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2010-04-14

孤独感は免疫系統の力を弱める


 ハーバード大学の心理学者デビッド・マクレイランドは、最も深い感情を自分自身の心の中にしまっておく性向のある人は、“危機”に直面した際に、免疫系統の力を弱めるホルモンを放出するということを明らかにしている。

 これまでに報告された事実から、ヘブライ大学のジェラルド・カプランは、強いストレスに対して心理的なサポートのない人たちは、サポートに恵まれた人たちに比べて、身体や心の病気にかかる率が10倍も高い、と結論づけている。

 したがって、人間的なつながりを最も必要としながら、それをほとんど持てない人たちの死亡率が極端に高いということは驚くに値しない。

『失意 医学的にみた孤独の結末』という本の中で、ジェイムズ・M・リンチは、仲間づき合いの欠如と心臓疾患との驚くべきつながりを説明している。彼はその中で、人生の危機に直面し、しかも人間的な接触の恩恵を受けていないと、人間は生命が脅かされるような心臓障害にかかることが多い、と述べている。リンチはまた、コミュニケーションの機会がある場合には、身体的な障害が起こる危険性が少なくなるとも言っている。

「人間の孤独が強まっているということが、20世紀における病気の最も深刻な原因のひとつかもしれない」これが彼の結論である。

 医師たちは、情緒的なサポートが病気の回復過程で、最も近代的なテクノロジーと同じくらい効果的ではないかということを認識し始めてきている。


【『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル小此木啓吾〈おこのぎ・けいご〉訳(フォー・ユー、1987年)】

生きぬく力―逆境と試練を乗り越えた勝利者たち

2010-02-04

植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達


 5年前に植物状態と診断された男性が、質問に対する脳の反応によって「イエス」や「ノー」などの意思疎通ができるとする研究結果が、3日の医学誌「ニューイングランド医学ジャーナル(New England Journal of Medicine)」に発表された。

 この男性は現在29歳で、2003年に交通事故で脳に深刻な外傷を負った。身体的な反応はなく、植物状態と診断されていた。

 英ケンブリッジ(Cambridge)にあるウルフソン脳イメージングセンター(Wolfson Brain Imaging Centre)のエードリアン・オーウェン(Adrian Owen)博士率いる英・ベルギーの研究チームは、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を使い、男性に「イエス」「ノー」で答えられる質問をしたときの脳の動きを撮影した。その結果、男性の脳が正しく反応していることが確認できたという。

 この技術は、健常者に対しては100%正確に脳の反応を復号化することができるが、話したり動いたりできない植物状態の患者に対して試されたのは今回が初めて。過去3年で植物状態の患者23人に対して実験を行い、4人から反応が確認されたが、「イエス」「ノー」のコミュニケーションができたのはこの男性1人だけだった。

 ベルギー側の代表、リエージュ大学(University of Liege)のスティーブン・ローレイズ(Steven Laureys)博士は、「この技術はまだ始まったばかりだが、将来的には患者が感情や思考を表現することで、自ら環境をコントロールして生活の質を高められるようにしたい」と抱負を語っている。


AFP 2010-02-04

2010-01-20

コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ

 原書は1954年に発行されている。ってことは昭和29年だ。「もはや戦後ではない」と経済白書の結びに書かれたのが1956年のこと。朝鮮特需が1950-1953年だから、日本では少し明るい兆しが出始めた頃であろう。


 神秘時代を除けば、本書がクリシュナムルティにとって2冊目の著作となる。1冊目は『道徳教育を越えて 教育と人生の意味』(霞ケ関書房)で原書は1953年刊。つまり講話録としては1冊目と考えていいだろう。系統立てられた構成となっていて、クリシュナムルティ思想の全体性をつかみやすい。原書タイトルは「The First and Last Freedom」(最初と最後の自由)となっており、オルダス・ハックスレーが長い序文を寄せている(『生と覚醒のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』に収録)。


