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2011-01-22

結婚しようと思っている彼女にAVの過去が……


 彼女のご両親に挨拶をして、結婚することの了承が得られ、有頂天になっていたら……帰りの新幹線の中で彼女から、AVに昔出ていたっていう告白をされてしまった……。まじでこれからどうすべきかがわからない。最悪だ。隠し事はしたくないって言われても、そんな話聞きたくなかった。彼女、新幹線の中でずっと泣いてたよ……。


痛い信者


 この問題について考えてみよう。性というタブーを考える上で貴重な題材となっており教科書に採用して欲しいほどだ。賛否いずれも力がこもっている。何はともあれ通読してもらいたい。


 アダルトビデオに出演することの何が問題なのか? 金のためなら見知らぬ男とセックスができるような女であり、そうした事実を多くの人々に知られることをよしとした女である。ま、こんなところだろう。


「貧しさゆえ」という理由は考えにくい。とすれば、何かを買うために自分の身体を売ることができる女であることを意味する。同じ金目的でも「実は過去に銀行強盗をしていて前科一犯なんだよね」なら許せるかもしれない。この場合「金のためなら何でもするのか?」という疑問は生じにくい。


 では女優のラブシーンはどうだろう? 紛れもない性的営みである。売れっ子であっても濡れ場を演じる女優は多い。「でも、あれは中に入れてないだろ?」。しかし裸になって金を稼いでいるのは同じだぞ。「そう言われてみると確かに……」。で、男優の場合は問題視されることがない。飽くまでも女の問題。


 挿入が問題だとすれば、処女と童貞以外はまともな男女として扱われなくなる。我々男性は、女性の口を様々なものが通過することは何とも思わないが、下半身については過剰なまでに反応する。でも、生理用品や医師の指などであれば気にしないはずだ。


 結局、性は文化であり幻想なのだ。キリスト教やイスラム教は現代にあっても尚、性を抑圧している。封印し隠匿されタブー化された性は否応なくステレオタイプとなる。オスとメスの役割。性はコミュニケーションという本来の機能を失い、単なる欲望の吐け口と化している。


 書き込みを読むと「男の眼差し」が浮かび上がってくる。結局多くの男どもは女性を「商品」として見つめているのだ。まるで「傷物」になったと言わんばかりだ。最初から空いている穴であるにもかかわらず。穴に何かが入ったところで傷にはなるまい(笑)。


 岸田秀は男性の性行為が「手の代わりに膣を使ったマスターベーションに過ぎなくなった」(『続 ものぐさ精神分析』)と指摘している。つまり欲望を満たしたり、自我の欠如を補うために女性を利用しているわけだ。


 アジアでは今も尚、自分の子供に売春をさせる親がいる。プーラン・デヴィは両親の目の前でたくさんの男達に強姦された。『囚われの少女ジェーン』は17年間にわたって義父から虐待された実体験を綴ったもの。


 性的にふしだらな関係が多いほど病気になる確率は高まるわけで、進化的なリスクは避けられない。だが我々男性が性に吹き込んでいる物語性こそが最大の問題である。「俺だけの穴」に固執するから、妙な潔癖さを求めてしまうのだろう。差別感情は「穢(けが)れ意識」から生まれる。これは世界共通だ。


 二人は真実愛しているのだが、相互を愛するのではない、と説得力ある論述をしている。二人が愛するのは、愛の対象の人であるよりは愛の自覚――愛のなかにいるという状態――そのものである。愛される人は、愛する人自身が昂揚してゆくための存在として機能するかぎりにおいてのみ貴重な価値をもつのである。


【『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル/浅野敏夫訳(法政大学出版局、1994年)】

2010-06-15

ドメスティックバイオレンスの本質はインサイドバイオレンス


ドメスティック」は「家庭の」という意味であるが、「国内の」という意味もある。ということは、検察の恣意的な捜査などはドメスティックバイオレンスと呼んでもいいことになる。生活保護の申請を拒否する地方自治体もまた同様だ。


