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2010-06-30

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

  • 宗教の語源

 アンドレ・コント=スポンヴィルはフランスきっての人気哲学者らしい。ソルボンヌ大学で哲学を教えながら、フランス国内で一大哲学ブームを巻き起こしたとのこと。「日常生活に役立つ哲学」を提唱している。


 キリスト教への理解がそこそこあって、ヨーロッパ史におけるキリスト教の影響を知っている人であれば堪能できる。というよりは、ストンと腑に落ちる。仏教や道教にも言及しながら、何とクリシュナムルティの言葉も引用されている。


 唯一の瑕疵(かし)は訳文のバランスの悪さで、ひらがなを多用しすぎていて、かえって読みにくくなってしまっている。


 常識的に考えれば、国家や集団の内部的価値観は外部からの指摘によって転換を促されるものだ。集団という集団は何らかの利益を共有しており、それが全てに対して優先される。わかりやすくいえば、農村では収穫という利益を共有するゆえに村人が村八分に従うようなものだろう。往々にして内部の常識は外部の非常識だったり、国内の常識が海外で通用しないことがある。


 一神教というのは思い上がった連中が多い。フランス野郎は文化の宗主国を気取っている節がある。芸術、文学、哲学、料理からワインに至るまで確かにフランス文化は高貴な香りを放っている。フランス人は自由で気ままで勝手だ(笑)。「フランス人はイギリス人を猿だと思っていて、イギリス人は日本人を猿だと本気で思っている」という話を昔聞いたことがある。


 そのフランス人がキリスト教を哲学的に批判しているのだから凄い。アメリカのミネソタ大学が行なった調査によれば、米国内で最も嫌われているのは無神論者であるという結果が出た。

 9.11テロ以降は保守主義が台頭していることもあって、アメリカは「巨大な村」と化しているのだろう。いまだにダーウィンの進化論を教科書に載せないような国なのだ。そして、人工中絶を施した医師が地元住民に銃殺されるような国でもある(※毎年起こっている)。「神様万歳」思想という意味では、中東とさほど変わりがないのだ。保安官気取りの田舎者がアメリカ人の正体であろう。


 宗教を理解することなしに、その国の歴史や文化を知ることはできない。日本人の多くは無宗教を自認しているが、日本の文化の底流には仏教や儒教の概念が敷き詰められている。これに対して外国の場合は移民が多いこともあって「悪しき行動にブレーキの作用をする原理」が宗教となっている。しかしながら、日本の「天」(お天道様)と外国の「神」は似て非なるものだと私は考える。アニミズムと一神教との違いだ。


 コント=スポンヴィルはまず宗教の語源を明らかにする――


 西洋語のほとんどに共通している「宗教」ということばの起源は、どのようなものだろうか。観念の歴史のなかでは二つの答えが競合しており、私の知るかぎり現代言語学はいまだ完全に決着をつけられずにいる。どちらの答えも確定的なものではないが、いずれも啓発的であり、どちらとも決めずにおくほうがいっそう得るところが多いだろう。

 もっとも頻繁にさしだされる答えのほうが、私には疑わしいものであるように思われる。ラクタンティウス〔250頃〜325年頃。修辞学者・教父〕あるいはテルトゥリアヌス〔160頃〜220年頃。「不合理ゆえに我信ず」のことばで知られる教父〕以来、多くの著述家たちが、レリギオ[religio]というラテン語(言うまでもなく、「宗教」(ルリジオン)の語源だ)は、「結びつける」という意味の動詞レリガーレ[religare]に由来すると考えている。ときとして証拠のように提出されもするこの仮説は、宗教にかかわる事柄についてのある種の考えかたにつうじてゆく。それは、宗教とは【結びつける】ものだという考え方だ。


【『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル/小須田健〈こすだ・けん〉、C・カンタン訳(紀伊國屋書店、2009年)】


「結びつける」という語源を知っている人は多いことだろう。宗教は人々を結びつけるものだ。ところが実際は宗教内部のつながりが強くなればなるほど排他的になって、他宗教の人々を殺しまくってきたのが宗教――なかんずくユダヤ教から枝分かれしたキリスト教とイスラム教――の歴史であった。


