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2010-10-26

ハサミの値札の法則〜報道機関は自分が当事者になった事件の報道はしない/『たまには、時事ネタ』斎藤美奈子


 コラムに必要なのは常識である。ステレオタイプ、決まり文句、故事成語、典型を弁えればこそ、そこから距離を取ることができる。であるからして、コラムニストは冷めた傍観者でなければならない。時事問題を鮮やかな手並みで料理し、微妙なスパイスを利かせれば完璧だ。


 古来、我が国では侘びさびを尊び、滑稽を楽しむ文化が形成されてきた。ま、今はどこにもないけどさ。あるいは漂泊、または粋(いき)。俳句や狂言を思わせる飄々としたコラムニストがもっていてしかるべきだ。


 世の中が自粛モードのときにこそ言論人は火中の栗を拾うべきだというのは正論だが、「非国民」の道を選ぶには想像以上の勇気がいる。そして勇気さえあればコラムは成立する、というわけでもないところが難しいのである。


【『たまには、時事ネタ』斎藤美奈子中央公論新社、2007年)以下同】


 上手いよね。言いわけの仕方が(笑)。やはりコラムは少し肩の力を抜いて読めるものがいい。短い文章だから告発するには文字数が少なすぎるだろう。味わい深さや余韻を残すには大胆な省略も求められよう。


 これはツイッターで知った書籍である。140字で「ハサミの法則」なるものが紹介されていた。


 報道機関は自分が当事者になった事件の報道はしない(あるいはできない)。


 ここには普遍的な原理がひそんでいるようにも思う。病気になった外科医は自分で自分の手術はできない。罪を犯した弁護士は自分の弁護はできないし、批評家だって自分の作品の批評はできない。同様に「中立公正」を標榜する報道機関は自社の報道はできない、のだ。

 私はこの現象に名前をつけた。すなわち「ハサミの値札の法則」である。このあいだハサミを買って気がついたんだけど、ハサミって、自分のことは切れないのよね。ハサミについている値札の糸を切るには別のハサミがいるのである。


 お見事。所詮、彼らはサラリーマンなのだ。会社に楯突くことが許されるはずもない。彼らにとっての正義は社会正義ではなく会社の利益である。我々と同様だ。


 この国の不幸は「別のハサミ」がないことに尽きる。大手新聞社やテレビ局が本気で記者クラブ問題を取り上げることはない。官房機密費問題も以下同文。ま、本当のことをいえば、この国ではジャーナリズムは機能していない。


 結局その根っこは敗戦時にあるのだろう。GHQが進駐してきて新聞・テレビ各社は骨抜きにされた。アメリカで捕虜となっていた日本軍スパイが戦後に送り込まれたという話もある。当然、CIAの息がかかっていると考えるべきだろう。


 読売新聞中興の祖と仰がれる正力松太郎はCIAの走狗であった。ポダムというコードネームまで付けられていた。正力は大正13年(1924年)に読売新聞を買収して社長に就任。昭和15年(1940年)には大政翼賛会総務となり、昭和18年(1943年)に内閣情報局参与を務めた。敗戦後はA級戦犯に指定されている。実に怪しい経歴の持ち主だ。


 大体だな、ナベツネあたりがしゃしゃり出て、大連立を持ち掛けるあたりも明らかにおかしな話だ。この国は新聞社の社長が動かせるってのか?


 人間は言葉で思考する動物だ。言葉とは情報である。すなわち情報をコントロールできる立場にある人物こそが権力者なのだ。政治然り、メディアまた然りである。

 国民に全ての情報が与えられることは断じてない。そうであるがゆえに、部分的情報に基づいた民主主義は必然的に衆愚政治となるのだ。選挙が風任せの人気投票と化すのも当然だ。


