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2010-04-01

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 脳科学から見た宗教現象といった内容。決して宗教を攻撃する主張ではなく、信仰者に対して新たな視点を提示し、健全な懐疑を促しているように感じた。


 アナロジーとは以下の通り──


 ギリシア語アナロギアanalogia(〈比〉)に由来する語で,〈類推〉〈類比〉〈比論〉などと訳される。複数の事物間に共通ないし並行する性質や関係があること,またそのような想定下に行う推論(類推)。


コトバンク


 敷衍(ふえん)すれば、類型化(カテゴライズ)、定型化(ステレオタイプ)、象徴化(シンボル)、帰納法、置き換え、比喩と辿ることができよう。ここに「物語の誕生」があると思われる。


 養老孟司はなぜ脳にアナロジーが生じる理由を考察する──


 さて、それではヒトの脳になぜアナロジーが生じるか。それはヒトの脳に剰余つまり余分が生じたためである。動物が生理的に必要な行動をしている間は、脳は必要であっても、その脳を動かすためには、環境からの特定の刺激が必要である。ヒトではなぜか脳に余分ができてしまったために、環境からの刺激だけではなく、ヒトの脳内活動そのものが、脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。ところが脳内の回路は、ヒトも動物の場合と本質的には変わらない構築をしているはずで、量だけ多いわけだから、「類比」すなわちアナロジーなる機能が発生するのである。つまり、ネコであれば、サカナの臭いという具体的刺激が、食物を手に入れようとする行動の動機になり得るが、ヒトなら、金が儲かりそうだという思考もまた、その臭いの「代用」になり得る。「金が儲かりそうだという考え」が、動物の場合のさまざまな生理的刺激の「代用」なのである。ということは、脳内にはネコがサカナの臭いをかいだときに近い回路が動いているはずで、それが「代用刺激」で発動してしまうのである。そうした回路機能を私はアナロジーと呼んだのである。つまりネコがサカナに近よって行くというのと、ヒトが金のある方に近よっていくというのは、生理学的に確認をしなければ確実ではないが、よく似た回路のはずなのである。


【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】


 これは凄い。脳の剰余がアナロジーを生んでいるとすれば、我々の脳は大き過ぎる進化を遂げてしまったのだろう。類比は自然の摂理に何の影響も与えない。ということは、アナロジーという機能は、人間社会でのみ意味を持つことになる。あ、わかった。ヒエラルキーもここから生まれているってわけだ。


 我々が気にしてやまない出身地、氏素性(うじすじょう)、学歴、勤務先、年収などは、いずれもアナロジーに由来していることがわかる。カテゴリー化。拭えない村意識。


 しかし、である。脳の発達が進化的に有利であったならば、ヒトはアナロジーを最大限に生かして共同幻想を構築せざるを得ない運命にあるのかもしれない。

 そう考えると、ヒトの進化の過程で、もし抽象化ということが最初に起こったとすると、それは死を巡ってではないかと思われるのである。抽象化というのは、言い換えればシンボル能力である。十分なシンボル能力はまだ無かったとはいえ、その萌芽はすでにネアンデルタール人にあらわれているのではないか。だから抽象化能力あるいはシンボル能力の具体的な入口は、じつは「死」だったのではないか。なぜなら、死とは前述のように、抽象的であって具体的であるからである。具体と抽象をつなぐ性質を、死はいわば「具体的に」そなえている。自己の死と他人の死を巡って、ヒトのシンボル能力発現の最初の契機をそのまま素直に発展させたもの、それこそが宗教ではないのか。

 もちろんその後、宗教は進化する。したがって最初の契機についての意識は、ほとんど宗教から失われているのかもしれないのである。だからいまの宗教を考えたのでは、発生時の事情はかえってわからない可能性すらある。話が飛ぶようだが、言語をわれわれは既成のものとして利用している。だから言語がいかに発生したかについては、ほとんど意識が無い。というより、どう考えたらいいか、よくわからないらしい。


 強烈なワンツーパンチだ。元始の人類が死を目の当たりにした時、どのような感慨を抱いたであろうか? いや、感慨という見方そのものが既に私の先入観となってしまっている。「あれ? 動かなくなった」──と、まあ、そんな単純なものだったことだろう。動くおもちゃが壊れた時の幼児と変わりがない。


 ところが老いた者や病んだ者が同じように動かなくなってゆく。それに気づいた瞬間、あり余った脳がバチバチと火花を散らしてシナプスが新しいネットワークを構築する。「ジイサン動かない」「バアサン動かない」=死という方程式の完成だ。


 これが凄いのは、人類にとって最初のアナロジーが死であったとすれば、生という概念は後から生まれたことになる。生老病死(しょうろうびょうし)と聞くと、我々は何となく最初に「生」をイメージするが、アナロジー的観点から言えば、やはり老病死の方が明らかに共通性を見出しやすい。


「人は死んだ。その頃、まだ生はなかった」──多分そんな時代があったに違いない。そして、死によって逆照射された「生」に思い至った時、人間は苦悩に取りつかれることになったのだ。


