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2010-08-26

河合隼雄と村上春樹の対談に感じる違和感/『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』河合隼雄、村上春樹


 ここのところ、ツイッターにて「ヘタレ神学研究者」を名乗る氏家法雄〈うじけ・のりお〉さんと意見交換をしている。氏家さんは大学の非常勤講師をされていて、非常勤の意味はアウトロー、渡世人といった感じだ(笑)。更に肝臓を痛めつけることを日課にしている(笑)。


 知的スリリングに溢れたツイートを連発して、私の小さな脳味噌はドラム型洗濯機に入れられた状態と化す。


 昨日のことだが氏家さんがブログで紹介した河合隼雄×村上春樹の対談に、私は猛烈な違和感を覚えた。我が思考は解答を出していないものの、「待て」と黄色信号が点灯した。


 何なんだろう? 私が感じるモヤモヤ、嘘の臭いは何に由来しているのだろう? ちょっとつかみどころがないので、書きながら考えることにしよう。

 で、断っておくが私は古本屋でありながら村上春樹を読んだことがない。河合隼雄は何冊か読んでいる。先に白状しておくと、私は村上の卵みたいな顔と河合の草履みたいな顔が好きじゃない。これから書くことは好き嫌いの感情に捉われている可能性がある。


 以下、引用は全て氏家ブログによる。


村上春樹●ぼくは昔から、あらゆる風俗は善であると思っているんです。いや、善というのではなく、ナチュラルというのかな、すべて起こるべくして起こるのであって、いい悪いの問題ではないと思っているのです。たとえばいまの若い人がぜんぜん根性がないといって怒る人がいるけれども、もしそうだとしても、それはいい悪いの問題ではなく、そうならざるをえなかったからなっているんだと思うんです。


【『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』河合隼雄、村上春樹(岩波書店、1996年/新潮文庫、1998年)】


 村上は進化論的適応を善悪で語ってしまっている。淘汰圧という前提を不問に付している。こんな論理がまかり通るなら、魔女狩りも正当化できてしまう。更にはあろうことか「善である」とした後で、「いい悪いの問題ではない」と引っくり返している。


 例えば「根性」を「大胆」に置き換えると、以下のテキストが参考になる――


 グッピーを、コクチバスと出会わせたときの反応によって、すぐ隠れる個体を「臆病」、泳いで去る個体を「普通」、やってきた相手を見つめる個体を「大胆」と、三つのグループに分ける。それぞれのグループのグッピーたちをバスと一緒に水槽に入れて放置しておく。60時間ののち、「臆病」なグッピーたちの40パーセントと「普通」なグッピーたちの15パーセントは生存していたが、「大胆」なグッピーは1匹も残っていなかった。


【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ/長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】


 つまり、戦時においては大胆な人ほど死んでしまう可能性が高いのだ。だから進化的優位性を保ちたいのであれば、「戦時は臆病」「平時は大胆」というのが正しい生き方となる(笑)。じゃあ現代はどうなのか? やっぱり戦時でしょう。戦争こそしていないものの、いじめ、幼児虐待、振り込め詐欺、パワハラ、セクハラなど、小さな戦争があちこちで繰り広げられている。戦争状態が希釈され透明化しているのだ。


村上●ぼくが日本社会を見て思うのは、痛みというか、苦痛のない正しさは意味のない正しさだということです。たとえば、フランスの核実験にみんな反対する。たしかに言っていることは正しいのですが、誰も痛みをひきうけていないですね。


 じゃあ、痛みを引き受ければいいと言うのか? 村上よ、本気でそう言っているのか? 私から質問させてもらおう。ルワンダツチ族が叫んだ声はなぜ届かなかったんだ?