 斎藤美奈子小田嶋隆には及ばないが、中々健闘している。


 まず「ウルトラマン」。これは怪獣という外敵から地球を守る防衛戦争の物語である。しかし、奇妙な点がひとつある。このシリーズは、どんなに地球防衛軍(科特隊なりウルトラ警備隊なり)が勇敢に戦っても、最後はいつもウルトラマンが「シュワッチ!」と登場し、怪獣を退治してくれるのだ。自力では敵を倒せぬ防衛軍。自らの存在を疑ったりはしないんだろうか……。よくいわれているように、この謎は日米安保のアナロジーで解ける。地球防衛軍はウルトラマンに活動拠点(基地)を提供し、自らは後方支援の役に徹する。つまりウルトラマンとは在日米軍みたいなものなのだ、と。


 揶揄のお手本。全体を通して、やや社会主義的な匂いが強いが、左に揺れながらも何とかバランスを保っている(笑)。


 人気時代劇の水戸黄門や遠山の金さんは権力者だしな。

 そう言われると、ドラえもんも米軍っぽいよね。正義の味方は明らかに異形だ(笑)。つまり白人のメタファーってわけだな。


 いまさらいわずもがなだけれども、「有事」という語は「戦争」という直接的な語を避けたい人たちが編み出した、体のいいまやかしと思ったほうがいい。


 御意。個人的には国益という言葉にも嫌悪感を覚える。「戦争の際には殺戮(さつりく)しまくるよ。少々の犠牲を払おうとも」ってのが本音だろう。


 ま、絶賛するほどでもないが、斎藤の距離感は非常に心地がいい。

たまには、時事ネタ

2009-08-21

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆

 かつて掲示板上で愛国心についてやり取りしたことがある。随分前の話だ。愛国心について否定的な論調を私が書いたところ、「あなたに愛国心はないのか?」と質(ただ)された。すかさず「ないね」と応じた。この時、本当に愛国心がないことを自覚した。


 これは、私が道産子であることも関係していると思う。北海道では学校行事において「君が代」を歌う場面がほぼ完全にない。私の場合だと、中学の音楽の授業で歌ったことが一度あるだけだ。だから今でも「君が代」を歌えない。ちなみに「蛍の光」を歌うことも殆どない。私が通った中学の卒業式では、原語で「ハレルヤ・コーラス」を卒業生が歌うのが伝統となっていた。合唱の盛んな学校だったのだ。


 愛国心――ないね。どこを探しても爪の垢ほどもないよ。愛郷心はある。愛町内会心もある。愛国心を売り物にしている連中を見ると、私はどうしようもない嫌悪感を覚える。「だったら、自衛隊に入れよ」と言いたくなる。


 更に二つばかり理由がある。一つは私が海外へ行ったことがないため、日本と外国を比較しにくいこと。つまり、日本人であることを強く自覚する経験が乏しいのだ。


 もう一つは、国から何かをしてもらった記憶がない。「お前な、道路や空港を作ったのは誰だと思ってるんだ?」と言われればそれまでなんだが、如何せん日本国に対して「ありがとう」と思ったことがないのだから仕方がない。例えば、ヨーロッパの一部の国のように無料で高校や大学に行けたり、他国からの侵略行為を防いでもらったりしていれば、愛国心が芽生える可能性もあったことだろう。でも、どちらかといえばやっぱり「税金ばっかり取りやがって」という不満の方が多い。


 小田嶋隆が愛国心をバッサリと斬り捨てている――


 S誌に目を通す。巻頭のコラム子は「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」と言っている。ふむ。君たちの言う「国」というのは、具体的には何を指しているんだ? 「国土」「国民」あるいは「国家体制」か? それとも「国家」という概念か? でないとすると、もしかしてまさかとは思うが「国体」か? はっきりさせてくれ。なにしろ命がかかってるんだから。

 もうひとつ。

「死ぬ」というのはどういうことだ? 私の死が、どういうふうに私の国のためになるんだ? そのへんのところをもう少し詳しく説明してくれるとありがたい。

 もうひとつある。「国のため」と言う時の「ため」とは、実質的にはどういうことなんだ? 防衛? それとも版図の拡大? 経済的繁栄? あるいは「国際社会における誇りある地位」とか、そういったたぐいのお話か? いずれにしろ、「これも国のためだ」式の通り一遍な説明で「ああそうですか」と無邪気に鉄砲を担ぐわけにはいかないな、オレは。

 国家権力を掌握している人間の利益を守るために、国民が命を捨てねばならないような国があるんだとしたら、先に死ぬべきなのは国民より国家の方だということになるが、君たちはこの答えで満足してくれるだろうか?