 戦争が始まり、クリシュナムルティは1940年から4年間にわたって講話を中断した。

『実践の時代』には次のように書かれている――「戦時中の沈黙の数年は何をもたらしたのだろうか? 明らかにKは瞑想時には自分自身の中に深く入りこんでいた。なぜなら1944、45、46年の講話は、主に自己を知ることに関連しているからである」。とすると本書は、戦後の講話を編んだものと考えて構わないだろう。クリシュナムルティは40代から50代を迎えていた。


 彼は一貫して戦争に反対した。戦争は人々の日常に起因しており、「戦争は、われわれの日常行為の劇的な評価なのです」と書いている(エミリー夫人宛ての手紙、1941年4月14日)。つまり葛藤によって分裂している自我が、そのまま世界の分断として現れているのだ。戦争は誤った指導者が引き起こしたものではなく、人間という人間の葛藤が噴出した結果であった。それは戦い合う国家の国民だけではない。戦争を傍観する人々や、戦争を知らない人々までが含まれる。


 戦時中、クリシュナムルティの話に本気で耳を傾ける人は少なかった。政府のプロパガンダに汚染されていた人々の心は、「正しい言葉」を「正しく受け止める」ことができなくなっていた。クリシュナムルティは戦時中の沈黙の季節を深い瞑想の中で過ごした。深海の底を辿るように彼は静謐(せいひつ)の中に沈潜した。


 講話に参集したのは戦争を支持した人々であり、あるいはそれすら忘れている人々であった。分裂した心に向かって、クリシュナムルティは慎重に言葉を紡ぎ出した――


 私たちがお互いに考えていることを相手に伝達することは、相手のことを非常に良く知っている場合でも、きわめて難しいことです。同じ言葉でも、「私」と「あなた」は違った意味で使っているかもしれません。理解というものは、私たち、つまり私とあなたが、同時に、同じレベルで出会うときに生まれてきます。しかもそれは人と人との間に、夫と妻の間に、また親しい友人同士の間に真の愛情があるときにしか生まれません。これが真の人間的共感――親交です。このように即時(そくじ)の理解――直覚は、私たちが、【同時に】、【同じレベルで】出会うときに初めて生じるものなのです。


【『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ/根木宏、山口圭三郎訳(篠崎書林、1980年)以下同】


 言葉はシンボルであり記号である。私が「犬」と言った時、あなたの描くイメージが私と一致することは、まずない。また、あなたが「犬を欲しい」と思っているのであれば、私からプレゼントしよう。「犬」――はい、持って行っていいよ。ささ、遠慮せずに。ま、こんな具合だ。言葉に実体はない。


 他人と何か交換することをコミュニケーションと考えれば、その最たるものは「言葉」と「お金」であろう。しかし我々は、それらを量でしか考えていない。質や意味、機能、働き、作用、目的と現状については一顧だにしない。「あるから使ってんだよ」というレベルに堕している。


「俺の言葉が信用できないのか?」――ウン。お前は前にも嘘をついたことがあるからな。時にコミュニケーションは成立したり、不成立に終わったりする。これをクリシュナムルティは「【同時に】、【同じレベルで】出会うときに」理解が生まれ、コミュニケーションが成り立つと言っているのだ。完全な一致。同じ周波数。


 性格的に合う合わないといったレベルの話ではない。相手の瞳に映る自分を見つめるような感覚だ。向かい合う二人が互いの目を見つめた時、合わせ鏡のように無限の瞳が続いているのだ。もちろん物理的なことを言っているのではない。心理的に相手と向き合っているかどうかである。


 私は、私たちの日常生活で使っているごく簡単な言葉で、より一層深い意味を伝えてみたいのです。しかしもしあなたが、「聞き方」を知らなければ、それはとても困難なことになります。

