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2010-12-21

仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀


 脳は言葉に支配されている。思考が言葉という情報によって成り立っている以上、人は言葉に束縛される。意識とは言語化可能な状態と言い換えてもよいだろう。


 懐疑や批判の難しさもここにある。示された言葉【以外】の知識がなければ、そもそも判断のしようがあるまい。思想の自由とは、言葉に寄り添った後で言葉から離れることを可能にする精神の振る舞いを意味する。


 ある人物の思想なり考えが普遍的な有効性を持ち合わせているかどうかは、対談によって試される。世界広しといえども、全く同じ考え方をする人は一人もいない。似たような価値観を持つ人々が文化や民族、哲学や宗教を形成している。


 これは勉強になった。唯幻論であらゆるものを一刀両断にしてきた岸田秀が、仏教の碩学(せきがく)を前にして優秀な生徒と化している(笑)。例えばこんな調子だ──


岸田●キリスト教は、ぼくは一つの誇大妄想体系だと言ってるわけですが、誇大妄想体系にしろ、ここには、一つの理論体系らしきものがあるように思うんです。しかし、仏教は、なんとなく、漠然としておりまして、むしろ、理論体系になるのを拒否するという感じのほうが強い、そういう印象を持ってるんですけど、違うわけですか。


三枝●全然、違います。大まかな表現ですけど、たとえば、仏教のいちばん始めにいろいろな“意見”ができた。それをお釈迦さんの亡くなったあとに編集し、合わせて「三蔵」(さんぞう)と言います。それには、いわゆるお釈迦さんが説いたお経−「経蔵」(きょうぞう)と、教団の規律を収めた「律蔵」(りつぞう)と、それから「論蔵」(ろんぞう)というのがある。論というのはまさしく学問なんです。ただし現存しているものが、いつできたかは分かっていません。お釈迦さんは、おそらく、マガダ語で話されたでしょうけど、現在残っているいちばん古い資料は、パーリ語の経典、それからマガダ語からサンスクリットになって、それらが漢訳された経典が中心ですが、それらは経、律、論と言い、論が必ずあるんです。始めから学問体系がある。


【『仏教と精神分析』三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉、岸田秀〈きしだ・しゅう〉(小学館、1982年/第三文明レグルス文庫、1997年)以下同】


 細分化された学問領域は触覚さながらに敏感で細い。宗教の総合知と比較するべくもない。


 最も衝撃を受けたのは三枝が示した仏教的時間観である。私は仏法者(仏教徒ではない)を名乗りながら、これを知らなかった。


岸田●時間観念というのは大ざっぱに、ヘレニズムのぐるぐる回る円環的な時間と、ヘブライズムの直線的時間との一応、二つの見方があるとしてみて、仏教だと、時間というのは、どのように考えられているんですか?


三枝●仏教で言う時間は、ごく簡略化して一言で言うとなると、時間的な有限とか無限という問題にかかわるものと、それから、いま、われわれが暮らしている現実のこの時間という問題の二つがあると思うんです。

 一般的な時間概念としての“有限”とか“無限”とかいう問題については、仏教の最初からそれがあって、お釈迦さんに、ずいぶんいろいろな人が質問しています。ことに有名なのは、マールンクヤプッタという優秀な青年が、世界は時間的に“有限”か“無限”かという質問をしてお釈迦さんに迫る。それに対してお釈迦さんは返事をしない。そこで、いわゆる「無記」という述語が作られます。ですから、一般的には時間が有限とか無限とかいうことについて公式的な発言をすれば、無記だから返事をしない、ただ沈黙。そこでは、なんの進展も無い。まず、そういう点が一つありますね。もっとも、お釈迦さんは、そういう問い自体が現実を離れて行き、形而上学化して、実践・修行には、なんのプラスにもならないことを、マールンクヤプッタにていねいに教えて、現実に立ち戻らせています。それでは、仏教は時間論を展開しないのかというと、それどころではなく、時間ということでは仏教では絶えず重要なテーマであり、それを論ずるのに、あれこれ、いろいろな議論があります。その一つに「無始無終」というのがある。“始めが無ければ終りも無い”という、そういう説明がまずあります。


岸田●始めが無くて終りが無い時間というのは、「無限の直線」というようなイメージなんでしょうかね。


三枝●直線としての時間というのは、要するに時間を空間化すると言うことでしょう。それはある意味で計算することですね。そういう意味で時間を考える考え方も、もちろん、仏教にもあります。


岸田●ヘブライズムは無始無終じゃない、まあ創造主が時間を造ったわけで、そのうち“終末”で時間が終っちゃうわけですね。だから起点と終点があって、その間が直線的だという感じなんですけども、仏教においては、それが無始無終であるというわけですか。


三枝●ええ、そういう意味でのエスカトロジー(終末論)は仏教には無い。

 私の認識は広井と同じものだった。直線(キリスト教)と円環(仏教)の違い。確か竹内敏晴はこれを敷衍(ふえん)してオペラと浪曲の違いを指摘していたはずだ。天を目指す尖塔(キリスト教)と、横に広がる屋根(仏教)という話もあったように記憶している。