【『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆朝日新聞社、2005年)以下同】


 こんなコラムを巻頭に掲載するのは『諸君!』(文藝春秋)か『正論』(産経新聞社)しかないわな。右寄りの論調というのは愛国心を当然の前提とし、そこに思い切り寄り掛かっている。愛国心を疑ったり、まして愛国心のない野郎は国賊と評価される。


 しかしながら、愛を強制することはできない。街で擦れ違った見目麗しき女性に対して、「あなたは私を愛すのが当然だ」と言っても通用しないのと同じだろう。その昔、『愛される理由』というタイトルの本があったが、確かに愛されるには何がしかの理由や根拠が必要だ。


「国」というのは何だ?

 君たちの想定する「国」と革命分子の想定する「国」が違うものなのだとしたら、そりゃ単に内乱ってことにならないか? 逆に訊ねるが、君たちは、国民に死を要求するような国に対して忠誠を尽くすことができるのか? ついでに言えば、君たちが二言目には口にする「愛する者や家族が目の前で殺されているのを黙って座視するのか」式の設問は、無効だよ。覚えておくといい。質問は、答えを限定する。より詳しく言うなら、質問というのは、時に、回答の思考形式を限定するための手段として用いられるということだ。


 この指摘は実に鋭い。例えば、生まれたばかりの赤ん坊がパレスチナ人であるという理由だけでイスラエル人の手で殺されている。そして、まだお腹の中にいる胎児まで殺されている。殺された赤ん坊に国家という意識があるはずもないし、人種すら自覚していない。結局、国家意識というのは後天的に教育されるものだ。言語を始めとする文化や風習に馴染み、自分がコミュニティの一員であるという自覚が生まれた後に、「異質な別世界」を実感できるようになる。


 戦争が国家単位で行われている事実を踏まえると、国家という単位はない方がいいかもしれぬ。


 枠組みは常に悪用される。「国を守る」ということと「家族を守る」ということが無批判に同一視されているような質問は、発せられた時点で既に罠だってことだ。家族が暴漢に襲われている状況と国が戦争をしている状況は同じものではない。それどこから、逆かもしれない。だって、相手の国にとっては、暴漢はこちらということになるからね。つまり、君たちの質問の意図は、仮想敵国を強盗殺人犯に仕立て上げるところにあるわけで、国防とはまったく関係がないのだよ。

 兵隊が何を守るか知っているか? 国土?

 ははは。幸運な場合、結果として兵隊が国土を守ることもあるだろう。

 しかし、たいていの場合、兵隊が守るのはなによりもまず、軍隊の秩序であり、上官の命令だ。

 そして軍隊の機能はなによりもまず殺人であって防衛ではない。殺人が防衛の手段になるということが事実であるにしろ、軍隊の本意は防衛にはない。あくまでも殺人ということが彼らの動機であり目的であり存在意義です。さらに言うなら、その軍隊が命にかえて防衛するのは、国民の安全ではなくて、権力者の意志だよ。権力者の意志が国防にあればそれでいいじゃないかって?

 そうかもしれない。しかし、その権力者と対立する陣営の権力者の意志もまた国防にある。そして、国防という概念は敵の側から見れば侵略と区別がつきにくいものだ。ってことは、忠良な国民をかかえた2人の権力者は、自分の国防のために互いに侵略をし合うことにならないか?

