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2010-10-25

人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人


 既に『月刊苫米地』と化しつつある。それだけアイディアが豊富ということなのか。確かに頭のいい人物である。でも私は信用してないよ(笑)。断じて。書籍を乱発しているのは高額なセミナーへと誘導するためだろう。ま、行きたい人は勝手にしろ。


 ホームページにまで有料コンテンツを設けていて、15000円〜35000円という料金体系となっている。こうした振る舞いから宗教心を見出すことは不可能だ。


 であるがゆえに私は苫米地の本は好んで読むが、人間性を信頼したことはただの一度もないよ。増田俊男と似たようなもので、その知識から学ぶべきことが多いだけの話。動画を観てきた限りでは、明らかに罪悪感の欠如が見受けられ、反社会性人格障害の傾向を感じる。


 前置きが長くなってしまったが、そうであってもこの本は凄い。多くの宗教団体が手をつけていない領域に踏み込んでいる。苫米地は情報をつなぎ合わせる天才といっていいだろう。


 宗教学的な宗教の定義は、実はトートロジーになっています。ここでいうトートロジーとは、同語反復による循環論法です。

 それは、簡単に言えば、このようなことです。

 つまり、宗教とは何かといえば、「それは超越的な存在(神)についての信念などの観念であり、その観念体系にもとづいた教義、儀礼、組織をそなえた社会集団である」と定義します。そのいっぽうで、それでは超越的な存在とは何かと問えば、「宗教がその中心におく観念である」と定義するのです。


【『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(フォレスト2345新書、2010年)以下同】


 これは別段驚くことではない。なぜなら言葉そのものがトートロジー的性質をはらんでいるからだ。文明が進んだ現代社会は言葉を過剰に信頼している節が窺えるが、厳密にいえば言葉は象徴であり、コミュニケーションにおける翻訳的な役割しか果たすことができない。言葉を少し覚えた幼児と話せば直ぐ理解できることだ。共通の世界観がなければ言葉によるコミュニケーションは成り立たない。


 ただ、苫米地がここでいいたいことは、宗教の根幹を成す「神」という存在が、実は説明不能であることを示したものだ。つまり、「わからない対象」「理解不能な相手」を崇(あが)めていることになる。


 人間が信仰心を抱く理由のひとつ目は、自分が不完全な情報システムであるということを、誰もが何かをきっかけにして自覚することでしょう。

 情報システムとしての人間は、部分情報であり、完全情報ではありません。

 部分情報ですから、未来の出来事を知ることもできないし、自分が正しいと思って行った選択行為が、望みどおりの結果をもたらすかどうか知ることもできません。

 そして、たいていの人は人生の何かの場面で「自分はなんとおろかで弱い存在であることか」と深く気づくことになります。


 これはお見事。宗教の数学的解釈といってよい。我々が「一寸先は闇」であることを自覚するのは、周囲で不慮の事故や事件が起こった場合だ。他人の不幸や失敗を通してしか自覚できないわけだから、愚かなことこの上ない。


 思春期にもなれば、自我が揺れるあまり一度や二度は自殺を考えた覚えが誰にでもあるはずだ。親との葛藤、友人との確執によって、自分という存在が全世界から否定されたような気持ちとなる。モヤモヤした思いや、苛立たしい感情を上手く言葉にすることができない。にもかかわらず、母親は「どうしてそんなことをしたのか、ちゃんと説明しなさい」と冷ややかな口調で告げる。まるで首相に説明責任を問う野党のようだ。


 また就職してからも、完全に社会の歯車として扱われるため、どんどん自分自身が卑小な存在となってゆく。ヒエラルキーは三角形構造となっているので全員が勝者になることはあり得ない。


 私は一社員に過ぎず、一消費者に過ぎず、一視聴者に過ぎず、一票に過ぎない。今時、天下を取ろうと本気で考えているのは、暴走族の下っ端連中くらいだろう。人間のアトム(原子)化。


 本気で生きる意味を問えば、闇を見つめざるを得ない。社会でまかり通っているインチキ、不正、裏切り、はたまた世界で横行している暴力や人種差別など。で、自分なんか最初っから信じられないから、何か信じるものが必要になるという寸法だ。宗教は不安に根差している。


