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2010-05-31

太陽暦と幾何学を発明したエジプト人

 エジプト人による太陽暦の発明は飛躍的前進だったが、エジプト人は歴史にさらに重要な足跡を残している。幾何学の発明だ。ゼロがなくともエジプト人は、たちまち数学の達人になった。怒れる大河のおかげで、ならざるをえなかった。ナイルは毎年、堤からあふれ、デルタを水浸しにした。幸いだったのは、洪水によって一帯の畑に豊かな沖積土が堆積し、ナイルデルタが古代世界でもっとも肥沃な農業地帯となったことだ。一方、困ったことに、境界の目印が数多く壊され、農民たちに、どこが自分の耕すべき土地かを知らせる標識が消え去ってしまった(エジプト人は所有権を重んじていた。『死者の書』によれば、死んだばかりの人は、隣人から土地をだまし取ったことはないと神に誓わなければならない。そのような罪を犯せば、「むさぼり食うもの」と呼ばれる恐ろしいけだものに心臓を食われるという罰を受けてしかるべきだとされた。エジプトでは、隣人から土地をだまし取るのは、誓いを破ること、人を殺すこと、神殿でマスターベーションをすることにおとらず重大な罪と考えられていた)。


【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ/林大訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

(※左が単行本、右が文庫本)

2010-04-05

「空」の語意

 次に「空」という語の意味を考えてみよう。「空」という漢字は、サンスクリットの形容詞「シューニヤ」(sunya 空なるもの)と抽象名詞「シューニヤター」(sunyata 空なること、空性)との両方の訳語として用いられる。抽象名詞である場合は「空性(くうしょう)」と訳す場合も多い。また「シューニヤ」という語はゼロを意味するが、現在のヒンディー語でも「シューニヤ」はゼロの意味に用いられている。

「空」という漢語の意味の一つは、すいているということだ。例えば「今日は電車がすいていた」という。これは客車の乗客が少なかったことをいう。また、「腹がすいた」というときは、腹自体がないのではなくて胃の中にあるべきものがないことをいう。入れ物であるyの中にあるべきxがないのが「空」という漢語の基本的意味なのである。


【『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵(講談社学術文庫、2003年)】

空の思想史―原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)

2010-04-01

バビロニアのゼロは空位を表すだけだった


 また、バビロニア人が六十進法における位取り記数法を心得ていて、零にあたる記号をも、ある程度まで、用いていたことは、紀元前2世紀ごろ彼らによってつくられた満月の表から知られるのであるが、この記号は単に空位をあらわす純然たる記号だけにとどまって、計算には一切用いられることがなかった。のみならず、バビロニアのこの記数法は後代に伝えられて一般に普及されるということもなかったのである。


【『零の発見 数学の生い立ち』吉田洋一(岩波新書、1939年)】

零の発見―数学の生い立ち (岩波新書)

2009-05-03

ゼロ


 ゼロは静かだ。一も限りなく静かである。二はうるさくなる。

2009-04-03

数の概念/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ

「数を数える」営みが突然意識に立ち現れてくるテキスト――


 オオカミの骨は石器時代のスーパーコンピューターだった。ゴッグの先祖は2まで数えることすらできず、ゼロなど要らなかった。数学が生まれたときには、一つとたくさんを区別することしかできなかった。原始人は槍の穂先を一つもっているか、たくさんもっているかのどちらかだった。つぶしたトカゲを1匹食べたか、たくさん食べたかかのどちらかだった。一つとたくさん以外の数を表現するすべはなかった。やがて原始言語が発達して、一つ、二つ、たくさんを区別するようになり、ついには、一つ、二つ、三つ、たくさんを区別するようになったが、それより大きな数を指す言葉はなかった。今なお、このような欠陥を抱えている言語がある。ボリビアのシリオナ・インディオとブラジルのヤノアマ族は、3より大きな数を表す言葉をもっていない。その代わり、「たくさん」という意味の言葉を使う。

 数というものの性質のおかげで――数を足し合わせて、新たな数をつくりだすことができる――数体系は3で止まってしまうことはない。しばらくして、賢い人が数詞を並べて、新たな数をつくりはじめた。今日ブラジルのバカイリ族とボロロ族が用いている言語では、まさにこのように数がつくられている。この人々の数詞体系は、「1」、「2」、「2と1」、「2と2」、「2と2と1」というようになっている。2をひとかたまりにして数を数えるのだ。数学者はこれを二進法と呼ぶ。


【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ/林大訳(早川書房、2003年)】


 非常に考えさせられる文章だ。“概念”は多様化し複雑化する。これを進化というのだろう。現代では十進法が基本だが、時計は十二進法、デジタルは二進法と複数の概念を使用している。なんて器用なんだ。


 我々にピンと来る単位は国家予算の「兆」くらいまでだろう。日常で「京(けい)」以上の単位を使うことはない(それ以上は「日本の単位接頭語」を参照されよ)。


 ところが、科学の世界では天文学的数字が取り扱われる。例えば、素粒子の寿命は長短様々で、電子は「6.4×10の24乗」年以上で、タウ粒子は「290×10の-15乗」秒となっている(「高エネルギー加速器研究機構」による)。


 数の概念が多様化されると、人間の幸不幸も多様化されることだろう。あるいは複雑化か。膨大な数字のはざ間で我々は、幸福も不幸も感じ取れなくなっているような気がする。というよりも、平均からの乖離(かいり)という数学的概念でしか幸不幸を判断できなくなったところに、現代社会の不幸がある。マネーという得点で勝ち組・負け組に峻別されてしまう。


 結局のところ、「数の概念」は多量になっただけで、豊かになってはいないのだろう。これは使う側の問題だ。数に罪はない。

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

(※左が単行本、右が文庫本)