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2010-12-11

人類の意識はひとつ/『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』


 対話をするには同じテーブルにつく必要がある。涙の連絡船に乗った人が海岸で見送る人と対話をすることはない。距離がありすぎる。対話の前提は歩み寄ることだ。


 では各所のテーブルを見てみよう。ファミリーレストランで身を乗り出す主婦、会議室で向かい合う上司と部下、カウンター越しの銀行員と預金者、料亭で行われる商談、スチール製のデスクにそっと置かれる履歴書、生ビールを飲んだ勢いに任せて焼き肉鍋の上を通過する口説き文句……。これらは全て会話であって対話ではない。


 同じテーブルについただけでは対話は成立しない。往々にして対談がつまらないものになっているのは歩み寄りすぎているためだ。平身低頭、おべっか、阿諛追従(あゆついしょう)。


 我々は対話を話すことだと完全に誤解している。「まずは俺の話を聞いてくれ」と。これでは青年の主張だ。意見不要、問答無用。


 対話の真髄は傾聴にある。相手の声なき声にまで耳をそばだて、静かに問いを発する時、初めて対話が成立するのだ。たとえ相手が子供であっても同様である。


 クリシュナムルティとデヴィッド・ボームの対話は3冊に編まれている。本書は絶版となっており入手するまで困難を極めた。基調は『生の全体性』と一緒なので入手を焦る必要はない。


 巻頭には遠藤誠が推薦の辞を寄せている。


 1983年6月11日、同年6月20日、1972年10月7日に行われた対談が収められている。編集の手があまり入っていないような感じで、その分生々しさが伝わってくる。150ページほどの分量だが内容は超重量級。


 デヴィッド・ボームは理論物理学者でアインシュタインとも共同研究をしたことのある人物。マンハッタン計画にも深く関わっていた。


 二人の対談は自(おの)ずから科学的知性vs直観的英知の構造となる。


JK●ですから、もしたんなる知的なものとして、ないし言葉の上だけではなく、実際に、私たちは私たち以外の人間なのだということを実感すれば、責任は重大かつ広範なものとなります。


DB●ええ、その責任についてはなにができるでしょう?


JK●その時には、私は混乱全体を助長するか、混乱に加わらないか、そのどちらかです。


DB●重要な点に触れたと思います。人類ないし人間の全体はひとつだといいます。それゆえ、それを分けることは……。


JK●危険なのです。


DB●ええ。一方、私と机を分けても危険ではありません。と言うのは、ある意味では私と机はひとつではないからです。


JK●もちろん。


DB●つまり、ある非常に一般的な意味においてのみ私たちは一致しているわけです。さて、人間は自分たちが全体でひとつだとは気づいていません。


JK●なぜでしょう?


DB●それを調べてみましょう。これは重要な点です。国家や宗教だけではなく、この人とあの人などあまりにたくさんの区別があります。


JK●なぜこの区別があるのでしょう?


DB●少なくとも現代では、あらゆる人間は個人にあると感じられています。昔はそれほど強くは感じられていなかったのかも知れませんが。


JK●それを問うているのです。わたしたちは個人なのかとその根底から問うているのです。


DB●それはたいへんな問いです。


JK●もちろん。たったいま私たちはこういいました。私である意識は私以外の人間の意識と似通っていると。人類はみな苦しみ、恐怖をもち、安全ではありません。人間は思考が組み立てた個別の神や儀式をもっています。


DB●ここにはふたつの問いがあると思います。ひとつは、自分は他人と似通っていると誰もが感じているわけではないということです。大部分の人々は自分たちはなにか独特なちがいをもっていると感じています。


JK●「独特なちがい」とはどういう意味ですか? なにかをする時のちがいですか?


DB●たくさんのちがいがありえます。たとえば、なにかについてある国は他の国よりもうまくできるかもしれません。ある人はなにか特別なことができたり、特別な資質があるかもしれません。


JK●もちろん。あれやこれやについてだれか他の人のほうが優れています。


DB●その人は自分独自の特殊な能力や優秀さに誇りをもつかもしれません。


JK●しかし、それを取り去ってしまえば、基本的には私たちは同じです。


DB●おっしゃっていることは、いまいったようなことは……。


JK●表面的なものごとです。


DB●ええ。では、基本的なものごととはなんでしょう?


JK●恐怖、悲しみ、苦痛、心配、孤独、およびあらゆる人間の苦しみです。


DB●しかし、基本的なものごととは、人間の最高度の達成物だと感じている人が大多数かもしません。たとえば、人々は科学、芸術、文化、技術において人間が達成したことを誇りに思うかもします。


JK●確かに、そういった方向についてはどれも目的を達成しました。技術、通信、旅行、内科、外科などに置いては、途方もなく進歩しました。


DB●ええ、さまざまな分野での進歩は驚くべきことです。


JK●それには疑問の余地はありません。しかし、心理的にはなにを達成したのでしょう?