 そして見逃せないことは宗教原理であるはずの教義が微妙に修正されているところだ。例えば「エホバの証人の輸血拒否」なんかがそう。昔はオッケーだったらしい。


 あらゆる勝者の歴史がそうであるように、教義の純粋化を進めるプロセスでそのために都合の悪いことは消去されてきたに違いないからです。


 全ての宗教が教団を形成し、歴史を育む以上、スターリニズム的修正が加えられる。あるいは削除。臭いものには蓋(ふた)。ま、昔の便所みたいなものだ。汲み取り式の頃は和式の便器に木の蓋がかぶせてあったのだよ。


 1616年と1633年の二度にわたってガリレオ・ガリレイは有罪判決を下された。この誤りをローマ教皇が認めたのは1992年のことであった。宗教上の断罪は神に否定されたも同然であるから、法律違反よりも罪深いものだ。それが間違ってたんだっていうんだから、堪(たま)ったもんじゃないよ。


 大体さ、キリスト教なんてどれだけの人間を火あぶりにしてきたことか。宣教師を送り込んで他国を宗教的に侵略するのが連中の手なんだよな。そこに覇権の根源があると思うよ。


【釈迦が唱えた無神論も宗教ですし、スピリチュアリズムや毎朝テレビで流される血液型占いや星座占いも宗教といわなくてはなりません】。「それを信じれば、いいことがありますよ」と人々の脳に働きかけ、なんら科学的に根拠のないことを唯一の価値であるかのように受け入れさせてしまうものは、すべて宗教だということです。


 ブッダが無神論っていうのは原始仏教のことね。これまた実に巧みな説明である。だが物事には必ず二面性がある。じゃあ不信に陥ればいいのかといえばそうではない。人間不信の社会で信頼の輪を広げる生き方が正しいことは言うまでもない。


 要は何らかの絶対的な価値観を持ってしまうと、その人の思考回路は閉ざされてしまうということだ。それこそ「教義内での循環論法」となってしまう。


 ブッダは人間の行為を重んじた。それが「業」(ごう)の思想である。


 生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである。


【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳(岩波文庫、1958年)】


 執拗なまでに入会を強要する宗教はインチキであると断言しておこう。本物の宗教は宗教的次元の行為を問うものだ。宗教とは生の本源を意味するもので、些末な教義の論証に明け暮れる姿勢とは異なる。生と死が脈々と流れる大河を悠然と泳ぎ抜く生命力を与えることが宗教の使命であろう。


 以上で前半の書評を終える。後半はまたいつか。

なぜ、脳は神を創ったのか? (フォレスト2545新書) ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

カネゴン


 カネゴンとは、1966年(昭和41年)に放映された、円谷特技プロダクション制作の特撮テレビ番組『ウルトラQ』を始めとするウルトラシリーズに登場した架空の怪獣。別名「コイン怪獣」。お札や硬貨を主食としており、常に食べ続けていないと死んでしまう。


Wikipedia


 大衆消費社会を生きる我々は全員がカネゴンである。


【歌ってみた】「かくれんぼ」puruto&TaMU


 どうやら素人らしい。凄い上手。元歌は知らないけどさ。いやあ、たまげたよ。で、もっと凄いのは二人とも男性と思われるところ。検索しなかったら、完全に女性だと思い込んでいたよ。

『生命のかたち/かたちの生命』木村敏(青土社、2005年)


生命のかたち/かたちの生命


 それ自体は、かたちをもたない生命が、地上に現われたとたんに、かたちをもつということ、それは何を意味するのか──感性による現象学が、分裂病の精神病理学を越えて、“生命”の根拠を問い、新たなる人間学の胎動に耳を澄ます。精神病理学の新しい風景。

『分裂病と他者』木村敏(ちくま学芸文庫、2007年)


分裂病と他者 (ちくま学芸文庫)


