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2011-02-11

ニューエイジで読み解く宗教社会学/『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之


 ニューエイジ・ムーブメントとは、アメリカ西海岸を発信源として1960年代後半から80年代にかけて盛り上がりを見せた霊性復興運動のこと。ベトナム反戦運動が高まる中、近代合理主義や伝統的キリスト教に反発する形でカウンターカルチャーと同時に現れた。

 ヒッピー・ムーブメントも一緒だな。多分。彼らは叫んだ。「セックス、ドラッグ&ロックンロール」と。


 戦争や神様に対するウンザリ感は何となく理解できる。特にアメリカの場合、ヨーロッパと比較しても原理主義的傾向が顕著で、暴力性を帯びている。

 そして今もなお天地創造説を信じ、進化論を否定する連中が山ほどいる国でもある。

 キリスト社会に亀裂を入れた一点においてニューエイジを私は評価する。ただし宗教性という次元では子供騙しにすぎないと考えている。


図1 ニューエイジ度の尺度

反ニューエイジ的←→ニューエイジ的
世界観 二元論(善悪の対立、絶対者)←→一元論(自己変容)
実践形態 厳格な規律、上下関係←→ゆるやかなネットワーク
担い手の意識 教祖や教義を崇拝、他者依存←→自立的、スピリチュアル


【『現代社会とスピリチュアリティ 現代人の宗教意識の社会学的探究』伊藤雅之(渓水社、2003年)以下同】


 ま、わかりやすいといえばわかりやすいのだが、社会形態も同じように変化していることを弁える必要がある。結局、制度宗教への反発は社会への反発でもある。なぜなら制度宗教そのものが宗教の社会化であり、二次的社会を形成しているからだ。


 ヒーラスは、ニューエイジを「自己宗教(self religion)」と呼ぶ。彼は、1960年代の対抗文化の発達にともない、個人は聖なる存在に近いものとして捉えられはじめたと考える。そこでは、表現的個人主義(原文略)の広がりも影響して、自己発達、自己実現というテーマが絶えず重要な役割を果たしていた。


 私なら「宗教ごっこ」と名づける。「自慰宗教」でも構わない。そもそも「個人」という言葉は神と向き合う一人の人間を意味する。

 神に背を向けるのはよろしい。しかし、自らの内部に聖性や神秘性を見出そうとする時、そこに同じ神を見出すことになりはしないだろうか? はたまた極端な自然志向が動物的な生き方へと導く可能性もある。


 自己実現の「自己」にも、やはり神の匂いがする。実現と未実現とのヒエラルキーを避けようがない。未来を重んじることは現在を軽んじることでもある。


 また、ベラーらは、現代アメリカ社会に於いて「自己を宇宙的原理に高めてしまうほど徹底して個人主義的な」宗教形態を「神秘主義」、あるいは「宗教的個人主義」と呼んだ。宗教的個人主義の先行形態は、19世紀の思想家であるエマーソン、ソロー、ホイットマンに見いだせるが、この宗教現象は20世紀の後半になってから主要な宗教形態として発達してきていると分析する。もちろん宗教的個人主義は、ニューエイジそのものではない。しかし、「現代の宗教的個人主義は、自分のことを述べるのに『宗教的(レリジャス)』とは言わずにむしろ『霊的(スピリチュアル)』というような言い方をしばしばする」との言及からも分かるように、極めてニューエイジに近い宗教現象だといえよう。このような、「自己宗教」や「宗教的個人主義」として捉えられるニューエイジ思想は、自己を越えた他者や社会全体での関心を示すことのない、自己中心的な思想としてしばしば批判されてきた。


 スピリチュアリズムとは「非科学的な物語」といってよい。その意味では、意外かもしれないが鎌倉仏教の流れを汲む日本の大半の宗教が実はスピリチュアリズムと判断される。密教的系譜はおしなべてスピリチュアリズムである。


 筆者は、ニューエイジの思想的な特徴は、究極の「リアリティ(状態、目的)」とそこへいたる「手段(媒介)」から成り立っていると捉えている。ニューエイジでは、ホリスティック(全体論的)でトランスパーソナル(超個的)な世界観が究極のリアリティとしてあり、その究極にいたる手段として個人の聖性が強調されるのである。


 上手い説明なんだが、ニューエイジに接近しすぎているきらいがある。私は「内なるユートピア思想」がニューエイジの特徴であると考える。ひょっとすると制度宗教の戒律が時代性とそぐわなくなっているのかもしれない。


 つまり、ニューエイジ思想は、究極にいたる手段が、家族や地域共同体と分離した個人に力点がおかれる点で新しい宗教性を示しているのである。


 それが「宗教性」といえるのであれば、「社会性」に置き換えることも可能だろう。人と人とを結び合わせるのが宗教性であり社会性である。ニューエイジには散逸、離散、放射というベクトルがあるように思われる。


 続いて宗教の世俗化という骨太のテーマが展開される。特筆すべきは以下の部分──


 スタークとイアナコーニは、世俗化論一般を批判する際に、宗教に市場経済モデルを適用して、制度宗教を宗教企業、信者を宗教消費者ととらえる。従来の宗教社会学者は、宗教消費者に焦点を置き、表1、2に示したデータから宗教の世俗化、つまり人々の宗教での関心が低下していると結論づけてきた。これに対してスタークらは、信者の行動でなく宗教を供給する企業側に注目し、次のように問う。「もしも少数の怠惰な宗教企業しか存在しなかったとしたら、潜在的な宗教消費者はどのような行動をとるだろうか」と。

 スタークらは、自分たちの経済モデルに立地でした「供給サイド・モデル」の有効性を検証するためにいくつかの命題を提出している。本論との関連のみをまとめるなら、要するに、ある国で人々の教会出席率や教会所属率が低いのは、宗教企業が宗教消費者の多様なニーズにこたえるような形態となっておらず、結果的に個々人が教会に関心を示さなくなっているためであるということだ。


 言い換えれば、世俗化と誤解されている状況は、独占的宗教企業が人々に魅力的で亡くなったことに起因し、個人の宗教心が衰えたためではないのだ。(※スタークらの議論)


 宗教社会学と行動経済学の融合(笑)。教団と信者を需給関係で捉えることはあながち間違ってはいない。経済の発達に伴って「聖」と「俗」の二元論的世界観は崩壊する。霊媒師は政治家と変わり、生け贄はクリスマスケーキとなる。世俗化は社会のシステム化と関連している。


 宗教のパラダイムシフトが進展しないのは、欲望が多様化しているせいもあるのだろう。とすると人々が望んでいるのはカスタマイズ化された宗教なのかもしれない。


 宗教社会学入門としては良質なテキストだ。ただしネット恋愛に1章を割いてしまったことで、後半はかなり失速している。ヴァーチャル(仮想)の意味を履き違えており、それこそスピリチュアリズムの言い分と同じレベルになっている。


 電話を通して聞こえる声だって、音声を電気信号に変えているゆえヴァーチャルなのだ。つまり、脳が受け取る情報は仮想であろうと現実であろうと違いはない。スピリチュアリズムの短絡性や安易さをインターネットと結びつけようとして完全に失敗している。

現代社会とスピリチュアリティ―現代人の宗教意識の社会学的探究

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