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2001-12-24

『臨死体験』をめぐる書き込み 2

赤マント


 意外どころじゃないッスねー。全然知らなかった。


 立花の「生、死、神秘体験」の「序論と解題」に以下のようなくだりがあります。


 空海の晩年の著作『秘蔵宝鑰』は、空海の密教理論の精髄をなすものとして知られている。その冒頭の序に次のような一節がある。


“生れ生れ生れ生れて生の始に暗く

 死に死に死に死んで死の終に冥し”

 

 生と死の向こう側は人間にとって同じように永遠の謎なのである。


 近代の科学主義によって立つ人は、死の向こう側には何もない、従って謎もないというであろう。そういうのはたやすい。だがそういい切ったとたんに、心の片隅で本当にそうなのだろうかという疑いが首をもたげてくる。


 我々が知っているこの世界は、生と死という境界線で区切られた内側だけの世界である。我々のすべての知識は、境界内の知見をもとにして得られた知識である。そのような知識をもとにした判断が、境界の外側の異界に対しても通用するのだろうか。境界内で通用する論理が境界の外でも通用するものだろうか。知識とか、論理というものは、それが得られた世界の世界構造を反映するものである。だから、必ずしも異なる世界に適用可能というわけではない。平面幾何学を球面に適用したり、線形方程式を非線形の世界に適用したりすれば、必ず過ちを起す。


 それと同じように、この世しか知らない者の判断を、この世ならざる世界へ拡張しようすると、誤りにおちいる可能性が強いのである。


 それに対して、そもそもこの世ならざる世界などというものはないのだから、そういう考えは誤りだという反論があるかもしれない。しかし、では、その「この世ならざる世界などというものはない」という判断はどこから生まれたのか。それは厳密にいえば、境界内しか見たことがない者の、境界内から得た経験則の、境界外への無原則拡張適用でしかないのである。コロンブス以前、地球は平面だから、地球の裏側などというものはないと信じてきっていた人々と同じなのかもしれないのである。


 先に引いた空海の『秘蔵宝鑰』には、次のような一節もある。

 

“三界の狂人は狂せることを知らず

 四生の盲者は盲せることを識らず”

 

 狂っている人間は、自分が狂っているということを知らないし、あらゆる目が見えない生物は、自分が目が見えないということを、知らない、というのである。

 

 随分長い引用になってしまいましたが、ここは立花隆の基本的なスタンスがはっきり出ているところだと思うのです。このあとさらに死生観の話などが続くのですが、面白いのは本編の山折哲雄との対談です。そこで彼は宗教について、それが人間に与えた大きなもののひとつはコスモロジーだと言います。


「つまり『世界と言うのはこうなっているんだ。』と、実に見事な説明をある一つの体系をもって与えてくれたわけですね。」


 このあと彼は続けて、近代になってその説明が科学の立場から色んな部分でフィクションだということが分かってきた、しかし、それをフィクションにしたけれど、だからといって、科学も一向にこの世界を明解に説明出来ないでいる、と言ってます。物質の最小単位は原子だと言っていたものが素粒子に変わりそうかと思えばさらに小さなクォークというものが発見され、なお、さらに小さな単位があるのでは、という説がある、宇宙論にしても疑問だらけで、ビッグバンで宇宙が出来たとしても、それ以前はどうなっていたのか、ということは全くわからない、と。


 この本の出版もこの対談も、臨死体験の出版の後で行われたのですが、臨死体験はオカルト主義的に過ぎる、という批判に対して科学万能主義を批判しているわけです。当然この本に対してもオカルト主義的だという批判が出たのは言うまでもありませんが。(笑)


赤マント


 私はもっと拡大解釈をしております(笑)。大宇宙そのものが常に変化してやまない。変化しないものは存在しないといってよいでしょう。その変化せしめるエネルギーこそが宇宙を貫いている。それが波のように現われたのが個々の生命体であると考えます。


 それは確かにそうかも知れません。かなり同意できます。ただ、わたしの場合は漠然とそういう感じがする、という程度の理解レベルですが。


赤マント


 科学を中心とする西洋の思考法は帰納法です。これに対して仏法というのは演繹法なのです。わかりやすい例えを挙げますと、西洋では進化論的な考えをします。猿から人間がどのように進化したのか。仏法的な見方はこうです。猿が人間の生命を感じたから人間に進化した。まあ、やや突飛と思われるかも知れませんが、科学の世界と相反するわけでもありません。


「進化するときがくれば進化するのだ」の 今西進化論に少し近いような気がします(笑)。自然淘汰だけの進化説というのはかなり無理が来ていますから、ある部分正しいのかも知れません。進化論に関しても、先ほどの宇宙論と同様、疑問だらけです。


赤マント


 また三諦論で申せば、現在の私と3歳の頃の私とでは、肉体的には全く別個のものであり、目玉の芯までが新陳代謝することによって新しい肉体となっております。更に、性格も全く異なっているでしょう。つまり、仮諦・空諦は全く違うのに、そこには一貫して「私」が貫かれているのです。これが中諦(ちゅうたい)です。


 永井均いうところの〈わたし〉とかなり近いと思います。 彼の『〈こども〉のための哲学』に魂の存在証明の話が出て来ます。 人物Bが拷問にかけられることになりました。そのときある科学者がBの苦痛を取り去るためにこう言います。『お前の記憶を消し去ろう、そして別の実在の人物Aの記憶を移植しよう。』それでBの恐怖は無くなるだろうか、答は否でしょう。では体も入れ替えればどうか、それでも答えは否でしょう。あいかわらず拷問にかけられるのは〈わたし〉だからです。ではそのときの〈わたし〉とはなんだろう?という話です。 (蛇足ですが、この本の中で永井はこのわかりにくい概念の〈わたし〉をじつに見事に説明してます。それは『今度生まれ変わるときは何になりたい』と問われて例えば『わたしは象になりたい』と答えるときの〈わたし〉であると。)


赤マント


 立花が行っているのは、そのメカニズムに迫ろうとしているわけです。私の考えによれば、メカニズムがわかったところで、自分の人生に変化が現われるとは到底、思えません。立花が求めているのは知識に過ぎない。生き方が変化せずしては、価値が無いというのが私の立場です。


 さきほど書いた本の対談で、山折哲雄は――


 私の場合、臨死体験というものは脳の中で起こる現象 なのか、あるいは現実に起きる死の体験の一部なのかという、「あれかこれか」という考え方をあまりとらないんです。それが真であるか、偽であるかを問わず、そういうものを見た、ということが、その人間にとってどういう意味を持つのか。つまり実感のレベルでどういう意味を持っているのか、そこのところが非常に大事だと思うんです。その人にとってはそれで人生観が変わったり、死の恐怖が薄れたりすれば、それだけで意味があったということになるわけです。むしろその点だけが私にとっては重要なのです。


 と言ってます。が、わたしはそのような立場は取らない です(笑)。それが脳の中で起こったことなのか、実際に死の世界を見たのか、そこのところが非常に気になるのです。それを知ってどうなるものでもないかも知れません。でも知りたい。生命のメカニズム、知りたくて堪りません。これは小野さんが批判するところの「ためにする知識」欲かも知れません。


 どこかの評論家がたしか同じような批判をしていました。立花のただ純粋な知性のための、というスタンスはいかがなものか、という内容だったと思います。たしかにそれはその通りでしょう。性欲や食欲が 必ずしも善いことではないのと同じで、知識欲がいいものだとは思いません。それが何かの役に立た なければ何の意味もないでしょう。だから彼が得々と自分の知識欲をしゃべるとき、大食い自慢や、性豪自慢程度に軽く聞き流すことにしています(笑)。


赤マント


 で、先程の永井均の魂の存在証明の話の続きですが、わたしはこう思うのです。そのとき、BとAの脳を交換 したらどうなるのかと。そのとき〈わたし〉は拷問の恐怖から開放されるのではないか、と。つまり永井の〈わたし〉、小野さんおっしゃる「中諦(ちゅうたい)」は脳の中にあるのでは、という立場です。どうでしょう?


小野不一


 つまり永井の〈わたし〉、小野さんおっしゃる 「中諦(ちゅうたい)」は脳の中にあるのでは、という立場です。どうでしょう?


 脳が「生命の座」であることに異論を挟む心算はありません。脳を中心に生命活動が為されていることも、また事実です。


 生きるということをどのように定義すればよいのでしょう? 京都大学名誉教授の佐藤進が『立花隆の無知蒙昧を衝く 遺伝子問題から宇宙論まで』(社会評論社)で、このように書いております。


 生物学的にいえば『生命体が外部からエネルギー源を摂取して生体エネルギーに変え、外部から摂取した物質を自己の生体成分とし、不要になったものを外部に放出する』ことであろう。(149p)


 まぎらわしい表現ではありますが、肉体的に生長してるってことでしょうか。では、なぜ、そうした現象が起こるのか? 仮に脳が機能しているからだとしても、では、どうして脳が機能しているのか? それは「生きている」からではないでしょうか。こうなると仏法の演繹的な思考法と一緒で「生きているから」としか言いようがありません。


 中諦とは目に見えない本質という意味です。目に見えるものは全て仮諦なのです。生命を脳に閉じ込めようとする考えは、人間をモノ化し、機械化するように思います。


 また逆に、脳が全てであると仮定しましょうか。では、人の一生と同等の刺激を与えれば、それが果たして人間らしい人生といえるのでしょうか? 最新号の逆耳にも書きましたが、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の感動が、脳を調べることによって判明し、そこから『歓喜』のメロディーを生むことが可能でしょうか?


 更に、思想というものは人生を奥深いところで支えているものです。死後の生命が無いとする立場の方が、迫り来る死に脅(おび)えている人を励ますことができるでしょうか? 死ねば無に帰するという思想から希望を生み出すことはできません。本当に何も無くなるのであれば、世界に存在するであろう苦しみ悩んでいる大勢の人々は、自殺すべきではないでしょうか。


 わからないことをどんなに考えても答は見つかりません。では、どちらの立場を信じるべきなのでしょうか? 次号では、パスカルの賭けの論理を紹介する予定です。


赤マント


 中諦とは目に見えない本質という意味です。目に見えるものは全て仮諦なのです。生命を脳に閉じ込めようとする考えは、人間をモノ化し、機械化するように思います。また、逆に、脳が全てであると仮定しましょうか。では、人の一生と同等の刺激を与えれば、それが果たして人間らしい人生といえるのでしょうか? 最新号の逆耳にも書きましたが、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の感動が、脳を調べることによって判明し、そこから『歓喜』のメロディーを生むことが可能でしょうか?


 ここでわたしが言いたかったのは永井による魂の存在証明は不完全である、ということだけです。身体や、記憶を入れ替えてもなお〈わたし〉であるということは魂の存在証明にはならないということです。人間が生きているとき、〈わたし〉は脳の中にある。それは脳を入れ替えたとき〈わたし〉も一緒に引っ越しするだろうと思うからです。ただ、その〈わたし〉は脳内で作られた自己完結的なものなのか、そうではなくそこから出ることが出来るものなのかは、また別の議論です。つまり、人が死んだとき脳の中にいた〈わたし〉も消滅するのか、あるいは宇宙のエネルギーの一部となって、存在するのか、ということです。それは誰にも分らないでしょう。ただ、臨死体験を読む限り、なんとなく宇宙の一部となって存在するような気もしないではない。


 的外れかも知れませんが、小野さんがおっしゃってる中諦とはことは哲学でいう実存主義的なことなのでしょうか。鍛冶屋が鋏を作る前から鋏という本質は存在し、鍛冶屋はそれを形にしたに過ぎない、と。そうだとしても、そうでないにしても、ここに関しては、わたしには何かを言うだけの知識はないです。とても残念ですが。


 入力と出力が1対1で対応しているなら、脳の反応からベートーベンの歓喜を作譜することも出来るでしょうけど、そうでない以上それはもちろん無理です。ただ、小野さんがおっしゃるように近年の脳研究や分子生物学の発展に伴い、生物=有機的ロボットという見方が徐々に蔓延しつつあることは否定出来ませんし、それを認めたくない、という気持ちはわたしにもあります。だからといって、そうではない、と根拠なく否定することはしたくない、とも思うのです。


 更に、思想というものは人生を奥深いところで支えているものです。死後の生命が無いとする立場の方が、迫り来る死に脅(おび)えている人を励ますことができるでしょうか? 死ねば無に帰するという思想から希望を生み出すことはできません。本当に何も無くなるのであれば、世界に存在するであろう苦しみ悩んでいる大勢の人々は、自殺すべきではないでしょうか。わからないことをどんなに考えても答は見つかりません。では、どちらの立場を信じるべきなのでしょうか?|


 ここは大いに意見が分かれるところだと思うのですが、こう信ずれば恐怖から解き放たれるますよ、とか、そうでなければ自殺する人が絶えない、から世界はこうあることにしておこう、というのは小野さんの宗教的な立場のあらわれだと思うのですが、それは言わば、ある種のまやかしではないでしょうか。その人の生き方になんの変化も齎さない知識には意味がない、という立場の延長線上にある考え方だと思うのですが、そこには実は大きな飛躍があるように思えます。キリスト教は当然キリスト教的な生き方を肯定して、そうすれば人々は幸せになる、と説くわけですが、その自ら築いた世界観は地動説や進化論によって次々否定されていくわけです。そのとき教会や信者達がとった立場はまさに目的論的世界観だったのではないでしょうか。小野さんがそうだと言っているのではありません。小野さんの文章にはいつも事実に対する誠実さを感じています。ただ、小野さんがおっしゃる死生観の ここの目的論的な部分がいつも気になるのです。一方、わたしはこの部分に一番小野さんの誠実さを感じもするのです。何故かと言いますと、ある宗教の世界観が目的論的に築かれたものであったとしても目的論的に築かれたものではない、というのが宗教的立場だと思うからです。小野さんのように、まるごとご自分の考えをさらけ出す方もめずらしい。死後の生命という概念が多くの人々を救うか、ということについてはまた別の機会に議論したいと思います。


 最後に全く蛇足ですが、佐藤進先生の生命の定義は実に馬鹿らしいと思います。生きるということを定義するのに、いきなり「生命体が、〜」とは運動を定義するのに「運動物体が〜」と書きはじめるようなものではないでしょうか。


小野不一


 ここでわたしが言いたかったのは永井による魂の存在証明は不完全である、ということだけです。


 仏法でも魂の存在は否定されております。あるのは生命のみです。


 身体や、記憶を入れ替えてもなお〈わたし〉であるということは魂の存在証明にはならないということです。


 五感を通じて外界の情報を認識する主体が「私」ではないでしょうか? 人それぞれの固有を形成している核が「私」であると考えます。


 人間が生きているとき、〈わたし〉は脳の中にある。


「逆耳」にも書きましたが、植物の場合はどうなるでしょう? 生きているのは間違いありません。


 それは脳を入れ替えたとき〈わたし〉も一緒に引っ越しするだろうと思うからです。ただ、その〈わたし〉は脳内で作られた自己完結的なものなのか、そうではなくそこから出ることが出来るものなのかは、また別の議論です。つまり、人が死んだとき脳の中にいた〈わたし〉も消滅するのか、あるいは宇宙のエネルギーの一部となって、存在するのか、ということです。それは誰にも分らないでしょう。ただ、臨死体験を読む限り、なんとなく宇宙の一部となって存在するような気もしないではない。


「私」を「私」たらしめているのが生命ではないでしょうか? 科学というのは因果関係を明らかにする学問といえましょう。では、なぜ「私」は「私」となって生まれてこなければならなかったのか? 人生につきまとう苦悩は「私」であることに起因しているのではないでしょうか?


 的外れかも知れませんが、小野さんがおっしゃってる中諦とはことは哲学でいう実存主義的なことなのでしょうか。鍛冶屋が鋏を作る前 から鋏という本質は存在し、鍛冶屋はそれを形にしたに過ぎない、と。


 実存主義がわかりまへん(笑)。次号のネタを次々と公表するのは気が進みませんが、イギリスのルパート・シェルドレイクという生物学者は、記憶と脳の関係をテレビの画像と受信機に例えております。感動したシーンを見たとしましょう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりません。テレビは電波を受信するだけです。受信機が無くては画像は映らないが、テレビの中に画像そのものがあるわけではありません。つまり、心は、脳を媒介にして働くとしても、脳そのものではないということなのです。テレビのどこかが壊れてしまえば、画像はきちんと映りません。脳もどこかが破壊されてしまえば、精神に以上をきたします。


 脳に生命が存在するとすれば、科学の発達によって、いつしか生命を創り出すことが可能となるはずです。果たして、それが可能となる日が来るのでしょうか?


