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2010-10-13

日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編


 青春時代の15年間を私は江東区の亀戸で過ごした。道産子ではあったが、生来の口の悪さもあって下町の水がよく合った。近所のおじさんやおばさんにも随分とお世話になった。東京の下町にはまだ人情の灯(ひ)がともっていた。


 歴史上の人物で私が唯一親近感を覚えるのが勝海舟である。地図で見ると、亀戸から左に向かって墨田区の錦糸町、緑町、両国と続く。勝は本所(ほんじょ)の生まれだが生誕地は現在の両国4丁目25番地である。地図の左側(1/1500に拡大)にある本所松坂町公園吉良上野介邸跡。赤穂浪士が吉良の首を洗ったという井戸がまだ残っている。先日亡くなった池内淳子もこの辺りで生まれたはずだ。


 子母澤寛の『勝海舟』や、海老沢泰久の『青い空』を読んで少々知った気になっていたが、空前絶後の面白さだった。歴史というよりは政治の教科書として数百年の間は通用しそうだ。ちょんまげを結い、刀を差していた時代に、これほどの傑物が存在したのだ。勝海舟は理想的なプラグマティストであった。


 松浦玲が、最初の『氷川清話』を編んだ吉本襄〈よしもと・のぼる〉を完膚なきまでにこき下ろしている。どうやら勝手に改竄し、組み替えだらけの編集をしたようだ。詳細に渡る注釈が施されているが一つ一つに怒りが込められている(笑)。


 とにかくどのページを開いても、その見識の高さに驚かされる。軽妙洒脱でありながら本質を捉えた人物論、日本の行く末を決定づけた政治の舞台裏、諸外国との交渉、海外の人脈、金本位制度を踏まえた確かな経済的視点、そして市井の人々との交流。まさしく八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍で近代日本を築いた一人と言ってよい。


 勝は海軍の創始者でありながら日清戦争に関しては断固反対の声をあげた。黒船来航(1853年)が日本人に国家意識を芽生えさせた。明治になる15年前のこと。当時の人々は蒙古襲来を思い合わせたに違いない。300年の鎖国を経て日本は外の世界と向き合わざるを得なくなった。日本人の心理構造は激変した。

 当時は知識人という知識人が日清戦争を支持した。福澤諭吉を始め、夏目漱石森鴎外内村鑑三田中正造など。日露戦争に反対した内村ですら支持したのだから、日本人の自我の抑圧ぶりが知れよう。


日清戦争と中国観


おれは大反対だつたよ


 日清戦争はおれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

 一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。

 おれなどは維新前から日清韓三国合縦(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところになるくらゐなものサ。


【『氷川清話』勝海舟/江藤淳、松浦玲編(講談社学術文庫、2000年)以下同】


 この時代にして東アジアの地政学的リスクを知悉(ちしつ)していたのである。その上マーケティング戦略まで構想していたのだから凄い。


 別の箇所では、藩の利益を超えて国家主義的視点に立ったから政策判断が功を奏したと語っている。しかしながらその本質はアジア主義であった。開国したばかりの日本にこのようなコスモポリタンが存在したのだ。咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断した男は、世界的なスケールの発想をした。


 戦争でも同じことだ。世間では百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。

 ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ。


 中国王朝の変遷を踏まえて、国家観の相違を述べている。そしてここでもまた経済について言及している。戦争には金がかかる。戦費がかさむと国が滅ぶことも珍しくはない。


 勝の見識は、人間が時代の制約から自由になれることを示している。


 本書では実に様々な人物が取り上げられているが、勝が評価しているのは西郷隆盛横井小楠の二人だけである。


 おれは、今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠〈よこい・しょうなん〉と西郷南洲〈さいごう・なんしゅう〉とだ。

 横井は、西洋の事も別に沢山(たくさん)は知らず、おれが教へてやつたくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子(はしご)を掛けても、及ばぬと思つた事がしばしばあつたヨ。おれはひそかに思つたのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあつたら、それこそ由々(ゆゆ)しき大事だと思つたのサ。

 その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優(まさ)るほどだツたけれども、いはゆる天下の大事を負担するものは、果して西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。


横井小楠


 おれが初めて横井の名を聞いたのは、長崎に居た時分で、越前の村田が諸国を巡(めぐ)つて長崎にやつて来たから、ドーダ誰か大きな人物に出遇(であ)つたかと聞いたら、いや格別の人物にも出遇はなかつたが、肥後の横井平四郎といふ人は当今の天下第一流であらうと、痛く感心して話をした。これが横井の名を聞いた始めだ。(中略)

 おれが深く横井の識見に服したのは、おれが長州の談判を仰せ付かつた時、横井に相談した時である。おれが長州に行くにつき、かれの見込みを手紙で聞いたが、かれは、ひと通り自己の見込みを申し送り、なほ、「これは今日の事で、明日の事は余の知るところにあらず」といふ断言を添へた。おれは、この手紙を見て、初めは、横井とも言はるゝ人が今少し精細の意見もがなと思つたが、つらつら考へて、大いに横井の見識の人に高きものあることを悟(さと)つた。世の中の事は時々刻々転変窮(きわ)まりなきもので、機来(きた)り機去り、その間、実に髪(はつ)を容(い)れずだ。この活動世界に応ずるに死んだ理窟をもつてしては、とても追ひ付くわけではない。

 横井は確かにこの活理を認めて居た。当時この辺の活理を看取する眼識を有したるは、たゞ横井小楠あるのみで、この活理を決行するの胆識を有したるは、たゞ西郷南洲あるのみで、おれがこの両人に推服して措(お)かざりしは、これがためである。


 小楠は能弁で南洲は訥弁(とつべん)だつた。


 西郷については何度も何度も絶賛している。邯鄲(かんたん)相照らす間柄であったからこそ、江戸城の無血開城が可能となったのだ。この件(くだり)についても生き生きと語られている。


 時代が人を育み、人と人との出会いが時代を動かす。時が人を得て、人が時に乗じて歴史の歯車が回る。勝は一貫して「時勢が人をつくる」と断言した。

氷川清話 (講談社学術文庫)

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