人の批判は自己紹介だ
以下、ツイッターより転載。
@muramasakudo 素晴らしいタイミングのツイートでした。せっかくなんで順番にまとめておきます(笑)。
RT @fromdusktildawn: ネットで誤読された場合、それが誤読であることを解説するのは無駄。誤読して罵倒した人たちは、自分が誤読したという事実を認めたくないため、いくらでも屁理屈をこね続ける。
RT @fuitsuono: 人は、分からないからこそ人との関係に悩み、少しでも分かろうとするための努力を続けます。しかし、「早く分かる」ことだけを求める時、人はしばしばこの努力を怠り、自分を安心させようとして勝手な解釈をしたり、相手を理解したつもりになります。(酒木保)http://bit.ly/e5Tgdp
RT @fuitsuono: 空虚な人物ほど他人を自分のレベルに貶めようと頑張る。 RT @Buddha_Words: 657 人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである(スッタニパータ)
RT @muramasakudo: 人は自分の将来について語るよりも、他人のことを多く語る…特に嫌いな人のことは延々と話し続ける。身体に良くないし、一番嫌いな人の為に一番多くの時間と想いを酷使している…それで何も善い事など起こらないのに。そして同じように自分も陰で言われていることに付いていない…人の批判は自己紹介だ
RT @Buddha_Words: 663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。彼自身は信仰心なく、物惜しみして、不親切で、けちで、やたらに陰口を言うのだが(スッタニパータ)
『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント/大久保和郎訳(みすず書房、1994年)
いちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということ
紙屋●午前中の授業では、コミュニケーションということをお話したんですけれども、もう一つ最後に、ビデオの中で東京のお兄さんが病気で、札幌まで来た妹さんがいましたよね。あの妹さんが、そのお兄さんに期待していたことはなんですか。「食べたら、おいしいと言ってほしい、呼んだら返事してほしい」ということでした。
わたしたち人間のなかでいちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということなんですよ。もしお父さんお母さんとコミュニケーションがとれなくなったら……。今はみなさんはあまりお父さんお母さんとお話しない年齢なのかもしれないけれども、子どもが病気になったときに、お父さんやお母さんが必ず言う言葉があります。それは、「代わってあげたい」という言葉です。「わたしが代われるものなら代わってあげたい」。すごく重い病気でも、自分の命に代えても自分の子どもを守りたい、親はみなさんを守りたいって。
そういうご両親の考えを聞いたら、その家族の方と同じ気持ちに看護婦がなって、「なんとしても、みなさんをご両親のもとに返してあげたい」と、みなさんが病気になったときは、そう思うのですね。
もう一つ、必ず言う言葉があるの。「呼んだら、せめて返事してほしい」ということです。「Dちゃん」って、もしお母さんが呼んだら、そのとき、「はい」って応(こた)えてください。もしお母さんが病気のとき、「お母さん」って呼んでも、お母さんが返事をしてくれなかったら悲しいでしょう? だから、「一言でいいから返事をして」って言うのですね。わたしたち看護婦は、「返事ができるようにしてください」って頼(たの)まれるのです。
家族の中でいちばん大切なもの、それから人間と人間の間でもいちばん大切なことは、そういう関係を築(きず)いていけるコミュニケーションなんだなあと思います。だから、呼ばれたら返事しようね。(中略)
人間が言葉を失ったときには、だれでもが、「コミュニケーションがいちばん大切だ」ということに気がつくのですね。
【『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』NHK「課外授業 ようこそ先輩」制作グループ、KTC中央出版編(KTC中央出版、2001年)】
- 紙屋克子
- コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子
新時代の法門
――そういえば、法華経の中には、例えば「序品」の中にも日月燈明仏が二万仏も次々に出現して、その最後の日月燈明仏が妙法蓮華を説くというくだりがありますね。また、「化城喩品」などでも大通智勝仏が出てきて16人の子供たちに『法華経』を説いたという記述があります。
説法されている『法華経』の中で、また『法華経』が何度も説かれるというイメージは、『法華経』というのはそれほど固定的なものではなくて、大枠だけ抑えて、あとは自在にどんどん展開していいんだ、それで新時代の妙法蓮華の法門が出てきても構わないんだということを示唆されていて、非常に興味を持ちました。
――法門というのは、〈法(真理)〉への〈門(入り口)〉ということですから、教典になり言語表現になったものは真理に至る一つの形にすぎない、ということですね。
松山と対談する編集部の発言であるが、中々侮れない。そもそも大乗経典自体が、無名のブッダたちによる知の系譜と考えられている。
蓮と法華経 その精神と形成史を語る