古本屋の覚え書き このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 古本屋の覚え書きを検索

2010-12-14

人間が人間に所有される意味/『奴隷とは』ジュリアス・レスター

 黒い人間が白い人間に所有された。人間が人間に所有されるとはどのような状態なのであろうか? 所有する側と所有される側の間にはいかなる関係性が成立しているのだろうか? 奴隷をこき使った人々と奴隷にされた人々が過去に実在した。あなたや私はどちらの側にいるのだろうか?


 奴隷とは力によって支配された人間の異名である。欲望を実現させるために力が発動する時、そこには必ず暴力性が立ち上がってくる。


 アフリカの黒人は餌に釣られた魚も同然だった──


 アフリカでは、こぎれいなものといってはほとんどなかったし、それに赤い色の布は全然なかったんだよ、とジューディスおばあさんは言いました。じっさい、布なんて全くなかったんです。ある日のこと、青白い顔をした見知らぬ人たちが、何人かやってきて、赤いフランネルのちいさな切れっぱしを、地面に落っことしたんです。黒人たちはだれもかれもが、その切れっぱしを取りあいました。つぎには、もっと大きな切れっぱしが、もう少しさきの方で落とされました。で、こんなふうにして、とうとう川のところにまでやってきたんです。するとこんどは、大きな切れっぱしが、川の中と川の向こう岸に落とされました。落とされるたびにその布切れを拾おうとしながら、みんなは、だんだんと先の方へ誘われていったんです。とうとう船のところまでたどり着いたとき、大きな切れっぱしが、舷側から突き出した板のうえと、もっと先の船のなかに、落とされました。こんなぐあいにしてついに、おおぜいの黒人たちが、積めるだけその船に積みこまれました。すると、船の門が鎖をかけて閉められ、もう誰ももどれなくなってしまいました。こんなふうにして、アメリカへ連れてこられたんだよ、とジューディスおばあさんは言ってます。(リチャード・ジョーンズ ボトキン、57ページ)


【『奴隷とは』ジュリアス・レスター/木島始、黄寅秀〈ファンインスウ〉訳(岩波新書、1970年)以下同】


 赤い布切れは「小さな嘘」だった。奴隷は「騙された人々」でもあったのだ。黒人たちは立つこともままならぬ船倉に閉じ込められてアメリカへ輸送された。


 アフリカは紀元前から侵略され続けてきた。多分平和な人々であったのだろう。さらわれたアフリカ人は労働力として酷使された。鞭で打たれながら──


 鞭のひびきと、黒人の男女の泣き叫ぶ声につれて、奴隷所有者とアメリカは、裕福になっていった。


 いつの時代も繁栄を支えていたのは奴隷のような人々だった。富を生むのは労働力である。繁栄とは余剰の異名であり、搾取の分け前に与(あずか)ることを意味する。


 人間が奴隷にされうる二つの方法がある。

 ひとつは、力によってだ。人間は、垣根の背後に閉じこめられ、絶えまなく見張られ、ほんのちょっとした規則でも破ったら、手ひどく罰され、絶えまない恐怖のうちに暮らすようにされうる。

 もうひとつは、主人がしてもらいたいと望んでいるとおりのことをすれば、じぶんの利益には一番かなうのだと、そう考えるように人間を教えこむことだ。その人間は、じぶんが劣っているのだと、そして、奴隷制度を通してのみ、じぶんがやっとまあ主人の《水準》にまで達しうるのだと、そう教えこまれる(ママ)ことができるのだ。

 南部の奴隷所有者は、この両方を使った。


 我々も奴隷だ。「やってられねーよな」と言って会社を休むことは許されない。現代のシステム化された国家機能において、奴隷は教育制度を通して選別される。そして最優秀の奴隷は官僚となる。あるいは一流企業への入社を許される。


 憲法や法律が変わろうとも内実は変わらない。社会とは人間が人間を手段にする修羅場なのだ。比較と競争に明け暮れながら、我々はヒエラルキー内部の階段を上がってゆくしか選択肢がない。なぜなら国家が有する軍事力や警察力(どっちも暴力ね)に依存せずして生きてゆくことができないためだ。


「柔らかな奴隷制度」とでも名づけておこう。


 じぶんじしんの名前がなくては、奴隷がじぶんを主人から切りはなして見る能力は、弱められるのだった。奴隷は、けっして、きみは誰だね、と尋ねられることはなかった。奴隷は、「だれの黒んぼだね、おまえは?」と尋ねられるのであった。奴隷は、切りはなされた本来の自分というものを、まるで持っていなかった。かれは、いつも、何某氏の黒んぼなのであった。


「名前がない」という意味については、岡真理(『記憶/物語』)やガヤトリ・C・スピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』)が鋭く考察している。


 自分は何者なのか? 生きてゆく中で難問が現れたり、苦難に襲われた時に「俺は俺だ」と言える人はまずいない。世界から取り残されたような思いに取りつかれ、誰も手を差し延べてくれない情況において人は透明な存在と化す。


 確かに哲学や宗教、そして人間関係は砦(とりで)たり得るが、最終的には自分の内なる世界でもって外部世界に対抗するしかないのだ。


 私に名前はあるだろうか? 世論調査のパーセンテージや選挙の一票としてカウントされ、要介護者400万人や死亡者数114万2467人(2009年人口動態統計)に含められ、消費者・納税者・視聴者として扱われる私に果たして名前はあるのだろうか? いつでも交換可能な部品のように働かされる私に名前はあるのか?