 国のために命を捨てるのはけっこうだ。が、それが相互侵略のためだとしたら、犬死にどころか無理心中じゃないか。


 戦争の欺瞞を見事に暴き出している。俗に愛憎は紙一重と言う。であれば、愛国心とは他国を敵国と仮想することで成り立っているのかもしれない。とすると、権力者にとっては近隣諸国に敵国が存在した方が都合がいいとも考えられる。


 確かにそうだ。北朝鮮がテポドンを北海道に落としたら、私はたちどころに愛国者となるだろう。北朝鮮に対する憎悪を燃やした瞬間に、私の中の日本人が目を覚ますのだ。単純なもんだね。いや、ホントの話。恐ろしくなってくるよ。


 それでも人類が戦争をやめることはないだろう。戦争こそは人類の業(ごう)なのだ。だから、いっそのこと大掛かりな「戦争シミュレーションゲーム」を開発すればいいと思う。実際の戦争と同じように国会を召集し文民統制の下、自衛隊が戦略を練る。保有する武器や兵力もそのまま反映させて、ネット上のゲームで勝敗を決する。コントローラーを握るのはもちろん首相や大統領だ。


 これが実現すると選挙運動も大きく変わってゆくことだろう。ま、首相はアキバ系で間違いなし。指にはタコができている。また、数ヶ月前まで引きこもりだった青年が突如、首相になることも考えられる。


 皆が手を取り合う平和よりも、犠牲者の少ない戦争のあり方を模索した方が実行可能な気がしてくる。

イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド

2009-07-25

議席を相続する二世議員/『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆


 政治家の世襲が問題視されている。今までの批判とは異なっていて与野党内からも大きな声が上がっている。な、な、なんと、“世襲の権化”ともいうべき鳩山邦夫総務相(当時)まで叫んだ――


 政界の名門、鳩山家4代目の鳩山邦夫総務相は24日の記者会見で民主党の世襲制限案をやり玉にあげた。

「非常に中途半端だ。どうせ提案するのなら、次の選挙で小沢一郎(民主党代表)さんも鳩山由紀夫(同党幹事長)も出ないから麻生太郎首相も鳩山邦夫も出るな、というのなら徹底しますわね」


産経ニュース 2009-04-24


 中々小気味がいい。しかし残念なことだが、売り言葉に買い言葉の域を出ていない。小泉純一郎が首相になってからというもの、メディアはわかりやすい言葉に飛びつき、国民がやんややんやと喝采を送る風潮が強まっている。


「国民の声を代弁する」と言えば確かに聞こえはいい。だが、政治家が口にする国民は蜃気楼(しんきろう)のようなもので、どこに存在するのかもわからない。「――と国民の皆さんは感じてますよ」なあんてやられた暁には、「そりゃ、国民じゃなくて、てめえの意見だろうが!」と言い返したくなる。


 政治家が関心を抱いているのは、自分の選挙区の選挙民だけだ。それ以外の国民はどうでもいい存在である。メディアに露出した場合は虚勢で押し切る。言動の内容よりも、衝撃度を競うことで知名度アップを図ろうとする。


 それにしても腑に落ちないのだが、「議員は儲かる」といった類いの話を私の周囲で聞いたことがない。多分大半の議員は持ち出しが多いため、給料すら自由に使えないことと察する。儲かっている政治家は、自民党と元自民党の一部の代議士に限られているのではないか。


 そして「儲かる」となれば、簡単には手放せなくなる。議員を引退するとなれば、誰に“遺産相続”するかってな話になりますわな。で、当然の如く自分の身内から選ぶというわけ。出来れば息子が望ましい――


 二世議員のすべてが悪いというつもりはない。が、建前論を申し上げるなら、議席は、本来、相続すべきものではない。

 逆に言えば、議席の相続をはかる政治家は、代議士の職務を「モノ」と考えているのである。つまり、私物化だ。

 彼らは、権力を私物化しているからこそ、元来、職責でしかない議員という職業を、個人的な資産と同じ感覚で、譲渡したり相続したりできるわけなのだ。


【『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆(BNN、2003年)】


 小田嶋が指摘するように、世襲は「権力を私物化している」証拠であろう。親が築いた地盤・看板・カバンを、労せずして手に入れることができる。まさに「濡れ手で粟」。


 民主党の菅直人は、日本の改革が遅れている理由は、守旧化した官僚主導の政治と世襲政治に最大の原因があると叫んできた。その矛先(ほこさき)は1999年の代表選挙で味方にまで突きつけられ、世襲議員の2名の対立候補者に向かって「銀のスプーンをくわえて生まれた」と皮肉った。ところが、2003年の衆院解散で自分の長男が出馬するとなった途端、「たまたま優れた人材が二世だったというだけ」と開き直ってみせたのだ。