 ただ、小野さんがおっしゃるように近年の脳研究や分子生物学の発展に伴い、生物=有機的ロボットという見方が徐々に蔓延しつつあることは否定出来ませんし、それを認めたくない、という気持ちはわたしにもあります。


 それを聞いて安心しました(笑)。


 ここは大いに意見が分かれるところだと思うのですが、こう信ずれば恐怖から解き放たれるますよ、とか、そうでなければ自殺する人が絶えない、から世界はこうあることにしておこう、というのは小野さんの宗教的な立場のあらわれだと思うのですが、それは言わば、ある種のまやかしではないでしょうか。


 では逆に質問させてもらいますが、科学的な知識のどれほどを私達は実際に検証しているのでしょうか? 実際には、それらの知識、あるいは実験結果を信じているだけに過ぎないのではないでしょうか? 事実の上でわかっていることは余りにも少ないのが現実です。地球が丸いということすら、自分の目で確かめた人は殆どおりません。


 その人の生き方になんの変化も齎さない知識には意味がない、という立場の延長線上にある考え方だと思うのですが、そこには実は大きな飛躍があるように思えます。


 飛躍があるのは、私の知識不足と言葉足らずのせいです。


 キリスト教は当然キリスト教的な生き方を肯定して、そうすれば人々は幸せになる、と説くわけですが、その自ら築いた世界観は地動説や進化論によって次々否定されていくわけです。


 道理に合わないところにキリスト教の限界があるのではないでしょうか?


 そのとき教会や信者達がとった立場はまさに目的論的世界観だったのではないでしょうか。


 御都合主義が暴かれた後は、見るも無慙な人間性を無視した振る舞いが現われます。


 ただ、小野さんがおっしゃる死生観のここの目的論的な部分がいつも気になるのです。


 例えば、科学が発達して生命の神秘が次々と明らかにされたと仮定しましょう。では、その時、人によって死ぬ時期が違う理由が解明されるでしょうか? 不遇の死を迎えた人物のことが説明可能になるでしょうか?


 ある宗教の世界観が目的論的に築かれたもので あったとしても目的論的に築かれたものではない、というのが宗教的立場だと思うからです。


 確かにそうですね。それと、因果関係の整合性があるかどうかという点を見逃すことはできないでしょう。


 小野さんのように、まるごとご自分の考えをさらけ出す方も珍しい。


 持ち物が少ないんで、さらけ出す他ないんですよー。


 最後に全く蛇足ですが、佐藤進先生の生命の定義は実に馬鹿らしいと思います。 生きるということを定義するのに、いきなり「生命体が、〜」とは運動を定義するのに「運動物体が〜」と書きはじめるようなものではないでしょうか。


 そう言われりゃ、確かにそうですね(笑)。但し、この本は所謂、タメにする批判本ではありません。


小野不一


 五感を通じて外界の情報を認識する主体が「私」ではないでしょうか? 人それぞれの固有を形成している核が「私」であると考えます。


 環境の影響を受けながらも、環境に支配されているだけではない。環境と密接に関わりながら形成される主体ってこってすな。


小野不一


 移動した方に「私」も移ってしまうでしょうね。ところがどっこい鏡を見た瞬間、そこには他人がいる。つまり、仮諦と空諦が股裂き状態となります。死ぬまで、元の顔や身体が思い起こされることでしょう。その自覚は、他の身体に入り込んだ「私」というものになるのではないでしょうか? いわば、コスチューム人生。


小野不一


 それは、「私」でありながらも「私」ではない、という不幸この上ない余生になることでしょう。


 つまり、そんなことをやるだけの価値は無いということです


小野不一


 それは、「私」でありながらも「私」ではない、という不幸この上ない余生になることでしょう。


 例外がありました(笑)。互いが互いになりたいと望んだ場合、ある程度の幸福感を得ることができるかも知れません。


 しかしながら、本当の「私」ではないという認識が、死ぬまで本人を苦しめ抜くことでしょう。


小野不一


 この本の出版もこの対談も、臨死体験の出版の後で行われたのですが、臨死体験はオカルト主義的に過ぎる、という批判に対して科学万能主義を批判しているわけです。当然この本に対してもオカルト主義的だという批判が出たのは言うまでもありませんが。(笑)


 不可思議とは、思議し難いが故にそういうのです。全てを知識の範疇(はんちゅう)に収納し、対話を拒否する手合いは必ず「オカルト主義」という言葉を持ち出します。まあ、言って見れば科学万能信仰ってところでしょう。


 科学の出発点は、こうした不思議な現象の中に法則を見出そうとしたところにあったのではないでしょうか。


小野不一


 自然淘汰だけの進化説というのはかなり無理が来ていますから、ある部分正しいのかも知れません。進化論に関しても、先ほどの宇宙論と同様、疑問だらけです。


 ダーウィンの進化論は、キリスト教の最右翼である物見の塔(エホバの証人)が完膚なきまでにやっつけております(笑)。それなりに信用できる内容です。


小野不一


 ただ、小野さんがおっしゃる死生観のここの目的論的な部分がいつも気になるのです。


 目的論的というよりは、意味論的ですな。


 科学は現象を説明し、哲学・宗教は実相に迫ろうとする。それ故、真理は認識の対象であって、それ自体は価値ではありません。


赤マント


 科学の出発点は、こうした不思議な現象の中に法則を見出そうとしたところにあったのではないでしょうか。


 全面的に同意です。あるものを、説明がつかないからと言うだけで、ないもの、にしてしまう態度は科学的からかけ離れた態度ですね。


小野不一


 全面的に同意です。あるものを、説明がつかないからと言うだけで、ないもの、にしてしまう態度は科学的からかけ離れた態度ですね。


 全く仰る通りです。未知なるものに対して留保する勇気が必要だと考えます。


小野不一


 しかしながら、本当の「私」ではないという認識が、死ぬまで本人を苦しめ抜くことでしょう。


 美容整形が胡散臭く感じてしまう原因はここらあたりにあるんじゃないでしょうか。春日武彦の『顔面考』(紀伊国屋書店)でも触れられている。


赤マント


 では逆に質問させてもらいますが、科学的な知識のどれほどを私達は実際に検証しているのでしょうか? 実際には、それらの知識、あるいは実験結果を信じているだけに過ぎないのではないでしょうか? 事実の上でわかっていることは余りにも少ないのが現実です。地球が丸いということすら、自分の目で確かめた人は殆どおりません。


 科学とされているものを信じるのも一種の信仰ではないか、というご指摘ですね。鋭い質問で随分考えさせられました。で、いろいろ考えたり調べたりしました結果、我々が信じているものが信仰か科学事実かは、その対象が反証可能かそうでないか、ということだろうと思います。これはわたしが自分で考えたことではなくカール・ポッパーという人の受け売りです(笑)。(科学事実と書きましたが厳密には科学的仮説ですね)


小野不一


 科学とされているものを信じるのも一種の信仰では ないか、というご指摘ですね。鋭い質問で随分考えさせられました。 で、いろいろ考えたり調べたりしました結果、我々が信じているものが信仰か科学事実かは、その対象が反証可能かそうでないか、ということだろうと思います。


 宗教にしても科学的な態度が求められるのは当然です。科学的な批判に耐えない宗教はまやかしであり、ドグマであり、教条主義であり、単なる気休めに過ぎないものと断ずるものであります(←演説調)。


 これはわたしが自分で考えたことではなくカール・ポッパーという人の受け売りです(笑)。


 それは、まさか、カールおじさんではないでしょうね。口の周りに泥棒のような髭(ひげ)を蓄えていれば、かなり怪しい。


小野不一


 科学的態度は幸福を求める人には不可欠なものでしょう。しかしながら、慎重居士になっていては人生の価値を生むことは難しいとも思われます。


 私達が産まれたばかりの時、果たして母親の母乳の成分を調べた上で飲んだでしょうか? 否です。無心に母親を信じて、口に含んだことでしょう。


 つまり、信じたものに価値があれば幸福になるという一つの証左でありましょう。科学的な態度は後からでも充分、間に合います。


 知るということは大切なことです。それ自体が幸福の一分(いちぶん)であるかも知れません。しかし、なんでもかんでも知った上で我々は行動しているでしょうか? 人生の出来事、全てに対して「石橋を三度叩いて渡る」ような真似をする人は殆どおりません。そうであっては臆病との謗りを免れないことでしょう。


 ましてや人間関係においては殊更そうでしょう。相手を科学的な態度で判じている人などにはお目にかかったことがありません。


 そう考えてみると、人生を支えている大半は「信じる」という行為に他なりません。


小野不一


 科学的態度は幸福を求める人には不可欠なものでしょう。しかしながら、慎重居士になっていては人生の価値を生むことは難しいとも思われます。私達が産まれたばかりの時、果たして母親の母乳の成分を調べた上で飲んだでしょうか? 否です。無心に母親を信じて、口に含んだことでしょう。


 また、テレビを見る時に、テレビの構造を知った上で見ている人など殆どいないでしょう。つまり、テレビを見て楽しめれば好いわけです。


小野不一


 知識という点を考えれば、現代人の知識は、古代人とは比較しようがないほど向上しております。では、現代人が幸福といえるでしょうか。知識を持つことによって、人生の喜怒哀楽が純粋に表現できなくなっていることも見逃せません。


 詰め込み教育が子供達の心に深い翳(かげ)を落としていることも、また事実であります。


赤マント


 つまり、信じたものに価値があれば幸福になるという一つの証左でありましょう。科学的な態度 は後からでも充分、間に合います。


 価値があるかどうかわからない、何を信じていいのかわからない、そもそも何を価値とすればいいのか分らない、という状況があるのだと思います。それがオウムの若者達であり、阪神大震災以降、ボランティア症候群にかかった若者達だろうと思います。災害地に駆け付けてボランティアに没頭している間は充実感を覚えるけどそこから離れると空虚になってしまう、という。もちろん知識や教養がその空虚を埋めることは出来ないでしょうが、既存の幸福論も無効になってきているのではないでしょうか。彼らはきっと何が幸福なのかも分らなくなっていたのでしょう。いま流行りの自分探しってやつですな。


小野不一


 価値があるかどうかわからない、何を信じていいのかわからない、そもそも何を価値とすればいいのか分らない、という状況があるのだと思います。それがオウムの若者達であり、阪神大震災以降、ボランティア症候群に かかった若者達だろうと思います。災害地に駆け付けてボランティアに没頭している間は充実感を覚えるけどそこから離れると空虚になってしまうという。


 確かにそうですね。背景にあるのは高度成長からバブル経済に至る経済的豊さでしょうか。人間は食えるようになると堕落してしまうのか、そんなことが問われているような気がしてなりません。貧・病・争が払拭された後は、英知輝く道が現われると思いきや、中々そうは問屋が卸さない。


 もちろん知識や教養がその空虚を埋めることは出来ないでしょうが、既存の幸福論も無効になってきているのではないでしょうか。彼らはきっと何が幸福なのかも分らなくなっていたのでしょう。いま流行りの自分探しってやつですな。


 その現象の断面に刻印されているのは「生きるに値しない世の中」ということになりかねない。青少年の世界を覆うイジメという現象は、弱い者を痛めつけて平気な獣性をはらんでおります。人類は動物的な生き方しかできなくなりそうな気配すらあります。欲望に火をつける広告社会はまた、感覚を刺激する情報が氾濫し、人間をますます低いレベルに追いやろうとしています。

2001-12-23

『臨死体験』をめぐる書き込み 1

小野不一


 立花隆の同書の所感を「逆耳」にて連載中ですが、ご意見を募りたい。昨日、発行分が上巻の後半部分に当たるので、あと2回書く予定。書きながら少し見えてきたことがあります。


小野不一


 古本屋仲間より、「もっと立花批判が出てきてもいい」との意見あり。


山野健一郎


 立花隆の同書の所感を『逆耳』にて連載中ですが、ご意見を募りたい。


「逆耳」より――


 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らし青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻(いぶし)銀のような濃緑の斑点をつけていた。


 本題からズレますが、上記内容と殆ど同じ写真が、昔から(私も中学地理の授業で見た)存在するのも事実です。(但し、いつ撮影されたものかわかりませんが)インド半島とセイロン島の間にアダムズブリッジという大規模な砂嘴(さし)があり、それを説明するのに地理等の授業で使われるものです。


小野不一


 本題からズレますが、上記内容と殆ど同じ写真が、昔から(私も中学地理の授業で見た)存在するのも事実です。(但し、いつ撮影されたものかわかりませんが)


 私の記述が誤っておりました。ガガーリンは衛星軌道に達したのであって、月に行ったのはアポロでしたね。いずれにしても、ユング臨死体験で見た地球の姿は、誰一人知るべくもないものなのです。


 つまりこの脈絡は、見えるはずのないものを見たということが体外離脱を雄弁に証明しているのではないか、ということです。


山野健一郎


 土曜日にたまたま養老孟司と古舘一郎のテレビでやっていたのですが、現在では側頭葉への刺激によって人工的に臨死体験ができるようです。臨死体験に限らず神秘的な体験も脳のメカニズムとしてある程度は説明がつくようです。ただし、臨死体験や神秘体験の説明ができるからと言って、それは神(宇宙の主体的な意志)の存在や死後世界の存在の反証ということにはならないし、その存在を証明できるわけでもないので、現段階では誰も神の存在や死後世界の存在を有るとも無いとも断言できないという旨のことを言っておりました。私もなるほどと思いました。


 仮に、死んで一切が消滅してしまうという考えを認めてしまえば、自殺を思いとどまらせることはできません。


 現段階では、認めることも認めないことも、個人の自由だと思っています。個人的には将来説明のできる時が来ると思っています。


小野不一


 土曜日にたまたま養老孟司と古舘一郎のテレビでやっていたのですが、現在では側頭葉への刺激によって人工的に臨死体験ができるようです。臨死体験に限らず神秘的な体験も脳のメカニズムとしてある程度は説明がつくようです。


 立花が下巻の最後で挙げている説です。ワイルダー・ペンフィールドという脳神経の大学者が唱えた説。側頭葉のシルヴィス溝という部分に刺激を与えると、臨死体験そっくりの状態となる。これはてんかん患者の治療から判明したもの。ところがこれだけでは説明できないことがあるのです。体外離脱、一生のパノラマ回顧などが現われるのは間違いないようですが、臨死体験者の多くが語る光に包まれた状態を説明できないのです。側頭葉の中で臨死体験が行われているとすれば、真っ暗闇でなければならないはずなのです。


 また、仮に側頭葉で全てが説明されたとして、そこから導き出される結論は何なのでしょう? 「だから、死後の生命は存続しない」ということを証明できたことになるのでしょうか? 私はそうは思えません。


 いずれにしても、脳内現象説でも現実体験説でも説明できないというのが現状です。それを説明したがるのは科学の勝手でしょう。しかし、その間にも人は死んでゆくのです。説明されるようになったとしても、人間の生き方が変わるとも思えません。これが科学の限界ではないでしょうか。科学の土俵で白黒がハッキリすることは多分、ないでしょう。ケリをつけるのは哲学だと私は踏んでます。


山野健一郎


 体外離脱、一生のパノラマ回顧などが現われるのは間違いないようですが、臨死体験者の多くが語る光に包まれた状態を説明できないのです。


 うろ覚えですが、このことは、「光体験」が脳にプログラムとして存在しているのではないか(?)というようなことを番組で触れていたように思います。


 また、仮に側頭葉で全てが説明されたとして、そこから導き出される結論は何なのでしょう? 「だから、死後の生命は存続しない」ということを証明できたことになるのでしょうか? 私はそうは思えません。


 それは、先にも書きましたが、番組でも同様なことを言ってました。


 いずれにしても、脳内現象説でも現実体験説でも説明できないというのが現状です。それを説明したがるのは科学の勝手でしょう。


 番組は、このようなこともあるという感じで、それによって強引に全ての説明をしようというものでは無かったように思います。


 しかし、その間にも人は死んでゆくのです。説明されるようになったとしても、人間の生き方が変わるとも思えません。


 もし仮に、神や死後世界の有無が明確になった時、私には人間の生き方も大きく変わるように思えます。


 これが科学の限界ではないでしょうか。科学の土俵で白黒がハッキリすることは多分、ないでしょう。ケリをつけるのは哲学だと私は踏んでます。


 よく考えれば確かに全く小野さんの言われるとおりですね。森羅万象宇宙全てのことが解明できない限り、あるいはできたとしても、科学によって、神や死後世界の有無の完璧な証明は無理かもしれません。そうであるならそれらの有無の完璧な証明がないままに現に生きている我々は、それらの存在の有無をオノレ自身の哲学を拠り所に(場合によっては流動的に)生きるしかないように思えます。


小野不一


 うろ覚えですが、このことは、「光体験」が脳にプログラムとして存在しているのではないか(?)というようなことを番組で触れていたように思います。


 光というのは後頭葉という部分で認識されるらしいのですが、これが機能してない臨死体験があるとのことです。また、先天性の全盲だった方が、臨死体験によって様々な光景を目撃したことも確認されています。


 もし仮に、神や死後世界の有無が明確になった時、私には人間の生き方も大きく変わるように思えます。


 私も同感です。また、それによってのみ生命の尊厳性を確立できると思います。


 森羅万象宇宙全てのことが解明できない限り、あるいはできたとしても、科学によって、神や死後世界の有無の完璧な証明は無理かもしれません。そうであるならそれらの有無の完璧な証明がないままに現に生きている我々は、それらの存在の有無をオノレ自身の哲学を拠り所に(場合によっては流動的に)生きるしかないように思えます。