 国家によって私が労働力として扱われているとすれば名前はないのだろう。私は無色透明な日本人となる。すなわち国家が所有する奴隷が国民の実体ではあるまいか?


 あらゆる奴隷たちが、必ずしも同じ経験をもっていたわけではなかった。なかには、あまりにも奴隷らしくなってしまっていたので、奴隷制度が終わったとき、悲しんだものもいた。


 これがシステムの恐ろしさだ。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた世界だ。システムが人間を完全に支配すると、システムに準じて脳内のシナプス結合が行われる。特に顕著なのは宗教や政治、高度な学問世界に【依存する】人々だ。絶対的な価値観に束縛された挙げ句、物事を疑うことができなくなる。


 奴隷制度という限られた狭い世界が全世界に格上げされると、中には心地よさを覚える者まで出てくるのだ。何とも恐ろしい限りである。まったく同様に、真の自由を求めていない人は社会の奴隷といえよう。


 最後に奴隷の相対性理論を。奴隷を必要とする奴隷の所有者は、奴隷に依存していると見ることができる。つまり所有者もまた欲望の奴隷なのだ。


 所有という問題、そして比較と競争の残酷さを暴いてみせたのが、ブッダとクリシュナムルティであった。

奴隷とは

2010-06-12

「ノー・ウーマン・ノー・クライ」ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ


 歌が祈りであるすれば、ライヴという一回性にこそ歌の真髄がある。繰り返される祈りは願望にすぎない。繰り返し聴く曲に求められているのは刺激だ。祈りと歌は常にドラッグと化す危険性を秘めている。「繰り返す」という行為は欲望と所有の臭いがする。「出会い」ではなく「出合い」。ファーストコンタクトの瞬間が持つ現在性に「生の鍵」があるように思う。


D


Live!

2010-05-31

太陽暦と幾何学を発明したエジプト人

 エジプト人による太陽暦の発明は飛躍的前進だったが、エジプト人は歴史にさらに重要な足跡を残している。幾何学の発明だ。ゼロがなくともエジプト人は、たちまち数学の達人になった。怒れる大河のおかげで、ならざるをえなかった。ナイルは毎年、堤からあふれ、デルタを水浸しにした。幸いだったのは、洪水によって一帯の畑に豊かな沖積土が堆積し、ナイルデルタが古代世界でもっとも肥沃な農業地帯となったことだ。一方、困ったことに、境界の目印が数多く壊され、農民たちに、どこが自分の耕すべき土地かを知らせる標識が消え去ってしまった(エジプト人は所有権を重んじていた。『死者の書』によれば、死んだばかりの人は、隣人から土地をだまし取ったことはないと神に誓わなければならない。そのような罪を犯せば、「むさぼり食うもの」と呼ばれる恐ろしいけだものに心臓を食われるという罰を受けてしかるべきだとされた。エジプトでは、隣人から土地をだまし取るのは、誓いを破ること、人を殺すこと、神殿でマスターベーションをすることにおとらず重大な罪と考えられていた)。


【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ/林大訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】

異端の数ゼロ―数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 異端の数ゼロ――数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念 (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

(※左が単行本、右が文庫本)

2009-12-24

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 長いテキストなので3回に分けて書くことにする。『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー』はクリシュナムルティがノートに記したもので、登場する人物はいずれもクリシュナムルティのもとを訪れて相談した人々だと思われる。仮に創作部分が盛り込まれていたとしても、それはドラマチックな演出を狙ったものではなく、普遍性に配慮したものであろうと個人的に考えている。また、胡散臭いタイトルとなっているが、内容は「生死(しょうじ)論」であり「生命論」である。


 クリシュナムルティが投げ掛ける質問はいつだってトリッキーだ。我々の中にある理想、信念、常識をやすやすと引っ繰り返してみせる。ブッダが行った動執生疑(どうしゅうしょうぎ/相手の執着を動ぜしめて疑いを生じさせる)と全く同じアプローチだ。揺さぶられるのは自分の中に根を下ろしている「条件づけ」の数々である。


 彼は言った、自分はギリシア語が楽に読め、そしてサンスクリットには半可通だ、と。彼は年を取りつつあり、そしてしきりに知恵を集めたがっていた。

 知恵を集めることができるだろうか?

「なぜできないでしょうか? 人間を賢くさせるのは経験です。そして知識は、知恵にとって不可欠です」

 蓄積した人間が、賢明でありうるだろうか?

