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2011-03-04

知の系譜を教える秀逸なディスカッション/『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎


「哲学は神学の婢女(はしため)である」といったのはトマス・アクィナス(1225-1274年)だ(『神学大全』)。天使的博士、ミスター・スコラ哲学が吐き捨てるように言ったかどうかは定かではない。


 ま、これが中世の常識だ。西洋の学問体系は神を証明するために発達したといえる。教会がアリストテレス哲学を採用した影響も大きい。大学教育におけるリベラル・アーツ(一般教養)は元来「人間を自由にする学問」という意味で、起源は古代ギリシアにまでさかのぼる。これまた西洋のルネサンスにおいて、完全に神を目指す方向へ牽引(けんいん)されてしまった感がある。


 哲学は難解だ。言葉をこねくり回しているようにしか見えない。「お前らだけで勝手にやってろ!」と言いたくなる。哲学が社会を動かす原動力たり得るのであれば、もっと人口に膾炙(かいしゃ)されてしかるべきだ。「一体誰が哲学をしているというんだ? えっ、ソクラテスさんよ!」とずっと思っていた。


 でも本当は哲学って、「丁寧にものを考えること」なんだよね。だから哲学には翻訳者が必要だ。もちろん【私のための】翻訳者である(笑)。


 そこで高橋昌一郎の出番となる。私のようなレベルからすると、哲学者よりも高橋の方が天才に見えるくらいだ。教師ってえのあ、こうでなくっちゃね。学問の世界には「橋を架ける人」が不可欠だ。橋を渡れば広大な世界が開けるのだから。


 本書は『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』に続くもので、ディスカッション形式を通してウィトゲンシュタインポパーファイヤアーベントを解説する。


カント主義者●それでは聞くが、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない」という結論そのものの扱いは、どうなるのかね? この結論は、有意味なのかね、それとも無意味なのかね?

 この結論は、まさにウィトゲンシュタインが自己の哲学的判断を表明した「哲学の命題」であって、「自然科学の命題」ではない。ということは、この命題自体が「無意味」ということになるじゃないか!


【『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、2010年)以下同】


 ウィトゲンシュタインの言葉は形而上学の終焉を告げるものだった。言語化された途端、それは「語り得る」ことになるのだ。意識とは言葉である。無意識は言葉の届かぬ世界だ。それは宇宙のように暗い広がりをもつ。


論理実証主義者●そうです。ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の最後で、次のように述べています。

「私の命題は、それを理解する読者がそれを通り抜け、その上に立ち、それを見下ろす高さに達したとき、最後にはそれが無意味であると悟る。(いうなれば、梯子〈はしご〉を登り終えた後に、その梯子を投げ捨てなければならない。)読者は、私の命題を克服しなければならない。そのとき読者は、世界を正しく見るだろう」とね……。


 まるで神が人間に言葉を与えた理由を述べているようではないか。ウィトゲンシュタインには言葉の限界が見えていたのだろう。言葉はコミュニケーションの道具にすぎない。それゆえ常に何らかの違和感を覚えながらも言葉を手繰ってしまう。正確な表現であったとしても、言葉自体が翻訳機能であることは避けられない。


 私はポール・ファイヤアーベントの名前を本書で初めて知った。


方法論的虚無主義者●奨学金の切れた2年後には、ポパーがファイヤアーベントを助手に任命しようとしたが、彼はそれを断ってウィーンへ戻った。


哲学史家●当時の哲学界の状況でポパーの助手になるということは、将来的にも非常に有益な選択だったはずですが、なぜ断ったのですか?


方法論的虚無主義者●なぜなら、ファイヤアーベントは、ポパーの取り巻き連中に我慢できなくなったからだよ。ポパーの弟子たちは、批判的合理主義者であることを宣言し、自分の描く論文には可能な限りポパーの著作から引用し、議論のスタイルもポパーの文脈で行うことが当然だと考えていた。ファイヤアーベントは、このような「ポパー教の信奉者」たちにウンザリしたわけだよ。


方法論的虚無主義者●ファイヤアーベントの「哲学」というか「生き方」は、つねに問題を徹底して極端に突き詰める点にある。彼は、方法論的アナーキズムを科学や哲学ばかりでなく、合理主義や西洋文明一般にまで推し進め、そこから彼が導いた結論は、単に科学理論ばかりでなく、あらゆる知識について、優劣を論じるような合理的基準は存在しないというものだった。


 いやはや、こんなイカした学者がいたとは(笑)。彼の言葉がいくつか紹介されているが、いずれも衒学(げんがく)趣味を破壊する小気味よさに溢れている。タコツボに下される鉄槌といったところ。


 高橋昌一郎のペンは時折脱線し、読者のあたまを解きほぐしてくれる。これがまた軽妙洒脱なアクセントとなっている。


 知の系譜がある。学問は先人が血の滲むような格闘の果てに築いたものだ。西洋の場合は教会の束縛もあり、一筋縄ではいかない。彼らはまさしく時代の巌(いわお)にノミを振るった。そして小さな穴から光が射し込んだ。光を浴びるかどうかは、あなたの自由だ。

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

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