 死を自覚した生き方が、生を充実させるはずです。不老不死の薬ができたら人類はどうなるでしょうか? 誰も努力しないでしょうし、頑張ろうとしなくなるでしょう。そこには完璧な“無気力の世界”が現われることでしょう。


赤マント


 考えれば考えるほど重いテーマですね(笑)。自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか 、今のところわたしには何とも言えません。来世を信じて自殺した人もいるのではないでしょうか。ところで最近自然科学の入門書ばかり読んでいますが、読めば読むほど科学と哲学、宗教の境界が分らなくなって来ます。例えば物質は全て原子(厳密に言えば素粒子)からなっているとされていますが、これは 実際に私たちが電子顕微鏡で見ることができるから 科学なのであって、そうでなければ全く哲学ですよね。 相対性理論にしても、ほとんど哲学的認識論ですよね。 宇宙論や進化論などはまだ解明されていない部分が多いだ けに入門書を読んでいても、もっと哲学的な色彩が濃いで す。 で、何を言いたいかといいますと、私たちは「明らかなこと=科学、明らかでないこと=哲学、宗教」と分類しているのではないでしょうか。


 だとすれば「科学的に証明」という言葉は全く意味をなさないのでは。科学的でない証明とはなんでしょう。 何かを証明しようとすれば科学的にならざるを得ない、それは、証明あるいは解明しようとする姿勢そのものを科学的と呼んでいるからではないでしょうか。ですから小野さんが「科学の限界」と言うとき、それはこの世の「明らかさの限界」とイコールなのだな、と思うのです。そういう意味で哲学はこの問題に決着を付けないと思います。それは、科学の場合とは逆に、決着のつかないものを哲学とわたしたちが呼んでいるような気がするからです。


 ここでまた「では証明とはなんぞや」というちょっとやっかいな問題がでてきますが。


小野不一


 赤マントさん、素晴らしい書き込みをありがとうございます。大きなヒントを与えて下さったことに感謝申し上げます。


 考えれば考えるほど重いテーマですね(笑)。自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか今のところわたしには何とも言えません。


 いみじくも山健さんがお書きになったように、「生き方が変わるかどうか」が私にとっては最も重要なテーマなのです。


 来世を信じて自殺した人もいるのではないでしょうか。


 こうしたケースに問題となるのは「死ねば楽になるのか」というテーマとなりますね。


 ところで最近自然科学の入門書ばかり読んでいますが、読めば読むほど科学と哲学、宗教の境界が分らなくなって来ます。


 僭越ですが、あっさりと申し上げれば演繹法と帰納法の違いです。


 例えば物質は全て原子(厳密に言えば素粒子)からなっているとされていますが、これは実際に私たちが電子顕微鏡で見ることができるから科学なのであって、そうでなければ全く哲学ですよね。


 原子の例を見てもわかるように、科学というのはどんどん細分化していくわけです。それで「分かる」となるわけですな。これに対して仏法的な見地は何かというと「悟る」になるわけです。


 相対性理論にしても、ほとんど哲学的認識論ですよね。宇宙論や進化論などはまだ解明されていない部分が多いだけに入門書を読んでいても、もっと哲学的な色彩が濃いです。


 科学が相対的な世界観であるのに対して、宗教は絶対的、あるいは根源的な色彩が強い。


 で、何を言いたいかといいますと、私たちは「明らかなこと=科学、明らかでないこと=哲学、宗教」と分類しているのではないでしょうか。


 私は、知識と智慧の違いだと思います。智慧とは、生きる力に裏打ちされた確信と言えるかも知れません。生活とは生命活動の謂いです。故に、その生命活動によりよき変化を与える何かが必要となってくるのではないでしょうか。それが信念であり、哲学・宗教であると考えます。知識だけでは変化が乏しいことと思われます。


 だとすれば「科学的に証明」という言葉は全く意味をなさないのでは。科学的でない証明とはなんでしょう。何かを証明しようとすれば科学的にならざるを得ない、それは、証明あるいは解明しようとする姿勢そのものを科学的と呼んでいるからではないでしょうか。


 これは全く仰る通りです。科学的態度、科学的証明は不可欠です。哲学・宗教に対しても同様です。


 ですから小野さんが「科学の限界」と言うとき、それはこの世の「明らかさの限界」とイコールなのだな、と思うのです。そういう意味で哲学はこの問題に決着を付けないと思います。それは、科学の場合とは逆に、決着のつかないものを哲学とわたしたちが呼んでいるような気がするからです。


 決着がつかなければ私が困ります(笑)。しかし、どうして我々人類は、こうも死に対して無自覚なまま生きていられるのでしょうかね?


 ここでまた「では証明とはなんぞや」というちょっとやっかいな問題がでてきますが。


 赤マントさんは侮れませんねー。いやあ吃驚した。では、立花を批判した上で、突っ込んだ論を展開することにしやしょう。


小野不一


 ただ、現実的に言えることは、神や死後世界が存在すると信じている人も居れば、それらは存在しないと信じている人も居る、ということです。


 どちらでも構わないのです。ただ、それが生き方にどのような違いをもたらすか、ということです。まあ、どっちにしても、死ぬのは確実ですから、皆わかるようになるんですがね(笑)。でも、手遅れ。死後の世界があるとすれば、我々は既に何度も死んだ経験をしているはずですから。


山野健一郎


 どちらでも構わないのです。ただ、それが生き方にどのような違いをもたらすか、ということです。まあ、どっちにしても、死ぬのは確実ですから、皆わかるようになるんですがね(笑)。でも、手遅れ。死後の世界があるとすれば、我々は既に何度も死んだ経験をしているはずですから。


 輪廻転生ということですか。(?)


 神、死後世界、輪廻転生、有無を組み合わせてみます。


 1.神有、死後世界有、輪廻転生有

 2.神有、死後世界有、輪廻転生無

 3.神有、死後世界無、輪廻転生有

 4.神有、死後世界無、輪廻転生無

 5.神無、死後世界有、輪廻転生有

 6.神無、死後世界有、輪廻転生無

 7.神無、死後世界無、輪廻転生有

 8.神無、死後世界無、輪廻転生無


 私としましては上記4の考え方です。ただし、神=宇宙の主体的な意志=自然・科学の法則・規則と考えています。


小野不一


 輪廻転生ということですか。(?)


 その通りです。キリスト教は人の一生を1冊の本に喩える。仏法では1ページに喩えるのです。


 神、死後世界、輪廻転生、有無を組み合わせてみます。


 私は一般の宗教が説くところの人格神は信じません。「天にまします我等が父よ――」って言ったって、宇宙飛行士が見たって話も聞かないし……。


 ただし、神=宇宙の主体的な意志=自然・科学の法則・規則と考えています。


 仏法では文字通り「法」と説かれてます。大宇宙と我が生命を貫く法則があると示されております。


 原稿を書くより、こっちの方が面白くなってきた(笑)。


小野不一


 4 神有、死後世界無、輪廻転生無


 私としましては上記4の考え方です。


 死後の世界があるのか、ないのかは誰にもわからないことでしょう。こういう場合は逆から考えるべきだと私は考えます。


 では、「生きる」とはどういうことなのか? これを科学で解明することは可能なのでしょうか? 無から有が生まれるということは科学的にあり得ません。では、地球が誕生してから生命体が出現するまでを、科学で説明できるでしょうか? タンパク質から生命が生まれた背景を明らかにできるでしょうか?


 どうして髪は伸びるのか? 顔の美醜があるのはなぜか? 目が見えるのはどうしてなのか? 感動するのはなぜか? 人が人を好きになる理由は? 等々、こうしたことの方が私にとっては遥かに不思議なことと思われます。


小野不一


 自殺を思いとどませるのに死後の世界が有効かどうか、今のところわたしには何とも言えません。


 権利や自由という観点から申せば、「自殺する権利」や「自殺する自由」はあってしかるべきでしょう。だが、自殺は絶対にいけない。その奥底(おうてい)にあるのは誤った死生観ではないでしょうか。


 また、家族を始めとする周囲の人間に悲しみを与える自由や権利は認められるものではありません。


山野健一郎


 権利、自由、義務、責任権利や自由という観点から申せば、「自殺する権利」や「自殺する自由」はあってしかるべきでしょう。


「自殺する権利」に対する「義務」、「自殺する自由」に対する「責任」、とは何だろう。自殺してしまえばこの世に居ないのだから、権利や自由を行使したことに対する義務も責任も取りようがない。


 権利、自由、義務、責任は、他者というものに(或いは神などに)束縛されることによって成立する概念。全くの一人ぼっちで他者に束縛されないなら、権利、自由、義務、責任もありえない。そして、自殺は「他者の否定」ではないだろうか。本当は他者を殺したい、だけど殺せない、だから本当は死にたくないのに自殺、ということなのではないだろうか。自殺=他殺であると私は思う。


 だが、自殺は絶対にいけない。その奥底(おうてい)にあるのは誤った死生観ではないでしょうか。


 自殺=他殺と考え、人類の永続を願うから、私もそう思う。


小野不一


 確かに。わたしも自分の死についてとことん深く考えたことがないです。


 死というものが生活から姿を消してしまってるのが現実です。3世代が同居するのも珍しくなってしまったし、家で最期を看取ることも少ない。人間の死は病院やアスファルトの道路上にしか見当たらない。


 また、食べ物にしても同様で、動物の死が人間の生を支えていることが直接的には感じられなくなりつつある。


 あたかも文明は死を忌避しているかのようです。


小野不一


 自殺は「他者の否定」ではないだろうか。本当は他者を殺したい、だけど殺せない、だから本当は死にたくないのに自殺、ということなのではないだろうか。自殺=他殺であると私は思う。


 私は自殺≦他殺だと思います。殺しやすいことを踏まえると、男性よりも女性、大人よりも子供、他人よりも自分を殺すケースの法が罪は重いと考えます。


山野健一郎


 死後の世界があるのか、ないのかは誰にもわからないことでしょう。こういう場合は逆から考えるべきだと私は考えます。


 小野さんの仰りたいことは何となくわかります。


 しかし、私は現世に生きている。たとえ仮に死後世界や輪廻転生を経て現在の私「山野健一郎」が存在しているにしても、この現世以外には「山野健一郎」は存在しない。私にとっては現世の「山野健一郎」が私自身の全てであり、この世以外の「山野健一郎」ではない何者かは私ではないのです。そして、さらに仮に死後世界や輪廻転生があったにしても私はこの世で「山野健一郎」として生きることのみで充分であると思っています。


赤マント


 どうも小野さんはウィトゲンシュタインいうところの 「言語ゲーム」に陥ってるように見えます。前に掲示板で「科学的証明とはなんぞや、科学的でない証明とはなんぞや」といったことを書いたのですが、今回も、「生命とはなんぞや」問いましょう。それを生物学的な意味で捉えるなら、潰された蟻は間違い無く生命が消滅しています。生命の指標となるホメオタシスは明らかに崩壊し、あとは細胞の腐敗を待つのみです。ですから小野さんがいう「蟻を動かしめていたもの」は ここには、もうないわけです。つまり消滅したわけです。しかしさらに小野さんは問うわけです。ではここにはもう無い“生命”はほんとうに消滅したのか、と。 このへん実に小野さんらしいところですね。色んな意味で。小野さんはこう言いたいのかもしれません。ここには無いけどどこかにあるはず、と。


 でも、わたしがこのカボチャ頭で思うのは、その議論は単なる言葉の定義の問題に過ぎないのでは、ということです。まず初めに、生命を「蟻を動かしめていたもの」と定義すると潰された蟻にはそれはもう無いわけです。ここにもないし、またそれは、どこにもないのです。なぜなら、どこかにあればそれは 蟻を動かしめなければならないわけです。しかし蟻は動かない。つまりここで定義された生命は消滅したわけです。しかしそれはどこかにある、「蟻を動かしめる」という形ではなく別の形で、というならそれは最初に定義した生命というものとは違ったものとしてあるわけです。 違ったものとしてある、ということは消滅したことにはならない、とすれば確かにそれが消滅したとは言えません。でも、また問題は消滅という言葉の定義に収斂されてしまうのです。


 では、生命というものを魂のような意味で定義してみましょう。「蟻を動かしめたり、またそこから離れて形を変えて他の生命体の源となったり、あるいはその予備軍みたいな状態でどこかにいるもの」と(予備軍っていう表現は変ですけど)。そうすれば押し潰された蟻の生命は消滅しないことになります。「そこから離れて」とか「予備軍みたいな形で」の部分にその“生命”の不滅性みたいなものが暗示されています。不滅性をもって定義されたものが消滅するわけはない

のです。


 生命は不滅か、と問うときに生命の定義の仕方によってすでに結論は出てしまうのではないでしょうか。不滅だ、という人は 生命を不滅のものと定義し、不滅ではない、という人はそれを肉体の死、と定義してるわけです。これ、まさに言語ゲームではないでしょうか。


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには 未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


小野不一


 赤マントさん、難し過ぎます(笑)。もっと簡単に言ってやっておくんなせいっ。


小野不一


 ちなみに赤マントさんは脳内現象派?


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。


小野不一


 どうも小野さんはウィトゲンシュタインいうところの「言語ゲーム」に陥ってるように見えます。


 ウィトゲンシュタインは読んでおりません(赤面)。


 それを生物学的な意味で捉えるなら、潰された蟻は間違い無く生命が消滅しています。


 目に見えないから消滅したとするのでしょうか? 今、眼前にあったものが消滅するというのは科学的にはどうなんでしょうね? 証明できるのでしょうか。エネルギー不滅の法則みたいに私は考えております。


 ですから小野さんがいう「蟻を動かしめていたもの」はここには、もうないわけです。つまり消滅したわけです。


 赤マントさんが仰る「ここ」とは肉体のことですよね。肉体を離脱したという見方をするのは非科学的になりますか?


 生命は不滅か、と問うときに生命の定義の仕方によってすでに結論は出てしまうのではないでしょうか。不滅だ、という人は生命を不滅のものと定義し、不滅ではない、という人はそれを肉体の死、と定義してるわけです。これ、まさに言語ゲームではないでしょうか。


 ここらあたりが難しいですね。結局は本人の思い込みによって立場が分かれてしまうということでしょうか?


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


 フーーム、赤マントさんは哲学者ですな。わたしにゃ難し過ぎます(笑)。


 次回の原稿にも書く予定なんですが、魂の重さってえのあ、どうでしょう? 一節によると35gとされてるようですな。死んだ瞬間、体重が減る。質量を伴っている以上は何かが存在すると私は思うのですが……。


小野不一


 それもこれも、生命のメカニズムというものがわたしたちには未知のものであるからでしょう。未知だから定義できないし、定義すればそれはそのまま答えになってしまう、ということではないでしょうか。


 立花が行っているのは、そのメカニズムに迫ろうとしているわけです。私の考えによれば、メカニズムがわかったところで、自分の人生に変化が現われるとは到底、思えません。立花が求めているのは知識に過ぎない。生き方が変化せずしては、価値が無いというのが私の立場です。


赤マント


 赤マントさん、難し過ぎます(笑)。もっと簡単に言ってやっておくんなせいっ。


 いやいや申しわけない、どうも言いたいことが うまく言葉にならなくてシドロモドロになってしまいました(笑)。 えっとつまりわたしが言いたいのは、生命は不滅かと問う前に生命とはなんぞや、ということが明らかでないと意味がないのでは、ということですね。蟻を動かしめていたものを生命とすれば 蟻が動かないとき、それはもう消滅した、と考えるのが妥当だと 思います。そうではない、と思う人は、生命の定義を変えて、魂のような意味で定義するかも知れないけど、そのとき既にそれは不滅性をもって定義されているわけですから、生命は不滅、ということになるのだろう、つまり定義によって結論は見えているのでは? ということが言いたかったのです。以上、簡潔にまとめてみました。全然簡潔じゃないって?


 ちなみに赤マントさんは脳内現象派?