 尚、無記については以下を参照されよ──

岸田●計算できるほうが“俗なる時間”であって、“聖なる時間”というのが内在しているわけですか。


三枝●そうですね。あえて聖と俗と言わなくてもと思うけど。すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。


岸田●未(いま)だ来らずですか。


三枝●未だ来らずという言い方ですね、すべて現在から見ているわけですから。エスカトロジー(終末論)の立場で言うと、向こうのほうに何かがあって、その向こうの終末のほうがこちらに向かって来るので、それは“まさに来らんとす”と言うことであり、“将来”となる。けれども仏教のほうではあくまで現在が中心だから、現在から見るといつでも未来なんです。


 読んだ瞬間に私の脳内では「!」がずらりと並んだ。これだよ、これ! 私の中で疑問の形にすらなっていなかったモヤモヤが吹き飛んだ。快晴(笑)。


 生命は一生という時間に制約を受けている以上、その量と質が問題になるのは自明だ。しかしながら量と質との関係性について思考が及ぶことは、まずない。更に時間というテーマは物理学や量子力学においても重要な位置を占めている。アインシュタイン相対性理論は、時間と空間が別物ではない事実を示したものだ。


 将来と未来の違いは、仏教がどこまでも現在性に注目し、今ここで流れ通う生に焦点を当てていることがわかる。


岸田●では、過去は存在しているわけですか、現在の中に。


三枝●過去は業として、現在に、前にお話した種子(しゅうじ)を残している。過去という時間そのものは落謝(らくしゃ)している。つまり、落っこちて消えちゃっている。


岸田●しかし、その種が現在に残っている。


三枝●ええ。たとえば、前にも言ったように、ある人がいま人を殺したとします。そうすると、殺人という行為そのものは“過去”にすでに消え去ってしまったけど、“現在”には死体が残っている、どうしても。その死体が、現在のその人を縛るわけです、彼は(句読点ママ)。死体をなんとかしなければいけない。


岸田●殺人者がいちばん困るのは死体の処理ですからね。


三枝●こんどは、死体の処理を現在どうするかというかたちで、その行為者の行為を縛っていきます、未来に向かって。


岸田●過去の時間が再びめぐって来るというような思想は無いわけですか。


三枝●過去の時間はもう落謝していますから、時間そのものは絶対に回帰しません。


岸田●円環的時間でもないわけですね。


三枝●そういう意味では円環ではない。


岸田●時間が巡るという思想では、回帰するわけですね。


三枝●巡ると言っても、“同じところへ戻ってくる回帰”と、“螺旋型の回帰”とがある。ぼくは、仏教のはどちらかというと螺旋のほうだと思うんです。だからAから戻ってきてA'になった。そのA'はAと次元が違うと考えています。そういうふうに、はっきりとテクストに書いてあるわけではないけれど、われわれの見方で解釈すれば、どうしてもそういうふうになる。


 これについては苫米地英人がわかりやすい解釈をしている──


 私がよく説明するのは、空に向かってツバを吐くと自分の顔に戻ってきますが、まさに因果応報です。業(カルマ)を受けたわけです。今度はツバをもの凄い速度で吐き出して、200年ぐらいして戻ってきたとします。そのツバを顔に受けた人があなたの生まれ変わりということです。あなたはすでに寿命で死んでいますから、ツバを受けた人は別な人です。でもあなたの業を受けたのだからあなたの生まれ変わりです。これが釈迦の論理による生まれ変わりです。つまり、アートマンが永続するから輪廻転生するのではなく、縁起の因果は継続するので、その縁起の対象が生まれ変わりと呼べますよという哲学です。もちろん、誰かが過去にツバを吐いたので、そのツバを顔に受けるためにあなたが生まれてきたのであるという論理でもあります。縁起による業の継続性による生まれ変わり説です。固有なアートマンが継続するからではないという説明です。


【『スピリチュアリズム苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】


 過去世という因果の物語でもって社会の差別を正当化しようとしたのが、古代インドに始まるカースト制度であった。輪廻(りんね)という言葉自体、不幸な人生を繰り返すことを意味しており、そこから離れることをブッダは説いた。仏の別名の一つに「善逝」(ぜんぜい)とあるが、「善く逝く」とは「再び生まれ変わってこない」ことを示したものだ。


 おわかりになっただろうか? ブッダは将来を否定し、死後の生命も否定しているのだ。否定の連続技。


「歴史は繰り返す」のが真実であるとすれば、人類はいつまで経っても同じ大きさの螺旋(らせん)階段を昇ってゆくのだろう。しかし歴史を変えることが可能であるならば、螺旋は豊かな平和と共に広がってゆくに違いない。ブッダが登場した意味もここにある。

仏教と精神分析 (レグルス文庫)

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