 ヒトは進化の過程で脳が大きくなり、アナロジーが発生したため、何を現実とするかが、個人によって違うという状況になってしまった。カッシーラーのいう意味でのシンボルは、それはいわば「統制」するために発生したのであろう。たとえば言語は、その中で表現できないものを存在しないとするまでになる。西欧の言語にそういう性質があることは、よく知られている。「ことばで言えないことは存在しない」と見なされるのである。しかも、「統制」はつねに「強制」であるから、どのような文化でも、言語は教育によって強制されるのである。

 では宗教はなにを「統制」するのか。それはおそらく「生死観」であろう。生死はもとから存在するのだからシンボル化の必要はない、そうはいかないのである。なぜなら、すでに述べたように、自己の死は現実化、具体化できないからである。他人の死と自己の死の隙間から宗教が発生する。こうしてヒトは、シンボルを利用し、ともかく世界を整合的に理解しようとする。しかし、それはじつは自分の頭の中を整合的にしようとしているだけであって、その結果、外の世界が整合的になるわけではない。宗教には典型的にそれが出ている。宗教が現世と対立的に捕えられるのは、そのためであろう。いくら宗教が生死観を判然とさせたからといって、ヒトが死ななくなるものではない。だから来世を説く。現世はこちらの世界だが、宗教は徹底的に内的な世界である。ということは、脳内の世界ということであり、生物学的にいえば、もっとも進化した世界の一つということになろうか。


 養老唯脳論と岸田唯幻論は見事に補完し合っている。概念や因果関係を捨象し、「機能」という一点から見つめているだけにわかりやすい。「新しいプラグマティズム」といっても過言ではないだろう。


 人々に安心を与えてきたのも宗教であれば、人々を争いに駆り立てたのもまた宗教であった。思想や宗教が人間にとってのOS(オペレーティングシステム)であれば、限りないバージョンアップが可能なはずだ。


 確立された古い教義は過去のものである。脳のあり余る能力はそれをよしとしないことだろう。斬新かつ革命的なアナロジーが必要だ。

カミとヒトの解剖学 カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-11-12

現実認識は「自己完結的な予言」/『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー


 一般向けに書かれた催眠療法の入門書である。中盤からは結構難解。


 昨今は、科学的な検証性や論理的な整合性を欠いたものを「トンデモ」と嘲笑う風潮が見られるが、少しばかり優(まさ)っている知識に任せて小馬鹿にしているだけのレベルだ。大体が専門バカの類いで、サブカルチャーを気取っているが実際は全くカルチャーの名に値しない。「と学会」だってさ。最初は成金(=と金)のことかと思ったよ。


 理知を重んじることはもちろん大切ではあるが、傾き過ぎてしまうと単なる「科学信仰」「理論教」となってしまう。科学といったところで、その本質は「解釈」に過ぎないのだ。


 というわけで催眠療法である。あらかじめ断っておくが「療法」であって「術」にあらず。ニタニタしながら「ひょっとして、可愛いあの子を意のままにできるのかな?」などと妄想を逞しくするだけ無駄だからね(笑)。


 戦略があるのかもしれないが、催眠療法というネーミングがよくないと思う。実態は深層心理療法であり無意識療法といってよい。効果のほどは多分、薬と同様で人によって様々なのだろう。ただ、本書に示されている「具体的なイメージを喚起させる言葉」は大変参考になる。


 アメリカの社会学者W・I・トーマスは「人がある状況を『現実』として定義すれば、結果的にそれが本人の現実となる」ととなえた最初の人物だ。コロンビア大学の社会学教授R・K・マートンはその概念をさらに発展させて「自己完結的な予言」と言った。あるできごとを予測すると、そのできごとへの期待が私たちのふるまいを変える。つまり、そのできごとが起きやすくなるような行動をとるというのだ。


【『クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー 人生を成功に導くための「暗示」の作り方』A・M・クラズナー/小林加奈子訳(VOICE、1995年)】


 現実は事実と一致しない。事実は人の数だけ存在する。そして現実を支配するのは自分である。五官からの情報は事実として知覚され、脳内では現実という名の物語が構成される。「これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛」ってわけだな。


 ヒトという動物の特徴は言葉を使うところにあり、言葉は事物をシンボル化することで成立している。つまり、アナロジー(類推、類比)だ。先祖から代々伝えられてきた物語は文化として形成され、価値観として社会に根づく。こうした遺産が実は現代を生きる我々の「条件づけ」として機能している。


 ゲゲッ、時間切れだ。結論だけ簡単に述べよう。全ての知覚は錯覚である。以上。

クラズナー博士のあなたにもできるヒプノセラピー―催眠療法

2009-04-14

世界大恐慌 ドラッカー19歳/『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生


 そろそろピーター・F・ドラッカーを読もうと思い立ったのだが、いずれの内容も重量級と察して本書を選んだ。正解だった。上田惇生は、ドラッカー作品の大半の翻訳を手掛け、ドラッカー本人とも親交があったという。やや礼賛が勝ちすぎていて鼻につくがこれは仕方がないだろう。


