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2010-08-14

色々あって姪っ子7歳引き取ることになった


◇◇チラシの裏 126枚目◇◇


1 :名無しの心子知らず:2010/07/28(水) 14:59:01 ID:DSEyeGdQ

ここは チラシの裏 に独り語りする場所です。

育児に関係ない呟きは板違いです。

書き込みに対するお説教はご遠慮下さい。

※>>980踏んだ人は次スレ立てて下さい。

立てられなかった場合は報告&他の人に依頼して下さい。

前スレ

◇◇チラシの裏 125枚目◇◇

http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/baby/1278413684/


798 :1/2:2010/08/13(金) 10:40:31 ID:nE2jxtd8

色々あって姪っ子7歳引き取ることになった。

結婚するあてもないし。まだ24歳だが人と出会う仕事でもないし、そんなバイタリティ

もないから現実的に言って無理だし、面倒臭いのもあるからもう良いや、と。

兄夫婦が離婚して元義姉に引き取られていき、元義姉は再婚。

再婚した相手が最低で酷い虐待。

元義姉は「しょうがない、我慢しなさい」と言い続けたらしい。兄は事故で他界だしで。

たまたま仕事の関係で関東に行って姪っ子の小学校の近く(昔私が通った小学校だった)

に来たから、学校の前を通りながら眺めようとしたら、丁度休み時間だったらしく校舎から出てきた

姪っ子とバッチリ目があって、遠めでも私だと解ったらしく泣きながら抱きついてきた。

そのまま職員室で夕方まで面談(私+姪っ子+姪っ子母方祖父母+校長)。

元義姉側の親はその事実を知らなかったらしい。母親は面倒くさいとの理由で来ず。

自分は引きこもるタイプの自営業だから問題無いなぁ、と思い、「私の娘にならない?」

と言ったら「なりたい!お母さん嫌い!」と抱きついて離さない。

もうこの親子駄目なんだなぁ、と思った瞬間。

気にはなってたけど、会うこともせず3年ぶりの再会だったのに覚えてくれていたのにも驚きだった。

養子になるまでのやり取りがまた最低だった。


799 :2/2:2010/08/13(金) 10:47:31 ID:nE2jxtd8

元義姉「子供手当てが目当てだろ!」 再婚相手「今までの養育費払うっつーなら良いけどよ」

子供の前で orz

お前らそんなに卑しい真似してまで金が欲しいのかよ、と。いつまでもごねられそうだったので

現金一括でくれてやった。可哀想だと思ったけど、寝てる間に証拠写真撮ったり、アホな元義姉

の前に現金チラつかせて念書書かせたりと養子にするまで半年以上掛かった。

もう関わるのも嫌だったので、ダミーの住所も作って転居。実家はもう未練も無かったので売った。

昨日で親子になって丁度一年経って、それを祝うのも変なのでただ単に食べたくなったと言って

ケーキを買って二人で食べてたら娘(元姪)から「お母さんがやっぱりお母さんだったんだ」と

言われた。その時は意味が解らず「母さんが母さんって当たり前じゃん?」と応えたが寝てる時に

理解して、泣きそうになった。

仕事柄とは言え家で電話やメールのやり取り以外、下手したら生協宅配だけで平気で数ヶ月も

外に一歩も出ず生きてきた自分が人並みに2、3日に一回は買い物して、掃除して、町内会の

当番やら学校のPTA役員やら色々やって、娘の友達が来れば冷凍生地のクッキー焼いて

良い母を演じつつ友達が帰った後「今日私格好良くなかった!?」「良い感じだった!」と

馬鹿話しつつ肩揉みしてもらったり足踏んでもらったりするようになるとは思わなかった。

これからも色々あるだろうけど、まあ何とかなる気がしてきてる。

長文失礼しました。


800 :+1:2010/08/13(金) 10:55:29 ID:nE2jxtd8

追記。母親になってから、友人からの私の渾名がマリアになってしまい、

その意味を娘が理解するのはいつだろう、と今から憂鬱ではあります。

若泉敬


「核密約」遺書でわびる 密使として関与の故・若泉敬氏


 著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」の中で沖縄返還交渉において、自らが佐藤栄作首相=当時=の密使として核持ち込み密約にかかわったことを告白した元京都産業大学教授・若泉敬氏(1996年死去=享年66歳)の遺書の写しがこのほど、関係者の手により明らかになった。遺書は1994年6月23日の日付で、県民と、当時の大田昌秀県知事(現参院議員)あて。この中では、核持ち込み密約にかかわった自らの責任を悔い「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自決)します」と記されている。