DB●これらのことは心理的にはなにも影響しませんでした。


JK●ええ、その通りです。


DB●そして、心理的な問題はそれ以外のことよりも一層重要です。と言うのは、もし心理的な問題が解決されないとすると、技術等々は危険なものとなるからです。


【『人類の未来 クリシュナムルティVSデビッド・ボーム対話集』渡部充訳(JCA出版、1993年)以下同】


 何の変哲もないわかりやすい言葉を使いながら、超弩級(ちょうどきゅう)の深みに達している。


 人類はブッダやソクラテスといった偉大な教師を輩出しながらも精神的な変化に乏しかった。あるいは劣化している可能性もある。これは20代の頃から私が抱き続けてきた疑問の一つであった。四半世紀を経てやっと解決した(笑)。


 文明とは技術の進歩にすぎなかった。そして我々は社会というヒエラルキーの内部で競争に明け暮れ、差異を強調することでしか幸福を感じることができなくなっているが、その個性や才能を「表面的」と一蹴している。ボームの息を飲む瞬間までが伝わってくるようだ。


 デカルトが「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)と『方法序説』に記したのは1637年のこと。存在としての我は、20世紀初頭フロイトの精神分析によって意識周辺を意味するようになった。そしてマズロー欲求段階説(生理的欲求→安全の欲求→所属と愛の欲求→承認の欲求→自己実現の欲求)を唱えた。(この流れについてはスコラ哲学の伝統を弁える必要もある)


 ここで注意したいのは、西洋で説かれる自我は飽くまでも「神と向き合う個人」を掘り下げていることだ。神との対称という座標を見逃すと、西洋の思想的系譜は理解することができない。西洋世界は完璧なまでに神が支配しているのだ。


 クリシュナムルティは個性や才覚という表面的な差異を除けば、人類は共通心理の上に生きていると指摘した。


 例えば美しい夕焼けを思い起こしてほしい。西の空を朱に染め上げ、青とピンクが溶け合い、金色(こんじき)の光が線となって放射している。鳥の影が点となって横切る。荘厳な光景が一瞬一瞬闇に飲まれてゆく。


 色や雲の形が変わっていたとしても夕焼けは夕焼けである。桜の花にしても同様だ。あの桜やこの桜は事実として存在するものの「桜は桜」である。同じく「人間は人間」なのだ。


DB●ええ、人間の体は似通っているという事実からそういえます。しかし、そのことは人間はまったく同じだということの証明になるわけではありません。


JK●もちろん、なりません。あなたの体は私の体と異なっています。


DB●ええ、私たちは別の場所にいる別の実在です。しかし、思うに、おっしゃっていることは、意識は個人的な実在ではない……。


JK●その通りです。


DB●体はある個体性をもつ実在です。


JK●それらはみなまったく明らかです。あなたの体は私の体と異なっています。私はあなたとは別の名前をもっています。


DB●ええ、私たちは異なっています。似通った物質からできてはいますが、異なっています。私たちは肉体を交換できません。と言うのは、蛋白質が他人のものと適合しないかもしれないからです。さて、大多数の人は精神についても同じように考えて、こういいます。人々の間にも化学反応があり、相性が合う、合わないがあるのだと。


JK●ですが、実際にその問題をより深く調べていけば、意識は人類すべてが共有しています。


DB●では、このように感じます。意識は個人的であり、その意識が意思疎通をして……。


JK●それは錯覚だと思います。なぜなら、真実でないものに固執しているからです。


DB●人類の意識はひとつだとおっしゃりたいのですか?


JK●意識は全体としてひとつです。


DB●それは重要です。というのは、さまざまな意識があるのか、ひとつなのかは決定的な問いだからです。


JK●ええ。


DB●さまざまな意識がありえるかもしれません。そして、それらが意思疎通してより大きな単位を作り上げているのですか? それとも、まさに始まり以来、意識は全体としてひとつだとおっしゃいますか?


JK●まさに始まり以来それは全体としてひとつでした。


DB●ですから、分離しているという感覚は錯覚だと?


JK●何度も何度もそう申し上げています。それはまったく論理的で正気だと思われます。分離しているというのは狂気です。


 圧巻。驚天動地。チト、言葉で表現するのは困難だ。


「真実でないもの」とは差異のことである。つまりクリシュナムルティが言っていることは、あなたと私の違いは氷山の一角のようなもので、意識の大半は完全に一致して「あらゆる人間の苦しみ」を感じているという真実なのだ。


 ブッダが苦からの解放を説いたのと完全に同じ視点である。


 差異を事実と認識するからこそ、我々は憎悪や嫉妬、怒りや悲しみに取りつかれるのだ。


「我苦しむ、ゆえに我は汝なり」という生命次元の共感から「あなたは世界だ」という抜きん出た視点が生まれる。


 クリシュナムルティは自我の本質が思考=記憶であり、時間に支配されていることを明かした。そうすると自己実現や自分探しが流行する時代は、人間の分断化に拍車がかかることになる。


「私」という過去の呪縛を解かない限り、自由を手にすることはできない。

生の全体性

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