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2011-01-30

相対性理論の伝記/『相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学 アインシュタインと膨張する宇宙』アミール・D・アクゼル


 アインシュタイン入門、あるいは相対性理論の伝記ともいうべき一冊。文章がやや固いもののスラスラ読める。


 彼(※アインシュタイン)はギムナジウムを回想して、力と強制と権威をふりかざすところだったと述べている。アインシュタインが権威に疑問を呈することを覚えたのは、まさにこのギムナジウム時代だった──事実、“あらゆる既成の信仰を疑う”という、後の自らの科学的発展に大きな影響を及ぼした観念を、これはこのとき独力で学んだのだ、と何人かの伝記作者を考えている。


【『相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学 アインシュタインと膨張する宇宙』アミール・D・アクゼル/林一訳(早川書房、2002年/ハヤカワ文庫、2007年)以下同】

 アインシュタイン少年の怒りが伝わってくる。抜きん出た英知が大人の愚かさを見下ろしていたのだろう。思春期特有の「やり場のない怒り」といったものではなかったはずだ。冷徹な眼差しで、教育という名の虐待を見つめたに違いない。真の怒りは青白き焔(ほのお)となって燃え上がる。抑圧を燃料としながら。


 相対性に関するアインシュタインのこの研究は、運動、空間、時間についてわれわれが抱く観念を一変させた。空間はもはや絶対的なものとは見なせず、基準系に相対的なものとなったのだ。この“基準系”という考えには、3世紀前にガリレオが唱えた同様の考えが反映している。

 一般相対性理論は「絶対」を葬り、「中心」の息の根を止めた。「神は死んだ」(『悦ばしき知識』)とニーチェが書いたのは1882年のこと。だが実際に止めを刺したのはアインシュタインであった。


 神という座標は完全に崩壊した。空間の正体はは歪んだ時空連続体であった。観測者の運動によって世界(時空)は異なっていた。


 アインシュタインがわれわれにもたらしたこの新しい相対的な世界において、絶対不変のものが一つだけ存在する。光の速度である。ほかのすべては、この究極の速度の見解を取りかこむ取り巻きにすぎない。空間と時間は一体化し、時空となった。光速の宇宙船で旅する双子の一方は、地球に残っている双子の片割れよりもゆっくりと歳をとることが証明された(※双子のパラドックス)。物体の速度が光の速さに近づくにつれて、運動する物体は変化し、時間は伸びる。時間はゆっくりすぎる。相対論の禁ずるところではあるが、もしなにものかが光より速く動くとすれば、それは過去へ進むだろう。空間と時間はもはや固定していない──可塑(かそ)的であり、物体は光速にどれほど近いかによって変わりうる。

 アインシュタインはもっぱら理論的な考察、彼のいう「思考実験」のみから、光源がいかに速く観測者に近づいたり、あるいは遠ざかったりしても、光の速さは一定不変であると断じたのである。


 時速50kmで走る2台の車が擦れ違う時、お互いの位置からは時速100kmで走り去ってゆくことになる。ところが光の場合これが当てはまらないのだ。光はどこから見ても秒速30万kmとなる。光速度が速さの上限なのだ。


 16歳のアインシュタインは次のように考えた。「もし自分が光の速さで飛んだら、顔は鏡(かがみ)に映るのだろうか?」(『みるみる理解できる相対性理論 改訂版』ニュートン別冊/佐藤勝彦監修、水谷仁編集)と。


 もしも光が音と同じような波であるなら決して映らないはずだ。音の速さは秒速340mである。仮に私が秒速341mで走ったとすれば、見目麗しき美女から「待って」と言われても、その声が届くことはないのだ。


 結論を述べよう。光速度で飛んだとしても鏡に顔は映る。光は音と違って媒質を必要としない。ここからアインシュタインは当時まだ信じられていたエーテルに疑いを抱いた。


 たとえ生の親に見捨てられでも、宇宙定数は決して息絶えることは無かった。


 これが本書の白眉といってよい。宇宙定数は息を吹き返し、そして最新の研究によればエーテルまでもが蘇りつつあるのだ(『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック)。


 行きつ戻りつしながらも科学は確かなる歩みを運ぶ。その意味で光とは、直観的な英知の異名であると言い切ってよい。

相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学―アインシュタインと膨張する宇宙 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

