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2010-10-06

「サイゴンでの処刑」


「サイゴンでの処刑」(General Nguyen Ngoc Loan Executing a Viet Cong Prisoner in Saigon)と題されたこの写真は、1968年2月1日、AP通信エディ・アダムズ(Eddie Adams)によって撮影された。テト攻勢の最中、サイゴン警察が捕虜として捕らえた南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の兵士、グエン・ヴァン・レム(阮文歛)は記者たちの前に引き出された。当時ベトナム共和国警察庁長官であったグエン・ゴク・ロアン准将は個人所有していたリボルバー銃を引き抜き、これを射殺した。


 この射殺された士官が何者であるかについては議論がいまだにあり、グエン・ヴァン・レムもしくはレ・コン・ナであるとされ、両者ともテト攻勢下のサイゴンにて戦死した。双方の遺族とも、各々がこの写真の人物に酷似しており、断定はできないと証言した。


 その光景は、AP通信カメラマンのエディ・アダムズ及びNBCニュースのテレビカメラマンらによって撮影され、全世界に配信された。配信された写真とフィルムはベトナム戦争における最も有名なイメージの一つとなり、ベトナム戦争への介入に対するアメリカの世論に多大な影響を与えることになった。 写真を見たオーストラリア出身の従軍記者パット・バージェスは再び戦場へと戻ったという。


 南ベトナム側は、グエン・ヴァン・レムが彼の副官のみならず、無抵抗な家族やそのペットをも殺害した残虐なベトコン内の死の部隊の指揮官であり、その処刑は正当なものであると主張した。同側は、レムは警察官及びその親類が縛られ射殺された34体の死体遺棄現場にて逮捕され、その死体の内、数体はロアンの副官もしくは親友の子供であり、その内6名はロアンによる名づけ子だったとした。カメラマンであるアダムズは南ベトナム側の報告を確かめたが、彼は処刑のために居合わせただけだった。未亡人となったレムの妻は、夫がベトコンのメンバーであるとこと確認しており、テト攻勢の後は夫と面会していない。処刑の直後、処刑に立ち会わなかった南ベトナム政府高官は、ロアンはただの政治従事者であると発言した。


 一部の評論家は、ロアンがとった行動は捕虜の取り扱いに関するジュネーヴ条約を破ったと主張する。ベトコンに対し、捕虜としての地位の権利が適用されるのは、彼らが軍事作戦の間に捕らえられた場合にのみである。捕らえられた男は制服ではなく私服であり、ベトナム人民軍ではなく制式化されていないベトコンのメンバーであり、実地経験はあるがゲリラであるとみなされ、射殺は合法と弁護する向きもある。一方、射殺される前にすでに武装解除されて拘束されているため、これを裁判にかけずに[要出典]射殺することは南ベトナムでも(建前にせよ)明確な違法行為である。


 エディ・アダムズはこの写真(「サイゴンでの処刑」)で1969年度ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を受賞している。


 その後、アダムズは自身の写真によりロアン准将の世評を傷つけたことに対し、個人的に謝罪した。その死に際し、アダムズは彼をこう称賛した。「その男は英雄であった。アメリカは涙を流さなければなるまい。私は人々が彼に関し何も知らずして、彼が死にゆくのをただ見たくはない」。


Wikipedia




戦後の焼け野原から生まれた「子供のための音楽教室」

 昭和23年9月

 子供のための音楽教室

  吉田秀和 井口基成 斎藤秀雄 伊藤武雄 柴田南雄


【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)以下同】


 家政学院の周囲はまったくの焼け野原だった。校内には戦争で焼けくずれた建物の跡が残っていて、そこは休み時間には幼児たちにとって格好の遊び場となった。第1回目の音楽教室には約30名の生徒が応募したが、そのなかの一人であるのちのピアニスト中村紘子は最年少の4歳だった。


 毎週土曜日の午後になると、吉田をはじめ、やがて日本の音楽界を背負うことになる演奏家、作曲家、評論家の講師たちがそろった。教室の月謝は最低であり、講師に払う金もなかった。また、払う意志もなく、講師たちは他からの収入で生活するのを当たり前としていた。

 この時期、斎藤や井口は、巌本真理を加えたトリオで、40回もの国内演奏旅行をしていた。斎藤にとってはこれが収入といえば収入の道だった。1954年(昭和29年)の資料によるが、この年4月、柴田南雄の給与は4760円、伊藤花子が3510円、合奏科の河野俊達が3080円である。この当時、大学卒業者の平均初任給は8700円だった。


 斎藤は、教師の良否が生徒の生涯を左右すると考えていた。「一に教師、二に教師、三に親、四が子供」といい、まず良き教師を選べと言った。いくら才能があっても教師が良くなければ「東京に上らなくてはいけないのに、下関に下るようなもの」といい、「子供はいかようにでもなる。生徒には教師を選ぶ権利があるのに、それが逆になっている」と豪語した。斎藤は、訪ねてきた生徒にも自分の弟子を批判するような口調で遠慮なく、否定すらする。その生徒の師との人間関係を考えて丸く納めるというような日本的発想はなかった。

 この教室が母体となって4年後に桐朋学園音楽科が創設されるが、桐朋になってからもこの教師選択の自由は継続された。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

千葉県役所が「すぐやる課」を設置した日


 今日は千葉県松戸市役所が、市民の苦情にすぐ対応する「すぐやる課」を設置した日(1969年)。松本清市長のアイディア。何重もの決裁を必要とするお役所仕事に業を煮やし、市長の直属組織として機動性を確保した。日本各地の自治体からも支持される。後にドラッグストア「マツモトキヨシ」を創業。