 慰霊の日のこの日、若泉氏は同墓苑に喪服姿で参拝に訪れている。これまでも自決するために沖縄を訪問したといわれており、遺書の内容はこれを裏付けるものとなった。

 遺書は「嘆願状」の題目で10行の便せん5枚。自らの著書により県民に「新たな不安、心痛、憤怒を惹(ひ)き起こした」と述懐。沖縄返還交渉で緊急時の核の再持ち込みの「密約」が交わされたとされる1969年の日米首脳会談以来、密使としてかかわった自らの責任の重さを記している。

 墓苑での自決を思いとどまった若泉氏は、著書の英訳出版など日米関係の実態をさらに広めようとしたが、96年7月27日、すい臓がんのため死去した。

 若泉氏の同墓苑参拝に立ち会うなど、92年から亡くなる直前まで取材した琉球朝日放送(QAB)報道制作局長の具志堅勝也さん(50)がこのほど、同氏の弁護士から遺書の写しを入手した。具志堅さんは「いつも沖縄のことを気に掛けている人だった。本土復帰は良かったのかと質問を受けたこともある。密約は県民にとってありがたい話ではないが、歴史の裏に隠された真実を知ってほしい」と話した。


琉球新報 2005-05-14


 なお極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同書によれば、佐藤とニクソンは、大統領執務室隣の小部屋で、二人きりになって署名したという。

 同書の上梓後、1994年6月23日付で大田昌秀沖縄県知事宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」とする遺書を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。

 その後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。なお、2002年には、英語版がハワイ大学出版局から公刊された。また『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載されている。

 若泉の自殺の報を聞いた大田は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。


Wikipedia


他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉 「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯

仏教と菜食主義


 最近ごく一部で例外的なことは見られますが、伝統的に、インド人は牛は神聖だから食べないとされてきました。そして、とくにカースト制度(法律では禁止されていますが、実際には厳然とあります)という身分制度の頂点に立つバラモンたちは、菜食主義で不殺生(生き物を殺さない)の誓いを完全に守っていることに由来する最高の浄性こそが、みずからが社会の最上位にいる根拠だと主張します。

 ところが、じつは、昔々、バラモンたちは、牛でも羊でも、動物の肉を食べていたのです。バラモンたちが主宰する古いヴェーダの宗教は、家畜を解体して祭火に捧げるという犠牲祭を中心とした宗教でした。祭祀を司るバラモンたちは、そうやって犠牲にされて焼かれた家畜の肉を、日本の神道における直会〈なおらい〉のように食べたのでした。

 ところが、西暦紀元前6〜5世紀に興った新しい反(非)バラモン主義的な宗教、とりわけ仏教とジャイナ教は、不殺生を戒(シーラ、心がけ)あるいは誓戒(ヴラタ、絶対に守り抜くとの誓い)の最重要項目として掲げました。そして、家畜を殺してその肉を食らうということが不浄の行いであると厳しく批判し、みずからは菜食主義を採用しました。

 菜食主義は、ジャイナ教の場合は徹底したものでしたが、仏教の場合はそれほどでもありませんでした。在家信者は肉食〈にくじき〉を禁ぜられることはありませんでしたし、出家も、在家がわざわざ自分のために家畜を殺して料理したということが明らかな場合を除いて、托鉢〈たくはつ〉で在家から受けた食に肉が混ざっていても、食べて一向にかまわないとされました。

 一方、仏教やジャイナ教などの新しい宗教に見る見る大量の信者を奪われていったヴェーダの宗教を主宰するバラモンたちは、みずからの宗教を改革し、救済主義色の濃厚な民衆宗教としてのヒンドゥー教を創り出しました。