 ドメスティックバイオレンスの本質はインサイドバイオレンス(内部暴力)にあると私は考える。「見えない暴力」「隠蔽(いんぺい)された暴力」と言ってもよい。


 戦争や格闘技は「開かれた暴力」である。暴力団や右翼は「公開された暴力」だ。暴力は示威的な意味合いを帯びる。


 これに対して一般的に言われるところのDVは、家庭内で主に男性が女性に振るう暴力を指す。「家庭内」で行われているため外からは見えない。幼児虐待も同じだ。


 1970年代後半に校内暴力が起こり、1980年代になってからいじめを苦にした自殺が現れ始めた。前者は「見える暴力」であるが、後者は「見えない暴力」であろう。ということは、いじめ問題こそインサイドバイオレンスの走りと考えられる。


 いじめはそれまでも存在したが、明らかに1980年代を経てバブル経済が弾けてから尖鋭化(せんえいか)している。もとより学校だけではなく、社会の至るところでいじめは繰り広げられた。


 EU(欧州連合)発足が1993年のことである。世界は緩やかな統合を目指しつつ、領土拡張路線は姿を消して、帝国主義は既に滅んだように見えた。


 ところがインサイドバイオレンスは激化した。イスラエル問題ルワンダ大虐殺がそれを象徴している。


 バブルが弾けた頃、「戦国時代」だとか「サバイバル」といった言葉がもてはやされた。その一方で若者は「息苦しさ」や「生きにくさ」を覚えていた。経済が不安定になると様々なプレッシャーにさらされる。同調圧力の高い日本社会においてプレッシャーは暴力と化す。その暴力性が連鎖となって弱い者へ向けられるのだ。


 暴力のベクトルは内側に向かう。共同体の枠組みは解体し、分断された個人が泡沫(うたかた)のようにウェブの海を漂っている。そこでは現実のつながりよりも、むしろ情報的なつながりが求められている。


 これを単純に「人間関係が稀薄になる問題」として捉えるのは浅はかだ。人々が求める人間関係の「新しい形」と受け止めるべきだろう。


 通信技術の発達は「いながらのコミュニケーション」を可能にした。人類は引きこもる。家族も崩壊して人々は自分だけのカプセルに安住する。暴力を避けるために。


【付記】英語の接頭辞「in」は反意語を表す場合がある。インフォーマルは非公式で、インモラル(英語表記は「im」)は不道徳になる。本来は「中へ」という意味にもかかわらず、頭につくことで反意語となるのが意味深長であると思う。

2010-01-24

日垣隆が文雅新泉堂をこき下ろしていた


 作家の日垣隆が文雅新泉堂を貶(けな)している記事を数日前に見つけた――

 日垣は何の根拠も示さずに「99.9%」の客は支払うはずだ、としている。この前提で相談者に対して「0.1%のために99.9%に不利益を転じる愚は何としても避けていただきたい」と助言している。


 日垣は、万引きの多発によって潰れる書店があることを知らないのだろうか? 少数の悪質な客への対応策を取ることで、多数の客に不利益を与えてはならないという主張は全く馬鹿げたものだ。


 この後で、日垣が文雅新泉堂から本を購入したところ、メールマガジンが配信されるようになった。で、文雅新泉堂のサイトを見たところ、「悪質な代金不払い者」の個人情報がアップされていた。ここから文雅新泉堂への攻撃はトーンが激越な調子となる。


 何らかの事実に対して意見を述べるのは自由だ。それを否定するつもりはない。私もその件については知っている。しかし日垣は意図的な印象操作を加え、情緒的な文言を羅列する――


「『駈け出しネット古書店日記』(晶文社)というイライラする本」、「行動半径がすこぶる狭い人」、「このたぐいの自己チュー男」、「彼にはそのような柔軟性や堪え性(こらえしょう)が微塵もない」、「やはり責任を相手に押しつけたいだけ」、「この自己中心的ネット古書店主」