 臨死体験とか死後世界のことは上のこととはまた違う問題だと思うのですが、実を言いますと立花の本を読むまでは完全に脳内現象派でした。NHKスペシャルで立花が出てきて色んな人の臨死体験を紹介したときも、その番組では全く科学的な検証みたいなものはされずに、ただ体験を紹介するだけだったけれど それを見てもまだ完全に脳内現象派でした。でも立花の「臨死体験」を読んでからかなり現実体験側に振れ、今では全く中立というか、ほんとにどっちなのか分らない、という 状態です。


 こう書くと小野さんは、「へ?」と思われるかも知れませんが あの本は、脳内現象派だった人にとってはかなり現実体験説に有力なことが書かれているのです。それゆえ、「立花はオカルト主義」という批判が一斉に湧きおこったわけですね。どうです、意外でしょう(笑)。


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。


 生命がどこにあるか。う〜〜〜む。 わたしは、結局は生命は物質的なものに還元されると考えています。しかしそれは私達が今想像できる物理化学現象ではないかも知れ ない。例えば物理学でいえばニュートン時代からアインシュタイン時代、量子力学時代の各々の転換点では世界認識を根底からひっくり返させられるほどのインパクトがありますよね。それの何十倍 も強烈な世界認識の変革が行われるほどの発見や研究があったとき に生命の神秘が解きあかされるかもしれないな、と思います。それが死後の世界や霊魂の存在を証明することになるのか、否定することになるのか、あるいは全く違った形の死生観を提示することになるのか、それは全然わからないけど。でも少なくともわたしにはそんな日は訪れないですね。あとよく生きて50年。でも死んでから、生命とはなんだったのかを悟る かも知れない(笑)。


 わたしが生まれる前、わたしにとってはこの世界は存在しなかったわけです。全くの無ですね。死んだときもそういう状態 になるのだと思うのですが、全くの無というのは、どうしても想像できないですね。それは自分がこの頭で考えているのに、そこから、この考えている自分というものを除外するという、かなり無理な思考を強いられるからだと思うのですが、とにかく 無になるのだと思うのです。それも永遠に。そう考えるとほんとうに恐ろしいです、「永遠に」というところが一番恐ろしい(笑)。


赤マント


 目に見えないから消滅したとするのでしょうか? 今、眼前にあったものが消滅するというのは科学的にはどうなんでしょうね? 証明できるのでしょうか。エネルギー不滅の法則みたいに私は考えております。


「蟻を動かしめていたもの」は消滅して、何か他の 蟻を動かしめないものに変わったと考えるのは どうでしょう。エネルギー不滅の法則は面白い着眼点だと思います。 ただエネルギーの場合、総量は保存されるけれども不可逆的に劣化する、というエントロピー増大の法則があります。たとえば車を運転しているとき ブレーキを踏んでスピードを落とします。そのとき、運動エネルギーは熱エネルギーに変わりその総和は等しいのですが、逆にブレーキを踏んで 発生した熱をかき集めて車を動かすことはできないのです。運動エネルギーが熱エネルギーに変わったときに劣化(エントロピー増大)したからです。生命現象でもこのようなことが起こると考えるのはどうでしょう。


 赤マントさんが仰る「ここ」とは肉体のことですよね。肉体を離脱したという見方をするのは非科学的になりますか?


 いえ、全然非科学的とは思いません。ただ、たとえ離脱してそれがどこにいようとも、それが蟻の生命であることを辞めてしまっているのは間違い無いですよね。しかし「蟻を動かしめる」という作業を免除して それがどこかでフラフラ遊んでいてもそれは「生命」と認めてあげよう、と定義すれば、生命は不滅かという 問いの答えも変わってくると思うのです。ただ、蟻から離れてフラフラしてる、と定義するときすでにそれは不滅性を前提されているのではないでしょうか。だとすれば生命は不滅か、という問いは意味を成さないのでは。


 次回の原稿にも書く予定なんですが、魂の重さってえのあ、どうでしょう? 一節によると35gとされてるようですな。死んだ瞬間、体重が減る。質量を伴っている以上は何かが存在すると私は思うのですが……。


 その話は何度か聞いたことがあります。死後、水分が抜けるからだ、という俗反論も耳にします(笑)。 ただ、その35gの話はどうか慎重に、書かれる前に色々詳しく調べたほうがいいと思います。もちろん余計なお世話でしょうけど。


小野不一


 つまり定義によって結論は見えているのでは?


 少し、わかって参りました(笑)。


 仏法に三諦論(さんたいろん)というのがありまして、まあ、基本的な物の見方みたいなもんです。空・仮・中(くうけちゅう)の三諦といいます。空は目に見えない性分・性質。仮は目に見える姿。中はそれらを司っている本体という意味。科学の世界は仮諦(けたい)にとらわれがち。赤マントさんが仰る「動かない蟻」というのも仮諦です。空仮を貫く核のようなものを私は生命と言ってるわけです。


 科学を中心とする西洋の思考法は帰納法です。これに対して仏法というのは演繹法なのです。わかりやすい例えを挙げますと、西洋では進化論的な考えをします。猿から人間がどのように進化したのか。仏法的な見方はこうです。猿が人間の生命を感じたから人間に進化した。まあ、やや突飛と思われるかも知れませんが、科学の世界と相反するわけでもありません。


 それを見てもまだ完全に脳内現象派でした。でも立花の『臨死体験』を読んでからかなり現実体験側に振れ、今では全く中立というか、ほんとにどっちなのか分らない、という状態です。


 こいつあ、ぶったまげた。


 こう書くと小野さんは、へ?と思われるかも知れませんがあの本は、脳内現象派だった人にとってはかなり現実体験説に有力なことが書かれているのです。それゆえ、「立花はオカルト主義」という批判が一斉に湧きおこったわけですね。どうです、意外でしょう(笑)。


 意外どころじゃないッスねー。全然知らなかった。


 私としては逆の質問をしたいのですが、では生きてる時は、どこに生命が存在するとお考えでしょうか? あるといえばあるし、ないといえばないような気もするんでやんすが……。

 生命がどこにあるか。う〜〜〜む。わたしは、結局は生命は物質的なものに還元されると考えています。


 三諦論を紹介したように、私は物質(仮)と非物質(空)を統合している核のようなものだと考えてます。科学も好い線をついてまして、例えば光ですね。光は波でありながら、粒子でもあることが判明してます。波と粒子は相矛盾するものですが、どちらか一方の姿を必ず現すようになっております。


 わたしが生まれる前、わたしにとってはこの世界は存在しなかったわけです。全くの無ですね。死んだときもそういう状態になるのだと思うのですが、全くの無というのは、どうしても想像できないですね。それは自分がこの頭で考えているのに、そこから、この考えている自分というものを除外するという、 かなり無理な思考を強いられるからだと思うのですが、とにかく無になるのだと思うのです。それも永遠に。そう考えるとほんとうに恐ろしいです、「永遠に」というところが一番恐ろしい(笑)。


 これは次回の原稿で書ければ書く予定なんですが、仏法の唯識論をやると考え方が変わってきます。赤マントさんが仰っているのは「意識」レベルのことでしょう。深層心理にはもっと膨大な生命のエネルギーが潜んでおります。五感の上に意識があり、その上に四つの段階があるのです。七番目が自我、八番目が業、九番目が一番上で、大宇宙と一体の生命流(せいめいりゅう)とでも名づける他ない世界が説かれています。


小野不一


「蟻を動かしめていたもの」は消滅して、何か他の蟻を動かしめないものに変わったと考えるのはどうでしょう。エネルギー不滅の法則は面白い着眼点だと思います。


 これはですね、そもそも赤マントさんと私の発想が逆の位置からスタートしているわけです。私の立場は始めに生命ありき、なんです。その生命が仮に和合した姿が人間や動物・植物になってるというのが私の見方。これを五陰仮和合(ごおんけわごう)といいます。


 ただエネルギーの場合、総量は保存されるけれども不可逆的に劣化する、というエントロピー増大の法則があります。たとえば車を運転しているときブレーキを踏んでスピードを落とします。そのとき、運動エネルギーは熱エネルギーに変わりその総和は等しいのですが、逆にブレーキを踏んで発生した熱をかき集めて車を動かすことはできないのです。運動エネルギーが熱エネルギーに変わったときに劣化(エントロピー増大)したからです。生命現象でもこのようなことが起こると考えるのはどうでしょう。


 これは面白い見方ですね。しかしながら、赤マントさんは何でもよくご存じですね。


 私はもっと拡大解釈をしております(笑)。大宇宙そのものが常に変化してやまない。変化しないものは存在しないといってよいでしょう。その変化せしめるエネルギーこそが宇宙を貫いている。それが波のように現われたのが個々の生命体であると考えます。


 エネルギーが劣化したという場合、五陰(ごおん)を仮に和合させている力が劣化しただけであって、生命のエネルギーそれ自体が劣化するわけではないと私は思います。


 その話は何度か聞いたことがあります。死後、水分が抜けるからだ、という俗> 反論も耳にします(笑)。ただ、その35gの話はどうか慎重に、書かれる前に色々詳しく調べたほうがいいと思います。もちろん余計なお世話でしょうけど。


 そーなんですよー。でね、少し前にネットで検索したところ、35gなんてえのがあったわけです。数十gらしいですね。でも、あれだなー、重さがあったとすると物質になっちまうか。やっぱり書くのやめよ。


小野不一


 これを五陰仮和合(ごおんけわごう)といいます。


 五陰とは、色(しき)・受・想・行・識を指します。


 色とは、物質的側面のこと。受とは、六根(ろっこん/五感+意識)をもって外界の事物を受け入れること。想とは、その受け入れた外界の対象によって、心に種々の想いを生ずること。行とは、その想いによって行動と現すこと。識とは、思慮分別するところの智慧という意味です。陰(おん)とは「おおいかくす」「あつまる」という意味があります。


小野不一


 例えば水。水蒸気になると見えませんが、そのようになる要素は既に水の中にあるわけです。


 また三諦論で申せば、現在の私と3歳の頃の私とでは、肉体的には全く別個のものであり、目玉の芯までが新陳代謝することによって新しい肉体となっております。更に、性格も全く異なっているでしょう。つまり、仮諦・空諦は全く違うのに、そこには一貫して「私」が貫かれているのです。これが中諦(ちゅうたい)です。

2001-04-27

「安楽死」を問う! 4

小野不一


 なら、小野さんはあの実話に基づいた映画 『暁の七人』の若者二人の死、自殺をどう見たの? やはり、生きて拷問にも耐えるべきだったんだろうか。


 嫌だなー、好きな映画を出されると困っちまう。あのクライマックスは、高校生の時に見て以来、忘れようにも忘れられないシーンだ。彼等は拷問によって仲間を売ることが許せなかったのかも知れない。あるいは、敵の手によって殺されることを潔しとしなかったのかも知れない。実話を元とした映画であるが、彼等の行動が逃避とは到底思えない。


小野不一


 私の読みは、小野さんは「生きようとする意志」の一点を強調をされているのではないか、というものです。


 気をつかって頂きまして、ありがとござんす。


 私が主張するのは、生命を最高最大に尊厳とする価値観のみが、20世紀の闇を払うことができるのでは、という確信に基づいたものなのです。


 等価物を持たないことを尊厳とするならば、いかなる苦痛よりも、命を尊厳とする価値観でなければ、人を犠牲にして平気な社会が変化することは望めないと思うのです。


小野不一


 自殺のハナシをしているのですか? 自殺と安楽死は全く別。


 全く別じゃありません。安楽死が抱える微妙な問題は、自殺と他殺が絡んでいることであり、それを正当化できるような視点が成立するところにあるのではないでしょうか。


小野不一


「仏家一大事の因縁」ですから仏教者となるにいたった根本の、もっとも大切な因と縁、つまり目的ということになります。生死の真理を自身から明らかにする(=サトリ)ということが根本であると……。


 最後の「であると……」が気になりますなあ。するってえと「悟り」ってえのあ何なんでしょうかね?


yamabiko


 自殺には、他殺はからまんでしょうが。他殺、と、幇助、のところが問題だ、といっとるんですよ。


ま−


 反省しました。また元気に頑張ります。


 僕はyamabikoさんの感覚に近いと思います。あくまで自殺は個人の自由。安楽死も自殺の中の一種であり、他殺の一種でもある。だから、問題がある。


「真実」として、安楽死が行われる事には抵抗を感じませんが、公然と行われる事に問題を感じるのです。死を法律として、積極的に公認するのはどうかと……。


 そういう意味では、どちらかというと、自殺と比べた議論より、死刑と比べたご意見が聞きたいです。


yamabiko


 死を積極的に、でなく、やむなく公認、だとおもいますよ。こんなに厳しい条件でも、死を望むような情況が存在する、ということでしょう。コレは、考えても無駄なことで(哲学の問題ではなく、経験、の問題)実際どのような情況であるか、を知る必要がある、とおもいます。(NHK ETVでやっていたのは オレゴン州、の例)安楽死法、など、頭でこね上げるのは不可能です。


 本人が望む、というのだから 死刑とも全く異なると思うが。


山野健一郎


 小野さんの趣旨ようやくわかってきました。しかし、人間以外の生命をどのように考えればよいのか。牛、豚、鶏など大量生産ベルトコンベアー式に物として扱っているように思える。現代社会においては、それら動物の死に対する尊厳など無いように思える。だから、平気で生ゴミとしても廃棄もする。オノレが殺生しなくても、口に出来るため、それら動物の尊厳など意識しなくてもよいからだ。人間の尊厳を究極まで求める一方、牛などはまるで物扱い。人間だけが特別待遇でよいのか。牛などの生死をコントロールするならば、オノレ自身の生死も多少はコントロールする余地があっても良いのではないか。


セイ・オールド男


 小生いつも感ずること。動物に対してフェアじゃない。狩りは認める。食うために狩る。必死に追い、仕留める。反撃されて、傷つけられるリスクも負う。これは自然が許す。しかし、飼育場は肉生産工場で、動物に対してはなにをしてもよい、それは経済動物なのであって、経済の論理で扱ってよいという考え方は、動物に対しての非道というに留まらないで、人間のこころ、魂をどこか深いところで損なう形で返ってくる。肉を食べるときにただ美味い、と思えないところがある。小生動物と関わり、「情」に関しては人間と殆ど変わらないのをみる。飼育場の牛、豚の「情」を考えると、辛いものがある。


yamabiko


 こーてー疫で牛豚は人間どもに焼かれるけど、人間がコレラやチフスになっても、馬に、股クラ毛たぐられることはない。。な〜〜〜〜ぜか?!


小野不一


 動物に関しては、手を合わせながら押し戴くしかない。個人的には、動物の「栽培」のような気もする。キリスト教の連中などは、菜食主義でござい〜、なんてぬかしやがるが、そう言われると、わたしなんぞは「じゃあ、植物は生き物じゃねえってえのかよ」と反論したくなる。生の影に他者の死、必然なり。故にタダメシ食らいは罰当たりな存在だ。


yamabiko


 はは、オモロイ事言うね。じゃ、生き物である、ということはなんなんだ? くさいフイツサンのカラダを、グシャっと潰したとする。生きている、死んでいる、状態で、分子原子量はまったく同じだ。生きている、つのは、死んでいる、のとどうちがうんかいの?不一原子は永遠に不滅じゃよ。心肺すんな。フイツサン。心配すんな。森羅万象さまたち。安心して、諸行無常、してつかあさい。


ま−


 すいません。死刑の話に戻りますが・・・


 確かに本人が望んでいないという点で大きく異なりますね。死刑には犯罪抑止効果は無いという意見もあります。実際どうなのかは分かりませんが被害者の遺族が望む事はあるでしょう。それが経験上、という事なのでしょうか……。


 動物と人間に関しては良く分かりません。人間より動物が弱いから食べられてしまうのでしょう。価値の話はわかりません。価値観はそれぞれですので……。でも弱いからと言って食べて良いのかどうかもわかりません。弱い人間は食べてはいけないんですよね?「フェアじゃない」というのは弱い物イジメをするなという事でしょうか。最近、何故人を殺してはいけないのですか?が流行ってるようですが、何故動物を殺して良いのですか?は流行ってませんね。


yamabiko


 フェア、でないというようなのは全く文化の主観、であり考慮するのに足りないとおもう。生物を、宇宙に発生させたのがフェアなことなのか?と問うだろうか? 生きることはフェアなことか?欲望を持つことがよいことか?死刑、についてはいろいろな考察が為されているのでそれを先に読んだほうが効率がよい。しかし、死刑を支持する学者もいるわけだから結論は出るわけはない。いまだに戦争、という名目で殺すのは認められているし。殺すこと、自体はすくなくとも犯罪ではないということになっている。


セイ・オールド男


 宇宙人は強いから人間を食べる。人間的なもの(人間の側から感じる)一切をを奪い取られ、ただ宇宙人に食べられるために存在する、という場合を想像してみればよく分かる。


 人間:宇宙人様、もう少しどうにかなりませんか?


 というはず。言語的な伝達は不可能として、悲しい目で宇宙人を見る。


 宇宙人→人間、人間→牛・豚、としてみれば分かる。


 想像力の働かないところ、残酷は残酷ではなくなる。


セイ・オールド男


 9対1の野球。審判は9の側。それで、負けたら裸踊り1万回。拳銃を頭に突き付けられ、「1」はこの試合条件を呑まされる。契約書には署名、捺印。すなわち双方合意の上。契約は成立。法律はこのような契約も契約として認める。野球場。観客は試合をみつめる。ただ強者と弱者の関係がそこにある。フェアとはなにか?


 フェアとはある基準を認めることから生ずる価値である。


 コロセウムで剣闘士がローマ兵に刃向かうことは、その歴史のローマでは、フェアではなかったのだろう。現在の「デモクラシー」ではフェアだ。抵抗権というようなものが存在するとする。自然法的な権利としての抵抗権を認めて無理がない。或いは、正当防衛。


山野健一郎


 意味のない宇宙。目的のない宇宙。意味のない人間。目的のない人間。


 意味のない、目的のない人間の命に、意味と目的を持たせることは、無理なのか?