 そのさいバラモンたちは、ふたたび自分たちの思い通りになる状況になるように、みずからの生活信条を根本的に変えました。そしてジャイナ教流の厳格な不殺生と菜食主義とを取り入れ、まことに図々しいことに、自分たちだけが、古来この浄らかな宗教的生活信条を守り抜いてきたのだと宣言しました。バラモンたちの変わり身の早さには驚かされます。

 さて翻って、救済主義色の濃厚な民衆宗教として成功の道を着実にたどっているヒンドゥー教を身近に見ていた在家の仏教信者たちは、仏教の出家たちが、出家至上主義的な態度を取り、在家の面倒をあまり見ないことに不満を抱き、新しい民衆仏教運動を展開しました。こうして西暦紀元前後に生まれたのが大乗仏教です。

 大乗仏教は、ヒンドゥー教がジャイナ教から取り入れた誓戒を波羅蜜(はらみつ、パーラミター)や誓願(プラニダーナ)ということばで置き換え、在家中心の菩薩行〈ぼさつぎょう〉を宣揚しました。そして同時に、やはりヒンドゥー教がジャイナ教から取り入れた厳格な不殺生と菜食主義を取り入れました。旧来の仏教では、出家は、条件さえ整っていれば肉を平気で食べていたのですが、大乗仏教では肉食を完全に排除しました。明治時代以降、あっという間にこの点で日本仏教は大きく変質しましたが、日本仏教を含め、中国、朝鮮半島、ヴェトナムに広まったのは大乗仏教で、その出家たちは肉食を厳しく避けるのが原則でした。(例外というものは色々あるのですが、例外はあくまで例外です。)


【『仏教の謎を解く』宮元啓一(鈴木出版、2005年)】

人工知能がトップダウン方式であるのに対し、動物の神経回路はボトムアップ方式

 基本的に、動物が長生きできるかどうかは、環境と相互作用する能力の高さ、つまり、餌や配偶者を発見する確率が最大になり、崖から落ちたり、腹をすかせた捕食者に遭遇したりする確率が最小になるように立ち回る能力によって決まってくる。ドアに×印がついているだけで混乱するロボットのような動物がいたら、すぐに捕食されてしまうだろう。サルでもウサギでもネズミでも、運動能力をもつ動物は昔、めまぐるしく変化する外界の危機や好機を迅速に察知し、状況に見合った反応ができるものほど長生きする。

 動物の神経回路は、人口知能システムとはまったく違った方法で設計されている。すなわち、人口知能システムが上位の機能から下位の機能へと論理的・階層的に設計されるのに対して(トップダウン方式)、動物の神経回路は、個体の生死にかかわる具体的な問題に遭遇するたびに、神経細胞どうしが有機的な結びつきを形成してこれに対処するという方法で進化してきたのだ(ボトムアップ方式)。感覚入力の処理に関して最先端のコンピュータをはるかに凌ぐ能力を示す、複雑で優美な神経回路網は、無数の世代の動物たちの体内で繰り返された試行錯誤と遺伝的微調整の成果なのだ。


【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス

螺旋蒐集家


 わたしは螺旋蒐集家(らせんしゅうしゅうか)である。

 だが、そう言っても普通の人々には何のことかわかるまい。世の中には様々な蒐集家(コレクター)がいるが、螺旋を集めるのが生甲斐(いきがい)という人間など、そうはいないだろうからだ。

 螺旋とは何か。

 螺旋とは渦(うず)のことである。

 小さなものでは原子核の周囲を運動する電子の回転(スピン)、または田螺(たにし)のような巻貝から、大きなものでは、最大直径16万光年にもおよぶ我々の属する銀河系のようなひとつの渦状星雲に至るまで、あらゆるものが渦を巻いている。

 それを捜し、集めるのがわたしの趣味なのだ。


【『上弦の月を喰べる獅子』夢枕獏(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】

上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA) 上弦の月を喰べる獅子〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

札幌農学校が開校した日


 今日は札幌農学校が開校した日(1876年/明治9年)。北大農学部の前身。初代教頭にクラーク博士が招かれる。札幌農学校の校則について「この学校に規則はいらない。Be gentleman(紳士であれ)で十分である」と黒田清隆に進言。わずか8ヶ月の滞在で次代を担う青年を育てた。

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