「生は蓄積の過程であり、性格の漸次的築き上げ、徐々の展開です。経験は、結局のところ知識の蓄積です。知識は、あらゆる理解に不可欠です」

 理解は、知識、経験によって生まれるだろうか? 知識は経験の残滓であり、過去の集積である。知識、意識は、常に過去のものである。そして過去は、果たして理解できるだろうか? 理解は、思考が静まっている、そういう合間に生ずるのではないだろうか? そして、これらの沈黙の空白を延ばしたり、あるいは蓄積しようとする努力は、理解をもたらすことができるだろうか?

「蓄積なしには、われわれは何物(ママ)でもなくなることでしょう。思考の、行為の連続がなくなることでしょう。蓄積は性格であり、蓄積は美徳です。われわれは、蓄積なしには存在できないのです。もしも私がそのモーターの構造を知らなかったら、私はそれを理解できないでしょう。もしも私が音楽の構造を知らなかったら、私はそれを深く観賞することはできないでしょう。浅薄な者だけが、音楽を【楽しむ】のです。音楽を鑑賞するためには、あなたは、それがどのように作られているか、組み立てられているか、知っておかねばならないのです。知識は蓄積です。事実を知ることなしには、鑑賞はありません。ある種の蓄積は、理解、つまり知恵にとって必要なのです」

 発見するためには、自由がなければならない。もしもあなたが束縛され、重荷を背負っていたら、あなたは遠くまで行けない。もしもある種の蓄積があれば、いかにして自由がありうるだろうか? 蓄積する人間は、それが金銭であれ、あるいは知識であれ、決して自由ではありえない。あなたは、物欲からは自由であるかもしれないが、しかし知識への貪欲は依然として束縛であり、それはあなたを抑えつけている。何らかの種類の獲得に縛りつけられた精神が、遠くまで乗り出し、そして発見できるだろうか? 美徳は、何かになることからの自由ではないだろうか? 性格もまた、束縛かもしれないのだ。廉潔は決して束縛ではありえないが、しかしあらゆる蓄積は束縛である。


【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ/大野純一訳(春秋社、1984年)】


「蓄積」とは「所有」である。

 資本主義経済は資本の蓄積=所有を競う構造を意味している。ゲームの点数と一緒だ。「より多く」持っている者が勝者となる。で、奪い合いだから「奪われた」人々が存在する。サラリーマンという労働形態は、賃金を受け取る前に徴税されており、「奪われた」事実に気づかせないために施された国家の配慮である。それゆえ、税金がどのように使われているか誰も関心を抱いていない。自分達のお金であるにもかかわらず。


 ま、有り体にいえば、物の蓄積が不平等を生み、貧富の拡大に手を貸していることは理解できる。だがクリシュナムルティは「知識の蓄積」をも否定する。それだけにとどまらない。意識を否定し、経験を否定し、過去をも否定しているのだ。これが「クリシュナムルティ・トリック」である。否定の重層構造。まるで、質問者が全力で投げたボールを軽々と受け取る千手観音さながら。そしてどの腕が返球してくるのか想像もできない。


 強いて要点を挙げるとすれば、それは「時間」であろう。なぜなら、人生というものは時間に支配されているからだ。人は限りある生を永遠たらしめようとして、名を残すことを切望し、地位にこだわり、子孫に遺産をのこそうと奮闘する。限界性の突破をシンボリックな形にしたものが墓石であろう。私が死んだとしても、墓石が滅びるまで私の名前は残るってわけだよ。


 仏教に身口意(しんくい)の三業(さんごう)という考え方がある。過去に自分自身が身で行ったこと(身業)、言葉にしたこと(口業)、意(こころ)で思ったことの集積が現在の自分を形成しているとするものだ。つまり、自分特有の反応が記憶されることで、より「自分らしさ」が強化されるわけだ。そして今度は、「自分らしさ」を発揮しようとして意図的に「過去と同じ反応」を繰り返すのである。わかるだろうか? 完全な条件づけによって過去の奴隷と化す人がそこにいる。


 我々は現在を自覚できない。脈々と流れ通う生を実感できない。なぜなら、過去に生きているからだ。我々が見つめる未来は、「過去を反転させたもの」に過ぎない。そして現在は、常に過去から未来へと向かう中間地点に貶(おとし)められている。実際に存在するのは「今この瞬間」であるにもかかわらず、だ。


 クリシュナムルティが説く瞑想は、己心の静謐(せいひつ)なる宇宙を見つめることで、現在という瞬間に永遠を見出す作業なのだ。


→「意識は過去の過程である」に続く

生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈1〉生と覚醒のコメンタリー―クリシュナムルティの手帖より〈2〉生と覚醒のコメンタリー〈3〉クリシュナムルティの手帖より生と覚醒のコメンタリー〈4〉クリシュナムルティの手帖より


D

2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五陰仮和合(ごおんけわごう)がよく理解できる。


〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。


 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。


 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。


 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。


【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】


 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。


 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。


 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。


 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。


 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。


 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。


 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)


D