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2011-03-06

ソマティック・マーカー仮説/『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』(『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題)アントニオ・R・ダマシオ


 デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対し、脳科学の立場から異議を申し立てている。テンプル・グランディン著『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』で紹介されていた一冊。


 多分翻訳がよくない。専門性が高いことと読みにくいこととは別問題である。序盤は軽快に進むのだが、途中からトーンダウンする。この手の本は一気に読まなければ挫けてしまう。


 デカルト以降、理性と感情の問題は理性が勝利を収めてきた。400年間にわたる話だ。まだ中世の頃だから、神の存在を理解できることが理性を意味していたのだろう。そんなヨーロッパ人からすれば、異国に住む人々(=有色人種ね)は野蛮人でしかなかった。


 時々刻々と更新されていく身体の構造と状態を直接見晴らせる窓からわれわれが目にするもの、それが私の考えている感情の本質である。この窓から見る風景をイメージするなら、身体の「構造」は空間内の物体の形状に、そして身体の「状態」はその空間における物体の光と影、動きと音に似ている。この風景において、物体は内蔵(心臓、肺、腸、筋肉)であり、光と影、動きと音は、ある瞬間における、それらの期間の作用範囲内の一点を表象している。

 おおむね感情とは、そういう身体風景の一部の瞬間的な「眺望」である。そこには身体状態という具体的な内容がある。そしてそれは、特定の神経システム──身体の構造と調節とに関係している信号を統合している末梢神経と脳領域──によって支えられている。


【『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳(ちくま学芸文庫、2010年/『生存する脳 心と脳と身体の神秘』改題、講談社、2000年)以下同】


 ウーム、わかったようなわからないような文章だ。要するに皮膚感覚と感情とが密接な関係にあると言いたいのだろう。ダマシオは皮膚を「最大の内蔵」とまで表現している。


 これは理解できる。例えば何かショックを受けた時、私の目には何も映らない。目の焦点は興味のある物しか捉えないからだ。夜道を一人で歩く女性が何かの気配を感じて後ろを振り向くのも、皮膚感覚の為せる業(わざ)である。


 そう考えると五感は身体の膜という薄い部分で形成されていることが実感される。粘膜なんかは世界に向かって溶けているようにすら思える。


 感覚器官から受容された情報を統合する場所が脳であるわけだが、何と脳には中枢がないという。


 今日確信をもって言えることは、視覚に対しても言語に対しても、また、理性や社会的行動に対しても、単一の「中枢」はないということ。あるのは、いくつかの相互に関連したユニットで構成される「システム」である。機能的にではなく解剖学的にいえば、そういった各ユニットこそ、骨相学に影響を受けた理論でいう古めかしい「中枢」である。またこれらのシステムは、精神的機能の基盤を構成する比較的独立性の高い作用に向けられている。個々のユニットは、それらがシステムの中のどこに置かれているかでそのシステムの作用に異なった貢献をするので、相互交換がきかない。これはひじょうに重要なことである。システムの作用に対する特定のユニットの貢献内容は、そのユニットの構造だけでなく、システムにおける「位置」にも依存している。


 つまり「私」は脳の真ん中にいるわけではないってことだな。脳は連合軍であった。やはり民主主義は正しいのだろう。


 このあたりが重要な伏線となっている。情動を司っているのは大脳辺縁系である。意欲や記憶、自律神経も関連している。


 ダマシオは脳にダメージを受けた患者がどのような機能を失ったかに注目する。単行本の表紙になっているのはフィネアス・ゲージの頭蓋骨である。ゲージは爆発事故で直径3cm長さ1mの鉄棒が、左頬から頭頂部に向けて貫通した。


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 フィネアス・ゲージによって初めて前頭葉の働きが判明した。脳科学が難しいのは実験ができないためだ。それゆえ損傷から機能を知るしかない。ゲージの命は助かった。だが失ったものはあまりにも大きかった。社会的行動ができなくなり、意志決定もままならなかった。ゲージは別人になってしまった。


 要するに、人間の脳にはわれわれが「推論」と呼んでいる目的志向の思考プロセスと、「意思決定」と呼んでいる反応選択の双方に向けられた、それもとくに個人的、社会的領域が強調されたシステムの集まりがある。この同じシステムの集まりが情動や感情にも関わっており、また部分的には身体信号の処理にも向けられている。


 病徴不覚症という病気を自覚できない症状があるそうだ。つまり脳の感情機能が冒されている可能性がある。彼らはいかなる麻痺が身体にあろうとも「気分がいい」と答える。


 ここから心の統合問題に切り込み、身体の相互作用に触れて、「背景的感情」(background feelings)という概念を提唱する。で、いよいよソマティック・マーカー仮説が説かれる。


〈ソマティック・マーカー〉は何をするのか。ソマティック・マーカーは、特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する。

「この先にある危険に注意せよ。もしこのオプションを選択すればこういう結果になる」

 この信号は、われわれがネガティブな行動を即刻はねつけ、ほかの選択肢から選択するように仕向ける。この自動化された信号により、われわれは将来のごたごたを回避することができるだけでなく、少数の選択肢から選択することができるようになる。


 確かに整合性はある。唯識論の阿頼耶識(あらやしき)に近いような気もする。直観的な閃きは思考よりも感情に由来しているようにも思える。


 だが人間は合理的な存在ではない。判断を誤ることも多い。健康できちんと脳が機能しているからといって、正しい人生を歩めるものでもない。


 私はかなり情動的な人間だが、昔から心掛けていることは「違和感を言葉にする」作業である。人や場所、あるいは言葉や態度から違和感を覚えることが多い。その理由を突き詰めると隠れた事実が浮かび上がってくる。


 ただし現代社会における感情は、役割的な要素が強く、演技的な側面を否定することができない。

デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳 (ちくま学芸文庫)

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