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2011-02-27

無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ


 1948年から60年にかけてクリシュナムルティが若い女性に宛てた手紙を編んだもの。63ページの小品である。これで800円は高いわな。きっとクリシュナムルティも眉をひそめることだろう。


 1950年代半ばにクリシュナムルティダライ・ラマと会談している。インディラ・ガンディーから相談を受けるようになったのも同じ時期だ。1895年生まれだから、既に60歳になろうとしていた。学校経営、財団運営、講話、個人面談の合間を縫って、一人の乙女にメッセージを送り続けてきた事実が胸を打つ。私はまだ50歳にもなっていないが、年賀状を書くことさえ怠っている。


 心しなやかに生きるようにしなさい。強さは、ごわついた堅さにではなく、しなやかさにあるのです。しなやかな木は強風の中で立っています。敏捷な精神の力を集めるようにしなさい。


【『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2005年)以下同】


「疾風に勁草(けいそう)を知る」という。堅ければポッキリと折れてしまう。若い時分の正義感や潔癖さは、狭量さを伴って先鋭的になることが多い。垂直的な理想は猫背で歩く人々を忌み嫌い、嫌悪する。だが人間を定規で測ることはできないのだ。


 清濁を併せ呑む必要はない。若いのだから清濁を徹底的に見極めるべきだ。真実と虚偽を見抜くことができなければ、生き方そのものが濁ってゆく。10年もすれば頭を下げることやら、煮え湯を飲まされることを何とも思わないような大人になることだろう。


 クリシュナムルティは2通の手紙を「無である人は幸いなるかな!」と締め括っている。


 威厳(ディグニティ)は非常に稀なものです。尊敬を受ける役職(オフィス)または地位(ポジション)は威厳を与えます。それはコートを着るようなものです。コート、衣装、地位(ポスト)は威厳を与えます。肩書または地位は威厳を与えます。が、人間からこれらのものを剥ぎ取ってごらんなさい。そうすれば、ごくわずかの人しか〈無〉(ナッシング)としてあることの内面的自由とともに生まれるあの威厳を持っていないことがわかるでしょう。何か(サムシング/ひとかどの人間)であることが人間が切望していることであり、そしてその何かが彼に社会的に尊敬すべき地位を与えるのです。彼をある種のカテゴリーに当てはめてみてください──利口、富裕、聖者、物理学者といった。が、もし彼が社会に認められたカテゴリーに当てはまらなければ、彼は半端物または変わり者扱いされます。威厳は装ったり、培ったりできないものです。そして威厳があることを意識することは自分自身を意識することであり、それはちっぽけなことです。無であることはまさにその自意識から自由であることです。特定の状態ではないこと、あるいはそれに陥っていないことが真の威厳です。それを取り去ることはできません。常にそれはあるのです。

 いかなる残滓(ざんし)も残すことなく生の流れを自由に流させることが真の気づきです。人の精神は、いくつかの特定のものを保持し、それ以外のものをふるい落とす【ふるい】のようなものです。それが保持するものはそれ自身の願望の大きさに応じていきます。で、願望は、いかに深く、広く、気高かろうと、ちっぽけなのです。なぜなら、願望は精神のものだからです。いくつかの特定のものを保持せず、無制限、無選択に生を自由に流させること、それが完全な気づきです。私たちは常に選びまたは保持し、有意義だと思われるものを選び、延々とそれらにすがりつくのです。これを私たちは経験と呼び、そして経験を増やすことを私たちは生の豊かさと呼ぶのです。が、生の豊かさは、経験の蓄積から自由になることにあるのです。経験が保持されて残っていると、既知のもののないあの状態が現われるのを妨げるのです。既知なるものは財宝ではないのですが、精神はそれにすがりつき、それによって未知なるものを損ない、または汚すのです。

 人生とは不思議なものです。無である人は幸いなるかな!


 資本主義経済というシステムにおいては、皆が「成功者になろう」と奮闘努力している。人はどの道にあっても「ひとかどの者になりたい」という欲求を覚える。若者には若者特有の野心がある。


 幸福をお金で買うことはできない。とはいえ、お金のない幸福を想像することもできない。資本主義経済とは需給関係の中で行われる熾烈な価格競争である。人間は労働力と見なされ、スキルや能力によって値段がつけられる世界だ。我々は生まれた時から兄弟や近所の子と比較され、学校や社会でランク付けされる。


 教育は国家の選別システムと化し、勝ち組だけが経済的成功を手中にし、貴重な情報へのアクセスが認められる。政治家、官僚、経団連、テレビ局、東京電力……。


 威厳とは強い者が弱い者の前で発するオーラだ。ヘビに睨(にら)まれたカエルや、まな板の鯉状態。煮るか焼くかは先方の意のままだ。


 社会に対する知識が増えれば増えるほど、我々は成功者に対して威厳を感じるようになる。結局のところヒエラルキーに対する隷属の裏返しなのだろう。


 クリシュナムルティはこうした種類の威厳を「虎の威を借る」と一刀両断にしている。なぜか? 本当の威厳とは生きる姿勢に根差すものであって、世間の評価とはまったく関係がないためだ。


 国会では威厳を保っている日本の首相が、アメリカ大統領の前では卑屈な醜態をさらけ出す。相手によってコロコロと態度を変え、強い者にはペコペコ頭を下げ、弱い者をいじめるのは動物に等しい振る舞いであろう。

 アメリカ先住民のあの風貌を見よ。大自然と共に生きる彼らの表情は、現代文明がどれほど生の実感を奪っているかを教えてくれる。太陽や風雨にさらされた彼らの顔には、巨岩のような落ち着きがある。


 お金は人々をだめにします。富者特有の傲慢さがあります。どの国でも、ごくわずかの例外を除いて、富者にはあらゆるものを──神々すらをも──ひねりつぶすことができるというあの特有の尊大な雰囲気があり、そして彼らは神々をも買うことができるのです。豊かさは金銭的な貯えによってだけではなく、能力の持ち主はまた、自分は他の人々より勝っている、彼らとは違うと感じます。このすべてが彼に一種の優越感を与えます。彼は、どっかりと腰かけて、他の人々が身もだえしているのを見守るのです。彼は、自分自身の無知、自分自身の精神の暗さに気づかないのです。お金と能力はこの暗さからの格好の逃げ口を提供します。結局、逃避は一種の抵抗であり、それはそれ自身の問題を生み出すのです。人生とは不思議なものです。無である人は幸いなるかな!


 次の手紙も同じ言葉で締め括られている。これは「幸いなるかな心の貧しき者」という「山上の垂訓」の言葉をもじったのだろう。


 それにしても見事だ。マネーが支配する社会の残酷さを、たったことだけの言葉で炙(あぶ)り出している。お金は等価交換の手段として機能しながら、簒奪(さんだつ)の道具となって暴力性を発揮している。


 よくよく考えてみよう。お金がなければ食べていけない動物は人間だけである。これっておかしくないか? それどころか、お金を払わなければ住むところさえ確保できないのだ。


 私が言いたいことはこうだ。生存を支える衣食住すら国家に管理され、企業が流通を支え、消費することでしか我々は生きてゆけないのだ。明らかに国家が生を支配している。


 持つ者と持たざる者がいる。何と残酷な社会だろう。ヒエラルキーも暴力であり、集団そのものが暴力なのだ。


 欲望を空っぽにすることは可能だろうか? 競争から離れることは可能だろうか? 「生の流れを自由に流させる」ことは可能だろうか?


 クリシュナムルティの言葉は静かでありながら力強い余韻と共に、私の胸を震わせる。

しなやかに生きるために―若い女性への手紙

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