 意味も目的もなければ、オノレの意志が全てのように思われるが。


yamabiko


 意味、も、目的、も、意思、も、すべて作り物(わたしは幻想といっている)であるとおもう。犬猫に意思があるだろうか?


 人間は無目的に、無意味に、無意思でうまれ、たがゆえに、ではなく、にもかかわらず、でもなく、ただ 偶然に 意思をもつようになった。


 で、どうかな?


アルキメデス


 最後の「であると……」が気になりますなあ。するってえと「悟り」ってえのあ何なんでしょうかね?


 釈迦仏教の基本は一切皆苦(生、老、病、死)からの解脱だったわけです。道元という人は、禅者というよりは、全一的仏教体系を超真面目に考えた人なので、こういう言葉がでてくるのだと、私は思っています。土台、宗教はドグマですから解釈は何とでもできると思いますが。サトリ(悟り、覚り、菩提)は宗派によってかなり違います。


山野健一郎


 yamabikoさん、素晴らしい。


 しかし、各人の生活、人間関係においては、意味も目的も造ることは可能だと思う。そういう意味と目的を見つけたなら、それでいいではないか。


yamabiko


 もちろん、宇宙戦艦地球号、の艦内の舞台では 意味も目的もルールも造って生きているわけです。大部分の人が。


 しかし、あるひ、これがいやになって、地球号いやになった、舞台おりたいのお、アノ世に行きたい、別のうちうに行きたい、ゆうひとがいるのを、防ぐことは論理的にはできません。強圧的には出来ます。今日、暑い?。。さぶ。い。


yamabiko


 釈迦仏教の基本は一切皆苦(生、老、病、死)からの解脱だったわけです。


 解脱してはイケマセン。苦にまみれていきましょう。でないと、アサハラ焼香になります。道元という人は、禅者というよりは、全一的仏教体系を超真面目に考えた人なので、こういう言葉がでてくるのだと、私は思っています。


 詩人ではないでしょうか。体系より、個別に拘った人。空海は……体系派。親鸞は……知るらん。


 土台、宗教はドグマですから解釈は何とでもできると思いますが。


 マグマだとおもいます。宗教は、爆発だ!


 マグマ大使、読んだ?


小野不一


 失礼、見逃していた。


 じゃ、生き物である、ということはなんなんだ? くさいフイツサンのカラダを、グシャっと潰したとする。


 臭かないッスよー。ムンムン男の香り。あふれるフェロモン、漲る逞しさ。


 生きている、死んでいる、状態で、分子原子量はまったく同じだ。生きている、つのは、死んでいる、のとどうちがうんかいの?


 さすがですねー、好いことを言ってくれますなー。30年前の私と現在の私とでは、肉体的には全く別のものですよね。しかし、私は私として一貫している。心だって別のものといって差し支えないと思う。この肉体や精神を根本で支えるところに、我が生命を司る私がいる。


 不一原子は永遠に不滅じゃよ。


 エネルギー不滅の法則からいっても、死んだら、それでおしまいとは思えないなー。


yamabiko


 30年前の私と現在の私とでは、肉体的には全く別のものですよね。


 しかし、私は私として一貫している。心だって別のものといって差し支えないと思う。??心は、同じではないの?(というか、同じデアル、と思うのを心、という)肉体を構成する分子は3年位で入れ替わる、という(脳は同一らしい)。でも、30年前の俺、と、今の俺は、同じyamabikoである、と思うサムシングがあるから、俺、なんだろ?オーレイ!


 この肉体や精神を根本で支えるところに、我が生命を司る私がいる。


 ほれ、フイツ節。オカルト節。ひとつ出たホイのよさほのホイホイ!


 不一原子は永遠に不滅じゃよ。


 エネルギー不滅の法則からいっても、死んだら、それでおしまいとは思えないなー。


 だからあ……心とは、カタチ=構造、なんですよ。。重さ、は死んでも、生きていても同じ。車をグシャ、とやったのは車(原子分子量は同じでも)。チャンと、デザイン通りに配置すると……ブルるンぶるん……と動き出す。人間も 同じじゃ……。ブルルッ、ブルっ。何?タタン? 南無阿弥陀仏。


小野不一


 死刑には犯罪抑止効果は無いという意見もあります。実際どうなのかは分かりませんが被害者の遺族が望む事はあるでしょう。それが経験上、という事なのでしょうか……。


 統計によると被害者の遺族が望むという事実はない。犯行直後はあるんでしょうがね。


 動物と人間に関しては良く分かりません。人間より動物が弱いから食べられてしまうのでしょう。


 これは邪推になるが、動物の種を見ると、食べる側の方が、より大きな価値を還元できる気がする。


 価値の話はわかりません。価値観はそれぞれですので……。


 私は価値観には高低があると思う。具体的にいうならば、何で悩んでいるかに、その人の価値観が現れていると思う。仕事もしないでパチンコに負けて悩んでいる人と、マザー・テレサの悩みは、やっぱり違うでしょう。


 でも弱いからと言って食べて良いのかどうかもわかりません。


 食べなければ死ぬ、というのが自然の摂理。これは厳しいよね。


 弱い人間は食べてはいけないんですよね?


 そこまで言っていない。食べる資格がないってえこと。


「フェアじゃない」というのは弱い物イジメをするなという事でしょうか。


 フェアとは、裸になって相撲をとる精神である。


 最近、何故人を殺してはいけないのですか? が流行ってるようですが、何故動物を殺して良いのですか? は流行ってませんね。


 動物は苦情を申し立てられないからね。


小野不一


 だからあ……心とは、カタチ=構造、なんですよ……


 そりゃ違いますぜ。例えば目の前に水があったとする。この水は氷点下になると氷になる。また、沸騰すれば水蒸気となる。物を塗らしたり、人間を浮かせたり、空から降ってきたりする。こうした可能性を統合しているのが、水の性質。目に見えるものと見えないものの相違。なんだか当たり前過ぎることを書いちまったな。


yamabiko


 グシャ、と潰したフイツサン。グシャ、と潰した、車。


 ↑これを、フィルムにとって、逆回転させて映写してみよう。するってえと、同じ分子原子、であっても、ある、一定の組み合わせ構造になった次点で、アラマフシギ、永久運動(動いたり、考えたり)するようになる……


 コレ即ち、生命、これすなわち、心がある! とひと、の、いへり。


山野健一郎


 無→ビッグバン・物質誕生→生命誕生→精神誕生→精神消滅→生命消滅→リトルバン・物質消滅→無


 という永久運動の繰り返しなのか。人間は、無、物質、生命、精神の複合体である。そして、また、人間は、拡大・進化過程の宇宙の一部であり、縮小・消滅過程の宇宙の一部ではない。だから、人間の脳にも、拡大・進化という現在の宇宙の方向性が具備されているように思う。と、考えるなら、精神を持つ唯一の生命体である人間が、人間そのものが縮小・消滅の方向性を持つことは不可能なように思える。


yamabiko


 事実、としてそうである、というのは経験でしかわからない。つまり、歴史的、一時的なモノ、と理解するほか無い。それ以上のことを推測してグランドセオリー、をつくるからおかしくなるのだ。


 宇宙の方向性、を逆に辿る、思考もユルされる。


 不可逆、は、可逆の一部、と考えるベシ。   ド・ニーチェ


アルキメデス


 無→ビッグバン・物質誕生→生命誕生→精神誕生→精神消滅→生命消滅→リトルバン・物質消滅→無


 これも一説にすぎません。宇宙のごく一部に過ぎない人間の脳に、宇宙を思惟することが可能なんでしょうか。夢のようなものでしょう。せめてよい夢を見ましょう。快楽の夢。不道徳の夢。地上のあらゆる不道徳を体験する夢。叫びましょう。「初めに行いありき」


 あの〜、犬にも精神はあるでしょうか?


yamabiko


 あの〜、人間たちも、ものを、考えてる、ってこと、あるのかな? そんなことニャ〜、の、かな。   振り〜ドリッヒ、ニャーチャ。


山野健一郎


 喰って出して、SEXして、子を育て、眠る。この基本を、どのようなスタイルでやるか。正解はない。基本を大切にしたいと思う。なんだか疲れた。眠い。


山野健一郎


 昨日、NHK教育で太宰治に関してやっていたけど、何度も繰り返した自殺は、狂言的なものであったらしいとのこと。玉川上水でのものもその可能性ありのような雰囲気だった。ということは、それだけが失敗したということ。その程度の男だったのかと思うとなんだかなー。という感じ。


ナジ


 山野健一郎さん、お疲れになったらおやすみになる事よ太宰は最後は本当に死にたかったんだと思います。そのほかについては狂言で、相手が死んでしまって悲しんでいる自分にうっとりしているところが見られます、複雑な性格の人だったと思います。猪瀬さんはよく調べあげたと思いました。でも、本当の事はだれもしりませんよね本人だってなんだかわからないから亡くなったんじゃないですか?あの程度の男で充分愛せます。大好きだもの。


yamabiko


 それより、おとといと、その前の、吉本隆明、の番組がえかったね。吉本の声もフィルムも初めてみた。三好十郎、という劇作家を非常に高く評価している。たしかに番組の通りだとすると、吉本の言う、チシキジンとか、転向とか、関係の絶対性、などは全部、三好から、出てくる。


小野不一


 死刑、についてはいろいろな考察が為されているのでそれを先に読んだほうが効率がよい。しかし、死刑を支持する学者もいるわけだから結論は出るわけはない。いまだに戦争、という名目で殺すのは認められているし。殺すこと、自体はすくなくとも犯罪ではないということになっている。


 人が人を殺すこと、それ自体をどう考えるかってことでしょうな。それを、理由によっては認めるのか、如何なる理由があっても認めないのか。


小野不一


 意味、も、目的、も、意思、も、すべて作り物(わたしは幻想といっている)であるとおもう。犬猫に意思があるだろうか?

 人間は無目的に、無意味に、無意思でうまれ、たがゆえに、ではなく、にもかかわらず、でもなく、ただ 偶然に 意思をもつようになった。

 で、どうかな?


 山健さんはもろ手を挙げて賛同されているようですが、私は全く反対です。


 犬猫にも当然、意思はあるでしょう。それは本能に基づいた意思であり、向上心や成長とは無関係なことでしょう。動物は生まれ落ちた時から、敷かれたレールの上を歩む他ない。


 私は大将とは、全く正反対の意見ですな。


 万物が意味を持ち、あるべき場所に収まっている。


 人間とは意味を生きる動物である。


小野不一


 無→ビッグバン・物質誕生→生命誕生→精神誕生→精神消滅→生命消滅→リトルバン・物質消滅→無

 という永久運動の繰り返しなのか。


 そうでしょうね。生老病死(しょうろうびょうし)、成住壊空(じょうじゅうえくう)というのが、大宇宙が奏でるリズムでしょうね。


小野不一


 宇宙のごく一部に過ぎない人間の脳に、宇宙を思惟することが可能なんでしょうか。


 海よりも大きなものがある。

 それは大空である。

 空よりも広大なものがある。

 それは人間の精神である。


 とヴィクトル・ユゴー


小野不一


 喰って出して、SEXして、子を育て、眠る。この基本を、どのようなスタイルでやるか。


 これは動物としての基本ですね。人間の基本は歴史をつくることだと私は考える。


小野不一


 その程度の男だったのかと思うとなんだかなー。


 亡くなった方には、それだけの理由があると思う。実存的な疑問を追及すれば、自殺したくなるのが当然だとも思う。本源的な不安に目をつぶって我々は生きることができるのではないか。


ま−


 いろいろ皆さんの意見とかみて考えてるうちになんだか安楽死法はあっても良い様な気がしてきました。少なくとも何か権利を奪う法律ではなくて権利を与える法律ですもんね。ルールってのは最小限の方が良いと思いますし……。人を殺しちゃいけないよ。っていうルールは絶対ではなく既にその中にいくつか例外が認められているわけで、そこに新しく1項目増えるだけだなと。自分で言っといて何ですが、病床に臥してる方が生きにくくなるというのは法律の問題じゃなくて世の中の問題ですよね。それはやはり終末医療の設備や意識の遅れの問題かなーと思いました。私の父も最期はホスピスで息絶えましたがもう少し早く入れたら良かったなと思いました。設備が少ないんですよね。


山野健一郎


 喰って出して、SEXして、子を育て、眠る。この基本を、どのようなスタイルでやるか。


 これは動物としての基本ですね。人間の基本は歴史をつくることだと私は考える。


 各人がこの基本を真正面から取り組まないでおろそかにしたとしたなら、オノレを知ることが出来るのでしょうか。オノレを知らずに他者や社会を知ることができるのでしょうか。オノレも他者も社会も知らずにつくりあげる歴史とは、いったいどんな歴史なんでしょう。


yamabiko


 オノレを知らずに他者や社会を知ることができるのでしょうか。


 知らざるを知る、これ、知るナリ、つうわね。何時自身を知れ、というけど、これができれば、カミさんじゃわ。おのれをしらず(ましてや他人もしらず)とも、生きられる、のが人間。犬猫でも、おのれとはなにか?など考えても人間よりまともな生き方してる、わな。自殺に追い込んだり、恋い煩い、で死ぬ犬猫あまりおらん、らしいぞ。


 オノレも他者も社会も知らずにつくりあげる歴史とは、いったいどんな歴史なんでしょう。


 これまでの人類の歴史、じゃろ?


yamabiko


 自分で言っといて何ですが、病床に臥してる方が生きにくくなるというのは法律の問題じゃなくて世の中の問題ですよね。


 じゃなくて、ということはないでしょう。鶏と卵だとおもいますが。政治屋はたくみに世の動向を察知し、法律に仕立てている。いい、かどうかは別。


 それはやはり終末医療の設備や意識の遅れの問題かなーと思いました。


 死、を病院に預けているし、預けざるを得ない家庭事情、それを当然のこととしてきている世間、にどれほど、対抗できるか。オノレのポリシ=宗教、が必要であろうと思います。

2001-04-22

「安楽死」を問う! 3

山野健一郎


 堕胎は、どう考えるのか。堕胎される胎児は、生まれて、生きることが出来ない。堕胎は人為的なものだ。


 人為的な死を認めないなら、堕胎も認めるべきではないだろう。また、人為的な死を認めないなら、人為的な生も認めるべきではないだろう。人為的な生を認めるなら、人為的な死も認めるべきであろう。人為的な生と死の境はどこにあるのだろう。将来、医療技術の進歩により、誰もが人為的に150歳位まで生きることが可能になった場合、死の選択が出来ないとしたら、辛いものを感じる。


yamabiko


 ↑で私が言ったようにおなじ問題です。堕胎の場合は、生を望んでいる可能性が、もの言わぬ本人にあるのに殺しています。安楽死尊厳死、などは、生は終わりにする、と本人が意思表示をするのだからこっちをむしろ尊重すべきでしょう。誰も望まない生を生きるのです。こっちは、可能性ではなく事実です。


山野健一郎


 避妊や堕胎。不妊治療。生の入り口は、既に人為的なものとなっている。死の入り口も、医療技術により、既に人為的なものになっている。


 既に人為的になっている死にもかかわらず、オノレの主体的意志による安楽死という人為的選択が認められないなら、いったい誰の意志により死を迎えるのか。誰の意思も存在しないのか。医師の能力や、さじ加減に任せるという受身的な死だけで良いのか。医療行為を受けるか否かの選択。病院の選択(医師の選択)。治療方法の選択……。選択の仕方によって、死を迎える時期も異なって来る。死が人為的なものであるなら、人為的な死の一つである安楽死が認められても問題ないように思う。


小野不一


 ま−さん、ここは好き勝手書き放題ですから、引き続き、異論・反論、ご自由にお書き込み下さい。


 安楽死・死刑・堕胎、私は全て反対です。


 私は「意思」とは、いのちの一部分ではあっても全体であるとは考えておりません。深層心理学や唯識論などでみられるように、意識の奥底には、更なる広大な領域があると信じます。故に、死は生命それ自体が決定すべきことであると思う。


 医師の能力や、さじ加減に任せるという受身的な死だけで良いのか。


 これは逆ではないでしょうか? 苦痛と戦い、苦痛を乗り越える自由を放棄した「受動的な生」と言うべきではないでしょうか?


yamabiko


 自由の放棄がなんで受動的なんだ。逆、だろ、ふつう。積極的、つまり、人間的なんだろ? 犬や猫は、必然しかない。なるようにしかならん、のだ。


小野不一


 死を自由に選択するといえば聞こえはいいが、結局は不自由な生からの逃避に過ぎないのではないでしょうか? 犬や猫であってすら、生を全うしていると私は見る。


greeny


 おはよ。


 私は安楽死賛成、死刑反対、中絶反対。自分たちにとって、生きやすい世の中がよい。


 安楽死法がなくても、密かにそういうことは、これまで同様行われるでしょう。なら、きちんと法のもとでの規制があった方がよいと思う。 これ、アメリカやカソリック国での中絶問題と通じる面ないかしらん。


 ただ、それによって、確かに安易に死の選択をしてしまうことになりはしないか、やはり不安覚えるわ。そして、新薬開発の意欲がそがれるのではないか……??


