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2010-07-21

「私たちは二人の友だちです」/『知恵のめざめ 悲しみが花開いて終わるとき』J・クリシュナムルティ


 クリシュナムルティの「言葉の揺れ」を正確に翻訳した労作で、原書のみならず録音テープの内容で補完している。つまり、声の響きを除けば我々は聴衆と全く同じ位置に置かれるというわけ。


 ただし既に書いた通り、小早川&藤仲コンビの姿勢は評価できるが、それをもって他人を批判するとなれば、翻訳と通訳を履き違えていると言わざるを得ない。言葉は「当のもの」ではない。自分達の「労」を「功」に結びつけようとする浅ましさが窺える。「訳者あとがき」は非常に見苦しいもので、「上品な中傷」といった具合だ。


 収められているのは1982年10月から1983年の1月にかけてインド各地で行われた講話である。ワンクールの講義と考えれば読む側の理解も深まりそうなものだが、そうは問屋が卸(おろ)さない。言葉の揺らぎに翻弄される。クリシュナムルティの言葉はまるで1/2スピンをもつ素粒子さながらだ。《※不思議なことに、完全に一回転させても同じに見えない粒子が存在するのである。なんと、二回転させないと同じには見えないのだ! このような粒子は、1/2のスピンをもつと言われている。『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・W・ホーキング/林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)》


 クリシュナムルティの言葉がなぜわかりにくいのか? それは正真正銘の対話であるからだ。彼は聴衆に向かって語っているのであって、見えない読者に話しかけているわけではない。だから、聴衆の心の揺れに我々は寄り添う必要がある。


 クリシュナムルティは講話に先駆けて、必ず互いの位置や関係性を明確にする――


 指摘してもよければ、これは普通に理解されているような講義や、指導をともなった特定の主題についての講話ではありません。これは講義ではなく、むしろ二人──あなたと語り手の会話です。特定の主題について指導したり、案内したり、あなたの思考や見解を形づくるのではありません。私たちは公園のベンチに坐り、自分たちの問題をともに話し合っている二人の友だちです。それでどうか、話の間中、明日と次の週末、二人の友だち、ということを心得てください。あなたと語り手は世界で起こっていること、自分たちの混乱、混沌、世界中に存在するほとんど無政府状態に、深く関心をもっているのです。そして、私たちはともに、世界のこの地域に起こっているを話し合っています。(1982年10月30日 ニューデリー1日目)


【『知恵のめざめ 悲しみが花開いて終わるとき』J・クリシュナムルティ/小早川詔〈こばやかわ・あきら〉、藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(UNIO、2003年)以下同】


 功なり名を遂げた人物には必ず傲岸不遜(ごうがんふそん)な気配が漂っている。地位、名誉、財産という所有物によって自我が肥大しているためだ。「社会からの承認」は他人に対してプレッシャーとなって作用する。


 まして悟りを得たとか開いた人物ともなれば、「ひれ伏すのが当然だ」と言わんばかりの態度となる。彼等は「祝福を与える側」の人間なのだ。


「私たちは二人の友だちです」――これが話の結論であれば、偽善の匂いが漂うことだろう。クリシュナムルティは完全に平等な立場で、真の理解を求めているのだ。彼はこうも言っている――「理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます」(『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ)。


 あなたには、自分の感情や自分の概念に、観念と幻滅などをさらけだして話をする友だちがいるのかどうか、と私は思うのです。そういう友だちがいるなら──いてほしいと思います──議論し、ともに話し合っているそういう友だちがいるなら、どちらもが相手を説得し、案内しようとするのでも、特定の思考を形づくるのでもないのです。それで、あなたにその気があるのなら、私たちはともにそのように話し合おうとしているのです。けっして他の人が言うことを受け入れるのではなく、けっして自分の頑なな見解を表現するのではなく、むしろどんな偏見もなく、大いなる友情のなか探検し探究しようとしているのです。それ〔大いなる友情〕は、大いなる慈しみをもって、どんな遠慮もなく、すなわち、ある種の隠された思考や隠された動機をもつことなく、互いに尊重しあう、という意味です。


 おわかりになるだろうか? 尊重とは自由を意味しているのだ。それは、自分が思い込んでいる善悪や正義から離れる自由であり、「こうあるべきだ」「こうあらねばならない」という常識から離れる自由である。


 クリシュナムルティが言う「友だち」とは、決して心情的な次元に寄りかかったものではなく、完全に同じ高さのテーブルにつくよう促しているのだ。「私の話を聞くように」というスタンスは微塵もない。形式は講話であるが、彼はいつも聴衆に完全な対話を求めた。


 それで、今夕私たちはともに、主張するのではなく、探究しようとしているのです。なぜなら、この探究には権威はないからです。語り手は権威をもっていません。彼はあなたの導師ではありません──ありがたいことです! 彼は一定の観点を主張したり、または新しい種類の哲学や観念を紹介する講師ではありません。彼は権威ではないし、むしろ私たちはともにこの国に起こっていることを探究しようとしていることが、完全に明らかにされなければなりません。すなわち、外的に、政治や経済や事業や環境の世界で起こっていることだけではなく、私たちはともに、二人の友だちとして自分たちの内的な生──混乱や悲惨や苦しみなども──話し合おうとしているのです。それでどうか、私たち──あなたと語り手はどちらも、対応能力があるのです。語り手はあなたに講義したり、何をすべきか、何を考えるべきかを話したり、または新しい体系やイデオロギーの一式などを提案しているのではないのです。二人の友だちとして私たちのどちらもが平等ですし、どちらもが自分たちの生と他の人たちの生に関心をもっているのです。


 権威の放棄――ここにクリシュナムルティの磁力がある。彼は称賛を欲しなかった。それほどまでに彼は自由であったのだ。平和や福祉を公言しながらも腹黒い人は数多(あまた)存在する。平和を食い物にしている連中だ。


 クリシュナムルティはここで自分のことを指して「彼は」と称している。何と、自分からも離れているのだ。つまり、彼の講話において意図や誘導、人材育成、智慧を授けるといった思惑などが完全にないことを意味する。


 偉大な人物は、その謙虚さでもって更に偉大となる。それにしても何という巨人だろう!

知恵のめざめ―悲しみが花開いて終わるとき

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