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2010-07-18

重力に抗うストイシズム/『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄』シモーヌ・ヴェイユ


 私はどうしてもこの女性が好きになれない。シモーヌ・ヴェイユはあまりにも清らかで純粋だ。彼女は生き急ぎ、死に急いでいた。常人の数倍ものスピードで生きた彼女は34歳で死んだ。


「カイエ」とは「ノート」のことで、ヴェイユのノートを箴言集風に編んだ作品である。一つひとつの文章は短い。にもかかわらず私は100ページほどでギブアップした。短文が私の関節を完全に捉え、ギシギシと骨を軋(きし)ませた。読み終えたら、間違いなく骨折していたことだろう。かようにヴェイユの攻撃は激しいのだ。


 読むきっかけとなったのは、アンドレ・コント=スポンヴィルの『資本主義に徳はあるか』だった。シモーヌ・ヴェイユが説く「重力」が、諸行無常や六道輪廻と関連性があるかどうかを確かめたかった。結論からいうと「なかった」。ないどころの騒ぎじゃない。重力とは天を目指す者が感じる負荷であった。つまり、ここにあるのは天国と地獄との間を上昇し下降する世界だ。完全なキリスト教的世界観といってよい。


 たましいの【自然な】動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。


【『重力と恩寵 シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄』シモーヌ・ヴェイユ/田辺保訳(講談社、1974年/ちくま学芸文庫、1995年)以下同】


 すると、恩寵は浮力ということになる。だが待てよ。彼女達の世界観では万物を創造したのは神様である。本来であれば神が支配する世界であるにもかかわらず、なぜ我々は重力に支配されるのだろうか? そもそも重力を創ったのも神なのだ。それとも、最初の失敗作(アダムとイヴね)がリンゴを食べたというだけで、人類全員が生まれながらにして罪を負っているとでもいうのだろうか?


 ふたつの力が宇宙に君臨している、――光と重力と。


 その「ふたつ」を生んだのも神だ。どうやら、クリスチャンは天に憧れすぎて「上下志向」に束縛されているようだ。


【重力】――一般的に言って、わたしたちが他人に期待するものは、わたしたちの中に働く重力の作用によって決められる。また、わたしたちが他人から受けるものは、他人の中に働く重力の作用によって決められる。ときには、これが(偶然に)一致することがあるが、多くの場合一致しない。


 しかしだ、ヴェイユちゃんよ(←私より年下だからね)、重力がなければ我々は宇宙に放り出されてしまうのだぞ。その事実を踏まえると、重力こそが大宇宙の慈悲と考えるべきではなかろうか。


 この文章にはトラップが仕掛けられている。物理的な重力と社会的な重力――及び心理的重力――を混同している。これは全く別次元の問題だ。


『リア王』、重力の悲劇。「低さ」と名づけられているものはすべて、重力による現象だ。何より、「低さ」という語がそれをよく示している。


 低いものと浅いものとは、同一のレベルにある。「かれは愛している、激しく、しかし低級に」という言い方は可能だ。「かれは愛している。深く、しかし低級に」という言い方は不可能だ。


 低い浅いは、高い深いに対応している。そして、これらは「計量できる」世界を意味する。「より高く」を続けることで、果たして「神の高さ」に辿り着けるのだろうか? 神が絶対であれば、その距離も絶対的なものだろう。計量できる高さは相対性の範疇(はんちゅう)にとどまる。


 意図的に反論を試みたが、私の言葉が彼女に届くことはないだろう。今、目の前にいたとしても、彼女は黙って静かに微笑んでいるに違いない。


 シモーヌ・ヴェイユは労働者の不幸を知るために勇んで工場や農場で働いた。そしてレジスタンス運動にも身を投じた。彼女は天を目指した短距離ランナーだった。


 真理を愛することは、真空を持ち堪えること、その結果として死を受け入れることを意味する。真理は、死の側にある。


 死は不変の真理だ。しかし、そうであるならば智慧という光は生を照らすはずだ。死は、目撃者の瞳の中にしか存在しない(我々が睡眠を自覚できない事実を思え)。そして、他者の死を見つめた瞳は、自分の生を見失うのだ。


 生と死は分離したものではない。それは不可分であり表裏一体を成している。動植物の死が我々の生を支え、身体の細胞は目まぐるしく生死を繰り返しているのだ。


 清められるための一つの方法。神に祈ること。それも人に知られぬようにひそかに祈るというだけでなく、神は存在しないのだと考えて祈ること。


 これも額面通りに受け止めてはならない言葉だ。ヴェイユは「神の否定」を通して、「絶対的な神の肯定」を目論んでいる。神に依存してしまえば、それ自体が重力と化してしまうからだ。


 彼女は神を凝視するあまり、人間に背を向けてしまったのだ。これこそが、彼女を好きになれない最大の理由である。


 重力に抗う彼女のストイシズムは、激しさを増すほどに「心理的な重力」と化したことだろう。禁欲は欲望の裏返しである。欲望を自覚すればこそ禁ずるのだから。その矛盾と葛藤を強引に行為で乗り越えようとした時、彼女の身体のバランスは崩壊したのだろう。


 シモーヌ・ヴェイユに重力を感じさせたのは、他ならぬ神の存在であった。すなわち、神こそが人間にとって最大の重力なのだ。

重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫) 重力と恩寵

(※左が田辺保訳、右が渡辺義愛訳)

社民切りが「小沢氏の許容範囲超えた」…検証2


 鳩山が福島罷免に踏み切る前日の5月27日夜。民主党小沢一郎幹事長はひそかに首相公邸に入り、鳩山と向き合った。

 小沢は大詰めを迎えていた沖縄県の米軍普天間飛行場移設問題で「沖縄県内移設」に反対する福島に配慮するよう、「円満解決」を求めた。「福島は続投。社民党も連立政権に残る」という小沢の主張に、鳩山は反論しなかった。