 犬や猫は不必要にお金かけて、クスリ漬けされて、副作用によるつらい思いなんてしないですよねえ。同レベルで論じれるのかなあ。


 死刑に関して――公開は知ってたけど、それが放映されるとは !! テキサス、アメリカ南部は死刑が多いんだよね。死刑で凶悪犯罪が減るということはないというの、読んだことありますけど、どうなんだろ……。


 李登輝氏にビザを認めるかどうか……。ちょっと待ってよ〜犯罪者じゃないでしょ。すくなくても、日本では。だから、なめられる?? このニュースは気になってま〜す。


greeny


 違う、間違った。中絶反対でなく……中絶は認めるべきだった!!


セイ・オールド男


 迂闊だった。いま『高瀬舟』を思い出した。弟の喉笛の剃刀を抜くか抜かないか。抜けば弟は死ぬ。抜かねば苦しみは続く。兄は意を決して、自分を殺して、弟のために剃刀を抜いてやる。


『高瀬舟』は寓意です。抜くのか抜かないのか、このような極限状況で抜いて罪に問われるのか、問われないのか。


 単純な白黒の問題じゃない。愛情が抜くということがあるし、憎しみが抜かないということもある。命が終わるまで行きなさい、というのは、十字架刑がそうです。あれは、ものすごく残酷な刑だったようです。哀れみから、まだ死ねない者の脛を折ることがあったそうです。


yamabiko


 逃避だからエケンのか? クダラン世間から逃避するのは権利、だよ。そもそも、死、を逃避、とみなす発想がふるうて黴ははえとる。よう、それで、小説読んでる、といえるねえ。あきれるわ。


 このよに、カミさんなんかいないんだよ。死にたい、いうたらしなせばいいではないか。余計な口出すんじゃない。


 罪、トカ、法、以前の問題だ。


yamabiko


 死刑に関して――公開は知ってたけど、それが放映されるとは!!


 放映ったって、一般のてれびじゃないでしょうが? 被害者の家族から選ばれたひとが画面でみることができる、だけじゃ? 南洋では、いまでも、公開処刑がおこなわれてるし、某野蛮大国でもそうじゃないの? 米国の映画でもあったよね。女性死刑囚が土壇場になって、死刑が一旦停止、になり、再度逆転して死刑。あの映画では薬物注入だったけど、それを関係者は窓越しに見ていたよ。


 テキサス、アメリカ南部は死刑が多いんだよね。死刑で凶悪犯罪が減るということはないというの、読んだことありますけど、どうなんだろ……。


○減るかもしれない。米国刑務所では死刑以前に、強姦(男同士)が日常的とかいうてたよ。新入りがやられる。あとはずっとやられ放題。


 李登輝氏にビザを認めるかどうか……。ちょっと待ってよ〜。 犯罪者じゃないでしょ。すくなくても、日本では。だから、なめられる?? このニュースは気になってま〜す。


○舐められてるのは昔から。モリが、橋本ニクしで、わざとビザ認めて、はっしーに苦労させようとしている、と週刊誌に。ま、モリに人権意識なんかあるわけないからな。ハッシーは、中国スパイ女性と、またデートするのが楽しみなんだろ? その程度のもんだ。


セイ・オールド男


 犬や猫であってすら、生を全うしていると私は見る。


 この点については反論せねんばならん。


「あってすら」は余計じゃ。お犬様、お猫様に悪い。人間、犬猫に「あってすら」と云えるほど上等な存在ではないのは、人生の経験じゃ。人間であってすら正しく生きようとしているのに、犬猫ともあろうものが、そんなことでどうする、というのが正しい言い方じゃ。冗談で云うのではない。


yamabiko


 ビザ、もそうだが、教科書の口出し。それに、どぎまぎしているアホ政治屋、官僚。野蛮国、がアジアにはまだ多い。検閲を平気で行う、国、官庁、新聞社。浣腸したろう。


 ウチンチの、市役所にも、オウムは住民票受け付けません、なんてタテカン出てた。すくえんわ。


yamabiko


 牛や豚も全うしているんかな? トサツ場で。ストン、と首落とされる。


yamabiko


 人間に飼われている動物で、自然死、するのがなん%ある、おもうん? 保健所や犬猫病院や、大学病院にきいてみる、よろし。種馬、いがいは、注射でコロリ、じゃろ?


 種馬、やる?


山野健一郎


 救急車を呼ぶか呼ばないか。呼びたい人は呼べばよいし、呼びたくない人は呼ばなくてもよい。


 差し迫った緊急時には、それによって生死が決する場合もある。救急車到着までの時間の長短。病院到着までの時間の長短。病院の医療機器の新旧。医師の能力、体力、気力。


 救急車を呼ぶことを選択しても、誰もが同条件、同程度の医療を受ける訳ではない。


 医療を受けるということは、天寿というものに、人為的要素が入り込むこと。自然界にない異物を体内に入れたり、体を切ったり、、、、。これは、天寿に影響ある。また、人間の文化、生活スタイルそのものも、不自然なものであるから、天寿に影響ある。


 知恵という禁断の果実を食べたときから、人間には、天寿(天から与えられた寿命)というものが無くなったと私は思う。


 天寿というものが存在しなければ、天寿をマットウするということも有り得ない。死をどのように迎えるかは、本人や回りの人の選択と偶然の問題であると思う。本人が、具体的な死期(何年何月何日何時)を、わからないことを天寿をマットウしたと、しているだけのように思える。天寿など存在しない。だから、せめて安楽死くらいは、認めたい。


yamabiko


 フランスやイタリヤでは、死んだら自動的に四の五の言わずに臓器提供。くりぬかれる。 ドナーカード?、そんなん、メンドッチイ。


 若くて元気がいいの……みると……ピチピチ、脈動しているのが透けてみえ、涎がでるんじゃそうな。。


 うう。


アルキメデス


 試みに検索サイトに「安楽死」をインプットすると、脳死臓器移植法改正案で反対派の顰蹙をかっている町野朔氏の名がたくさんヒットします。臓器を求めることと安楽死。ふっふっふっ……。


小野不一


 安楽死とは「楽な方法で人工的に死なせること」と辞書にある。だが死んだ後の世界は間違いなく「楽」だろうか。安楽死が社会的に認知されたら、歯痛で死を願う子供が出てくるかも知れない。苦痛を忌み嫌う生き方が社会を覆い尽くしかねない。母親の産みの苦しみを経てこの世に躍り出た私の命は、どんな苦痛よりも尊厳あるものだと確信している。


 以上は5年前に毎日新聞で採用された私の投書。基本的な考え方は変わってない。


yamabiko


 5年前からオカルトやっていたのか。フイツサンは。もう、ええかげんに目覚めるときだろ? 新聞も目覚めるとるぞ。安楽死が社会的に認知されたら歯痛で死を願う子が……。


 てのはオモロイ。死刑が無くなると犯罪が増える……。つのは オモロイか?


セイ・オールド男


 自己の信念と安楽死一般、それと安楽死法を分けて考える必要があります。


 例えば、食事は白米に限る、という信念を自己は持つとします。それを貫くのは自分の勝手です。しかし、それを他者(家族であっても)に強要するのは問題となる。白米を食べるべし、パン食は禁ずる。自己の信念を貫くことは他者の自由の侵害となります。


 更に、白米食に限るという信念と「白米食法」の問題は別です。信念を即法にはできません。それは恐ろしい状況を生みます。自己と他者の間である手続きを踏んだ、合意のもとで「白米食法」は「白米食法」となるのならなります。


 小野さんは、小野さんの信念と、一般の問題、法の問題を分離していますか?


セイ・オールド男


 K・ヤスパースに『運命と意志』としてまとめられたものがあります。いまは手元にはありません。その中で、ご存じの通りヤスパース(ドイツの代表的な実存哲学者兼精神病理学者)の妻はユダヤ人です。ヤスパースはナチスかでドイツに留まりました。さすがナチスもヤスパース夫人を拉致することはできない。(高名なヤスパースは、ナチスお気に入りのニーチェ、それに、生粋のドイツ的な英雄学者M・ウェーバーの崇拝者)。それで離婚しなさいと盛んに勧める。しかしヤスパース、こう考える。私はナチスの暴力に抵抗し、妻を守ることはできない。押し入ってきたとき。その状況を限界状況とする。ヤスパースは決意する。その時は妻と共に死のう。「共安楽死=心中ともいう」を考え抜いた末に選ぶ。


 小野さんの立場では、否、そんなことはいけません。連れていくのならそうさせて、奥さんに生きるだけ生きて、死ぬときに死ぬ、その「ママ」にさせるべきです、ということになりませんか? 「安楽死絶対反対」の信念を貫くと、そうなります。他者にもそれを強いるとすると、ナチスが押し入るその傍らで、想像の場ですが、小野さん、ナチスのなすに任せる。「共安楽死」をしようとするヤスパース夫妻の拳銃も取り上げるということになる。その後の奥さんの運命はどのようなものか、死ぬより辛い運命が待ちかまえている。


yamabiko


 フイツサンの立場で言えば、信条としては、好き好きにやらせたいが、法律になると、 ワシ死にたい! とポロリと洩らした人がドンドンコロされる、とおもっているのだろう。


 そんなことはあり得ない、ことは オランダの法律の出来る過程や事例をみればわかることだ。


セイ・オールド男


 上記、ヤスパース夫妻は無事生き延びました。様々な手管を尽くした。ナチス下での「自分たちの運命と意志」を日記に記し、それがこの本に収められています。状況の中で「信念」は、決断の一つの要素になります。状況の中で決断します。村上春樹の『クロニクル』に描かれている、生きたままの皮剥拷問。彼は自殺し損なって、捕まり、拷問される。しまったと、私なら思う。死んでおけばよかった、失敗した、痛いな、と後悔する。息が尽きるそれまで。小野さんは「生きたまま皮剥の刑」をするよ、これから、しかし、選択で、ピストルで自殺もできる。すぐ楽になる。どうしますか? と選択肢が置かれたら、信念を貫いて、「安楽死はしません」と、苦痛の極致を羊たちのように受け容れますか? 私なら、ピストルです。


yamabiko


 ↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。狙撃隊を組織してナチを殲滅しろ!というだろう。拷問されているひとを救出せよ、ということになる。また、被拷問者も、そういう期待があるからこそ生きたい、のであり、人類全体がオノレの死を望んでいる、家族もイナイ、と言う情況で、なにゆえに 生きたい、という希望がもてるだろうか?


 安楽死は全く異なる。八方手を尽くしても治療法がない、のである。あるのに死亡させる医者は犯罪を犯したことになる。(ただし、数千万円あるいは数億円治療に掛かる、というのも治療法がない、になろう)治療法がない、生きているのに苦痛が伴う、高齢である、このようなとき、従容として死につく、家族にも死なせた、という負い目を追わせない、ケア、や哲学こそが必要なのである。何がなんでも生きるのが正しい、考えは、こういうヒトビトや家族にとって、敵である。数年間延命したところでなんになるのか? 苦しませた、という負い目が残るだけ。周囲の冷たい目を避け得た、というだけ。これで満足か?


小野不一


 小野さんは、小野さんの信念と、一般の問題、法の問題を分離していますか?


 当然ではあるが、私は個人的な信念を社会に押しつけるつもり毛頭ない。


 オールドさんが書いている事柄は自殺に関する権利の問題だと思うが、これに対しても、やはり私は反対である。極限状況であっても尚、自分自身の運命と真っ向から戦うべきであろうと考える。ナチスへの服従が自殺かという選択肢は、物事を狭く考え過ぎているようにも思います。現実に生き抜いたユダヤの人々が、どれほど多くの人間に生きる勇気を与えたか計り知れません。


 私が危惧するのは、安楽死が認められようとする社会通念や価値観に対してである。まず、根本的な問題として「本当に、死ねば楽になるのか?」。次に、結果的に、命よりも苦痛を尊厳視することによって、生命軽視の風潮に拍車がかかるのではないかという点。そして、ま−さんが書かれたように、安楽死が当然の権利となった時に、病床に臥していることが多い方々が生きにくい社会となることなのです。そうなってしまえば、慈悲の心から安楽死を認めたことが、かえって無慈悲を生む結果になってしまう。


アルキメデス


『大般涅槃経』の雪山偈は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」でしたね。第三句は死とか、自殺を意味しているわけではないんですよね。生滅(生死)観から解脱すれば、ということです。そうなれば、肉体的な苦痛がなくなる。一方『碧巖録』第四三則に「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」というのもあり、脳内モルヒネですかね。


小野不一


 アルキメデスさんがチョイト前に引用された中の、「一大事因縁」ってえのは何を指しているんでやんしょ?


小野不一


 雪山偈はその通りなんでやんすが、ありゃあ像法時代の話しでして、末法の衆生は機根が違いますからなー。雪山童子みたいなわけにゃ参りませんぜ。


セイ・オールド男


 現実に生き抜いたユダヤの人々が、どれほど多くの人間に生きる勇気を与えたか計り知れません。


「生き抜いた→多くの人間に生きる勇気を与えた」というところがよく分からないのですが。


「あのような状況の中(強制収容所)でもよく生きた例」は、例えば『夜と霧』、小生にも生きる勇気を与えますが。しかし、その殆ど多くはただひたすらの悲惨を偶然の力もあって、死から逃れた、というのではないですか?


 私の考えは、強制収容所に捕らわれた以上、それは運命として与えられたのだから、その運命と向かい合うべきと云うものです。そこで、生を選ぶか死を選ぶかは決断です。その場合、生きることの決断が必ずしもよいとは云えない。彼(ら)にこのようにしろ、そうすれば、お前は生き延びられる、というささやきで、そのものは生きるために云うとおりにする。その生き延びたあり方は、果たして多くの人々に生きる勇気を与えるものか?


セイ・オールド男


 ↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。


 安楽死を、現在及び、未来の確実な苦しみ、苦痛からの究極的な手段と考えれば、問題として同じです。心中など、親は子供の将来の苦痛からの解放を願っての親の行為と考えることができます。肯定否定は別問題です。人間については分かりにくいかもしれませんが、動物家族の場合、まさにこの問題は切実な問題として目の前に置かれます。死よりも大きな悲惨は、あります。それを思えないのは、想像力が足りないのです。


セイ・オールド男


 苦痛からの→苦痛からの解放の。


 偶然の力もあって→偶然の力もあってすごし。


「過ぎ越の祭り」はユダヤの伝統です。ユダヤ人には堪え忍び、すぎるのを待つ、という、伝統的な力があるのではないか。「コルチャック先生」だったか、なんだったか、ユダヤ人の考えとしてこのような言葉があった。


 小野さん、なにが何でもただ生きるべし、という考えはどれほど残酷な考えになる場合があるか、想像することはできませんか? 遠藤周作の「転びなさい」という、イエスの思想の解釈。小生なら、自分の子供がただひたすらの、想像を絶した悲惨に引かれていくのが分かって、その場に直面したなら、楽にしてあげます。安楽死。これは、信念ではなく心情です。素朴な人間の心情。皮剥拷問を、例えば小生の子供が受ける、その前に選択肢(ピストル)が置かれたら、迷うことなくピストルを選ぶ。これは、安楽死です。ここで、否、あくまで、命が終わるまで生きるべきだと考える人がいて、このような状況でそのように決断するのなら、それは小生には理解し得ない存在です。愛情からは、或いは、自己愛からは、それは考えることができない。できるとすれば、宗教的な価値に重きを置く殉教者。しかし、それは「私ー神」からしかでてきません。「心頭滅却すれば」というものもありますが、それはしかし、自分の子供には貫けないでしょう。


yamabiko


 ↑の、ヤスパースの例が安楽死の問題にどのように関連するのか? わたしにはわからないが。安楽死を、現在及び、未来の確実な苦しみ、苦痛からの究極的な手段と考えれば、問題として同じです。


 安楽死法が想定している情況とは全然異なる。ヤスパースの場合は、原因がハッキリしており、駆除方法も明解だ。安楽死法、は そういうことを想定しているのではない。

 単なる自殺にしか過ぎない。個人が思想的に悩み、窓から飛び降りた、などは誰にも防げないし、法律が関わる問題ではない。


greeny


 強制収容所と安楽死の問題は、わたしもやはり別問題のような気がするのですが。収容所内には、たしか外の解放勢力にコンタクトを取ろうとする連絡組織ができてたところもあったのではなかった? やはり、かすかながら希望が……あった。安楽死には、いつか救われる可能性が……ないのですよね。そして、安楽死は、可能性がひたすら零に近い場合のみ許されなくてはいけないということなんですよね。そういう意味では、12歳だっけ、子供に適用される場合もあると……エッエッエッ? と思っちゃうのだけど。


 強制キャンプでカポとか言われる管理する側に回った人たち含めて、生き延びたナチの人たち、わたしもりっぱだと思うな〜 。


セイ・オールド男


 ↑「安楽死」と「安楽死法」は問題を異にする。


小野不一


 あのような状況の中(強制収容所)でもよく生きた例」は、例えば『夜と霧』、小生にも生きる勇気を与えますが。しかし、その殆ど多くはただひたすらの悲惨を偶然の力もあって、死から逃れた、というのではないですか?


