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2010-12-06

仏教の実像をわかりやすく探る/『仏教の謎を解く』宮元啓一


 決して悪い本ではない。初心者向けの内容でありながらも、きちんと要所を衝いている。手放しで褒めるわけにいかないのは著者が放つ嫌な臭いである。尊大かつ傲慢な素振りを私は感じた。ほんの数ページではあるが結果的に全体を台無しにしてしまっている。


 とにかく文章がすっきりしない。結局のところ宮元は仏教史実あるいは仏教論理研究家であって、宗教者ではないのだろう。この人の文章には悟性のようなものが欠けている。ブッダを語りながら、ブッダの精神を見失っているような気がしてならなかった。


 偉大な人物を知れば、その魂に触れて生きる姿勢が劇的な変化を遂げるものだ。偉大な人物は偉大な素材でもある。調理を施す人に厳しい注文をつけるのは当たり前だと私は考える。「ブッダってね、実際はこうだったんだよ」で終わってしまえば、それこそ噂話のレベルと遜色がない。


 ブッダは「すべてを知る者」だった。それはどのような意味だったのか──


 ですから、本来、釈迦は、すべてを知る者だとはいえ、宇宙の成り立ちとか、自己の本質とか、また、わたくしの2週間後の夕食の献立とか、そういった、釈迦みずからの実存にまつわる問題にかかわらないものは、みな「知る必要のないもの」と見なしたのです。

 実際のところ、そうしたものを釈迦は「知らなかった」でしょうが、肝要なのは、釈迦が、そうしたものを「知る必要のないもの」と見なしたということです。だからこそ、「すべてを知る者」だと自称することができたのです。


【『仏教の謎を解く』宮元啓一(鈴木出版、2005年)以下同】


 ブッダは形而上学的な存在論の問いに対して沈黙をもって答えた。これを無記という。


 ブッダはまた「否定の鬼」でもあった。「非ず」の連続技で人々の常識や価値観を激しく揺さぶった。真理は言葉にすることができない。それゆえ真理は否定形でしか示せないのだ。人々が執着するものを否定し、更に執着を否定しようとする努力をも否定し、「ただ離れよ」と説いた。


 学問は本来、自分が自由になるために行うものである。だが実際は学ぶべき内容をお上(文部科学省)が定め、テキストの暗記競争でヒエラルキーを構築し、社会に隷属する人間を粗製濫造する様相を呈している。学びて自身に問う姿勢は身につかない。学べば学ぶほど考える力が奪われる始末だ。


 ヒンドゥー教の最高神は全知だとされましたが、これはまさに無制限に全知なのでした。わたくしの2週間後の献立など、わたくしすらもわからないことを、ヒンドゥー教の最高神は知っている、ということになったのです。


 キリスト教の神も同様だ。ま、神は人間じゃないからね(笑)。大体さ、全知全能ってえのあ権力者にとって都合がいいんだよね。「だから嘘をついてはいけない」って論法になるわけだから。本当に全てを知っているなら神様は傍観しすぎだ。神の子が虐殺されても出てこようともしないんじゃ、いたっていなくたって同じだわな。


 そうやって、輪廻的な生存にまつわるすべての経験的な事実を観察し尽くし、それらのあいだの因果関係の鎖を考察、確認し終えることによって、釈迦は完全な智慧(ちえ)を得、「すべてを知る者」となったのです。もう少し詳しくいいますと、釈迦は、こうして、知るべきもののすべてと、知る必要のないもののすべてと、その両者の境目のすべてを知る者となったのです。


 文明が発達すればするほど、些末な生を生きるようになる。太陽の光や風に触れることも減ってゆく。自然との交感を失うと身体感覚が低下する。本能は退化し、脳味噌は断片的な刺激を受けて触覚のような反応を示す。皮膚感覚を欠いた刺激は先鋭化し、豊穣なはずの生が切り取り線状態と化す。で、挙げ句の果てに「自分探し」が始まる寸法だ。


 このことを考え抜いたすえに、釈迦は歴史的な大発見をしました。

 すなわち、輪廻的な生存をもたらす因果関係の鎖の終点は、じつは欲望ではなく、その欲望のさらに奥に、わたくしたちにはほとんど自覚できず、またほとんど抑制不可能な盲目的な衝動、つまり根本的な生存欲があることを釈迦は確認し、それを無明(むみょう)とか癡(ち)とか渇愛(かつあい)とかと呼びました。

 そしてさらに画期的な発見。釈迦は、根本的な生存欲を滅ぼすものは、輪廻的な生存をもたらす因果関係の鎖のすべてを知り尽くす智慧(ちえ)に他ならないと見て取ったのです。


 巧みな説明ではあるが、最後の部分は勢い余って筆が滑ったのだろう。いくら何でも「輪廻的な生存をもたらす因果関係の鎖のすべてを知り尽くす智慧」はないだろう。これではブッダが輪廻を肯定したことになってしまう。肯定も否定もしていないのが本当だ。


 脳科学的にいえば、意識上の欲望と無意識領域の情動ということだ。とするとブッダは3000年も前に脳の構造を理解したということなのだろうか? 違うね。そうであれば脳科学者は皆悟りを得ているはずだ。そんな形跡は全くない。


 ブッダは見たのだ。欲望の深層にほとばしる善と悪の奔流を。その向こう側には生そのものが燦然と輝いていたはずだ。瞑想とは自身の内部を深く見つめる営みである。欲望と自我の岩盤をどこまでも掘削すると忽然と泉が吹き出す。黄金に輝く生の泉が。

仏教の謎を解く

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