 精神病理から人間存在の本質にいたる思索をさらに深め、分裂病者にとっての「他者」の問題を徹底して掘り下げた木村精神病理学の画期をなす論考。ハイデッガー西田幾多郎らに加え、デリダ、ラカン、レヴィナスなどの構造主義と正面からわたり合い、自己と他者との関係のありかたを「あいだ=いま」という本質的な項を媒介として見つめ直す。研ぎ澄まされた治療感覚をもって、患者の生き方を知覚し、治癒をめざして真摯な長い対話を重ねる著者の思策と営為。今、「臨床哲学」の地平が開かれる。

『自己・あいだ・時間 現象学的精神病理学』木村敏(ちくま学芸文庫、2006年)


自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)


 精神の病態を一時的な疾患としてではなく人生全体の示す歴史的な歩みとして位置づけ、独自の思想を重ねてきた著者の代表的論考のかずかず。自己と他者の「あいだ」の病態として捉えられてきた分裂病を、「時間」の病態として、現象学的な思索を展開する。とりわけ鬱病者の“あとのまつり”的体制に対し、分裂病者が“前夜祭”的な時間体制をもつという新しい構図は世界的に大きな波紋を広げた。他者や世界との「あいだ」、自己自身との「あいだ」の歴史性における患者の生のあり方を追究した本書は、精神病理学と哲学を自由に横断する独創的な学問的達成であるといえよう。

『時間と自己』木村敏(中公新書、1982年)


時間と自己 (中公新書 (674))


 時間という現象と、私が私自身であることとは、厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡づけ、さらに精神病理学的思索を通じて、悲痛は健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。前夜祭的時間、あとの祭り的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間──「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。

『異常の構造』木村敏(講談社現代新書、1973年)


異常の構造 (講談社現代新書 331)


 精神異常の世界では、「正常」な人間が、ごくあたりまえに思っていることが、特別な意味を帯びて立ち現われてくる。そこには、安易なヒューマニズムに基づく「治療」などは寄せつけぬ人間精神の複雑さがある。著者は、道元西田幾多郎の人間観を行きづまった西洋流の精神医学に導入し、異常の世界を真に理解する道を探ってきた。本書は現代人の素朴な合理信仰や常識が、いかに脆い仮構の上に成り立っているかを解明し、生きるということのほんとうの意味を根源から問い直している。


「全」と「一」の弁証法──赤ん坊が徐々に母親を自己ならざる他人として識別し、いろいろな人物や事物を認知し、それにともなって自分自身をも1個の存在として自覚するようになるにつれて、赤ん坊は「全」としての存在から「一」としての存在に移るようになる。幼児における社会性の発達は、「全」と「一」との弁証法的展開として、とらえてもよいのではないかと私は考えている。分裂病とよばれる精神の異常が、このような「一」の不成立、自己が自己であることの不成立にもとづいているのだとすれば、私たちはこのような「異常」な事態がどのようにして生じてきたのかを考えてみなくてはならない。(本書より)

土門拳が生まれた日


 今日は土門拳が生まれた日(1909年)。撮影時における土門の執拗な追求を伝えるエピソードは数多く、1941年に画家の梅原龍三郎を撮影した際は、土門の粘りに梅原が怒って籐椅子を床に叩きつけたが、土門はそれにも動じずその怒った顔を撮ろうとレンズを向け、梅原が根負けしたことがあった

土門拳 腕白小僧がいた (小学館文庫) 古寺を訪ねて―東へ西へ (小学館文庫) 風貌・私の美学 土門拳エッセイ選 酒井忠康編 (講談社文芸文庫) 木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯 (平凡社ライブラリー)


ガロアが生まれた日


 今日はエヴァリスト・ガロアが生まれた日(1811年)。初等幾何学の教科書を読み始めたところ熱中し、2年間の教材を2日間で読み解いてしまった。17歳にして素数次方程式を代数的に解く方法を発見。決闘で死亡。駆けつけた弟に「泣かないでくれ。二十歳で死ぬのには相当の勇気が要るのだから」と告げた。

ガロアの生涯―神々の愛でし人 天才ガロアの発想力 〜対称性と群が明かす方程式の秘密〜 (tanQブックス) ガロアの時代 ガロアの数学〈第1部〉時代篇 (シュプリンガー数学クラブ) ガロアの時代 ガロアの数学〈第2部〉数学篇 (シュプリンガー数学クラブ)