 一神教国家の歴史は文字通り「侵略の歴史」である。彼等は神の代理人なのだ。殺戮(さつりく)もお気に召すままだ。産業革命(1760-1830)以降、アフリカやアジアがどれほど蹂躙(じゅうりん)されてきたことか。


 宗教は人々を結びつけ、そして人々を分断するものだった。そして、コント=スポンヴィルはもう一つの語源を示す――


 ありうべき第二の語源学は、私にはより信憑性があると思われるものだ。多くの言語学者たちが、すでにキケロがそう考えていたのだが、レリギオ[religio]はむしろ「とり集める」ないしは「再読する」を意味するレリゲーレ[relegere]に由来すると考えている。この意味での宗教は、【結びつける】ものではなく、あるいはまずもってそうなのではなく、私たちが【とり集め】、【再読する】(あるいは、読みかえしながらとり集める)ものを意味する。神話や創生の文書、教え(ヘブライ語のトーラーという語のもともとの意味)や知(サンスクリット語でヴェーダ)、一冊あるいは数冊の書物(ギリシア語におけるビブリア)、講義や朗誦(アラビア語におけるコーラン)、掟(サンスクリット語のダルマ)、原理や規則や命令(旧約聖書における十戒)、要するに啓示ないし伝統が、ただし個人的にも共同でも引きうけられ尊重され内面化されている(二つのありうべき語源学が、ここでひとつになる。すなわち、個々それぞれにひとつの同じテクストを読みかえすことによって絆は生まれる)、さらには古くからも、つねに現在的なかたちでも、集団にとっては統合的に、個人にとっても共同体にとっても構造化的に、そうされているかぎりでの啓示ないし伝統がそれにあたる。こちらの語源学にしたがうなら、宗教とは社会学よりも文献学に多くを負っている。それは、教えへの、掟への、聖典への――要はロゴスへの――愛着なのだ。


 私もこちらに一票を投じよう。教団同士が正統性を争うことは決して珍しいことではないが、その際必ず「瑣末な文献学的争い」に興じることが多い。テクニカルな話題が好まれ、衒学(げんがく)趣味に傾くきらいもある。まさしく、「とり集める」「再読する」心理情況に宗教の本質が垣間見える。


 だがよく考えてみよう。知識と宗教的感情は別のものだ。大切なことは、言葉を手掛かりにして教祖の心に触れることであって、訓詁注釈(くんこちゅうしゃく)に捉われることが宗教的であるわけがない。人間性よりも知識が重んじられるのであれば、それは宗教ではなく学問だ。


「教義の奴隷」と化した人間が果たして自由と言えるだろうか? 言えるはずがない。奴隷は不自由であるからこそ奴隷なのだ。


 しかもキリスト教の場合、イエス本人が記したものは何ひとつ存在しない上、イエスが実在したという証拠すらないのだ。

 関西大学法学部教授をしていた堀堅士(ほり・けんじ)は「四つの異なった『履歴書』を持っている人物を信じることができるでしょうか?」と斬り捨てている(※履歴書とは福音書のこと)。


 クリシュナムルティは常に言う。「言葉は当のものではない」と。

 少し考えれば誰でもわかる話だ。「悟りを語った言葉」がそのまま「悟り」であるはずがないのだ。言葉というものは飽くまでもコミュニケーションのツールであって、その本質は翻訳機能であろう。ところが自分の感情や意志を伝えるはずの言葉は、概念のマントを羽織って意味を曖昧化してしまう。言葉は説明するためのものだ。

 そうであるにもかかわらず、宗教という宗教は教義の奴隷となり、言葉の支配に屈する。なぜなら脳機能が思考に束縛されているからだ。すなわち、我々現代人が真の宗教性を取り戻すためには、思考を終焉させる必要が不可欠となる――

 クリシュナムルティは教団という枠組みをも否定した。そこに彼の宗教性が輝いている。教団は宗教を組織化したもので、人間を必ず内外という物差し分断する。これがどこまでも差異を強調する結果となるのだ。


 宗教は「とり集める」。文献を、そして金と人を。

精神の自由ということ ― 神なき時代の哲学

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