 ドラッカーは、“マネジメント”という概念を生んだ人物である。私は勝手に、「長谷川慶太郎を10倍くらい偉くした人」程度にしか思っていなかった。違っていた。「私が間違っていました」と100回書こうかと思った。


 ドラッカーは「文明の観察者」であった。彼は徹底して、政治と経済に影響を与え、そして影響を被る“人間”を見つめた。更に理論と体系化の価値を重んじながらも、それらに捉われることがなかった。


 当然といえば当然だったが、港町ハンブルグでの生活に耐えられなくなったドラッカーは、ドイツの金融センター、フランクフルトへ転居し、大学も名門フランクフルト大学に籍を移した。仕事も英語が話せることでアメリカ系の証券会社に転職した。しかも半年ほどして景気上昇を確信する論文を書き経済誌に掲載された。

 ところが、最新の理論モデルとデータを駆使したその論文が出た直後、あの株式大暴落、世界大恐慌が起こった。1929年、ドラッカー19歳のときだった。それ以来、彼は理論による予測とくに数学モデルを使う予測は一切やめた。


【『ドラッカー入門 万人のための帝王学を求めて』上田惇生〈うえだ・あつお〉(ダイヤモンド社、2006年)以下同】


 実に興味深いエピソードだ。19歳という若さが、素早い方向転換を可能にしたのだろう。これが30代、40代であれば、保身に汲々としていたかもしれない。


 理論を支えているのは統計(データ)である。だが、データというものは全て過去の出来事である。つまり、理論は過去に向かって開かれたものなのだ。であるがゆえに、完璧な理論はこの世に存在しない。理論は常に修正を加えられ、またある時には完全に否定される。


 人間の脳は“類比(アナロジー)”せずにはいられない(養老孟司著『カミとヒトの解剖学法蔵館、1992年)。しかしながら、それは固定した性質のものではなく、生涯にわたって進化し続けるものだ。そして“人間を見つめる視点の高さ”によって、理論の抽象度が高まる。


 その後、ドラッカーはナチス・ドイツと袂(たもと)を分かち、10年後に初めての著作となる『「経済人」の終わり』(1939年/岩根忠訳、東洋経済新報社、1958年)を出版。無名の青年が世に問うた作品を、首相になる前のウィンストン・チャーチルが激賞した。首相になるや否や、「イギリスの幹部候補生学校の卒業生全員に配った」。若きドラッカーの主張が、第二次世界大戦に影響を与えたといっても過言ではない。


 著者はこうも記している――


 日本経済を発展させたのは、日本政府ではなく日本企業であり、その日本企業にマネジメントとマーケティングを教えたのがドラッカーであり、品質管理を教えたのがエドワード・デミングであり、生産システムを教えたのがジョセフ・ジュランである。3人ともニューヨーク大学の教授だった。


 私は少年時代を高度経済成長期の中で過ごした。ドラッカーに恩があることを初めて知った。

ドラッカー入門―万人のための帝王学を求めて

2008-11-16

アナログの意味/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆


 コンピュータ用語の辞典。これは本の体裁がダメ。新書版サイズの辞書として作るべきだ。そうすりゃ、騙されて購入する人々も増えたことだろう。驚いたことにネタ満載と思いきや、まともな辞書としても使える内容となっている。惜しむらくは既に古い情報となっていることだが、意外と無視して読めるのだから、オダジマンの筆力恐るべし。


【アナログ】Analog


「連続量的な」ということ。

 物理量への置き換えによる量表現。

 ね、わからないでしょ。

 だったら、89ページの「デジタル」の項を読んでください。

 ……というのもあんまり無責任だから、ごく簡単に。

 Analogなる言葉は、そもそも「比率」を意味するギリシア語Analogosから派生した言葉で、同根の語にAnalysis(分析、解析)、Analogy(類比、類推)があることからもわかる通り、気分としては、「比喩」だとか「置き換えて表現する」ぐらいの心意気があるわけです。

 たとえば、デジタル体温計は「36.5」と、体温を数字でストレートに表現するが、アナログ体温計は、「水銀柱の長さ」という物理量に置き換えて体温を表現している。

 この他、アナログ時計は「時刻」を「針の角度」で表現し、砂時計は「時間」を「砂の量」で測定し、アナログシンセサイザは「音声」を「波形」で扱い、アナログ野郎は「感情」を「顔色」で表出している。

 ということは、これらはどれも皆、ある物理量への置き換えを行っているのであるからして、アナログなのである。

 なお、「肛門」を意味する「アナル」とは、とりあえず無関係と思われるが、あいつもあれで案外「連続量的な物理表現」をしたりするからあなどれない感じはする。


【『コンピュータ妄語録』小田嶋隆(ジャストシステム、1994年)】


 尚、アナロジーについては、養老孟司の『カミとヒトの解剖学』が必読テキスト。

コンピュータ妄語録