 ところが鳩山は翌28日朝にオバマ米大統領と電話で会談したことを境に、豹変(ひょうへん)する。移設先を「同県名護市辺野古」と明記した対処方針に踏み切り、福島を閣議での署名拒否に追い込み、罷免した。鳩山から小沢への事前の連絡はなかった。

「どうして鳩山が変わったのか。分からない」

 小沢は衝撃を受けた。

 小沢が「政府の仕事」として介入を避けてきた普天間問題に口を出したのは、社民党との連立瓦解は、小沢の参院選戦略や国会運営を根幹から揺るがすと分かっていたからだ。小沢周辺は「鳩山は自覚もないままに、小沢の許容範囲を超えてしまった」と振り返る。

「鳩山降ろし」のシナリオが一気に描かれた。「6月2日か3日に鳩山が退陣を表明。その週末には代表選挙で後継を選出」というものだった。一気呵成(かせい)に事を運べば、「新首相」への“ご祝儀”もあって、参院選に多少でもプラスになるとの読みもあった。小沢の信頼が厚い中堅議員は「鳩山で選挙に臨めば民主党は30議席を割る。鳩山以外なら、誰が首相でも30議席は確保できる」と解説する。

 小沢と民主党の輿石東参院議員会長は5月31日、鳩山と国会内で会談した。わずか5分。小沢が切り上げた。直後の鳩山と中国の温家宝首相との夕食会に小沢が配慮したと言われる。鳩山はこの短時間に「辞意を伝えた」と主張する。小沢周辺は「鳩山は続投に意欲を示した」と反論する。参院幹部は「鳩山は『辞める』とは言ったが、いつ、どういう形で辞めるかはっきり言わず、条件さえつけた」と、鳩山の言い方を巡る双方の受け止め方が違ったことを示唆する。

 翌1日の2度目の鳩山、小沢、輿石の3者会談で、鳩山は「幹事長にも身をひいていただきたい」と「道連れ」を迫ったとしているが、小沢は「互いに期することで一致したということだ」と言うばかりだ。

「小沢は自身の資金管理団体『陸山会』の事件で、検察審査会の2度目の議決をにらみ、ここで身をひいた方が得策と考えた」との見方もある。「道連れ」ではなく、小沢が自発的に辞任を決意したというのだ。

 小沢側近は「首相がああいう説明をしている以上、そうだというしかない。小沢さんは鳩山さんのメンツをたてた」と語る。一方、鳩山側近は「首相が辞めた最大の理由は自身と小沢の『政治とカネ』の問題だ。2人がひくことで少しでも参院選でいい結果が出るようにと、ずっと思っていた」と、鳩山が早くから辞意を胸に秘めていたと証言する。(敬称略、肩書は当時)


【YOMIURI ONLINE 2010-06-03】

映画『Cat Shit One -THE ANIMATED SERIES-』


 私はアニメの類いを全く観ないので、細密なCG画に驚かされた。よく出来た作品なんだが、描写が「行き過ぎたリアリズム」を志向していて、逆にアニメーションの可能性を閉ざしているような印象を受けた。更に敵であるラクダ部隊が明らかに中東国を連想させ、イスラム圏=悪というステレオタイプも気になる。


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明治19年までは役人は1日3時間しか働いていなかった


 アメリカの白人は、低賃金労働力を確保するために、アフリカから黒人を連れてきて奴隷として働かせるという荒技を考えました。しかし残念ながら明治時代、すでにアメリカでも奴隷は解放されていました。がっかりした明治政府は、日本人を奴隷化することにしたのです。それがつまり、教育です。こどもの頃から、勤勉さこそが美徳であると、叩きこむようになったのです。

 これはわりと簡単なことでした。すでに日本人には、金に執着しないのが美徳だ、との考えが浸透していました。なにしろ「宵越しの金は持たねえ」が江戸っ子の心意気だったのですから。あとは、労働の素晴らしささえ刷り子こめば、低賃金労働を尊ぶ理想的単純労働者の出来上がりです。

 もともとが素直な日本の民衆は、すっかりのせられてしまいました。明治19年までは役人は1日3時間しか働いていなかったのに、工場労働者は1日10時間働いていました。そして、はた、と気づくのです。おや? 江戸時代よりいっぱい働いて収入も増えたのに、なぜ前より生活が苦しくなったんだ?


 はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢっと手を見る


 萩原朔太郎と同時代の歌人、石川啄木の歌です。江戸時代には、こんな内容の詩や歌はほとんどなかったはずです。富国強兵策は、文字通り国だけが富んで国民にはなにも恩恵をもたらさなかったのです。

 ただし、ここで念のためにいっておかねばならないことがあります。石川啄木はずいぶん悲壮感漂うことをいっとりますが、彼自身が貧乏だった理由は、芸者遊びが大好きだったせいなのです。啄木は友人から借金してまで、芸者遊びのどんちゃん騒ぎに明け暮れていたとのことで、いいかげん野郎どもの旗頭みたいな男です。同情や尊敬は不要です。むしろ、日本ダメ男列伝に列せられるべき人物なのです


【『反社会学講座パオロ・マッツァリーノイースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)】

反社会学講座反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)

(※左が単行本、右が文庫本)

人間の心は究極的にはわからない


 臨床心理士は「人間の心は究極的にはわからない」ことをよく知っている人なのです。

 だからこそ、プロの聞き手なのです。


【『プロカウンセラーの聞く技術』東山紘久〈ひがしやま・ひろひさ〉(創元社、2000年)】

プロカウンセラーの聞く技術