 世襲問題の根っこは、日本人全員が実は世襲を好んでいるところにある、というのが私の見解だ。日本人は家・格式というブランドを重んじる傾向が強い。村長の息子は幼い頃から優遇される社会構造なのだ。


 芸能界やスポーツ界も同様に世襲が好まれている。日本社会で「鳶(とび)が鷹を生む」ことは、まずないと思っていい。世襲の最たるものは家元制度であろう。


 ストレンジャー(英語)やエトランゼ(フランス語)を日本語に訳すと「馬の骨」になる。この言葉が最も多用されるのは、娘に彼氏ができたことを知った父親のセリフとしてである。「そんな、どこの馬の骨かわからん男に、うちの娘をやるわけにはいかん」ってな具合だ。


 村意識はファミリーという偶像が大好きだ。ボクシングの亀田兄弟が一世を風靡(ふうび)したのも、亀田父子の絆という演出があったればこそ。ま、失敗したけどさ。


 このように、メディアでは世襲を批判する向きが圧倒的多数を占めているが、文化としての世襲は殆どの人々が認めているというジレンマがある。


 それでも、やはり二世議員は認め難い。はっきり言えばただの「税金泥棒」だよ。世襲議員が当選するようなところは“ド田舎”だ。たとえ東京であったとしても。

かくかく私価時価―無資本主義商品論1997‐2003

2009-06-26

「お年寄り」という言葉の欺瞞/『我が心はICにあらず』小田嶋隆

 小田嶋隆のデビュー作にして最高傑作。オダジマンの若さが、ストレートな毒となって疾走している。世の中を斜めに見上げる視線が冷ややかさを湛(たた)えて、反骨の域に達している。そして時折、街の光景をハードボイルドのように描いてみせる。駄洒落や下ネタは、江戸っ子特有の照れ隠しであることが察せられる。


 小田嶋は「お年寄り」という言い回しに隠された欺瞞を暴く――


「田中さんのご長男は弁護士になったんですって」

「田中さんのご長男は大学教授になったんですって」

「田中さんのご長男は八百屋さんになったんですって」

「田中さんのご長男は大工さんになったんですって」

 ここで「さん」のついている職業と、ついていない職業を比べてみるとそのあたりの事情が良く分かる。我々は時々、軽蔑していることを隠すために丁寧語を用いるのである。

「お年寄り」という言い方にも私はひっかかる。ニュースのアナウンサーは「学生」を「学生さま」と呼んだり「子供」を「お子様」と呼んだりしないのに、ことさらに年寄りだけを「お年寄り」と呼ぶ。たぶん心のどこかに「老いぼれ」「くたばりぞこない」「よいよい」「人間の残骸」といった気持ちがあるから、尊敬語を使ってバランスを取らなければならないのだ。

 最近では「老人」を「老人」と呼ばずにすますために「熟年」とか「実年」とかいった言葉が発明されている。が、実際に使ってみるとますます皮肉に響いてしまうだけだ。早い話が「うんこ」を「うんこちゃん」と呼んでみてもうんこはうんこだし臭いものは臭いのである。


【『我が心はICにあらず』小田嶋隆(BNN、1988年/光文社文庫、1989年)】


 そして中年期になった今でも尚、少年の心を失っていない私のような読者が痺れるのは、うんこネタとゲロネタである(笑)。少年は汚いものを愛する。なぜなら、心の奥底でうんことゲロが最終兵器であると固く信じているからだ。もしも、放射能とうんこを並べられたら、私は間違いなくうんこを怖れることだろう(←ウソ)。


 で、お年寄りだ。昨今の年寄りは若くなった。ジイサンもバアサンもファッショナブルである。特に女性の場合、たとえ結婚をしたとしても30代、40代からシミ・そばかす対策に身をやつし、理想的な体重を維持し、颯爽と流行の髪形をあしらっている人が多い。そして、いよいよ50代に突入すると、「アンチエイジング」と来たもんだ。「抗老化」「抗加齢」だってさ。ケッ。