 私の書き込みも『夜と霧』を思いながら記したものです。一冊の本に対して、それぞれの人が様々な感じ方をするのは当然である。だが、あの本を読んで「偶然の力もあって」生き抜くことができた、とする考えには異を唱えざるを得ない。フランクルが書きとどめたのは、収容所によって、それまでの生き方があぶり出され、最後の最後に至っても尚、希望を捨てなかった者のみが、かろうじて生き残ることができた、という話しではないのか? もし偶然が入り込む余地があったとすれば、それは、生き続けんとする人間の足元にしかなかったことだろう。


 の場合、生きることの決断が必ずしもよいとは云えない。彼(ら)にこのようにしろ、そうすれば、お前は生き延びられる、というささやきで、そのものは生きるために云うとおりにする。その生き延びたあり方は、果たして多くの人々に生きる勇気を与えるものか?


 どうもオールドさんは「自殺する権利」に論が傾き気味ですね。上記のケースは、話が早い。他人の犠牲の上に成り立つ延命などは、自らの主体的な生を放棄した人間であり、生きるに値する人生など送れるはずがない。そこまで卑劣な手段を使って生き延びる目的は何か? それは、自分の肉体的苦痛を避けるためである。


小野不一


 生き抜いた→多くの人間に生きる勇気を与えた」というところがよく分からないのですが。


 生き抜くことが不可能と誰もが思うような状況下であっても、尚、生きた。生き抜いた。自殺して当たり前のような地獄に耐えて生き延びた。このような方々の経験を知ることによって、生の意味を問い直した人は数え知れない。無気力と戦え、小さな悪を見逃すなという彼等のメッセージは、私の魂に刻印されている。まあ、そんな意味です。収容所のユダヤ人が、全員、自殺したら、こうした声はどこにも届かなかったことでしょう。


小野不一


 小野さん、なにが何でもただ生きるべし、という考えはどれほど残酷な考えになる場合があるか、想像することはできませんか?


 できません。これじゃ、チトあっさりし過ぎか。


 生なら、自分の子供がただひたすらの、想像を絶した悲惨に引かれていくのが分かって、その場に直面したなら、楽にしてあげます。安楽死。これは、信念ではなく心情です。素朴な人間の心情。皮剥拷問を、例えば小生の子供が受ける、その前に選択肢(ピストル)が置かれたら、迷うことなくピストルを選ぶ。これは、安楽死です。ここで、否、あくまで、命が終わるまで生きるべきだと考える人がいて、このような状況でそのように決断するのなら、それは小生には理解し得ない存在です。


 まず、こうした前提で物を考えたことがありません。そりゃ、心情としては理解できますよ。例えば、現実にそうなったとしたら、私は最後まで何があるかわからないから、あきらめることはしない。また、ピストルで殺すことが楽であるとは思えない。その瞬間の苦痛を想像するに、永遠と思えるような時間を感じるようにも思えますが。更に、何度も言うようで恐縮ですが、私は死んだら楽になるという考え方ができないものですから……。


セイ・オールド男


 が、あの本を読んで「偶然の力もあって」生き抜くことができた、とする考えには異を唱えざるを得ない。フランクルが書きとどめたのは、収容所によって、それまでの生き方があぶり出され、最後の最後に至っても尚、希望を捨てなかった者のみが、かろうじて生き残ることができた、という話しではないのか?


 例えば、「選別の手が(ガス室)、彼に触れなかった」というのが、偶然の力です。希望を捨てなかったものも、選別の気まぐれな手が触れれば生きることができませんでした。偶然とはそれを言います。


 私は「収容所に囚われた以上、その運命と向かい合い、生と死は決断の問題だ」という意味のことを云っています。収容所行きになったら、自殺しなさいとは云っていない。ヤスパース夫妻の場合は、文脈が異なります。


 できません。これじゃ、チトあっさりし過ぎか。


 では、噛み合わないな。これも、人間と人間の言葉の行き交いだろう。


greeny


 話しに横槍は申し訳ないと思うのだけど……。ふっと興味覚えたの。


 なら、小野さんはあの実話に基づいた映画 『暁の七人』の若者二人の死、自殺をどう見たの?やはり、生きて拷問にも耐えるべきだったんだろうか。


セイ・オールド男


 現実にそうなったとしたら、私は最後まで何があるかわからないから、あきらめることはしない。


 砂漠のロンメル元帥はヒトラー暗殺に失敗して、「自殺せよ。さもなくば、家族は収容所行きとなる(「知ってるつもり」)」と云われて、自殺した。


 小野さんはこの選択をどう思いますか。私は男らしい選択だと考えています。ロンメルが「殺されるまで生きる、家族については最後までどうなるか分からないから、あきらめることなく、彼らの生きる力と運命の手に任す」と考えるとしたら、人間として軽蔑しますな。子供の、家族の運命を「私」が引き受けるのです。子供に対して「死ぬまで生きなさい」、お前を楽しすることは、最後になにがあるか分からないから、しない」と告げるとしたら、そこで私は子供の運命を自らが引き受けることを放棄したのです。つまり、沈黙した。そこで、全ては子供の手に委ねられる。子供はなにもできない。ただ、苦痛だけが待っている。絶望視ながら、子供は死ぬまで生きることになる。


「他者の苦痛に対する沈黙」がここにあります。


 私の立場ではこれは、非人間的な在り方です。小野さんのお考えはなんとなく分かりました。


セイ・オールド男


 なんだか、同じ問題について話をしているようにみえて、それぞれが、本当は違う問題について自分の考えを語っているように思えてきた。小野さんの問題にしているところと、小生のそれは、実は違うのではないか。


「生きようとする意志」という言葉で考えた時期があります。小生の思秋期を巡ってです。小生人間は生物だと、当たり前のことを云うようですが、そう考えとります。一枚一枚剥がしていくと、生きようとする意志が顕わになってくる。最後のところで、この意志が生かす。そんなことを考えた。その傍をぴたりと絶望が併走するというを知るようになったのは、そう古いことではないですが。果たして知っているのかどうか、それは怪しい。


 自分の生と死観は、生きるだけ生きる、死ぬ時分に死ぬ。癌になったら、身体の自然が、時を告げたのだと考える。その時は生の終わり時と見なしている。近藤氏の「患者よ癌と闘うな」は共感するところ大。しかし、残されたもののことを考えると、そうも云えない。幸い、いまは病らしいものはないが。時分の考えを果たして貫くことができるかどうか、定かではない。私の読みは、小野さんは「生きようとする意志」の一点を強調をされているのではないか、というもので

す。


yamabiko


 自殺のハナシをしているのですか? 自殺と安楽死は全く別。自殺を止める論理はない。するのも勝手(つまり自殺者を処罰してもしようがない。あるいは自殺連座処罰制?でも設けるならば別だろうが。自殺者を出した家族は全員死罪。あるいは財産没収、など。自殺防止には役立とう。もちろん、保険金は一切出ない、とか)


 安楽死は、他殺もしくは自殺幇助をアル場合にみとめる! というのだから議論になる。コレを議論しないのなら、興味なし。


アルキメデス


 アルキメデスさんがチョイト前に引用された中の、「一大事因縁」ってえのは何を指しているんでやんしょ?


「仏家一大事の因縁」ですから仏教者となるにいたった根本の、もっとも大切な因と縁、つまり目的ということになります。生死の真理を自身から明らかにする(=サトリ)ということが根本であると……。

2001-04-19

「安楽死」を問う! 2

山野健一郎


 高齢寝たきり老人が注射をキッカケにして安らかに死んだ旨の話よく聞くけど、これって何なんだろう? さらに、家族は医者を問いたださないし、責めないらしい。


 家族の様子を察して医者が気を利かせて安楽死させているのか?


小野不一


 そりゃ「暗黙(の了解)死」。


 アルキメデスさんが紹介してくれた鉄舟の死に際は芸術的ですね。本能がどんどん退化し、身体能力をさほど発揮することもなく生きている私達が、果たして、迫り来る死を自覚することが出来得るのでしょうか?


 為すべきことを果たし切った満足感が無ければ、それは無理に思える。その意味で私は、中途半端な死(生)、生きながらの死が一番恐ろしい。


 産業革命はオートメーション化に拍車をかけて公害を生み出した。安楽死問題は、西洋医学が生んだ公害に端を発しているのではないか?


のり


 母はノルウェイに住んでいました。手の施しようのない癌で、即告知だったそうです。手術もできない状態で、その検査のためわずかな入院をして、その後は家がホスピスでした。痛みの箇所に合わせて複数のクスリを、それと胃のクスリ。痛みが増すにつれ、モルヒネの含有量が増えていきます。「クスリが無いとたいへんなのよ」と話していました。そうして、ついにはモルヒネ100%になってゆくのですが、母はその手前で意識を無くしたんです。それで入院したのですが、3日後に亡くなるまで鎮痛剤でした。


 病院は自宅からクルマで10分程の所。週2回、癌の専門医とナースがボランティアで訪問してくれます。更には24時間態勢で、ヘリコプターが母のために待機させられていました。


 日本での癌治療は延命? 抗癌剤と放射線治療、副作用の苦しみ。患者の痛みは無視されているのですか?


 ホスピスの充実、痛みをとる治療を、まず確立させるべきではないでしょうか。


のり


 わたしも安楽死は反対。必要なのは安楽死ではなくて、痛みを除く終末医療。


 壮絶な痛みなら、できる限り取り除いてほしい。取り巻く家族の負担や苦しみも考える。同時に、安楽死を受け入れるサインを大切なひとにさせたこと、その人が抱えていく深い悲しみと後悔にも想像を及ばせる。植物状態になって、自殺するための手足が動かなくてもそれを受け入れる。それが運命ではないの? それが寿命ではないの?


小野不一


 死を恐怖の対象と捉え、延命に価値があるという錯覚に取りつかれた結果といえるのじゃないか? 挙げ句の果ては、管だらけの身体で生かされてしまう羽目となる。今まで人類が行ってきたことのツケが様々な形で現れていると思えてならない。


 我が国では終末看護も満足できる状況ではない。


 私は人為的な死は一切認めないスタンスなので、当然、死刑にも反対である。


yamabiko


 生死は個人のコトであり、他人がとやかく言うべきコトではない。


小野不一


 じゃあ、チト、大将の話しを具体的にお聞かせ願おうか。まず、自殺は認めているんですよね?


 では、それが如何なる理由に基づいたものであったとしても、その判断、及び行為は尊厳なものとする考え方なのでしょうか?


 例えば受験を苦に自殺しようとする高校生がいたとする。これに他人は口を出すべきではないというのでしょうか?


 また、イジメで悩む小学生が実際に数多く自殺しているわけですが、これもよしとするのか?


 それとも年齢に制限があるのか?


 あるいは鬱病の方の自殺についてはどうか?


 自殺とは異なるが、若者が暴走行為を働いて事故死するケースなどはどうか?


 中小企業の社長が業績不振に苦しんだ挙げ句、自殺することも多い。自分が死ぬことによって家族等に新たな苦しみを与える点については、どのような考えを持っているのか


 過去には狂信的な宗教団体が集団自殺を行っているが、これに関しては如何(いかん)?


 あるいは名誉の戦死は、どうなのか?


小野不一


「干渉」という言葉は、関わり合い、触発、共感、啓発、切磋琢磨、等々、こうしたことを否定する響きがある。便利な言葉だが、私が生活の中で使用することは、まず、ない。


 よく受け止めれば、自立を前提としているようにも思えるが、その本質には、人間と人間とのつながりを否定する、無慙な精神が覗いている。


小野不一


「干渉するな」という思考から生まれるのは、「我関せず」という姿勢であろう。無関心がナチスを育んだことはご存じの通り。


yamabiko


 さっそくお得意の文脈無視が始まったな。安楽死と、尊厳死に関するオランダの記事読んだ? オランダで↑を認めているか? 医者が認めるか?


 いかなる判断行為も尊厳、と誰がいったか? それこそ、なんのスレッドかをチェックして欲しい。


せいやん


 祖母92歳。老人ホーム歴6年くらい。8年くらい前からボケてる。


 家族共倒れなんて他人事だと思っていた。家で介護してた頃は、死んでくれと思ったことは、何度もある。


 90まで生きれば、いや、生かしてもらえれば、もういいでしょ、って感じ。


 私、冷たい?


小野不一


 自分が死のうとどうしようと、勝手だろ?


 いつでも、どこでも、死んでいいのだよ。

 と言ってやれば、救われるひとの何と多かったこと、だろうとおもふ。

 けふ、このごろ。


 逝きたいひとは、逝けばいい。


 生死は個人のコトであり、他人がとやかく言うべきコトではない。


 などなど。


 そうした発言は、生命それ自体よりも「本人の判断」を尊厳視するからではないのか?


 原理的な問題として、1+2=?という問題を今論じているわけではない


 というが、共通原理を模索すべきではないのか?


 安楽死問題によって価値観の根底があぶり出されていると私は考える。


小野不一


「私は、自分がだれなのか分からなくなってまで生きていたくない。我が子も分からず、排泄や、人の世話になっていることさえ分からなくなったら、生きていると言えるでしょうか。私はそういう状態になったら安楽死させてほしい。それが保証される制度を作ってほしいと思います」


 これは東京の主婦(65歳)の投書。


 安楽死に賛成する人の多くはこうした思いが根っこにある。「生き恥をさらすよりも死を!」そんなスローガンが聞こえてきそう。私は賛成できないな。


yamabiko


 ↑で、ズラズラ、私が言った、逝く人は逝けばいい、と言った例を並べている。


 自殺について言えば、そのとおりである。


 だから、コレはナチ、につながるとかいうのはちゃんちゃらおかしいぜ。いまだって、アフリカでは多数の人間が餓死している、というし、非文化的な生活をしている。それにたいして、手も足も出ないのだろう? エーコぶるのは やめんさい。


yamabiko


 ひとは、自分の意思で生まれたわけではない。だから一定年齢に達したら、生まれてくるべきであったかどうかを判断してそうでない、とおもうひとは命を絶つ、というせいどはどうか?これが、何でもかんでも生き抜く、という一本道を歩む、猿、とそうでない人間の差だ。


 ↑で、生き恥、とかいっているが、そんなもんではないだろう。何でもかんでも生きる、というのは、内臓移植してでも生きる、という根性とおなじ。みっともないことである。 生、とはそれほどのもんか?


小野不一


 せいやんが冷たいとは思わない。ただ、その場合は安楽死云々というよりは、介護の問題ではないでしょうか? 現実に御苦労されている方々の心労は大変なものがあると察します。


小野不一


 覚醒剤や暴走行為など、快楽のために死ぬことは、皆さん、どう思いますか?



 はじめまして。ここに書き込んでる人達は、まあ少なからず頭使って生きてる人達だと思うから実際法律がどうなろうとそんなに自分を見失わずにいられるんじゃないかな?と思います。


 でも、ジャパン人って一般的にはとても世間の目とかのプレッシャーに弱いでしょ?もしくはそれを逆に糧としてる人達も居ますよね。個人的には安楽死なんてどうでも良くて、他人がどう死のうがその人の勝手だと思うんだけど、安楽死を立法化すると、なんか死ななきゃいけないような気がする人がいると思うのね。


 お母さん、安楽死って知ってる?ココにサインすればいつでも死ねるのよ。あらいけない、治療費の請求書落としちゃった。気にしないでね。なんて事を嫁に毎日言われたらどうでしょう。


 治る見込みがなくても死にたくない人はたくさん居ると思う。僕もそうだし。安楽死が定着すると、安楽死を選ばなければならない様な風潮が出てくる様な気がして恐い。別に安楽死なんて法律をわざわざ作らんでも本当に死にたい奴は病院の窓から飛び降りて死ねば良い。きれいに死にたいなら睡眠薬ガブ飲みすれば良い。覚醒剤、暴走行為しかり、死のうと思えば簡単に死ねるんだしね。


ナジ


 ちなみによけいなことですが、睡眠薬がばがばのんでもいまはしねません。飲んだ後に、風呂で溺れるとか、手首を切ってもそんなに簡単にはしねませんね。ためしたことありますよ。


 死ぬのも大変なんだと思います。だいたい↑どんなに憎んでもわしはこんな嫁にはならないね。実の息子、娘に言われる母親父親の方が多いかもしれんとは思います。


 安楽死とは関係ない話ですけどね。


yamabiko


 お母さん、安楽死って知ってる? ココにサインすればいつでも死ねるのよ。あらいけない、治療費の請求書落としちゃった。気にしないでね。なんて事を嫁に毎日言われたらどうでしょう。


 さまよへるオランダ人、に きいてみよ〜!


