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2010-10-16

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 歴史とは物語である。より多くの人々に影響を与えた出来事を恣意的につなぎ、現代へと至る道筋を解き明かす記述である。で、誰が書くのか? それが問題だ。


 歴史を綴るのは権力者の役目である。それは権力を正当化する目的で行われる。だから都合の悪い事柄は隠蔽(いんぺい)されてしまう。削除、割愛、塗りつぶし……。歴史は常に修正され、書き換えられる。

 果たして歴史が人を生むのか、それとも人が歴史をつくるのか? このテーマに複雑系をもって立ち向かったのが本書である。


 では第一次世界大戦を見てみよう。


 1914年6月28日午前11時、サラエボ。夏のよく晴れた日だった。二人の乗客を乗せた一台の車の運転手が、間違った角で曲った。車は期せずして大通りを離れ、抜け道のない路地で止まった。混雑した埃(ほこり)まみれの通りを走っているときには、それはよくある間違いだった。しかし、この日この運転手が犯した間違いは、何億という人々の命を奪い、そして世界の歴史を大きく変えることとなる。

 その車は、ボスニアに住む19歳のセルビア人学生、ガブリロ・プリンツィプの真正面で止まった。セルビア人テロリスト集団「ブラック・ハンド」の一員だったプリンツィプは、自分の身に起こった幸運を信じることができなかった。彼は歩を進め、車に近づいた。そしてポケットから小さな拳銃を取り出し、狙いを定めた。そして引き金を二度引いた。それから30分経たないうちに、車に乗っていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇子フランツ・フェルディナンドと、その妻ソフィーは死んだ。それから数時間のうちに、ヨーロッパの政治地図は崩壊しはじめた。


【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン/水谷淳訳(ハヤカワ文庫、2009年/『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』早川書房、2003年を改題)以下同】


 一つの偶然と別の偶然とが出合って悲劇に至る。こうして第一次世界大戦が勃発する。1発の銃弾が1000万人の戦死者と800万人の行方不明者を生んだ。


 物事の因果関係はいつでも好き勝手に決められている。不幸や不運が続くとその原因を名前の画数や家の方角に求める人もいる。あるいは日頃の行いや何かの祟(たた)り、はたまた天罰・仏罰・神の怒り。

 第一次世界大戦を起こしたのは運転手と考えることも可能だ。あるいは皇子のサラエボ行きを決定した人物や学生テロリストの両親とも考えられるし、サラエボの道路事情によるものだったのかもしれない。


「歴史とは偉人たちの伝記である」と初めて言ったのは、イギリスの有名な歴史学者トーマス・カーライルである。そのように考える歴史学者にとって、第二次世界大戦を引き起こしたのはアドルフ・ヒトラーであり、冷戦を終わらせたのはミハイル・ゴルバチョフであり、インドの独立を勝ち取ったのはマハトマ・ガンジーである。これが、歴史の「偉人理論」だ。この考え方は、特別な人間は歴史の本流の外に位置し、「その偉大さの力で」自分の意志を歴史に刻みこむ、というものである。

 このような歴史解釈の方法は、過去をある意味単純にとらえているために、確かに説得力をもっている。もしヒトラーの邪悪さが第二次世界大戦の根本原因だというなら、我々はなぜそれが起こり、誰に責任を押しつけたらよいかを知ることができる。もし誰かがヒトラーを赤ん坊のうちに絞め殺していたとしたら、戦争は起こらず、数え切れない命が救われていたかもしれない。このような見方を取れば、歴史は単純なものであり、歴史学者は、何人かの主役たちの行動を追いかけ、他のことを無視してしまえばいいことになる。

 しかし多くの歴史学者はそうは考えておらず、このような考え方は歴史の動きを異様な形で模倣(もほう)したにすぎないととらえている。アクトン卿は1863年に次のように記している。「歴史に対する見方のなかで、個人の性格に対する興味以上に、誤りと偏見を生み出すものはない」。カーもまた、歴史の「偉人理論」を、「子供じみたもの」で「歴史に対する施策の初歩的段階」に特徴的なものだとして斥けている。


 共産主義をカール・マルクスの「創作物」と決めつけてしまうのは、その起源と特徴を分析することより安易であり、ボルシェビキ革命の原因をニコライ2世の愚かさやダッチメタルに帰してしまうことは、その深遠な社会的原因を探ることより安易である。そして今世紀の二度の大戦をウィルヘルム2世やヒトラーの個人的邪悪さの結果としてしまうのは、その原因を国際関係システムの根深い崩壊に求めるよりも安易なことである。


 カーは、歴史において真に重要な力は社会的な動きの力であり、たとえそれが個人によって引き起こされたものであっても、それが大勢の人間を巻き込むからこそ重要なのだと考えていた。彼は、「歴史はかなりの程度、数の問題だ」と結論づけている。


 歴史がパーソナルな要素に還元できるとすれば、その他大勢の人類はビリヤードの球である。こうして歴史はビリヤード台の上に収まる──わけがない(笑)。


 1+1は2であるが、3になることだってある。例えば1.4+1.3がそうだ。幸福+不幸=ゼロではないし、太陽+ブラックホール=二つの星とはならない。多分。


 このような事実から歴史学者がどんな教訓を引き出したとしても、その個人にとっての意味はかなりあいまいだ。世界が臨界状態のような形に組織化されているとしたら、どんなに小さな力でも恐ろしい影響を与えられるからだ。我々の社会や文化のネットワークでは、孤立した行為というものは存在しえない。我々の世界は、わずかな行為でさえ大きく増幅され記憶されるような形に、(我々によってではなく)自然の力によって設計されているからだ。すると、個人が力をもったとしても、その力の性質は、個人の力の及ばない現実の状況に左右されることになる。もし個人個人の行動が最終的に大きな結果を及ぼすとしたら、それらの結果はほぼ完全に予測不可能なものとなるはずだ。


 臨界状態とは高圧状態における沸点のことで、ここではエネルギーが貯まってバランスが崩れそうな情況を表している。砂粒を一つひとつ積み上げてゆくと、どこかで雪崩(なだれ)現象が起こる。雪崩が起こる一つ手前が臨界状態だ。この実験についても本書で紹介されている。


 つまりこうだ。多くの人々に蓄えられたエネルギーが、一つの出来事をきっかけにして特定の方向へ社会が傾く。これが歴史の正体だ。山火事は火だけでは起こらない。乾燥した空気と風の為せる業(わざ)でもある。


 熱した天ぷら油は発火する可能性もあるし、冷める可能性もある。次のステップを決めるのは熱量なのだ。


 とすると19歳のテロリストが不在であっても第一次世界大戦は起こっていたであろうし、大量虐殺は一人の首謀者が行ったものではなく、大衆の怒りや暴力性に起因したものと考えられる。


 すべての歴史的事柄に対する「説明」は、必ずそれが起こった【後で】なされるものだということは、心に留めておく必要がある。


 人生における選択行為も全く同様で、トーマス・ギロビッチが心理的メカニズムを解き明かしている。


 宇宙は量子ゆらぎから生まれた。そして自由意志の正体は脳神経の電気信号のゆらぎであるとされている。物理的存在は超ひもの振動=ゆらぎによる現象なのだ。


 ゆらぎが方向性を形成すると世界は変わる。人類の歴史は戦争と平和の間でゆらいでいる。

歴史は「べき乗則」で動く――種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

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