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2010-08-22

瞑想の世界を見ることができる情報機器/『ひとりっ子』グレッグ・イーガン


 SFの醍醐味は、科学技術が発達してもなお避けることのできない人間の苦悩を描き出すところにある。未来という舞台設定に映し出されているのは、現代社会が抱える人間の業(ごう)といっていいだろう。


 グレッグ・イーガンを初めて読んだ。短篇集である。文章がこなれているにもかかわらず、スッと物語に入ってゆけない何かがある。また「ルミナス」は数学的要素が濃厚で、知識がないと太刀打ちできそうにない。


「決断者」が断トツで面白かった。まるでクリシュナムルティの世界だ。バッチ(眼帯)という情報機器を着用すると瞑想の世界が見えるのだ。


 主人公は路上で見知らぬ男に銃をつきつけ、金目のものがないと見るやバッチを奪った。そのバッチには非合法のソフト「百鬼夜行」がインストールされていた。男は自宅へ戻るとバッチを着用した――


 そしておれは、なにが起きているかを理解した。〔【理解】のパターンがいくつも発火し、【パターン】のパターンがいくつも発火し、【混乱】、【圧倒】、【狂気】のパターンがいくつも発火し……〕

 発火プロセスの勢いがわずかばかり弱まった〔ここに含まれる概念すべてのパターンが発火する〕。(おれはこの状況を冷静に把握できる、おれはそれをやりこなせる)〔パターンが発火〕。おれはすわったまま頭を膝につけて〔パターンが発火〕思考を集中させ、じっさいには見えていない左目を通してパッチがおれに見せつづけている共鳴と関係性〔パターンが発火〕のすべてに対処しようとした。


【『ひとりっ子』グレッグ・イーガン/山岸真編・訳(ハヤカワ文庫、2006年)以下同】


 心=脳内のシナプス発火が映像として見えているのだ。思考よりも深い位置にある情動(古い皮質)まで捉えている。思考はコントロール可能だが、本能をコントロールすることはできない。太陽の光も届かぬ深海に自我は根を下ろしている。


 そしてついにおれは見た、鏡に映ったおれの顔の上に重ねあわされているそれを。海底の発光生物のような、いりくんだ星形のパターンが、繊細な繰り糸を送りだして一万の単語やシンボルに触れていて――思考の全機構を意のままに動かしている。その存在に気づいたおれは、既視感を感じて驚いた。おれはこのパターンを過去数日間“見ていた”。自分自身を思考の対象者として、行為者として考えるたびに。意志の力について考えるたびに。もう少しで銃の引き金を引くところだった。あの瞬間を思いかえすたびに……。

 これが探していたものであることに、おれは疑いをもたなかった。【選択する自己】。【自由である自己】。


 視線が遂に自我の基底部を捉えた。「自由意志」を司っている部分だ。


 男はバッチを着けて、いつものように金品を強奪すべく街へ出る。拳銃を取り出し照準を見つめた時、「自由意志」が存在しない事実を発見した。【選択する自己】【自由である自己】は始めからいなかったのだ。


 これが「洞察による理解」であった。バッチは内なる世界を知覚させた。混乱や狂気を支えているはずの「私」は幻想にすぎなかった。


 おれは洞察が訪れる瞬間を、完璧な理解の瞬間を、世界の流れの外に足を踏みだし、ひとりで責任を引きうける瞬間を、待った。


 いやあ、まったくお見事。デネット著『解明される意識』とミンスキー著『心の社会』にインスパイアされたと書かれているが、クリシュナムルティの世界にも肉薄していると思う。


 視覚は外に向かっている。しかし我々は無限に膨張する宇宙を捉えきることはできない。それでも人間が知覚する情報は視覚が圧倒的な量を占めている(知覚の83%は視覚という説もある)。ヒトは第三次視覚野が発達しており、サルと比べると複雑な情報処理を行っているものと考えられる。我々はモノを見ると同時に、モノに付与された意味をも見つめている。つまり、概念操作が行われているのだ。

 視覚を司っているのが視覚野であれば、たとえ目が不自由であったとしても聴覚や触覚で「見る」ことは多分可能だ。そもそも我々は目を閉じて眠っている最中に夢を「見る」ことができるのだ。


 瞑想は集中ではなく注意である。日常生活だと集中が目で注意は耳である。五感をフルに働かせながら、五感の内側に深く沈む作業が瞑想である。クリシュナムルティは「思考を観察せよ」と教えた。

ひとりっ子 (ハヤカワ文庫SF)

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