「聞く技術」というものがあります。本当に相手の言葉を聞くためには、あらゆる偏見や、前もって公式化されたものや、日常の生活の問題などを捨ててしまうか、脇へ片づけておかなければなりません。心が何でも受け入れられる状態にあるときには、物事はたやすく理解できるものです。あなたの本当の注意力が【何かに】向けられているとき、あなたは【聞いて】います。しかし残念なことに、たいてい私たちは抵抗というスクリーンを通して【聞いて】いるのです。つまり私たちは、宗教的なあるいは精神的な偏見や、心理学的あるいは科学的先入観のほかに、日常の心配事、欲望、恐怖というようなスクリーンに遮(さえぎ)られています。このようにいろいろなものをスクリーンにして、私たちは【聞いて】いるのです。ということは、話されていることを聞いているのではなくて、実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いていることになります。今まで受けてきた教育、偏見、性癖、抵抗などを捨て、言葉上の表現を超え、その奥底にあるものを即時に理解するように【聞くこと】は、とても困難なことです。これこそまさに、現在私たちが直面する困難な問題の一つなのです。


 傾聴とは心を開くことである。開いた心は言葉に託された何かをキャッチすることができる。

 言葉にならない思いをも汲み取ることができる。目と目が合うだけで微笑む関係性が成立する。

 スクリーンとは色眼鏡のことだ。我々は見知らぬ人に対しては、人相風体や髪型、着ている服、声の調子、腕時計や靴などを見て勝手な判断を下す(※腕時計と靴を見るのは銀座のホステス。客の懐具合がわかるらしい)。知人や友人に対しては過去のイメージをそのまま当てはめてしまう。つまり我々は「人間が変化する」ことを心のどこかで認めていないのだ。


 更に我々は自分よりも目上の人の話には耳を傾けるが、立場の低い者に対しては生返事をする。社長は社員の話に耳を貸さないし、先生は生徒の声を平気で無視する。耳は開いたり閉じたりしているのだ。


「実際は、自分自身の心の中で立てている騒音や雑音を聞いている」――何と重い言葉か。我々は自分に都合のいい言葉は受け入れるが、耳に逆らう忠言は拒否する。読むのも一緒である。自分の信条や思想のために利用できるものだけを我々は取り入れるのだ。


 つまり、こうだ。その人の一部分を都合よく利用することで、我々は世界の分断化に加担している。相互に利用し合う関係性の軸はどこにあるのか? それはエゴであろう。すなわちエゴとは自我の別名である。


 自我を終焉(しゅうえん)させるために、真の自由を獲得するためにクリシュナムルティが冒頭で説いたのは傾聴であった。

自我の終焉―絶対自由への道 自我の終焉 絶対自由への道

(※どちらも同じ作品)


D

2010-01-08

言葉によらないコミュニケーションの存在


 しかしながら、ことばによらないコミュニケーションがあります。

 それは、あなたと私のどちらもが、同時に、同じレベルで真剣であり、熱烈であり、直接的であるときに生じるものです。

 そのとき、ことばによらない「コミュニケーション」があるのです。そのとき私たちはことばを不要にすることができます。そのとき、あなたと私は沈黙のうちに坐ることができます。

 けれどもそれは、私の沈黙とかあなたの沈黙といったものではなく、私たち両者の沈黙であるはずです。

 そのときにはおそらく、コミュニケーションがありうるでしょう。

 ですがそれは求めすぎというものです。(※ブランダイス大学での講話)


【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ/竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

あなたは世界だ

2009-07-18

コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー


「はじめて読むドラッカー【自己実現編】」と表紙にある。ドラッカー入門という位置づけの抄録。しかしながら単なる抜粋の寄せ集めではなく、ドラッカー思想のエッセンスが結実している。


 ただし、やはりと言うか、案の定と言うか、思想のドライブ感に欠ける。うねるような勢い、高鳴るリズム、沈思と昂奮のせめぎ合い、といったものが感じられなかった。


 もう一つ。上田惇生の訳がよくないと思う。略歴に経団連会長秘書、ものつくり大学教授とあることからもわかるように、所詮権力側の人物だ。悪人だと決めつけているわけではないが、コントロールする側にとって都合のいい考えが盛り込まれている可能性がある。また、ドラッカーの著作を翻訳する際は、思想的背景や価値観の根拠といったものを補強する必要があると私は思う。その意味で、民間の――できればベンチャー企業の――ビジネスパーソンによる新訳に期待したい。


