ。いざとなったら見苦しい態度をとることも決して珍しくはない。


 食べるものも満足になく、シャワーを浴びることもままならず、仲間が次々と殺される中で、フランクルはこれほどの高みにたどり着いた。その事実に激しく胸を打たれる。


【苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。

 けれども、人生に重みを与えているのは、【ひとりひとりの人生が一回きりだ】ということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。


 生そのものに意味があったのだ。生きることそれ自体が祝福であった。これがフランクルの悟りである。生の灯(ともしび)が消えかかる中でつかみ取った不動の確信であった。生と死は渾然一体となって分かち難く結びついた。生きることは、瞬間瞬間に死ぬことでもあったのだ。生も死も輝きながら自分を照らしていた。


 絶体絶命の危地にあっても尚、我々は「人生にイエス」と言うことが可能なのだ。フランクルは人類の可能性を広げた。心の底からそう思う。

それでも人生にイエスと言う


D

メキシコ湾の原油流出はこれから何年も続く


 メキシコ湾での石油流出事故が長引いている。これが実は歴史的大災害であることが隠蔽されている。早急に決定的措置が取られなければ、メキシコ湾は回復不能な状況にまで追い込まれる危険性がある。

ROCKWAY EXPRESS

書籍哲学者


 自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。その結果この思想体系は他人からえた寄せ集めの材料からできた自動人形のようなものとなるが、それに比べると自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立のしかたが生きた人間に近いからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである。

 他人から学んだだけにすぎない真理は、我々に付着しているだけで、義手義足、入れ歯や蝋の鼻か、あるいはせいぜい他の肉を利用して整形手術がつくった鼻のようなものにすぎないが、自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので、それだけが真に我々のものなのである。思想家と単なる学者との相違もこのような事情に由来する。したがって自ら思索する者の精神的作品は1枚の生き生きとした絵画、光りと影の配合も正しく、色調も穏やかで、色彩のハーモニーもみごとな生き生きとした出色の絵画のおもむきを呈する。これに反して単なる学者の著作は、色彩もとりどりに豊かでくまなくととのってはいるが、ハーモニーを欠いた無意味な1枚の絵画板に近い。


【『読書について』ショウペンハウエル/斎藤忍随〈さいとう・にんずい〉訳(岩波文庫、1960年)】

読書について 他二篇 (岩波文庫)