ばーさんがじーさんに作る食卓

 これは素敵なブログだ。70歳を過ぎた主婦の美味しそうな手料理がずらりと並ぶ。

『FBI捜査官が教える「第一印象」の心理学』ジョー・ナヴァロ、トニ・シアラ・ポインター/西田美緒子訳(河出書房新社、2011年)


FBI捜査官が教える「第一印象」の心理学


 その一瞬の印象がすべてを決める! 人と接するときの「見た目」と「しぐさ」を変えれば、人生は劇的に変わる! 元FBI捜査官が、好印象や信頼感を与えるためのあらゆる秘策を伝授する!

無責任と全責任


 われわれは、これらのことを、どう考へたらいいのであらうか。われわれは何ごとに対しても、何の責任もないと考へるのも、われわれは世のあらゆることがらに対して、全責任を負つてゐると考へるのも、その徹底したかたちでは、われわれを宗教のやうなものに導くかも知れない。もしわれわれの存在が、他の無数の人たちの不幸の原因となつてゐて、われわれが各自その責任を負はねばならないとするならば、いまも言はれたやうに、われわれは誰もみな罪人であるといふことになるだらう。そしてわれわれの罪の深さを思へば、いかなる刑罰も、重すぎるといふことはないかも知れない。しかしわれわれは、このやうな責任に堪へることができるであらうか。無から世界をつくつた神も、あらゆる責任を負ふものではなかつた。「神義論」は、この世の悪に対して、神に責任のないことを論ずるための、弁明の書であつた。神を否定する実存主義者たちが、全世界に対して責任を負ふといふやうな、大げさな見えを張つても、その責任の意味は、極めて漠然としてゐて、ほとんど無意味に近いのではないかと疑はれる。このやうな空虚な責任なら、何ごとも「不徳のいたすところ」と勿体ぶつて、「坊つちゃん」をじれつたがらせた「狸校長」も知つてゐたはずである。わたしは責任の考へを徹底させて、われわれの罪の深さを教へる考へ方に、ひとつの宗教的真実を認めたいと思ふのであるが、しかし日常の生活においては、われわれの責任は、やはり限られたものであると考へなければならぬ。われわれは、神も負ふことをしなかつたやうな責任を、われわれの肩の上に担ふことはできない。われわれの荷は、もつと小さく限られねばならぬ。


【『責任と無責任との間 「疑はしきは罰せず」といふことから』田中美知太郎〈たなか・みちたろう〉/『日本の名随筆 別巻91 裁判』佐木隆三〈さき・りゅうぞう〉編(作品社、1998年)】

裁判 (日本の名随筆)

創造的な天才は世界に隠された秩序を把握する


 そうった信念を、ポール・ディラックアインシュタインについて語るときに述べている。すなわち「理論に美をもちこむことは、実験に合致させることよりも重要である」。タヒチに足を踏み入れるより前に理想化されたエヴァを描いていたゴーギャンと同じように、パリのサロンから高貴なる野蛮人を夢想したルソーと同じように、ダーウィンは自然を事前に予知したのだ。

 創造的な天才とは、その本性から「これから発見されるべき事柄、新たな実験、未知の結果を嗅ぎ分ける」ことができるよう、そっと知らせてもらえるような人々のことであると、ディドロは書いている。彼らは目で見た以上のことを想像するが、それによって、想像の世界をつくりだすというよりもむしろ実在の世界に隠された秩序を把握するのだ。


【『内なる目 意識の進化論』ニコラス・ハンフリー/垂水雄二〈たるみ・ゆうじ〉訳(紀伊國屋書店、1993年)】

内なる目 意識の進化論

長谷川町子が生まれた日


 今日は長谷川町子が生まれた日(1920年)。田河水泡に師事。日本初の女性プロ漫画家として知られる。福岡県の地方紙「夕刊フクニチ」に掲載された『サザエさん』で新聞4コマ漫画の第一人者となる。他には『いじわるばあさん』、『エプロンおばさん』など。聖公会のクリスチャンだった。

長谷川町子全集 (1)  サザエさん 1 いじわるばあさん (1) サザエさんの東京物語