セイ・オールド男


 オランダ人は彷徨って港に着いたのか? ようやく、死を死ぬオランダ人は死ねるのか、など、朝から哲学的じゃで。


ナジ


 ついたはついたので、彼等の魂のためにある女の人が殉教するんでしょ。そこらへんの演出がかなり問題になるらしいのだけれどはたして私の記憶が正しいのかそうなって欲しくてそう思ってるのか今はもうわからない。本をすべてそうこにしまってしまったからしまったなあ。。寝起きに哲学も音楽もないなあ


小野不一


「ま」さん、ようこそ! もうチョット長いハンドルにしてくれないッスかねー。大事なことを書いてくれました。議論が盛り上がったところで、私もそのことを書こうと思っていたんスよー。


 施すものが少なく、施されることが多くなった人々が、非常に生きにくい社会となってしまうでしょうね。


のり


 91歳の祖母は、新年を迎えると年賀状のかわりに友達に電話をします。毎年、去年もお迎えが来なかった、と言っています。お迎え、なんて言葉いつか無くなっちゃいそうな。みんな積極的になっちゃうのかな。


ナジ


 家のアルツのハハは毎日毎日この何週間か兄と兄嫁のいない時間帯に、電話魔になってしまうらしい、その度に相手は何度初めてかけられたような事を言われて昨日だったか「迷惑かけてますでしょう?」ときいたら「はい、いい迷惑かけられてます。おかげさまで電話ノイローゼになりました。」とはっきりまじめにいわれまして、、それでも娘の嫁ぎ先にはかけても無駄だと言う気持ちが残っているのでしょう。まだ、1週間一度くらいです。私が先に逝って迎えに来てあげたいくらいです。


ま−


 小野さん、と愉快な仲間達さん。勝手におじゃましました。どうぞよろぴく。ご要望にお答えして名前に「−」をつけました。


 睡眠薬じゃ死ねないんですか……ショックですね。良かったらキレイにラクに死ねるもの紹介してください。誰でも手に入るものでね。バファリンとかじゃ駄目?


 アルツのお母さんの相手って大変でしょうね・・アル中のお母さんの相手するだけでもかったるいもの。


 アルツって安楽死の対象じゃないですよね?


小野不一


 ま−さん、ようこそ!


 安楽死が社会的合意を得れば、アルツハイマー患者は殺されかねない。家族のための安楽死。「生前から申しておりました」などと口を揃えて言い出すに違いない。


 安楽死は新時代の姥捨て山か?


セイ・オールド男


 法律では「安楽死」の要件はかなり厳しいものとなるはずです。要件を満たさなければ、殺人罪。小野さんの恐れは広げると臓器移植にも繋がります。主観的、客観的な要件を満たした、苦痛からの解放が目的。多分。


 それでも、社会的コスト考からの現代版楢山節考がどこか響くのが不気味だ。


ナジ


 かったるいだと?


ナジ


 どんなかたちになっても親は親なんだと思う。それをおかったるいといわれたらおこります。


 教えてあげましょう。そんなに死にたいのならはさみでけいどうみゃくぶっちぎってください。


 ただし後片付けしてくれる人がかなり かったるい でしょうね。どこに鎮痛剤のばっふぁりんでしのうとかんがえるやつがほんきでしのうとかんがえてるとはおもえんなめられてんだろうか小野さんと仲良くしててください。


のり


 亡くなった母方の祖母は、早いうちからアルツです。兄がみています。プライドの高い、気の強い祖母で、世話はとても大変だそうです。几帳面な兄嫁は、誰かに頼ることを潔しとしなかったため、家中でひとりで抱え込んでノイローゼになりかけました。今はホームに入っています。が、重症の人が優先なので、体力的には元気な祖母は、いつ退院させられるかわからないといいます。特養ホームの入院資格審査では、その性格が災いしていつも却下されています。


 兄は気にするなと言いますが、義姉の気持ちを思うといたたまれなくなります。


yamabiko


 誤解がありますね。殺人、とするかどうかを、議論しているのに、現行で 殺人である! と騒ぐのは、議論として間違っている。現行法はすべてリセットして、議論すべきです。殺人でない、普通の行為なんだよ、といえば(あたかも道を歩くこととおなじ)、良いわけです。予断、で 悪いこと! と決めてかかる人とは、議論しにくいですね。(世間体、を気にしているだけでしょ?)イノチを停止すること、悪!、長生きすること、善!とする 常識がいかに、われわれに巣くっているか、これを まずぎろんしたほうがよいようです。


セイ・オールド男


 正確には殺人は殺人だが、違法性が阻却される、殺人罪には問われない。ボクサーがリング上で相手方を殴って、その結果殺しても、殺人罪には問われない。ボートで漂流している三人。二人分の水・食料しかない。一人は海を泳いでもらわなければならない。で、そうする。無事、陸にたどり着いた二人は一生その行為を悔い、お金も払わなければならないだろうが、少なくとも殺人罪を問われることはない。緊急避難の理。それと同じ。「生前から申しておりました」では、「それじゃあ、足りませんね」と言われて、追求されるでしょう。恐いのは、仮に安楽死が認められたとして、要件云々が曖昧にされること。天網恢々ではないとしても、疎にして漏らす、このこと。


yamabiko


 つまり、殺人、という事実ではなく、ツミ(世間体)をもんだいにしてるってことです。世間(違法性)を、阻却しましょう。


yamabiko


 緊急避難、と、ボクシングは、ちがいますよ。ボクシングは、公認殺人ゲーム。酔っぱい運転で誤ってコドモをひき殺すとごーごーたる非難を浴びるけど、憎い相手をリング場で殴り殺してもなんにもいわれない。その程度のもんですよ、世間の 死 の認識は。(ボクシングは非人間的として反対しているグループもある)安楽死反対、を叫んでいる人間が、ボクシングをまさか正視しているとは、おもいたくありませが。


山野健一郎


 日本で2番目に重い神輿担ぎから帰って来ました。余りにも重過ぎて死ぬような思いをしました。


 ところで、話が進んでますね。安楽死については、他者の安楽死に関することや法技術の問題があると思いますが、それを細部まで検討していると、キリがないように思えます。そこで、まず、第一に検討した方が良いと思うことは、正常な意志能力・判断能力を持っている自分が、耐え難い苦痛に直面した場合、安楽死を選択するか否かということです。自分自身の安楽死を検討しなければ、他者の安楽死の方向も見えて来ないように思えます。


 細部は法技術、医療技術、科学技術……により検討し、改良を積み重ねながら、より良いものを創りあげていくしかないと思います。


 最低でも、正常な意志能力・判断能力を持っている者が、耐え難い苦痛に直面し、安楽死を選択したいと希望した場合には、その希望がかなえられる仕組みが、良いように私は思います。


セイ・オールド男


 あの、ボクシングの場合はもちろん緊急避難じゃないです。正当業務行為。法令による行為として、「正当業務行為」、「正当防衛」、「緊急避難」を違法性阻却事由としています。


 行為、違法、責任で言えば、違法性が抜ける。だから、犯罪にはならない。


小野不一


 結局は、「耐え難い苦痛」への恐怖が「死」の恐怖を上回るということか。治癒の見込みがあれば耐えることができ、それがなければ死んでもらうということなのか。


 苦痛の対極にあるのは「快楽」だ。モルヒネの投与などに見られるように、補完し合う関係である。


 苦痛のために死ぬことが許されるのであれば、快楽のために身を滅ぼすことも許されてしかるべきではないか。


ノリ太


 お久しぶり! 週末はイースター(復活祭)でお休みだったんもんで。(あっ、おいらは海外に住んでるんだ)盛り上がってますなー。ところでさー、オランダの「安楽死法」って死にたい人は死なせてあげましょうって言ってるのかー? そもそも「安楽死」ってなんだい?


ノリ太


 小野殿、身近な人の死に直面したことがないんじゃないか? 自分は1回しか死ねないから、そん時になってみないとわかんないだろーけどさ。例えばだ、小野さんが余命6ヶ月しかないとする。死ぬ前にタバコが死ぬほど吸いたい。でも皆が反対するんだ「寿命が縮まる」ってね。「あと3ヶ月の命になったらどーするんだ」って。吸わずに我慢して6ヶ月生きるのか、思う存分吸って、3ヶ月満足して生きるのかってことじゃないか? 安楽な死というのは。「安楽死法」を論じるか、「安楽な死」を論じるか。


山野健一郎


 苦痛のために死ぬことが許されるのであれば、快楽のために身を滅ぼすことも許されてしかるべきではないか。


 上記の身を滅ぼすこと=死ぬこと とし、苦痛、快楽、死ぬ、生きる を組み合わせてみます。(安楽死とは少し離れるかもしれませんが)


(1) 苦痛のために死ぬ

(2) 苦痛だけど生きる

(3) 快楽のために生きる

(4) 快楽だけど死ぬ


 4パターンが考えられるが、どれも善悪は無いように思える。


 基本的には自主性を尊重したいところ。しかし、肉体の耐え難い苦痛以外は、死を選ぶ必要はないと、私は考えている。精神の耐え難い苦痛は、なんとかなるし、なんとかしなければいけないと、私は考えている。


yamabiko


 山健さんがいうように まず 自分の問題、を議論すべきなのですよ。それを、これをみとめると、どうなる、という大所高所、からぎろんするからおかしくなる。治療法もない、家族に多大の苦痛を賭ける、自分も苦しい(苦しくなく、家族に負担をかけない、なら話は違う)というときに、死と言うオプションを残すのは当然のことだと、おもう。これは人に適用するのではなく自分がそれを選び、その旨を、表明するのだ。人に強制するのではない。これを認めると、社会がどうこうなる、というのは堕胎を認めると社会が乱れる、というのに等しい。もちろん、安楽死とか尊厳死ヲ認めないヒトは、堕胎も認めていない、と、考えたい。堕胎を認めて安楽死とか尊厳死を認めないのは、論理的におかしい。つまり受胎(当人の意思無く、生まれさせられる)以後、生命はある、というのは事実であり、これを親の自由でツブスのは犯罪、という立場は宗教を離れてあり得る。また、本人の意思とは関連なくこの世に生まれさせられるのは人生最大の矛盾である。したがって、一定年齢に達したら、生まれたのは間違い、生きたくない、という選択させるのはどうか?とさえ私は考える。


yamabiko


 カリに 安楽死法、が日本で認められたとしても、これを適用して死を選んだひとの家族は、冷たい目で見られるのではないか、と私は予想している。それほど ドウしようもない国なのである。アレフ(もとオウム)の信者家族は、とうにんになんの罪もないのに、いまやさまよえる人間ではないか? 住民票を受け付けません、と市役所などが、ドードーと宣言しているのだから。 憲法など、あってなきがごとし。安楽死法、など あってなきがとごし、となるだろう。


 まあ 安楽死法を適用しても 引っ越せば住民票を受け付けない、ということはあるまいが。


 米国の堕胎は大変だ。これを行う医師はコロされ、その病院にでむくひとは狂信的な信者にずっと、つきまとわれる。


小野不一


 小野殿、身近な人の死に直面したことがないんじゃないか?


 今までに20人ぐらいの死を間近に見てきた。下は14歳から上は80代。その内、半数は40歳に満たない方々だった。


 ノリ太よ、のん気な議論をしている心算はないぜ。


小野不一


 私は安楽死は大所高所から論ずべき問題だと思う。それは、昨今の社会問題が生命を軽視する風潮から生まれていると考えるからだ。


 人間は生まれるべくして生まれてきたのだ。受精は単なる偶然ではあるまい。


 生きるに値しない世の中だから、死ぬ自由を認めるというのも頂けない。それは主体性を尊重しているようでありながら、結局は、環境に支配された不自由な選択ではないだろうか。


 人のいのちがそれほど軽いものであるとするならば、他の何に価値の重きをおくというのか?


yamabiko


 大所高所から論じるから、軽視されとるんだよ。


 オカルト派とつきあっているつもりはないぜ。


アルキメデス


 これは宗教観の問題ですね。自分は無宗教である、という人でさえも、そのように信じている限り、信仰となんら変るところはありません。大所高所は、その人の宗教観によってポジションが違うわけです。


道元の言葉】

生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり、生死の中に 仏あれば 生死なし、但生死即ち 涅槃と 心得て、生死として 厭うべきもなく、涅槃として 欣うべきもなし、是時初めて 生死を 離るる分あり、唯一大事 因縁と究尽すべし。


 これは、道元の『正法眼蔵』から抜粋して編纂した、曹洞宗の『修証義』の冒頭にあり、僧侶・信徒はお勤めに使っています。(私の宗旨は違いますが……)


yamabiko


 無宗教、という宗教に、どのような教義、があるのでしょうか?


アルキメデス


 無宗教、という宗教に、どのような教義、があるのでしょうか?


 私は、無宗教は信仰と変るところがない、と書いています。無宗教は、宗教のたぐいである、とは書いておりません。無宗教の人とは、程度の差はあれ、「私は聖なる事物を信じないし、拠り所ともしない」という立場の人だと信じております。こういう、自分の行動理論(教義)に、何らの疑いを持たない人ということです。この「何らの疑いを持たない」ということを「信仰」というのです。なにも、読経したり、踊ったりすることが宗教なのではありません。


ノリ太


 ノリ太よ、のん気な議論をしている心算はないぜ。


 のん気なつもりじゃないけどねー。


yamabiko


 アルキメデスさんのいうのが宗教なら人間はみな宗教をもっているということになります。私のコトバでは、文化であり、幻想。しかし、これは 日常言う、宗教、ではないとおもいます。


 現実、オランダとか米国で、安楽死や堕胎する自由をまもっているヒトビトに対して イヤガラセをおこなっているのは、宗教団体、である、というときの宗教とは 異なります。こういう宗教団体は教団の教義、を根拠にして反対しています。 これが私の当面の敵。つぎに、教団の教義とは関係なくオノレの信条として反対しているひともある。こういう人に対しては、オノレの行動はオノレの自由だろ?といいたい。 安楽死などを、人に勧めるのは、犯罪です。オノレが意思表明する自由を与えろ、といっているだけ。


ま−


 ナジ様、この度は私の配慮に欠けた書き込みで不愉快にさせてしまい大変申し訳ございませんでした。ご指摘の通りバファリンを飲んでというのは冗談であり、本気で死のうとは考えておりません。かったるいというのは私のアル中の母親に対しての率直な感想でありナジ様のお母様への言葉ではありません。アルツとアル中をかけたかっただけでありまして他意はありませんが並べて書いた事に配慮が欠けていたと反省いたします。その他の方でも不快な思いをされた方がいらっしゃいましたらお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。


ナジ


 おはようございます。まー様


 どういうわけか、気がついたら何もつけないで寝ていると言うお間抜けな朝でございます。


 え? っそおんんな、、悪い事なんかしてません……。昨日きっと暑かったのですわ。こちらは異常気象なんですのよ。4月と言うのに初夏の陽気です。変ですわ。


 ところで、冗談はさておいて……


 これでも、わたくし、こころやさ、ごほっごほっ貞淑な人妻でございますの。(なれない事をいおうとするから持病のしゃくが、ちがう気管支炎が……)私もつい言い過ぎましたね。感情に走りやすいのは


 その時に飲んでいたからです。


 こういってしまえばとってもずるいのかもしれませんが、てめえで自殺したいと言ってるわりには、まったく関係ない赤の他人が、死にたいと言うのは何としても阻止したいと言う矛盾した感情があります。だから、優しい言葉を作る前に、先にどうしたらいいんだよーーというどうしようもない、悲しい怒りが前に出て、文字だけ見たらものすごく捨て鉢のような、いやらしい表現になってしまいます。


 あのね、まーさん


 私は関わった人がどんな意味でも自分より大切になる時がある。


 それが、たかがネットだと言っている人たちには理解できない事だとしてもそんな思いもあると言う事で、自分ではかまわないとおもっている。だからこうして文字であなたに謝られるとものすごくつらい。


 だってね自分で死にたいと言った時点で多分いろんな意味であかの他人のあなたのどこかを不快に刺激してしまったと思うからです。


 ほんとに死にたいのなら何も言わないで死んでるはずだものね。死ぬのは個人の自由なのですものね。それをいちいち公の場所に持ち出すのが言葉をいたづらに使っているとしか自分でも反省の余地がありませんね。本来言葉には魂があるはずなのに、どうもそれを忘れてしまっているようだな。


 だから、私も配慮にかけていた事になるから、あやまります。ごめんなさいね。てれくさいから、少し オフ 酒 して話してます。


 個人メールでこのような事を話さなければならないのでしょうが、あなたがどこのだれだかわからないので、ここでこうして、ふんどしさせていただきました。


 真夜中まで起きてないといけないの? 今朝こっちはものすごっくいい天気です。4時と言う時間帯に朝日は見られたんだろうか? 少しは体が休まってるんだろうか?まあ、私も皆様に謝ります。もうしわけございませんでした。


 で、気がついたんですけどね、たしかわたし ナジという名前とgavo-22というのとかいちゃった気がしてるんですが、よくど(う)いつだかわかりましたね。それがちょっと不思議。もしかして知ってる方?まさかね。なじ てだろう?


 では、今日もはりきってはたらきます。まーさんも元気でね。