 このように悪し様の罵った挙げ句、見知らぬ人物に対して「お前」呼ばわりをしている。しかも、ご丁寧に文雅新泉堂の師匠に当たる北尾トロの著作まで引用して攻撃を加える。


 これらの根拠となっているのは、自分(日垣)のサイトの集金だけである。そして、記事の一部は雑誌に掲載したもののようだ。


 どんな商売であれ、それなりの苦労があるものだ。オンライン古書店の多くが電話注文を受けないのは、あまりにもわけのわからない電話が多いためだ。しかも、ただ本を探しているだけで、購入に結びつかないケースも多い。単なる言い間違え、聞き間違えというレベルではなく、発送した後で送り返されることもある。相手にしていると、結局こちらが検索までして別の古書店を紹介する羽目となる。こうしたことは、レアケースではないのだ。


 目に余る文章から、日垣の性根を垣間見ることができよう。日垣は中学3年の時に弟を殺されている。犯人が弟と同じ13歳ということで事故扱いされたようだ。つまり、彼の著作の多くは意趣返しなのではないだろうか? 精神障害者による犯行や少年犯罪を執拗(しつよう)に追い掛けているのは、そうでもしないと自我を保つことができないからではないのか?


 日垣隆が行っていることは暴力である。彼の著作には厖大なデータから取捨選択された情報が盛り込まれているが、彼が振るう暴力のための武器と化している。日垣は「自分が正しい」と思い込んでやまない。そしてその正義に溺れた時、日垣の暴力性はわかりやすい形となって、チンピラまがいの言葉を放つのだ。


 作家が、しがないオンライン古書店を雑誌で攻撃する。日垣は自分の力を理解した上でハンマーを振るっている。ここにおいて日垣の心理は、弟を殺害した犯人と同一化している。


 日垣隆が自分の暴力性を自覚し、そこから脱却できない限り、弟さんが浮かばれることはないだろう。

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2009-08-15

意地の悪い引用


 戦後、「利口な奴(やつ)はたんと反省するがいい。俺(おれ)はバカだから反省などしない」と言った高名な文芸評論家がいた。戦時中、古典に沈潜し、「記憶するだけではいけない。思い出さなくてはいけない。でも、心を虚(むな)しくして上手に思い出すことは非常に難しい」と説いた人だ。それこそ反省という営みであるはずなのに、本当は利口なので、いち早く虚心を捨てたらしい。


発信箱:忘れられた追悼式=伊藤智永(外信部)/毎日jp 2009-08-15


 文章はいいのだが、いささか意地が悪い。文芸評論家とは小林秀雄である。セリフが果たして正確といえるだろうか? 「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」(Wikipedia)、「僕は馬鹿だから反省しない。利口な君達は、好きなだけ反省すればいいんじゃないか」(Street / Fighting / Men)といった表現もある。座談会ということを踏まえると、「俺」という発言は不適切に感じる。新潮社の『小林秀雄全作品』を2冊ほど読んだが、対談では若い頃からの友人である今日出海に対しても「僕」で通している。そういう意味では、悪意が感じられる文章だ。

2009-06-03

目撃された人々 24


 今日、1000万円騙し取られたというオバサンに会った。気の毒としか言いようがない。


 騙される人は往々にして人がいい。否、人がいいからこそ騙されるのだろう。


 何をどのような基準で信じるかが問われている。甘い基準で見知らぬ他人を信じてしまう人は騙されやすい。さしたる根拠もなく儲け話に乗っかってしまうことが、私にはどうしても信じられない。


 トーマス・ギロビッチ著『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』(新曜社、1993年)を読んでおけば、騙されることもなかったろうに。


 一冊の本への投資を惜しむと、こんな羽目になるのだ。騙されたくない人は、騙される前に読んでおくこと。後悔先に立たず。