「翻訳」とは一種のフィルターである。それゆえ、「翻訳された情報」はバイアスが掛かっている。だから、文にとらわれて義や意を見失えば、著者を知ることはできない。翻訳の信頼性を私が判断する基準は「腑に落ちるか否か」という一点である。ドラッカーの場合だと、部分的には痺れるテキストもあるのだが、全体的には肚(はら)にストンと落ちてこない。


 それでも、十分示唆に富んでいる。例えば、「コミュニケーションの第一原理」として次のように書いている――


 仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。今日われわれは、答えがノーであることを知っている。たしかに、音波は発生する。だが、誰かが音を耳にしないかぎり、音はしない。音は知覚されることによって、音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。神秘家たちも知っていた。「誰も聞かなければ、音はない」と答えた。

 このむかしからの答えが、今日重要な意味をもつ。この答えは、コミュニケーションの内容を発する人間、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波があるだけである。これがコミュニケーションについての第一の原理である。


【『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー/上田惇生編訳(ダイヤモンド社、2000年)】


 私が10代の頃、この問いを友人のシンマチから聞いた覚えがある。よもや、禅の公案だとは思わなかった。シンマチは確か「木の枝が折れた音」と言っていた。私は少し考えてから「する」と答えたように記憶している。シンマチはしてやったりという表情になった。ただし、あいつからの説明に納得した憶えがない。


 実はこの問いがずっと心に引っ掛かっていた。実に四半世紀も引き摺っていたことになる。


 ドラッカーはこの問いから、コミュニケーションは受け手がいることで初めて成立すると主張している。この前段では、組織における上意下達型コミュニケーションに対して警鐘を鳴らしている。そして、「大工と話す時は、大工の言葉を使わなければならない」というソクラテスの言葉(※プラトン著『パイドン』)も紹介されている。


 ドラッカーの主張は正しいと思う。しかし、私がどうしても腑に落ちないのはその前提である。この問いに限らず禅の公案が胡散臭いのは、思考を揺るがすところに問いの目的があるからだ。このため、「答えはどうでもよく、お前の先入観がグラグラすればオッケー」といったあざとい印象を受けてしまう。問いに切実さがない。真剣さを欠いている。仏教の智慧とは、決して頓知ではないはずだ。


「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」――するに決まっているよ。鳥や虫達が確実に聞いているはずだ。あるいはその音波がバタフライ効果を生むかも知れない。関連性・相互性の思想に「仏教の縁起」があるが、縁起という思想は“人間の認識”という範疇にとどまるものではない。


 もっと簡単に私の考えを述べよう。「無人の山中」を想像した途端、そこに私自身が存在している。つまり、私の脳内において木が倒れる音が発生するのだ。認識・知覚というレベルを推し進めれば、バーチャルであろうと、認知症であろうと、幻聴・幻覚であろうと、本人にとっては「存在する」ことになってしまう。なぜなら、存在の本質は情報であるからだ。また反対に、実際に存在する放射能や超音波を我々が知覚することはできない。


 ドラッカーが説いているのは、企業組織におけるコミュニケーションである。私が首をかしげてしまうのは、苦悩に喘ぐ人々の声が社会に届いていない現実があるためだ。教育委員会の認識によれば、いつだって「いじめの事実はない」ことになる。この一点において、ドラッカーのコミュニケーション論は人間の本質を探るものではなく、有機的な会社組織のあり方を論じたものであると考えるべきなのだろう。


 人間同士のコミュニケーションの前提は、情報の有益性にあるのではなく、互いを人間として見つめる視座に存在する。今時ときたら、互いを貶(おとし)め合うような、マイナスコミュニケーションが多すぎる。


 尚、最後に付言しておくと、こうした考えに至ったのは、「小林秀雄は真っ当なことを言ってるのに、好きになれないのは何故だろう」というhengsu氏からのブックマークコメントの影響が大きい。記して感謝申し上げる。

プロフェッショナルの条件―いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))