村上●僕は村上龍というには非常鋭い感覚を持った作家だと思っているのです。彼は最初から暴力というものを、はっきりと予見的に書いている。


 村上はアラブ文学を読むべきだ。暴力の文学性は中東に極まるのだ。

  • 暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • 暴力が破壊するもの 2/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • 暴力が破壊するもの 3/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)
  • パレスチナ人の叫び声が轟き渡る/『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー

 氏家さんはこう締めくくっている――


 痛みをひきうけつつ、人間の匂いを払拭した形ではないところからしか、本当の意味での非暴力は立ち上がらない……そんなことを思案した次第です。


 だが非暴力という思想は、暴力と相対する位置にしか存在しない。非暴力は暴力に依存している。

 では、どうすればいいのか? 氏家テキストにもある通り、「痛みをひきうけつつ」痛みの中で生きるしか道はないだろう。


 戦争や暴力性をつきつめていけば、マネーや集団といったものが実は暴力であることに気づく。そして暴力を完全に否定する生き方は、「出家」というスタイルでしか表明することができない。出家とは世俗の欲望から去る行為であるが、欲望が尖鋭化するところに暴力が立ち現れるのだ。


 更に、出家しつつ単独であらねばならない。

 何だか全然まとまらないが、ま、そういうことなんだ(笑)。チト面倒だが、無痛文明論でも読むとするか。


村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫) 無痛文明論

『奇跡の夢ノート』石黒由美子(NHK出版、2010年)


奇跡の夢ノート


「シンクロでオリンピックに出る!」――交通事故で瀕死の重傷を負ったベッドで、少女は「夢ノート」に綴る。眼球打撲による網膜剥離、失明の危機、三半規管にも障害が残りまっすぐに泳げない。ましてや水中での回転や倒立は到底不可能。顔には傷跡が残り友達から「フランケン」と呼ばれた。しかし、日々の目標を「夢ノート」に記し、ひとつひとつ達成していった彼女に、17年後ついに奇跡が……。


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史実にこだわると人物像が痩せ細ってしまう


 そこでふつうは、まず、その人物について言及している資料から、さまざまな傍証を考慮しながら史実を抽出することになる。これはまことにその通りでなければならないわけで、後世の熱烈な信奉者の手になる捏造(ねつぞう)や神話化を、そのまま鵜呑(うの)みにしているようでは、もちろん話にならない。

 しかし、ここには一つの大きな落とし穴がある。それは、その人物が古い時代の人であればあるほど、また、世俗的な権力の中枢から遠い所に位置する人であればあるほど、確かな証拠に乏しくなり、厳密な史実というものにあまりにこだわりすぎりると、その人物像は見る影もなく痩(や)せ細ってしまうということである。また、それほどでなくとも、その人物の魅力が大幅に失われてしまうことは間違いない。


【『日本奇僧伝』宮元啓一(東京書籍、1985年/ちくま学芸文庫、1998年)】

日本奇僧伝 (ちくま学芸文庫)

ルワンダは腐臭に覆われた


 二人の姉妹は、南への道で、あまりにたくさんの死体が道路に転がっていたので、それが死体だったと気づくまでに時間がかかったほどだと言いました。

「ものすごくたくさん。それがうずたかく積み重なっているので、私たち、はじめは何かぼろきれの山かゴミだと思ったんです。でも近づいて、窓を開けてみた時、何だかわかりました。車のエンジンの音よりもハエがブンブン言う音の方が大きかったのです。

 そして、何百という犬が死体を食べていたんです。争いながら。気持ちが悪くなりました。国じゅうが腐った肉の匂いでいっぱいなんです」


【『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン/堤江実訳(PHP研究所、2006年/PHP文庫、2009年)】

生かされて。 生かされて。 (PHP文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

マザー・テレサが生まれた日


 今日はマザー・テレサが生まれた日(1910年)。生誕100周年。カトリックの修道女で「神の愛の宣教者会」の創立者。「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とした。

マザー・テレサ語る マザー・テレサ 愛と祈りのことば (PHP文庫) マザーテレサ あふれる愛 (講談社文庫)


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