 自分の年齢が戦うべき対象であるならば、小学生は老成を目指すべきなのだろう。目尻には墨でシワを描き、額には梅干しをセロテープで貼り付け、背中を丸めてゴホゴホと咳込み、カァーーーッ、ペッと痰を吐くのがアンチエイジングといえる。ま、女子高生の化粧や茶髪なんぞはそれに近いのかもね。若さの否定は実に滑稽だ。じっとしていたって大人になれるんだけどね。


 かように自分の年齢と戦うことは愚かだ。死という人生の最終章から目を背け、若く「見せる」ことにいかほどの意味があるというのだろうか。ないね。これっぽっちも意味はない。そんなに見栄えをよくしたいのであれば、着ぐるみでも被(かぶ)ればいいのだ。


「若々しい」のと「若く見せる」のとは違う。大体だな、外見ばっかり気にするのは中身がない証拠なんだよ。真のアンチエイジングは、躍動する精神と柔軟な思考に宿るのだ。昨日の自分よりも今日の自分を新しく変革する努力の中に存在するものだ。更に、貫禄と気品が備われば言うことなしだ。


 年を取っているだけの、古いうんこみたいな年寄りにだけはなりたくないものだ。

我が心はICにあらず(単行本)


我が心はICにあらず(文庫本)

2009-06-14

和田アキ子という代理オヤジ/『テレビ標本箱』小田嶋隆


 テレビを観なくなってから一年ほど経過している。いや一年は大袈裟だな。9ヶ月くらいか。この間に観たのは、NHKスペシャル1回のみである。既にスイッチを入れないというレベルではなくて、コンセントが抜きっ放しになっている有り様だ。我が家にあってテレビは、限りなく粗大ゴミに近いDVD再生器具と化している。


 時々、よそのお宅でテレビを観る機会があるが、まあ酷いもんだね。ブラウン管の向こう側に確固たる個人は存在しない。ヒエラルキーの中で自分のポジションを確認しながら、与えられた役割を演じているだけの世界だ。


 自力で新聞を読みこなせない層のためのテレビ版新聞ダイジェストをニュースショーと呼ぶのだとするなら、ワイドショーは、ニュース解説に読後感まで付け加えた一種の完パケ商品だ。「どう考えるか」のみならず「どう感じるか」までをすべて丸投げにした完全なおまかせニュース商品。

 たとえば「アッコにおまかせ!」では、文字通り和田アキ子という一人の代理オヤジに世界の解釈が丸ごと委ねられている。で、日曜日のオヤジの無気力につけ込む形でアッコ節が炸裂する。末世だ。


【『テレビ標本箱』小田嶋隆(中公新書ラクレ、2006年)】


「完パケ」とは完全パケットの略か。和田アキ子は「力」を体現している。小田嶋隆は「代理オヤジ」と手加減しているが、ま、自民党か暴力団というのが正解だろう。あるいは、神……。つまり、「逆らうことが許されないもの」の象徴として和田アキ子は存在しているのだ。そして、現実世界にドラえもんは存在しない。


 世にマザコン男性は多い。年上の女性から叱られることで快感を覚えるタイプだ。“叱ってくれる”という関係性に甘え、寄り掛かり、もたれてしまうような手合いだ。かような連中は、和田アキ子を支持し、田中真紀子を支え、細木和子を懐かしむのだろう。まったくもって馬鹿につける薬はない。


 とはいうものの、和田アキ子はいなくならない。ということは、だ。ヒトという動物が従属関係の中で生きていることを示している(本当か?)。支配するか、額づくかのどちらかだ(フム、もっともらしい)。


 しかし、和田アキ子に従属するのは間違っている。なぜなら、彼女には信念や哲学がなく、感覚でものを言っているからだ。じっくりと検証すれば、容易に自語相違が見つかるはずだ。


 謙虚さを失った人物は他人から学ぶことができない。その一方で、真面目さだけが取り柄の連中が傲慢な人物に魅了されてしまうのも、また事実である。確かに世も末だ。

テレビ標本箱 (中公新書ラクレ (231))